――やはり、どこにもいなかった。
ギルモア邸の隅から隅まで探し回った。まさかと思うところも覗いてみた。
クローゼットはもちろん、そんなところにはいないだろうと思う天袋や洗濯機の中やダンボールひとつひとつの中まで覗いた。
でもどこにもいなかった。痕跡さえ見つからない。
だからナインはギルモア邸の外に出て、彼女の行きそうな場所を次々に巡ったのだ。
デートで行った場所で泣いている――なんて、どこかの映画に出てきそうな乙女ちっくな展開ではないか。
スリーがそんなヒロインを演じるかはともかく、いちおう行ってみるにこしたことはない。
が、もちろん彼女はそんな悲劇のヒロインを演じてはいなかった。
バレエ教室の付近にもいなかったし、よく行くショッピングモールにもいなかった。
お気に入りの公園やレストラン、雑貨店、全てを回ってみたがどこにもいない。
さんざん探し、いい加減出てくればいいのにと怒り、半日以上探し回った自身に呆れ――肉体的にも精神的にも疲弊して帰宅した。
一休みしてからもう一度考えようと思ってのことだった。
そして、話は冒頭の場面に至るのである。
「どうしてここにいるんだ」
「いちゃいけない?」
「そういうことを言ってるんじゃない」
するとスリーはパンケーキを焼いている手をちょっと止めて、じっとフライパンを眺めた。
「……嫌いだったかしら。好み、変わった?」
「いや、変わってない」
「良かった」
ほっとしたように頬を一瞬緩めると、スリーは再びパンケーキ作りを再開した。
「だからそうじゃなくて」
「メープルシロップ以外にもアイスクリームもあるしホイップクリームもあるから安心して」
「う、うん…って、そうじゃなくて僕が言いたいのは」
「もちろんコーヒーも用意してあるわ」
「うん、ありがとう…だからフランソワーズ」
「捜して疲れたでしょう?」
「……まあな」
「おなか空いてる?」
「ああ」
「喉も渇いたんじゃない?」
「……うん」
「ジョー」
スリーがまっすぐにナインを見た。その瞳には険しさが漂っている。
やはり、タダゴトではないのだ――とナインは感じた。
スリーは相当怒っている。電話もメールも無視されたのはそういうわけだ。今日ずっと行方をくらませていたのも。
なぜここにいるのかという謎は依然として漂っているが、今はそれに構っている状況ではない。
さあここが正念場だ。
釈明をしなければ。
ナインが覚悟を決めて口を開いたその時。
「先に手を洗ってきてちょうだい」
スリーがきっぱりと言った。
「そうじゃなかったら、キッチンに一歩も入っちゃダメ」
首を傾げながら手を洗い戻ってみると、テーブルにはパンケーキを食べる用意がされていた。
戸惑いながらも促されるままに席につく。
目の前に食べ物や飲み物があると改めて気付いた。自分が今日は何にも食べていなかったことに。
「さあ、どうぞ」
「う、うん――いただきます」
スリーも何も食べていないのかどうかはわからないが、とりあえず二人揃っての食事となった。
会話はない。
互いに黙々とパンケーキを食べて行く。
「足りなかったら言ってね」
「うん」
「おいしい?」
「うん」
今日いちにちどこでどうしていたのか。なぜここにいるのか――という疑問がナインの胸に渦巻く。
が、それより何よりまずは電話の件を釈明するのが先である。ナインはそういう順番を間違えるような男ではないのだ。
「あのさ、フランソワーズ。その」
電話のことだけど。
と言い掛けたが、スリーの声と被ってしまった。
「え。何?」
「ううん。ジョーから言って」
「いや、いいよ。僕のは長いから」
「そうなの?」
わからないが、事と次第によってはたぶんね――と思い、ナインは待った。
怒っているスリーから話しかけてくるなら、その内容が気になる。もしかしたらもう怒っていないかもしれないのだ。
「私ね、考えてたの。素敵で一生忘れないような夜ってどんな意味なのかしら、って」
いきなり核心だった。
「そ。それはつまり、」
「ふつうに考えたら、その…あまりいい気持ちはしないわよね。だってその、ドラマとか映画とかそういうのでよくあるようなことでしょう…たぶん」
「いやだからそれは」
「子供じゃなくて大人なんだし」
じっと見つめられ、ナインは黙った。
「でもね。考えたの。もしかしたらだけど……そういう意味じゃないのもあるんじゃないかしらって」
手元に視線を落とし、スリーは続けた。
「だって、そういう意味のことをわざわざ伝言するなんておかしいでしょう?相手から見れば、私は何故かジョーの電話に出た謎の女だし。
だからね。私、相手になったつもりで考えてみたの」
「……うん」
「もしも私がジョーのことが好きで、で、仕事関係で一緒にお食事して……その御礼の電話という口実で思い切って電話をしてみたら、
ジョーじゃないひとが電話に出た。それも朝の早い時間に。ね。これってけっこうショックだわ。それこそ、子供じゃなくて大人なんだし」
「……」
「だとしたら、ちょっと意地悪言っちゃえって気持ちになるかもしれない。わざと思わせぶりなことを言っちゃおうって。
そうして少しこじれたらいいんだわ、って。そんな風に思ったの」
「……」
「でもね。一日、そんな風にあれこれ考えていたら、そう思っている自分もイヤになっちゃって。で……ここでパンケーキを焼くことにしたの」
なぜそこでパンケーキになるのか、ナインにはわからない。が、黙って聞くしかなかった。
「きっとジョーはおなか空かせて帰ってくるって思ったし、……捜してくれるって思ったから」
「……」
「でも。……ごめんなさい」
「え。いや。僕のほうが」
「だって、朝あの時電話を取れなかったのは私のせいだもの。そもそもジョーが電話を取っていたら何にも起こらなかったでしょう」
「逆立ちをするといったのは僕のほうだ」
「でも見たいって言ったのは私よ」
「いいんだ。僕は逆立ちがしたかったんだ」
「でも」
「いいんだって。なんなら今でもやってみせる」
腰を浮かせたナインに慌てて、スリーは彼の手を押さえた。
「ううん、もういいの。クロスワードは解けたから」
「え。解けたのか」
「ええ。ジョーのおかげよ」
なんとなく互いに曖昧に笑って、再びパンケーキを食べることにした。
が。
そのスリーの手元に涙の粒が落ちた。
それを見た瞬間、ナインはあっという間に席を立ちスリーを抱き締めていた。
「――すまない」
「何が?」
「誤解させた」
「ジョーのせいじゃないわ」
厳密に言えば確かにそうだ。が、ナインには言っておかねばならないことがあった。
「僕は浮気したりしないよフランソワーズ」
余所見なんかしたことない。するわけがない。
本気のかくれんぼはもうゴメンだった。
捜している間じゅうずっと、嫌な予感で胸がいっぱいだった。
もしもこのまま一生、スリーが見つからなかったら?会ってもらえなかったら?
そう思うと胸が押しつぶされそうだった。実際、何度も気分が悪くなって立ち止まった。
もうこんな思いはしたくない。
だから素直に言うことにした。
「……このパンケーキにかけて」
ナインの大好物のひとつである。
「もう……そんなにパンケーキが好きなの?」
「うん。フランソワーズの次にね」
end