「ちゅう」
「あっ、ジョー」 彼がF1のシーズンに入ってからは滅多に会うことは叶わず、今日は久しぶりのデートであった。 しかし。 ジョーは無言でフランソワーズの脇を通り過ぎた。 フランソワーズは唖然としてジョーの後ろ姿を見送った。 昨夜――いや、今朝のメールでは会うのが楽しみだねとお互いに書いていたのに。 なのに。
―1―
ジョーがこちらへやってくるのを見つけ、フランソワーズは満面の笑みになった。
マシンのセッティングに忙しいジョーが昼休みに入ったのだった。
待ちかねた時間である。
お弁当はジョーの好きなものばかりだし、飲み物にデザートも準備した。
あとは彼自身を連れてゆくだけであった。
彼女がそこにいるのに気付かぬように。
もちろん、声をかけられたことにも反応しない。
「…………!」
なぜ?
久しぶりに会ったのに。
無視?
フランソワーズは唇を噛み締めると身を翻した。
ジョーはいきなりみぞおちに衝撃を受け、体を折った。 何しろ相手が相手である。 「なんだじゃないだろうが」 大柄な女性はジョーの視線を真っ向から受けた。眼光鋭くジョーを見つめる。 「同じ女性として許せないね。今の狼藉は」 彼女はジョーの耳を無言で引っ張った。 「いてててて、なんだよもうっ」 そのジョーの耳から耳栓が転がり落ちた。 「はん。なるほどね。それで聞こえないってか」 彼女は声の大きさを通常モードにするとジョーの頭をがっしと掴み、彼の後方に向けた。 「見な。アンタの大事なお嬢ちゃんが泣きながら去ってゆく」 そんなはずはない。 そう反論したかった――が、そんな暇はないようだった。 「ぼやぼやしてないで追っかけな!」 言われるまでもない。 ジョーは脱兎の如く駆け出した。
―2―
「ぐっ……なんだいきなり」
反撃に移ろうとした刹那、自分を攻撃した相手を確認し戦闘態勢を解いた。
が、警戒は怠らない。
心を許せ信頼できる相手といえどそれと同じくらい油断してはならない相手。
それが彼女であった。
ジョーのチームのチーフメカニックであった。ジョーとは付き合いが長い。
「なんだ、俺の耳がおかしいのか。女性と聞こえたが」
「え?」
「え!?フランソワーズ?」
「アンタに無視されたから」
「え!?無視なんてしてないよっ」
「しただろ、思いっきり」
「え、だってさっきいなかった……」
「たく。またマシンのことばーっか考えてたんだろ。目の前にいても気付かないくらい」
「そ」
最愛のフランソワーズが目の前にいて気付かないなどありえない。
小さくなってゆくフランソワーズの姿を見ていると背中をどんと押されたのだ。
「――フランソワーズっ」 「ごめんっ、無視したとかそんなんじゃないんだ、つい耳栓したままだったの忘れててっ…」 息せききってまくしたてると、フランソワーズがこちらを向いた。 「…ジョー?」 戸惑ったような蒼い瞳。会いたくてたまらなかった彼女に間違いなかった。 「そんなつもりじゃなかった」 そう言うとジョーは唇を重ねていた。 「ん!ちょっとま」 フランソワーズの抵抗にもびくともしない。 「ちょっ…」 いくらアムールの国の女性とはいえ、ジョーの関係者の見てる前で恋人同士のキスをする気はフランソワーズにはなかった。 「――ひどいなぁ、フランソワーズ」 ジョーは顔を上げてフランソワーズからの赦しの言葉を待った。 「……なんのこと?」 フランソワーズはなんのことかわからないというようにちょこっと首をかしげた。 「いやだから、僕はきみに気付かずに――?」 確かにフランソワーズは手ぶらだった。 「――駄目ね。ジョーに会えるって思ったらそればっかりになっちゃって」 頬を染めて言う。 「だから急いで取りに戻るところだったのよ。ジョーこそどうしたの?」 フランソワーズに会えたのだからよしとしよう。 そう思った。 嬉しそうにジョーの腕に寄り添うフランソワーズにジョーの頬も緩んだ。 「卵焼き、入ってる?」
―3―
ジョーはフランソワーズに追いつくと彼女の腕をぎゅっと掴んだ。
「ごめんっ」
「え?」
ちなみにここは廊下である。ジョーのチームメンバーや関係者が通っていく。
しかしジョーはそんなことは目に入らないのか構わないのか、フランソワーズの頭を両手で支えると更にキスを深めようとした。
しかし最強のサイボーグであるジョーの腕からそう簡単に抜け出せるものではない。
だからフランソワーズは「つい」思い切りジョーのみぞおちに拳をめりこませていた。
ジョーにとっては本日二度目である。通常ならどうってことないはずだが、今日は運が悪かった。
ジョーはフランソワーズを離すと身を折った。
「だって、こんな場所で……」
「謝っただろう」
しかし、彼の目に映ったのはきょとんとした顔のフランソワーズであった。
「え。だってさっき――」
「?」
あれ?
「ええと。じゃあどうしてフランソワーズは走ってたの?」
「お弁当、忘れてきちゃって。車に」
「弁当?」
「ええ。ホラ、昨夜約束したでしょう。ジョーの好きなものばかり作ってくるわね、って」
「うん」
「さっき着いて、で――手ぶらで出ちゃったみたいなの」
「あ。いや――」
――はめられた。
ジョーの脳裏にチーフメカニックのにやりと笑う顔が浮かんだ。
――アイツ。全部見えていたくせに。
見えていたからこそだったのだろう。
「ジョー?どうかした?」
「え。いや――なんでもない」
とはいえ。
「ね。お弁当」
「うん。一緒に行くよ」
「ほんと?」
なんだかんだいっても彼女との時間は嬉しいに決まっている。しかも会いたくてしかたなかったのだから。
「もちろんよ!」
ふたりが仲良くお昼ごはんを食べている頃。
ジョーの「公衆の面前で熱烈なちゅう」が食堂で最も旬な食材となっていた。