「碧い瞳に映る世界」

 

フランソワーズと喧嘩した。胸がムカムカする。
僕が悪いわけじゃない。フランソワーズが悪い。全面的に。絶対的に。

わざと音を立てながら二階に上がり、上がったところで様子がおかしいことに気がついた。


音が消えている。


まさか。


慌てて窓を開け――はるか彼方の波が止まっているのを見た。
空を見ると鳥も停止している。
一瞬のうちに全てのものが止まっていた。僕を除いて。


……またか。


僕は大きなため息をついた。
やれやれ。この不具合はどうにかならないものだろうか。
何べんやっても慣れない。いや、慣れてはきたけれどそれもどうだろうかと思う。
この一ヶ月、博士とイワンが加速装置を改良しよう熱に取り付かれ、ほぼ毎日加速装置をいじられている。
その影響でときどきこうして世界が止まってしまうのだ。勝手にスイッチが入ってしまい、僕だけがみんなと違う時間層にとりこまれてしまう。
つまり、意図しないまま加速してしまうというわけだ。

いつもならすぐ博士の部屋に行って、加速した時間に取り込まれたことを示すサイン(加速装置をいじる際に決めていた)を送るところなんだけど。今はフランソワーズと喧嘩しているし、ちょうどいいや。
僕の胸のむかつきは、そう簡単にはおさまらないのだ。
だって考えてもみろよ。今って千載一遇の機会じゃないか?フランソワーズに意地悪をするという。

――鼻毛でも書いてやろう。

一瞬のうちに鼻毛ができるフランソワーズ。これは恥ずかしいぞかなり。
しかも本人は何が起きたのか全く気がつかないんだ。喧嘩の仕返しとしてはかなり有効のはずだ。

僕はそんな悪巧みを胸に、リビングに舞い戻った。
思った通り、フランソワーズは動かない。さっき部屋を出た時と同じように腕組みしている。眉間には皺。
僕はそんな彼女の顔を至近距離で覗きこんだ。
何か書くものはないか。できれば油性のものがいい。
見回すと、電話の横にそれらしいマジックが置いてあったので、手に取った。

燃えた。

ああくそっ。
加速中は何も持てないんだった。僕が触れると摩擦で燃えて溶けてしまう。
ということは、フランソワーズに仕返しはできない。

ああこのムカムカをどうしてくれよう!

僕は未練がましくフランソワーズの前に戻ると、この顔のどこかに落書きができないかと思案した。
フランソワーズの碧い瞳がじっとこちらを見つめている。

そうだ、この睫毛を――

 

…………。

 

――フランソワーズがじっとこちらを見ている。

 

でも、その碧い瞳のなかに僕の姿は映らない。

映っていない。


その見慣れない光景に――自分でも意外だけど――僕は酷くショックを受けた。

僕を映さないフランソワーズの瞳。
そんなことってあっていいのか。僕がこうして目の前にいるのに。

彼女の瞳の奥。それは僕の居場所のはずだ。僕だけが許される場所のはずだ。

なのに。

いま、そこに僕はいない。


胸が張り裂けそうになった。喧嘩中だというのに。

フランソワーズの顔に落書きしてやろうと思っていたのに、そんなことは全てどうでもよくなった。
よくなったついでに、深く考えもせずフランソワーズの睫毛に指を伸ばした。

そっと触れるつもりで。

いつものように。

あっと思った時には、僕の指先と触れた睫毛に火花が散ってフランソワーズの睫毛は、目は――


しまった、燃えてしまう!!

 

 

「ジョー!?何よ、びっくりするじゃない」

 

急に懐かしい声が耳朶を打った。唐突に加速が解けた。世界が戻ってくる。


「さっき出て行ったと思ったら!まだ何か文句があるっていうのかしら!?」


怒ってる。喧嘩の続きだ。でも。
怒っているフランソワーズの瞳のなかに僕がいた。


「ジョー!?聞いてるの!?」


僕は怒っているフランソワーズをぎゅうっと抱き締めた。


「うん。聞いてる。ごめんなさい」
「えっ?ジョー?」
「ごめん。僕が悪かった」
「何よ急に――」
「ごめんね」
「ジョー?」

怒っているフランソワーズが僕の髪をそうっと撫でた。

本当は全面的にフランソワーズが悪い、そんな喧嘩だったけれど。今回は僕が謝ってしまおう。
だって、どうでもよくなったんだ。フランソワーズの瞳に僕が映らないことに比べたら。
そんなことは絶対にあってはならないことなのだから。

「――名前を書いてなかった僕が悪かったよ」


楽しみにしていたプリン。いいよもう、フランソワーズにあげるよ全部。