「海」
〜2009年夏休み特別企画より抜粋・旧ゼロ編〜

(海で遊んだ後のホテルにて)

 

 

「わあっ。ここからも海が見えるのね!」

部屋に入ると、壁一面がガラスになっている向こう側を見つめ、スリーは声をあげた。

「そうだね」

海なんて見慣れているじゃないかと思いつつ、ナインは荷物を置いた。
背後に控えるベルボーイに目配せして下がらせる。

窓ガラスに額をくっつけるようにして眼下を見つめているスリー。しばらくしてくるりと振り返ると、今度は隣のベッドルームを見て、ベッドが大きいわと言い、バスルームを見て広くて綺麗と感嘆した。
その間、ナインはソファにゆったりと座り、スリーの姿を目で追っていた。

「ねえ、バスローブもあったわ。あと、パジャマも。浴衣じゃなくて良かったわね、ジョー」

意外にも浴衣を着て眠る事に慣れているスリーであった。
むしろジョーの方が浴衣は苦手だった。

「お茶いれるわね」
「いいよ。座ったら」
「ええ、でもお茶飲みたいから」

ナインの視線を避けるように言うから、ついナインは笑ってしまった。

「なあに?」
「いや、・・・わかりやすいなあと思ってさ」
「なによそれ」

紅茶をいれて、カップをナインの前に置く。
自分はカップを持ったまま、ナインの隣に腰掛けた。

そんなスリーをちらりと見つめ、ナインはカップに手を伸ばした。スリーの肩がびくんと揺れる。

「・・・そんなに緊張しなくても、何もしないよ」

苦笑混じりに言う。

えっ、とこちらを向くスリーの赤い頬が可愛らしい。

「え、でも・・・」
「・・・してほしい?」
「えっ!」

驚いたように見開かれる瞳。
ナインは笑うと、スリーの頬にちゅっとキスをした。

「今日は疲れたからね。早く風呂に入って寝よう」

欠伸混じりに言うと、スリーはほっとしたように微笑んだ。

「そうね。朝も早かったし」

そして、スリーに先にバスを譲り、ナインはひとり残った。


そう。
何もしない。

・・・今回は、ね。


いつか再びスリーを抱き締めて眠る夜がくるだろう。
だけどそれは、今日じゃない。
ナインはスリーの気持ちが自分と同じになる日を待つつもりだった。


・・・いいさ。例えそれがクリスマスになっても。

雰囲気に呑まれてなし崩しに・・・というのは避けたかった。

なによりも大事な女の子だから。
誰よりも大切だから。

だから、僕は・・・

 

「ああ、いいお湯だった。ジョー、どうぞ」
「あ、うん」

バスローブ姿で濡れ髪のスリー。頬が上気して肌が薄いピンクに染まっている。


・・・。


何もしない宣言は自分に対する拷問だったかもしれないと思うナインだった。

 

 

***

 

 

「まあ!ジョー!」


そろそろ寝ようか・・・ということになって、寝室に移動した二人だった。が、スリーが戸口で両手を頬にあてて小さく叫んだのだった。

「なに?」

何か変なものでも見えたのかなと思いつつ、ナインがスリーを見た。

「このベッドって、もしかして・・・ダブルベッド?」
「そうだよ?」

何をいまさら。と思いつつナインは答える。

「さっきから、わあベッドが大きい・・・って騒いでいたくせに」
「ま。騒いでなんかいません」

つんと横を向くスリーにナインは苦笑すると、先を促した。

「で?それがどうかした?」

スリーは頬を染めると、ナインをちらと見た。

「だって・・・一緒に寝るんでしょう?」
「そうなるね」
「・・・」
「嫌だったら、僕はソファで寝るよ?」
「ううん、ダメよそんなのっ!」

スリーはナインの手を掴むと、ずんずん歩いてベッドの前まで来た。

「こんなに広いんだもの!」
「そうだね。じゃあ僕はこっちの端で寝るから」

上掛けをめくり、おやすみフランソワーズと言う。
スリーは反対側に回って同じように上掛けをめくり、おやすみなさいと小さく言った。

ナインが電気を消して。

そして闇に包まれた。


静かだった。

が。


ごそごそ音がして、スリーが体を起こした。


「ねえ、ジョー?もう寝た?」
「起きてる。・・・どうかした?」
「だってジョーの背中しか見えないんだもの」

確かにナインは、彼女に背を向けていた。なるべくスリーを視界に入れないように。

「・・・なんだか寂しいの」

ナインは無言で体を回し、スリーの方を向いた。

「ねぇ、ジョー。・・・近くに行ってもいい?」
「え。ああ、うん」

するとスリーはナインに近付いた。そして。

「手を繋いでいても、いい?」
「え」

そういう間にも、スリーはナインの手を握りしめると、そのままナインの肩にこつんと額を寄せた。
そして、安心したように目を閉じた。

 

・・・神様。

いるのかどうかわからない神様。
いったい僕が何をしたというんですか・・・


横目でスリーを見つめ、ナインは息を吐き出した。

そして、少し泣いた。

 

 

***

 

 

いきなり白い光に晒され、ナインは思わず目を腕で覆った。
続いて生暖かい潮風が室内に入り込んでくる。

そして。

「いいお天気!気持ちいいわよ」

爽やかなスリーの声。
ナインは、ううんと唸ると白い光から逃げるように寝返りを打ち、更にシーツに潜り込んだ。再び眠りの海に沈もうとした刹那、体を揺すられた。

「ねーえ、ジョー。起きて」
「むぅ・・・眠い」
「だって、もう朝よ?」

鼻にかかった甘えるような声は耳に心地好かったが、しかし眠気の方が勝っていた。

「・・・何時」
「もう八時よ!」
「は」

八時だって!?

休日の朝八時に起きる習慣はナインには無かった。
それより何より、昨夜は殆んど寝てないのだ。すぐ隣に感じる寝息が気になって眠れなかったのだ。
いっそ、寝顔を見つめて過ごそうかとも思ったが、そうするとどうも落ち着かなくなってしまう。
スリーを襲う可能性はゼロだったし、自分でもそれについては自信があった。が、それ以外については全く自信が無かった。
つまり、・・・寝顔にキスするとか。

ホッペだけなら。
いや、おでこだけなら。
いやいや、寝ている女の子にそんなことをしてはいけない、大体、自分は狼ではなく紳士なのだから。
そう、紳士だ。
そして僕は009だ。
正義を愛する009が寝ている女の子にキスするなんて許されない。

しかし、スリーの寝顔を見ていると、そのくらいならいいだろう・・・と思ってしまう。

うん。
一瞬、キスするくらい、フランソワーズだって許してくれるさ。

そうして、顔を近付けた。・・・が、寸でのところでやめた。

やはり、できない。
そんな・・・卑怯な事は。
おそらく、スリーは許してくれるだろう。そう思い、そう確信していても、それでも。

たかがキス。
でも、されどキス。
自分は無理矢理そうしたいわけではなく、キスした後の「もう、ジョーったら」と頬を染めるスリーを見たいのだ。

だからナインは、ひとりまんじりともせず夜明けを迎え、ついさっきやっと眠ったところだった。


「頼むから、寝かせて・・・くれ」

低い声で訴える。

「もう、ジョーったらおねぼうさんね?」
「だって、寝てないし」

ぼそぼそ言うナインに取り合わず、スリーは無情にもシーツを引き剥がした。

「ジョー?・・・もうっ。起きないとちゅーしちゃうわよっ?」


え。


ナインの耳がぴんとなった。


・・・いま、何て言った?

「ジョー?」

スリーの声が随分近くで聞こえた。
鼻をつんとつつかれる。

「ほぉら。起きてください」

けれどもナインは目を開けなかった。
実際には、いまのスリーの衝撃のひとことで完全覚醒していたのだが、彼女の言葉が本当なのかどうか知りたかった。

「もうっ・・・ジョーったら」

そうして、頬に柔らかいものが触れた。

「・・・起きて」

今度は鼻の頭に。

「ジョー?」
「う、うわあっ」

ナインはぱっちりと目を開けると同時に飛び退った。顔が赤い。

「いいいいま、ななな何を」
「おはよう、ジョー」

軽く首を傾げたスリーの顔も赤かった。

「ふふふらんそわーず」
「良かった、起きてくれて。たくさん、ちゅーしないと起きてくれないかと思ったわ」
「い、いや、それでも良かったんだけど、あ、いや、何でもないっ」
「お腹空いちゃったの。ねぇ、早くごはんに行きましょう」
「・・・ごはん」
「そうよ。あんまりお腹空いて、ジョーを食べちゃうトコロだったわ」


・・・食べてくれて良かったのに。


でも、スリーの言う「食べる」と自分の思う「食べる」は微妙に意味が違っているような気もする。案外、文字通り本当に食べられたかもしれない。

ジョーは頭を振ると、ベッドから降りた。


「すぐ準備するから、待っていて」

 

爽やかな一日の始まりだった。