改訂版

入門篇(その二)

(平成10-12-1書込み。令和3年11月1日最終修正)(テキスト約16頁)


トップページ 入門篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

目  次

 

2 原ポリネシア語の子音がマオリ語、ハワイ語および日本語でどのように変化したか(続き)

 

(3) S音の変化とその例(続き)

 b 「アサ」地名(浅間山、富士山の別名ほか、安達太良山)

 c 「サガ」地名(相模、嵯峨野ほか)

 

(4) T音の変化とその例

 a 「フジ」地名(富士山、富士山釣り上げ神話、藤井寺、伏木、伏見ほか)

 b 多良岳

 

(5) NG音の変化とその例

 a 「アゴ」地名(英虞湾、奈呉の海、安濃津ほか)

 b 能登

 c 乱岩(らんがん)の森

 d あららぎ

<修正経緯> 

 

2 原ポリネシア語の子音がマオリ語、ハワイ語および日本語で
どのように変化したか(続き)

 

(3) S音の変化とその例(続き)

 

 

b 「アサ」地名

 

(a) 浅間(あさま)山

 

 群馬県北西部と長野県東部にまたがる浅間山(2、568メートル)は、三重式の成層火山で、高さ、広さともに有数の日本の代表的活火山です。歴史時代に入ってからも数多くの噴火が記録されており、とくに天明3(1783)年の大噴火は、大量の火山灰を江戸をはじめ関東東海地方に降らせ、吾妻郡嬬恋村鎌原を火砕流が襲って多数の人命を奪い、さらに泥流が吾妻川流域に被害を与え、最後に噴出した溶岩が「鬼押し出し」を形成しました。

 山名の由来は、

(ア)「浅ま」は「近く」で、「近くに見える山」の意、

(イ)頂上の噴火口が「浅い釜」状であることから「あさま」となった、

(ウ)「あずま」からの転訛、

(エ)「あずまや(四阿)山」で、山の形からきた、

(オ)「あたま」は熱い意で、「あた」は「敵」に通じるため「あさ」に転じて「あさま」になった、

(カ)アイヌ語で「アサマ」は「土台、基礎」で、「どっしりと座っている山」の意とする説などがあります。

 しかし、この「あさま」は、

原ポリネシア語の「アサ・マ」、ASA-MA((PPN-M)asa=(M)ata(how horrible!);(PPN-M)ma=(M)ma(white,clean))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「アサ・マ」、「なんと恐ろしい・白い(清らかな)山」となった

の意と解します。原ポリネシア語の「アサ」が日本語にそのまま残り、原ポリネシア語のS音がマオリ語ではT音に変化して「アタ」となり、ハワイ語ではS音がH音に変化して「アハ、AHA(aninterjection of surprise,wonder)、驚き、驚嘆(感嘆詞)」になっています。

 この古来から何度となく噴火を繰り返してきた恐ろしい山を人々は恐れと畏敬の念をもって見てきたことでしょう。「アサマ」は、「恐るべき(霊)力をもつ神の住む清らかな山」と考えられていたに違いありません。

 

(b) 富士山も「あさま」山だった

 

 そうしますと、浅間山と同じように有史以来何回となく噴火をくりかえしてきた日本一の秀峰であり、活火山である富士山にも、「アサマ」という別名が与えられていても不思議はありません。

 富士山頂に浅間(せんげん)神社奥の院があり、南麓の静岡県富士宮市に駿河国一宮の浅間神社、北麓の山梨県東八代郡一宮村に甲斐国一宮の浅間神社が鎮座されているほか、富士山の周囲には多数の浅間神社があります。現在は「せんげん」と読んでいますが、伝承によれば古くは「あさま」神社であったのが、音読みで「せんげん」神社となったといいます。富士山の山の神(浅間神社の祭神はコノハナサクヤヒメとされています)を祀る神社の名称が「あさま」であるということは、かって富士山に「あさま」山という別名があった証拠と考えられます。(富士山の語源については、(4)T音の変化とその例の項で解説します。)

 

(c) 「あさま」山と富士信仰

 

 関東東海地方(三重県をふくめます)には、ほかにいくつも浅間山(あさまやま。せんげんやま。せんげんさん。)の地名があります。その数は、手許の分県地図によると、東京都と埼玉県にまたがる仙元(せんげん)峠を含めて、十一を数えます。さらに詳細な地図で調べたら、その数はもっと増加するでしょう。

 そのなかでもっとも有名な「あさまやま」は、三重県伊勢市と鳥羽市の境にある朝熊(あさま)ケ岳(555メートル)です。この山は、伊勢神宮(外宮)の宮司家である度会氏の先祖の墓所地で、里宮の伊勢神宮に対する山宮として古来数々の伝統的神事がおこなわれてきた霊地です。頂上には空海創建といわれる金剛証寺があって、伊勢神宮の鎮護寺となっており、江戸時代には「伊勢に参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」とうたわれました。頂上からは、志摩の海岸、伊勢平野や三河、駿河の山々から南アルプス、南紀の山並みまで一望できるだけではなく、とくに富士山を遠望し、遥拝できる場所として有名です。

 朝熊ケ岳をはじめ、関東東海地方、というよりは「東海道」といった方が適切かも知れませんが、ここに分布する「あさま」山(峠)十一のほとんどは、その頂上から富士山が遠望できます。そしていくつかの山頂には浅間神社の小祠が残っていますし、いまだに年一回早朝に山に登って東の方、富士山とご来迎を拝む行事を行なっているところ(三重県度会郡大宮町。浅間山(734メートル))もあります。頂上から遠望できない山でも、浅間神社の小祠が現存しているところ(静岡県賀茂郡東伊豆町。浅間山(517メートル))もあります。これらの事実からすると、これらの「あさま」地名は、江戸時代にとくに盛んであった富士(浅間)山信仰の冨士講によって命名された名残りと断定して間違いはないでしょう。

 

(d) 安達太良(あだたら)山

 

 福島県に安達太良山(1、700メートル)という活火山があります。

 高村光太郎『智恵子抄』の中の「あどけない話」という有名な詩の一節に、

 

  「智恵子は東京に空が無いといふ。

   ほんとの空が見たいといふ。

   ・・・

   智恵子は遠くを見ながら言ふ。

   阿多多羅山の山の上に

   毎日出ている青い空が

   智恵子のほんとの空だといふ。

   あどけない空の話である。」

 

とあります。

 この安達太良山も、名前からすると「あさまやま」の仲間なのです。

 この山は、福島県中北部の二本松市、安達郡大玉村、郡山市、耶麻郡猪苗代町の境にあり、磐梯朝日国立公園の中にあります。飯豊別(いいでわけ)神が宿る霊山とされ、南麓の本宮(もとみや)町に安達太良神社があります。

 「安達太良」の名は、寛平9(897)年の文献に「安達峰(あだたみね)」としてみえ、『万葉集』では「安太多良ケ峰」、「安達太良山」、「阿多多羅山」と、そのほか「乳首山」(『家世実記』)、「二本松岳」(『相生集』)、「岳山」などと記されています。会津側では「東(あずま)岳」(『新編会津風土記』)、「沼尻山」、「硫黄山」と別称が多くあります。

 山名の由来については、いろいろな説が入り乱れています。

(ア) 「安達郡の最高峰、すなわち太郎」で、安達太郎が約されて「アタタラ」になつたとする説があります。なお、吉田東伍は「原名はアタタなり、故に安達の文字を仮りる」(『大日本地名辞書』)ともいっています。また、

(イ) 「アダ(ア)」は、「アチ(彼方)」の転訛で、「タラ」は「タカラ(高いの意)」から「彼方の高い山」という説、

(ウ) 「アダチ」は「アダ(断崖)・チ(接尾語)」という説、

(エ) 「アダチ」は「ア(接頭語)・タチ(台地)」という説、

(オ) 「アダチ」は「ア(上)・タリオ(垂尾)」という説、

(カ) 「アタタラ」は「ア(上)・タタラ(製鉄の溶鉱炉)」という説、

(キ) 「アタタ」はアイヌ語の「アタタ(乳首)(安達太良山の山頂の一番のピークを乳首山と呼んでいます)」という説、

(ク) 「アタタラ」はアイヌ語の「ア、タッタル(我ら、踊り踊りする(山または祭場))」(大友幸男『日本縦断アイヌ語地名散歩』三一書房、平成七年)という説などがあります。

 この「アタタラ」は、

 

 原ポリネシア語の「アサ・タラ」、ASA-TARA((PPN-M)asa=(M)ata(how horrible!);(PPN-M)tara=(M)tara(peaks of all kinds)が、

ピジン語(およびクレオール語)の「アタ・タラ」(「アサ」のS音がT音に変化して「アタ」となった)、「なんと恐ろしい・峰よ!」となった

 

と解します。原ポリネシア語の「アサ」が日本語に入って浅間山の「あさ」になつたわけですが、安達太良山にあっては日本語に入ると同時か、その後まもなくS音がT音に変化して「アタ」となったものです。

 このS音とT音の変化の関係は、日本語では数多く一般に見られます。たとえば、日本語の「○○さん」が幼児語では「○○ちゃん」となりますし、江戸っ子は「真っ直(す)ぐ」と言えなくて「真っ直(つ)ぐ」と言いますし、「私」のことを「あっし」と言ったり、「あっち」と言ったりするように、S音が容易にT音に変化するのです。この逆に、T音がS音に変化することもあります。

 ちなみに、江戸っ子は「ヒ」と「シ」の発音が区別できなくて、「朝日新聞」を「あさしひんぶん」と言ったりします。これはまさに原ポリネシア語のS音とハワイ語のH音の関係によく似ています。

 そしてこの名のとおり、安達太良山は歴史上ひんぱんに噴火活動を繰り返している恐ろしい活火山です。明治33年にも大噴火を起こしてじつに77名もの死者を出していますし、平成9年にも山頂付近で火山性有毒ガスによって登山者が死亡しています。

 このように名前も実体も、安達太良山は浅間山の仲間なのです。

 

c 「サガ」地名

 

 各地に「サガ」という地名があります。これは、原ポリネシア語の「サ(ン)ガ、SANGA」がその語源と考えられます。この単語は、すでにご説明したように、マオリ語ではS音がT音に変化して「タ(ン)ガ、TANGA」となり、ハワイ語ではS音がH音に、NG音がN音に変化して「ハナ、HANA」と変化しています。

 この原ポリネシア語の「サ(ン)ガ」が日本語に入って「サガ」、または「タガ」となった地名の例のいくつかを以下に示します。すでにご説明したように、原ポリネシア語のNG音のNは通常極めて弱く発音されますので、「サガ」または「タガ」となるのです。

 

(a) 相模(さがみ)

 

 古代の相模国は、東海道に属し、現在の川崎・横浜両市を除く神奈川県の地域です。

 その名前の由来には、

(ア)足柄筥根から見おろす「坂見(さかみ)」の国(『倭訓栞』)、

(イ)足柄二郡は山で、そのほかも平地が少ないことから「嶮上(さかがみ)」(『類聚名物考』)、

(ウ)武蔵の佐斯(さし)の上(かむ)の国で「さかむ」、

(エ)古代朝鮮語の「サガ(寒川)」からといった諸説があります。

 この「サガミ」は、

 原リネシア語の「サ(ン)ガ・ムイ」、SANGA-MUI((PPN-M)sanga=(M)tanga(circumstance or place of dushing,striking,etc.the place where a seine is brought to land,be assembled,row,division of persons);(PPN-M)mui=(M)mui(swarm about,infest,molest))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「サガ・ミ」(「サ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「サガ」と、「ムイ」のUI音がI音に変化して「ミ」となった)、「悩ましいこと(富士山や箱根山などの噴火をはじめとする自然災害の発生の危険)が・いくつもある地域」となった

と考えます。

(b) 嵯峨野(さがの)

 

 京都市右京区の嵯峨野は、保津川が山地から京都盆地へ流れ出て桂川となる地の左岸の地名で、山越から小倉山あたりまでの総称です。この土地は、段丘や緩傾斜の扇状地の上にあります。古代から水がかりが悪く、耕地、とくに水田を開くことが困難だったようで(足利健亮『景観から歴史を読む−地図を解く楽しみ』NHK人間大学テキスト、平成9年)、平安時代には貴族の狩猟の場所となり、山荘や寺院が置かれました。

 地名の由来については、「嵯峨」の字も、その読みも、山の嶮しい様子を表したものという説や、「坂」からきたとする説があります。

この「サガノ」は、

 原ポリネシア語の「サ(ン)ガ・ノイ」、SANGA-NOI((PPN-M)sanga=(M)tanga(be assembled,row,tier,division);(PPN-M)noi=(M)noi(elevated,on high,erected))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「サガ・ノ」(「サ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「サガ」と、「ノイ」の語尾のI音が脱落して「ノ」となった)、「連なった・高台(の土地)」となった

 

と解します。

 

(c) 寒河江(さがえ)市

 山形県寒河江市は、県の中央部、山形盆地の西部にある市で、市名は中世の荘園名に由来します。市の中心は南部で、二本の大きな川が流れており、市の南縁から東縁を最上川が東流から北流し、その後最上川と並行して東流する寒河江川と合流とます。 

 この「さがえ」は、

原ポリネシア語の「サ(ン)ガ・アエ」、SANGA-AE((PPN-M)sanga=(M)tanga(be assembled,row,tier,division);(PPN-M)ae=(M)ae(calm)が、

ピジン語(およびクレオール語)の「サガエ」(「サ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「サガ」となり、その語尾のA音と「アエ」の語頭のA音が連結して「サガエ」となった)、「(最上川と寒河江川の二つの)川が合流する・静かな地域」となった

と解します。

(d) 多賀城(たがじょう)市

 

 宮城県に仙台市の北東に接して多賀城市があります。かつて大和朝廷の東北経営の最前線であった陸奥国府多賀城跡がある「史跡のまち」です。多賀城跡からは日本三古碑の一つの多賀城碑が出土しています。この「たがじょう」の古代の陸奥国の国府名によります。

 

 原ポリネシア語の「サ(ン)ガ・シホイ」、SANGA-SIHOI((PPN-M)sanga=(M)tanga(be assembled,row,tier,division);(PPN-M)sihoi=(M)tihoi(diverge,go to a distance,divergent)が、

ピジン語(およびクレオール語)の「タガ・ジョウ」(「サ(ン)ガ」のS音がT音に、NG音がG音に変化して「タガ」と、「シホイ」のH音および語尾のI音が脱落して「ショ」となり、それが濁音化し、末尾が長音化して「ジョウ」となった)、「(陸奥の国府の各機関や国分寺などが都を離れた)遠隔の地に・集合した場所」となつた

 

と解します。

 

(e) 多賀(たが)郡、田方(たがた)郡は違う語源

 

 なお、茨城県に多賀(たが)郡があります。この多賀郡の多賀は、『常陸国風土記』および『和名抄』では「多珂郡」としており、古くは「たか」でした。『常陸国風土記』は、多珂の国造に任じられた建御狭日命(たけみさひのみこと)が「國體(くにがた)を歴験(めぐりみ)て、峯険(さか)しく岳崇(やまたか)しと為して、因りて多珂國と名づけき」(岩波書店、日本古典文学大系本による)と記しています。そうしますと、地形からみて、この「たか」は、

 原ポリネシア語の「サカ」、SAKA((PPN-M)saka=(M)taka(heap,lie in a heap,heap up))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「タガ」(「サカ」のS音がT音に変化して「タカ」となり、さらに濁音化して「タガ」となった)、「高みにある土地」となった

 

の意と解することができます。

 

 また、静岡県の伊豆におおむね狩野川の流域を占める田方(たがた)郡があり、その狩野川の下流に沖積平野の田方平野があります。この田方は、『和名抄』では伊豆国田方郡を「多加太」と訓じていますから、古くは「たかた」であったようです。そうしますと、かつては海が湾入していたとみられるこの地域の地形からみて、この「たかた」は、

 

 原ポリネシア語の「サ・カサ」、SA-KASA((PPN-M)sa=(M)ta(the place of);(PPN-M)kasa=(M)kata(opening of shellfish))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「タ・カタ」(「サ」および「「カサ」のS音がT音に変化して「タ・カタ」となった)、「貝が口を開けたような地形(潟)のある・地域」となった

と解することができます。前項で説明した「カサ」地名の変型の一つで、「サガ」地名とは違う語源なのです。

 さらに、この「タ・カタ」の語頭の「タ」のT音が日本語に入ってS音のままの「サ・カタ」の地名もあります。山形県酒田(さかた)市の「さかた」がそれで、最上川の河口の潟を港とした地形を表現した地名と解します。

 

(f) 佐賀(さが)県、佐賀市は同じ語源か

 

 佐賀県、佐賀市の「サガ」は、古くは「佐嘉」と書き、「サカ」と清音で呼んだ(『和名抄』肥前国佐嘉郡)ようです。「佐賀」の文字が使われだしたのは慶長年間で、「佐嘉」と混用されていましたが、「佐賀」に統一したのは明治に入ってからのことのようです。この「サカ」の語源は、上記の「多賀」の「サガ」が清音化したものと考えられます。

 

 
トップページ 入門篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

(4) T音の変化とその例

 

a 「フジ」地名

 

(a) 富士(ふじ)山

 

 日本一の高峰(3、776メートル)であり、日本を代表する名山、また霊峰としての富士山については、いまさら私が解説するまでもありません。

 しかし、その山名については、古来、不二山、不尽山、布士山、福慈山などと書かれています。

 その語源については、

(ア) ホデ(火出)の転、

(イ) ケフリ(煙)シゲシの略、

(ウ) フジナ(吹息穴)の略、

(エ) フシ(節)から(楠原祐介『日本の地名』)

(オ) アイヌ語で「火の神」の意の「フンチ」から、

(カ) アイヌ語で噴火するという意味の「プッシュ」から、

(キ) マレー語で素晴らしいという意味の「プジ」

などの説があります。

 この「ふじ」は、

 

 原ポリネシア語の「フシ」、HUSI((PPN-M)husi=(M)huti(pull up,fish(v)))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「フジ」(「フシ」が濁音化して「フジ」となった)、「(神が海中から)釣り上げた(山)」

 

の意と解します。(ここでは原ポリネシア語の「フシ、FUSI」が日本語に入ってそのまま濁音としましたが、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間神社の北約6百メートルのところに、富士山の山の神を祀る神社として古くから地元の人の尊崇を集めてきた神社があり、それが浅間神社よりも古い式内社で「富知(ふち)神社」であるところからすると、「フシ」のS音がT音に変化して「フチ」となり、その後濁音化して「フジ」となったと考えるべきかも知れません。)

 

(b) 富士山釣り上げ神話

 

 ここで「(神が海中から山を)釣り上げた」ということに疑問をもつ方がおられるかと思いますが、ポリネシアの神話によれば、人間に火をもたらしたといわれる「マウイ」という有名な英雄神が、その祖母が亡くなったとき、祖母の顎の骨(先祖の骨には特別な霊力があると信じられています)を取って釣り針とし、海中から火山島を釣り上げたといいます。この島釣り神話は、ポリネシア族だけではなく、広くメラネシアやミクロネシアに広がっています。島や火山を釣り上げるというのは、太平洋の諸民族に普遍的な観念なのです。

 お手許の風呂敷なり、ハンカチを机の上に広げて、その中央をつまんで持ち上げて見て下さい。裾をなだらかに引いた富士山の姿をそこに見ることができます。これを「釣り上げた」と表現したのです。

 黒潮に乗って日本列島にやってきた原ポリネシア語を話す民族が、富士山の秀麗な姿を海上から見て、彼らの常識になっている「マウイ神の島釣り神話」を思い出し、「フチ!。神が海から釣り上げた山だ!」と叫んだとしてもなにも不思議はないのです。

 そしてこの「島釣り神話」は、『古事記』、『日本書紀』のイザナギ、イザナミの二神がアメノヌボコで海をかき回して引き上げ、矛(ほこ)の先からしたたった海水が固まってオノゴロ島となったという「国生み神話」と同じ系統に属する「陸地創造神話」であると神話学者は述べています(大林太良『日本神話の起源』角川選書、1973年。吉田敦彦『日本神話の源流』講談社現代新書、1976年)。

 それだけではありません。「富士山」の名をつけた民族は、神がどのようにして富士山を釣り上げたか、何を釣り針としたか、釣り糸はどうなったかなどについても、見事なまでにまとまった壮大な物語を作り上げていたと思われます。残念なことに、この「出雲国引き神話」にも匹敵するであろう「富士山釣り上げ神話」は現在全く残されていませんが、富士山周辺の地名にはその物語があったことを窺わせる地名が多数残っています。 

 昔から富士山の周辺に三つの「あし」地名があることが注目されてきました。「芦(あし)ノ湖」、「足柄(あしがら)山」、「愛鷹(あしたか)山」がそれです。さらに富士川の支流の「芦(あし)川」もあります。これらのほか、「篭坂(かごさか)峠」、「御坂(みさか)山」、「酒勾(さかわ)川」、「本栖(もとす)湖」なども「富士山釣り上げ神話」の構成要素となっており、ポリネシア語で気宇壮大な物語として解釈できるのです。いずれこれらについて解説しますので、ご期待ください。

 

(c) 藤井寺(ふじいでら)市

 

 富士山の語源でお分かりのように、日本語の「藤(ふじ)の花」は、原ポリネシア語源で、「釣り上げた花」の意味であることはいうまでもありません。さらに「ふじ」のつく地名のなかに、多数の原ポリネシア語源の地名があります。

 

 大阪府の南東部に藤井寺市があります。市名は、市の西部にある名刹葛井(ふじい)寺に由来しています。

 葛井寺は、真言宗で、紫雲山と号し、古くは剛琳寺とも称していました。聖武天皇の勅願で、行基の開基と伝えられますが、百済系の渡来人葛井連(ふじいのむらじ)一族が氏寺として創建した寺のようです。

 市の地域は、大和川と石川の合流点の南西部に位置しており、羽曳野(はびきの)丘陵北端部を占めています。丘陵末端部は古くから開け、羽曳野市にかけて巨大な前方後円墳が密集する古市古墳群をはじめ遺跡が多い地域です。難波と飛鳥を結ぶ古代の幹線道路の大津道(長尾街道)と、生駒山麓を南北に通ずる東高野街道の会合点にあたる国府(こう)には河内国府が置かれていました。

 この地域が古くは「ふじい」という地名がつけられ、そこに住んだ氏族に葛井連(ふじいのむらじ)の名が付されたと思われます。

 この「ふじい」は、

  =

 原ポリネシアの「フシ・ヰ」、HUSI-WI((PPN-M)husi=(M)huti(pull up,fish(v));(PPN-M)wi(tussock grass)が、

  ピジン語(およびクレオール語)の「フジ・ヰ」(「フシ」のS音がT音に変化して「フチ」となり、さらに濁音化して「フジ」となった)、「持ち上げられた(高みにある)・草むらのある場所」となった

と解します。

 

(d) 藤戸(ふじと)の渡り

 

 テレビや映画の「鬼平犯科帳」で有名な歌舞伎の中村吉右衛門丈が平成10年5月、ユネスコの世界遺産に指定されている広島の厳島神社で、創作舞踊劇「昇竜哀別瀬戸内(のぼるりゅうわかれのせとうち) 藤戸」を奉納して好評を博したといいます。

 これは謡曲「藤戸」を歌舞伎にしたもので、『平家物語』にもでてくる源平の藤戸の合戦で先陣の功をたてた佐々木盛綱に息子を殺された母の恨み、悲しみを色濃く描いたものです。「藤戸」は、『古事記』の国生み神話に「吉備の児島」としてでてくる現在の岡山県の児島半島がかつては島であり、本土と地続きではなく、狭い水道で隔てられていた時代に、その水道のなかでただ一カ所、「河の瀬のやうなるところ」(『平家物語』巻第十、岩波書店、日本古典文学大系)、「川瀬のやうなる浅み」(新潮日本文学集成『謡曲集下』「藤戸」)があって人馬が歩いて渡ることができた場所の地名です。

 佐々木盛綱は、地元の男からこの浅瀬を教えてもらうと、先陣の功を独り占めにするため、その男を殺してしまいます。やがてその功で瀬戸内海の海上交通の要衝である児島を所領とした盛綱が、はじめて所領にやってきて、なにか領主に訴え事はないかと触れたとき、息子を殺された母がその恨みをかきくどき、息子が亡霊となって現れます。そこで盛綱が深く反省して母に手当を施して謝罪し、息子を手厚く弔い、息子もようやく成仏して終わるのです。

 この「ふじと」も、

 

原ポリネシア語の「フシ・ト」、HUSI-TO((PPN-M)husi=(M)huti(pull up,fish(v));(PPN-M)to=(M)to(be pregnant))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「フジ・ト」(「フシ」のS音がT音に変化して「フチ」となり、さらに濁音化して「フジ」となった)「(川底が持ち上げられているところ)浅瀬が・(妊(はら)んでいる)外からは見えないがそこにある場所」となった

 

と解します。川(水道)を人体に例えたこのような表現は、ポリネシア語では決して珍しいものではありません。いたるところにでてきます。

 

(e) 伏木(ふしき)

 

 伏木は、富山県の北西部、小矢部(おやべ)川の河口にある港町で、もとは射水郡伏木町でしたが、昭和17(1942)年に高岡市に編入されました。奈良時代に越中国衙(こくが)や国分寺が置かれ、越中守大伴家持(おおとものやかもち)が天平18(746)年から6年間滞在して数々の歌を詠みました。そのなかに次のような歌があります。

 

  東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ   (巻17・4017)

  朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ歌ふ船人 (巻19・4150)

 

 この「射水川」とは小矢部川の古称、「奈呉の海(浦)」とは射水川河口に隣接する庄川河口右岸の「放生津(ほうじょうづ)潟」とその海域の名称で、古来『万葉集』や『続古今集』などで数多く詠まれている景勝地です。これらの歌は、国衙があった地、すなわち小矢部川の左岸の高台で詠んだものと思われます。この高台に「伏木」という地名が付けられたものでしよう。

 この「ふしき」は、

 

 原ポリネシア語の「フシ・キ」、HUSI-KI((PPN-M)husi=(M)huti(pull up,fish(v));(PPN-M)ki=(M)ki(full,very)) が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「フシ・キ」、「たいへん・高くなっている場所」となった

 

と解します。

 なお、「奈呉(なご)の海(浦)」については、次の「NG音とその変化」の項で解説します。

 

(f) 伏見(ふしみ)

 

 京都市南部に伏見の地があります。文禄3(1594)年豊臣秀吉は、伏見に城を築き、また堤を築いて宇治川と小椋池を分離し、大和街道を付け替え、伏見津を置き、淀城を破却しました。これらは交通の要衝であった伏見の地の防衛をさらに堅固にするためといわれています。

 この伏見城のある場所は、とくに高台で、その天守閣からは分離堤の上を通るようになつた大和街道や、伏見津が一望できたといいます。この「ふしみ」も、

 

 原ポリネシア語の「フシ・ミヒ」、HUSI-MIHI((PPN-M)husi=(M)huti(pull up,fish(v));(PPN-M)mihi~(M)mihi(show itself,be expressed))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「フシ・ミ」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)、「高台にあることを・見せつけている場所」suZq

と解します。

 

b 多良(たら)岳

 

 前に「安達太良山」の項で説明しましたが、「あたたら」の「たら」は、佐賀・長崎両県にまたがる多良(たら)岳(1057メートル)の「たら」と同じ語源です。

 原ポリネシア語の「タラ」、TARA((PPN-M)tara=(M)tara(peak of a moumtain))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「タラ」、「峰」となつたものです。

 多良岳は、白山火山帯に属する”円錐火山”で、古来霊山として信仰の対象となつてきました。頂上は佐賀県藤津郡太良(たら)町に属しています。太良町は、昭和30年多良町と大浦村が合併してできた町です。

 「たら」地名については、『肥前国風土記』藤津郡託羅(たら)郷の条に起源説話があります。景行天皇がこの地を巡幸されたとき、この郷をご覧になって、

 

  「海つ物豊に多なりしかば、勅りたまひしく、「地の状は少なくあれども、食物は豊(ゆた)に足(たら)へり。豊足(たらひ)の村と謂ふべし。」とのりたまひき。今、託羅(たら)の郷と謂ふは、訛れるなり。」

 

とあります。この説話は、山名との関係が説明されていません。

 これまでの地名学では「たら」の語源は全く不明とされてきました。しかし、皆さんは、十分この意味がお分かりになったことと思います。

 ちなみに、ニュージーランドを旅された方ならばご承知のことですが、北島の西岸に、日本の富士山と良く似た秀麗な”円錐火山”があります。この山頂に万年雪をいただく山、マウント・エグモント(2、518メートル)のマオリ語名を、

 

  「タラ・ナキ、TARA-NAKI((PPN-M)tara=(M)tara(peaks of all kinds);(PPN-M)naki=(M)naki(glide,move smoothly))、流れるような裾をひく・峰」

 

といいます。いうまでもないことですが、この「タラ」は安達太良山、多良岳の「たら」と同じ語源ですし、またこの「ナキ」は、岡山県と鳥取県にまたがるなだらかな山、那岐山(なぎさん。1240メートル)の「なぎ(ナキが濁音化した)」と同じ語源であると考えられます。

 

 
トップページ 入門篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

 

 

(5) NG音の変化とその例

 

a 「アゴ」地名

 

(a) 英虞(あご)湾

 

 三重県志摩に英虞湾があり、阿児(あご)町があります。英虞の地名は古く、『和名抄』にも郡名としてでてきます。この「あご」は、

 

 原ポリネシア語の「ア(ン)ゴ」、ANGO((PPN-M)ango=(M)ango(gape))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「アゴ」(「ア(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「アゴ」となった)、「大きく口を開けた(場所、湾)」となった

と解します。

 

(b) 奈呉(なご)の海(浦)

 

 奈呉の海(浦)は、上記の「伏木」の項で触れたように、富山県北西部、伏木富山港湾岸の放生津の古称とその海域名ですが、この「奈呉は波静かな入り江をさす地名として広く分布する」(小学館『日本地名大百科』)とされます。沖縄県の名護(なご)湾(市)もその一つで、穏やかな凪(なぎ)から和(なご)むといわれたことに由来するという説や、砂子(すなご)の略という説などがあるようです。

 この「なご」は、

 

 原ポリネシア語の「ナ・ア(ン)ゴ」、NA-ANGO((PPN-M)na=(M)na(satisfied,content);(PPN-M)ango=(M)ango(gape))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ナゴ」(「ナ」の語尾のA音と「ア(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「アゴ」となったその語頭のA音が連結して「ナゴ」となった)、「(満足している)静まりかえっている大きく口を開いた湾(入り江)」となった

 

と解します。

 

(c) 安濃(あのう)津

 

 安濃津は、三重県津市の古称で、安濃は古くからの郡名になっています。かつて良港として知られており、博多津、坊ノ津(鹿児島県)とともに日本三津の一つといわれ(中国の『武備誌』)、鎌倉から室町期にとくに栄えましたが、明応7(1498)年東海地方を襲った大地震による地盤沈下によって当時の港は壊滅しました。また、この地震によつて浜名湖と外海が通ずるようになりました。

 この「あのう」は、

 原ポリネシア語の「ア(ン)ゴ」、ANGO((PPN-M)ango=(M)ango(gape))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「アノウ」(「ア(ン)ゴ」のNG音がG音に変化し、語尾のO音が長音化してOU音に変化して「アノウ」となった)、「大きく口を開けた(場所、湾)」となった

と解します。

 

 また、三重県志摩の的矢湾の入口に、安乗(あのり)崎があります。この「あのり」も、

 

 原ポリネシア語の「ア(ン)ゴ・リ」、ANGO-RI((PPN-M)ango=(M)ango(gape);(PPN-M)ri=(M)ri(protect,screen))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「アノ・リ」(「ア(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「アノ」となった)、「大きく口を開いた湾を・(保護している衝立)防波堤のような(岬)」となった

 

と解します。

 

b 能登(のと)

 

 能登は、石川県の能登半島を占める旧国名で、北陸道の一国です。最初は、越前国に属していましたが、養老2(718)年に羽咋(はくい)、鳳至(ふげし)、珠洲(すず)、能登の四郡が分かれて能登国となりました。加賀国が越前国から分かれたのはずっと遅く弘仁14(823)年のことです。

 「のと」の由来には諸説があり、

(ア)能門国で海中に突き出ているこの国を泊り宿とする能(よ)き門(かど)、

(イ)ノは長いの意で、長い地形から、

(ウ)ノ(延)ト(渡)で佐渡に対する地名、

(エ)アイヌ語のノツ・ノト(岬、(尖った)顎の意、

(オ)羽咋の気多大社の祭神オオナムチノミコトが日本海の航路を妨げていた魔物を退治し、それから船が「能く登る」ようになった(『気多神社縁起』)などの説があります。

 この「のと」は、

 

原ポリネシア語の「(ン)ゴト」、NGOTO((PPN-M)ngoto=(M)ngoto(head))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「ノト」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」となった)、「(海に突き出ている)頭のような半島)」となった

 

と解します。

 

 なお、四万十(しまんと)川の「しまんと」が、「しま(志摩)・のと(能登)」の転訛であることは、すでに「オリエンテーション篇」(平成10−10−10オープン)の阿蘇山の項で解説したとおりです。

 

c 乱岩(らんがん)の森

 

 乱岩の森(885メートル)は、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町の南部、赤石川の上流、世界遺産に指定されている白神山地の北縁にある山です。東北地方では山名に「森」がつくことは珍しいことではありません。

 この「らんがん」は、

 

 原ポリネシア語の「ラ(ン)ガ」、RANGA((PPN-M)ranga=(M)ranga(lift up,hill))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ランガン」(「ラ(ン)ガ」のNG音をN音プラスG音で発音し、さらに語呂を良くするために語尾にN音を附加して「ランガン」となった)、「丘」となった

 

と解します。これまでの例と違い、NG音のN音を独立音として発音しています。

 

d あららぎ

 

 平成9年末のことですが、短歌雑誌「アララギ」が廃刊になりました。明治41年に発刊されてから、伊藤左千夫、斉藤茂吉、次いで島木赤彦、土屋文明の編集の下に、大正、昭和を通じて87年もの長きにわたって歌壇を主導してきましたが、多くの関係者に惜しまれながら、その輝かしい歴史を閉じたのです。

 この「アララギ」は、同誌に先立つ正岡子規の流れをくむ短歌雑誌「馬酔木(あしび)」(明治36年創刊)が同41年に廃刊した後の創刊で、当初は誌名が「阿羅々木」であったのを翌年「アララギ」に改めたといいますから、この名はおそらく樹木の「イチイ(一位)」の意味でしょう。

 イチイの木は、「オンコ」ともいい、「北海道、東北地方に多い常緑針葉樹で、幹は直立、分枝し、高さ10ー20メートルに達する」(北隆舘『原色樹木大図鑑』)もので、山中ではひときわ目立つ円錐形の凛とした気品のある樹木で、一位の位の名称を受けるにふさわしい木といえます。岐阜県の県木にもなっています。

 また、アララギには、イチイの異称のほかに、「ノビル(野蒜)の古名」という意味があります。このもっとも古い用例は、『日本書紀』に「蘭(あららぎ)」として、允恭紀2年2月の条の允恭天皇皇后忍坂大中姫の逸話の中にでてきます。

 さらに、伊勢神宮の斎宮の忌詞(いみことば。神道と対立する仏教の用語を不浄のものとして使わず、別の言葉で言い換えるもの)の中に「あららぎ」があります。忌詞として、寺を「瓦葺(かわらぶき)」、仏を「中子(なかご)」、経を「染紙(そめがみ)」、法師を「髪長(かみなが)」などといいましたが、塔を「阿良良岐(あららぎ)」といったのです。

 ほかに『万葉集』巻19・4268の題詞に「さはあららき」がでてきます。これは「きく科。沢蘭の字を当てるが、さわひよどり。多年草。山地の日あたりの良い場所に自生。茎はまっすぐ伸び、葉は披針形で対生。秋、白か淡い頭花をたくさんつける。ふじばかまもこれに含まれたか。」(中西進編『万葉集事典』講談社文庫)ということです。

 この「アララギ」の語源については、

(ア)「のびる」は、「疎々葱(あらあらき)」でまばらに生える葱(キ)、(イ)「いちい」は、「アラハレギ(顕木)」の義((ア)(イ)とも小学館『日本国語大辞典』による)、

(ウ)「塔の忌詞」は、「葱薹の貌、九輪のあたりに似たるをもて、俗に塔のたつといふ意にて、蘭葱より出たる詞なるべし」(『和訓栞』)

と説明されていますが、いずれもこじつけとしか思えません。

 この「あららぎ」は、

原ポリネシア語の「アラ・ラ(ン)ギ」、ARA-RANGI((PPN-M)ara=(M)ara(rise,rise up,raise);(PPN-M)rangi=(M)rangi(sky))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「アラ・ラギ」(「ラ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ラギ」となった)、「大空に向かって・直立しているもの(草、木、塔)」となった

 

と解します。これらの植物や建造物は、すべて大空に向かって直立する特徴を持っています。

 ちなみに、ポリネシア神話によりますと、「ランギ」は最初の世界を創造した男神で、妻の「パパ」女神とともに子の神々をつくりましたが、抱き合ったまま妻を離そうとせず、世界は暗黒に閉ざされたままだったので、ついに子供たちによつて二神は引き離され、ランギは上に高く持ち上げられて大空となり、パパは大地になりました。そしてランギが引き離された妻を恋しがって泣く涙が、雨や霧となってパパの大地に降り注ぐのだといいます。

 この「パパ、PAPA」は、日本語に入ってまずP音がF音に変化して「ファファ、FAFA」となり、のちにF音がH音に変化して「ハハ、HAHA、母」となったものと考えられます。

 なお、上記の『日本書紀』允恭紀には、アララギ=野蒜は、強い臭いがあるためでしょうか、「山に行くときに摩愚那岐(まぐなき。ヌカガの類を指すという)を払うために用いる」と記されています。この「まぐなき」も

 

 原ポリネシア語の「マ(ン)グ・ナキ」、MANGU-NAKI((PPN-M)mangu=(M)mangu(black);(ppn-M)naki=(M)naki(move smoothly))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「マグ・ナキ」(「マ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「マグ」となった)、「すばやく飛び回る・黒いもの(虫)」となった

 

と解することができます。

 ちなみに、「塔」を「あららぎ」といった忌詞は、延暦23(804)年に伊勢神宮から撰進された『延暦儀式帳』(または『皇大神宮儀式帳』ともいわれます)に記録されており、その後『延喜式』にも収録されました。この忌詞がいつごろから使われたのかはまったく不明です。しかし、この言葉は仏教に対する強い反発と侮蔑感を内包していることは否定できません。そうしますと、この言葉は、おそらくは朝廷が急激に仏教に傾斜していった聖徳太子の時代から、仏教を国教として諸国に国分寺、国分尼寺を建て、東大寺に大仏を建立した聖武天皇の時代までの間のいずれかの時期に、仏教の隆盛に危機感を募らせた神祇官と伊勢神宮の斉宮寮の官人勢力がこの忌詞を選定したのではないかと私は考えています。この仮説が正しければ、少なくともこの時代まで、神祇官系統のいわば旧勢力の官人の中には、原ポリネシア語を理解し、使うことができた人々がいたことになります。

 


<修正経緯>

1 平成19年2月15日

インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<修正経緯>の新設、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

2 平成19年6月1日

 (3)のcの(c)寒河江市の項を解釈の修正に伴い削除しました。  

3 令和3年11月1日    原ポリネシア語を語源とする解釈に修正したほか、必要な修正を行い、改訂版としました。
トップページ 入門篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

 

ー入門篇(その二)終わりー


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源 
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
 このHPの内容をそのまま、または編集してファイル、電子出版または出版物として
許可なく販売することを禁じます。
Copyright(c)1998-2007 Masayuki Inoue All right reserved