「初恋のひと」

 

 

失敗した――と思ったのは、既にその問いを舌に乗せてしまってからだった。
凍りつく空気。
凍りつく身体。
できれば消えてなくなってしまいたい。
身体を強張らせ、そのまま静止した状態で願う。
できれば今の言葉を聞いていませんように――

 

「・・・そうだなぁ」

ジョーがのんびりした声で応える。
けれども、少し緊張感が窺えないだろうか?
痛みを堪えるような色が滲んでいるように思えるのは気にし過ぎだろうか?

「うーん・・・。フランソワーズは?」

質問返し。
それは巧妙なはぐらかしなのだろうか。

意図されたものかどうかわからないまま、けれどもフランソワーズは静かに息を吐き出した。
ともかく、これで話が逸れるかもしれない。だとすれば願ってもいないことだった。失言した身としては。

「そうね。――やっぱり、お兄ちゃんかしら」
「ジャン?」
「ええ。小さい時からずっと大好きだから」
「ふうん・・・」

けれども、あっという間に質疑応答は終わってしまった。
いつもなら、もっとうまく話を広げるか、もしくは話を逸らすことができるフランソワーズだったが、動揺していたせいかいつもの調子がでなかった。
なので、そのまま黙ってしまう。

「・・・ああ、僕の話だったよね?」

ジョーはどうして今日に限ってスルーしないのだろう?

「そうだな。僕は――」

 

 

***

 

 

カフェでお茶を飲んでいた時のことだった。

話が途切れたその時に耳に飛び込んできた声。まるで降ってきたみたいに、それはふたりの座っているテーブルの上に着地した。
たった今、そばを通り過ぎていったカップルの、女性の声だった。

「――やだもう、それじゃあアナタの初恋のひとって誰なのよぉ――」

初恋のひと。

フランソワーズはついその言葉に反応してしまった。深く考えずに。

 

「ジョーの初恋のひとってどんな人だったの?」

 

言った瞬間、舌を噛んでしまいたかった。
何しろ、その問いを放った瞬間、頭のなかにある記憶が甦ったからだ。
苦い記憶。
できればそのまま二度と見たくはない記憶。

――砂漠の。

――ぼろぼろの防護服で。

立っているのも、やっとの。

彼を置いて逃げた――女。

ジョーは確か、その女が初恋だったと――言ってはいなかっただろうか?
その、女。
フランソワーズは心の奥では、ジョーを道具として平気で扱い、最後には彼を捨てて逃げた彼女に対して敬称をつけることはしていない。無意識下であっても、彼に対してあまりにも酷い仕打ちをし傷つけた人間にはとてもじゃないが敬意など払えるものではない。
だから、ただ――女、としか言わない。
それは、ジョーにも言わないし他の誰にも言わない、フランソワーズの中の心の闇の部分だった。
ジョーを故意に傷つけた女。絶対に許さない。

 

「フランソワーズ?」

ジョーの声に我に返る。

「どうしたんだい?ぼうっとして」

優しい声。優しい瞳。
今のフランソワーズの問いが特に珍しいものでも何でもないかのように、いつもの彼。

「――ううん。なんでもないわ」
「そう?」

無理に笑みを作ってみせる。
ジョーも一緒に微笑んだ。

「・・・僕の初恋のひとの話だったね」

心臓が一回大きく打つ。

あくまでも穏やかなジョーの声。

「う――ん。・・・それなんだけど」

微かに眉間に皺が寄る。

「あ、いいの。無理に思い出さなくても」

思わず早口で言ってしまう。
――ジョーに語らせてはいけない。いくら随分前の事とはいっても、彼にとっては・・・

「うん・・・それなんだけど、ね」

ジョーは眉間に皺を寄せたまま難しい顔をしている。

フランソワーズは胸の奥が痛くなってきた。
もしも、いま。ジョーがあの砂漠での一件を思い出しているとしたら、平静でいられるわけがない。
表面上はいつもと変わりがなくても、きっと心のなかでは辛くて痛くて悲しくて――そんな感情を、記憶を、思い出させてしまった自分が憎らしかった。
どうして余計なことを言ってしまったんだろう?

「――ジョー。あの」
「思い出せないんだよね」

ふたりの声が被った。

「えっ?」

フランソワーズの声にジョーが照れたように頭を掻く。

「だから。思い出せないんだよ。何しろ、ずいぶん昔の事だからさ」
「・・・昔?」
「うん。たぶん、・・・施設にいた頃だった・・・と、思うんだけど」

――そうなのだろうか?
それとも、あの女はジョーと同じ施設出身か何かだっただろうか?

新たな疑問に、フランソワーズの胸は更に痛んだ。今度はどす黒いものが心にひとすじ溶けてゆく。
――ジョーと同じ施設にいたとしたら・・・あの女は、昔のジョーを全部知っていて、そしてずうっと一緒だった。
自分の知らないジョーを知っている。
自分よりも、ジョーといた時間が長い。
生身の頃のジョーを知っている、女。
ずるい。
そんなの、ずるい。
私だってもっと前に知り合っていたら、絶対・・・

「ブロンド、っていうのかな、白っぽい髪の女の子だったなぁ」

――え?

だって、あの女は黒い髪に黒い瞳の。

「僕と同じハーフだったと思うけど憶えてないや。子供だったしね」

・・・そうなの?

「いやあ、フランソワーズに訊かれるまで思い出したことなかったよ。けっこう薄い記憶なんだな。ほら、よく初恋のひとは忘れないって言うけどさ、あれって嘘だよね。僕なんか全然ダメだ。憶えてないよ。名前も顔も・・・うーん。思い出せないや。それよりフランソワーズ。きみの初恋の相手ってジャンだろう?――妬けるよなあ。だってきみが生まれたときから知ってるんじゃないか。そんなの太刀打ちできないよ。――あれ?フランソワーズ?」

フランソワーズの手にそっとジョーの手が重なる。

「・・・ごめんなさい。私・・・」

視界が滲む。

「ん?ごめん、って何が?」
「――ううん。いいの――」

もう二度とこんな話はしないから。

「ほんと、妬けるよなぁ。小さい時からずっと好き、って事は今もってことだろう?ジャン兄がライバルだなんてさ。僕はずいぶん分が悪いよな」

ジョーの手に少し力がこもる。

「――ハンデを貰わないと」
「ハンデ?」
「うん」
「・・・どんな?」
「そうだなぁ・・・。例えば」

ジョーの手がぎゅっとフランソワーズの手を握り締める。

「今日はずっと手を繋いでいること、とか」
「・・・それってハンデになるの?」
「なるさ」
「変なの」
「変じゃないよ」
「変よ」

思わず笑みを洩らしたフランソワーズに、ジョーはほっとしたように息をついた。

 

***

 

――僕の初恋のひと。

それは・・・

 

・・・今はもう、心のなかにはいない。

 

だからフランソワーズ。
そんなに悲しい顔をしないで。僕は全然、悲しくなんかないのだから。

きみがいたから、僕はいまここにいる。
あの日、僕を迎えに来てくれたきみ。
砂漠できみが駆けて来るのを見た時、僕は心からほっとして――安心して、きみの腕のなかに倒れ込んだ。

初恋だとか、そうじゃないとか、そんなのどうでもいいじゃないか。
僕にとってはきみが一番最後のひとなんだから。
これから、ずうっと一緒にいるんだから。

ジャン兄にだって負けないくらい、ずうっと一緒に。

 

 

 

 

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