「雨じゃなくても」

 


sideF

 

ジョーの記憶がおかしい。

ううん、そんなのは今に始まったことではない。
彼は、有事にはとても有能だけれどそれ以外の日常となるとどうでもよくなってしまうらしく、あまり注意を払わない。あまり…というより、全然。
だから、去年のことを覚えていなくてもいまさらではあるのだけれど。

でも、私としては大いに不満だった。
だって。

去年のあのことを忘れる?

楽しかったのに。
砂まみれになって大変だったけれど。
傘もなくしちゃうし、びしょ濡れになっちゃうし、ほんとにもう大変だったけれど。

でも。

楽しかったのに。

だから――というわけではないけれど、梅雨入りって私にとって特別な意味を持つようになっていたのに。
なのにジョーは、何の感慨も湧かないらしい。
ぼんやりレインコートがどうの傘がどうのと的外れなことばかり言っている。

……忘れちゃったのかな。

それとも。

あまり考えたくはないけれど……私にとって、去年のあれはとても嬉しくて楽しかった思い出だけど、彼にとってはどうってことのないことだったのかもしれない。

どうってことのないこと。

別にあってもなくてもどっちでもいいこと。
楽しくも悲しくもなんともなかったから覚えていないこと。

――そうなのかなあ。

なんだかそう考えると悲しくなってくる。
やっぱり七夕のお願いにかこつけて誘ってみなければだめなのかしら。
でも、ああいうお願いって一度きりだからこそ言えたっていうのもあるし、だから効力もあったのだと思う。
今年、また同じお願いをしたら「また?」って絶対思うだろうし…あ、でも覚えていないのだから思わないのか。
いやいや、誰より言った自分が思うわ。またなのフランソワーズ、って。そうしたら楽しかった思い出を自分で壊すことになってしまいそうで怖い。

だって、本当に楽しかったのに。

ジョーは簡単に忘れちゃうんだ。どうでもいいことなんだ。私のことなんて。

私とのことなんて。

洗濯機を覗いていたら洗濯物に涙がひと粒落ちた。やだわ、泣くなんて。こんなことで。
手の甲で涙を振り払うと洗剤を取り出しセットした。洗濯機が静かに動き出す。
大きなため息をついていると、ジョーがやってきた。

「どうしたの、ジョー。今頃洗濯物を出されても遅いわよ」
「いや…」

ジョーは手ぶらだった。
じゃあ何しにここに来たのだろう。

ジョーはちょっと言い淀むと、軽く頭を掻いて

「――ちょっと散歩しないかい?」

と言った。

「散歩?」
「ウン……という名のデートなんだけど」

デート。今から?

「――30分くらいなら」

洗濯が終わるまでの時間。

「30分かあ……」

ジョーは何か考え込むみたいに頭をがしがし掻いたけれど、すぐに私の手首を掴み引っ張った。

「いいよ、出かけよう」
「え?ええ…」

いいけど、どこへ?
まぁ、浜辺の散歩くらいが関の山だけれど。30分しかないから。


外に出たら、雨――ではなかったけれど曇天だった。いつ雨粒が落ちてきてもおかしくない感じ。
こんな天気で外に行こうとジョーが誘うのはかなり珍しい。しかも車じゃないし。
傘は持っていこうかどうしようか迷ったけれど、置いていくことにした。どうせ近くだ。

ジョーと手を繋いで砂浜を歩く。

潮風と梅雨の湿気が重い。
ジョーは無言のままだ。いったい何を考えているのかその横顔からはわからない。
深刻そうな顔をしていても、ゆうごはんの心配をしていたりするひとだ。

「――フランソワーズ」

5分くらい歩いた頃、ジョーが口を開いた。立ち止まる。

「覚えてる?――去年のこと」
「去年?」
「ウン……あの松の木の下で……」

ヤダ。
ヤダヤダ、なによそれ。
なんでそれをこんなところでこんな風に訊いたりするのよ。私、どんな顔をすればいいの。何て答えたらいいのよ。覚えてるって言ったらなんだか恥ずかしいし、かといって覚えてないといってもそれはそれで……

私が内心パニックになっていることを知ってか知らずかジョーは私の手をぎゅっと握り締めた。

「思うんだけど、別に梅雨って関係ないよね?」
「えっ…」
「それとも雨が降ってなくちゃダメ?」

ジョーがまっすぐこちらを見る。
私はというと、なんて答えるのが正解なのか、ただジョーの瞳をじっと見返すしかできなかった。

 



side J

 

フランソワーズが何を考えているのか。
最近の僕の命題といえばそれだった。
明けても暮れてもそればかり考えている。だって、フランソワーズが何か答えを待っているようだったから。
思わせぶりに見つめてきたり。レインコートは興醒めだと言ったり傘を新調したと言ったり。
――あのさ。僕だってそんなに鈍くはないよ。去年の今頃に何があったのかくらい覚えているさ。

ただ。思うんだ。
あれって…別に雨の日限定じゃないよね?と。
梅雨の時期しかダメってわけじゃないよな――と。

だって実際、そうなのかといえばそうじゃなかったりするわけで……

まあ、確かに気候には左右されると思う。夏は暑いし冬は寒いし。春や秋は天気が変わりやすくてすぐ寒くなったりするし。となると今の時期のほうが気温が安定しているし、多少濡れるかもしれないという懸念はあるが雨具があればどうにかなる。

だからつまり。

……そういうことなのだろう。フランソワーズが考えている事は。

昨年の彼女の「七夕のお願い」は本当に可愛くて、今思い出してもその余韻に浸れるくらいだ。
いつものフランソワーズもじゅうぶん可愛いのだけど、それ以上に凄く妖艶で可愛くて綺麗で――ああ、考えただけでどうにかなってしまう。

だから。

最近のフランソワーズの言葉の端々に昨年の一連のことが滲んでいてもご愛嬌といえるのだ。
期待した目で見られるのも悪くはない。

けれど。

ねえ、フランソワーズ。それってやっぱり梅雨の時期限定なのかな。
だって実際、僕達は――梅雨じゃなくても愛し合うことができるじゃないか。
いや、言いたいことはわかるよ。
雨の音が重要なんだろ?気兼ねしなくていいというか、その……要はフランソワーズがうまく自分を解き放てる要素だというなら。
でも。
忘れてないか?
僕達が住んでいるのは海辺なんだ。海の音って半端無いぞ。雨の音なんか比べ物にならないくらい。

だからさ。

雨とかそういうの、関係ないと僕は思うんだよな。
――思うんだけど。
実は去年の梅雨以来、外でそういう行為に及んだことはなかったりする。
いや、別に外でしたいってわけじゃないんだ。ないんだけど。
――邸内だとフランソワーズが遠慮して我慢してしまうから。その、……声とか。
僕はフランソワーズの可愛い声をもっともっと聞きたいし独り占めしたい。だって僕にしか聞けない声なんだ。
でもフランソワーズはそのへん頑なで、やっぱりいろいろと気になってしまうらしい。
だから、外で――雨音のする時がいい……みたいなんだけど。

僕に言わせれば、

そんなの、どうだっていいだろ

ってわけだ。
傘とかレインコートとかレインシューズとか、本当にどうでもいい。
僕にはフランソワーズさえいればいいのだ。

――という諸々を伝えたくて、浜辺デートに誘ったのだけど。さて、どう言えばわかってもらえるだろうか。


フランソワーズは黙ったままじっとこちらを見ている。
当然よ雨が降ってなくちゃダメなの……と言われたらどうしようか。
いや、どうもしないか。僕は負けて「そうだね」って言うに決まってる。でもそうしたら、これから先全てが「雨待ち」になってしまう。それだけは避けたい。
避けたいから。

「――あのさ。ちょっと早いけど、僕の七夕のお願い聞いてもらえるかな」