「我慢比べ」
ジョーのばか。 廃船のデッキから見える海は墨色だった。 何も反射してはいない、真っ暗な海。 海と廃船と自分までもがひとつに溶け合っているかのような錯覚を起こす。 海。 ゆらゆらとゆらめく。 フランソワーズはデッキの手すりに上半身を預け、半ば乗り出すようにして水面を見ていた。 ヤキモチやくなんてみっともない。 だって、ジョーは――009はミッションを作戦通りに遂行しただけなのだから。 ――何も思うことは無い。 はずなのに。 何が悲しいとか、何が辛いとか、そういう具体的なものはなにひとつなかった。 そうではなくて、――こういう感情すらも我慢してしまえる、我慢できてしまえる自分がイヤだった。 今さら、ヤキモチなんてやかないわ。 そう豪語した。 だから、もう一度言った。 ジョーが誰とどうしようが、私は平気よ。 ――言い過ぎた・・・と思ったのは、ジョーの顔が一瞬辛そうに歪んだのを見た時。 ジョーは――妬いて欲しかったのだろうか。 けれど、そんな個人的な感情でミッションを止めるわけにはゆかない。 だから。 ――私が妬いたら変でしょう? そう思う。 「他の子を見ないで。作戦でも演技でも何でも、あなたが他の女の子を見るのはイヤなの!」 言ったら、009だけではなくほかのみんなも困るだろう。そして、聞き分けの無い003を持て余すのだ。 だから。 ミッションが終わったのに、これ以上我慢する必要があるわけがない。 だから。 見たくなかった。 ――そんなジョーは見たくない。 ミッションは終わったのに。 フランソワーズがここにひとりでいることにも気付いていないのだろう。 「・・・ジョーのばか」 口に出して言ってみると、少しだけすっきりしたような気がした。 「ジョーのばか」 今度はもう少し大きな声で言ってみた。 「ジョーの、ばか」 けれど。 でも、拭わない。 それに、そもそも――いまここには自分ひとりしかいない。 「・・・嫌い」 本当はイヤなのに平気な顔をする自分。 それに気付かないジョーも。 それに慣れてゆく自分も。
月の光もなければ星の光も届かない。
真っ暗な世界。
かすかにゆらめいているように見える波だけが、ここは太平洋なのだと――海の上なのだと思い出させる。
だから。
そうではないのだ。
みんなの前で、「こんな些細なことでヤキモチをやく女」とは思われたくなかったし、実際、妬いてはいなかったのは確かだった。言葉にすれば、それは一段と真実味を増したし、更に事実に近付いたようにも思えた。
けれども、フランソワーズが口を開く前にジョーは平静を取り戻し、いつもの009の顔になっていた。
一度もこちらを見なかったことを別にして。
潜入するのは009が適任だったし、本人ももちろんその気はじゅうぶんだったのだから。
まるで――駄々っ子を見るかのように。
そんな事は、003として――女として――009の恋人として、許せるものではなかった。
胸を張って、「平気よ」と言って何が悪いと言うのだろう?
実際、それで八方円くおさまったではないか。
ミッションも無事に終わったし、009は――ジョーは、相手の王女に大層気に入られて、今頃は宮殿でもてなしを受けていることだろう。もちろん、他の者もみんな宮殿にいるはずだ。
自分だけが、ちょっと具合が悪いのと嘘を吐いて帰ってきた。
ジョーが、王女と寄り添っているのを。
ジョーが、王女に乞われてダンスを踊るのを。
何しろ、最後に見た彼は、王女のお酌で楽しそうに酒を飲んでいたのだから。
声は吐息と一緒に静かに闇の中へ溶けてゆく。
更に少し気持ちが軽くなったような気がした。
言葉と一緒に涙が出てきたのには驚いた。
真っ暗なこの中では誰にも見えやしないのだから。
平気よって言うのは自分自身を欺いた言葉だった。
ちっぽけなプライドを守るためだけに言った言葉。だから、本当はそれは真実ではない。
が、声に出して言った時点で、それは意味を持ってしまった。
平気よと言ってしまったら、本当に平気なのだ――と思われても仕方がない。
だから、後は――本当に平気になってみせるしかなかったのだ。