「口元、拭き拭き」

 

 

 

がぶり、という音が聞こえたような気がしてジョーは思わず身をすくめた。

敵とはいえ、少し――いや、かなり――気の毒である。
何しろ、物凄く痛そうなのだから。

ジョーは敵の今の気持ちを慮り、同情にも似た思いでその光景を見つめていた。
が、それがじれったかったのだろう。
噛み付いた人物はきらきら輝る瞳をこちらに向け、空いている右手で早く行けと促した。

ジョーははっと我に返ると脱兎のように駆け出した。
任務を遂行するためと、目の前の無惨な光景から一刻も早く逃げ去りたいという主に二つの理由から。

 

それから数分後。

敵の司令室を制圧したジョーの元にフランソワーズがやって来た。


「ジョー、終わったの?」
「あ、ああ」
「そう」


フランソワーズはジョーの視線に気付き、口元を手の甲で乱暴に拭った。
ミッション中の彼女はかなりオトコマエである。

「イヤね、もう」

ジョーの視線のことなのか、自分の先刻の「仕事」のことなのか、何を指す「イヤね」なのかジョーにはよくわからない。だから曖昧に頷いたのだけれども、口元を拭うフランソワーズの手の甲に赤いものが混じっていることに気がついて急に頭に血が昇った。

「フランソワーズ!」

突然の激高にフランソワーズはついていけない。

「な、なあに?どうしたの、急に――」
「見せて」
「えっ?」

何を?と訊く間もなく顎を持ち上げられ、口を開けろと命令された。

「嫌よ、何なのよもう」

しかしジョーの顔は真剣だ。決してぶざけたりじゃれたりしているわけではない。
だから仕方なくフランソワーズは口を開けた。
ジョーはそのなかをじっと探るように見つめている。

そして、大きく息をついた。

「よかった。ケガをしたわけじゃないんだね」
「え?」
「ホラ、血がついていたから、どこか切ったのかと思って」

でも大丈夫みたいだ、良かったと笑顔を見せた。

そんな彼をフランソワーズはやや複雑な思いで見つめていた。

自分のことを心配してくれるのはうれしいけれど、今のこの場合、状況的に「敵が出血した」と考えるのが妥当だろう。何しろフランソワーズは渾身の力をこめて噛み付いたのだから。
なのに、ちょっともそう考えないのは009としてどうなのだろうか。
とはいえ。
敵の腕を噛み千切る恐ろしい女、とジョーに思われたいわけでもない。
だから、彼がそっち方面に気付かないのは幸いなのかもしれない。
いくら敵を引き付け足止めし009を先に行かせる作戦だったとしても、まさか敵の腕に噛み付くことになろうとはフランソワーズとしても想定外のことだったのだし。


「うん?どうかした?」

フランソワーズがあれこれ考えているのを知ってか知らずか、目の前にある彼の顔は無邪気そのものであった。

「――ううん。なんでもないわ」

彼の手は自分の顎にかけられたままだ。
フランソワーズは少し背伸びすると、そのままジョーの唇にくちづけた。

「えっ?!」

身を離そうとするジョーの首筋を抱き締める。


――いいじゃない。少しは味わわせなさい。敵の腕を食べたなんて後味悪いったらないでしょう?

 

 

その後、しばらくして離れたふたりはお互いに少し恥ずかしそうに口元を拭った。