「銭湯LOVE SIDE J」

 

 

 

部屋に風呂がついていない。

初めて部屋を見に行って、その事実にジョーはさてどうしたものかと考え込んだ。
ツテのツテを辿って、なんとか保証人が要らない賃貸物件をみつけたのだ。しかも家賃は格安である。立地もふたりの希望に沿っていたし(こじんまりとして周囲に埋没し目立たないという)日当たりは良好。大家は気の良い老夫婦である。
ジョーとしては申し分ないと思ったし、殆ど即決でいい気持ちだった。
が、しかし。
女性にとって、部屋に風呂がついていないというのはおそらく大問題だろう。
そう思って、部屋のなかをもの珍しそうにあちこち見て回っている(と言っても狭いので見るところは殆どないが)フランソワーズをじいっと見た。


「なあに?ジョー」
「いや……別のところも見るよね?」
「あら、どうして?」
「どうして、って……」

ジョーは彼女のそばに寄ると耳元で小さく言った。

「不動産屋さんがいるからって気を遣わなくてもいいんだよ?」

するとフランソワーズはきょとんとジョーを見た。

「遣ってないわ。ここ、本当に気に入ったのよ」
「いや、でも」

風呂がついてない。

まさか気付いてないということはないだろう。
さっきから、可愛いキッチンだのトイレは水洗なのねなどとチェックしていたのだから。
風呂だけ見落としていることは絶対にあるまい。
ではなぜ、単純な質問をしないのだろう。ジョー、お風呂はどこにあるのと。

摩訶不思議なフランソワーズを見つめ、ジョーがその質問を口にしようとしたとき。

「今度はお風呂は別々ね」

フランソワーズがにっこり笑ってそう言った。

 

***

 

どうやら事前にネットで調べて知っていたらしい――とジョーが知ったのは、その日の夜だった。

ギルモア邸に帰る道すがら、銭湯が近いのよねとかお風呂が大きいんでしょうとか色々見知った知識を披露してくれたのだ。
他人と一緒に風呂に入るという文化ではないフランソワーズが銭湯に対しどんな反応をするのかジョーは戦々恐々としていたのだが、杞憂だったようだ。
むしろ、楽しみにしているようでもある。
大人も子供も一緒に入るのでしょう、楽しそうねとか、お風呂上りにはイチゴ牛乳を飲むきまりなのでしょうとか実に楽しそうに、どこか見知らぬアトラクションに行くようなそんなノリで瞳を輝かせていた。

だからジョーはすっかり安心して、引っ越したその夜、さっそく銭湯に向かったのだった。

 

「忘れ物はないかい?」
「ええ。たぶん……シャンプーとリンスと、ボディソープとタオルと着替えと……あと小銭」
「タオルは風呂に入れちゃダメだよ」
「はい、先生」

並んで歩きながら最終チェックをするのも、どこか弾んでいるフランソワーズだった。
いよいよ男湯と女湯に別れる段になって、じゃあねジョーとあっさり暖簾をくぐって行ってしまいそうなフランソワーズに慌てたのはジョーのほうだった。

「ちょっと待ってフランソワーズ」
「え。なあに?」
「風呂から出る時だけど、」
「ええ。ここで待ち合わせでしょう?」
「そうだけど。その――」

出る時、合図したほうがいいかな――と聞きたいが、聞けないジョーである。
何しろ、それは男湯でやるのはちょっと――いや、かなり――恥ずかしいのだ。女湯に合図を送る、なんてことは。しかし、フランソワーズは銭湯初体験なのだ。やはり心配が募る。

「ジョーは大きいお風呂、好きでしょう?ゆっくりしてていいわよ?私もゆっくり入りたいから」
「あ、ウン……そうか。そうだね」
「そうよ。フフ。じゃあ、あとでねジョー」
「うん。あとで……」


そうしてそれぞれ風呂に向かった。

 

***

 

フランソワーズが言う通り、ジョーは元々大きい風呂が好きだった。
もちろんギルモア邸にある風呂も決して狭くは無い。
が、温泉や銭湯といった広い浴槽につかるのが嫌いな日本人は少ないはずだった。だから、久しぶりの風呂に普段彼が入浴に要するより余分に時間をかけたのは仕方のないことだったろう。
体感ではそう長風呂のつもりは決してなかった。
しかし、脱衣所に戻ってみればけっこう時間が経っていたのも事実であった。

フランソワーズはどうしているだろうか。
元々彼女も風呂好きなので、案外まだ風呂に入っているかもしれない。

ジョーはそんなことを思いながら着替え、髪はタオルで拭いただけで外に出た。

果たして、フランソワーズは外で待っていた。
その後ろ姿に遅くなってごめんと声をかけようとジョーが口を開いた時。
彼女がひとりではないことに気がついた。


「お風呂上りにはイチゴ牛乳って決まりじゃないの?」
「そうだよ。牛乳さ」
「いや麦茶だ」
「なんでもいいんだよ。君はイチゴ牛乳が好きなの?」
「いいえ。飲むのは初めてなの」
「そうなんだ。――このへんのひとだよね?初めて見るけど」
「ええ。今日引っ越してきたの」
「へえ。近く?」
「ええ。歩いて5分くらい」
「じゃあ、毎日ここに通うんだ?」
「ええ。だってお風呂がないんだもの」
「えっ。今日はたまたま故障しているとかじゃなくて、無いの?」
「ええそうよ?」
「……た、大変だね」
「でも楽しいわ」
「そうなんだ……じゃあさ、これも何かの縁だし毎日時間を合わせて――うわっ」


大学生くらいの年頃だろうか。男性三人とフランソワーズは仲良くお喋りの最中であった。
ジョーは状況を把握するのに数分かかり、これはその数分の間に彼が聞いた会話である。
最後のうわっは、ジョーが彼らの視界に姿を現したことにより発せられた。

なぜか急に無口になり腰が引けている大学生たち。
フランソワーズが不審に思っていると、その肩に手がかけられた。


「あら、ジョー」
「ごめん。待ったかい?」
「ううん。イチゴ牛乳飲んでたから」
「そうか。――美味かった?」
「ええ。とっても。でもね、これって別に決まりじゃないみたいなの。さっき知り合った人が……あら?」

ジョーから視線を外し、さきほどの会話相手のほうを見ると既に誰もいなかった。

「消えちゃったわ」
「何か用事を思い出したみたいだよ?」
「ふうん……?」
「そんなことより。ダメだろ、個人情報をぺらぺら喋ったら」
「あらでも、子供たちよ?」
「……子供じゃないよ。大学生だよさっきのは」
「え。そうなの?」
「そうなの」

フランソワーズには中学生くらいの男子に見えたらしい。だからの無防備だったのかとジョーは思い、深くて大きなため息をついた。
彼女は日本にいて久しいとはいえ、今まで狭い世界だったのだと改めて思い知らされた。
多国籍な同居人が大勢いたとはいえ、孤立した洋館住まいだったのだ。こうして日本文化に触れ、日本人に囲まれる生活はジョーにとってはある意味物凄く危険なことなのかもしれない。

フランソワーズの肩に手を回し、自分の方に引き寄せた。

彼女の髪から漂うシャンプーの香り。
その髪が冷たかった。


「フランソワーズ。外に出てどのくらい経った?」
「え。ちょっとよ?イチゴ牛乳を飲むくらいの時間」


嘘をつけ。
そんなちょっとの時間で髪がすっかり冷たくなるなど有り得ない。

そう思ったと同時にジョーはあることに気がついた。
そして、気がついたと同時に頭に血が上った。


――そうだ、湯上りのフランソワーズっ!!


無防備だったのは自分のほうかもしれない。

今まで、湯上りのフランソワーズがギルモア邸内をふらふらしていたってどうってことはなかった。
あまりに薄着の場合はちょっと怒ったくらいで。
それでも、他の仲間とは年も離れているし、なによりジョーが怒るから彼女をからかうということもなかった。

だからすっかり忘れていた――油断していたのだ。

思わず唇を噛んだ。

呑気に風呂に入っている場合じゃなかった。

つまり、さっきの大学生たちがここで麦茶やら牛乳やらを飲んでたむろしていたときに、ひょいっとフランソワーズが姿を現したため――しかも湯上りのフランソワーズだ!――彼らはそのままそこに居続けたのだろう。
そして、おそらく湯上りのフランソワーズを堪能した。
ジョーのいない所で。


くっそう。


ジョーの頭のなかを湯上りフランソワーズの映像がぐるぐる回った。

頬を薔薇色に染め、シャンプーとソープの香りを漂わせたフランソワーズ。

露出している腕や首筋もほんのり上気していて、瞳は少し潤んでいる。

風呂上りのやや気だるい空気をまとったその姿は――

 

――ああもうっ!!

 

 

帰り道、銭湯が楽しかったというフランソワーズの話を上の空で聞き流しながら、ジョーは決意していた。

これから先、決してフランソワーズを待たせないと。

どんなことがあっても自分が先に出て待っていようと。


そう固く誓った。