「通信終了後の携帯にキス」

 

落ち込んでいる時って、どうしてこう何もかも駄目なんだろう。

今日はただ調子が悪かっただけのこと――と思い切ってしまえればどんなにいいだろう、と思いながら私はバレエ教室を後にした。
落ち込んでいるのを見かねて、お茶に誘ってくれた友人たちを頑なに断って。
とてもお喋りする気にならなかった。
友人たちはそれでも心配顔で、今日はひとりなんでしょうと何度も確認した。

そう――今日はひとり。ジョーは迎えに来ない。
彼は彼で、レースに忙しくシーズン中は私の送り迎えなどできるはずもないのだ。
なにしろ、今は日本にいないのだから。

ひとりで帰れる?と尋ねるみんなに手を振って。
大丈夫よ、帰れるわと笑顔を作ってみせた。
たぶん、そんな嘘の笑顔なんてばれていたのだろうけれど、それでも納得した様子をみせてくれた。
私が、――こういう時、心配されると余計に意固地になるのを知っているから。
それを解っていて、みんなに慰める機会を与えない私はきっと甘えているんだろうと思う。
こんな――落ち込んでワガママに自分ひとりの世界に沈み込むことが許される。

甘やかされている、と思う。

 

まっすぐ帰るのがイヤで、かといってどこかで時間を潰すのも気がすすまなかった。
だったら、私はどうしたいの?
自問自答して嗤う。

自分自身にもとんだワガママだ。

自分の思いさえ、意のままにならず――それが余計にイライラさせる。

こういう時は、何をしたって駄目だ。
きっと、部屋で丸くなって、自分のなかの嵐が過ぎるのを待つしかないのだろう。

じっと――ひとりで。

 

落ち込んでいるからと誰かに頼っても、それは一時的な救いを得られるだけ。

それでも、救われればいいとも思う。

でも。

それに慣れてしまえば、毎回誰かがいないと駄目になってしまう。
自力で立ち上がることができず、常に誰かに依存している存在であることは、私の望むところではなかった。

例え相手がジョーでも。

――ううん。

彼は、そんな風には私を甘やかしてはくれない。

手を貸したりなんてしてくれない。

ただ、

 

・・・隣にいるだけ。

 

どんなアドバイスをするのでもなく。
抱き締めるのでもなく、頭を撫でてくれるのでもなく。
かといって、泣いていいよって胸をかしてくれるわけでもない。
なんにもしない。

ただ、そこにいるだけ。

どうしたの、って無理矢理聞き出そうともしない。
たぶん、ひとによっては冷たいひとだと受け取れそうなくらいに素っ気無い。
きっと彼は自分に興味がないのだろう――と、寂しくなるくらいの。

でも、違う。

本当に興味がないのなら、心配してそこに居てくれたりなんかしない。

 

 

 

いつものバス停のひとつ手前で降りて、海岸線を歩くことにした。
別に、落ち込んでいるから海が見たくなったというわけではない。ただ、うまい時間の潰し方を思いつかなかっただけ。

 

しばらく砂を爪先で蹴りながら歩いた。
靴の中がざりざりして不快だった。

まったく、どうしてこう――

イライラする気持ちを数えあげようとしたところで携帯電話が振動した。今日は電話すらタイミングが悪い。
トゲトゲした気持ちを抱えて電話に出た。

 

「――もしもし、」

 

聞こえてきた声は、とてもよく知っている声で。
いつもの、変わりのない――声だった。

タイミングがいいのか、悪いのか。

私はぽつりぽつりと適当に相槌を打ち始めた。
とても――明るい声なんて出せなかったから、彼の話を聞く側に回った。

 

 

 

 

 

「――ええ。それじゃ、」

 

何分くらい話しただろうか。
おそらく、数分の単位だろう。

 

・・・ジョーったら。

 

いつもの彼。
きっと今頃は、もう私のことなんか忘れてしまって車のことに専念しているわね。
頭のなかはそれでいっぱい。
しょうがないんだから。
でも、そんなところも好き。

どうして電話をしてきたのか最後までわからなかったけど、でも、いい。
声を聞けたのは嬉しいから。

ジョーの照れたような声が好き。
電話越しの、くすくす笑う音が好き。
「えっ・・・」って絶句する間も好き。
でも、電話を切る時は意外に素っ気無いところも好き。
余韻、とか、きっと全然考えてないに違いない。
でも――そこも、好き。

知らず、くすくす笑っていた私は、フラップを閉じた携帯を見つめ、――海を見つめ、爪先を見つめ――

思い出した。

 

そういえば、私、落ち込んでいたんだった。

 

確か、イライラする気持ちを数えようとしていて――

 

だけど。

 

イライラする気持ちなんて、いまはこれっぽっちも残っていなかった。
心の中はたくさんの「好き」でいっぱいだった。

「好き」を数えるのは幸せな気持ちになるから、好き。

 

――私、落ち込んでいたんだっけ。

 

その原因すらも、今はとてもちっぽけな事に思えた。

そう、大したことではない。

私はそのくらい、乗り越えられる。簡単に。――ええ、簡単だわ。何よ、こんなことくらい。

 

明日になったら。
友人たちとケーキを食べに行こう。私から誘って。
今日、心配をかけてしまったそのお詫びとたくさんのありがとうと一緒に。

 

私は携帯を握り締め――そうしてそっとキスを送った。