「不良と生徒会長」
「ねぇ、ジョーオ」 小走りになっていたスリーは、目の前を行くナインの背中が急に止まったので危うく鼻先をぶつけるところだった。 「――あのな」 そんなスリーに構わず、ナインは余裕たっぷりにゆっくりと振り返った。 「別にきみが一緒に来る必要はない。そう言ったはずだが」 真夏の炎天下である。が、にもかかわらずナインの額には汗の粒ひとつ浮かんでいない。 「――だって。ジョーひとりで行ったら絶対、ケンカになるもの」 小さく言ったスリーの声はナインには届いていない。 「いいかい?ケンカというものは、対等の者同士の価値観の相違により生じる事象だ。この僕とどこの誰が対等だというのかな。是非、教えてもらいたいものだ」 唇に薄く笑みを浮かべて言い放つナインである。が、生憎スリーは汗をタオルで拭くのに一生懸命で彼の長広舌を半分も聞いてはいなかった。 「じゃあ、今日はケンカしないって誓って」 やれやれとナインは息をつくと少し屈んでスリーの顔を覗きこんだ。 「僕に命令するなど10年早い」 きょとんと返したスリーにナインはうっと詰まるとふいっと顔を背けた。 「――ともかく、一緒に来るというなら余計なことは言わないように。いいな?」 そうしてスタスタと歩き出し――5歩ほどいったところで、思い出したようにゆっくりとした歩みになった。 *** 今日は以前より交流のある高校へ向かっているところであった。 生徒会長のナインは今日、そのために相手の高校へ向かっているところであった。 昨年の文化祭のことである。 「もうっ。ジョーったらいい加減にして頂戴」 委員長はうんざりといった風情で立ち上がるとつかつかとその部屋の出入り口付近にやってきて立ち止まった。 「そこに陣取られていると気になってしょうがないわ」 向けられた視線の先にいたのは「不良」と名高い島村ジョーそのひとである。 「別に、どこにいようが俺の自由だ」 そう言った委員長に島村ジョーはさっと目を向けた。 「……わかってるくせに、認めないんだな」 にやにやして言われるのに、委員長ははっと我に返ったもののやはり何も言い返すことはできなかった。 「俺がいないと不安だろうが」 意味ありげに見返され、委員長は頬が熱くなった。 「――もうっ。いいわ、だったらそこにいても。でも絶対に口出ししないでね?」 ** 昨年の文化祭のことである。 「さて、と」 目指す校舎に着いて、ナインは辺りを見渡した。 「…ジョー。私、こっちだと思うんだけど」 小さな声で言われた。 「え、と、その…ただのカンだけど」 ナインは何事もなかったかのように彼女の指差す方へ歩を進めた。スリーは胸を張って進む彼の後に従いながらほっと息をついた。 「…ねぇ、ジョー」 だって心配なんだもの――とは言えず、スリーは黙り込んだ。それに――そう、実はもっと気になっていることがある。 「あ、その角を右…だと思うわ。たぶん」 ナインが右か左か悩むほんのちょっと前である。スリーのフォローは絶妙であった。 「ねぇ、ジョー」 そう――生徒会長ひとりではないのだ。きっと。きっと…「彼女」もいるに違いない。 ナインの喧嘩の原因となった女性であった。 ――それにしても。 委員長は島村ジョーが陣取っている方を見ないようにして手元の資料をチェックするふりをしていた。見ないように意識していることはバレバレである。 ――どうしてこうなのかしら。 不良として名高い彼ではあるけれども、実はそうでもないことを知っているのだ。だから、彼――島村ジョーが何故、わざと不良っぽく行動するのかまったくもってわからない。品行方正を絵に描いたようにして育ってきた委員長にとって理解の範疇を越えているのだった。だからこそ興味があるともいえたし、どこか魅力的に映ってしまうのもまた事実だったから、委員長はなんとも自身の感情をコントロールできず持て余していた。 島村ジョー。 彼はいったい何者なのだろうか。 ――何者って、ただの男子に決まってるじゃない。馬鹿馬鹿しいっ。 ふんと鼻息荒く息をついたら、視界の隅で誰かに笑われた。たったいま、彼女の頭のなかで主役を務めていた彼であった。 「――何かしら?」 わざとつんとして言ってみる。 「いや、別に。百面相が面白いなと思っただけさ」 百面相をしていた――と、いうことより、それを見られていた――つまり、ずっと観察されていたという事実に委員長の頬はかっと熱くなった。 「なっ、何よもうっ」 可愛いな、と小さく言われた。 「えっ」 まともに目が合って、委員長は次に何を言ったらいいのか、言うべきなのかさっぱりわからなくなってしまった。 可愛いな、なんて。 どれも正解のような、それでいて間違いのような気もして、結局何も言えず――気まずい空気になってしまった。が、そう感じているのは自分だけのようで当のジョーは面白そうにじっとこちらを見つめている。 ああもう、誰でもいいからここに来て頂戴。 まさにそう天に祈ったとき、その願いは聞き届けられた。 「――失礼します」 一礼して入って来たのは、学生服姿の生徒だった。ここは制服がブレザーだから、すぐに他校生だとわかる。 「――!」 途端に戸口にもたれていた島村ジョーが殺気をみなぎらせ体を起こした。 「――お前っ…」 学生服の生徒と目が合う。 火花が散ったようだった。
―1―
「語尾を伸ばして呼ぶな」
「ん、もう!だったらもう少しゆっくり歩いて頂戴」
すんでのところで立ちすくんだ。
涼やかな瞳。あくまでも冷静な――彼は生徒会長であった。
「フン。それは取り越し苦労というものだ。大体、この僕がいつ誰とケンカしたというのだ」
「…したじゃない」
ちなみにずっと小走りだったスリーは汗だくだくであった。
「…きみは僕の話を聞いていなかったのかい?」
「命令じゃないわ。お願いしているのよ」
「フン。それは生徒会の書記としてかい?それとも――」
「それとも?」
スリーはその背を見つめ笑みを浮かべると彼の隣に肩を並べるべく急いだ。
秋の文化祭の打ち合わせである。同じ日に開催されるということもあって、二校での連動企画は数十年前から続けて行われてきたいわば伝統行事でもあった。
その打ち合わせは、文化祭実行委員会はもちろんであるが、まずその前に生徒会会長同士が案を出し合って決められる。
これも伝統であった。
当然ひとりで行くつもりだったのだが、心配性のスリーがくっついてきたとそういうわけであった。
が、勿論スリーにも言い分はある。
ナインには前科があるのであった。
生徒会副会長のナインは校内見回りをしていたのだが、その時――相手校の生徒と揉めたのだ。
それも彼には珍しく一触即発の状態でありかなり剣呑な雰囲気であった。その場は互いに友人たちに引き離されたものの、禍根を残したのは間違いなかった。
その高校へ彼が今日行くとあっては放ってはおけない。
勿論、その因縁の相手に今日出会うかどうかはわからなかったけれども。
―2―
「ここは生徒会室でしょう。それももうすぐ会議があるのに。ジョーには関係ないじゃない」
「あるさ」
「ないでしょう。大体、生徒会は嫌いじゃなかったの」
「ああ」
「だったら早く帰ったら?――そもそも今日は登校日でもないのに」
「野暮用だ」
「何よ野暮用って」
薄い茶色の瞳。涼やかな目元に相反する強いまなざし。
それにじっと見つめられ、委員長は言葉を失った。
いつもそうだった。彼の瞳に見つめられると――何も言えなくなってしまう。否、何も考えられなくなってしまう。
「なっ…」
「そ、そんなことっ…」
「忘れてないぞ、去年の文化祭のこと」
「……あれは別にそんなんじゃ」
「ふうん?」
「口は出さない。――他は保証しないがな」
「もうっ。暴力も駄目に決まってるでしょう!」
例年通りの二校連動企画実行中の校内をチェックしていた委員長一行は相手校の一行と行き会った。目礼してすれ違おうとしたところ――当校きっての不良の島村ジョーが、なんと相手校の代表である生徒会副会長に因縁をつけたのだった。
それは、ただの喧嘩ということになっている。が、そうではないことをその場にいた委員長は知っていた。
何故なら、喧嘩の原因は彼女自身だったのだから。
そして、いま、彼が生徒会室に用心棒のように陣取っているのも同じ理由からだったから委員長の立場は非常に弱いものであった。
しかもそれが――本当は嫌ではないとあっては特に。
―3―
既に話は通っているから、そのまま直接生徒会室へ向かってもいいはずなのだ。が――場所がわからない。文化祭の時を含め、何度も行き来しているはずなのだが、祭りの時と普段の時では様子が違う。
さて、困った。
困ったときの癖で、詰襟のカラーを指で触った。この暑い季節に彼は「訪問する時は正装でなければならない」と言って譲らず、学生服に学生帽を着用していた。もちろん、その額に汗などはない。
生徒会書記であるスリーだった。彼女もまた彼にならって正装の制服姿で――あるはずはなく、半袖のセーラー服姿で涼やかである。そのスリーが遠慮がちにナインに声をかけたのだった。
「――フン。わかってる」
生徒会長は実はとんでもなく方向音痴なのである。が、彼はそれを悟られまいと内心必死なのを知っていたから、空間認識能力の高いスリーはそこはかとなく彼のフォローに回る。いつの間にかそういう役割になってしまっていた。しかも、彼女の控えめなフォローのおかげか、彼が方向音痴であるということは誰も知らないのである。更に言うならば、スリーが彼の秘密を知っているとはナイン自身気付いていないのであった。そのくらい巧妙に――控えめにフォローされているナインであった。
だから、彼の行く先々へ何故スリーがくっついて回るのか、彼にとっては謎であり――少々うぬぼれてしまう点でもあった。が、もちろんそれを口になどせず、彼女がくっついてくるのは生徒会会長と書記という互いの立場から当然のことであるなどと言ってしまうのだった。
「なんだ」
「喧嘩しないでね」
「――するわけないと言ったはずだ」
「そうだけど…」
「それにこちらの高校だって既に夏休みに入っているはずだから、用のある者しか今日は登校していないはずだ」
「そうだけど…」
「これから会う生徒会役員に危険人物がいるというならともかく」
「…そうだけど…」
「きみは同じことしか言えないのかい?」
「なんだ」
「生徒会のひとって全員が集まっているのかしら」
「いや、それはないはずだ。今日は顔合わせだけのはずだから生徒会長ひとりだろうたぶん」
「だったら、私が一緒じゃまずくないかしら」
「むこうだってそう言っても書記か副会長は一緒だろう」
「…そう、よね」
「ああ」
生徒会長ではない、みんなから「委員長」と呼ばれていた「彼女」。
―4―
「なっ…」
「…委員長なんて呼ばれているけど、けっこう…」
普段は自信まんまんで自分が何をすべきなのかちゃんとわかっている委員長である。だから、まるで迷路に入ってしまったような、迷子になってしまったような途方に暮れた気持ちになった。
馬鹿にしないでと怒るべきなのか。
あらありがとうと軽くいなすべきなのか。
もう何言ってるのよと頬を染めるべきなのか。
いったい自分はどうしたらいいのだろう。どうしていま、この生徒会室には彼と自分のふたりしかいないのだろう。
生徒会長は――副会長は――それは自分だ――書記はいったい何処に行った。