大宮盆栽村

九霞園の所在地“大宮盆栽村”の成り立ちと特色を紹介します。(最終更新日:2008.2.26)
(→年表「盆栽村80年のあゆみ」


“大宮盆栽村”(行政町名:さいたま市北区盆栽町)が誕生したのは,1925(大正14)年とされています。

 1923(大正12)年の関東大震災で被災した東京・団子坂や神明町の盆栽業者が,盆栽の栽培に適した広い土地,きれいな水,空気,土(関東ローム層の赤土)を求めて大宮の地を選び,東京都文京区の大和郷(やまとむら)を参考に町づくりが始まりました。

 ほぼ碁盤の目状に区切られた区画の間には,当時としては破格の広さを持った道が作られましたが,それを見た外部の人は「何を無駄なことを」と笑ったそうです。しかし,盆栽業者たちは「いつか人が自動車に乗って盆栽を見に来る時代になる」と考えていたのです。

 また,盆栽業者と盆栽愛好家のための町を作るという明確な意図のもと,移住にあたっては「盆栽を十鉢以上持つ」「二階家は建てない」「垣根は生垣とする」「門戸を開放する」といった条件を定めました。開村当時盆栽業者が植えた桜並木は,今も春になると満開の花で訪れる人の目を楽しませています。


盆栽町中心部の碁盤の目状の区画と盆栽園所在地(2007年現在)。

区画

航空写真から道路を抽出して作成,近年の区画整理による道路は省略。


 太平洋戦争中には盆栽は贅沢品として統制の対象となり,盆栽園の廃業も相次ぎました。盆栽業者が植えた桜の木の中には,薪にするために切り倒されるものもありました。
  さらに村民の召集,徴用が続く逆境の中,蔓青園二代目・加藤留吉と清大園二代目・清水瀞庵が「このままでは盆栽のみならず村自体が消えてしまう」と考え,村民の賛同を取り付けて九霞園初代園主・村田久造を町内会長に推しました。当時,町内会長は徴用されない決まりがあり,九霞園が盆栽村最後の砦として営業を続けました。
  しかし,九霞園にも連日憲兵が押しかけて「盆栽など作っていないでサツマ芋畑にしろ」との迫害が続きましたが,たまたま九霞園を訪れた陸軍元帥・寺内寿一閣下の「無用の用があってもいいじゃないか」との一声で窮地をしのぎました。(→寺内閣下と九霞園

 町づくりと維持にあたっての盆栽業者の知恵と苦労は後年大きく実を結び,盆栽町地区は県内でも数少ない特別風致地区に選定されたほか,国土交通省選定の都市景観大賞「都市景観100選」にも選ばれています。

 このように大宮盆栽村は,既に成立していた町に盆栽業者が移住したのではなく,盆栽業者が中心となって一から作り上げた町であるという点で世界でも類を見ない特異な地位を占めています。
 このような町の成立と発展は都市計画や地理学の点からも注目を浴びており,研究対象としてこの地を訪れる研究者や学生も少なくありません。

 盆栽の町としての“大宮盆栽村”の特色の一つに,造園業者,植木業者,園芸農家が存在しないことが挙げられます。従って盆栽村に「生産」や「出荷」といった言葉は存在しません。
 その一方,農家ではないがゆえに盆栽村各園の棚場は宅地とみなされ,さらに緑豊かで静かな環境が住宅地としての価値を押し上げた結果,盆栽村の各園は高額の固定資産税に苦しんでいます。
 そういった逆境の中でも,この町を作り環境を維持してきたという誇りを胸に,盆栽村の各園は真の愛好家の審美眼に適う盆栽を栽培・育成しています。


盆栽村を研究するための代表的な参考文献,論文

  • 『大宮のむかしといま』大宮市.1980(昭和55)年.pp.234-241.
  • 『近代日本の郊外住宅地』片木篤,藤谷陽悦,角野幸博編.2000年.鹿島出版会.pp.106-118.
  • 「大宮盆栽村「むらづくり」の視角」古川尚貴.2000年.一橋大学社会学部町村敬志ゼミナール報告書『埼玉からさいたまへ―手探りの行方― 』pp.43-51.
  • 「盆栽町の形成過程と環境特性の持続要因」増田圭吾,窪田陽一.2003年.『土木研究 講演集 Vol.23』pp.201-204.
  • 「大宮盆栽町における緑地構造と住民の意識」橋詰直道.2007年.『駒澤地理 No.43』pp.1-18.
  • 『大宮盆栽村クロニクル』宮田 一也.2008.アーカイブス出版.

盆栽村にヒントを得た研究の例


社団法人さいたま観光コンベンションビューローの大宮盆栽村紹介ページ

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