「きみは僕の太陽」

 


―1―

 

今度の公演はジゼルなの

そう聞いた時、ちょっと嫌な感じはしていた。
それは、前にフランソワーズが初めてジゼルを演じたときのことがよぎったからかもしれない。
フランソワーズがずっと夢見て憧れてきた演目「ジゼル」。相当の思いいれがあるらしい。

だから僕はちょっぴり不機嫌になった。

「……ふぅん。場所は?」
「パリ。オペラ座よ!」

フランソワーズは僕の不機嫌さにちっとも気付かず、頬を染めて嬉しそうに言った。その瞳は既にパリ公演の舞台を映しているのだろう。目の前にいる僕など眼中に無い。

「……いつから?」
「三ヵ月後よ!待ち遠しいわ!」

初めてジゼルを演じてから、「ジゼル」は彼女の定番の演目になった。それはフランソワーズのテクニックもさることながら、「ジゼル」がフランソワーズを選んだのではないかと思うほどだった。
何度も演じていれば自信に繋がる。今のフランソワーズには演じる不安などとは無縁だった。自信たっぷりのバレリーナだ。

「それでね、ジョー」

フランソワーズが僕の目の前に顔を寄せる。やっと僕の存在に気付いたかのように。

「レッスンはしばらくパリですることになったの」
「え。――そうなんだ」
「一週間以内に出発するわ。今回はみんな現地のダンサーばかりだから、なんだか懐かしいわ」

凱旋公演のようなものか。それは嬉しいだろう。僕だって、日本グランプリにはまた格別の思いいれがある。それと同じなのだろう。

「しばらく会えないけど、わたしのこと忘れちゃいやよ?」

それは、こちらのセリフだと思う。
バレエに魅入られた僕の恋人は、簡単に僕のことを忘れてしまうのだから。
だから僕はバレエがあまり好きではない。恋敵にしては強敵すぎるのだ。きっと一生勝てない。

「毎日電話するわね」

そう言って頬にキスをした。既に心はパリにある恋人。

おそらく僕は、そのときにもっと恋人らしいこと――熱いキスをするとか――をすればよかったのかもしれない。
頬にキスなんていう家族や友人にするようなキスを許さずに。
だけど、心ここにあらずの彼女に対して僕は何もできなかった。
日本に置いてきぼりにされ、これから数ヶ月忘れられるのだという確実な未来に呆然としていたのかもしれない。
僕も一緒に行くとかそんなの許さないとか、少しでもごねてみればまた違ったのだろう。

でも僕はそのどれもしなかった。

できなかった。

 




―2―

 

僕は恋人を「ジゼル」に取られてしまった。
いま、フランソワーズの頭のなかにはそれしかない。もし頭のなかを覗けるのなら、僕の存在がかけらもないことがわかるだろう。
いや、頭のなかはそれでいい。僕が居るのはそこではなくて、彼女の「心のなか」なのだから。間違えてはいけない。そう、心のなかになら。たぶん片隅でも僕はそこに居るだろう。
そうでなくてはいけない。だって僕は彼女の恋人なのだから。

そう信じていたのに。

「もしもし、ジョー?」

――フランソワーズ!!

僕はそう叫びたいのを抑え、さもなんでもないような声を作った。

「やぁ。久しぶりだね」
「えっ、この間電話したばかりよ?」
「いや――10日ぶりくらいかな」

嘘である。本当は二週間ぶりだった。カレンダーに印をつけているからわかる。
フランソワーズから電話がきた日を記録しておくのは気持ち悪いって?
いいんだ。今の僕は凄く気持ち悪い男なんだ。

「そうだったかしら?やだわもう、日が経つのって早いのね!全然そんな気がしてなかったのに」

弾むような声。

「忙しそうだね?」
「ええ。もう毎日レッスンで忙しくって!」
「そう」
「相手役のピエールが練習熱心なのよ。全然離してくれないの!」
「ふうん……」

ちょっと気になる名前が出たけれど、僕は気が無い風に装った。

「彼、下手なのかい?」
「いいえ、その反対よ、だからたいへんなの。私もレベルアップしなくちゃいけないし。前に話したかしら?ピエールってアズナブール先生の愛弟子なのよ」

知ってる。何度も何度も何度も聞いた。

「すっごく上手なの。だからダメ出しも多くて――あ、これはもちろん私に対するダメ出しね。で、それを完璧にするために無理言ってつきあってもらっていたんだけど、今ではその逆でピエールのほうが私を離してくれないのよ」

もう困っちゃうわと楽しそうな声で言う。充実しているようで何よりだ。日本のことなど思い出しもしないんだろう。
それから彼女は一方的にしゃべり続けた。主にピエール某のことを中心に。
正直、面白くはない。大体、恋人の口から他の男の話を聞かされて楽しく思う奴がいるだろうか。かといって、それをあからさまに態度に出すのは男としてのプライドが許さない。別にフランソワーズは僕から奴に心変わりしたわけではないのだから。

……だよな?

「ああもう、どうしようかしら!だってピエールって凄く素敵なんだもの。バレエをやってる女の子ならみんな彼に憧れちゃうわ」

それって、もちろんきみもだよね?前にそう言っていたような気がする。

「うふふ、そんな彼を独り占めしているなんてとっても贅沢よね私って」

いや、きみを独り占めしている彼が贅沢野郎だと思うが。

「あ、すっかり長電話になっちゃったわ。また電話するわね、ジョー」
「うん」
「じゃ、またね!」
「あ――」

あっさり切られた電話。
どちらかが切るまでなかなか切れずにいたことがあったなんて、一体誰が信じるだろうか。
そして
僕とフランソワーズが恋人同士だなんて、一体誰が信じるだろうか。

今の僕は完全にフランソワーズに片思いだった。

 




―3―

 

僕がため息の海で溺れそうになった頃、公演初日がやってきた。
パリのオペラ座。フランソワーズがチケットを送ってくれたので、僕はグレートと一緒にパリに来ていた。
グレートは花を持って楽屋へ行ってこいと再三勧めたけれど、僕はそれを断った。そんな――恋人のような身内のような仲良しの友人がするような――ことなんか、僕にはできない。

するもんか。

それに、最後の一ヶ月は全くの音信不通だったんだ。いくらバレエのレッスンで忙しいからといっても限度があるだろう。そうじゃないか?僕はフランソワーズの恋人なんだぞ。なのにまるっきり思い出さなかったというわけだ。声を聞きたいという衝動も会いたいという気持ちもおきなかった。
そういうことだ。
僕が――僕がどんな気持ちでいたのかなんて、きっと全くわかっていない。そんなことすら思う余地もなかったのかもしれない。他の男のことでいっぱいで。
今や僕は、彼女の頭のなかはおろか心のなかにさえ存在していないのだ。かけらさえも。
消えてしまったのだ。彼女のなかから。そして、彼女の中身は「ジゼル」と「ピエール」しかないのだろう。
そんな彼女に今さら会ってどうする?
え?
だったらどうして今日ここにいるのかって?そんなの決まってる。舞台で踊っている彼女を見るためだ。だって彼女の晴れ姿じゃないか。夢にまでみた凱旋公演なんだ、見届けなくては。それが僕が恋人として彼女にしてあげられる最後のことだから。

決して、未練がましい気持ちなんかではない。

決して。

 

 

***

 

 

永遠に続くと思われたカーテンコールがやっと終わり、やれやれと席を立とうとしたらグレートに腕を掴まれ、そのまま物凄い力で楽屋へ連行された。凄いな、グレート。ゼロゼロナインの僕が本気を出しても解けないなんて。おっさんなのに。そしてグレートは大きな声で今夜のヒロインを呼び、駆けてきた彼女をぎゅっと抱き締めた。

「マドモアゼルフランソワーズ!」
「グレート!」
「いやあ、あのおてんばなフランソワーズがこんなに美しいバレリーナとは」
「やあね、おてんばなんかじゃないわ」
「いやいや、これからは邪険に扱えないぞ」
「あら、今までだって紳士だったでしょう、グレートは」

二人でなにやら楽しそうに話しているのを横目に、僕はそうっと背を向けた。別にフランソワーズに会いたくはないし。早く帰って酒でも飲んで、

「ジョー!!」

と思っていたのに見つかった。やはりゼロゼロスリーから逃れるのは無理があるか。僕は観念して振り返った。

「やあ」

約三ヶ月ぶりの再会……と、いうわけだ。でも今さら何を言えばいいのだろう。だって一ヶ月近くも何にも話してないし。既に彼女は他の男のことでいっぱいなんだし。僕は傍からみれば、既に心変わりした恋人に会いにのこのこパリくんだりまできた間抜けな男だろう。こんな間抜け面、見ても楽しいわけがない。
実際、フランソワーズは険しい目つきで僕をじっと見ていた。先ほどのグレートには満面の笑みだったのにえらい違いである。そうだろうな。もうピエールという恋人がいるのに昔の男に楽屋まで来られたら迷惑以外の何者でもないだろう。だから来たくなかったのに、グレートめ。と、睨もうとしたのにグレートはさっさと退散していた。なんて逃げ足が速いんだ。こうなったら僕だって、加速して――

「ジョー!」

がっしと腕を掴まれた。物凄く痛い。何しろ彼女は実は力持ちなのだ。秘密だけど。
その力持ちは、今や全く手加減を忘れていた。前腕がみしっと鳴ったような気がする。どこかひびが入ってないだろうか。とてつもなく痛いんだけど。

「なんだよ怖い顔して」
「怖い顔?ええ、そうでしょうね」
「それに痛いんだけど」
「ええ、痛くしてるんだもの」

耳を疑った。

なんだって?わざと痛くしているっていうのか。いったいなぜ。自分から心変わりしておいて、僕に危害を加えるっていうのはおかしくないか?普通は反対だろう?むしろ彼女は僕に謝罪してしかるべきなんじゃないのか。心変わりしてごめんなさいと。

「ちゃんとこっちを向きなさい」
「……今日のヒロインがそんな怖い顔をしちゃダメだよ。怖いだろ」
「怖くしてるんだもの」
「男に逃げられるぞ」
「逃げられないようにこうして腕を掴んでるんでしょ」
「僕のこと?」
「僕のことです」

おかしい。今や彼女の男とはピエールのはず。いったいピエールは何やってるんだ。と思ったら、彼女の背後からひょっこりピエールが顔を覗かせた。

「フランソワーズ、お疲れ様。――何やってるんだい?」
「あ、ピエール。お疲れ様。うふ、ちょっとね」
「ああ、なるほど。――ふうん……」

値踏みするかのように上から下まで視線を這わせるから、僕は奴を睨みつけた。ガチンコ勝負なら受けて立つぞ。すると僕の腕が更に悲鳴を上げた。いったい何するんだとフランソワーズの顔を見たが、まるっきり知らん顔。

「ピエール、あとでダメ出しうけるから先に行っててちょうだい」
「はいはい、了解」

意味ありげなウインクを残し、奴は去っていった。なんとも気障な野郎だ。あんなのが好みだなんて、変わったなフランソワーズ。

「さて。ジョー」

くるりとこちらを向いた顔はやはり険しかった。たったいままでピエールには笑顔を見せていたのに。どうして僕には怖い顔しかしないんだ。やはり昔の男に楽屋まで来られたのは迷惑だったのか。でもそれは僕のせいじゃなくてグレートが無理矢理――

「ちゃんとこっちを見なさい」

ぐいっとネクタイを引っ張られ、一瞬息が止まった。腕は痛いし息は止まって死にそうになるし散々だ。

「さあ、ちゃんとわけを言ってちょうだい。どうして一ヶ月以上も携帯の電源を入れなかったのか」