「海」
〜2009年夏休み特別企画より抜粋・旧ゼロ編〜


(あれこれ事件があったけれど、それも解決した後の話)

 

 

辺りを見回して危険はないと判断したナインは、肩を竦めると改めてスリーに向き直った。・・・つもりだった。

「・・・あれ?」

つい先刻まで――ナインが目を離すまでそこにいたはずのスリーの姿が忽然と消えていた。

「・・・っ」

ナインは舌打ちした。

――油断した。

何故手を繋いでいなかったんだろう。何故肩を抱いていなかったんだろう。何故――
これではどんなに周囲に気を回したって意味がないではないか。現にスリーはここにいない。

空の蒼さと砂浜の白さが目に滲みて、ナインはくらくらした。
いったい、スリーはどこに・・・

「ジョー!こっちよ!」
「――えっ」

ナインの視線の先にはスリーがいた。にこにこして手を振っている。彼女の周囲には彼らが持って来た荷物の山があった。

「・・・フランソワーズ」

ナインは声を押し殺し、怒りも露わに砂浜を踏みしめつつ彼女の元へ急いだ。

「ジョー。ね。これ、膨らませて?」

スリーの手にはビニール製の何かが握られていた。

「・・・何これ」
「イルカよ」
「・・・イルカ?」
「ええ!膨らむとイルカになるの!」
「・・・赤いイルカ?」
「そうよ。可愛いでしょう?」
「・・・」
「でね、海でこれの背中に乗るの!」
「・・・そう」
「ジョーも一緒に乗るのよ?」
「えっ」
「だってそのために持って来たんだもの!」

ナインは額を押さえるとしばし考え込むように砂浜を見た。

「ジョー?」

そのまま座り込む彼にスリーは慌てた。屈んで顔を覗きこむ。

「どうしたの!?具合悪い?・・・熱中症かも!」
「・・・いや、大丈夫」
「でもっ」
「・・・フランソワーズ」

ナインの手が伸びてスリーの手を捕らえた。そのまま引かれてスリーはつんのめり、ナインの肩に思い切り顎をぶつけた。

「・・・った」

それに関係なくナインはスリーを抱き締めていた。

「ん、ちょっとジョー、みんなの前っ・・・」
「関係ない」
「だってっ」
「いいから、じっとしてろ」
「でもっ」
「――どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「・・・えっ?」
「――ったく」

ナインは少しだけ彼女を離すと、じっと蒼い瞳を見つめた。

「さっき。急にいなくなっただろ。――死ぬかと思った」
「だって、ほんのちょっとの間じゃない」
「僕の目の前からいなくなるな」
「だって、本当にほんのちょっとの距離よ?実際、すぐ見つかったでしょ?」
「そういう問題じゃない」
「でも」

ナインはスリーに構わず、額と額をくっつけた。

「・・・どれだけ後悔したと思うんだ。手を繋いでいれば良かったとか、どうして抱き締めておかなかったんだろう、って」
「・・・だって、ちょっとの距離なのに」
「だからそういう問題じゃないんだって」
「わからないわ。ジョー」
「――じゃあ、フランソワーズ。君のそばにいたはずの僕が急にいなくなったらどうする?」
「・・・えっ」
「つい今までここにいたのに、君が索敵している間に僕はいなくなった」
「――ジョー」
「君はどうする?」

スリーはナインの首筋を抱き締めていた。

「ごめんなさいっ」

 

***

 

「・・・ねぇ、ジョー」

スリーがナインの肘をつつく。

「ん?」
「さっき言ってたの、本当?」
「んー?さっき?」

ナインは今、真っ赤なイルカに命を吹き込んでいた。半分くらいイルカになりつつあるビニール製のもの。

「ええ。・・・聞こえちゃったんだけど」
あ、聞くつもりじゃなかったのよ、ほんとよ。と、慌てて付け加える。

「・・・その。悔しかったらおそろいを着てみろ、って」
「!!」

ナインの頬がひきつる。咳き込む。命を吹き込まれていたイルカの尾が力なく垂れ下がった。

――あれは。あれは、なかばヤケクソ、もとい、開き直って言っただけのことでっ・・・

しかし、スリーはどうやらすっかり誤解しているようだった。

「嬉しかったわ。ジョーも本当はおそろいを着るのが嫌じゃなかったのね、って」

それは誤解だ。

と言いたいが、すっかり信じて嬉しそうに頬を染めているスリーに言えるはずもなかった。

「ジョー?」
「・・・なに」
「今日、ここに来て良かったわ」

ナインは無言で再び目の前のイルカに命を吹き込み始めた。
そんなナインをしばらく見つめていたスリーだったが、何か思いついたらしく傍らのバッグを漁り始めた。
そして。

「・・・ジョー。ゴメンナサイ。これ持ってきてたの、忘れてたわ」

差し出された手には、空気入れが握られていた。

ぶは。

ナインはイルカを離すと砂浜に仰向けに倒れた。

「ジョー!?」
「もうダメだ。僕は死ぬ。呼吸困難で」
「サイボーグなのにっ!?」
「そう。サイボーグなのに呼吸困難で死ぬんだ。ギャグだろまるで」
「そんなのダメよっ」
「イルカに命を吸われたんだ。もうダメだ」
「イルカなんてどうでもいいわっ」

スリーはどんどんしぼんでゆくイルカを手で払った。どこかへ飛んでゆく真っ赤なイルカ。

「ジョー、大丈夫?」
「・・・もうダメだ。息が苦しい」
「ジョー!?」
「さようなら、フランソワーズ」
「ダメよ、そんなのっ!」

なーんてね。と言おうとしたナインは、突然の出来事に目を見開いたまま固まった。

・・・ええと。・・・フランソワーズ?

スリーの唇がナインの唇を塞いでいた。
が、それは甘いキスなどではなく、救命のためのキスであった。

「え、ちょっと待て」
「ジョー!ダメよ、そんなのっ」
「いや待て、話を聞けっ」
「ダメよ、死んだら!イルカに命を奪われたなんて、どんな顔してみんなに言えばいいのよ!」
「・・・フランソワーズ」

ジョーは再び脱力した。
今度は心臓マッサージをしようとするスリー。黙って身を任せているのも楽しそうだったが、ナインはそうはせずにスリーを胸の上に抱き締めていた。

「・・・全く。嘘に決まってるだろ」
「嘘?」
「当たり前だ。あんなことで僕が死ぬもんか」
「酷いわ、ジョー!私、本気で心配したのよっ!?」
「うん。ゴメン。――でもさ」

スリーの天地が逆転した。
蒼い空を背景にナインの黒い瞳が見える。

「どうせするなら、こういうキスの方がいい」
「ダメよ、ジョー。みんなが見てる」
「誰も見てないよ」

そうっと周囲を窺うと、確かに誰も他の人物に気を留めてなぞいなかった。お互いしか見ていないのだ。即ち、ジョーはフランソワーズを。フランソワーズはジョーを。
それはジョーとフランソワーズの特性であり、どの二人にも適用されているのだった。

スリーの眉間に皺が寄った。

「ねぇ、ジョー。まさか私達って・・・009と003は、そういう仲になるようにプログラムされている、って事は・・・ないわよ、ね?」
「はあ?」

スリーの顔は真っ青だった。

「・・・バカだなあ。そんなわけないだろ?」

ナインは笑い飛ばす。

「もしそうだったら、こんなにきれいに分かれるもんか」

それぞれのジョーはそれぞれののフランソワーズと一緒にいる。

「それとも君は自信がないのかい?自分の気持ちに」
「え?」
「僕は自信あるぞ。大事な女の子が誰か、なんて間違えるもんか」
「わ、私だって自信あるわ!」

言い切ると、目の前に微笑むナインの顔があった。

「だろう?」

だから、何も心配することないんだよ。フランソワーズ・・・

スリーにはそう聞こえたような気がした。
実際には、彼の唇は自分の唇の上にあったので、何も言ってはいないとわかっていたけれど。