
壱:日下部明親からの依頼
村瀬浩次の手記
「サロメ」の物語をご存知だろうか? 焦がれた預言者に見向きもされなかったユダヤの舞姫サロメが、王に頼んでついには預言者の首を手に入れ、その冷たい唇に口づけするという話である。
昔馴染みの押川入人(おすかわ・いると)が成功を掴みつつあることは耳にしていた。かねてからオスカー・ワイルド(彼の筆名はこの偉大な劇作家の名をもじったものだ)を信奉していた彼が、人生最大の成功をかの偉人の代表作で飾れることは友人として嬉しくあり、誇らしくも感じていた。
私自身の演劇に対する造詣の浅さから、彼の成功は観客として目に焼き付けるつもりであったが、思いがけない便りにより職業・記者として関わることとなった。
全ては、そう、かの演劇の宣伝を手がける人物、日下部明親(くさかべ・あきちか)氏から届いた一通の招待状に端を発する。
(※千尋と鹿田には「サロメ」の台本を渡して読んでおいてもらう)
キーパー:まず俳優じゃない二人、久川と村瀬か、二人は今回の公演を企画したクサカベの企画部の責任者・日下部明親から連絡をもらいます。
村瀬:ふんふんふん。
キーパー:彼は27歳くらいなんですけど、押川と彼が意気投合して「じゃあ、やってみようか」という話になってこの公演は盛り上がったらしい。じゃあ「監督誰にする?」という話になったところで最近話題になっている才川真吾(さいかわ・しんご)が「じゃあ俺にやらせてくれ」と言ってきて「じゃあやろうぜ」ということで実現したらしいです。
村瀬:監督が才川、と。
キーパー:まそっぷの高岡君とか、千尋とか、バカ役者(※=鹿田 EDU10)とか(笑)の有名な役者が集まったのは、一重に才川の人望が厚いからです。そんなわけでそういった公演が開かれることはニュース等で知っていた二人に、日下部明親から初日の公演のチケットが送られてきます。
村瀬:「ああ、これは気を使っていただいて」
キーパー:「最近押川の体調が思わしくなく、それについて相談したいことがあるので公演初日の三日前にお会いしたい」という内容のメモがチケットと一緒に入っています。
村瀬:じゃあ了承の返事を送っておきます。
キーパー:では高級クラブで夕食を取りながら、というふうに指定されています。
村瀬:えーと押川入人は独身? 特に同居している女性とかは?
キーパー:それはいないですね。
村瀬:じゃあ、あまり身近な人間から聞くのは難しそう、と。
久川:押川は卒業生なんだよね? 同じ卒業生で押川と親しかった人っているの?
キーパー:(村瀬を指して)彼です。
久川:押川とは特に連絡をとっていたりはしてないんだよね? 忙しくてそれどころじゃないか。
キーパー:そうだね。「ああ、がんばっているみたいだな。今度「サロメ」をやるらしいよ」みたいな感じで。
久川:押川君ってどういう印象だったの、俺の中では?
キーパー:芸術に関して激論を交わした学生だったね。
久川:ほう。彼は伸びるなって思ってたのかね。
キーパー:彼は彼の確固とした考え方を持っていたね。
久川:脚本を書いているくらいだから理論より実践へ行ってしまったということだよね。
キーパー:村瀬は昔から家族ぐるみな感じで付き合っていると。
村瀬:じゃあ、ご両親とかも一応?
キーパー:うん。知ってる知ってる。今は同居はしていないけどね。
村瀬:えーと、私から見た「押川入人」はどういう人物?
キーパー:そうだね、家族ぐるみの付き合いをしている割にはあまり好きなタイプではない。ただ、頭は抜群に切れるし、話し相手としては最高に面白い。でも友達付き合いするには疲れるかなーという所はある。色々な彼独自の見方とか考え方とかを持っているので、話していると面白い。
村瀬:なるほど。逆鱗に触れたりすると炎上するタイプだな。
キーパー:脚本家として成功しつつあるというのは頷けるなー、という所はありますね。で、その指定の晩になると、日下部明親は高級クラブで二人を待っています。
村瀬:「初めまして」なのかな、多分。
キーパー:そうだね。
村瀬:「初めまして、村瀬浩次です」
久川:「初めまして」
キーパー:二人(※村瀬と久川)も初めてだね。二人が来る前に4つくらいウィスキーのグラスが並べられちゃってる。
村瀬:空きグラス?
キーパー:うん、空きグラス。彼が飲んだんでしょう、きっと。
久川:特に酔った様子は?
キーパー:それなりに入っているなぁという感じです。「どうも、日下部明親です。今晩はお忙しい中すみませんでした。こちらの急な申し出に応じていただいてありがとうございます」
村瀬:「いえいえ」
キーパー:「もしかしたらご存知かもしれませんが、押川の最近の健康状態について心配しておりまして」
村瀬:「私も最近は押川に会っていないのですが、どういう様子なんですか?」
キーパー:村瀬は知っているけど、押川は話し好きで話し手として人気があったので社交的な性格だったんですが、この新しい「サロメ」の制作を始めてから、ちょっとそうではなくなってきた、と。
久川:ほう。
キーパー:「私もこの話が具体化するまでは力を入れて推進してきたのですが…。実はここ1週間、彼とは会っていないのです」
村瀬:ふーむ。
久川:1週間っていうことは、もう台本は出来上がっているんだよね?
キーパー:当然そうですね。
久川:結構詰めの段階だよね。
キーパー:そう。ただ、押川は才川監督とは会っているらしいね。
久川:押川は具体的にどんな様子?
キーパー:ありえないくらいげっそり痩せているそうです。明親によると、押川がリハーサルを見に来た時に捕まえて最近の様子を聞いてもまったく素っ気無い感じで、元気がなく感情を欠いているような感じを受けたそうです。
久川:大舞台を前に緊張しているとか?
キーパー:以前もこういうことはあったんだけど、あまりにも今回は異常すぎる、極端である、と。確かに成功を期して入れ込んでいるとも思えるんだけど、どちらかと言うと逃げ場がないところに追い込まれているという感じを受けるそうです。
久川:「日下部さんがプレッシャーをかけているという事は?」
キーパー:「いえ、私は正直言って門外漢なので、お金の方は任せてくれ、と。私もビジネスでやっているので。私が口出ししているのはそこまでです」
久川:ふーむ。
キーパー:「才川監督も才能のある方で、この二人は上手くやっているようなので、二人に任せておけば成功は間違いないと。私の役割は宣伝とか、会場の手配までです」
久川:「熱心な学生でしたから、役者が思うような演技をしてくれなくて思い悩んでいるということはないでしょうかね」
キーパー:「うーん、そうなんですかね…? 私が素人目に見た限りでは上手く行っているように見えるんですが。役者の方々も非常に手ごたえを感じていると聞いておりますが」
久川:「才川監督からは、その辺りは?」
キーパー:「彼は彼のやりたいように出来ているようです」
久川:才川監督のことは知っているよね? 「彼もなかなか若手の中では敏腕監督ですから、その彼が太鼓判を押しているなら押川君がそこまで不安に感じることもないでしょうしねぇ」
キーパー:「確かに私もそう思うんですが、ちょっと精神的に苦悩しているのではないかと考えているのです。数日後には初日を迎える段階に来て、そういうことを管理できない彼ではないと思うのですが」
村瀬:様子がおかしくなりだしたのはここ1週間くらい? 1週間ほど前に特にイベントがあったとかは?
キーパー:「それは聞いていないのですが…」
久川:1週間前なら通しのリハーサルに入っているところかな?
キーパー:そうですね。もう完成はしているらしいです。
久川:通しのリハーサルが始まったあたりから様子がおかしくなったと。ふーむ。
村瀬:「それまでは痩せたり目の下に隈が出来ていたわけではないのですか?」
キーパー:「私が気が付いたのは1週間前だったのですが」
村瀬:「監督の才川さんが心配している様子はないのですか?」
キーパー:「彼は心配している様子はないです」
村瀬:「才川さんはこの1週間で何か変った様子は?」
キーパー:「特にないですね。かなり手ごたえを感じているようです。リハーサルを見に行くと、舞台に関わっている人たちの一体感が感じられるほどです。実際、良い演劇になると思います」
村瀬:「なるほど」
キーパー:「良い演劇になるのは素人目にも分かるのに、押川の様子がおかしいのは腑に落ちないのです。そこで久川教授や村瀬さんなら何か分かるかと思いまして」
久川:(押川は)稽古は見に来ているんですよね?
キーパー:リハーサルには姿を見せたり見せなかったりで、毎日来ているわけではないようです。ただ、リハーサルがひと段落着くと、彼はすぐに才川の所へ行って、才川とだけ話をするそうです。
村瀬:劇の系統が、もともと彼の意にそぐわないということはないですよね?
キーパー:彼はオスカー・ワイルドが好きで、自分のPNを「押川入人」にしたくらいだからね。さて、そこで明親は押川からもらったメールの写しを見せてくれます。
親愛なる日下部君へ
2週間以上も君を冷たくあしらってしまって大変申し訳なく思っている。演劇についての悩みに取り付かれていて、趣味や友達に割く時間がこれっぽっちもないんだ。
君が気にしているように、最近の僕には元気がなかった。頑健や不屈の精神が必要とされる時に、健康を損ないやしないかと不安になっている。医者は神経質になりすぎていると言うが、僕はそうは思ってはいない。日が経つにつれて大きくなる恐怖感に打ちのめされそうだ。こんな経験をしたことは、かつて一度もない。僕は白凰アリーナで完成間近の芸術作品に心惹かれると同時に、不快さも感じている。皆の話によると才川君は見事に演出しているそうだが、僕の感受性に歯を立てている心配の虫から、僕は逃れられないんだ。
僕がなぜ今君に会うことができないか、そして、本当に、なぜ人と会う気になれないかを、君が分かってくれることを望む。どうか分かってくれ、そして許して欲しい。
永久に君の友人である、
押川 入人
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村瀬:「…微妙に才川監督の演出に関して何かを感じているような一文もありますが」
キーパー:「何か思っている所があるのは間違いないとは思いますが…」
鹿田:よく読むと、監督の演出というより、「感受性に噛み付いている心配の虫」ということは漠然とした不安を抱いているんじゃないの? 晩期の芥川龍之介のようですな。
千尋:一番危険だよ。
村瀬:何が悪いと指摘できるレベルではないんだろうけど…。ただ、納得いかないというか。
鹿田:何か第六感に訴えるものがあるんでしょうな。
久川:その割には人に会えないほど没入しているんだよね。
キーパー:彼がこの数週間でまともに話をしたのは才川監督だけでしょうな。
久川:「才川監督とはどういう話をしたんでしょう?」
キーパー:「そこまでは私も…。門外漢なので何とも言えないのですが、舞台のことであるのは間違いないでしょう」
村瀬:「私も演劇に関しては門外漢なので、久川教授の方で才川監督の演出上の問題点などは見つけられそうですか?」
久川:「まぁ、一度お会いして話を聞いてみないことには…。出来れば才川監督にも一度話をお聞きしたいですが、この忙しい時期にそれは出来ますかね?」
キーパー:「取材という名目で村瀬さんは現場に入れるようにします。専門家ということで久川教授もそれに同行するということも話しておきましょう。とりあえずリハーサルの方は見学できるようにしておきますので。申し訳ないですがなるべく邪魔にならないようにお願いします」
村瀬:「はい。それは心得ております」
キーパー:では次の日に劇場へ行くということで。
村瀬:押川の所にも押しかけようとは思ってますけど。どちらかというと下手にアポ取るより押しかけた方が良さそうな気がする。とりあえず明日の午前中はリハーサルを見に行きましょうか?
久川:そうだね。
村瀬:では明日の午前中は通し稽古を見に行くことにします。帰ったら会社の方から電話でアポイントメントを取っておきましょう。