「伝わらない」

 

 

これは一体、どういう状況なのだろう?

009は自分に落ち着けと言い聞かせ、物事を冷静かつ合理的に考えるいつもの自分を取り戻そうとした。
が、いまのこの状況では、それはとてつもなく難しい事のように思えた。

僕は009だ。
これしきの事で、動揺してどうする!?

 

***

 

確かメンテナンス中だったはずだ。

009は、ともすれば抑制がきかなくなってしまいそうな意識を何とか律し、そもそもの発端から考えてみることにした。

――確か、今日はメンテナンスで・・・

だからこうして下着以外は身につけずに、メンテナンスルームの中央にあるベッドに大の字になっているのだ。
以前から右肩関節の不具合を自覚していたから、博士はそこを重点的にみてみると言っていた。
試しに右肩を回して――みようとして、慌ててやめる。

危ない。

そんな事をしたら、まるで・・・

そもそも、今はどうしたって右腕を動かすことはできないのだ。

――右腕。

意識がそちらに向かいそうになるのを何とか引き止め、そして今の状況を更に考察してみる。

いまこうして目が覚めているということは――メンテナンスは無事に終わったということだ。

しかし、メンテナンスが終わったときいつもそばにいるはずの博士の姿はない。いま自分に見える視界の範囲内には。

どうして博士がいないんだ?

博士がいない。と、いうことは、おそらく何も不具合が無く、説明する必要がないからなのだろう。
滅多にないことだったが、たまに博士がいない時はそういう事だったはず。

ともかく、無事に終わった、・・・と。

それについてはほっとする。
メンテナンスは大切とはいえ、やはり自分の身体のなかを他人に触られるというのは、何度経験しても馴染めない。だから、無事に終わるとやっと息がつけるのだった。心から。

さて。

メンテナンスの件はわかった。ともかく、無事に終わったということだけはわかった。
が、しかし。
だからといって、自分の今の状況に関しては何の説明にもならなかった。
そもそも、メンテナンスとこの状況が結びつくはずなんかないのだ。両者は全く掛け離れているのだから。

 

***

 

合理的な説明を思いつかないまま、数分が経過した。
目が覚めてからずっと感じている胸の上の重みは動かない。更に言えば、右腕も完全にブロックされていて動かせない。

009は視線を下げて、自分の胸の上を見た。
が、慌てて目を逸らす。

さっきからその繰り返しだった。

――せめて服を着ていればなぁ・・・。

こんなに気まずい思いをせずに済んだだろう。
パンツ一丁の自分の姿はあまりにも無防備に思えたし、それを見られていたのかと思うと何とも不思議な気分になった。
別に裸を見られたってどうってことはないのだが、009にとってただ一人、どうってことある人物がいるのだ。

ともかく、どういう状況か全く理解できなかったけれど、このまま考えていても埒が明かないのは確かだった。何か行動を起こさなければ、永遠に自分はここにいることになってしまう。
脱出しなければ。

009は意を決して、再び自分の胸の上を流れる亜麻色の髪とその持ち主を見つめた。

 

***

 

胸の上に流れる亜麻色の髪。

それだけで、なんだか落ち着かなくなる。何しろ、彼の想像のなかで、亜麻色の髪がそういう状態になるということは――

うわっ。

何を考えているんだ、僕は。

危ない方向へ意識が傾くのを修正する。わずかに顎を引く。

きっと、今のこの状況には何か意味があるんだ。

では、その意味とは何なのか?
それを探らなければ、現状を打破することは難しい。

――何とか起こさずに、そうっとすり抜ける事が出来れば・・・!

亜麻色の髪の持ち主は、009の方へ顔を向けて瞼をぴったりと閉じている。ばら色の頬と、赤い唇。白い肌。

素肌に感じる、彼女のなめらかな頬の感触――

うう、いかんいかん。

僕は009だ。
いいか、これはミッションなんだ。
なんとしてでも彼女を起こさずにここを離れなくてはならない。

なぜ彼女が自分の胸に頬をのせて眠っているのか全くわからなかったが、とりあえず棚上げした。
今は、早くここから離れることが先決だった。

この状況で目を覚ましたら、きっとばつの悪い思いをするだろう。

何しろ、自分は今下着しかつけていないのだから。
どんな理由があって、何の弾みでこうなっているのかはわからないが、ともかく、このまま彼女が起きたら酷く狼狽することだろうということだけはわかる。
大事な彼女にそんな思いをさせるわけにはいかなかった。

まず、この右腕を何とか抜くことができれば・・・

右腕は肘から下が彼女の身体の下にあった。少しでも動かせば彼女にわかってしまうだろう。
何しろ、腕には彼女の規則正しい呼吸――胸が上下するのが感じられるからだ。

009は一瞬、右前腕に全神経を集中させようとして――かろうじて思いとどまった。

――何をやってるんだ僕は。
腕に彼女の胸の動きを感じるから、って――柔らかくてふわふわだから、って・・・
いかん。
その感触を楽しんでいる場合ではない。
そんなの、ただの痴漢じゃないか!

自分で自分にげんなりする。
本当に、このままでは痴漢になってしまう。彼女には、僕をそうさせてしまう力がある。
道を踏み外さないためには、一刻も早くここを去らなくてはいけない。

再び頬を引き締めて、009としてミッションを完遂することだけを誓う。

早く、ここを去らなくては――

そうして、ちらりと見つめた胸の上。
蒼い双眸がこちらを見つめていた。

 

***

 

「――うわっ」

慌てて飛び起き――ようとして、自分の身体に自制をかける。
009の勢いで飛び起きたりなんかすれば、彼女など簡単に跳ね飛ばしてしまうだろう。
それだけはできない。
だから、そうっと・・・上体を起こそうと試みた。

「――ん。おはよう、ナイン・・・」

蒼い瞳の持ち主は、そう言ってふわんと身体を起こし、小さな欠伸をした。

009は自分の胸の上にあった重さが消えると、それはそれで何だか寂しく物足りない気分になった。

「ナイン。大丈夫?」

心配そうに額に手をあてられ、009は慌てた。

「だ、大丈夫って何が」
「ナインが」
「僕は大丈夫だ。――どうして博士がいないんだ?」
「アラ、私が博士の代わりよ?」
「へ?」
「言ってたでしょう――メンテナンスが終わったらすぐ、博士は出かけなくちゃならないから、覚醒時は私がついていることになったの、って」
「そ、」

そんなこと、言ってただろうか?

聞いていなかったし、憶えていなかった。

「・・・それはわかったけど、どうして僕の上で寝てたんだい?」
「起きるのを待ってたら眠くなってきちゃって・・・ごめんなさい」

009はゆっくりと上体を起こし、ベッドの横に足を下ろした。

「大丈夫?眩暈はしない?」
「ああ。大丈夫だ」

意識もしっかりしているし、身体を動かしても不具合はなかった。もちろん、右肩の違和感も消失している。
が、それとは別に気分は最悪だった。

「――立てる?」

003が肩を貸そうとするのを乱暴に払いのける。

「要らない。――ひとりで大丈夫だ」
「でも・・・」
「・・・心配いらない、から」

心配そうな彼女に、なんとか笑顔で言ってみる。うまくできた――ように思えるが、どうだっただろう?

「でも、ナイン――」

再び白い手が伸びてきて、009は後退した。

「だ、大丈夫だからっ」
「でも・・・」
「ほんと、スリーが心配するようなことはないから」

言うと、逃げるようにメンテナンスルームを後にした。目指すは更衣室。メンテナンスに入る前の、着替えや休憩や諸々のために隣に小部屋が用意されている。ともかく、そこを目指して走った。
加速装置を使ったのかと思うくらいの記録的なダッシュだった。

「・・・・・っ」

肩で息をしながら、閉めたドアにもたれ、そのままずるずると床に座り込んだ。

――落ち着けっ、009。なんとかなったじゃないかっ・・・・

絶体絶命のピンチから、からくも逃れたような気分だった。
ともかく、これでやっと服を着ることができる。
003が何か言いかけていたけれど、パンツ一丁の姿で彼女と相対するのは避けたかった。

手早く服を身につけ、やっと人心地つく。

ジャケットに袖を通す時に、ふと右手に目がいった。

右手。

先刻まで、003の身体の下にあった。前腕は、ちょうど彼女の胸の下にあって、規則正しい呼吸を伝えてきた。それから、柔らかくてふわふわの、・・・・・

うわー。なんだこれっ。

009はぶんぶんと右手を振った。そこにある「記憶」を振り払うかのように。
そうして気がすんでから、ジャケットを着てボタンを留めた。

ボタンを留める。・・・胸の前で。

流れるような亜麻色の髪。すべすべの柔らかい頬。至近距離で見る003は、信じられないくらい可愛くて、綺麗で、いつまでもその寝顔を見ていたいと思うのと、起こしていじめてしまおうと思うのが一緒で、・・・・

うわーうわーっ、なんだよこれはっ。

009は頭を抱えて座り込んだ。

なんてことだ。こんなの、繰り返し思い出していたら僕はどうかなってしまう。

女性経験がないわけではなかったし、健全な男子としてそれ相応のあれこれ・・・も、経験していた。だから今更、こんなことくらいで動揺するはずがなかった。
そう、ちょっとくらい彼女の胸が腕に触れたって、彼女の髪が胸の上に広がっていたって、彼女の寝顔を近くで見たといったって。大したことではないのだ。

そう、大した事ではない。――僕は009だ。さっきのは忍耐力を試そうとするミッションの一環だったのだ。
しかし自分はうまく脱出できたのだし、今回のミッションも成功したといえよう。
もう数瞬遅かったら、おそらく003を抱き締めてしまっていたことは考えない。そんなことはしていないのだから。

大きく頷いたところへ、ドアの外からノックとともに声がかかった。

「ナイン?コーヒー淹れたから、飲んでいくでしょう?」
「ん。ああ、いま行くよ」

 

***

 

リビングでいつものように向かい合ってコーヒーを飲む。003の焼いたクッキーが添えられていて、それは009の好きなチョコレートチップだった。

いつものように、お互いを見つめているようで――でも視線が合うことはない。当たり障りのない会話と、ちらちらと上手にそっとお互いを見遣る目。

009はいつものように、コーヒーを飲むそのカップの陰からそっと003を窺った。

――いつか。僕はきみをちゃんと「恋人」として抱き締める日がくるのだろうか。

「なあに?ナイン」

長く見つめ過ぎていた様だった。
009は微かに頬を染め、視線を逸らした。

「おかわり、淹れましょうか?」
「あ。うん。頼むよ」

カップを持ってキッチンへ行く003の後ろ姿を見つめ――いったい、何をどう言えば、自分の気持ちが彼女に伝わるのだろうと思った。

さりげなく伝えたつもりが、どうやら全く伝わっていない。
だったらヤキモチ妬いてくれるかとあれこれしても、ちっとも妬いてくれない。

――けっこう、ちゃんと言ってるのになあ・・・

他の女の子だったら、逆に彼のなにげない言葉を勝手に曲解して、彼は自分に好意があるのに違いないと信じ込むのに。
なのに、003にはそれが全くない。

大事な女の子。大切で、誰よりも守りたい――と、いつも言っているし、最近はどこへ行くのにも必ず手を繋いでいる。こんなの、大切な可愛い恋人以外になんてしやしない。だから、自分の気持ちはちゃんと彼女に伝わっていると思っていた。
が、それがどうやらそうではないらしいと気付いたのはごくごく最近だった。

かわされているのか、それとも――これはあまり考えたくはなかったが――好意のかけらもないのか。

「お待たせ」

笑顔で入って来た003にしばし見惚れる。

――やっぱり、可愛い。僕のフランソワーズ。

「ナイン?私の顔に何かついてる?」

ついてるよ――と言って、食べてしまおうか。

「いや。何でもないよ」

こうしているのも、そろそろ限界が近付いてきてる。彼女との距離を恋人同士の距離へ縮めたい。
向かい合って座るのではなく、隣に――いて欲しい。

なぜなら彼女は僕の恋人なのだから。
そんなの――やっぱり言わないとわからないのかい?