「夢物語」

 


―1―

 

「好き」の反対語は「嫌い」じゃないんだよ。

「好き」の反対は「無関心」――

 


なぜそんな一節を思い出したんだろう。

いつかどこかで読んだ小説の一片だったか。
あるいは、どこかで観た映画のセリフだったか。

覚えていない。

ただ、わかっているのは、妙に心に残ったということだけ。

そして今、その一節の「意味」がはっきりわかったということだけ。

 


―2―

 

自信があった。
彼がまだ私を好きだということに。

だって、嫌いになって嫌われて別れたわけじゃない。
言うなれば、私は不慮の事故に遭って彼に会えなくなり、そのまま時が過ぎたというだけのこと。

だから。

彼は突然姿を消した私の事を覚えているに違いないし、まだ好きに決まっている。
私のことを凄く探していたということも風の噂で聞いた。
だから確信したし、自信もあった。

彼の気持ちをうまく利用して私は自分の望むほうに事態を動かす事ができる、と。

私は私の望むほうへ――愛しいひとと亡命するために。
そのために、彼の――ジョーの気持ちを利用するのだ。

だって。

ジョーは人間じゃない。

サイボーグなのだから。

私が好きだったのは人間のジョーであって、サイボーグであるジョーなんか知らないひとだ。
姿かたちがジョーと似ていても、ナイフの刃さえ通さないからだなんて人間じゃない別のもの。

そんなひと知らない。

知らない男だ。

例え、昔のジョーと同じ声、同じ笑い方をしたとしても、それでも。

知らないひと。
大好きだったジョーではない。

だから。

傷つけてもなんとも思わない。
サイボーグなんて人間に奉仕するように造られたものなんでしょう?
だったら、好きな女のために力を尽くすなんて当たり前のことじゃない。
その力を利用してあげようっていうのだから、感謝すべきじゃない?
力を持っているくせに使うあてがないなんて不幸だもの。私はこうしてサイボーグとなったジョーを幸せにしてあげられる。彼を頼ることによって。

ただひとつの不安要素は。
サイボーグとなったジョーに、過去の記憶は残っているのかということだけ。
あるいは、恋愛などという感情も。

だって、サイボーグって機械でしょ?

 

 

***

 

 

サイボーグのジョー。
なんて簡単なの。私の作り話をあっさり信じ込むなんて。
しかも笑っちゃうわ。
私が「あなたがサイボーグであること」を知らないと思っているのよ。
必死で人間のふりをして。おかしいったらないわ。滑稽よね。
どういう経緯でサイボーグになんかなったのか知らないけれど――どうせ、そのほうがレースに有利だとかそういう理由に決まってる。彼の頭には昔からレースのことしかなかったのだし。大方、レース中に事故か何かで大怪我して、じゃあちょうどいいやってサイボーグ手術なんかしたんでしょう。
そういう卑怯なことを考えるひとではなかったはずだったから、だいぶがっかりした。そんなひとだったんだ、って。
でも、だからこそこれで気持ちは固まった。そんなひとを利用したところで私の良心はこれっぽっちも痛まない。
私の気持ちは揺らがない。
そう――それに、いいことに彼はまだ私のことを好きみたいだった。

いい傾向だ。

サイボーグになったジョーに人間らしい気持ちや記憶があるのか心配だったけれど。私に会った瞬間、凄く嬉しそうに笑ったし、あっさり部屋に入れてくれた。ホテルの部屋を訪ねたのは夜中だったのに。
まったく何を期待してたのかしら?笑っちゃうわよね。
誰がサイボーグと寝るもんですか。だって、機械よね?あなたって。
そんなの。
気持ち悪いじゃない。

でも私は自分を褒めてあげたいわ。
だって、気持ち悪さを押し隠してジョーと一時間くらい昔話なんてしたんだもの。
ね。頑張ったわ、私。

だって、命がけの亡命だもの。

好きな人のためなら、どんないやなことだって我慢できる。

 

 

***

 

 

計画は成功した。
私は好きな人と一緒に亡命することができた。敵も追ってはこない――もう二度と。

それは全部、ジョーのおかげ。
私が途中で裏切った、サイボーグのジョーとその仲間のおかげで。

ばかなジョー。
サイボーグになってからばかになったの?

ううん。

彼はずうっと昔からそんなところがあったわね。
誰がどうみても罠だとわかるのに、相手を信用してしまい自分が窮地に陥るとか。
誰がどうみても胡散臭い相手なのにとことん信用して自分が傷つくとか。
そして笑って言うのよ。
疑ってかかるより信じて傷つくほうが僕は楽なんだ――って。
本当にばかよね。
普通は、裏切りそうな相手からは最初から話を聞かないし、罠にかからない。簡単に信じたりなんかしない。
なのにジョーはそうする自分が嫌いだといって、いつだって信じてしまう。途中で疑うこともなく、最後まで本当にとことん信じてしまうのだ。だから、私のことも疑わなかった。最初から。

ばかだ。

ほんっとうに、ばか。

今日だって、あんなことを言った私を見捨てずに最後まで……。

 

それは、まだ私を好きだからなの?

まだ私を愛しているの?

 

だとしたら。

 

本当に――ばかよね――

 

 


―3―

 

あれから一年。

私は好きなひとと異国の地で暮らしている。
幸せだった。

けれど。

たまに祖国である日本が懐かしくなる。
ある日彼にそれを伝えたら、日本に行ってもいいよと言ってくれた。

だからこうしていま、日本に来ている。


島村ジョーのいる日本に。


もちろん、ジョーの居場所なんて知らない。連絡先の交換なんて、当然のことながらしてはいなかった。
いくら日本は小さい国とはいえ、偶然彼と会えるくらい狭いわけじゃない。
でも、日本グランプリの日は違う。
ハリケーンジョーがどこにいるのかはわかっている。例えレーサーをやめていても、きっと会場のどこかにいるに違いない。車が好きな彼のことだもの、観客席のどこかにいるはず。
とはいえ。
何万人という観客のなかからひとりを探し出すのなんて無理だ。

――でも。

どういうわけか、諦める気持ちにはならなかった。

それは、彼に謝罪したいという気持ちからというわけでは、もちろん無かった。

そうではなく。

もっと別の思い。


もしも。

もしも今日、会えたら。

それは偶然なのではなく運命に違いない。

そんな偶然――運命を、私は望んでいたのかもしれない。
期待して、日本に来たのかもしれない。

 

あのあと、色々考えた。
ジョーと一緒にいた過去のひとつひとつ。
どれもきらきらした思い出だった。大切な宝物。

それを手放さざるを得なかったのは、いま一緒にいるひとのせいなのだ。

――それは、いつも心の奥底に澱になって溜まっている。気持ちが乱れると、その澱が沈殿せず浮かび上がってくるのだ。そして思い出す。楽しくて幸せできらきらしていた日々を。

もしも、一年前のことを謝れば――きっとジョーは許してくれるだろう。
ううん。ジョーのことだ。忘れたふりをして、「なんのこと?」ってきょとんとしてそして笑ってくれるだろう。

だってジョーはまだ私のことが好きなのだから。
相手を疑うことをしない、とことん信じきってしまうばかなひとなのだから。

だから、私がしたことに目をつぶって全て受け容れてくれるに違いない。
そうしたら、私は。

きらきらして楽しくて幸せだった過去を、取り戻す。

そのために日本にやって来たのだ。

異国にいる彼もきっとわかってくれるはず。
送り出す時、そんな感じの目で私を見ていた。もしも私が帰らなくても構わない――と。
私を愛しているから、私が日本でジョーと幸せになるのならそれでいいと思ってくれている。そう確信した。

だって、本当なら私はジョーとそうなっていたはずなのだから。

 


―4―

 

レースの後、なんと簡単に島村ジョーは見つかった。

観客の帰途につく人波のなか。
こちらに向かって歩いてくるのを見つけたのだ。
まるで、私がここにいるのを知っているみたいにまっすぐに歩いて来る。

嘘みたい。
これって本当に運命なのかもしれない。

どうしよう。
どんな顔をしたらいい?
ううんダメよ私から声を掛けたら。あくまでも偶然を装うの。
あらジョー?偶然ね、って。たまたま日本に来たらレースをしていたので懐かしくなって観に来たの、って。
何度も何度も心の中で練習したセリフを私は思い出し深呼吸した。

もうすぐ。

もうすぐ私に気付くはず。

もうすぐ――

――ジョー?

あれ?私は目の前にいるのに。おかしいな。
気付かない……ううん、まさか。きっと、終わったばかりのレースのことを考えているんだわ。
やあねもう、仕方のないひと。昔からそうだったわ。頭のなかは車のことばかり。私が注意しないと食事するのだって忘れちゃうし、デートだってレースの話ばかりで……

って、ちょっと待ってよジョー!


「ジョー!」


気付くと叫んでいた。
えっ?と周囲のひとびとがキョロキョロする。
しまった。ハリケーンジョーは人気者だもの。こんな大きな声で呼んでジョーが足を止めるわけがない。
私は慌てて彼のあとを追った。ジャケットの裾を掴む。

「待って、ジョー」

ハンチングを被りサングラスをかけたジョーがゆっくりと振り返る。

「……え」
「こんにちは。偶然ね」
「……ええと」
「ひとり?」

するとジョーはサングラスを外しこちらをまじまじと見た。


「……誰?」

 

――え?

 

「いやだ、ジョーったら。冗談のつもり?」


笑えないわ。


「いや……すみませんが」


頬が引きつった。

そんなばかな。だって、だって――ほんの一年前の話でしょう。砂漠での攻防は。忘れるわけがない。それに、私はあなたの思い人じゃない。そんな――忘れたふりをするなんて、酷いじゃない。

「なにそれ……笑えない冗談よ、ジョー」

するとジョーはジャケットの裾を掴んだままの私の手をそっと外し、こちらに向き直った。
そしてまじまじと私を見る。
憂いを含んだ目元。懐かしいジョーの目だ。

「――ジョー、あのね。その……」
「取材ならお断わりします」

きっぱりとそう言うとそのまま歩き出そうとするから、私は慌てて彼の前に回りこんだ。

「記者じゃないわ。マユミよ!忘れたの?」
「……」
「あなたの昔の」
「――ああ。マユミさん、か」
「そうよ。マユミよ。まったくもう、忘れるなんて酷いわ。ねぇ。ひとり?よかったらこれから食事でもしない?私も今日はたまたまひとりで来てて、日本なんて久しぶりですっかり――」
「すみませんが、予定があるので失礼します」
「えっ?ちょ、ちょっと待ってよジョー」

再び追いすがる――我ながらなんとも格好悪いことこの上ない。が、諦めるつもりもない。運命としか思えない確率で再会したんだもの。この出会いを逃すわけにはいかない。

するとジョーは深いため息をついた。

そして。

「今のいままですっかり忘れていました。僕に何か用ですか?」
「用ですか…って…」
「特に用がなければ失礼します。予定があるので」
「え、ちょっと待」

――なんて言えばいい?
なんて言えば引き止められる?こちらを向かせられる?

ジョーの背中を見ながら考えた。
だって、運命でしょう。こんな確率で再会したんだもの、これはきっと神様が私たちを運命の恋人同士って認めたからで……

……でも。

だったらどうしてジョーは私を置いて行くの。

足を止めないの。

どんどん小さくなる後ろ姿を見ながら、私は成す術もなく立ち尽くした。


ジョーの瞳。
憂いを含んだ目元。懐かしいジョーの目。

でも。

それだけだった。

私に会えて嬉しいとか。
あるいは。

自分を裏切った女――という憎しみも。

なにも。

なにも、なかった。

ジョーの目に映っていた私は。
おそらく、どこの誰ともわからない女にしか見えなかったのだろう。

私は、ジョーの心のなかにはいなかった。

好きなどではなく。

かといって、嫌いでもなく。

ただ。

どうでもいい――雑踏のなかのひとりの通行人にすぎなかった。

そうなっていたのだった。

 

 


―5―

 

「もしもし、レヴィン?……ええ、日本よ。レースを観たところ。ええ。楽しかったわ」


異国の地にいる愛しいひと。
その顔を思い浮かべる。


「ええ……帰るわ。すぐに……」


電話を切った後も、私はそこから動けずにいた。

涙が後から後から湧いてきて仕方がなかった。