「フランソワーズ」
「なあに?」
「きみは・・・俺が怖くないのか」
「どうして?」
「だって俺は魔法を使える。魔力があるんだ」
「知ってるわ」
「いいや、わかってない」

ジョーはフランソワーズから目を逸らすと月を見上げました。

ふたりがいるのは広いバルコニー。
王子であるジョーの居室です。

そのバルコニーをふたつの紅い月が照らしていました。まるで紅い双眸のように。
ここ魔界では太陽が昇ることはありません。常に闇に支配された世界です。
昼間の明るさを知っているフランソワーズは、最初は戸惑ったものの今では慣れたものでした。
ジョーとしてはそれも意外なことでした。なにしろ、彼の知っている「人間」は全て――


「ジョー?何を考えているの」

フランソワーズに顔を覗きこまれ、ジョーは前髪の奥に逃げました。

「あ、ずるいわ、その癖」

フランソワーズの手が上がると、ジョーの前髪を除けて彼の瞳を露わにしました。
彼にこんな親密な行為をして許されるのは彼女だけでした。が、実はフランソワーズはそれを知りません。

「ちゃんとこっちを見て頂戴」

ジョーはしぶしぶ視線をフランソワーズに向けました。

「私がわかっていないことってなに?」
「・・・」
「ジョー。教えて」

それでもジョーは話しません。
フランソワーズは彼の髪から手を離すと、くるりと背を向けました。

「・・・それってもしかして、・・・あなたには他に」

愛人がいるっていうこと?


そう訊きたかったけれど、喉が詰まってうまく言葉が出てきません。
訊きたいけれど、聞きたくない。それはもう、とっても訊きたいのに答えを聞きたくはないのです。
だってもしも、フランソワーズが見たたくさんの女性たちはジョーの後宮にいる愛人たちだとあっさり肯定されてしまったらどうしたらいいのでしょう?

考えるだけで怖いのです。

しかも、自分とジョーもただのそういう間柄だったとしたら?

継母に命を狙われる人間界を捨ててジョーと一緒に魔界に来た。そのことだけで有頂天になっていたけれど、よくよく考えてみれば自分はこちら側のことをなにひとつ知らないのでした。

フランソワーズは自分の考えている事がちょっとでも溢れないように自分の両腕をぎゅうっと体に巻きつけました。

 

「――僕には強い魔力があるということさ」

ジョーが静かに言いました。

「僕がどれほどの力を持っているか、きみは知らない。人間界では使わなかったからね」
「・・・そう」


――そんなこと、どうでもいいわ。


そう、フランソワーズにとって、ジョーがどんな力を持っていようがどうでもいいことでした。
ジョーが驚異的な存在であったとしても、彼が彼である限り、フランソワーズの気持ちが変わるわけはないのです。大げさに言えば、もしも彼の本当の姿が醜いカエルであったとしてもそれでも全く構いません。


「驚かないんだね」
「えっ?そんなことないわ。驚いているわよ、ほら」

フランソワーズはわざと驚いた顔をしてみせました。
気持ちが落ち込んでいるのをジョーに悟られたくはありません。

ジョーは笑うと、そっと手を伸ばしました。そして白雪姫――フランソワーズの頬に触れようとして・・・やめました。

「ジョー?」

ジョーは黙ったまま手を下ろすと、その手を握り締めました。

「――駄目だな、俺は。きみがそばにいると理性を保つのが難しくなってくる」
「あら」

フランソワーズは瞬きしました。

「ネツレツなちゅうをしたひとのセリフかしら」
「あれは、君を助けるのに夢中でっ・・・それに、本当に助けられるかどうかわからなかったし」
「魔法使いなのに?」
「人間界では魔力が弱まるんだ」
「ふうん」
「それにあの時は、この世界のきまりごとに頼るしかなかった」
「きまりごと?」
「ああ。王子がキスをすればたいていのことはなんとかなる――という」
「じゃあ、ジョーは私を救命するという使命だけでああいうことをしたの?」
「いや・・・そうじゃない。だから困ってるんだ」
「困る・・・どうして?」
「どうして、って――だから」

無邪気な蒼い瞳を見ていると、ジョーは頭がくらくらしてきました。
なにしろあまりに無防備すぎるのです。

「こうしてそばにいると、つい、ぎゅうっとしたくなるし、その・・・」
「すればいいじゃない」
「えっ?」
「どうしてだめなの?」
「え。だって、俺ときみはそういう仲というわけじゃ・・・」
「キスしたのに?」
「ええと、だから、そんなこといったらまたしたくなるわけで」
「したらいいじゃない」
「ええっ?」

ジョーは思わず数歩後退しました。

「きみは自分の言ってる意味がわかってない」
「わかってるわ」
「いいや。わかってない」
「わかってるもの!」

フランソワーズはジョーが後退したぶんだけ歩を進めました。

「だって、こっちに来てからジョーは私にゆびいっぽん触れないじゃない。どうしてなの?」
「どうして――って」
「私はジョーと一緒ならいい、ってちゃんと最初から言ってるのに。それとも、私とそういう仲になれない理由が何かあるの?」
「えっ?」


例えば、――私は後宮に迎え入れられるひとりにすぎないとか。


「そんなのないよ」
「だったら」
「ちょっと待ってくれよ。きみ、そんな事を言う子じゃなかったよね」
「そうね。魔界に来て変わったのかもしれないわ。月が紅いのと同じようにね」
「そ――」
「だったら嫌いになる?こんなはずじゃなかった、って」
「そんなわけないだろ」

 

 

 

 

「ねえ、知ってる?新入りさん」


フランソワーズが黙ったままでいると、その周りを女性たちがぐるりと取り囲みました。


「魔法使いの出てくる童話」

「魔法使いの出てくる童話?」


それがどうしたというのでしょう。


「あれは全部、ここの魔界と繋がっているの。そして、王子様はね――」

みんながくすくすと笑います。

「それぞれの世界に行くと、気に入った娘をさらってここに連れて来るのよ」
「それが私たち」
「だから、あなたもそうなのよ」
「今のうちだけよ。王子様を独り占めできた気分になるのって」
「そうよ。そのうち私たちのように――」


くすくす笑いが大きくなってフランソワーズを襲いました。