「不機嫌な理由」


―1―

 

フランソワーズの機嫌が悪い。


――悪いようだ、と気がついた。

でもそれはそう博士に注意されたからで、自ら気付いたわけではない。
そして、それがますます彼女の機嫌の悪さを助長している――と、叱られた。


でも、本当に僕は全く気付いていなかったのだ。

更に言うと、実は今もまだそう思っていない。


フランソワーズの機嫌が悪いなんて。

 


―2―

 

たぶん怒られるだろうな、とは思っていた。

何しろ、一週間近く連絡できなかったのだ。それも、行き先を告げず誰にも内緒で出かけたその延長である。
だが言い訳させてもらえば、僕だってまさかそうなるとは想定外だったのだ。ほんのちょっと調査に出るつもりで、半日ほど留守にするだけの予定だったのだから。

まさか海底に拉致されるなんて思ってもいなかったのだ。

海底で乙姫様に接待されたなんて話だったら良かったものの、下手をしたら帰って来られなかった。

――なんてことを言ったら心配させるだけだから、僕は黙っていた。

そして、ちょっと海に行っていたよとそれだけ告げた。
嘘は言っていない。


フランソワーズはたぶんそれが真実ではないと見破ったのだろう。
そして、僕が未だに本当のことを言わないのを怒っていて、それで機嫌が悪い。

ふたりの間に隠し事をするなんてというわけだ。


しかし。

かといって本当のことを言ってどうする。
今さら、過ぎたことを心配させる必要なんてあるわけがないし、大体不毛だ。
知らなくていいならそれでいいではないか。こうして無事に帰って来れたのだし。

それに――フランソワーズはいつも僕のことを心配しているから、これ以上余計な心配はかけたくない。


もっとも、それは僕がいつも単独で突発的な行動をとるせいなのかもしれないけれど。
そして、それをやめればすむだけの話なのかもしれないけれど。

 


―3―

 

博士からフランソワーズの機嫌が悪いと聞いても僕は別段何をするでもなかった。
僕がみる限り、フランソワーズは別にいつもと変わらないようだったし。

ただ、それから数日が過ぎてちょっとこのままではよくないかなと思い始めた。


表面上はいつもと変わらないフランソワーズ。
でも、博士が今朝言っていた。まだ機嫌は直ってないぞ、早いところ謝ってしまうんだなと。

僕もその必要性には薄々気付いていた。
段々食卓の雰囲気が寂しい感じに変わってきたからである。
例えば、今朝の食後のフルーツはリンゴで、……ただの剥いたリンゴだった。
いつもはウサギになってるリンゴなのに。(博士はちょっと寂しそうだった)


そんなわけで、僕はフランソワーズにことの詳細を語る覚悟をしたのだった。

 


―4―

 

「フランソワーズ、あの」
「なあに?」
「……ちょっと話があるんだけど、いまいいかな」
「………どうぞ」

洗濯機に洗剤を投入していたフランソワーズが顔をこちらに向けた。

「その、……この間は勝手に留守にしてごめん」
「そうね」
「でも、遊びに行ったわけじゃないんだ。ホラ、船が次々消えていくってニュースでいってただろ?だからちょっと調査を」
「……ひとりで」

あ。なんだか声が冷たい。

「調査のつもりだったのに?」

調査に最適な私を置いていくなんてどうかしてるんじゃない――と暗に示すフランソワーズ。

「う、うん……その、本当はフランソワーズと一緒のほうが良かったんだけど、危ない目に遭ったら大変だし」
「危ない目に遭ったの?」
「え!いや、そうじゃなくて」

危ない。本当のことを言ったら心配させてしまう。

「そうじゃなくて、その、調査はうまくいったんだけど、その…海が綺麗だったからつい遠出してしまって」

――我ながら、苦しい言い訳だなと思う。
果たしてフランソワーズは眉間に皺を寄せていた。

「いや、海っていつも見てるけどさ、その、船で出るとまた違うというか」

ううむ。
こんなしろどもどろで何か通じるのだろうか。自分で言っていてかなりアヤシイだろうと思う。

「で、つい連絡できないくらい遠くに行ってしまって、――心配かけてゴメン」

僕は頭を下げた。
とりあえず、怒っているのなら謝ろうとそう短絡的に思ったのだけど。


「……」


フランソワーズは許さないとも許すとも何にも言ってはこなかった。僕は頭を下げたものの、上げるタイミングを完全に逃していた。というか、彼女が何か言ってくれない限り動きようがない。

だからしばらくそのまま床を見ていた。

フランソワーズの爪先が見える。

小さい爪だなぁと思った。
小さくて、可愛い指だなとも思った。
可愛い指だし、可愛い足だし、可愛い足首だなあと思った。


「……」


ちなみにフランソワーズは裸足だった。なぜスリッパを履いてないんだろうと疑問が湧いた。
更に言えば、靴下も履いてない。けっこう床は冷えると思うんだけど。
それらについて考察してみることにした。なに、時間はたぶんいっぱいある。
ただ、腰を折り曲げて床とフランソワーズの足首を見たままというのはけっこう不思議な体勢ではあるけれど。


「……」


僕は今、靴下を履いてスリッパを履いている。床に対して冷たさは感じない。
それは、朝起きた時にちょっと肌寒いような気がしたからだ。
ではフランソワーズはなぜ裸足なのか。
一番先に思いつく回答としては、やはりこれだろう。そばにスリッパが無かった。

――いや待て。それはそれでけっこうな謎が残る。

スリッパを部屋で脱ぐのは寝る前だ。だからベッドサイドにはそのままスリッパが残っているわけで、朝起きたらそれを履けば良いだけの話だ。実際、僕もそうしたのだから。

ううむ、この謎はけっこう深いぞ。


「……」


ということは、昨夜フランソワーズは裸足だったということになる。

……あれ、いま何かひっかかったぞ。


「……ジョー」


なんだろう、昨夜……


「ジョー?」


……昨夜、彼女がスリッパを脱いだ理由……


「ジョーったら!」
「え、なに?」


僕は顔を上げた。久しぶりにみるフランソワーズの顔はちょっと心配そうだった。


「なに?」
「なにじゃないわよ。もう……いいわ。怒ってないから」
「うん?」


――なんだっけ?
いま、それどころじゃないんだけど。何か思い出しそうなんだ。フランソワーズが裸足なわけを。


「――もう」


しょうがないひとね、と言うとフランソワーズは腕を伸ばし、僕の首筋に巻きついた。
僕は殆ど条件反射でフランソワーズを抱き締めた。


「怒ってないわ。……ううん、少しは怒ってたけど」
「うん。ゴメン」
「――だって、想定内だったもの」
「え?」
「きっと、出かけちゃうだろうなって思っていたから」

僕はフランソワーズの顔をまじまじと見た。

「そんなに驚くことじゃないでしょう?アナタの考えてることなんてお見通しよ?」
「え、そうなのかい」
「ええ。だって、アナタったら」

お出掛けする前の晩、私が何を考えているのって訊いても何も答えなかったでしょう。
その時点で、さっきのニュースのことが気になってるなってわかったから。
だから、ああきっとまたこっそり出かけちゃうんだろうなって思ったの。

そう言うと、フランソワーズはにっこり笑った。

「でもまさか連絡がないなんて思わなかったわ」
「ゴメン」
「いいのよ。連絡ができない状況だったんでしょう?」
「……うん。さっき言った通りだよ」
「そうね。さっきそう言ったわね」
「ゴメン」

僕はそういうとフランソワーズを抱き上げた。なんだかわからないけれど、フランソワーズの機嫌が直ったみたいだったし、それに――嬉しかったから。
心配かけたのかもしれないけれど、でも僕のことは全部わかってくれてるみたいだし。
そういうのって、やっぱりなんか嬉しい。
もちろん、いつもそうじゃないだろうとは思うし今回は特例なのだろうけれども。図に乗って同じことをやらかしたら今度はどうなるのかわからないけれども。

だから僕はそのままフランソワーズを連れて、……もうちょっと親交を深めようかななんて思った。

ランドリールームを出て、自室へ向かうべく階段を昇る。

――階段の踊り場でフランソワーズのスリッパを見つけた。思った通りだった。
昨夜、ここでフランソワーズを抱き締めて、……そのまま部屋へ行ったのだ。

きっとフランソワーズはどこで自分のスリッパが消えたのかわからなかったのだろう。
(もちろん、だからといって今まで裸足の理由にはならないが)

僕は、あとで回収しようと心に留めてそのまま階段を上りきった。


部屋のドアを開けて、そして。

 

そして。

 

フランソワーズが僕の耳元で小さく言った。

 

 

 

「で、ロビンさんってだあれ?」

 

 

 

 

 

 

女って怖いとその日僕は本気で思った。