梅雨前線

 


―1―

 

昔から、梅雨は嫌いだった。
全てが鉛色に染まった世界。

蒼い空が見えない。
蒼い海も見えない。

 

連日、振り続ける雨。
家の中も湿気で充満している。
洗濯物が乾かない、と、とうとうフランソワーズはリビングにまで干し始めた。
まるで万国旗みたいねと無邪気に笑って。
そんな彼女に背を向けて、僕は窓から外を見ている。

降り続く雨。

全てのものが鉛色に染まる。
空も、海も。
ここから見えるもの、全てが。
いつもは蒼さを湛えている海も。
抜けるような蒼さをもつ空も。

「どうかしたの、ジョー?」

物思いに囚われている僕を心配して、いつものようにフランソワーズはそっと腕に触れた。

「――別に」

言って、手を外す。

「ジョー?」

心配そうな声を遠くに聞きながら、僕は鉛色の世界に飛び出した。

 

憂鬱だった。

 



―2―

 

少しは気が晴れるだろうかと愛車を走らせても、街は鉛色の世界のままだった。
どこまで行っても。
かといって車を降りても電車に乗っても何も変わらない。
雨は降り続ける。
梅雨なのだから。
日本はいまそういう季節なのだから。

――嫌なら日本から出て行くしかない。

そんなことが頭の中に浮かび上がる。
かといって。
それほど嫌なのかというと……よくわからない。
それに、このままひとりどこか知らない国に行ったとして、何か楽しいことでもあるのだろうか。
独りぼっちで。
異国の地で。

とてもそうは思えない。

こうして走っているのもそうだ。
今は何をしても楽しいと思えないのだ。

蒼い空が見えない。

蒼い海が見えない。

 

ひとけの無い場所で車のモードを変えて上昇した。

 

雲の上は一面の蒼空だった。

ああ。

蒼い。

蒼くて――まぶしい。

 



―3―

 

「お帰りなさい」

フランソワーズは訊かない。僕が突然、外に出たわけも。どこで何をしていたのかも。
いつものように迎えてくれるだけだ。

「――イワンのミルク、買ってきたよ」

理由になっているだろうか?

「まァ、ありがとう。もう少しで切れるところだったの」

無邪気に微笑むフランソワーズ。

僕は忘れていた。
一番好きな蒼は、いつでもここに在ったのに。
雲の上に出れば、蒼い空が広がっているのと同じように。
簡単な事に気付かなかった。

フランソワーズの蒼。
まっすぐ僕を見つめる瞳の蒼。

僕の大好きな蒼。

つられて僕も笑った。
ほんのちょっとだけ。

久しぶりだった。

 


―4―

 

「ドウシタノ、ふらんそわーず?」

キッチンでミルクを作っていると、待ちきれなくなったのか揺り篭がふわふわと漂ってきた。

「うん…ミルクなんだけど」

さっきジョーに渡された新しい缶を見つめて息をつく。

今月、これで何個目かしら。

収納棚は既にいっぱいになってしまって、床に置いた箱の中も半分以上埋まっている。

「たくさんあるのは良いんだけど」
「じょーノ放浪癖モ半端ジャナイネ」
「ん。でも、だいぶ減ったのよ」

前のように、一晩行方不明という事もなくなったし。
今は、長くても数時間で帰ってくるし。
イワンのミルクを買いに出たという大義名分を背負って。

「僕ハ、イイケドネ。タクサンアッテモ困ラナイヨ」
「生意気言って。さ、できたから向こうへ行きましょう」

イワンにミルクを飲ませながら。
……そうね。
帰ってきてくれるのだから、良いのかしら。
うん。
良いことにしてしまおう。
無理矢理納得させてしまうのは得意技。
でもこれ以上、ミルク缶が増えるのはちょっと困るな、と頭の隅で思いながら。

 

 

2015/6/2加筆修正