「ジョーはジョーなのだ」

 

 

 

何か忘れているような、そんな気はしていた。
だけど、それが何なのか。いったい何を忘れているのかと問われればわからないと答えるだろう。
ならば、忘れていようがいまいがどうでもいいという範囲のものではないだろうか?
大事なものだったり、忘れてはいけないことならば最初から忘れなどしないだろうし、容易に思い出すはずだろう。
だからきっと…

たいしたものじゃない。

僕は、何かを忘れているという感覚を頭の隅に追いやった。

 

 

**

 

 

「フランソワーズってマジ天使だよなあ」


そんなに遠くない場所から声が聞こえてきて、僕はやや身構えた。そのセリフには、憧れのひとを語る雰囲気が漂うわりには幾らか下卑た印象があったのだ。

「オデット姫はフランソワーズだろ、やっぱり」
「いやあ、黒鳥も見てみたいなあ」

バレエ『白鳥の湖』公演後のホワイエである。興奮冷めやらず…といった感じで皆が口々に感想を言い合っている。
確かに大成功だったし、いい舞台だった…と、思う。残念ながら、僕にはそれと断言できるような芸術的センスはない。
が、こうして周囲の人達が感想を言い合っているのだから、きっと大成功に違いない。
ただ。フランソワーズの名前を呼び捨てにされるのは落ち着かなかった。著名人をまるで知り合いか友人のように敬称をつけずに呼ぶのなんてよくあることではあるのだが。

うーむ。やはりそこは、アルヌールさんだろう。あるいは、100歩譲ってフランソワーズさんとか。
いくら日本人は外国の名前をそのまま呼び捨てがちとはいえ、…なんだかモヤモヤする。

僕は腕組みし壁にもたれ、人が流れていくのをやりすごした。
本来なら楽屋に行ってもいいんだろうけれど(実際、フランソワーズはそうしろと言っていた)楽屋裏の何たるかを知らないわけではない。
僕の場合はレースだけど、実際、ピットはふつうの人が立ち入るようにはできていない。居場所がないのだ。
だから、公演後の楽屋なんてものもそんな感じだろう。演者や関係者でごった返しているだろうし、着替えたりメイクを落としたりで忙しかろう。そこへ見知らぬ部外者の男がやってきたら、やりにくくて迷惑にしか思うまい。
だから僕は、フランソワーズが皆に挨拶をすませ着替えをして手が空いたら会うことにして待っているのだ。
が。
なんか変だな。

だってそうだろう。
だったら、別にここで待っている必要などなくないか?

一緒に住んでいるのだから。家に帰れば会えるんだし。
大体、公演最終日なんて打ち上げとか何かしらの宴会があるんじゃないか?
まさか主役のフランソワーズが抜けられる筈がない。

僕は帰ろうと壁から体を離し、ひとの流れに混ざった。

すると、

「なあ、出待ちするか?」
「おっ、いいねえ。天使のフランソワーズ、素顔はいかに」

先程と同じ声。

出待ち?

素顔?

僕は声のした方に目をやったが人物の特定はできなかった。

…帰るわけにいかなくなった。

まあ、実際問題としてこのまま帰っていたら、後でフランソワーズのカミナリが落ちること必至である。
なにしろ僕は、公演が終わったら一緒に食事したいから待っててとフランソワーズに念押しされているのだ。
それもしつこく何度も何度も。

だからまあ…仕方ない。

僕は帰るのを諦めて楽屋口に向かった。
駅へ直結ルートがある建物は、楽屋口はホール出入り口のほぼ並びにある。そこは、公演後の観客が随分とわだかまっており、どうやら演者をひとめ見ようという熱心なファンがいるようだった。
それはともかく。
フランソワーズを守らねばならない。
さっきの野郎どもは何だかけしからんことを考えているような気がして仕方がない。フランソワーズに指一本触れさせない。彼女は天使だが、それは僕のものなんだ。
などと絶対当人には言わないようなことを考えながら楽屋口を睨む。

「あっ、天使」
「フランソワーズ!」

だから、僕の天使を呼び捨てにするな。
背後からゲンコツでもくらわせようかと考えていたら、

「あっ、ジョー!」

僕の天使は警備の人やファンやさっきの野郎どもをあっさり振り切り…否、とてつもないダッシュで僕の首筋にかじりついた。彼女が刺客だったら僕はこの瞬間やられていただろう。

「わっ…」

どんと体当たりされ天使の全体重がかかる。天使のわりに意外に重い。

「良かった、待っていてくれたのね!」
「あ、ああ、まあな」
「嬉しいっ、人混みでやんなっちゃって帰っちゃうんじゃないかと心配してたのよ」

読まれてる。

「いや、だって…約束したろ?」
「うふ、そうね」
「でも、打ち上げとかあるんだろ?行かなくていいのか」
「ええ。だって今日は特別だから」
「特別?」

なんだろう。なにかあったか…?

「だって今日はジョーの誕生日だもの!」

!?

たんじょうび…

「今日は私のとってもとっても大事なひとの誕生日なんですって言ったら、みんな許してくれたの。逆にすぐ帰れって追い出されちゃった」

たんじょうび…って、誰の。

あ…僕の、か。


そうか。


忘れていたどうでもいいことって…

ソレ、か。


「ジョー?どうかした?」
「いや、なんでも…」

フランソワーズを引き剥がそうとした時、

「ああ、僕の天使が…」
「誰だアイツ」

と敵意に満ちた声が刺さったので、僕はなんだかムカムカし


「フランソワーズは僕の天使だっ!」


断言すると、フランソワーズの腕を掴みその場を後にした。
まったく、なんなんだいったい。僕のフランソワーズを勝手に天使呼ばわりするな。僕の許可もなく。


……


……


待てよ。
いま、もしかして声に出して言ったかな…?

おそるおそるフランソワーズを見ると、頬が朱に染まっていた。

「もう…ジョーったら」

えっ、いや、それは。言おうと思って言ったわけじゃなく事故のようなもので…

「あら、取り消しは無しよ」

うう。

なんだか僕も顔から火がでそうに熱かった。

 

 

**

 

 

でも確かにフランソワーズは


マジ天使


だと思う。

もちろん、僕だけの天使だけどね。

 


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