「海」
〜2009年夏休み特別企画より抜粋・旧ゼロ編〜

 

 

「うわあ、綺麗なところねぇ!」

まだそこに着く前から、眼前に広がる景色にスリーはおおはしゃぎだった。

「ほら、あまり乗り出すと落っこちるぞ」
「あら、ジョーはそんなことしないもん」
「そんなのわからないぞ?」
「しないでしょう?知ってるんだから」

ナインは微かに頬を赤らめると、わざと乱暴にハンドルを切った。
遠心力でスリーの身体が思い切り外側に振られる。

「あっ、やん、落ちるっ」
「ふん。シートベルトをしてるだろう――」

言いかけてちらりと見た隣のシートで、本当にスリーが落ちそうになっているのを見つけナインは顔色を変えた。

「ばっ、何やって」

シートベルトを外し思い切り腕を伸ばして掴まえるのと同時にブレーキを踏む。
今度は慣性の法則にしたがって、二人の身体が前方に振られる。
ナインはスリーの腰を抱き寄せると同時に頭をぶつけないよう腕でガードし胸の中に抱きかかえた。
そうして二人もろとも座席の下に転げ落ちた。

「バカヤロウっ、どうしてシートベルトをしてないんだっ」
「だって、――つい、よ。つい」
「いつ外した?」
「さっき」
「だから、いつ」
「・・・ジョーがちゅーしてきた時」

ナインは無言でスリーをぽいっと離すとむっつりと運転席に座り直した。

「・・・ジョー?」

スリーが同じく助手席に座り直しながら、ジョーの顔を窺う。

「怒ったの?」

それでもナインは答えない。硬い声でシートベルトをしろと命令するだけである。
スリーはしょんぼりとシートベルトを締めた。
それを確認して、ナインは改めて車を発進させた。

しばし無言の時が流れた。

「・・・もうすぐ着くぞ」

ぼそりとナインが言うけれど、スリーはじっと前方を凝視したまま反応しない。

「・・・フランソワーズ?」

それでもスリーは答えない。
ナインは軽く肩を竦めるとそれっきりスリーの方を見なかった。

 

***

 

「・・・着いたぞ」

エンジンを切ってキーを引き抜く。
が、隣のフランソワーズはのろのろとシートベルトを外し、これまたのろのろとドアを開けて降りた。ひとことも発しない。
ジョーは小さくため息をつくと自分も車を降りた。そして車の後ろに回りトランクから荷物を取り出す。
スリーは後部座席からバッグを下ろしていた。
その横顔はさっきのはしゃぎぶりから比べるとまるでお通夜だった。

「・・・フランソワーズ」

ナインはスリーの手から荷物を取り上げると肩に掛けた。顔を逸らす彼女の頬に手をかける。

「海に行きたいといったのは君だよ?そんな顔してたらつまらないじゃないか」
「・・・だって」
「僕が怒ったのは、本当に危ないからだよ?イイコはちゃんとシートベルトをしなくちゃ駄目だ」

ちらり、とスリーが顔を上げてナインを見つめ――そして、バッグの肩ヒモを掴んでいる彼の腕に目を遣った。

「ジョー。ここ・・・」
「ん?――ああ、大したことないよ」
「でも痣になってる」
「そうか?」
「ここ、さっきどこかに」

ぶつけたのだろう。そんなことは一言もナインは言わなかったけれど。

「ね、ジョー」

ナインはにっこり笑むと「行くぞ」とスリーに背を向けた。
スリーは無言でその背中を見つめていた。
自分がふざけてはしゃいだせいで彼にケガをさせてしまった。
それだけが心を占めており、とても――海で遊ぶ気分にはなれなかった。そんな気持ちはどこかに行ってしまった。

「――ほら。フランソワーズ」

ナインが足を止めて振り返る。
立ち止まったままのスリー。唇を噛み締めている。真っ白いサンドレスが潮風になびく。
ナインは眩しそうに目を細めると、しょうがないなと頬を緩めた。

「ほら。お揃いの水着を着るんだろう?・・・いいのかなぁ、来ないとお揃いにならないんだけど?」

スリーがぱっと顔を上げる。

「僕だけだったらあれ着るの、かなり恥ずかしいんだけど?」

スリーは数歩で駆け寄ると、ナインの首筋に飛びついた。

 

***

 

「おっそろい、おっそろい、うっれしっいなー」

口ずさみながら砂浜をスキップするスリー。ひとりで荷物を全部持ったナインの周りにじゃれつくようにして。

「・・・フランソワーズ。邪魔」
「ま。酷いわ、ジョーったら」

そう言う間にもナインの目の前でじいっと彼の顔を見つめるスリー。

「後ろ向きで歩くと転ぶぞ」
「平気よ。私にはちゃあんと見えるもの」
「・・・見えるわけないだろ。背中に目があるわけじゃないんだから」
「あら、あるのよ。知らなかった?」
「・・・・」

ナインはじっとりとスリーを見つめた。その額には汗が光っている。いくら009とはいえ、全部の荷物をひとりで運んでいるのだ。この炎天下で。いくら真っ白いサンドレス姿のスリーが目の前にいて、しかもそのドレスが時々陽に透けて彼女の身体のラインが浮かび上がったとしても、それをゆっくり楽しむ余裕はナインにはなかった。

「・・・後で調べるぞ。背中」

低い声で宣言してみるが、スリーは既に目の前から消えており、今は数メートル先をスキップしている。先刻と同じフレーズを口ずさみながら。

――全く。そんなにお揃いが嬉しいのかよ?

 

***

***

 

「私、海に行きたいな」

えっ。

「プールって前に言ってたよな?」
「ええ。でも海もいいなぁって。そう思わない?」

思わない。
それはもう、全く思わない。
むしろ、できればプールだってやめたいのだ。それをなぜ海まで追加する。

しかし、僕の苦悩をよそにスリーはにこりと微笑んだ。

「知ってるわ。ジョーは、おそろいの水着が恥ずかしいのよね」

・・・わかっているなら、どうにかして欲しい。

「でも、もしも誰もいない海だったら?」
「誰もいない海?」

何だ、その歌詞のような海は。そんなところがあるというのか。
ちなみに今はまだ夏で、残念ながら秋ではない。従って歌詞のようにはならないと思うのだが。

「ね。この葉書を見て」

ひらりとどこから出したのか、スリーの人指し指と中指の間には一枚の葉書。
差し出されるままに受け取ると、それは一面に綺麗な海の写真がプリントされていた。

「・・・確かに誰もいない海だな」
「でしょう。ここならいいじゃない?私たちしかいないんだから」
「うーん」
「だめ?」

上目遣いにこちらを見るスリー。

・・・まったく。
だめなんて言える訳がないじゃないか。

 

そんな会話を交わしていた数日前を思い出す。

――お揃いの水着なんて、着るつもりはなかったのに。

けれどもついさっき、自分で宣言してしまったのだ。おそろいを着るぞと。
そうしなければ、スリーはきっと今もしょんぼりしたままだっただろう。そんな事は許せなかった。

・・・でも、まあ、・・・いいか。あんなに喜んでいるんだし。

ナインにとってスリーの笑顔は何よりも大事なのだった。

――しかし。それにしても――

「おい、フランソワーズ。あの建物は何だ」
「えー?なあに?」

数メートル先のスリーがこちらを向く。汗だくのナインは声を張り上げた。

「あの建物だよっ。誰もいないはずじゃなかったのか」
「んー。知らないわ」
「知らない、って・・・」

ここに行こうと言ったのは君じゃないか。誰もいないから、って。誰かがいるとしたら詐欺だ。

「いいじゃない。きっと海の家か何かよ。冷たいものが飲めるかもしれないでしょ?ジョーは飲みたくないの」
「いや、飲みたいけど問題はそこじゃなくて――」
「何よ、もう。さっきから怖い顔しちゃって。荷物が重いんでしょう?だからはんぶん持つって言ってるのに」
「ふん。君に持てるもんか」
「あら、そんなの試してみなくちゃわからないじゃない。ほら、はんぶん貸して」

手を伸ばすスリーを避けるようにナインは歩き出す。

「メンドクサイから持ってくよ」
「ん、でも・・・汗びっしょりよ?」

スリーはポケットからハンカチを取り出すと、歩くナインに小走りに近寄りその額の汗を拭った。

「いいよ。いらない」
「ダメよ。ほら、目に入ったらどうするの」
「いいったら――」

うるさそうに顔を振って、それでもしつこく汗を拭くスリーをやりすごそうとした。が、それは叶わなかったので、ナインは荷物を全部放り出した。

「えっ、ジョー?」
「うるさいっ」

そうして怒ったようにスリーの両肩をがっしり掴むと有無を言わせず唇を重ねていた。