ドアを開けると甘い香りが充満していて、ナインは顔をしかめた。
さんざん探した挙句のまさかの灯台下暗し。
何を呑気に菓子など作っているのだと思い、大股でキッチンに向かった。
「フランソワーズ、いったい何を」
している、と続かなかった。
ナインが目にしたのはキッチンテーブルに山積みになっているパンケーキだった。ご丁寧にメープルシロップがふんだんに振りかけられている。
甘い香りの元はこれに違いない。
「あら、ジョー。おかえりなさい」
ちらりとこちらを見て言うその口調はかなりの低温だった。もちろん、可愛い笑顔は無い。
「……何してる」
「見ればわかるでしょ」
確かにそうだ。が、ナインの言うのは意味が違う。
「どうしてここにいるんだ」
「素敵な夜をありがとう」
〜旧ゼロの場合・「パンケーキを焼く理由」〜
スリーとケンカした。
事の発端は数時間前にかかってきた電話である。
いつものようにギルモア邸で朝のコーヒー飲み、そのままスリーといちゃいちゃ(注・セブン談)していたナインに電話がかかってきた。
が、ちょうどその時逆立ちを披露していたナインはスリーに電話に出るよう言った。たぶん仕事関係だからと言い沿えて。
スリーはふたつ返事で電話に出た。
「――わかりました。伝えておきます」
固い声で通話を終えたスリーに誰からだったとナインは軽く訊いた。まだ逆立ちしたままである。
「……仕事関係……」
「ふうん」
「おんなのひと」
「へぇそう。で、なんだって?」
「この前はごちそうさまって」
「ふうん」
「あの夜は素敵だったわ一生忘れませんって」
「……え!?わっ」
ナインの腕ががくんと曲がり、逆立ちが解けた。
「なっなんだそれ」
「知らない。素敵な夜だったんじゃない?」
「えっ、あ、おい」
スリーは無言でリビングを出た。ナインも慌ててあとを追う。
追いかけっこで負けるはずがない。しかもここはギルモア邸のなかだ。
こんな狭く限られた範囲で、そしてスリーの早足もしくは駆け足の速度でナインが遅れを取る事など有り得ない。
だからすぐに彼女に追いつき手首を掴み、こちらを向かせることができるはずだった。が、しかし。
かくれんぼとなると話は別だった。
そう、すぐに後を追ったはずのナインは呆然と立ち尽くした。
簡単に彼女の背を見つけられると思ったはずなのに、廊下の先には何も無い。
スリーは一瞬のうちに忽然と姿を消していた。
スリーはかくれんぼの達人である。
本気を出せば、一生隠れて暮らすことさえできるだろう。
ナインは常々そう思っていた。
ブラックゴーストから逃げるにあたり、彼女のちからがどれほど役に立ったか本人以外の全員が知っている。
事前に敵の襲来を知り、それを避けることができるのだ。
どんな攻撃能力を持ったものだって、標的に出会うことがなければその力を発揮することはできない。
どんなスナイパーも彼女の前では無力なのだ。
だが。
そんなちからを持っていてさえ彼女は度々ピンチに陥っていた。どうしてか簡単に敵に攫われてしまう。
彼女のちからがあれば、それらは全て事前に回避しえたであろうことなのに。
「――フン。まったく」
ナインは鼻を鳴らした。
本気のかくれんぼを挑まれるとは、タダゴトではない。
そう。
ブラックゴーストはともかく、それ以外の敵であっても彼女は自身のちからを本気で使いはしなかった。
スリーは基本的に優しいのだ。常に性善説を採る。それが油断となり不意を衝かれ、攫われてしまう。
否、攫われてさえ敵の心のなかに本当は慈悲や優しさがあるはずだと信じていた。
そうして説得を試みたことだってある。ナインが何度注意してもやめなかった。
それは、相手も同じ人間なら真に悪人はいないと信じていたからであった。
だから。
スリーが本気をだしたことはなかったのである。
今までは。
ならば。
いま、彼女が初めて本気を出したということは。
それはつまり、ブラックゴーストを含めた過去の敵よりももっと憎むべき相手ができたということなのだろう。
そしてその憎むべき相手というのはつまり。
「……僕、か」
とりあえず、リビングに戻った。闇雲に捜索したところで見つけられるはずがない。相手は本気をだした003なのだ。
ともかく落ち着いて対策を練らなければ勝機はない。
ナインはソファに座り、腕を組んだ。眉間に皺が寄る。
おそらくスリーはまだ邸内のどこかにいるだろう。移動するにしても時間が必要だ。そして、外に出た様子は無いからたぶん自室にいるはずだ。
――だったら、素直にスリーの部屋に行けばいい。そして、先刻の電話の件を釈明すればすむ。それだけのことだ。
が、しかし。
問題は会ってくれるかどうか――なのである。
今までに同じような場面は幾つかあった。即ち、スリーが怒って部屋を出てナインが追うというシーンである。
しかし、それらはいずれも彼女をすぐにつかまえることができたし、おそらくスリーもナインが追う猶予を与えてくれていたに違いない。
――相当、怒っているなぁ……
ため息をついて、コーヒーカップに手を伸ばした。
が、中身は既に空だった。
こういう時、いつもおかわりを煎れてくれていたスリーは今、彼に反旗を翻しているのだ。
カップを戻すと、ナインはううんと唸って背もたれに体重を預けた。
天井を見上げ、やはりスリーの部屋に行ってみるかと考える。
が、おそらく無駄足だろう。彼がここから出て彼女の部屋に向かった瞬間、彼女の部屋はもぬけの殻になるだろう。
そして、本当に本気のかくれんぼが始まってしまう。
例えナインがギルモア邸の隅から隅を調べたとしてもスリーの影さえ見つかることは無い。
そうわかっていてそれをする気はおきなかった。
ここは、足で探すよりも考えるのが先決だ。何より頭脳戦が勝利の決め手になる。闇雲に捜すことはない。
「……フン」
そう、考えるのだ。足で捜すより。