「好きなもの」

 

 

それは、ある朝のことだった。
既に習慣になりつつある、ギルモア邸で飲む朝のコーヒー。
その日もナインはいつものようにやって来た。

「あ、ジョー、おはようっ」
「おはよう。元気いいね」
「ええ!」

朝から元気なスリーというのもいつものことだったけれど、今日はいつもよりやや元気度が上だった。
ナインはそれに気付いたものの、何か嬉しいことでもあったのかなと思うに留めた。
そうしてスリーがコーヒーを持ってやって来た。
ナインの前にカップを置くと、スリーは彼の隣にちょこんと腰掛けた。
これもいつもと同じだった。
が、しかし。


「――ん?」


スリーはどこからかメモ帳を取り出すと、体ごとナインの方を向いて質問を始めたのだった。

「ジョーの好きな飲み物は?」

ひどく真剣な顔で言うのだ。
ナインは無言でコーヒーをひとくち飲むと、少し顔をしかめて答えた。

「・・・フランソワーズのいれたコーヒー」

今更、何を当たり前の事を訊くのだろう?
しかし、スリーは真面目な顔でメモをとると次の質問を繰り出した。

「好きな食べ物は?」

ナインは横目でスリーを窺った。
彼女の意図は何なのだろうか。

ナインは口を開いた。

「フランソワーズの得意な料理は何だっけ」
「ハヤシライスよ」
「じゃあ、それ」

スリーはちらりとナインを見たが、すぐに視線はメモに向かった。

「じゃあ次ね。好きな花は?」
「・・・フランソワーズは何が好きだっけ」
「チューリップ」
「じゃあ、それ」

スリーは、何か変だわと軽く唇を尖らせた。

「じゃあ、次ね。好きな色は?」

スリーは、フランソワーズの好きな色は?と訊かれても絶対答えないわと強く自分に言い聞かせ、ナインの答えを待った。


「蒼」


しかし、今度はあっさり答えられ、スリーは何だかすっきりしない気分になった。

「んんと、じゃあ次。好きな場所は?」

ナインはカップの影からちらりとスリーを見てから答えた。

「・・・別に無い」
「無いの?」
「・・・悪いか?」
「ううん、でも・・・」


二人で行った場所とか。
あるいは、個人的な思い入れのある場所とか。

そういうものはないのだろうか。


「・・・じゃあ次ね」


スリーがメモに目を落とすと、ナインが遮るようにメモ帳に手を置いた。

「さっきから、いったい何なんだ?」
「調査よ」
「何の」
「ジョーの」
「僕の?」
「ええそうよ」
「・・・何で」
「だって知りたいんだもの。ジョーのこと」
「だったら直接訊いたらいいだろう?」
「ええ。だから訊いてるの」

スリーはナインの手からメモ帳を引き出すと、再びそれに向かった。


「好きな場所は無し・・・と。じゃあ次。好きな本は?」
「・・・フランソワーズ」

低い低いナインの声に、スリーは目を上げた。

「なあに?」
「・・・そういうものは、時間をかけて知っていくものじゃないのかな。普段の会話とかさ」
「だって、比べたいんだもの」

スリーが軽く唇を尖らせる。
そんな顔してたらキスしちゃうぞ――と思いつつ、ナインはコーヒーを飲んだ。

「――比べるって?」
「ハリケーンジョーと島村ジョー」
「!?」

ふざけているのかとスリーを見るが、彼女は至って真面目だった。

「あのさ。それって」
「だって、違うんだもの!」

見て!とスリーがどこかから雑誌を取り出した。
おそらくそれは、F1専門誌などではなく女性誌なのだろう。
そこには「ハリケーン・ジョー大解剖・彼の秘密を探っちゃおう♪」という文字が躍っていた。
ああ、そういえばそんな取材もあったっけな――とナインが宙を見つめぼんやり回想していると、スリーは雑誌をテーブルに置いて、更にナインににじり寄った。

「だから、知りたいの、ジョーのこと」
「・・・うーん・・・」

わからないでもなかったが、それでもやっぱりわからない。
ナインにしてみれば、雑誌取材に何をどう答えたものか憶えてなどいなかったし、大体――真面目になど答えていないのだ。それだけは確かだった。

「ほら、見て!好きな食べ物は卵焼きって書いてあるわ!」
「うん、そうだね」
「でもさっきはハヤシライスって言ったわ」
「うん、そうだね。でも」

僕が言ったのは、フランソワーズの作ったハヤシライスっていう意味なんだけど。と彼が付け加える前に、スリーは続けて言った。

「好きな飲み物だって、日本茶って書いてあるわ!ジョーがそんなの飲んでるの見た事ないのに」
「・・・いや、それはだな、コーヒーって言うと」

他でもコーヒーを飲まなくてはならなくなってしまう。僕はきみの淹れたコーヒーしか飲まないのに。と、言おうとしたが、これもスリーに遮られてしまう。


「ねっ!?ハリケーンジョーの時は違うジョーなのよ!」


「・・・・・・・・・・えっ?」


「だから、見た目は同じひとでも中身は違うのよ!」
「あの、フランソワーズ」
「だから知りたいの」
「ええと」
「どこがどう違うのか、知っててもいいでしょう?」

そう言ったスリーの顔が、笑っているような泣いているような顔に見えてナインは黙った。

「・・・ジョーは、こうして一緒にいるときは近いけど、でも・・・ハリケーンジョーの時は全然知らない遠い人だから」
「フランソワーズ」
「んん、いいの、妬いているわけじゃないし、寂しいって泣いたりもしないわ。そうじゃないの。だってハリケーンジョーのファンだもの、私」
「・・・」
「でもね、ハリケーンジョーのことはこうやって本に載っているけれど、ジョーのことは・・・訊かなくちゃわからないでしょう?ジョーの言う通り、少しずつ知っていけばいいかな、って思うけれど」

ナインはスリーをちらりと見ると、コーヒーを飲み干して身体をソファの背もたれにあずけた。

「――僕のことなんて、自分でもわからないさ」
「でも」
「いいかい?」

ナインは身体ごとスリーの方を向くと人差し指を立てた。

「今までのきみの質問に僕はなんて答えてた?」
「えっ?」


――フランソワーズの好きな花は?

――フランソワーズの得意な料理は?


「・・・ふざけて答えてたんじゃなかったの?」
「そんなわけないだろ。全部真面目だ」
「でも・・・」
「僕の好きな色は何て言った?」
「・・・蒼」
「きみの色だ」
「・・・」
「僕の好きな場所は?」
「別に無い、って・・・」
「フランソワーズの好きな場所は?」
「えっ?ええと、・・・みなとみらい、とか・・・」

初めてちゃんとデートした場所。それ以来、ふたりでよく行く場所。でもそれは、ナインには意味がないようだったから、彼の好きな場所は無いと聞いてショックだったのだ。

「ふうん。――僕はね」

ナインはスリーの頭に手を乗せると天井を見つめた。

「簡単さ。僕の好きな場所はきみの居る場所全部だ」
「・・・ずるいわ、そんなの」
「なぜ」
「だって、そうしたら私だってそうなのに」
「・・・そう?」

ナインの顔がスリーの方に向く。

「そうよ」

スリーもナインを見つめる。そうして、どちらからともなく少し笑った。

「データなんか要らないよ。全部フランソワーズが知ってることしか僕も知らない」
「でも、じゃあこの雑誌のは」
「ん。テキトー」
「まあ、ジョーったら!」
「だから比べても意味がない」

 

それにきっと――僕のことはきみの方が誰よりもよく知っていると思うしね。