「防災の日」
「さて…と」 「――わっ、あぶねっ」 目の前のクーハンがいきなり落下した。ジョーの足元に。 *** 「防災訓練?」 「そうなのよ」 地域との付き合いはあるけれども、積極的には関わりたくない。何しろ自分らは人間ではないのだから。 「――まあ、短時間みたいだし行ってくれば」 チラシを返しながらジョーが言うとフランソワーズはそれがね、と困ったように言ったのだった。 「その日は私、レッスンがあるから行けないのよ。代わりにジョーが行ってくれる?」 たった今、行ってくればと言った手前、嫌だとは言えなかった。 *** ――なあ、イワン。 『なあに』 ――僕は何をすればいいんだろう? 『父親のフリ』 ――や、それはそうだろうけどさ… ――うーん…まあ、そうなんだけど。 『それともジェットやハインリヒに行ってもらえば良かった?同じロシア人だしね』 ――いや、それは駄目だっ!! *** 「で、どうだったの?防災訓練は」 「――アラ」 うふふ、と思わず笑みがこぼれた。 「では、そこの若いお父さんにやっていただきましょう!」 と平日の昼間に赤ん坊を抱っこしたお父さんはかなり珍しかったらしくいきなり指名されたジョー。 「うるさいよフランソワーズ」 『ちょっとやりすぎたんだよ。――景品がもらえるって聞いたからさ』 「景品?」
どうしたもんかなあと内心困りつつ、けれどもそれを表には出さず極めてきりっとした顔をしながら、ジョーは目の前にふわふわ浮かんでいるクーハンから赤ん坊を取り出した。
否、抱き上げた。
「ばぶ」
は?
まるで赤ん坊のような反応をした彼に内心かなり動揺しながら、けれどもそれを表には出さず可愛くて仕方ないという体でよしよしなんてあやしてみる。そっとよだれを拭いてやったりして。
否、拭くフリだ。そんなもの垂れてなどいないのだから。
なんだかなあ。
本当に大丈夫かなあ。
傍からみれば精悍な顔つきをしている。のだけれど、内心は不安しかないジョーだった。
そしてそんな彼を最初から見透かしている腕の中の赤ん坊は、赤ん坊らしく大人しく彼に抱かれているものの、
『あのさあ。もっとしっかりしてくれる?そんなんじゃ今から失敗する未来しか見えないよ』
「そんなこと言ったって…」
『君はそのまま僕を抱っこしているだけなんだから簡単だろう?』
「う…」
まあ、それはそうなんだけど。
イワンと一緒にいつもの商店街へ買い物に出かけたフランソワーズが帰ってくるなり何やらチラシを差し出した。
「赤ちゃんのいる家庭に重点的に配っているんですって。で、是非参加してくださいって」
「む…それは…」
付き合いが長くなればなるほど――加齢しない大人、成長しない赤ん坊は不審に思われる。
とはいっても、フランソワーズは商店街では人気者だ。いつもおまけしてもらっているから無下に断るのも角がたつだろう。
「――え」
フランソワーズがイワンのお母さんと認識されているのだから、必然的にジョーはお父さんであろう。
『まさか兄弟ってわけにいかないし、博士がお父さんってわけにもいかないデショ』
そんな不毛な会話を脳内でしながら、イワンを抱っこしながら商店街まで歩いて行く。
ほどなく「防災訓練」を行う「まちかど広場」に到着した。
確かに、親子連ればかり集まっている。近くに消防車も止まっており、おそらくこれから「お話」と「模擬訓練」を見学するのだろう。
ジョーは親子連れの輪に加わり、なるべく――目立たないよう気配を殺した。
機嫌の悪そうなジョーとやはり不機嫌なイワンを見てフランソワーズはやれやれとため息をついた。
「まったくもう。どうして仲良くできないのよ」
浮かんでいるクーハンを覗き込み、イワンの頬を指先でつつきながら一体何があったのと小さく脳内で問いかける。
するとフランソワーズの頭の中に防災訓練の一部始終が映像で再生された。
そして、イワンを抱っこしたまま片手で――どうやったのか――消火器のピンを引き抜きあっという間に鎮火。
拍手喝采の元、更に
イワンを抱っこしたまま片手で障害物を難なく飛び越え、安全地帯とされる場所に制限時間をかなり残して到着。
イワンを抱っこしたまま片手ではしごを昇り、ビルの間に渡されたロープを渡り――半ばからそれは二人のショーのようだった。防災係も面白がって、通常はしない予定のものまでやらせたようだった。そして最終的には「レスキューの方ですか?」と訊かれていた。もちろん若いお母さんたちからは黄色い声があがっていた。
そういえば、リビングのテーブルに何か箱が載っていた。
景品だったのねと思いながら開けてみると、そこにはフランソワーズの大好きなケーキ屋さんの限定品が入っていた。
『全部クリアしたらそれがもらえるって聞いてはりきっちゃったんだよ。バカだよねーゼロゼロナインって』
でももうフランソワーズは聞いていなかった。
何しろジョーの首筋に抱きついてキスするのに忙しかったから。