「消えない」
「フランソワーズ」 思わず背筋が伸びた。 名前を呼ぶのは、私に用事があるわけだから。 そう思いながら、笑顔を作って、でも少し申し訳なさそうな顔をして振り返った。 ジョーは手の中の車のキーを弄びながら言う。 「ええ。憶えているわ。もう行くの?」 玄関で靴を履いていると、廊下から足音が聞こえてきた。 「ああ、良かったアルよ。買出しに行くなら、」 張々湖だった。 私は――正直な話、地に埋まってしまうくらいがっかりしていた。 なのに。 きっと「買出しに行くなら一緒に乗せて行け」って言うのよ。 そうして私は再び落ち込んでしまった。 私ったら、なんて自分勝手な嫌な子なんだろう。 だってしょうがないじゃない。 しょうがない・・・じゃない。 ・・・一緒に行かなくていいのかしら。 問うようにジョーの顔を見つめる。 そして、私たちは彼に見送られながらギルモア邸を後にした。
あんなに呼んで欲しかったのに、いざ名前を呼ばれるようになると慣れなくて困る。
ジョーの声で、名前を呼ばれる。
ただそれだけのことが、嬉しくてくすぐったくて、そして――
だから、振り返ればそこには必ずジョーがいて、私の方を見つめているだろう。
それがわかっているから、振り返る前に必ず一回深呼吸してしまう。
そうしないと落ち着かない。
「フランソワーズ?」
ああ、ごめんなさい。
焦れたようなジョーの声に今度は慌てる。
なんだか少し険を含んでいるようで首をすくめてしまう。
怒っているのかしら。怒られるのかしら。
でも――ジョーに「こら」って言われるのもなんだかくすぐったいわ。
「・・・フランソワーズ」
あ。
続けて3回呼ばれた。
これって新記録かもしれない。
そして、思っていたよりも近くにジョーがいて驚いた。
「おっと」
ジョーが身体を引く。
あやうく頭突きをしてしまうところだった。
「ごめんなさいっ」
顔が赤くなる。
だって、真後ろにいるなんて思わなかったのだもの。
「さっきから呼んでたのに聞こえなかった?」
「え。あ――ごめんなさい」
「今日、僕たちは買出し当番だったろう?憶えてる?」
「都合悪い?」
「ううん、大丈夫」
ジョーと一緒の当番を忘れるわけがない。だって、ずっと指折り数えて待っていたんだもの。
忘れないように、自分の部屋のカレンダーに小さく丸印をつけて。
「すぐ行けるわ」
「そう?」
ジョーの後について玄関に向かいながら、私は「ジョーとふたりっきり」という状況に頬が緩んできてしまうのをどう隠そうか困っていた。だって、車の中でこんな風にずっとにやにやしているわけにはいかないじゃない。
だって、せっかく――せっかく、ジョーと二人っきりで出かけられると思っていたのに。
ミッション以外で公然と出かける機会なんて滅多にないから、すっごく楽しみにしていたのに。
そしてジョーは何の屈託もなく「いいよ」って言うに違いなくて――
「え、ええと――い」
私は何とか気持ちを落ち着かせて、「いいわよ」って言いかけた。
「じゃあ、そのメモを貸して」
ジョーの声が響く。
「そこに書いてあるんだろう、買ってくるもの」
「そうアルよ。でもあんさんにわかるだろうか」
「大丈夫。フランソワーズがいるんだから。ね?フランソワーズ」
「えっ・・・ええ」
張々湖は私にメモを差し出した。
ジョーは毅然とした表情を崩さず、じっと張々湖を見つめていた。
「なんとかなるよ。――そうだよね。張々湖」
なんだか妙に緊張した空気の玄関ホール。
張々湖が目元に笑みを浮かべて重々しく頷いた。