「ねえ、フランソワーズ。そろそろレッスンの時間だろう?送っていくよ」

けれども彼女は無言のまま部屋を後にした。
僕がいることなど眼中にないかのように、僕を残してドアを閉めた。

「――フランソワーズ。もう車も回してあるから、だから」

慌てて後を追い、靴を履いている彼女に追いつく。
玄関ドアを開けた彼女の背に、僕の声は跳ね返された。

何も言わない。

振り向きもしない。

僕は靴を履くのももどかしく、彼女が消えたドアの向こうへ飛び出した。

「――フランソワーズっ。待って」

ギルモア邸の目の前に止めた車を迂回して、彼女は坂を下ってゆく。
少しだけ、いつもより早足で。

僕は車で追いかけようか一瞬迷い、そして車を捨てて駆け出した。
車のエンジンをかけている間に彼女はいなくなってしまうかもしれない。
だったら、この足で追いかけたほうがいい。いざとなったら、僕には加速装置があるのだから。

「フランソワーズっ」

坂の半ばまで下りてしまっている彼女の背に向かって叫ぶ。
が、振り向かない。
彼女の背に揺れる亜麻色の髪が太陽の光を反射してきらきらひかっている。

太平洋側の日本の冬は晴天が多い。
からっとした大気に、抜けるような蒼い空。
左手には大海原が広がっている。蒼い蒼い海。

そんな蒼を背景にして、彼女はまるでそれに溶けてゆくかのように向かってゆく。
全く躊躇のない足取りで。

一度も振り向かない。
僕の声が届いてないわけはないのに。

 

僕を置いてゆこうとしている。

 

僕は、フランソワーズが去ってゆくのが悲しいのか、置いてゆかれることが悲しいのかわからない。きっと両方なのだろう。

ずっと離れないと繰り返し言ってくれた彼女。
それを信じていた僕。
なのに、こんなに簡単に彼女は僕を置いてゆく。

僕は――約束を反古にされたことが悲しいのだろうか。

 

いや。

 

違う。

 

僕は。

 

僕が悲しいのは、フランソワーズがいなくなってしまうからだ。
他の誰でもない、彼女自身がいなくなってしまう。

僕の前から。

 

一度もこちらを振り返らずに歩いてゆく彼女。

 

***

 

「ふら――」

 

フランソワーズ、と呼ぼうとして――やめた。
きっと、もう何を言っても聞こえやしないんだ。
彼女の耳に、僕の声は届いていない。届かない。
きっと、選択的に届かないようにセットしてあるのだろう。そんなことができるのかどうか知らないけれど。

僕の声は届かない。

 

「・・・フランソワーズ・・・」

 

僕の声はきみに聞こえない。

 

「・・・ふらんそわ・・・ず」

 

きみの名前を呼ぶのは楽しいことだったのに、今はそれが全然楽しいと思えなかった。

 

「・・・・・」

 

名前を呼ぶたびに胸がしめつけられるように痛い。
息ができない。
喉が詰まって。

きっと僕は、きみの名を呼びながら死んでゆくのだろう。

それも、いいかもしれない。