2月12日、メンテナンスが終わった。
しばらく不具合がないかどうか様子を見たいからと博士に言われ、数日滞在した後に帰国することにした。
ちょうどバレンタインデーにさしかかる、そんな日程になった。

――せっかく日本にいるのだし。

すっかり暇になった私は、先日知ったばかりの日本の文化の真似事でもしてみようかと思い立った。
そう――無謀にも、ジョーにチョコレートを贈ってみようかと思ったのだ。

前述した通り、私とジョーは特別な関係ではない。
時間を作ってわざわざ会おうとしたりしないし、時間があっても会ったりなんかしない。そんな素っ気無い関係でしかない。
だから、私が彼にチョコレートを渡してもきっと意味が通じないだろうし、通じても困らせるだけだろう。

でも。

それもいいかな、と思った。

だって私は、・・・・・・ジョーが好き。

どんな風に好きなのかと問われれば答えに困るけれど、でも――いま好きなひとはいるのと訊かれたら、いると答えるだろう。
そしてそれは誰と尋ねられたら、ジョーだと答えるだろう。
そんな風に好きだった。

彼と一緒にいられるのは、世界が平和では無い時だけだから、一緒にいたいと願ってはいけない。
だから私は、普段は彼のことを心の奥のほうにしまって考えないようにしていた。
そうしていれば遣り過ごせる。
そんなに――会えないと苦しくなるほど好きなわけじゃないんだから。

声が聞きたいわけじゃないし。

顔が見たいわけじゃないし。

まして、一緒にいたいなんてわけじゃない。
そんなこと、思ってもいない。

そう――ちょっとだけ、好き。
それだけなのだから。

 

 

 

 

メンテナンス後に不具合はみられなかったから、私は14日に帰国することにした。
帰る前に、博士にジョーの居所を教えてもらった。
とうとう姿を見せなかったジョー。それでも、せっかく日本にいるんだし、ひとこと挨拶してから帰りたいとお願いしたのだ。
博士は快く教えてくれたけれど、ただ、ジョーがその日在宅しているかどうかまではわからないと気遣わしそうに言った。
私はそれでも構わないと微笑んだ。
ジョーの予定までは知らないし、知らなくていい。
わざわざ時間を合わせて会うようなものでもないからと博士にそう言った。ただ、本当にひとこと挨拶したいだけだからと。

思えば、2月14日に彼に会おうなんて無謀な賭けだった。

ジョーのマンションに着いてから思った。

こんな日に彼が在宅しているわけがない。
彼に恋人がいるのかどうか、知らないけれど――F1パイロットなのだ。もてないわけがない。予定があって当然だった。

何度押してみても答えてくれないブザーに私は肩をすくめ、しばらく逡巡したのちに少しだけ待ってみることに決めた。
飛行機の時間と相談しながら。

 

チョコレートはバッグからすぐ取り出せるところにしまってある。
テレビに映っていたような有名店のものではなく、近くのスーパーで買ったもの。
でも、食べてみて一番美味しいと思ったものだった。

そう――軽い気持ちだったのに、何故か私は段々と高揚していたのだった。
メンテナンスの合間に近くのスーパーに通って、幾種類もあるチョコレートを買い集めて試食して。何度も何度も。
日本の女の子の気持ちがちょっとだけ、わかった。
チョコレートを渡すという行為は、自分の気持ちを渡すというのと同意なのだ。
だから、どきどきする。
どんな顔をするのだろう、受け取ってもらえるだろうかと切なくなる。

私はジョーの顔を思い浮かべた。
しばらく会っていないから、全然思い出せないわ。ジョーなんか。

少し明るい茶色の髪とか。
まっすぐ見つめる視線とか。
時々、悲しげな色に染まる褐色の瞳とか。
こちらに伸ばされる手の温かさとか。
フランソワーズ、って名前を呼ぶとき、少し戸惑ったように聞こえる声とか。

まったくもって、全然思い出せない。

ほんとよ?

 

 

 

 

それからしばらくして、ジョーが帰って来た。飛行機の時間と照らすとぎりぎりの時間だった。
さて、どんな顔をしよう?
すぐ渡せるようにチョコレートを手に持って、さあ声をかけよう――と、したのだけど。

私は慌ててエントランスの脇の宅配ボックスエリアの陰に身を潜めた。

だって。

ジョーは一人じゃなかったのだ。

彼は数歩進むと、ちょっと立ち止まって――背後を気にした。
後ろからは数人の女性が続いていて、ジョーに追いつくと大きく笑い合った。きらきらした笑顔だった。
そのままふざけあうかのように通り過ぎて、そして――建物の奥に消えた。

エントランスホールにはまだ笑い声の名残があるようだった。
そんな気がした。

 

――私ったら、ばかみたい。

 

いったい何をしたかったんだろう。

 

・・・ばかみたい。

 

握り締めていたチョコレートの箱。少しつぶれてしまった。まるで私の思いと同じみたいに。

ジョーは忙しいひとなんだから。
それに、もてるし。
わかっていたはずなのに、心が波立って仕方なかった。
私・・・いったい何をしたかったんだろう。

ちらっとだけど、ジョーの姿を見る事ができて嬉しくなっている気持ちが余計に憐れだった。
我ながら、健気だと思う。
あまりに乙女すぎるようにも思う。

――でも。

 

私は。

 

ジョーに会いたかったのだ。

会いたくて、会いたくて、だから・・・。

 

 

帰りの飛行機の中でチョコレートを食べた。
一番美味しいのを選んだはずなのに、胸に詰まって仕方なかった。