「寄せて上げて」
〜スリー奮闘記〜
イタリアGPの後、スリーは心に決めていることがあった。 それは 世の中にはスタイルの良い女性というのはたくさんいる。けれどもそれは、グラビアの世界だけの話だと思っていた。実際に、出るところがでてひっこむところがひっこんでいてすらりと細くて・・・という完璧なスタイルの持ち主は普段の生活で見かけることは無い。だから、別の世界の話だと思っていたのだ。 が、しかし。 モータースポーツの世界ではそうではないということがわかったのだ。 キャンペーンガール。グリッドガール。その他もろもろ。 これはスリーにとっては少なからずショックだった。 自分の世界では、むしろ胸など小さめのほうが良かったし、実際にはそういうひとばかりだったのだからそういうもんだと思っていたのだ。 しかし、ナインの世界は違う。 彼は常にこういう女の子たちに囲まれて仕事をしていたわけである。そんななか、自分はなんと見劣りすることだろう・・・と落ち込んだ。 バレエの友人に聞いてみたら、そんなのみんなしてるわよ、デートの時とかと言われ、驚いた。 しかし。 そんなわけで、今日は「寄せて上げる」ための下着・・・というわけではなかったが、ともかく買いに来ているのであった。 「あ、あの。パットは・・・いいです」 試着室でスリーと店員の応酬は続く。 「とにかく、この脇とお腹からお肉を集めてカップに入れるのよ」 そうだろうか? そんな遣り取りをしつつ、コツを教えてもらいつつ、スリーはサイズがひとつ上の下着を購入した。 「ただいま」 ――殆ど勢いで買っちゃったけど、・・・ううん。別に普通の下着よね? ――そんなには。 ・・・たぶん。
この次にレースを見に行く時は、「寄せて上げて」行くのよ!!
という、レースとは全く違うものであった。
薄着の上に、どの女の子もこのままグラビアモデルが務まるのではないかと思うようなスタイル。
しかも、顔の造作も可愛らしく美しく、全体的なバランスもよい「美女」揃いだったのである。
ナインは、そんなことないよ、気にするなと優しく言ってくれたものの、それでも落ち込む気持ちは消えなかった。
彼が自分を笑わせようと冗談交じりに、僕が大きくするからと言ってくれたのも辛かった。
何しろナインはそんなことを言うようなひとではないからだ。それが、頬を赤らめて無理して言ってくれた。ひとえに、落ち込んでいる自分を慰めるための冗談を言うために。
ナインの気持ちは嬉しかったけれど、自分はそんなに貧相なのかとますます落ち込んでしまったのも事実だった。彼の手前、その話題は二度と持ち出すことはなかったけれど。
そんなわけで、今日は気合いをいれてここ下着売り場に来ていたのだった。
「なあに、フランソワーズ知らなかったの」
「え、だって・・・」
「私たちってダンサーだから、殆ど筋肉で脂肪がつかないでしょ。だからこそ、絶対やらなくちゃいけないワザなのよ!」
「ワザ?」
「そ。カレシとのデートの時は絶対、よ!」
「・・・そうなんだ」
「そうよ」
スリーもいちおう、「寄せて上げる」のがどんなことなのかは知っている。が、特にふだんは気にしていなかった。
なんだかインチキのような気がしなくもなかったからだ。
「インチキなんかじゃないわよ。そうやって整えたほうが形だって綺麗にでるから、お洋服もすっきり着られるわ」
「・・・そうなの?」
「そうよ。胸の谷間を見せたほうがいいような場合もあるでしょ。ドレスアップした時とか」
「あらでも、こうしていれたほうが下からのラインが綺麗よ」
「でもあの、これって上げ底ですよね」
「お洋服を綺麗に着るためよ」
「いえ、でもこれは」
「えっ、でもそれは胸じゃ・・・」
「何言ってるの、脂肪なんだから集めればいつか集まってくるわ」
帰り道、バスを降りてからギルモア邸への坂道を登りながらスリーは上機嫌だった。何しろ、店員と何度も試して決めたものはデザインも可愛らしい上に、寄せて上げると本当に胸が綺麗に見えたのだから。
これで、シンガポールGPに行く時は引け目を感じなくてすむわ!
自分が貧相で申し訳ないと思わずにすむだろう。
もちろん、キャンペーンガールたちには遠く及ばないとしても、多少は違うだろう。
――ジョーは気付くかしら。
そう思った途端、頬が燃えるように熱くなった。
イヤだ、私ったら!ジョーが気付くも気付かないも関係ないじゃない。大体、ジョーだってそこばっかり見てるわけじゃないし、実際に普段そういう視線を感じたことだってないんだから。
そうっと自分の胸元を見る。
ジョーが見るときっていうのは、その・・・そういう時だけ、で・・・
更に頬が熱くなる。
ううん、もう!そういうのだって、そうそうあるわけじゃないし、って私ったら何言ってるのかしら!
しかし。
でも・・・そうなった時に、あれ、外したらそうでもないんだ?なんて思われないかしら?
上げ底だったのかなんて思われたら?
途端に今度は血の気が引いた。
気付かれたらジョーに軽蔑されてしまうかもしれない。そんなの、絶対にイヤ!
考えただけで涙が出そうになった。
そんなの、・・・がっかりされたりしたら、どうしたらいいのかわからないわ。
だから、決めた。
――そうよ。これは、レースの時だけにすればいいんだわ。スタイルのいい人たちばっかりの時だけ。普段はしないの。普段はいつも通り、よ。それにレースの時はジョーだってきっと私なんか見てないだろうから、気付かないわ。だから普段と違うっていうことだってわからないはず。
そうよ!これは私の自己満足なんだから。ジョーは関係ないんだから。
それに・・・レースが終わったあとに、ジョーとどうかなる、なんてことはないんだし。
「お帰りスリー。アニキが来てるよ」
「えっ?」
セブンにデパート地下で買ってきたおやつを渡しながらリビングに入ると、そこにはナインがいた。
「やあ。お帰り」
「た、ただいま。ジョー、今日来るって言ってなかったわよね」
玄関脇にナインの車があったかどうか考えてみたが思い出せなかった。たぶん、あったのだろう。が、ずっと色んなことを考えていたから、目に入っていても認識してなかったに違いない。
「うん。でもちょっと時間の都合がついたから」
「・・・そう」
にっこり笑うナイン。つられてスリーも微笑んだ。
今日は会えないと思っていたから、単純に嬉しかった。
「買い物?」
「えっ?」
ナインがスリーの持っている紙袋を目で示す。
「え、ええ」
思わずそれを背中に隠しながら、彼の目が自分と同じように透視ができるのでなくて良かったわと思った。
「何買ったんだい」
「秘密っ」
言うと、くるりと身を翻して自室に逃げた。
ナインに他意はないとわかっていても、なんだか気恥ずかしかった。
部屋で包みを解いて、ベッドの上に広げた。
そうよ、デザインが可愛かったから買ったんだもの。
別にジョーは関係ないわ。
だってジョーが見るときなんてないもの。