Biography


LEE JU NO
(1968.2.10)

SEO TAI JI
(1972.2.21)

YANG HYUN SUK
(1970.12.2)

序論

韓国音楽というと、一昔前は演歌のチョー・ヨンピルというイメージだったのだが、現在の韓国音楽の主流はダンス音楽、早いビートにラップを乗せて華麗に歌い踊る男性アイドルグループが花盛りである。悲恋を歌ったバラードでも踊り、間奏にラップがかぶせられたりする。
1990年代初頭までは確かに演歌とバラード中心だった大韓音楽界を覆し、現在のアイドル全盛の流れを作ったのが、ソ・テジ、ヤン・ヒョンソク、イ・ジュノの3人で結成されたソテジ・ワ・アイドゥル(ソテジと子供達)である。

結成

リーダーのソ・テジは中学生の頃からロックに興味を持ち、音楽一筋に生きるため高校を中退。ヘヴィメタバンド「シナウィ」のベーシストとしてスカウトされ、18歳でデビューした。
90年のシナウィ解散後、ダンス音楽に興味を持ち始め、コンピュータを導入して曲作りを始めた。
一緒に組むメンバーを探す間、業界ではバックダンサーや振付で知られた存在だったダンサーのヤン・ヒョンソクにダンスを習うことになり、ヤン・ヒョンソクからバックダンサー仲間のイ・ジュノを紹介され、グループを結成、1年間の準備期間を経て92年にデビューする。
この間、芸能プロダクションにデモテープがことごとく無視され、目の前で投げ捨てられたりとさまざまな苦労があったという。

デビュー〜1集

1集活動時はこんな 1992年3月ファーストアルバムを発表してデビュー。
韓国語のラップは、それまで一部で試みられてはいたものの、不可能と言われていた。ソ・テジはその韓国語ラップをデビュー曲<ナン・アラヨ>で大胆に取り入れたが、大人には「不可解な音楽」と冷笑され、当初の評価は低かった。デビュー後すぐに出演した新人オーディション番組で、史上最低得点を取ったというエピソードがそれを物語っている。
が、ロックやテクノなど様々な要素を韓国的に融合させた革新的な音楽は、中高生を中心に圧倒的な支持を得、韓国初のミリオンセラーを達成する。
この動きに追随する歌手が続々と現れ、バラード中心だった歌謡界は完全にラップとダンス一色に塗り替えられた。現在まで続くダンス音楽中心の韓国歌謡界は、ソテジワアイドゥルが基礎を作ったものだと言っても過言ではない。
因習や固定観念に縛られず、放送局のタブーを次々と破っていく自由奔放な彼らに若者は熱狂した。当時若干20歳のリーダー・ソテジは「10代の大統領」「文化大統領」とも呼ばれ、若者がファッション・行動様式を競って真似する「ソテジシンドローム」と呼ばれる社会現象まで巻き起こした。
若者に与える影響が大きすぎると国会で取り上げられたこともある。彼らの出現はまさに「90年代の大事件」であったのだ。現在活躍中のアイドル達には、彼らに憧れて歌手を志した者が少なくない。

潜伏

1集活動で人気の絶頂にあった彼らは、次回作の準備のため活動休止を宣言し、一切の芸能活動を中断。
当時としては異例の事態で、解散説・死亡説など様々な憶測が飛び交った。
回転の速い韓国芸能界において長い空白期間をおくことは、歌手生命に関わる大きな賭だった。その後の歌手たちが、活動期間、活動休止期間を交互に取る形式を取るようになったのは、彼らが前例を作ったおかげである。

2集活動

2集活動時 7ヶ月あまりの空白の後、セカンドアルバム「何如歌」で劇的にカムバック。伝統音楽とラップを融合させた軽快で斬新な音楽で、子供からお年寄りまでに幅広く支持され、まさに国民的人気歌手になる。
2集アルバムの売り上げは空前の200万枚。ファッションも洗練され、現在流行のヒップホップダンスもこのころ彼らが取り入れたものである。
また、折からのアジア音楽ブームにのり日本でも盛んに紹介され、ファンクラブが結成されるなど、韓国音楽界の代表的存在としてその名が知られ始めた。

3集活動

3集活動時 2集クリスマスコンサート後の活動休止8ヶ月、レゲエが大流行する中で発表した彼らの新作は、南北統一や教育問題を取り上げたメッセージ性の強いヘヴィメタルだった。ロック少年だったソテジの原点への回帰と言える。
大衆歌手でありながらこういった社会的な歌を発表したことで世間に大きな衝撃を与えたが、硬派路線が災いしてか前2作ほどの爆発的人気には至らなかった。しかし、<教室イデア>のような若者の目線での社会批判の曲は、男性アイドルグループが必ず取り入れる定番となった。 また、大衆メディアに迎合しない姿勢が嫌われたためか、悪魔崇拝疑惑などいわれのない批判を受け、テレビ出演もままならない状態だった。後々まで続く「ソテジ殺し」(ソテジバッシング)が本格的になってきた時期である。
一方、このころ日本でアンティノスレコードからアルバム発売。それまで韓国人歌手が日本でアルバムを出す場合には日本語に直して歌うのが通例だったが、異例の「韓国語のままの歌」でのデビューを果たし、活発に活動した。

4集活動

4集活動時 3集ではハードな音楽性とメッセージが災いして、さすがの人気にも陰りが見えた。
このまま終わりか、硬派路線を捨て大衆路線へ戻るかと思われた彼らだが、新作はギャングスターラップという韓国では全くなじみのないジャンル、しかもファッションはスノボスタイルでなぜかおかっぱという奇抜なものだった。
ところがこれがナゼか幼児を含む青少年に爆発的な人気を呼び、4集活動は第2のソテジシンドロームといわれた。インパクトの強さからか、現在でもテジが語られるときにはあのおかっぱ姿の写真が使われることが多い。

電撃解散

解散記者会見

4集で再び爆発的人気を得ていた1996年1月21日、突然の解散宣言とともに全てのTV出演をキャンセル、3人はTVやマスコミの前から姿を消した。
全国のファンがパニックに陥いり、解散を反対する血書や自殺運動がわき起こり、マスコミでは連日トップで報道された。
10日間の無言の潜伏の後、1996年1月31日に引退記者会見を開き、少女たちの願いも虚しく「一番美しい姿でみんなの心に残りたい」という言葉を残して彼らは去った。記者会見の日程はほとんどが学生であるファンの混乱を考慮して、春休みに入った後が選ばれたという。
引退記者会見後、日本・グアムを経由してアメリカに向かった彼らは、3人3様の道を歩み始める。てじはアメリカで自由な生活を満喫し、ジュノはラジオDJとして再出発、ヤンぐんはマスコミには姿を出さないまま音楽プロデューサーとしての勉強を始めた。

ソロデビュー

たびたびの復活報道に反して、2年半の間まったく音信不通だったテジが、1998年6月突然のカンバック宣言。7月初めに予告通りソロデビューアルバムを発表した。
TV活動などを全くしないでアルバムだけ発表、宣伝活動はMVだけという韓国では異例のやり方に、マスコミ・音楽評論家たちのバッシングが集中するが、不況をものともせず予約だけで堂々ミリオンセラーを達成。
また、1ヶ月後にテジに誘われたというヤンぐんもソロカムバック。こちらはTV出演なども2ヶ月間ほど精力的にこなし、好評を得た。
年が明けてジュノがダンス練習ビデオを発売。周囲の心配に関わらず意外に好評だった。ダンスイベント事業の計画もあったが、こちらは行われたのか不明。2000年に入ってBIONIC JUNOとしてソロアルバムを発表し、これで3人全てが歌手として復活を果たしたことになった。
さらに2000年8月末、テジが4年7ヶ月ぶりに帰国。ソロ2作目のアルバムを発表し、TVの音楽番組にも(事前録画だが)出演し、全国ライブツアーを行うなど、完全カムバックを果たした。

ソテジワアイドゥルのメジャーでの成功により、韓国音楽界はラップを取り入れたダンス音楽が主流となったが、純粋な音楽面以外にも、ソテジワアイドゥルが初めて取り入れて、現在韓国音楽界の特徴となってることは多く、ソテジの功罪として取り沙汰されている。
アルバムを出すと「○集活動」として一定期間活動し、タイトル曲〜後続曲で数曲活動すると、次のアルバムの準備のために活動休止に入る。
社会や学校を批判した歌を歌い、TVでの放送を禁止される(売れている男性アイドルとしての一種のステイタスに近いものがある)。
過激なファッションをする(92年当時は半ズボンさえも不謹慎だと禁止されていた)など。
一見、ソテジワアイドゥルのやり方が現在のアイドル達にそのまま受け継がれているように見えるが、彼らとソテジワアイドゥルには決定的に違う点がある。
ソテジワアイドゥルは、現在のアイドル達のように事務所の決定に従ってに動くのではなく、すべてを自ら決定し、自己管理していた。彼らの成功以後、マーケティングの重要性が広く認知されるようになったが、現在それを駆使しているのは歌手本人ではなく所属事務所である。ソテジワアイドゥルは彼ら自身が事務所の代表者で、音楽やファッションはもとより、マーケティング戦略などすべての活動方針を自分たちで決定し、成功を収めていたのだ。
人気の点で「第二のソテジ」と呼ばれるグループは数多くあったが、そういう意味で彼らの正当な後継者と呼ぶべき歌手は未だ現れていない。