改訂版

入門篇(その一)

(平成10年11月1日書込み。令和3年10月15日最終修正)(テキスト約15頁)


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目   次

 1 ポリネシア語の特徴

 (1) ポリネシア後の特徴と日本語との類似点

 (2) ポリネシア語と日本語の相違点

 2 原ポリネシア語の子音がマオリ語、ハワイ語および日本語でどのように変化したか

 (1) 概括

 (2) 英語起源のマオリ語(借用語)にみる子音の変化

 (3) S音の変化とその例

   a 「カサ」地名

  (b以下は次回です)

<修正経緯>

 

 

1 ポリネシア語の特徴

 

 このHPの目的は、原ポリネシア語、とくにマオリ語を使用して意味不明の日本語の地名等を解釈することですから、ポリネシア語とは何かを知らなければなりません。しかし、ここでポリネシア語を読み、聞き、話すための本格的な語学や、ポリネシア語と日本語の比較言語学などを初歩から研究していたのでは、いつまでたっても本論に入れません。そこで本格的な研究は、時間に余裕のある方々にお任せし、ここでは最小限の解説に止めて本論に入ることにします。

 幸いに地名は、文章ではありません。地名は、簡潔を旨としますから、一語ないし二語といった少数の単語で構成されるのが通常です。しかも、その語順は文章のように一定ではなく、日本語でもアイヌ語でも、またポリネシア語をはじめ多くの言語で倒置される例がしばしばあります。

 そこで、文法は解釈するために必要な最小限の事項に限り、主として日本語とマオリ語の対応関係に重点をしぼつて解説することとします。

 

(1) ポリネシア語の特徴と日本語との類似点

 

 ポリネシア語の特徴は、単語はすべて母音または子音+母音の複合で構成されるということです。言葉をかえると、すべて母音で終わり、子音で終わることはありません。これを言語学では「開音節」で終わるといいます。これは日本語と同じ特徴ですが、「閉音節」の子音(たとえばN)で終わる単語の数がかなりある日本語よりも、ポリネシア語では殆ど例外がみられない点で徹底しています。

 単語の発音もほとんど日本語と同じです。

 母音は、A、E、I、O、Uの五音で、それぞれ長短の音がありますが、現在の日本語と同じです。原ポリネシア語では、以上のほかに複合母音があったとする説もあるようですが、結局はこの五音に還元されますので、これがそのまま現在のポリネシア語に引き継がれていると考えてよいでしょう。他方、万葉時代の上古日本語の母音は、八音あったとするのが定説ですが、その中にはこの五音が含まれていますので、原ポリネシア語の母音がほぼそのまま日本語の母音として取り入れられていたと考えて大きな誤りはないと思います。

 また子音は、原ポリネシア語では13(P、T、K、F、S、W、WH、H、M、N、NG、L、R)であったのが、マオリ語では10(P、T、K、W、WH、H、M、N、NG、R)、ハワイ語では7(P、K、W、H、M、N、L。ほかにすでに失われた子音Φがあったともいう)で、日本語やほかの言語より少ない特徴があります。時代とともに、口唇の動きを少なくする方向に変化が進んだ結果と言語学者は説明しています。

 また、子音はほとんどが清音で、いわゆる濁音はNG、半濁音はPだけで、極めて少ないといえましょう。濁音が少ないのは、万葉時代の上古日本語によく似ています。

 
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(2) ポリネシア語と日本語の相違点

 

 ポリネシア語と日本語の最大の相違点は、語順が全く異なることです。たとえば「私は人間である」は、マオリ語では「ヘ タネ アハウ、HE TANE AHAU(a man I)、人間 私」、ハワイ語でも「ヘ カネ アウ、HE KANE AU(a man I)、人間 私」です。

 ポリネシア語の地名でもっとも多い語順は、マオリ語で「ワイ・ルア、WAI-RUA(stream-two)、川 二つの」のように、名詞+形容詞(または動詞)といった語順ですが、これが場合によって逆転して「ルア・ワイ、RUA-WAI(two-stream)、二つの 川」となることがあります(この例は、ニュージーランドに実在する地名から採りました)。このほか動詞+形容詞の形や、その倒置形、動詞+動詞の形などもあり、一定した語順はありません(ポリネシア語では、一語多品詞ですから、品詞の種類を特定することがそもそも難しいのですが)。これは日本語でも、アイヌ語でもそのほかの言語でも、地名については同じ現象がみられます。

 さらに動詞などの活用が全くありません。未来形、過去形などの区別は、すべて助詞を前、または場合によっては後に付けて行います。

 単語は、名詞も、動詞も、形容詞も、すべて同じ形で、品詞の差によつて語形が変わるということはありません。一つの単語が、そのまま名詞であり、動詞であり、形容詞であり、副詞であるのです。いわゆる一語多品詞です。

 それから、一つの単語が多くの意味をもっています。一語多義です。アクセントである程度は区別されますが、同じアクセントでなお意味が違うものが多くあります。文章の中の単語については文脈の中で判断することができますが、地名については通常その土地の地形、地勢に照らし、また同じ単語を使っているほかの土地の地形、地勢等をあわせ検討してその意味を判断しなければなりません。とくに一音節で多義の基礎語については、どう解釈すべきか迷うケースがよくあります。

 さらに、日本語にはない冠詞や、助詞をひんぱんに使います。

 
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2 原ポリネシア語の子音がマオリ語、ハワイ語および日本語で
どのように変化したか

 

(1) 概括

 

 それでは、原ポリネシア語の子音がマオリ語、ハワイ語および日本語でどのように変化したでしょうか。これを次に表で示します。

 

      日本語      原ポリネシア語  マオリ語  ハワイ語

   S,Z;T,D;H ←    S    →  T,H     H

   T,D;S,Z;K ←    T    →   =      K

     G,K;N   ←   NG    →   =      N

   P,B,H(F)  ←    P    →   =      =

   H(F),P,B  ←   H,F   →   H      H

      W;H    ←    WH   →   =       W

      R      ←   R,L    →   R     L,N

      K,G    ←    K    →   =      =

       =     ←  N,M,W  →   =       =

 

 この表は、ポリネシア語で日本の地名を解釈する上でもっとも大切な表です。これを解説しますと、

 

a 原ポリネシア語のS音は、マオリ語ではT音またはH音に変化し、ハワイ語ではH音に変化しています。

 なお、マオリ語の中の英語からの借用語では、英語のS音(θ音を含む)は、マオリ語でT音またはH音のいずれかに変化した場合と、T音およびH音の両方の形態をもった場合がみられます。(後の(2)の項で解説します。)

 また、原ポリネシア語のS音は、日本語では変化がなくそのままS音に移行した場合(ほとんどはこれにあてはまるものと思われます)と、そのS音から濁音化してZ音に変化した場合(すくなくとも万葉時代には濁音はきわめて少なかったようですから、濁音化したのはかなり後の時代になってからでしょう。D音、G音、B音についても同様でしょう)がありますが、一部はT音に変化し、さらにそれが濁音化してD音に変化した場合と、きわめてまれにH音に変化した場合の五つの場合があります。(後の(3)で解説します。)

 

b 原ポリネシア語のT音は、マオリ語では変化がなく、ハワイ語ではK音に変化しています。

 また、原ポリネシア語のT音は、日本語ではそのままT音に移行した場合(ほとんどはこれにあてはまるものと思われます)と、そのT音から濁音化してD音に変化した場合がありますが、一部はS音に変化し、さらにそれが濁音化してZ音に変化した場合と、きわめてまれにハワイ語と同じようにK音に変化した場合の五つの場合があるようです。(後の(4)で解説します。)

 

c 原ポリネシア語のNG音は、マオリ語では変化がなく、ハワイ語ではN音に変化しています。

 また、原ポリネシア語のNG音は、日本語ではG音に移行した場合と、まれにそのG音から清音化してK音に変化した場合と、さらにかなりの頻度でN音に変化した場合の三つの場合があります。(後の(5)で解説します)

 

d 原ポリネシア語のP音は、マオリ語でもハワイ語でもP音で変化はありません。

 また、原ポリネシア語のP音は、日本語ではそのままP音で変化がなかった場合と、そのP音から濁音化してB音に変化した場合と、かなりの頻度でまずF音に変化し、それがH音に変化した場合(万葉時代にはH音やP音がなかったとする説に従えば、まずF音に変化し、それがH音、P音、B音に変化したことになのますが、P音、B音の残存状況をみると、P音が全く残らなかったとは考えにくい)の三つの場合があります。(後の(6)で解説します)

 

e 原ポリネシア語のH音とF音は、マオリ語でもハワイ語でも、H音に統合しています。

 また、原ポリネシア語のH音とF音は、日本語ではまずF音に移行し(国語学のいわゆる通説に従うならば)、その後そのF音からH音に変化した場合(ほとんどはこれにあてはまるものと思われます)と、そのF音またはH音からP音またはB音に変化した場合があります。

 

f 原ポリネシア語のWH音は、マオリ語では変化がなく、ハワイ語ではW音に変化しています。

 また、原ポリネシア語のWH音は、日本語ではW音に移行した場合(ほとんどはこれにあてはまるものと思われます)と、F音から(WH音は、現代マオリ語では通常F音に近い発音だといいます)H音に変化した場合があるようです。なお、原ポリネシア語のUA、UI、UE、UOの重母音が日本語でWA、WI、WE、WOに変化している場合があります。

 

g 原ポリネシア語のR音およびL音は、マオリ語ではR音に統合し、ハワイ語ではL音と一部はN音(詳細は不明です)に変化したといいます。

 また、原ポリネシア語のR音およびL音は、日本語ではR音に統合しています。

 

h 原ポリネシア語のK音は、マオリ語でもハワイ語でもそのままK音で変化はありません。

 また、原ポリネシア語のK音は、日本語ではそのままK音に移行した場合と、それが濁音化してG音に変化した場合があります。

 

H 原ポリネシア語のN音、M音およびW音は、マオリ語、ハワイ語でも日本語でも、そのままN音、M音およびW音で変化はありません。

 
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(2) 英語起源のマオリ語(借用語)にみる子音の変化

 

 現代マオリ語や現代ハワイ語の単語の中には、英語起源の単語(これを「借用語」といいます)が多数あります。これらの語源となった英語がマオリ語やハワイ語に入ってどのように変化したかを見てみますと、その子音の変化は原ポリネシア語からマオリ語やハワイ語への変化と全く同じルールによつていることがよくわかります。

 そしてこの事実は、原ポリネシア語から日本語への変化についても、それが近縁のモンゴロイド人種で、単語の発音が酷似している民族の言語であることから、同じルールに従つていたであろうことを強く示唆しているのです。

 

 つぎに英語の子音がマオリ語、ハワイ語でどのように変化したかを次の表で示します。(ここでの英語の子音表記は、発音の表記で英語のアルファベットの表記とかならずしも一致しておりませんが、あえて英語の発音を日本人の耳で聞きとって日本語風に五十音により表示した場合の子音と考えてください。)

 なお、母音の変化については、ae音がa音になる等の変化がみられます。きわめて概括的に大胆にいいますと、英語を東北弁で発音したような変化という感じを強く受けます。

 

    マオリ語     英語     ハワイ語

     T,H  ←   S,H   →   H

      T   ← T,D,S,Z →   K

      K   ←   K,G   →   K

      P   ←  P,B,F  →   P

      W  ←   V,W   →   W

      R   ←   L,R   →   L

      =  ←  M,N,NG  →  M,N

    i(母音) ←     Y    →  i(母音)

 

 すでに見てきたように、原ポリネシア語の子音で日本語にあってマオリ語にない子音は、S音だけです。つまり、日本語からその語源であったであろう原ポリネシア語を推定し、さらにそれからマオリ語を推定してその意味を探ろうとする場合に、完全に別の子音に変化していることが確実で、これを正しく推定できなければその原義に到達できないもの、解読の鍵をにぎるものは、S音なのです。しかも日本語の語彙の中でサ行に属する単語数は、おおむね2割で、カ行と並ぶ最大のウエイトを占めているのです(『広辞苑』のページ数による)。

 

 そこで、ここでは英語のS音がマオリ語でどのように変化しているかに焦点をあわせて見てみましょう。

 

      英語                   マオリ語

 a サー(目上の男性にたいする呼びかけ、

   敬称、卿)、SIR              →   タ、TA

 b ソルト(塩)、SALT            →  トテ、TOTE

 c ソーセージ(腸詰)、SAUSAGE     →  トチチ、TOTITI

 d シガー(葉巻)、CIGAR         →  チカ、TIKA

                              ヒカ、HIKA

 e シガレット(紙巻きタバコ)、CIGARETTE→ チカレチ、TIKARETI

                          ヒカレチ、HIKARETI

 f サーカス(曲芸)、CIRCUS        →  タキヒ、TAKIHI

 g サタデイ(土曜日)、SATURDAY    →  ハタレイ、HATAREI

 h サンドウィッチ、SANDWICH      →   ハナウィチ、HANAWITI

 i サパー(夕食)、SUPPER         →  ハパ、HAPA

 j ショップ(店)、SHOP            →  ハプ、HAPU

 k シーダー(杉)、CEDER          →  ヒタ、HITA

 

 ご覧のように、いずれも見事にS音がT音およびH音に変化していることをご理解いただけると思います。。

 ここでとくにご注意いただきたいことは、d「シガー」、e「シガレット」のS音(この場合はむしろSH音と考えたほうが正しいかも知れません)が、マオリ語では「チカ、ヒカ」、「チカレチ、ヒカレチ」とT音だけではなくて、H音にも変化していることと、この二つの形の単語が共存していることです。

 
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(3) S音の変化とその例

 

 ここでは原ポリネシア語でS音であったと考えられる地名の例をいくつか示します。日本語で現在はS音になっていても、調べてみますとマオリ語ではT音ですが、ハワイ語ではK音となっていて、原ポリネシア語ではT音であったと考えられるものがかなり多いようですので解釈には注意が肝要です。。

 

a 「カサ」地名

 

(a) 若狭(わかさ)国、若狭湾

 

 古代の若狭国は、現在の福井県の南西部にあたり、若狭湾に面する地域です。

 若狭国と福井県の大部分を占める越前国との境界は、おおむね敦賀半島の中央部を通っています。この昔の国の境界は、現在でも生きています。この境界によって旧若狭国は(株)関西電力、旧越前国は(株)北陸電力の供給区域に別れています。これにともなって敦賀半島の西側には関西電力の原子力発電所、東側には北陸電力と日本原子力発電株式会社の原子力発電所が軒を並べ、原発銀座の異名をとる地域になっています。そのために県の行政区域は二分されて、若狭についての国の電力行政の所管は大阪通産局、越前については名古屋通産局の所管となっているのです。だいたい国の出先機関の管轄区域は、県の区域を単位とするのが通常ですが、このように県の行政区域を二分しているのは全国でも珍しいケースです。(ほかには農林水産省の水産庁漁業調整事務所が太平洋、日本海、瀬戸内海などの海域で区域を分けているため、県を二分している例などがあります。)

 

 この「若狭」の国名については、藤原宮出土の木簡に「若佐国」、平城宮出土の木簡(和銅6(713)年のもの)に「若狭国」とあり、また『日本書紀』垂仁紀3年の分注に「若狭国」とみえています。

 その由来については、(ア)海を渡ってきた男女が年を取らずに若かったので「和加佐」と命名した、(イ)古代朝鮮語で、来て行くの意の「ワカソ」から、(ウ)のちに若狭国造になる膳臣(かしわでのおみ)が稚桜部臣(わかさくらべのおみ)の名を賜った(『日本書紀』履中紀3年11月の条)ことによるなどの説があります。

 しかし、これは若狭の地形による名で、

 

 原ポリネシア語の「ワ・カサ」、WA-KASA((PPN-M)wa=(M)wa(place);(PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「ワ・カサ」、「貝が口を開けたような(海に向かって笑っているように口を開けた湾がある)地形の場所」となった

 

と解します。原ポリネシア語の「ワ・カサ」がそのまま縄文語に残りました。貝は、縄文人にとって非常に重要な、また身近な食料でした。地形の表現に「カサ(口を開けた貝)」という言葉を用いたのは、生活に直結した連想によるもので極めて自然な命名方法であると思います。

 

(b) 笠沙(かささ)町

 

 「若狭」の「カサ」と同じ語源の地名としては、鹿児島県の薩摩半島の南西端に川辺郡笠沙(かささ)町(現在は周辺の町村と合併して鹿児島県南さつま市笠沙町)があります。『古事記』天孫降臨の条に「此地は韓国に向かひ、笠沙の御前(かささのみさき)を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(いとよ)き地。」とあり、『日本書紀』にも「笠狭の御碕(かささのみさき)」とあります。この「カササ」は、

 

 原ポリネシア語の「カサ・サ」、KASA-SA((PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish);(PPN-M)sa=(M)ta(lay,allay))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「カサ・サ」、「貝が口を開けたような湾が・並んでいる場所」となった

 

と解することができます。

 笠沙町がある野間(のま)半島の北岸には、天然の良港、片浦(かたうら)と野間池の二港が4キロメートルほど離れて並んでいます。「カサ・サ」の町名は、船の停泊地「枷(かせ)」に由来するとの説もありますが、この「カサ」は片浦の「カタ」とともに「若狭」の「カサ」と同じ語源で、二つの港(「カサ」)が並んでいる(「サ」)地形を表現したものと考えられます。

 

(c) 笠利(かさり)湾

 

 さらに、同県大島郡、奄美大島の東北端に笠利(かさり)湾があり、笠利(かさり)町と龍郷(たつごう)町に属しています。この「カサリ」も、

 

 原ポリネシア語の「カサ・リ」、KASA-RI((PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish);(PPN-M)ri=(M)ri(bind))が、

  ピジン語(およびクレオール語)の「カサ・リ」、「貝が口を開けたような入り江が・束ねられている湾(場所)」となった

 

と解することができます。笠利湾は、西の今井崎と東の蒲生崎に囲まれており、湾内には西から龍郷、赤尾木(あかおぎ)、赤木名(あかぎな)の三つの奥の深い入り江が隣接しています。これを「入り江(「カサ」)が束ねられた(「リ」)」と表現したのです。

 

 ちなみに、この入り江の名前も原ポリネシア語源のようです。

龍郷は、入り江の名前であるとともに、その最奥に位置する集落名であり、村名ですが、その「タツゴウ」は、

 原ポリネシア語の「タツ・(ン)ガウ」、TATU-NGAU(((PPN-M)tatu=(M)tatu(reach the bottom);(PPN-M)ngau=(M)ngau(wander))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「タツ・ゴウ」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がOU音に変化して「ゴウ」となった)、「さまよった末に到達した入り江の奥(の土地)」となった。

 赤尾木は、

 原ポリネシア語の「アカウ・(ン)ギア」、AKAU-NGIA((PPN-M)akau=(M)akau(shore,rocky coast);(PPN-M)ngia=(M)ngia(seem))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「アカオ・ギ」(「アカウ」の語尾のAU音がAAU音からAO音に変化して「アカオ」と、「(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾のA音が脱落して「ギ」となった)、「岩だらけの浜のように見えるところ」となった。

 赤木名は、

 原ポリネシア語の「アカウ・(ン)ギア・ナ」、AKAU-NGIA-NA((PPN-M)akau=(M)akau(shore,rocky coast);(PPN-M)ngia=(M)ngia(seem);(PPN-M)na=(M)na(add emphasis))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「アカ・ギ・ナ」(「アカウ」の語尾のU音が脱落して「アカ」と、「(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾のA音が脱落して「ギ」となった)、「すごく・ごつごつした岩だらけの浜のように・見えるところ」となった。(現地を見たことはありませんが、地図を見ると、この入り江の岸付近には珊瑚礁ないし岩礁とおぼしき表示があり、赤木名の入り江のほうにそれが多く記されています。)

 なお、この赤尾木の語源の「アカウ・(ン)ギア」は、三重県津市の阿漕浦(あこぎがうら)の「あこぎ」と一致します。この「あこぎがうら」は、

原ポリネシア語の「アカウ・(ン)ギア・(ン)ガ・ウラ」、AKAU-NGIA-NGA-URA((PPN-M)akau=(M)akau(shore,rocky coast);(PPN-M)ngia=(M)ngia(seem);(PPN-M)nga=(M)nga(the);(PPN-M)ura=(M)ura=uranga(place,etc.,of arrival))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「アコ・ギ・ガ・ウラ」(「アカウ」のAU音がO音に変化して「アコ」と、「(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾のA音が脱落して「ギ」と、「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)、「岩浜のように・見える・あの(ところの)・(船着場)浦)」と解されます。

 また、この赤尾木や赤木名の語源の「アカウ」は、兵庫県赤穂(あこう)市の「あこう」と同じと考えます。この「あこう」は、

原ポリネシア語の「アカウ」、AKAU((PPN-M)akau=(M)akau(shore,rocky coast))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「アコウ」(AU音がOU音に変化して「アコウ」となった)、「浜、岩浜」と解します。

 ついでにもうすこし寄り道をしましょう。

 この龍郷町の秋名(あきな)集落には、古くから伝わる旧暦8月に行われる豊作祈願と感謝の祭りである「秋名アラセツ行事」という重要無形民俗文化財があります。この行事の中に、海岸の離れた二つの大岩に数人づつの男女が立って互いに掛け合いの歌を歌い、手を振り合って稲魂(にやだま)を招く「ヒラセマンカイ」があり、とくに有名です。

 この秋名の「あきな」は、

原ポリネシア語の「アク・イナ」、AKU-INA((PPN-M)aku=(M)aku(scrape,cleanse);(PPN-M)ina=(M)ina(bask))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「アキナ」(「アク」の語尾のU音と「イナ」の語頭のI音が連結してI音となり、「アキナ」となった)、「日の光りを浴びて温もっている・きれいな場所(集落)」となったものでしょう。

 また、民俗行事「アラセツ」は、

原ポリネシア語の「アラ・セ・ツ」、ARA-SE-TU((PPN-M)ara=(M)ara(awake);(PPN-M)se=(M)te(emphasis);(PPN-M)tu=(M)tu(remain))、

ピジン語(およびクレオール語)の「アラ・セ・ツ」、「(稲魂の)目を覚まさせて・(活力を取り戻させ、かつ逃げないように)・留めておく(行事)」の呼称となったと解されます。

さらに、「ニヤダマ(稲魂)」は、

原ポリネシア語の「(ン)ギオ・タマ」、NGIO-TAMA(ngio=faded;tama=child,spirit;ta=breathe;ma=clean)、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ニヤ・ダマ」()、 「弱っていく(稲)魂」の転訛(NG音がN音に変化)、

 また、「ヒラセマンカイ」は、

 原ポリネシア語の「ヒラ・セ・マ(ン)ガイ」、HIRA-SE-MANGAI((PPN-M)hira=(M)hira(numerous);(PPN-M)se=(M)te(emphasis);(PPN-M)mangai=(M)mangai(mouth))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ヒラ・セ・マンカイ」(「マ(ン)ガイ」のNG音がG音から清音のK音に変化して「マンカイ」となった)、「何回も何回も・口で・唱える(ことによって稲魂を呼び戻す。行事)」となったと考えられます。

 

(d) 笠岡(かさおか)湾、笠岡市

 

 また、岡山県笠岡(かさおか)市の市名は、「笠の国」または「笠臣(かさのおみ。『日本書紀』応神紀22年9月の条所出)の国」に由来するといわれていますが、これも上記の「カサ」と同じ語源と考えられます。

 この「カサオカ」は原ポリネシア語の

 原ポリネシア語の「カサ・オカ」、KASA-OKA((PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish);oka=prick)が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「カサ・オカ」、「口を開けた貝に・(島が)突き刺さっているようなところ」となった

 

と解します。昭和41(1966)年から平成2(1990)年にわたって行われた干拓事業によって農地および工業用地となつた笠岡湾の出口には、細長い神島(こうのしま)が尖端を陸地に突き立てるように横たわっていましたが、この地形の特徴を見事に表現した地名です。

 なお、神島の「コウ」もマオリ語の「コウ」、KOU(knob)、「(ドアなどの)握り(のような島)」の意と考えられます。

 

(e) 笠戸(かさど)湾、笠戸(かさど)島

 

 山口県下松(くだまつ)市に、周防灘に突き出た大島半島によって囲われた笠戸湾があり、その出口を塞ぐ形で笠戸島があります。湾内は水深が深く、天然の良港です。

この「カサド」も、

 原ポリネシア語の「カサ・ト」、KASA-TO((PPN-M)kasa~(M)kata(laugh,opening of shellfish);(PPN-M)TO~(M)to(open or shut a door or window))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「カサ・ド」(「ト」が濁音化して「ド」となった)、「口を開けた貝(のような湾)の・口に戸を閉めたような湾(島)」となった

 

と解することができます。

 

(f) 笠縫邑(かさぬいのむら)

 

 奈良盆地の中央部、奈良県磯城郡田原本町に近鉄橿原線笠縫(かさぬい)駅があります。このあたりに崇神天皇が宮中から天照大神を移して豊鋤入姫命(とよすきいりびめのみこと)に祭らせた(『日本書紀』崇神紀6年条)という笠縫邑(かさぬいのむら)があったとの説があります(ほかにも桜井市笠の笠山荒神境内、同市三輪桧原神社境内などの説もあります)。またこの場所のすこし北には、弥生時代後期の環濠集落として全国でも最大級の唐古・鍵遺跡があり、南には太安万侶一族の祖先を祀る多(おお)神社があります。

 太古、奈良盆地は湖だったといいます。いつごろかはっきりしないのですが(ご存じの方がおられましたら、お教えください)、生駒山脈と葛城山脈の間、二上山の北の山峡が崩れ、湖の水が次第に排出されて今の盆地になったといわれています。奈良盆地の東の石上(いそのかみ)神宮から南に下って大神(おおみわ)神社にいたる「山辺(やまのべ)の道」は、かつての湖岸にあった道のようです。水位の低下に伴い、かつて盆地の周囲の高台、山間に住んでいた人々が湖底から姿を現した土地に続々と移り住んでいったのです。

 そして湖が乾陸化していく過程で最後まで残った湖水が、現在大和川(初瀬川)、寺川、飛鳥川、そして曽我川が集まってくる田原本町、三宅町あたりであったようです。笠縫の地名は、おそらく、そのある一時期に湖岸であったときに付けられたものでしょう。これもマオリ語の、

 この「かさぬい」は、 

 原ポリネシア語の「カサ・ヌイ」、KASA-NUI((PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish);(PPN-M)nui=(M)nui(big,large))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「カサ・ヌイ」、「口を開いた貝のような・大きな湾(潟)」となった 

と解することができます。(したがって笠縫邑の所在について三説あるうちで、山奥の櫻井市笠山説は可能性がもっとも薄いと思われますが、田原本町か、櫻井市三輪のいずれであったかは、速断はできません。)

 

(g) 笠置山(かさぎやま)

 

 「カサ」地名は、海岸ばかりではありません。京都府の南東部、木津川の峡谷のほとりに笠置山があります。花崗岩からなる山で、山中には浸蝕による奇岩、巨岩が多くあります。北は木津川断層谷、東は布目川、西は白砂川に囲まれており、急峻な孤立峰となっているため、古来から自然の要害とされてきました。また、古代には遊猟地や山頂の巨岩信仰の霊場で、山上には笠置寺が建立され、中世には修験の道場となっていました。

 元弘の変(元弘元(1331)年)に際しては後醍醐天皇の行在所となったことで有名です。後醍醐天皇の討幕計画の失敗による正中の変(元享4(1324)年)に続き、元弘元年8月に再度の討幕計画も漏れて日野俊基が捕らえられ、「主上ヲ遠国ヘ遷進(うつしまいら)セ、大塔宮ヲ死罪ニ行奉(おこないたてまつら)ン為」(『太平記』)に幕府は大軍を上洛させました。後醍醐天皇は、8月24日に御所を脱出して東大寺に入りましたが、協力が得られず、やむなく26日に和束の鷲峰山(じゅぶせん)に移りましたが、あまりにも辺鄙で、「要害ニ御陣ヲ召ルベシトテ、同二十七日潜幸ノ儀式ヲ引ツクロヒ、南都ノ衆徒少々召具セラレテ、笠置ノ石屋(いわや)ニ臨幸ナル」と『太平記』は記しています。

 笠置山の頂上近くには、巨岩が数多くありますが、その巨岩信仰から始まった笠置寺の修行場には胎内くぐりという巨岩の狭間やトンネルがあります。この口を開けたように見える巨岩が積み重なった山が信仰の対象で、笠置山の山名もこの巨岩にちなむものと考えられます。

 この「かさぎ」は、

 原ポリネシア語の「カサ・(ン)ギア」、KASA-NGIA((PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish);(PPN-M)ngia=(M)ngia(seem,appear to be))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「カサ・ギ」(「(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾のA音が脱落して「ギ」となった)、「口を開いた貝のように・見える(巨岩が積み重なった山)」となった

 

と解します。

 

(h) 笠間(かさま)市

 

 茨城県中央部の笠間市は、涸沼(ひぬま)川が南流する笠間盆地にあり、日本三大稲荷の一つ笠間稲荷が鎮座する市です。市名は、周り三方を山に囲まれ、地形が菅笠に似るとか、笠の形の山と山の間(ま)にあるからとか、山間の風の風間(かざま)、狭間(はざま)の地形から転訛したという説があります。

 この「かさま」は、

 原ポリネシア語の「カサ・マ」、KASA-MA((PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish);(PPN-M)ma=(M)ma(white,clean))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「カサ・マ」、「口を開いた貝のような地形の・清らかな土地」となった

と解します。

  (i) 小笠原(おがさわら)諸島

 

 東京都に属する小笠原諸島は、東京の南約1,100キロメートルに、南北約200キロメートルにわたり、大小約三十余の島からなっています。婿島、父島、母島の列島は、海底火山が隆起したものです。

 北硫黄島や父島では、マリアナ群島と同じ形式の磨製石斧が発見されており、有史以前から人が渡ってきていたことが確実視されています。スペインの探検家ヴィラロボスが天文12(1543)年に諸島の一部を望見したといい、スペイン人はこの諸島をアルソビスボ(大司教)と呼んでいました。また、伝説によれば、文禄2(1593)年に信濃深志城主小笠原貞頼が豊臣秀吉の命により南方に航海してこの諸島を発見し、徳川家康から小笠原島と命名することを許されたといいますが、定かではありません。なお、英語名「ボニン島」と別称があるのは、日本語「無人島」の転訛とされています。

 この「オガサワラ」の地名は、古くから伊豆七島や太平洋岸の漁民等の間に知られていた可能性があると私は考えます。縄文時代から神津島の黒曜石が青森県の三内丸山をはじめとして、東日本の各地にもたらされており、黒潮をこえて広い範囲での交流の事実があったことからしますと、この諸島についての知識が古くから海の民の間に伝えられていても不思議はありません。仮にそうであったとしますと、この「おがさわら」は、

 

 原ポリネシア語の「オ・カサ・ウァラ」、O-KASA-WHARA((PPN-M)o=(M)o(the place of);(PPN-M)kasa=(M)kata(laugh,opening of shellfish);(PPN-M)whara=(M)whara(be struck,be eaten))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「オ・ガサ・ワラ」(「カサ」の「カ」が濁音化して「「ガサ」と、「ウァラ」のWH音がW音に変化して「ワラ」となった)、「貝が口を開いたような湾が・浸食されている・場所(列島)」となった

と解することができます。

 列島中最大の島である父島の周囲は、切り立った海食崖であることが最大の特徴ですから、この父島の景観、特徴に着目して付された地名が、後に全体の諸島名に転じたものと考えられます。

 

(j) 邑知潟(おうちがた)

 

 石川県能登半島の付け根を南西から北東方向に走る邑知潟地溝帯の西部に、潟湖(せきこ)の邑知潟があります。かつては非常に細長い潟で、千路(さじ)潟、羽咋(はくい)潟、菱(ひし)湖とも呼ばれ、大国主命が潟の大蛇を退治した伝説から大蛇(おろち)潟とも呼ばれていました。現在は大部分が干拓されています。

 この邑知潟だけでなく、秋田県男鹿半島の八郎潟、石川県の河北潟などをはじめとして、特に日本海に面した海岸に多く見られる川の河口の内側に開けた半鹹・半淡の水面を古くから「潟(かた)」と呼んでいたようです。原ポリネシア語の段階で「カサ」と並んで「カタ」の一般名詞が使われていたのではないでしょうか。

 この「おうちがた」は、

 原ポリネシア語の「アウ・チ・カタ」、AU-TI-KATA((PPN-M)au=(M)au(sea,current,wake of a canoe,cord);(PPN-M)ti=(M)ti(throw,cast);(PPN-M)kata=(M)kata(laugh,opening of shellfish))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「オウ・チ・ガタ」(「アウ」のAU音がOU音に変化して「オウ」と、「カタ」が「ガタ」となった)、「放り出された・紐(ひも)のような形をした・潟」となつた

と解します。

 なお、別名の「さじ」は、

原ポリネシア語の「サ・チ」、SA-TI((PPN-M)sa=(M)ta(stem of a plant);(PPN-M)ti=(M)ti(throw,cast))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「サ・ジ」(「チ」が濁音化して「ジ」となった)、「放り出された・木の幹のような(潟)」となったと解します。

 また、この潟のある地域の郡名でもある「羽咋(はくい)」は、『和名抄』に「波久比」と訓じられていますが、この「はくい」は、

原ポリネシア語の「ハクイ」、HAKUI((PPN-M)hakui=(M)hakui(old woman,mother))が、 「老婆(または母)(の地)」の意と解することができます。その由来は知る由もありませんが、老女がこの地域の支配者であったことによるのかも知れません。

 ちなみに、能登(のと)国の「のと」は、

原ポリネシア語の、NGOTO((PPN-M)ngoto=(M)ngoto(head))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「ノト」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノと」となった)、「頭(を海に突き出しているような半島)」の意と解します。

(NG音の変化については入門篇(その二)に詳説します。)

 

(k) ほかの「カサ」地名

 

 これらのほかにも「カサ」のつく地名が全国に数多くあります。とくに海岸部に「カサ」地名が目につきます。たとえば、丹後国の加佐(かさ)郡加佐(かさ)町(現在は京都府舞鶴市に合併されています)の「カサ」も、由良川によって開けた地形によるもので同じ語源でしょう。

 「カサ」がマオリ語と同じようにS音がT音に変化して「カタ」になり、濁音化して「カダ」になった例もみられます。近江八景の一つ「堅田の落雁」や浮御堂で知られる滋賀県大津市の堅田(かたた。上記の鹿児島県笠沙町の「カササ」の語源と全く同じです。)や、紀淡海峡にのぞむ和歌山市の加太(かだ)はその代表例です。

 福岡県の博多(はかた)や、愛媛県越智郡伯方(はかた)町、同郡波方(なみかた。昭和35年の町制施行前は「はかた」)町の「カタ」も同じ可能性がありますが、ほかの解釈もできますので、別途詳説します。

 皆さんも近くに「カサ、カタ、カダ、ガタ」地名があったら、この原ポリネシア語源かどうか、地形を調べてみて下さい。

 

(l) 若桜(わかさ)は別の語源

 

 ただし、「カサ」のつく地名であっても、上記の語源とは全く異なるものがあります。たとえば、鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町の地名は、古代の因幡国八上郡若桜郷の名に由来するとされており、この地を通る若桜(わかさ)街道は古くから重要な山陽と山陰を結ぶ街道でした。

 この「ワカサ」も一見「若狭(ワ・カサ)」と同じ語源にみえますが、地形がどうも違います。この「若桜」は「ワカ・サ」で、

 原ポリネシア語の「ワカ・サ」、WAKA-SA((PPN-M)waka=(M)waka(canoe,any long narrow receptacle);(PPN-M)sa=(M)ta(lay,allay))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ワカ・サ」、「細長い舟のような(起伏が激しい道路が)・つながっている(場所、街道)」

の意で、八東川の狭い谷が下流に向かって延々と続く地形から命名されたものと考えるのが適切です。

 

(m) 音節をどこで切るか

 

 このように、ポリネシア語はどこで音節を切るか、どこまでが一つの単語かによって意味が全く違ってきますので、注意しなければなりません。

 そういえば、平成9年のいつでしたか、NHKテレビの「日本人の質問」という人気番組の問題に、珍しくポリネシア語の問題が出たことがありました。

 それはハワイ諸島の島々にそれぞれ王がいたのを統一した有名な大王「カメハメハ」の名は、二つの単語で合成されているが、どういう意味かというもので、「カ・メハメハ」か、「カメ・ハメハ」か、「カメハ・メハ」か、「カメハメ・ハ」かのどれか一つを選べというものでした。

 正解は、「カ・メハメハ」、KA-MEHAMEHA((H)ka(the person);(H)mehameha(lonely))、「孤独の人」(大王は幼時に両親を亡くして孤独のうちに育ったといいます)でした。

 ちなみに、マオリ語では、ハワイ語の「カ(KA=the person)」に相当する単語は「タ(TA)」ですから、「タ・メハメハ」になるはずですが、それとは別に「カメハメハ」、KAMEHAMEHA((M)priceless,inestimable)、「極めて貴い、測られないほど偉大な」という一つの単語が存在しています。これはおそらく大王の評判がマオリ族に伝わって、このような意味をもつ単語として定着したものでしょう。

 

 この例から思い出すことがあります。それは駿河(するが)国の「スルガ」は、インドネシア語の「SURGA、楽園、天国」が語源ではないかという説(茂在寅男『古代日本の航海術』前掲)があります。マレー語でも「SYURGA,SORGA、heaven、天国」ですが、この語はサンスクリット語源とされています(MALAY-ENGLISH ENGLISH-MALAY DICTIONARY,A.E.Coope,HIPPOCRENE BOOKS,New York,1993,ISBN0-7818-0103-6)。マレー語、インドネシア語にこのサンスクリット語が入った時期は不明ですが、そう古い時期ではないと私は考えます。また、現代マオリ語や現代ハワイ語にこの語に相当する語が見あたらないことをみても、原ポリネシア語にこの語が入っていた可能性は薄いと思われます。崎山理氏は、南方から数回にわたって南方系言語が日本列島に入っており、その中には西部オーストロネシア語が含まれ、「ハエ(南風)」の語がもたらされたとされますが、その時期は紀元前2000年ごろで、ニユーギニアの言語接触を起こして間もない言語であった可能性があるとされていますから、このサンスクリット語源の語がその際に入ってきた可能性は少ないと思われます。

 この「スルガ」は、

原ポリネシア語の「ス・ル(ン)ガ」、SU-RUNGA((PPN-M)su=(M)tu(stand);(PPN-M)runga=(M)runga(south))が、ピジン語(およびクレオール語)の「ス・ルガ」(「ル(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ルガ」となった)、「(富士山の)南に・位置する地域」の意と解します。福井県敦賀(つるが)市の「ツルガ」も同じ語源で、「(越の国の)南に位置する場所」の意と解します。


<修正経緯>

1 平成19年2月15日
  インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<修正経緯>の新設などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

2 令和3年10月15日
  原ポリネシア語を語源とする解釈に修正したほか、必要な修正を行い、改訂版としました。

 
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ー入門篇(その一)終わりー

U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源 
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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