「あなたの香り」
    「だっこして」 「いいよ」 と返事がきた。更には大きく手を広げて迎えてくれている。 だから私は躊躇いなく彼の胸におさまった。 私は言おうかどうしようか迷った。 ジョーの腕のなかは大好きなのに。 なのに。 いつものジョーのにおいに混じって知らない香りがする…なんて。 思えば、私たちはいつだってそういう危うい橋を渡ってきたのかもしれない。 ――あやふやでもいいと思っていた。 でも。 抱き締められる前には気付かなかった香り。 これは。 これは――知らないふりをしていたほうがいいのだろうか。 あるいは。 ジョーはわざと私の知らない香りをさせて私の反応を見ているのかもしれない。 とはいえ。 そうではなかった場合、ジョーは全く知らないでいるのだから、敢えて波風立てたりしないほうがいい。 ――どうしよう。 ジョーがちょっと腕を緩めて私の顔を覗きこんだ。 そこに何か答えが浮かんでいないかと私はただじっと彼の瞳を見つめていた。 「…何?」 照れたように笑うジョー。 あなたの真意はどこにあるの? ――この香水は誰のかしら? ――ううん、なんでもないの。 あるいは、どちらも言わず無言を通すのがいいのか。 いつもそう。 いつもそうだった。 そしてそれを我慢してばかり――いた。 でも今日はどうも我慢できないようだったし、もしかしたらそろそろ我慢はやめなさいとそういうことなのかもしれない。 そんなの、もうできない。 「やっぱりにおう?」 そう言って、ジョーは鼻の頭に皺を寄せた。 「取れないんだよ、ずっと」 どうかな、って…? 「昨夜からずっとだから、すっかり嗅覚がおかしくなってね。もうにおいがするんだかしないんだかわからないんだ」 …昨夜、から。 女ものの香水なのよね、これ。 と、いうことは。 隠しもしないということは―― 「…そうね」 確かに抱き締められるまではわからなかった。 やっぱりジョーは私を試したの? ううん。 それとも、その逆で、わざと――他の女性の存在を知らせようとした? 「…そうね」 ここに来るまでジョーがどういう経路をとったのか知らないけれど、でも道行くひとはそう思うでしょうね。 「どう思う?」 どう、って? 「好きかな」 好き? 「どうかな、フランソワーズ」 私はジョーの腕から逃れようと身体を離した。が、ジョーは腕を緩めてはくれなかった。 「ジョー、離して」 …三ヶ月くらいだったかしら。 「でも」 このままジョーのにおいと知らない香りが混じったまま抱き締められているのは苦痛だった。 「でも…」 イヤなの。 「フランソワーズ?」 不覚にも涙が滲んできた。 でも。 昨夜から一緒だったひとがジョーにはいる。そして、そのひとと別れたその足で私を迎えに来たのね? 不意にジョーの腕が緩んだ。両肩を掴まれ、心配そうな瞳が視界を占領した。 「ごめん、ちょっと腕に力が入りすぎたかもしれない。痛かった?」 心が。 「ごめん。…駄目だなぁ、つい」 ジョーは名残惜しそうに腕を離すと照れたように頭を掻いた。 「いや、その、…久しぶりだから」 さあ行こう、とジョーは傍らに置きっぱなしだった私のスーツケースを手にとった。 「うん?どうかした、フランソワーズ」 このまま日本に滞在なんてできない。 「ジョー。あの、訊きたいことがあるの」 胸のもやもやを抱えたままなんて無理だ。 「うん?車のなかで聞くよ」 場合によっては、私はこのままパリに帰るのだから。 ジョーは真顔になって私に向き合った。 「どうしたんだい?」 胸が詰まる。 「す、好きじゃないの。ああいう香りは」 「――そうか」 私も他に言うことがなくて黙っていた。 ジョーは何を思っているのだろう。 失敗。何の? そんなの。 そんなの、そんな呑気そうにする話じゃないでしょう。 「――無理」 ジョーはあっさり言うと私の手を引いた。 「じゃあホテルに泊まるしかないな」 私はジョーの手を振り払った。そして彼の手からスーツケースをもぎとると踵を返した。 「えっ、ちょっとフランソワーズ」 声が追ってきたけれど関係ない。 「フランソワーズ」 でも彼から離れるなんて無理な相談で、あっという間に腕を掴まれてしまった。 「いったいどうしたっていうんだ」 いいじゃない、他にいいひとがいるならそのひとと一緒にいれば。 「怒らなくてもいいだろう」 悲しいだけ。 「だってしょうがないだろう、知らなかったんだから。あの香水が嫌いだなんて」 ジョーがため息をついた。 「てっきり好きなんだと思ってたから。――ホラ、前にパリでサンプルを貰っただろう?そうしたらいい匂いねって言ってたから、てっきり好きなもんだと――」 今は好きじゃない。 「新作だって言ってたから、クリスマスプレゼントにちょうどいいと思ってたんだけど、しょうがない。別のにするよ。ま、とはいっても昨夜うっかり割っちゃったから無いんだけどね。それにしても参ったよ。大変だったんだぜ、昨夜。割れたら部屋じゅうに匂いが広がって一晩中換気してたんだ。身体にかかったから風呂にも何回も入って、洗濯もして。いちおうクリスマスプレゼントだから秘密にしておこうと思ってたし匂いをさせて会うわけにいかないだろう?あ、でも、結果オーライか。嫌いな匂いだったわけだしそんなのプレゼントしなくてすんだわけだし、――うん?フランソワーズ、どうかした?」  
   
       
          
   
         と言ったら、あっさり
         ぎゅっと抱き締められると安心する。
         彼のにおい。彼の温かさ。腕のちから。
         「…ジョー」
         「うん?何?」
         「……うん……あの、」
         抱き締められるのも大好きなのに。
         落ち着かない以上に胸の奥がもやもやしてくる。
         でも、それを指摘してもいいものなのだろうか。
         なんというか、そう…言ったら全てがおしまいになってしまうような気がする。
         はっきりしたものは何もなくて。常にあるのは混沌とした思い。
         混沌とした未来。
         いま現在立っている場所もはっきりしないから、だから余計にあやふやなのかもしれない。
         一緒にいられるなら、それでいいと。
         距離が詰まったら気がついた香り。
         ジョーのにおいと違う。
         だとすれば、これは知らないふりなんかしてはいけないのではないだろうか。
         だって知らないふりをしてしまえば、私はジョーに対して興味がないということになってしまう。
         彼が誰とどうしようがどうでもいいと、そうとられてしまうかもしれない。
         もしも指摘したら彼はさぞや慌てるしきまりの悪い思いをするだろう。
         今までフランソワーズはそういう事は言わなかったのに――と。
         穏便にすませたいなら、私のとるべき行動は知らん振りをすることだろう。が、もしもジョーの目論見が前者であった場合は私が困る。だって、ジョーに興味がないなんてそんなことは絶対にないのだから。
         「フランソワーズ、どうかした?」
         茶色い瞳。
         憂いを含んだまなざし。
         
         私はどちらを言うのが正解?
         けれども私の胸のもやもやはだんだん大きくなってしまって、黙っているのが辛くなってきた。
         だから決めた。
         もしこれでジョーとの仲がこじれるようなことになっても後悔しない。
         いま言わなければ私はずっとあやふやなもやもやした思いを抱えたままでいることになる。
         「ジョー、あの」
         えっ?
         「参ったよなぁ」
         「ずっと、って…」
         「これでも大分におわなくなったんだけど、…そう思うんだけど、どうかな」
         だから。
         「でも、こうして近くに来るまでわからなかったってことはそんなににおわないってことだよね?」
         でも、そんな香りを纏っていることを知っていながら、私を抱き締めるなんて。
         「良かった。女ものの香水のにおいをぷんぷんさせてたらとんだ男だと思われる」
         ただ、道行くひとはどうでも、今は私がそう思っているけれど。
         「何が?」
         「この香り」
         いったい私に何を言えと?
         いったい何を言い出すの?
         「どう、って…」
         「どうして」
         「苦しいの」
         「そんなに強くしてないよ。いつもと同じだろ」
         「でも」
         「だっこしてって言ったのはフランソワーズのほうだろう」
         「だけど」
         「イヤだ。何ヶ月会ってないと思ってるんだい」
         ジョーの腕のなかにいるのは大好きだけど、でもイヤなの。
         どうかしてる。――こんなことくらいで。
         という事実はちょっと…辛かった。
         「フランソワーズ、どうかした?」
         「…ええ、ちょっと」
         車をこっちに止めてあるんだと歩き出そうとしたジョー。
         その彼のジャケットの裾を掴んだ。
         「今じゃなきゃ駄目なの」
         いま日本に来たばかりだというのがなんともやりきれないところだけど。
         ただならぬ私の気配を察したのだろう。
         「あの、さっきの香水のことだけど」
         「ああ。…気に入らなかった?」
         「…気に入らない、わ」
         ジョーはそう言って黙った。
         怖くて顔を見ることができず、私は自分のブーツの爪先だけ見ていた。
         途中、気がついてジョーのジャケットを握っていたのを離した。
         途端に手持ち無沙汰になった。
         何か大事なものを手放したかのような、そんな気にもなった。
         「――失敗したなぁ」
         ジョーの声。
         何を?
         「昨夜からずっと失敗ばかりだ、参ったな」
         昨夜のことなんて知らない。私には関係ない。
         「そもそも内緒のつもりだったんだよな」
         心臓がひとつ強く打った。
         「でも、そりゃ気付くよなぁ。参ったな。しかも好きじゃないなんてさ」
         ジョーの呑気ともとれる独り言が続く。
         でも私は呑気とは随分遠いところにいた。独りぼっちで。
         「あのさ、フランソワーズ。これから乗る車とそれから僕の部屋もこの香水のにおいがすると思うんだけど耐えられる?」
         耐えられるかどうかそれを訊くの?
         それってつまり、他の女性の痕跡があるけどいいかってそういうことでしょう?
         ジョーはそんなひとじゃなかったはず。会わなかった三ヶ月の間にそんなひとになっちゃったの?
         「だよなぁ。嫌いなにおいじゃしょうがない」
         「行かない」
         「えっ?でも…」
         「帰る」
         「帰る?今来たばかりなのに?」
         私は構わずどんどん歩いた。パリ行きの便があるかどうか知らないけれど、ともかくジョーから離れたかった。
         「…帰りたくなったの」
         「今来たばかりじゃないか」
         「…だって」
         そして昨夜からの失敗とやらを挽回すればいい。
         「怒ってないわ」