「ねえ、フランソワーズ。そろそろレッスンの時間だろう?送っていくよ」 けれども彼女は無言のまま部屋を後にした。 「――フランソワーズ。もう車も回してあるから、だから」 慌てて後を追い、靴を履いている彼女に追いつく。 何も言わない。 振り向きもしない。 僕は靴を履くのももどかしく、彼女が消えたドアの向こうへ飛び出した。 「――フランソワーズっ。待って」 ギルモア邸の目の前に止めた車を迂回して、彼女は坂を下ってゆく。 僕は車で追いかけようか一瞬迷い、そして車を捨てて駆け出した。 「フランソワーズっ」 坂の半ばまで下りてしまっている彼女の背に向かって叫ぶ。 太平洋側の日本の冬は晴天が多い。 そんな蒼を背景にして、彼女はまるでそれに溶けてゆくかのように向かってゆく。 一度も振り向かない。
僕を置いてゆこうとしている。
僕は、フランソワーズが去ってゆくのが悲しいのか、置いてゆかれることが悲しいのかわからない。きっと両方なのだろう。 ずっと離れないと繰り返し言ってくれた彼女。 僕は――約束を反古にされたことが悲しいのだろうか。
いや。
違う。
僕は。
僕が悲しいのは、フランソワーズがいなくなってしまうからだ。 僕の前から。
一度もこちらを振り返らずに歩いてゆく彼女。
***
「ふら――」
フランソワーズ、と呼ぼうとして――やめた。 僕の声は届かない。
「・・・フランソワーズ・・・」
僕の声はきみに聞こえない。
「・・・ふらんそわ・・・ず」
きみの名前を呼ぶのは楽しいことだったのに、今はそれが全然楽しいと思えなかった。
「・・・・・」
名前を呼ぶたびに胸がしめつけられるように痛い。 きっと僕は、きみの名を呼びながら死んでゆくのだろう。 それも、いいかもしれない。
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