今度こそ赤ずきんの後ろ姿を見送り、狩人ジョーは深いため息をついた。


赤ずきん。

フランソワーズ。


こうして名前を呼ぶだけで胸の奥が痛くなる。
いったい、いつからだろう。こんなに彼女に焦がれるようになったのは。

ジョーが彼女の姿を思い浮かべる時はいつも森の中の赤い影だった。
緑色のなかの鮮やかな赤い色。ぽつんと灯るそれは、どこにいてもどこからでもすぐにわかった。
危険だなと思った。
普通はむしろ、森に溶け込むような色を身につける。それが身を守るための基本的な手段である。
なのに彼女はわざと補色を身に付けている。

目立ちたいのだろうか。しかし、何に対して?

ジョーには解せなかった。
解せないから、無視しようと思った。あんな格好で森に入るなど何が起きても自業自得である。関係無い…と。

しかし。

目の前をちらちらと横切る赤いずきんの女の子。
見かける時は大抵道に迷っている。夢中で蝶を追いかけたり、花を摘んでいるうちに道を外れたり。普通は一刻も早く森から抜けたいはずである。狩りを生業にしているジョーのような者ならともかく。なのに赤ずきんは。
なぜかいつも森にいる。
そして、目の前をふらふらしているのだ…

赤ずきんの姿を探し、常に視界に入れていたのは自分の方だとジョーが気づいた時には、もう手遅れだった。
ジョーはすっかり赤ずきんに心を奪われていたのである。


女性に免疫がなかったわけではない。
むしろ、狩人ジョーの伴侶希望者はたくさんいた。近隣の村の娘たちや、同業の女性。ジョーの棲家には料理の差し入れは常にあったし、洗濯や掃除をやりたがる者も後を絶たない。だからジョーは、いずれその中の誰かと所帯を持つのだろうと漠然と思っていた。赤ずきんに出会うまでは。

おそらく一目惚れだったのだろう。

狩りのさいちゅうに自分の仕事を忘れた。赤ずきんを初めて見た時のことだ。
獲物は久々の大物、大きな鹿だったのに。狙いを定め、あとは矢を放つだけというその刹那、息せききった赤ずきんが現れたのだ。

泣きそうな顔で、ああよかったと言った。
ジョーは矢を放てなかった。
そのままへたりこんだ赤ずきん。聞けば、何かに追いかけられ必死に逃げてきたのだという。
滅茶苦茶に走るうちにすっかり道に迷い、得体の知れない者に追いかけられている怖さとこのまま森から出られなかったらという二重の恐怖に怯えていた。

「そんな目立つ格好しているのが悪い」

赤いずきんが金髪と白い肌に凄く似合っているとは言えなかった。


あの時、赤ずきんが何と答えたのか覚えていない。
ただ、瞳が蒼いのと声が耳に心地よかったことだけ覚えている。
ああそれから、少し頬を膨らませつんと目を逸らしたから、自分が何か言ったことに怒るか何かしたのかもしれない。

残念ながら、何を話したのか全く覚えていないジョーである。

その時の赤ずきんフランソワーズの姿や仕草は全て覚えているというのに。

 


 

 

祖母の家に続く道を歩きながら、赤ずきんは不機嫌だった。


「まったく、何なの」

ジョーのばか。
せっかくのアップルパイが冷えてゆく。彼が好物だと言っていたから、焼いてきたのだ。

狩人ジョー。

赤ずきんは森の中のことならなんでも知っていた。もちろん、狩人ジョーが動き回る範囲も。
彼が歩く道、好んで立ち寄る場所、お気に入りの狩り場。すべて知っている。ずっと前から。だから、彼の行く先々に姿を現すことなど容易いことだった。
彼の視界に常に自分の姿を入れておく。相手に自分を認識させ印象づける高等テクニックであった。しかも、あくまでも偶然かつ無邪気を装うことを忘れずに。
フランソワーズは森に不案内な様子を保つことにし、成功した。
なんとしてもジョーに自分を知って欲しい一心だった。

そもそもどうしてそんなにジョーに焦がれたのか。

きっかけは些細なことだった。

腕が良く無慈悲に狩ることで有名な狩人ジョー。しかし、ある日見かけた彼は自らが狩った獣のそばに膝を折り涙していたのだ。人は、そんな狩人など女々しいと笑うかもしれない。しかし赤ずきんにはそう見えなかった。
孤高の狩人だけれども無慈悲ではない。己のために落とした命を尊重し、狩る人なのだ。
本当の彼はどんなひとなのか、知りたくてたまらなくなった。そして今、軽口を叩き合うくらいには仲良くなったつもりだったのだが。

ジョーの態度ははっきりしなかった。

たぶん、嫌われてはいないだろう。少しは好かれている。そのくらいの確信はあった。
が、そこまでなのだ。
ほんの少しの好意が、果たして恋からきているものなのかどうかわからない。優しくしたと思うと翌日にはそっけなく接する。かと思うと、あの満月の晩のように窮地を救ってくれる。夜中になぜ家のそばにいたのか、誤解したくなるくらいに。

なのに。

助けてくれたのはたまたま狩りの途中で通りすがっただけ。狼のような匂いがしたから。

そう真顔で告げられたら、ああそうなのかと納得するしかないではないか。
今日だってそうだ。行くなと言ったり早く行けと言ったり。態度があやふやなのは、もしかしたら既婚者だからなのかもしれない。

そこまで考え、ふと足を止めた。

振り返る。

祖母の家まてはあと少し。が、いま戻ればそこにはジョーがいるのだ。
さっきの彼の態度は何を意味していたのか、知りたい。

本当に本当は、自分を待ち伏せしていたのでは…?

猛烈に確かめたくなった。

いま戻ればそこにはきっとジョーがいる。狩りに来ただけだなどと言っていたがそんなの嘘に決まっている。
今日、赤ずきんが祖母の家に行くことはジョーは知らなかっただろう。けれど。この辺りに今日もいるだろうと予測するのは容易だ。赤ずきんがそうさせた。今までいたずらに道に迷っているふりをしてきたわけではない。赤ずきんがいつも迷うパターン、迷いやすい地形。それらがわかるひとにはわかるように描いてきた。そして、それがわかるひとというのはつまり、森のなかで生計をたてるジョーのようなひとに他ならないのだ。

だから。

今日、彼に出会ったのは決して偶然ではない。彼は自分に会うために、今日あの場所にいたのだ。待ち伏せしていたのだ。だったら。さっきのようにあっさり別れてすぐに立ち去るはずがない。なぜなら、自分もいまこうしてジョーに会いたくなっているのだから。

赤ずきんフランソワーズは来た道を戻った。小走りに。

今日こそは素直になれる。きっと、素直に気持ちを伝えられる。そうでなくては、今朝早起きして作ったアップルパイが可哀想ではないか。

きっと、ジョーはまだあの場所にいる。

いや。

もしかしたら、彼もこちらに向かっているかもしれない。見つめあった時、彼の瞳の奥に煌めいたのは愛だったかもしれないのだ。いや、確かに愛だった。

フランソワーズは笑みを浮かべ、ジョーを思いながら駆けた。

 

が。

 

不意に足を止めた。

「そんなわけ、ないわ…」

全ては勝手な思い込みだ。今まで、それらしい態度や言葉がひとつでもあっただろうか。

ない。

視線のひとつさえ、ない。

あれば、絶対に見逃さないし間違えないだろう。赤ずきんはそのへん目敏いし見聞きするものを逃さない自信もあった。だから、今のこの気持ちはただの一方的な片想い。勝手な誤解だ。もしもジョーが赤ずきんに対してそういう気持ちがあるのなら、ジョーの方が追いかけてくるべきではないのか?

追いかけてはいけない。自分からは。

「は…っ、ばかみたい、わたし…」

戻ったところでそこにはジョーはいない。


「誰もいないところに行ってどうするつもりだったの…?」