「月9」

 

それは、とあるドラマを一緒に見ていた時のことだった。

テレビ画面は、ちょうどヒロインが帰宅したところを映していた。
アパルトマンの階段を昇りかけたところで、ヒロインは階下に住む世話好きの女性に「今、行かないほうがいい」と声をかけられる。険しい表情で。
それを軽く受け流し、鼻歌混じりで自分の部屋のドアを開けた。
目に飛び込んできたのは、ソファの上の自分の恋人と見知らぬ女性の姿。自分の恋人の上にのしかかっている女性は半裸だった。
ヒロインは棒立ちになり、持っていた紙袋を落とし――中からいくつものオレンジが転がった。

ジョーは、どうしてこんなドラマを一緒に見ちゃったんだろうなあと思いつつ、ちらりと横目で隣のフランソワーズを見た。
こういう展開の時、彼女がジョーをこの恋人に当て嵌めてあれこれ妄想をたくましくする・・・というのはいつものことだった。
フランソワーズは画面から目を離さず、小さく「アラ」と呟いた。
ドラマは進んでおり、ヒロインは引きとめようとする恋人に取り合わず泣きながら階段を駆け下りてゆく。そしてテロップが入った。
『この日から、二人が会うことはなかった』

「まあ。別れちゃったんだわ」

心底驚いたように言って、フランソワーズはじっとジョーの顔を見た。

「ん。なに?」

アナタはこういう事しないわよね――?と訊かれる事を想定し、ジョーは心の中で答えを組み立て、準備をした。

僕はそんな事はしないよ。――違うな。

僕ならもっと巧くやるよ。――ああッ、もっと違うっ!

蒼い瞳に見つめられているだけで、まだ何を訊かれた訳でもないのにジョーは必死だった。

大体、この僕がそんな事をする訳がないし、フランソワーズで手一杯なのに浮気なんてするはずが・・・

「ジョー?どうかしたの?」
「えっ」
「汗びっしょりよ?」
「えっ、あ」

額にじっとりと汗をかいていた。慌ててシャツの袖で拭う。

「何か暑いな。暖房、消そうか」
「ついてないけど?」

そうだった。
先刻、消したばかりだった。二人でくっついていると十分に暖かかったので。

「変なジョー」

くすりと笑って、やっと視線が外れ――ジョーは心の中で大きく息をついた。
テレビはCMが終わり、ドラマの続きが始まっていた。

場面は飛んで数年後の二人が映っていた。
元恋人の隣には妻。そして、自分はひとり。
ずっと夢中だった研究が認められ、国際学会で発表することになったが、思い出すのは昔の恋人だった。
そしてひとり、後悔の涙を流す――

「――ねぇ、ジョー?」
「うん?」
「このヒロインっておばかさんよね?」
「――えっ?」

なんだって?

フランソワーズがそんな事を言うのは珍しかった。ふだん、他人を中傷するようなことなど言わない。もし言うとすれば、それは全て「ジョーの悪口」だったし、それも実は「悪口」という形をとっているだけの愛情表現なのだから。

「だって、恋人を信じなかったからこうなっちゃったんでしょう?」
「・・・だけど浮気現場を見たんだから、信じるも信じないもないだろう」
「そうかしら?」
「そうなんじゃない」
「だったらジョーは、もし私がこんなことしてたら嫌いになる?信じられない?」
「え。・・・それは」

もしフランソワーズが他の男とこんなことをしていたら。そして自分がそれを見てしまったら。
フランソワーズを嫌いになるより何より、まず絶対にその相手を半殺しにする。それは確実だった。

「泣いて出て行っちゃう?このヒロインみたいに」
「まさか」

まったく何を言い出すのやら。

ジョーはフランソワーズの腰をそっと抱き寄せた。

「嫌いにならないよ。――ただ、すごく悲しい気持ちになるだろうなぁ・・・」

嫌いにはならない。恋人の不実を知っても、嫌いになんかなれるはずがない。
彼女が選んだのは自分ではなかったことを目の当たりにしたからといって、彼女を責めるのは話が違う。
だからおそらく、――激情に駆られてその男をぼこぼこにし、そしてしばらくして我に返ってから、落ち込むのだろう。

フランソワーズはジョーの膝に手を置いて身体を伸ばし、彼の頬にくちづけた。

「もし、私がこのヒロインと同じ立場だったら、わけを聞くわ。だってこのヒロインの恋人も何か言いたそうだったし」
「――そんなの、冷静に聞ける?」
「ええ。聞けるわ」

自分だったら絶対無理だ。

「だって、きっと何かわけがあるはずだもの」

フランソワーズはそう言ってにっこり笑った。

「ジョーがわけもなくこんな事をするはずがないわ。だったら、私はちゃんとそれを聞かないと。ね?」

ジョーは軽く咳払いをすると口を開いた。

「――フランソワーズ。だけど本当にこの場面はただの浮気だと思うよ?もし、・・・絶対にありえないけど、もし僕がきみのいない間にこんな事を
していたら、やっぱりそれは浮気だと思う」
「いやね。ジョーったら。ありえないわ」

フランソワーズはくすくす笑い出した。

「ジョーが浮気なんてするわけないじゃない。もう・・・変なひと」

ジョーにしてみれば、確かにそれは真実だったのだけど、本当にそう信じて疑わない彼女の様子に驚いた。

「だけど、ホラ。この二人の場合は、お互い裸だったんだし、間違える余地はないと思うけど」
「だってこのヒロインの恋人はジョーじゃないもん」
「え?」
「だから、浮気でしかありえないだろうけど、ジョーなら話は違うわ。例えお互い裸で一緒にいたって、それは浮気なんかじゃない」

そこまで信じてもらえるのは嬉しいけれど、何だか一抹の不安を覚えるジョーだった。

「ええと、フランソワーズ?それは単に事実を直視していないだけなんじゃ・・・」
「あら、違うわよ」

そうだろうか?
自分に都合がいいように話を作っているだけにしか見えないが。

「ジョーは浮気なんかしないもの」

きっぱりと言い切るフランソワーズ。

「私が悲しくなるようなことは絶対にしない。・・・でしょう?」
「うん。――そうだけど」

もし浮気をしたら。余所見をしたら。
フランソワーズはすぐさま背を向けてしまうだろう。自分を置いて。どこかへ行って、そのまま戻って来ないだろう。
そんな事は耐えられない。
それに、そもそも浮気という言葉自体、ジョーの辞書にはないのだ。とっくの昔に末梢されている。
本気も浮気も、それ以外の全てのものも――相手がいるとすれば、それはフランソワーズ以外にいないのだ。

「だから、大丈夫」

耐えられないのは、フランソワーズが去ってしまうことではなくて、彼女に悲しい思いをさせてしまうことである。
自分のせいで、彼女が泣いたり悲しんだり、憎んだり恨んだり。そういったマイナスの感情を持たざるを得なくなってしまうというのは
到底耐えられるものではない。
もしもそんな思いをさせてしまったら、その時は――ジョー自身が自ら世界から消える手段を選ぶだろう。
自分にとってフランソワーズが泣くというのはそういうことだった。

絶対に、悲しい思いをさせない。
つらいとか、苦しいとか。それらも絶対に、ない。

そして今。

自分がそう心に誓っていることを、フランソワーズがよく知っていてわかってくれている――という事実を知るのは、なんだかとても、温かかった。

「ね?もしジョーが、他の誰かと色んな事をしていても、それでも私はあなたを信じているから、平気よ?」

色んな事、って何だ。

本当に平気そうな顔でさらりと言うフランソワーズ。
きっと彼女は本当に自分を信じてくれているのだろう。何があっても。

「色んな事ってなに?」
「色んな事は色んな事よ」
「――例えば、こんな事?」

そのままフランソワーズを胸に抱き締め、ソファに沈んだ。

「ジョーったら。これじゃあドラマのそのシーンみたいじゃない」
「浮気じゃなく、本気の相手同士で再現してみるっていうのはどう?」
「・・・もうっ。ジョーったら」
「だめ?」
「・・・聞かないで」