「手取り足取り」


―1―

 

朝から雨だった。
空をグレイに染める憂鬱な雨。


雨は嫌いだ。


それは改めて言うまでもなく、僕に近しい人たちはみんな知っている。
もちろんそれは僕自身も。
だから、僕が出かけると言った時、そこにいたほぼ全員が驚いた顔をした。
しかもフランソワーズに至っては、「どうしたの、熱でもあるの」という失礼っぷり。


――まったく。


まあ、確かにそう言ってみたくなるのもわかる。
僕自身、ちょっと意外だななんて思っているのだから。だって雨が嫌いというのは本当だし、やっぱりできればこうやって外を歩くのなんてしたくないわけで……。

……いや。

いつまでもそう言ってはいられない。
僕だって、そろそろ雨嫌いを克服してもいい頃だ。
そう、特に深い理由なんてないんだし。雨だって理由もなく毛嫌いされるのはきっと勘弁して欲しいと思っているに違いない。
雨に感情があるのかどうか知らないけれど。

 

***

 

最初は車で出かけるつもりだった。
でも思い直した。
雨嫌いを克服するのなら、車ではなく傘をさして歩いてみたほうがいいのでないかと。
だからそうした。

そして、五分後に後悔した。

五分前は確かに小雨だった。
このくらいならさして濡れないだろうし、逆に気持ちいいくらいだろうとそう思っていたのだ。
が、しかし。

今はどうだ。

たった五分でこの降雨っぷり。
傘から滴る雫は滝のようだし、スニーカーは既にぐっしょりと濡れている。
日本の梅雨を甘く見てはいけなかった。
だから僕は雨が――ああいや、そう言うのはやめたんだった。

しょうがない。

手短に用をすませるしかない。

 

***

 

ギルモア邸の前の長い坂を雨に打たれながら下って。
風雨にさらされながらバスを待って。
バスに揺られて。
駅について電車に乗って。
降りて。
地下鉄に乗り換えて。


……遠いな。
こんなに遠かったっけ?

地下鉄の車内は冷房が効いていて涼しかったけれど、雨に濡れたあちこちはしっかり湿っていて乾くというより冷えていった。長時間乗っていたら風邪をひきそうだ。
通勤通学者は毎日こんな苦役に耐えているのか。大変だな。

そんなことをぼんやり思いながら数十分。
目的の駅に着いた。

地下通路から直結しているので目的地まで雨に悩まされることはない。ありがたいことだ。
午前11時という時間は当然のことながら、通勤通学時間帯ではない。
ランチタイムにもまだ遠いから、どこもさほど混んではいない。ベビーカーを押した母親や友人同士らしき女性軍団を見るくらいでのんびりしている。男性は少なかった。
それはもちろん、僕が入った店が可愛い雑貨を扱う店だということもあるだろう。

え、なぜそんな店に入ったかって?
もちろん、用があるからに決まっている。

 


―2―

 

臨時収入があった。
いや、正確には正当報酬になるのかな。
どうも車関係以外の収入はぴんとこない。

先日、とある雑誌に記事を書いた。
……言い方が偉そうになってしまったので訂正しよう。
とある雑誌に僕の書いたものが採用された。
論文――ではなく、コラム――というのもちょっと違う。なんだろう、体験記のようなもの?
自分で書いておいてよくわかっていない。何しろ草稿は酷いものだったから。
校正に次ぐ校正で真っ赤になって戻ってきた。それを書き直して提出しては赤が入り、その繰り返し。
最後には、これって本当に僕が書いたものといっていいのだろうかと悩んだりもした。
とはいえ、内容は僕以外に書ける者はいなかったからやっぱりこれは僕の原稿だと胸を張っていいのだろう。手取り足取り教えてくれた編集員には頭が下がる。
博士の研究助手として一緒に研究論文を書いてみたことはあったから、体験記を書くのは難しくないと思っていた。でも全然違っていた。そもそも文章の体裁が違う。
だけど。
これは絶対に残しておくべきことだと思ったんだ。
全ての研究者に対して。特に男性諸氏に対して。

 

***

 

エジプトでファラオウイルスの件を調査した時のことだった。

僕とギルモア博士、そしてフランソワーズはずっと詰めて文献を調べていた。
なかなか謎は解けない。なぜ感染した者とそうでない者がいたのか、それが全くわからなかったのだ。
三人とも日々疲弊していき、そして焦ってもいた。早くみつけなければとそれしか頭になかった。
だからフランソワーズに対して気をつけて接する時間的余裕も精神的余裕も、はっきり言って無かった。有り体に言えば、忘れていたのだ。
博士はもしかしたら、少しは気にかけていたかもしれない。
だけど僕は文字通り没頭して熱中して他はどうでもよくなっていた。
心のどこかで、仕事とはこういうものだと勝手に思っていたのかもしれない。
そう、「仕事」と言えばそれ以外を蔑ろにしても許される免罪符のように。
何しろ大義名分には事欠かなかった。実際、ウイルスは待ってはくれなかったのだし。

そんなある日、僕と博士がいつものように議論をしている最中、突然フランソワーズが話し出したのだった。それも自分の見た夢の話をだ。
正直、なんだそれと思った。僕と博士が真面目に話しているところへ割って入るほどのことかと思った。
邪魔をしないでくれ、これだから女は。そう思った。
だって、自分の見た夢の話だぞ?いま調べているファラオウイルスと何にも関係ないじゃないか。
頼むから、そういうくだらない話で邪魔をしないでくれ。

内心ではそう思っていらいらしていたけれど表面はそれを出さず我慢してつきあった。
話し始めてしまったのだから仕方ない。とりあえずふんふんと聞くふりくらいしないと機嫌を損ねてしまう。
今する必要のある話題とは到底思わないけれど、そこまでフランソワーズを邪険にすることは僕にはできない。
で、改めて耳を傾けて聞いてみると、やっぱりそれはかなり少女趣味な内容で――いや、待てよ。

なんだって?


と、いうわけで、結局フランソワーズの話がヒントとなって解決と相成った。
たかが夢の話。
されど――と、いうわけ。


で、教訓。
研究者(特に男性)は女性のどんな話にも耳を傾けるべし。そこにはきっとヒントがあるのだから。
そもそも研究者の傍らにいるパートナーが全く違う話をするわけがない。邪魔をするはずがない。
いや、百歩譲ってそれが本当に取るに足りない話だったとしても、絶対に意味がある。
それを肝に銘じて欲しい。


僕はそう書いたのだ。
フランソワーズに敬意を持って。

あるいは、もしかしたら一般論にしてしまってはいけなかったのかもしれない。
何しろフランソワーズはなんていうか、その、特別な女性なのだから。

でもこの原稿を見せたとき、フランソワーズは一読して可愛くウフフと笑った。
そうね男性諸氏には是非読んで頂きたいわとそうも言った。
そして、あなたはあの時こんなこと思ってたのね酷いわとちょっと睨んだ。

ウン。
確かに僕は酷かった。
だけど、あのあと詳しく夢の話を聞いたらきみのほうが酷かったじゃないか。
きみの夢のなかとはいえ、僕がファラオの扮装をしていたっていうだけでもじゅうぶんな罰ゲームだと思うし更にきみの脳内で僕は死んでいたってどういうことだよ?
そう詰め寄ったら謎の笑みで誤魔化された。
まったく、そう可愛く笑ったら全て許されると思ってるだろう?
いつもそうとは限らないんだからな。

 

 

 

……ま、許すけど。

 

 

今回は、ね。

 

 

 

***

 

 

僕は目的の品を購入して帰途に着いた。
注文して取り寄せていたのが今日入荷したのだ。

紅花のブローチ。

きっと似合うだろう。

 

雨の日は好きじゃないけれど、でも――特別なひとのためなら好きになれる。
出かけるとき、「熱でもあるの」ときみは言ったね。
そう、たぶん熱でもあるのだろう。

冷めない熱が。