「こうしていると、なんだか・・・」
「ん?」

二人で荷物を分けて持って、エレベーターに乗り込んだところだった。
ストレンジャーでフランソワーズと荷物を拾ってマンションに戻り、部屋に向かう途中、フランソワーズが小さな声で言った。

ちら、と僕を見上げ、頬を染めてすぐ俯いてしまう。

「・・・その、」

何かを言いあぐねているようなその姿には見覚えがあった。
確かあれは――パリだった。

――恋人同士に見えるか・・・ってこと?
・・・そうだね。見えるだろうね。きっと――

結局、彼女は「恋人同士」という言葉を言えず、僕が代わりに言った。
だから今回もそう言えばいいのだろうけれど――今日は言わない。

今日の僕は意地悪なんだ。

「なに?」

フランソワーズのほうに耳を傾けて次の言葉を待つ。

「・・・し」
「し?」

し、って何だ?

恋人同士みたいね、だったら「こ」だろう?
「し」から始まる言葉って・・・?

すっかり考え込んだ僕を見つめ、でも目が合うとすぐに伏せてしまう。

「し」から始まる言葉って何だ?

「――わからないよ、フランソワーズ。降参」

降参すると同時にエレベーターが停止し扉が開く。
部屋へ向かって廊下を歩く間も、フランソワーズは無言だった。

いったいどうしたというのだろう?

ドアを開けて――玄関の惨状を改めて目のあたりにして、やっぱりここもどうにかしなくちゃなとため息をつく。
今までは全く気にならなかったけれど、掃除された部屋とのあまりのアンバランスに眩暈がした。

キッチンに荷物を運んで、ずっと疑問だった事を訊いてみた。

「ごはん作るのはいいけど、調理器具ってないと思うよ」

そんなもの買った覚えはないのだ。
だから、料理をすることはできない。何しろ、包丁さえないのだから。

するとフランソワーズはにっこり笑って流しの下の扉を開いた。

「大丈夫よ。――ホラ。完璧に揃っているんだから」

見ると、そこには何本もの包丁と――奥には鍋がしまわれていた。

「ほかにも必要なものは全部あるわ。まるでプロのキッチンみたいね?」

買った覚えは全くない。

「確か、コーディネーターに一任したのよね?その時に全部揃えてくれてたみたいよ」

なるほど。
確かに、キッチンなぞ足を踏み入れた事はなかったから、何がどうなっているなんて全然知らなかった。

 

食材をしまうのを手伝いながら、そういえばさっき彼女が言いかけたことは何だったんだろうと思い出す。
「し」で始まる言葉・・・僕はまるでしりとりのように「し」から始まる言葉を捜していた。

「――ねぇ、フランソワーズ」

冷蔵庫に収納し終わって、彼女の方を振り返る。
エプロンをして、髪を束ねた彼女の蒼い瞳がこちらを見る。
その瞬間、僕は彼女が言いかけた「し」で始まる言葉が何なのかわかった――ような、気がした。
でも、今回は彼女の口から聞きたかった。

「さっき言いかけたことだけど」
「え?」
「ほら。エレベーターの中で。こうしていると、って」
「・・・あ」
「その続きは何かな」
「・・・何、って」

やっぱり頬を染めて俯いてしまう。

「・・・その、」
「ん?」

待つ。

「・・・・・・・・」

待つ。

「・・・なんでもないわ」

蚊の鳴くような声で言われる。

「えー。内緒?教えてよ」
「イヤ」
「フランソワーズ?」

――可愛いなぁ。
あまりにも恥ずかしそうだから、僕が思う「し」で始まる言葉は正解なのだろうと思った。

「いいの、何でもないわ」

そんなことないだろう?

「教えてよ。――なに?」

あんまり可愛いから、本当だったら――抱き締めたいところだけど、我慢する。
そんなことばっかり考えている訳じゃない、と彼女にちゃんとわかって欲しい。
が、我慢するのは結構きつかった。
何しろ、今は完全に二人っきりなのだ。いつものように誰かが突然部屋に入ってくるというような事も無い。

彼女と微妙な距離を保ちつつ交わす言葉。

これじゃあまるで――片思いしてた時みたいだ。

 

 

 

ジョーは冷蔵庫のそばから一歩も動かなかった。

いつもだったら、こういう時は「教えろよ」って、じゃれるように抱き締めて耳元で囁くのに。
今は、一歩も動かず、こちらを見つめて考え込んでいるだけ。
それが何だか哀しくて、私は自分の心に浮かんだ言葉を言えず、「なんでもないわ」だけを繰り返した。

そう――ジョーはさっきから、私のそばには来ない。
私が、そんなつもりじゃないと言って部屋を出たから、それを気にしているのだろう。

そんなつもり――で、良かったのに。

ひとりになって考えて、自分の本当の気持ちに気がついた。
私は、たくさんジョーに甘えてみたかったのだった。冷やかすひとが誰もいない場所で。
当たり前の恋人同士のように。
そうじゃなかったら、ここには来ていない。

でもジョーはやっぱり、そんなつもりはなくなってしまったみたいにそばに来ない。

周りに誰もいないのに、構ってくれない。
それがこんなに寂しいなんて思わなかった。

ジョーの腕が懐かしい。
ジョーの声をもっと近くで聞きたい。

でも、ジョーは来ない。

見つめ合っていても――それだけ。

 

ジョーのそばにいたい。

ちゃんと近くで目を見て、さっきのケンカの仲直りをちゃんとしたい。
ごめんなさい、ってちゃんと――

 

「教えてよ。――なに?」

もっと近くに来て。

「フランソワーズ?」

その声を近くで聞かせて。

「・・・なんでもないわ」

あなたが好き。

「でも、気になるよ」

ジョーのそばに行くまでの時間はほんの一秒だろう。そのくらいの距離だった。
なのに、私たちはお互いに触れてはいけないみたいにただ見つめ合ってるだけ。

「――フランソワーズ?」

でも、たったそれだけの距離を埋めるのが今の私には難しかった。
だって。
ジョーの胸に飛び込んでもいいのだろうか?
居心地の良いその場所は、今でも私のものでいいのだろうか?

なんだかジョーが遠くに感じられて悲しかった。