「思い出」 

 

「帰りたくないって、どういうこと?」


ジョーはパソコンの画面から顔を上げ、発言主に目を向けた。
いままさに予約しようとカーソルを移したところだった。彼女が何も言わなければクリックして予約完了だったはず。

「好きだろう?パリ」
「ええ、好きよ。でも」

帰りたくないのとフランソワーズは続けた。

「……」

ジョーはそっとマウスから手を離すと、探るように彼女を見た。が、目は合わない。
フランソワーズは窓辺で腕を組み外を眺めている。横顔だけが見える。

「この間帰ったばかりとか、そんなの気にしてるなら」

ミッション絡みでパリに行っていたのはほんの一ヶ月前のこと。
ひとりだけそんなに故郷に帰るわけにもいかないと遠慮しているのかもしれない――と、思ったのだけど。

「そうじゃないわ」

きっぱりと言われ、ジョーは黙った。
だったらいったいなんだというのだろう。年末年始はパリでどう過ごそうか楽しく話していたのに。ミッション前までは。
そう――確かに、ミッションの後にそういう話はしていなかった。でも不思議には思わなかった。気付かなかった。今日の今までは。

「ジョーは…怖くないの?」
「何が?」
「――自分が」
「自分?」
「私は怖いの」
「自分が?」
「ええ――姿の変わらない、自分が」

 

 

ミッション絡みとはいえ、パリに来るのは嬉しいことだった。
懐かしい街。
そう頻繁には帰って来れないけれど、でも、そんなに遠くにいるわけではない。同じ星の上にいる。帰ろうと思えばいつでも帰ることができる。
そう思うことはフランソワーズにとってはとても大事なことだった。
日本には仲間がいるし、何よりジョーがいつも一緒にいてくれる。でも、それとこれとはまた別なのだ。
懐かしい空気。懐かしい街並み。生まれ育った場所。自分の原点のような気がするここは安心できる場所なのだった。
だから、ミッション終了後に「ねえ、ちょっと独りで歩かせて」とねだったのも自然なことだった。
そしてジョーは心配そうに、でも優しく「いいよ」と言ってくれたのだった。
思えばそのせいだったのだろうか?
ミッションで訪れていた場所から――少し離れた、よく知っている場所に向かったのは。
通っていた学校の近くの公園。よく寄り道したひみつの場所。独りで来てみたかった。

「――変わってないのね」

気持ちは当時に戻っていく。
友達とケンカして泣いた場所。でも、独りで考えて反省してごめんねを言いに行く途中、涙の痕のある友達と途中でばったり出会って抱き合って泣いたこと。嬉しい事があったときもここで友達と一緒に笑った。サンドイッチを半分こして色んな事を話したこと。将来の夢や好きな男の子の話など。

「懐かしい……」

もう戻ることがないのはわかっていた。それは、サイボーグ云々ではなく誰もがそうだ。
大人になったら、もう何も知らない子供の頃には戻れない。その場所は既に他のどこかの子供のものだ。
でも。
来るのは自由なはずである。
別にあの頃に戻りたいわけではない――いや、……


「えっ、まさか……フランソワーズ?」

はっと振り返った先には、フランス人の女性がいた。誰かはわからない――いや。

「嘘でしょ、フランソワーズよね?」

わかる。昔ここで一緒にサンドイッチを食べた相手だ。

が。

「わあ、久しぶりね!元気だった?」
「え、ええ…」

思わず半歩後ずさったのは自分でもわからなかった。

「バレエに集中して夢を叶えたいって言って転校してから…何年になるかしら」
「……」
「でもすぐわかったわ!フランソワーズ、全然変わってないんだもの」

いや、変わっただろう。もう幼かった少女ではない。
しかし。

「嬉しいわ、ほんっとうに久しぶりね。えっと…**年になるかしら」

**年。――**年?
何年って言ったのか、耳は良いはずなのに聞こえなかった。
視界がぐにゃりと歪む――目も良いはずなのに。

「あ。この子?いま幼稚園なの。フランソワーズは独り?結婚は?バレエは?」
「……」
「うふふ、本当に嬉しい。ここお散歩コースなのよ、懐かしくていつも来ちゃうの。といってももう**年になるしお互いに老けたわよね…って、フランソワーズったらお肌つるつる。なあに、なにか秘訣があるの」
「……」
「もう。私ばっかり年とったみたいじゃない。秘訣があるなら教えなさいな」

秘訣なんかない。だって自分は。

「あの、」
「んー?ね、お茶していけるんでしょ?」
「……時間、が」
「いまどこに住んでるの。ここから遠いの?いいよ、遅くなったら送っていくから」

はやく。
早くここから立ち去らなくちゃ。彼女が――何かに気付く前に。

「バレエの話も聞きたいな。え、だって続けてるんでしょ。すぐわかったわ。スタイルいいもの」

はやく――早く。

「私なんて年とともに体型が崩れていくし、見る影もないでしょ?ねっ?って、やあだフランソワーズったら。そこは嘘でもそんなことないわって言うところでしょ」

彼女の笑顔がまぶしかった。なぜなら、本当は会えて嬉しい。一緒に思い出話をするなら何時間でもできるだろう。
でも。
会いたくない相手だった。たぶん、この世で一番。

「あの。私ちょっと用事があるから」
「あら、急ぎ?なんなら待ってるけど」
「ううん――ごめん、行かなくちゃ」
「えっ?ちょっとフランソワーズ」
「ごめんね」
「ごめんってちょっと…フランソワーズ?」

逃げるように走った。たぶん、ブラックゴーストに追われているよりも早く走った。
なぜなら。

怖かった。

昔の自分を知っているひとに、自分はもう昔とは違うのだと気付かれたくはなかった。
大好きなパリ。
でもこんな危険が潜んでいるなど今の今まで気付かなかったのだ。

そして、走っているはずのフランソワーズの耳は彼女の声をしっかり拾ってしまった。


「それにしても…フランソワーズ、あの頃と変わってないわ――ぜんぜん」

 

 

***

 

 

どこをどうやって走ってきたのか。知っている街だから無意識でも走れてしまう。
ともかく、気付いたらジョーとの待ち合わせ場所にいた。

「あれ?フランソワーズ、早かったね。まだ時間あるよ?」

そういうジョーはずっと待ち合わせ場所にいたのだろうか。どこかで時間を潰したりせずに。

「うん…もう、いいの」
「……ふうん。じゃあ、ちょっと早いけどもう行こうか」
「ええ」
「――それともせっかくのパリだからどこかでお茶でも」
「いいの!」
「……フランソワーズ?」
「あ……、疲れたからもう帰りたいの」
「そうか。わかった」

早くパリから出たかった。自分のことを誰も知らない場所に行きたかった。そうじゃないと息もできないような気がしていた。
胸の奥に鉛のように重いものがあって、その重みで何もできないようだった。


大好きな友人。

大好きな街。


でも今は。

大好きなのに、話せない相手になってしまった。
出会っても逃げるしかできない。
幸せな思い出が、自分のことを知ったらきっと「かわいそうに…」と辛い思い出に変わってしまう。

それは。

それだけは。

絶対に嫌だった。

だから――会えない。

自分のことだけならまだいい。
けれど。
思い出を共有した友人にとっては自分は脅威にしかならない。
サイボーグにされた経緯など、一緒に笑い合った過去の自分たちには思いも寄らない未来なのだから。
だから、そんな辛い経験を話すことによって楽しかった思い出を上書きされたくない。
壊されたくない、壊したくない、大事な大事な――宝石のようなものなのだ。
しかし。
それを壊してしまうのは、自分。

自分なのだ。

己の運命を思って泣くだけならいい。自分を憐憫して泣くならいくらでも泣けばいいだろう。
でもその涙は、自分だけでいい。大事な友に分けなくてもいい。分けたくはない。

だから、会えない。話せない。
もう二度と。

姿の変わらない自分など見せてはいけないのだ。

 

 

 

 

 

 

フランソワーズ?


いつも優しい表情のフランソワーズ。けれど今日は険しい顔をしている。
もちろん、そういう日もあるだろう。いつも穏やかな気持ちでいるひとなどいない。

しかし。


姿の変わらない自分が怖い。


――怖い?

ジョーは内心首を捻った。彼女がそんなことを言うのが意外だったからだ。
なにしろふだんは、アンチエイジングを考えなくていいから楽だわなんて言って笑っているのだ。サイボーグになったものは仕方がない、良い方に考えましょう――と前向きだった。なのに。

なにかあったのか…?

と、そう声にだして問いそうになり、慌てて飲み込んだ。
「あったのか?」ではない。あったのだ。おそらく。しかも――彼女の心に深く刺さるような何か。が。
そうでなければ、声に出して言いはしないだろう。

姿の変わらない自分が怖い。ジョーは怖くないの?

それは――正直に言えば、ふだん考えたことはなかった。だから考えてみた。
姿の変わらない自分。それを怖いと思うときがあるとすればどういう時だろうか。姿が変わらない――ふつうは変わる。時間の経過とともに。
と、いうことは。
怖いのは、時の流れに変わらない見た目ということになるから――あ。

昔の知り合いに会ったのか。

納得がいった。
が。
ジョーには彼女になんて声をかければいいのか皆目見当がつかなかった。
なぜならば、ジョーにはどこかで偶然会って困るような友人などいないからだった。それほど親しい者はいない。
だから――だからこそ、ジョーはサイボーグにされたからといってどこか悲観的になったりすることはなかった。
昔の仲間などいない。いや、いたけれど深いつながりを持った者などいなかった。
だから、それらの繋がりが全て絶たれても別にどうということはなかったし、むしろさっぱりした。文字通り今までとは違う自分として生きていくことができるし、新たな仲間ができた。プラスのほうが多かったのだ。

そんな自分にいったい何が言えるだろうか。

怖くないよと言って、――で?
何が彼女にとって慰めになるだろうか。
いや。おそらくフランソワーズは同意が欲しいのだろう。僕も怖いよと。そう言って欲しいに違いない。
けれど。
かりそめに言うのは簡単で、それでフランソワーズの気持ちが少しでも軽くなるのならそれでいいのかもしれない。
でも、明らかに嘘である。そしてそんな嘘に彼女は絶対に気付くだろう。そして、自分にそんな嘘をつかせた自分を責めるだろう。そんなことを聞いてごめんなさいと言うだろう。
さて、困った。答えがない。何をどうすればフランソワーズの気持ちが落ち着くのか。自分にいったい何ができるのか。
できることがあるなら、何をしてもいい。が、嘘をつくのだけはたぶん駄目だ。

ジョーも黙り込んでしまい、しばらく部屋は沈黙に包まれた。
パソコンの冷却ファンの音だけがしている。

ふと。

フランソワーズがジョーを見た。
ジョーはフランソワーズを見つめたままだったから、目が合う。

「――ごめんね。変なこと言ったわ」

小さく笑い、フランソワーズがジョーのそばにやって来た。
パソコンを前に座っているジョーの背後から彼の肩に腕を回し一緒に画面を見る――ふりをして、ジョーの首筋に顔を埋めた。

「パリはこの前行ったからいいわ」
「そうか」

ジョーはマウスから指を離した。

「ええ」
「じゃあ、年末年始は日本でいいんだね?」
「ええ。……でも、できれば」

ふたりで過ごしたいわとそう言った声が少し震えていたのは、たぶん気のせいだろう。

「ウン。わかった」

ジョーは何事もなかったように明るく言うと、じゃあどこか行こうか、いやただゆっくりするのもいいねとただ喋り続けた。

自分たちには色々なことがある。それが仲間に言えることもあれば言えないこともあるし、解決できるものもあればできないものもある。
おそらく今回のことは――誰かに話して楽になるものではないし、解決できる類のものでもないのだろう。

自分で折り合いをつけるしかないこと。

でもそれは、きっと物凄く辛い。が、何も手伝えはしないこと。
ひとりで耐えて考えて折り合いをつけるしかないのだ。自分自身のなかで答えをみつけるしかない。

いまジョーにできることといえば、こうしてただそばにいることだった。

だからそうした。

 

フランソワーズが落ち着くまで。

 

いつものフランソワーズになるまで。