「伝わらない」
これは一体、どういう状況なのだろう? 009は自分に落ち着けと言い聞かせ、物事を冷静かつ合理的に考えるいつもの自分を取り戻そうとした。 僕は009だ。
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確かメンテナンス中だったはずだ。 009は、ともすれば抑制がきかなくなってしまいそうな意識を何とか律し、そもそもの発端から考えてみることにした。 ――確か、今日はメンテナンスで・・・ だからこうして下着以外は身につけずに、メンテナンスルームの中央にあるベッドに大の字になっているのだ。 危ない。 そんな事をしたら、まるで・・・ そもそも、今はどうしたって右腕を動かすことはできないのだ。 ――右腕。 意識がそちらに向かいそうになるのを何とか引き止め、そして今の状況を更に考察してみる。 いまこうして目が覚めているということは――メンテナンスは無事に終わったということだ。 しかし、メンテナンスが終わったときいつもそばにいるはずの博士の姿はない。いま自分に見える視界の範囲内には。 どうして博士がいないんだ? 博士がいない。と、いうことは、おそらく何も不具合が無く、説明する必要がないからなのだろう。 ともかく、無事に終わった、・・・と。 それについてはほっとする。 さて。 メンテナンスの件はわかった。ともかく、無事に終わったということだけはわかった。
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合理的な説明を思いつかないまま、数分が経過した。 009は視線を下げて、自分の胸の上を見た。 さっきからその繰り返しだった。 ――せめて服を着ていればなぁ・・・。 こんなに気まずい思いをせずに済んだだろう。 ともかく、どういう状況か全く理解できなかったけれど、このまま考えていても埒が明かないのは確かだった。何か行動を起こさなければ、永遠に自分はここにいることになってしまう。 009は意を決して、再び自分の胸の上を流れる亜麻色の髪とその持ち主を見つめた。
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胸の上に流れる亜麻色の髪。 それだけで、なんだか落ち着かなくなる。何しろ、彼の想像のなかで、亜麻色の髪がそういう状態になるということは―― うわっ。 何を考えているんだ、僕は。 危ない方向へ意識が傾くのを修正する。わずかに顎を引く。 きっと、今のこの状況には何か意味があるんだ。 では、その意味とは何なのか? ――何とか起こさずに、そうっとすり抜ける事が出来れば・・・! 亜麻色の髪の持ち主は、009の方へ顔を向けて瞼をぴったりと閉じている。ばら色の頬と、赤い唇。白い肌。 素肌に感じる、彼女のなめらかな頬の感触―― うう、いかんいかん。 僕は009だ。 なぜ彼女が自分の胸に頬をのせて眠っているのか全くわからなかったが、とりあえず棚上げした。 この状況で目を覚ましたら、きっとばつの悪い思いをするだろう。 何しろ、自分は今下着しかつけていないのだから。 まず、この右腕を何とか抜くことができれば・・・ 右腕は肘から下が彼女の身体の下にあった。少しでも動かせば彼女にわかってしまうだろう。 009は一瞬、右前腕に全神経を集中させようとして――かろうじて思いとどまった。 ――何をやってるんだ僕は。 自分で自分にげんなりする。 再び頬を引き締めて、009としてミッションを完遂することだけを誓う。 早く、ここを去らなくては―― そうして、ちらりと見つめた胸の上。
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「――うわっ」 慌てて飛び起き――ようとして、自分の身体に自制をかける。 「――ん。おはよう、ナイン・・・」 蒼い瞳の持ち主は、そう言ってふわんと身体を起こし、小さな欠伸をした。 009は自分の胸の上にあった重さが消えると、それはそれで何だか寂しく物足りない気分になった。 「ナイン。大丈夫?」 心配そうに額に手をあてられ、009は慌てた。 「だ、大丈夫って何が」 そんなこと、言ってただろうか? 聞いていなかったし、憶えていなかった。 「・・・それはわかったけど、どうして僕の上で寝てたんだい?」 009はゆっくりと上体を起こし、ベッドの横に足を下ろした。 「大丈夫?眩暈はしない?」 意識もしっかりしているし、身体を動かしても不具合はなかった。もちろん、右肩の違和感も消失している。 「――立てる?」 003が肩を貸そうとするのを乱暴に払いのける。 「要らない。――ひとりで大丈夫だ」 心配そうな彼女に、なんとか笑顔で言ってみる。うまくできた――ように思えるが、どうだっただろう? 「でも、ナイン――」 再び白い手が伸びてきて、009は後退した。 「だ、大丈夫だからっ」 言うと、逃げるようにメンテナンスルームを後にした。目指すは更衣室。メンテナンスに入る前の、着替えや休憩や諸々のために隣に小部屋が用意されている。ともかく、そこを目指して走った。 「・・・・・っ」 肩で息をしながら、閉めたドアにもたれ、そのままずるずると床に座り込んだ。 ――落ち着けっ、009。なんとかなったじゃないかっ・・・・ 絶体絶命のピンチから、からくも逃れたような気分だった。 手早く服を身につけ、やっと人心地つく。 ジャケットに袖を通す時に、ふと右手に目がいった。 右手。 先刻まで、003の身体の下にあった。前腕は、ちょうど彼女の胸の下にあって、規則正しい呼吸を伝えてきた。それから、柔らかくてふわふわの、・・・・・ うわー。なんだこれっ。 009はぶんぶんと右手を振った。そこにある「記憶」を振り払うかのように。 ボタンを留める。・・・胸の前で。 流れるような亜麻色の髪。すべすべの柔らかい頬。至近距離で見る003は、信じられないくらい可愛くて、綺麗で、いつまでもその寝顔を見ていたいと思うのと、起こしていじめてしまおうと思うのが一緒で、・・・・ うわーうわーっ、なんだよこれはっ。 009は頭を抱えて座り込んだ。 なんてことだ。こんなの、繰り返し思い出していたら僕はどうかなってしまう。 女性経験がないわけではなかったし、健全な男子としてそれ相応のあれこれ・・・も、経験していた。だから今更、こんなことくらいで動揺するはずがなかった。 そう、大した事ではない。――僕は009だ。さっきのは忍耐力を試そうとするミッションの一環だったのだ。 大きく頷いたところへ、ドアの外からノックとともに声がかかった。 「ナイン?コーヒー淹れたから、飲んでいくでしょう?」
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リビングでいつものように向かい合ってコーヒーを飲む。003の焼いたクッキーが添えられていて、それは009の好きなチョコレートチップだった。 いつものように、お互いを見つめているようで――でも視線が合うことはない。当たり障りのない会話と、ちらちらと上手にそっとお互いを見遣る目。 009はいつものように、コーヒーを飲むそのカップの陰からそっと003を窺った。 ――いつか。僕はきみをちゃんと「恋人」として抱き締める日がくるのだろうか。 「なあに?ナイン」 長く見つめ過ぎていた様だった。 「おかわり、淹れましょうか?」 カップを持ってキッチンへ行く003の後ろ姿を見つめ――いったい、何をどう言えば、自分の気持ちが彼女に伝わるのだろうと思った。 さりげなく伝えたつもりが、どうやら全く伝わっていない。 ――けっこう、ちゃんと言ってるのになあ・・・ 他の女の子だったら、逆に彼のなにげない言葉を勝手に曲解して、彼は自分に好意があるのに違いないと信じ込むのに。 大事な女の子。大切で、誰よりも守りたい――と、いつも言っているし、最近はどこへ行くのにも必ず手を繋いでいる。こんなの、大切な可愛い恋人以外になんてしやしない。だから、自分の気持ちはちゃんと彼女に伝わっていると思っていた。 かわされているのか、それとも――これはあまり考えたくはなかったが――好意のかけらもないのか。 「お待たせ」 笑顔で入って来た003にしばし見惚れる。 ――やっぱり、可愛い。僕のフランソワーズ。 「ナイン?私の顔に何かついてる?」 ついてるよ――と言って、食べてしまおうか。 「いや。何でもないよ」 こうしているのも、そろそろ限界が近付いてきてる。彼女との距離を恋人同士の距離へ縮めたい。 なぜなら彼女は僕の恋人なのだから。
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