大宮盆栽村

  盆栽をやる者は非国民といわれた受難の時代を,初代園主・村田久造は次のように述懐しています。

 太平洋戦争がたけなわになった頃,当時陸軍大将だった2代目の寺内さんが,宇都宮師団検閲の帰途に,大宮の松風という料理旅館に泊まったんですね。それで,浴衣がけでふらりと5,6人でここ(=九霞園)へ入ってみえて,「盆栽見せてくれ」っていうわけです。
  そこで私が閣下に
 「閣下,ね,毎日のように憲兵さんが来て,こんな盆栽なんか非国民みたいなことをやってないで,サツマイモ畑にしろとかなんとかってしょっちゅう言われますけど,なんかそういうこと言われないお守りを一つ私にくださいよ」
って言ったんです。そうしたら
 「お守りなんてものはあるもんじゃないんだ」
 と。でも,
 「盆栽も“無用の用”というものじゃないか。だから,憲兵がもしやってきたら,寺内が来て,この盆栽村も大正末期にできたそうだけれども,1軒や2軒“無用の用”があってもいいんじゃないかと言ったと言えば,それでいいじゃないか。それで我慢しなさい」
と帰られたんです。その後,憲兵さんが来たときにこれを伝えましたら,
「はっ,そうでありますかっ」
って,敬礼して帰っちゃいました。 (講談社刊『四季の盆栽』巻末対談「終戦前後の盆栽村」から要約引用)
内閣総理大臣・陸軍元帥寺内正毅の長男,陸軍元帥寺内寿一。

終戦後,園芸愛好家であった米軍爆撃調査団・ボール中尉が九霞園を訪れ,盆栽を園芸の中と芸術と賞賛しました。
戦時下にあっても盆栽を愛でる度量を失わなかった日本の軍人と,終戦直後にもかかわらず敵国の文化を賞賛した米国の軍人。
戦争で国家の枠組みが変わっても,文化とそれに対する人の心は国を越えて続いていました。
文化を含めた日本という国の有り様は,武器だけで守れるでしょうか?
民を置き去りにし,文化が消え,国家という虚しい枠組みだけが残ったとして,そのような国の抜け殻にどんな意味があるのでしょうか?


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