「お揃い」
ナインは窮地に立たされていた。 過去にこのような目に遭ったことがあっただろうか。 いや、無い。 無いはずである。 ――積極的に忘れようとする努力。 なぜか自身の言葉に反応した。 忘れろ。 忘れていろ。 しかし。 ――ピンク色の。 ・・・変な汗がひとすじ流れた。 ナインは気を鎮めるためにいったん目を閉じた。 *** ショッピングの帰りなのだと言う。 「なっ、なに?」 合鍵を持っているのはスリーしかいない。だから登場したのはスリーに決まっているのだけど、今日は会う約束はしていなかった。 「お買い物に行ってたのよ」 言葉とともにベッドサイドまでやってくる。 「買い物。へえ・・・」 そんなことは聞いていなかった。もちろん、誘われてもいない。が、ナイン自身は彼女の「買い物」につきあうのは稀であったし極力避けたい行事のひとつでもあったからどうでもよかった。 「たくさん買ったのよ。ほら、これなんだと思う?」 日傘。 「それから、サンダル。可愛いでしょう?」 華奢なつくりのサンダルだった。 「それからね、ほら、ワンピース!後で着てみるから見てね」 それはいいかもしれない。 「でね。それから」 いったい紙袋はいくつあるのだろうか。 「じゃーん!これはジョーにっ」 素敵? 「ええと、・・・シャツのようだけど」 それは確かにそうだった。 「クローゼットの中に同じ服しか入ってないんだもの」 それに素材も、と言ってみたがスリーは聞いてくれなかった。 「だからね、たまには黒じゃないのを着て欲しいの」 そうして広げられ、肩にあてられたシャツはナインが一度も着たことのない、否、着る気もない色だった。 「やっぱり似合うわ!」 満面の笑みで言われても、ナインとしてはただ憮然としているしかない。 「お揃いにして良かった!」 お揃い? ――さらりと恐ろしいセリフを言われたような気がする。 「ね。着てみて」 ナインは自分の胸にあてられたシャツをじっと見た。 じっと見守る蒼い瞳。 「・・・」 そしてナインは自分が窮地に立たされたことを知った。 着る? これを? いま? 起きぬけの頭には難問すぎるだろう。窮地を脱するうまい方法が見つからない。 「・・・わかった。着るよ」 そうして戦利品を掻き集め、嬉々としてリビングへ行ってしまった。 ナインはいま一度、手元のシャツを見た。 が、そのストライプはピンク色だった。
あれば克明に覚えているはずであり、簡単に忘れるわけがない。積極的に忘れようと努力しない限り。
何か思い出しそうである。
――思い出すな。
花柄の。
そう――思い出してしまった。昨年の夏のことを。
そういえば、あの時も今と同じような状況だった。
あの時もかなりの窮地に陥ったと思ったけれど、なんとかうまく乗り切った。だから、今度もきっとうまく乗り切れるだろう。相応の忍耐を必要とするだろうけれど。
いったん甦った記憶は、未だに目を背けたいシロモノだったけれど、思い出したからには活用しなくては。
なにしろ、同じ窮地なのだから、経験が脱出法を導いてくれるはずである。
そして深呼吸をして――目を開けた。脳裏に浮かんだ「今の状況に最適な言葉」を言う為に。
「――わかった。着るよ」
ともかく、妙にハイテンションのスリーがナインのマンションを急襲したのだった。両手に紙袋を提げて。
日曜だったし、昼過ぎまで惰眠をむさぼっていたナインは驚いた。何かけたたましい音がしたかと思うと、いきなり寝室のドアが大きく開かれたのだから。
彼女は「来ちゃった」と勝手にいつでもやって来るような自分勝手な恋するオトメではない。
だからこそ合鍵を渡してもいいとナインは判断したのだ。
それが――急襲?
女の買い物に付き合うのは、男の苦行のひとつといっても過言ではないと常々思っているのだ。
だからナインはそのまま黙った。普通ならここで「何を買ったのか」を尋ねるのが礼儀というものだろう。話の流れからいってもそうだ。がしかし、そのセリフを言ったら最後、いつ解放してもらえるのかわからない。過去の経験がそう告げる。だから賢明に黙っていたのだけど、生憎スリーはナインのそのセリフを待ってはいなかった。
「なにって・・・傘?」
「そう!可愛いでしょう?日傘よ。これからの季節の必需品なんだから」
「・・・」
目の前に広げられたそれは、アイボリーの生地にベビーピンクのひらひらレースで縁取りされたものであった。スリーが言う通り、可愛いといえば可愛い日傘である。がしかし。
――確か日傘って何本か持っていたよな?
が、声には出さない。
「・・・そうだね」
が、それも確か何足か持っていたはずだったよなと思った。
日傘も靴も、ナインから見れば既に持っているものとどこがどう違うのかさっぱりわからない。だから、どうして同じものを買い足すのが不思議でならなかった。
「ああ」
可愛いスリーを見るのは好きである。
際限なく戦利品を並べられ、ナインはふと「獲物を見せる猫」を前にしたかのような感覚に襲われた。
たぶん、そんなに遠い類似ではないだろう。
「へ?」
「へ?じゃないわ、ジョーにも買ってきたの。素敵でしょう?」
「す・・・」
「そうよ。シャツよ。だってジョーったら、いっつも黒いシャツしか着ないでしょう」
夏でも冬でも、ともかく一年を通して黒いシャツを着る日は多い。
「あ。それは失礼だろう。色は同じでも形は違うぞ」
「なぜ」
「うふ、だってそれはね――ともかく着てみて!」
「・・・」
「お・・・」
「今?」
「そうよ?サイズが合っているか心配だもの」
たぶんサイズは大丈夫だろう。スリーがそんな間違いをするとは思えない。
もしも自分のシャツを買うのが目的であれば、入念にチェックしているに違いないのだ。
期待に満ちた目で。
だから、ナインは今までに経験した同等の窮地をひっぱりだし、同じように対処するしかなかったのだ。
「まあ!良かったわ!じゃあ私はむこうでお茶を淹れてるから、来てね」
後に残されたのはナインとシャツ。
それは、白地に細かいストライプのはいった半袖のシャツだった。夏素材で涼しげな。
たぶんいつものような黒だったらナインに抵抗はなかっただろう。