「きみは僕の太陽」
今度の公演はジゼルなの そう聞いた時、ちょっと嫌な感じはしていた。 だから僕はちょっぴり不機嫌になった。 「……ふぅん。場所は?」 フランソワーズは僕の不機嫌さにちっとも気付かず、頬を染めて嬉しそうに言った。その瞳は既にパリ公演の舞台を映しているのだろう。目の前にいる僕など眼中に無い。 「……いつから?」 初めてジゼルを演じてから、「ジゼル」は彼女の定番の演目になった。それはフランソワーズのテクニックもさることながら、「ジゼル」がフランソワーズを選んだのではないかと思うほどだった。 「それでね、ジョー」 フランソワーズが僕の目の前に顔を寄せる。やっと僕の存在に気付いたかのように。 「レッスンはしばらくパリですることになったの」 凱旋公演のようなものか。それは嬉しいだろう。僕だって、日本グランプリにはまた格別の思いいれがある。それと同じなのだろう。 「しばらく会えないけど、わたしのこと忘れちゃいやよ?」 それは、こちらのセリフだと思う。 「毎日電話するわね」 そう言って頬にキスをした。既に心はパリにある恋人。 おそらく僕は、そのときにもっと恋人らしいこと――熱いキスをするとか――をすればよかったのかもしれない。 でも僕はそのどれもしなかった。 できなかった。
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僕は恋人を「ジゼル」に取られてしまった。 そう信じていたのに。 「もしもし、ジョー?」 ――フランソワーズ!! 僕はそう叫びたいのを抑え、さもなんでもないような声を作った。 「やぁ。久しぶりだね」 嘘である。本当は二週間ぶりだった。カレンダーに印をつけているからわかる。 「そうだったかしら?やだわもう、日が経つのって早いのね!全然そんな気がしてなかったのに」 弾むような声。 「忙しそうだね?」 ちょっと気になる名前が出たけれど、僕は気が無い風に装った。 「彼、下手なのかい?」 知ってる。何度も何度も何度も聞いた。 「すっごく上手なの。だからダメ出しも多くて――あ、これはもちろん私に対するダメ出しね。で、それを完璧にするために無理言ってつきあってもらっていたんだけど、今ではその逆でピエールのほうが私を離してくれないのよ」 もう困っちゃうわと楽しそうな声で言う。充実しているようで何よりだ。日本のことなど思い出しもしないんだろう。 ……だよな? 「ああもう、どうしようかしら!だってピエールって凄く素敵なんだもの。バレエをやってる女の子ならみんな彼に憧れちゃうわ」 それって、もちろんきみもだよね?前にそう言っていたような気がする。 「うふふ、そんな彼を独り占めしているなんてとっても贅沢よね私って」 いや、きみを独り占めしている彼が贅沢野郎だと思うが。 「あ、すっかり長電話になっちゃったわ。また電話するわね、ジョー」 あっさり切られた電話。 今の僕は完全にフランソワーズに片思いだった。
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僕がため息の海で溺れそうになった頃、公演初日がやってきた。 するもんか。 それに、最後の一ヶ月は全くの音信不通だったんだ。いくらバレエのレッスンで忙しいからといっても限度があるだろう。そうじゃないか?僕はフランソワーズの恋人なんだぞ。なのにまるっきり思い出さなかったというわけだ。声を聞きたいという衝動も会いたいという気持ちもおきなかった。 決して、未練がましい気持ちなんかではない。 決して。
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永遠に続くと思われたカーテンコールがやっと終わり、やれやれと席を立とうとしたらグレートに腕を掴まれ、そのまま物凄い力で楽屋へ連行された。凄いな、グレート。ゼロゼロナインの僕が本気を出しても解けないなんて。おっさんなのに。そしてグレートは大きな声で今夜のヒロインを呼び、駆けてきた彼女をぎゅっと抱き締めた。 「マドモアゼルフランソワーズ!」 二人でなにやら楽しそうに話しているのを横目に、僕はそうっと背を向けた。別にフランソワーズに会いたくはないし。早く帰って酒でも飲んで、 「ジョー!!」 と思っていたのに見つかった。やはりゼロゼロスリーから逃れるのは無理があるか。僕は観念して振り返った。 「やあ」 約三ヶ月ぶりの再会……と、いうわけだ。でも今さら何を言えばいいのだろう。だって一ヶ月近くも何にも話してないし。既に彼女は他の男のことでいっぱいなんだし。僕は傍からみれば、既に心変わりした恋人に会いにのこのこパリくんだりまできた間抜けな男だろう。こんな間抜け面、見ても楽しいわけがない。 「ジョー!」 がっしと腕を掴まれた。物凄く痛い。何しろ彼女は実は力持ちなのだ。秘密だけど。 「なんだよ怖い顔して」 耳を疑った。 なんだって?わざと痛くしているっていうのか。いったいなぜ。自分から心変わりしておいて、僕に危害を加えるっていうのはおかしくないか?普通は反対だろう?むしろ彼女は僕に謝罪してしかるべきなんじゃないのか。心変わりしてごめんなさいと。 「ちゃんとこっちを向きなさい」 おかしい。今や彼女の男とはピエールのはず。いったいピエールは何やってるんだ。と思ったら、彼女の背後からひょっこりピエールが顔を覗かせた。 「フランソワーズ、お疲れ様。――何やってるんだい?」 値踏みするかのように上から下まで視線を這わせるから、僕は奴を睨みつけた。ガチンコ勝負なら受けて立つぞ。すると僕の腕が更に悲鳴を上げた。いったい何するんだとフランソワーズの顔を見たが、まるっきり知らん顔。 「ピエール、あとでダメ出しうけるから先に行っててちょうだい」 意味ありげなウインクを残し、奴は去っていった。なんとも気障な野郎だ。あんなのが好みだなんて、変わったなフランソワーズ。 「さて。ジョー」 くるりとこちらを向いた顔はやはり険しかった。たったいままでピエールには笑顔を見せていたのに。どうして僕には怖い顔しかしないんだ。やはり昔の男に楽屋まで来られたのは迷惑だったのか。でもそれは僕のせいじゃなくてグレートが無理矢理―― 「ちゃんとこっちを見なさい」 ぐいっとネクタイを引っ張られ、一瞬息が止まった。腕は痛いし息は止まって死にそうになるし散々だ。 「さあ、ちゃんとわけを言ってちょうだい。どうして一ヶ月以上も携帯の電源を入れなかったのか」
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