「あなたの香り」

 

 

「だっこして」


と言ったら、あっさり

「いいよ」

と返事がきた。更には大きく手を広げて迎えてくれている。

だから私は躊躇いなく彼の胸におさまった。
ぎゅっと抱き締められると安心する。
彼のにおい。彼の温かさ。腕のちから。


「…ジョー」
「うん?何?」
「……うん……あの、」

私は言おうかどうしようか迷った。

ジョーの腕のなかは大好きなのに。
抱き締められるのも大好きなのに。

なのに。

いつものジョーのにおいに混じって知らない香りがする…なんて。
落ち着かない以上に胸の奥がもやもやしてくる。
でも、それを指摘してもいいものなのだろうか。
なんというか、そう…言ったら全てがおしまいになってしまうような気がする。

思えば、私たちはいつだってそういう危うい橋を渡ってきたのかもしれない。
はっきりしたものは何もなくて。常にあるのは混沌とした思い。
混沌とした未来。
いま現在立っている場所もはっきりしないから、だから余計にあやふやなのかもしれない。

――あやふやでもいいと思っていた。
一緒にいられるなら、それでいいと。

でも。

抱き締められる前には気付かなかった香り。
距離が詰まったら気がついた香り。
ジョーのにおいと違う。

これは。

これは――知らないふりをしていたほうがいいのだろうか。

あるいは。

ジョーはわざと私の知らない香りをさせて私の反応を見ているのかもしれない。
だとすれば、これは知らないふりなんかしてはいけないのではないだろうか。
だって知らないふりをしてしまえば、私はジョーに対して興味がないということになってしまう。
彼が誰とどうしようがどうでもいいと、そうとられてしまうかもしれない。

とはいえ。

そうではなかった場合、ジョーは全く知らないでいるのだから、敢えて波風立てたりしないほうがいい。
もしも指摘したら彼はさぞや慌てるしきまりの悪い思いをするだろう。
今までフランソワーズはそういう事は言わなかったのに――と。
穏便にすませたいなら、私のとるべき行動は知らん振りをすることだろう。が、もしもジョーの目論見が前者であった場合は私が困る。だって、ジョーに興味がないなんてそんなことは絶対にないのだから。

――どうしよう。


「フランソワーズ、どうかした?」

ジョーがちょっと腕を緩めて私の顔を覗きこんだ。
茶色い瞳。
憂いを含んだまなざし。

そこに何か答えが浮かんでいないかと私はただじっと彼の瞳を見つめていた。

「…何?」

照れたように笑うジョー。

あなたの真意はどこにあるの?

――この香水は誰のかしら?

――ううん、なんでもないの。


私はどちらを言うのが正解?

あるいは、どちらも言わず無言を通すのがいいのか。
けれども私の胸のもやもやはだんだん大きくなってしまって、黙っているのが辛くなってきた。

いつもそう。

いつもそうだった。

そしてそれを我慢してばかり――いた。

でも今日はどうも我慢できないようだったし、もしかしたらそろそろ我慢はやめなさいとそういうことなのかもしれない。
だから決めた。
もしこれでジョーとの仲がこじれるようなことになっても後悔しない。
いま言わなければ私はずっとあやふやなもやもやした思いを抱えたままでいることになる。

そんなの、もうできない。


「ジョー、あの」

「やっぱりにおう?」


えっ?


「参ったよなぁ」

そう言って、ジョーは鼻の頭に皺を寄せた。

「取れないんだよ、ずっと」
「ずっと、って…」
「これでも大分におわなくなったんだけど、…そう思うんだけど、どうかな」

どうかな、って…?

「昨夜からずっとだから、すっかり嗅覚がおかしくなってね。もうにおいがするんだかしないんだかわからないんだ」

…昨夜、から。

女ものの香水なのよね、これ。
だから。

と、いうことは。

隠しもしないということは――


「でも、こうして近くに来るまでわからなかったってことはそんなににおわないってことだよね?」

「…そうね」

確かに抱き締められるまではわからなかった。
でも、そんな香りを纏っていることを知っていながら、私を抱き締めるなんて。

やっぱりジョーは私を試したの?

ううん。

それとも、その逆で、わざと――他の女性の存在を知らせようとした?


「良かった。女ものの香水のにおいをぷんぷんさせてたらとんだ男だと思われる」

「…そうね」

ここに来るまでジョーがどういう経路をとったのか知らないけれど、でも道行くひとはそう思うでしょうね。
ただ、道行くひとはどうでも、今は私がそう思っているけれど。

「どう思う?」
「何が?」
「この香り」

どう、って?
いったい私に何を言えと?

「好きかな」

好き?
いったい何を言い出すの?

「どうかな、フランソワーズ」
「どう、って…」

私はジョーの腕から逃れようと身体を離した。が、ジョーは腕を緩めてはくれなかった。

「ジョー、離して」
「どうして」
「苦しいの」
「そんなに強くしてないよ。いつもと同じだろ」
「でも」
「だっこしてって言ったのはフランソワーズのほうだろう」
「だけど」
「イヤだ。何ヶ月会ってないと思ってるんだい」

…三ヶ月くらいだったかしら。

「でも」

このままジョーのにおいと知らない香りが混じったまま抱き締められているのは苦痛だった。

「でも…」

イヤなの。
ジョーの腕のなかにいるのは大好きだけど、でもイヤなの。

「フランソワーズ?」

不覚にも涙が滲んできた。
どうかしてる。――こんなことくらいで。

でも。

昨夜から一緒だったひとがジョーにはいる。そして、そのひとと別れたその足で私を迎えに来たのね?
という事実はちょっと…辛かった。


「フランソワーズ、どうかした?」

不意にジョーの腕が緩んだ。両肩を掴まれ、心配そうな瞳が視界を占領した。

「ごめん、ちょっと腕に力が入りすぎたかもしれない。痛かった?」
「…ええ、ちょっと」

心が。

「ごめん。…駄目だなぁ、つい」

ジョーは名残惜しそうに腕を離すと照れたように頭を掻いた。

「いや、その、…久しぶりだから」

さあ行こう、とジョーは傍らに置きっぱなしだった私のスーツケースを手にとった。
車をこっちに止めてあるんだと歩き出そうとしたジョー。
その彼のジャケットの裾を掴んだ。

「うん?どうかした、フランソワーズ」

このまま日本に滞在なんてできない。

「ジョー。あの、訊きたいことがあるの」

胸のもやもやを抱えたままなんて無理だ。

「うん?車のなかで聞くよ」
「今じゃなきゃ駄目なの」

場合によっては、私はこのままパリに帰るのだから。
いま日本に来たばかりだというのがなんともやりきれないところだけど。

ジョーは真顔になって私に向き合った。
ただならぬ私の気配を察したのだろう。

「どうしたんだい?」
「あの、さっきの香水のことだけど」
「ああ。…気に入らなかった?」
「…気に入らない、わ」

胸が詰まる。

「す、好きじゃないの。ああいう香りは」

「――そうか」


ジョーはそう言って黙った。

私も他に言うことがなくて黙っていた。

ジョーは何を思っているのだろう。
怖くて顔を見ることができず、私は自分のブーツの爪先だけ見ていた。
途中、気がついてジョーのジャケットを握っていたのを離した。
途端に手持ち無沙汰になった。
何か大事なものを手放したかのような、そんな気にもなった。


「――失敗したなぁ」


ジョーの声。

失敗。何の?
何を?


「昨夜からずっと失敗ばかりだ、参ったな」


昨夜のことなんて知らない。私には関係ない。


「そもそも内緒のつもりだったんだよな」


心臓がひとつ強く打った。


「でも、そりゃ気付くよなぁ。参ったな。しかも好きじゃないなんてさ」


ジョーの呑気ともとれる独り言が続く。
でも私は呑気とは随分遠いところにいた。独りぼっちで。


「あのさ、フランソワーズ。これから乗る車とそれから僕の部屋もこの香水のにおいがすると思うんだけど耐えられる?」


耐えられるかどうかそれを訊くの?
それってつまり、他の女性の痕跡があるけどいいかってそういうことでしょう?

そんなの。

そんなの、そんな呑気そうにする話じゃないでしょう。
ジョーはそんなひとじゃなかったはず。会わなかった三ヶ月の間にそんなひとになっちゃったの?

「――無理」
「だよなぁ。嫌いなにおいじゃしょうがない」

ジョーはあっさり言うと私の手を引いた。

「じゃあホテルに泊まるしかないな」
「行かない」
「えっ?でも…」
「帰る」
「帰る?今来たばかりなのに?」

私はジョーの手を振り払った。そして彼の手からスーツケースをもぎとると踵を返した。

「えっ、ちょっとフランソワーズ」

声が追ってきたけれど関係ない。
私は構わずどんどん歩いた。パリ行きの便があるかどうか知らないけれど、ともかくジョーから離れたかった。

「フランソワーズ」

でも彼から離れるなんて無理な相談で、あっという間に腕を掴まれてしまった。

「いったいどうしたっていうんだ」
「…帰りたくなったの」
「今来たばかりじゃないか」
「…だって」

いいじゃない、他にいいひとがいるならそのひとと一緒にいれば。
そして昨夜からの失敗とやらを挽回すればいい。

「怒らなくてもいいだろう」
「怒ってないわ」

悲しいだけ。

「だってしょうがないだろう、知らなかったんだから。あの香水が嫌いだなんて」

ジョーがため息をついた。

「てっきり好きなんだと思ってたから。――ホラ、前にパリでサンプルを貰っただろう?そうしたらいい匂いねって言ってたから、てっきり好きなもんだと――」

今は好きじゃない。

「新作だって言ってたから、クリスマスプレゼントにちょうどいいと思ってたんだけど、しょうがない。別のにするよ。ま、とはいっても昨夜うっかり割っちゃったから無いんだけどね。それにしても参ったよ。大変だったんだぜ、昨夜。割れたら部屋じゅうに匂いが広がって一晩中換気してたんだ。身体にかかったから風呂にも何回も入って、洗濯もして。いちおうクリスマスプレゼントだから秘密にしておこうと思ってたし匂いをさせて会うわけにいかないだろう?あ、でも、結果オーライか。嫌いな匂いだったわけだしそんなのプレゼントしなくてすんだわけだし、――うん?フランソワーズ、どうかした?」