赤い華と青い華

 

 

 

「あら、電話よ。フランソワーズ」

由緒ある教会の建物にはやや不似合いな、携帯電話の現代的な電子音が突如鳴り響き、控え室でフランソワーズと談笑していた友人達は、『じゃあまた後で』と目配せをし、部屋から出て行った。
電話を取ると、それはバレエ学校で仲良しの友人から急を知らせるものだった。

 「えっ、何ですって?」

思わず眼と耳のスイッチを入れそうになってしまった彼女は、普段の生活では『能力』は使わないと決めたはずなのに…と苦笑してふるふると頭を振り、窓の外に視線を投げる。
昨夜まで降り続いていた冷たい雨はすっかり上がり、冬の柔らかな日差しが窓から差し込み、葉に残る雨の雫はきらきらと輝いて、まるで今日という日を祝福してくれているように見える。
あなたが生まれたのも、きらきらした冬の朝だったのよ…と、幼い頃聞いた母の言葉がふと彼女の脳裏を過ぎった。

 

小さいけれど歴史ある、厳かな雰囲気を湛えたこの教会で、もうじき若い恋人達の結婚式が行われようとしていた時のことだ。

 「ごめんなさい。架線事故で電車がストップしちゃったの。どうしよう…お式で使う大事なもの預かってるのに…」

電話口の友人の声はおろおろとして、殆ど泣き声に近い。
それを聞いて、フランソワーズもつられて泣き出したい気持ちになったが、予期せぬ事故のため立ち往生している電車の中で、どうすることも出来ずに心を痛めている友人のことを考えると、自分が泣いたら申し訳ないと拳を握り締めた。

 「ううん、いいのよ、そんなこと気にしないで。遅れてもいいから必ず来てね、待ってるわ」

ごめんね、ごめんねと謝り続ける友人をどうにか宥め落ち着かせると、努めて明るい声で電話を切る。
とはいえ、今花嫁の控え室にいるのは自分独りきり。衣擦れの音さえ響く静寂さに、フランソワーズは居たたまれない気持ちになった。

 「ジョー…」

溜息と共に、意識せずとも彼の名が口をついて出る。
熱いと手を引っ込め、強い風には眼を瞑る。危険から咄嗟に身体を守ろうとする時意識しない反射的な行動があるように、心が不安で押し潰されそうな時、反射的に呼んだのは最愛の人の名前だった。
それは言うまでもなく、今から行われる式で永遠の愛を誓い、生涯の伴侶となる男性の名だ。

 

次の瞬間、足音が近づいて来たかと思うと、ノックもなく騒々しくばたんと扉が開き、フランソワーズは飛び上がらんばかりに驚いた。
その拍子に、彼女の携帯電話は淡いピンクのグラデーションにラインストーンの小花を咲かせたネイルを施した指から離れ、シルクのドレスの柔らかなラインに沿って滑り、ことりと床に落ちる。

 「どうしたんだい?」

彼の言葉に振り返ったフランソワーズの、ネイルと同じ淡いピンク色の可憐な唇が、再び彼の名を呼んだ。

 「ジョー…」

上質なグレーのチャペルモーニングを身に纏っている彼は、コートの裾をはためかせて急ぎ足で彼女に近づく。

 「今、僕のこと呼んだよね?」

 「えっ」

フランソワーズが何に驚いているのかなど全く気がついていない様子で、彼は、ぽかんとしている彼女の顔を心配そうに覗き込んだ。
ジョーも確かに常人より数倍聴力を強化されてはいるが、それでも壁の向こうにいた自分の、しかもあんな小さな呟きのような言葉まで拾えるとは到底思えない。

 「いや、気のせいだったらいいんだけど。どうも君に呼ばれたような気がして」

そう言いながら彼はベストのボタンを留める。どうやらまだ身支度の途中だったらしく、タイも結ばれていないし、明るい栗色の髪には見事に寝癖がついたままだ。
それを見て、彼女は泣き笑いのような複雑な表情を浮かべた。

 「あのね、友達が乗ってる電車が架線事故で止まっちゃったの。復旧はいつになるかわからないって…。彼女、サムシング・ニューとサムシング・ブルーを持って来てくれることになってたから、それで…」

 「へっ?サムシング、何だって?」

日本人であるジョーには馴染みが薄いかもしれないが、ヨーロッパでは花嫁が結婚式で身につけていると幸せになれると昔から言われている、サムシング・フォー。
サムシング・オールド、サムシング・ニュー、サムシング・ボロー、サムシング・ブルーの四つである。
フランス生まれでフランス育ちのフランソワーズももちろん例外ではなく、幼少の頃から、この四つを身につけていつか愛する人の元へ嫁ぎたいと憧れていたのだった。

サムシング・オールドは、亡き母の形見のネックレス。
サムシング・ボローは、先月結婚したばかりのバレエ学校の先輩から借りた、ネイルと同じ淡いピンク色のピアス。
そして後の二つ、サムシング・ニューとサムシング・ブルーはやはりバレエ学校の友人が持って来てくれることになっていた。

だが、その友人が乗った電車が運悪く架線事故に遭ってしまい、どうやら式には間に合いそうにないことを彼女は手短に説明する。

 「何だ、そんなことか」

 「そ、そんなことって!あたしにとって、サムシング・フォーは…」

半ば呆れた顔をしているジョーに対し、フランソワーズは相変わらず乙女心がわからない人なんだから、と心の中でむくれる。
女性と男性では、結婚式というものに対するウェイトが違うのかしらとも思ったが、どうもそうではなかったらしい。

 「僕はまたてっきり、君に何かあったんじゃないかと思って。ああよかったよ、何ともなくて」

そう言って、安心したようにほうと溜息をつく。つまり、彼はフランソワーズのことが心配で、他のことが眼に入らないだけなのだ。

 「サムシング・フォー、だっけ?別になくてもいいじゃないか。縁起ものなんだろ?要は気持ちの問題なんだし」

 「う、うん…。まあ、そりゃ、なくても…いい、けど…」

もちろん、なくても結婚式は挙げられる。式の進行にも支障はない。
けれど、今日は一生に一度しかない記念すべき日。ここまで来るのに一体どれだけの想いをして来ただろう。
気持ちがすれ違い、流した涙。彼を失ったと思って絶望し、流した涙。意識が戻った時には、ただ生きていてくれるだけでいいと感極まり、流した涙。
今までそうやって数え切れないほどの涙を流し、ようやく気持ちが通じ合った後も幾多の困難に出遭い、乗り越え、ついに二人はお互いを生涯のパートナーと決めたのだった。
そんな日々だったからこそ、今までやきもきしたりはらはらしたりしながらもずっと見守って来てくれた、たった一人の肉親である兄や大切な仲間達の前で、永遠の愛を誓う神聖な儀式を何の不備もなく執り行いたかった。

ジョーは、消え入りそうな声で呟いた淡いピンク色の唇を、小刻みに震える伏せられてしまった長い睫毛を、じっと見つめた。
フランソワーズは素のままでも周囲の注目を集めるほど充分美しい。そんなことは分かり切っている。
そのただでさえ美しい彼女が、今日はいつもより華やかにメイクアップをし、ほっそりとした身体に似合い過ぎるほどぴったり似合う純白のウェディングドレスを纏い、白いうなじも露わに結い上げた亜麻色の髪に煌くティアラを載せている。それもこれも全て、自分のために。
その姿が、式に参列してくれる人々からどれほどの賞賛と羨望の眼差しを受けるのか見当もつかず、ジョーは軽い眩暈を覚えた。
しかも、今日から神の名の元に、彼女は正式に自分の妻になる…そう思っただけで言葉に出来ないほどの感慨が込み上げ、また、同時にくすぐったいような気持ちになり、照れ臭さで頬がかあっと火照った。
急に糊の効いたシャツの襟元が苦しくなったように感じ、彼はそこを人差し指でぐいと押し広げ、どきどきと高鳴る心臓を落ち着かせようと大きく息を吸い込み、先ほどの言葉を言い直した。

 「そんなもの、別になくても…」

そして、死にそうに恥ずかしいが、ここは彼女のためと普段口にしない台詞を耳元で囁く。

 

 「なくてもいいだろう?俺が幸せにしてやるから」

 

 「!!」

 

驚いて顔を上げた彼女の蒼い瞳に映るものは、甘い言葉とは正反対の仏頂面。眉間にはご丁寧に皺まで寄っているが、頬はしっかりと朱に染まっている。
彼が照れた時に仏頂面になったり、わざと『俺』と言ったりするのはよくあることで、フランソワーズは思わずくすっと笑みを零した。

 「あ、やっと笑った」

微笑みを取り戻した彼女を見て、ジョーはようやく満足そうに唇の端を上げる。
だが彼は次の瞬間、上品で繊細なレースに縁取られた白くたおやかなドレスの胸元に目を向けると、何か閃いたのだろう。急に悪戯っ子のような表情になった。
そして、いきなり胸元のレースに手をかけて掴むと、ぐいと引き下げる。

 「きゃっ!な、何するの!」

突然のことに、当然フランソワーズは抗議の悲鳴を上げた。

 「サムシング・ブルーなら、ここにあるじゃないか」

 「あっ…」

大きく肌蹴られた白い胸には、小さな青い華が咲いていた。二日前の夜、ジョーがつけた所有の証である刻印が時間を経て赤から青へと変化していたのだ。
だが、驚いている間もなくその横へすかさず彼の唇が寄せられる。

 「きゃ…」

ちくりと僅かな痛みが走り、唇が離れた時には…青い刻印の横に、真新しい赤い刻印が並んでいた。

 「うん。サムシング・ニューは、これでいいね」

瞳を輝かせ、我ながらうまいことを思いついたとでも言いたげな悪戯な笑顔を、フランソワーズはわざと不機嫌そうに嗜める。

 「も、もうっ!ジョーの馬鹿!教会でこんなことして、神様の罰が当たっても知らないんだから!」

だが、彼女が本気で怒っていないことなど百も承知のジョーは、余裕だった。


 「それが何?君の笑顔のためなら、僕は神様を敵に回したって構わないよ?」

不器用で、日頃から自分の思いを表すことが下手な彼なのに、今の行動といいこの言葉といい、今日は何故こんなにも大胆なのだろう。
赤い華と青い華が咲く胸元を慌てて隠しながら、フランソワーズの頬もその華と同じくらい赤く染まる。

 「さ、皆がお待ちかねだよ。君のドレス姿、すごく楽しみにしてるんだから早く見せてやってくれないかな。ギルモア博士なんて、こんな日が来るなんて夢のまた夢だったとか言って、式も始まらないのに涙ぐんじゃってさ。ジェットとグレートはもう出来上がっちゃっててうるさいし、ジャン兄さんにはやたらと絡まれるし…はは、参ったよ」

既に扉へ向かっていたジョーが振り向き、先ほど新郎の控え室で起こったであろう出来事を思い出したのか、朗らかに笑いながらフランソワーズに手を差し伸べる。

 

 「行こうか」

 「ええ」

 

彼女は頷き、優しく温かな笑みと共に差し出された大きな手をそっと取った。

 

形なんか関係ない。だって、自分達の出逢いこそ幸せな形ではなかったもの。
そんなものにこだわらなくても幸せになれる。こうしてちゃんと掴むことが出来る。

 「ありがとう、ジョー」

フランソワーズも微笑みを返しながら、この先永遠とも思われる時間を一緒に過ごす伴侶の手を宝物のようにしっかりと握る。
そして、二度とこの手を離さない、この人と出逢うことが出来て本当によかったと思いながら、未来への光が溢れる大聖堂へ続く扉をゆっくりと開いた。

 Fin.

 


さよこさん、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

オマケをつけてしまいました