古典篇(その十九)

(平成19-4-1書込み。28-9-1最終修正)(テキスト約32頁)


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 [このシリーズは、『続日本紀』に依拠して桓武天皇10年12月までを対象とした古典篇(その十)をもって一応完結としていたのですが、平成18〜19年に講談社学術文庫版で広く逸文を含めた『日本後紀』上中下三冊が刊行されましたので、これを参照し、淳和天皇(天長10年2月)までを追補としてまとめることとしました。

 史書にみえる縄文語と考えられる人名等は、漢字文化の普及浸透とともに年を追って減少しますが、天皇の在所号をはじめ、中央・地方の官吏、豪族、孝子節婦としての被表彰者、犯罪者などの名になお相当例が見られることにご注目ください。]

<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その十一)>
ー桓武天皇(承前)から淳和天皇まで(追補)ー

 

  目 次

 

[250桓武天皇](承前)

250H10胆沢公阿奴志岐(あどしき)250H11伝灯大法師施暁(せぎょう)・秦忌寸刀自女(とじめ)250H12善珠(ぜんじゅ)法師250H13安曇宿禰継成(つぐなり)250H14尓散南(にさな)公阿破蘇(あわそ)250H15宇漢米(うかめ)公隠賀(おんが)・吉弥候部(きみこべ)荒嶋(あらしま)250H16曽乃君牛養(うしかい)250H17多治比真人弥高(いやたか)・桜嶋部石守(いわもり)250H18山辺真人春日(かすが)・紀朝臣国(くに)・佐伯宿禰成人(なるひと)・巨瀬朝臣嶋人(しまひと)250H19三宅連真継(まつぐ)250H20深草(ふかくさ)王250H21海上真人真直(まなお)250H22出雲臣人長(ひとなが)・神賀事(かんよごと)250H23石川朝臣清主(きよぬし)・藤原朝臣都(みやこ)麻呂・大伴宿禰是成(これなり)・久米舎人望足(もちたり)250H24上毛野兄国女(えくにめ)250H25大伴部阿弖良(あてら)・吉弥候部真(ま)麻呂250H26上道広成(ひろなり)250H27尋来津(ひろきつ)公関(せき)麻呂250H28生江臣家道女(いえみちめ)250H29大津海成(うみなり)250H30村国(むらくに)連悪人(あしひと)250H31弓削部虎(とら)麻呂・丈部小広刀自女(こひろとじめ)250H32吉弥候部黒田(くろだ)・吉弥候部田苅女(たかりめ)・吉弥候部都保呂(つほろ)・吉弥候部留志女(るしめ)250H33橘朝臣入居(いりゐ)250H34景国(けいこく)・大国忌寸木主(きぬし)・孝聖(こうしょう)・田中朝臣名貞(なさだ)250H35高橋朝臣祖(おや)麻呂250H36漢人部千倉売(ちくらめ)250H37長倉(ながくら)王250H38布留宿禰高庭(たかにわ)250H39吉弥候部兼(かね)麻呂・吉弥候部色雄(しこお)・道公全成(またなり)250H40山田宿禰豊浜(とよはま)・紀朝臣浜公(はまきみ)250H41壱志濃(いちしの)王250H42浄村(きよむら)宿禰源(げん)・浄村宿禰晋卿(しんけい)・春科(はるしな)宿禰道直(みちなお)

[251平城天皇]

251A日本根子天推国高彦(やまとねこあめおすくにたかひこ)天皇・安殿(あて)親王・小殿(をての)親王251B平安宮・平城宮251C1日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇251C2藤原乙牟漏(おとむろ)251D1伊豫(いよ)親王から朝原(あさはら)内親王まで251E1藤原朝臣帯子(おびこ)・木蓮子(いたび)院251E2朝原(あさはら)内親王251E3大宅(おおやけ)内親王251E4藤原朝臣薬子(くすこ)・藤原朝臣縄主(ただぬし)251F1阿保(あぼ)親王・伊都(いつ)内親王251F2高丘(たかおか)親王251G楊梅(やまもも)陵251H1藤原朝臣内(うち)麻呂251H2紀勝長(かつなが)251H3調田(つきた)造庭継(にわつぐ)251H4物部国吉女(くによしめ)・大田部直守宅売(もりやかめ)250H5脩哲(しゅうてつ)250H6藤原雄友(おとも)・藤原内(うち)麻呂・安倍兄雄(あにお)・巨勢野足(のたり)・藤原吉子(よしこ)250H7藤原朝臣乙叡(たかとし)

[252嵯峨天皇]

252A神野(かみの。賀美能)・嵯峨天皇252B平安(へいあん)宮・冷然(れいぜい)院・嵯峨(さが)院252C1日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇252C2藤原乙牟漏(おとむろ)252D1安殿(あて)親王から朝原(あさはら)内親王まで252E1高津(たかつ)内親王252E2橘朝臣嘉智(かち)子(壇林皇后)252E3多治比真人高(たか)子252F1有智(うち)子内親王252F1正良(まさら)親王(254A仁明天皇・深草帝)252F3正(まさ)子内親王252G嵯峨山上(さがのやまのへ)陵252H1大伴吉成(よしなり)・大風(おおかぜ)麻呂・御贖(みあが)252H2物部文連全敷女(またしきめ)252H3高多仏(こうたふつ)・羽栗馬長(うまなが)・高庭高雄(たかにわのたかお)252H4藤原朝臣仲成(なかなり)・上毛野朝臣穎人(ひでひと)・文室朝臣綿(わた)麻呂・藤原朝臣葛野(かどの)麻呂・藤原朝臣真雄(まかつ)252H5阿倍朝臣清継(きよつぐ)・百済王愛筌(あいせん)・登美真人藤津(ふじつ)・紀朝臣南(みなみ)麻呂252H6石川朝臣難波(なにわ)麻呂252H7大伴宿禰今人(いまひと)・河原連広法(ひろのり)252H8泰仙(たいせん)・阿牟(あむ)公人足(ひとたり)252H9邑良志閉(おらしべ)村・吉弥候部都留岐(つるき)・爾薩体(にさちて)村・伊加古(いかこ)・都母(つも)村・幣伊(へい)村252H10壬生公郡守(こほりもり)252H11遠胆沢公母志(もし)・荒橿(あらかし)の乱・吉弥候部高来(たかき)・吉弥候部年子(としね)252H12吉備朝臣泉(いずみ)252H13日下部土方(ひじかた)252H14布古伊(ふこい)・波古知(はこち)・清石珍(せいせきちん)・金男昌(きんだんしょう)・遠山知(えんさんち)252H15大伴宿禰黒成(くろなり)・多治比真人清雄(きよお)・和邇部臣真継(まつぐ)・藤原朝臣鷹養(たかかい)・上村主乎加豆良(おかつら)252H16賀陽朝臣豊年(とよとし)252H17勇山(いさやま)連文継(ふみつぐ)252H18大中臣朝臣清持(きよもち)252H19大中臣朝臣井作(いつくり)・久米部当人(まさひと)・物部中原宿禰敏久(みにく)252H20長野(ながの)女王・出雲家刀自女(いえとじめ)・船延福女(のぶふくめ)252H21吉弥候部等波醜(とはしこ)・小野朝臣岑守(みねもり)・吉弥候部於夜志閉(おやしべ)252H22上村主乙守(おともり)・上村主豊田(とよた)麻呂252H23吉弥候部欠奈閉(かけなべ)・吉弥候部小槻(おづき)麻呂252H24三村部黒刀自(くろとじ)・吉弥候部道足女(みちたりめ)252H25藤原朝臣縵(かずら)麻呂

[253淳和天皇]

253A日本根子天高譲弥遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)尊・大伴(おほとも)親王・淳和天皇・西院帝(さいいんのみかど)253B平安(へいあん)宮・淳和(じゅんな)院253C1日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇253C2藤原旅子(たびこ)253D1安殿(あて)親王から朝原(あさはら)内親王まで253E1高志(こし)内親王252E2正(まさ)子内親王253F1恒世(つねよ)親王253F2恒貞(つねさだ)親王・法名恒寂253F3氏子(うじこ)内親王253G大原野西嶺上(おおはらのにしのみねのへ)陵253H1吉弥候部井出(いで)麻呂253H2伴宿禰弥継(いやつぐ)・橘朝臣長谷(はせ)麻呂253H3大村直諸縄(もろただ)253H4公子部八代(やしろ)麻呂253H5三村部吉成女(よしなりめ)・丈部子氏女(こうじめ)・舎人臣福長女(ふくながめ)・別公今虫売(いまむしめ)253H6紀朝臣田上(たがみ)・紀朝臣長田(ながた)麻呂・佐味(さみ)親王・紀朝臣末成(すえなり)253H7伊予部連真貞(まさだ)253H8石川朝臣継人(つぐひと)・安倍朝臣男笠(おがさ)・橘朝臣常主(つねぬし)・藤原朝臣冬嗣(ふゆつぐ)・安倍朝臣雄能(おの)麻呂・安倍朝臣真勝(まかつ)253H9難波部首子刀自売(ことじめ)・難波部安良売(あらめ)253H10藤原朝臣伊勢人(いせひと)・佐伯宿禰清岑(きよみね)・勤操(ごんぞう)・下路真人年継(としつぐ)・藤原朝臣継彦(つぐひこ)・坂上大宿禰広野(ひろの)・伴宿禰国道(くにみち)253H11衣良由(えらゆ)・吉弥候部良佐閉(らさべ)・吉弥候部奥家(おくいえ)253H12大中臣朝臣春継(はるつぐ)・萩原(はぎわら)王・藤原朝臣全雄(またお)・飛鳥戸造福刀自売(ふくとじめ)253H13私(きさき)朝臣宅継(やかつぐ)・赤(あか)麻呂253H14曽禰連広刀自女(ひろとじめ)・丈部若刀自売(わかとじめ)253H15吉弥候部長子(ながこ)・吉弥候部江岐(えき)麻呂・吉弥候部佐津古(さつこ)・吉弥候部軍(いくさ)麻呂253H16上村主万女(まめ)・風早直益吉女(ますよしめ)253H17橘朝臣浄野(きよの)・小野朝臣岑守(みねもり)・藤原朝臣三成(みつなり)・良岑朝臣安世(やすよ)・藤原朝臣真夏(まなつ)・石川朝臣河主(かわぬし)・文室真人弟直(おとなお)253H18高根朝臣真象(まきさ)・藤原朝臣世継(よつぐ)・伴宿禰勝雄(かつお)・藤原朝臣家雄(いえお)・伴宿禰真臣(まおみ)・林朝臣山主(やまぬし)・紀朝臣咋(くい)麻呂253H19秦飯持女(いいもちめ)・秦乙(おと)麻呂・山口忌寸目刀自売(まとじめ)・都和利別公阿比登(あひと)253H20当麻旅子女(たびこめ)

<修正経緯>

<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その十一)>

ー桓武天皇(承前)から淳和天皇まで(追補)ー

 

 [ここでは神武天皇の部を201とし、その中で和風諡号は201A(別名または幼名は201A2~)、宮都は201B、父母は201C1~2、兄弟姉妹は201D1~、后妃は201E1~、皇子は201F1~、陵は201G、治世中特筆すべき人名等は201H1~として整理番号を付し、以下同様に<その一>では201神武天皇から209開化天皇まで、<その二>では210崇神天皇・211垂仁天皇を、<その三>では212景行天皇から219允恭天皇まで、<その四>では220安康天皇から225武烈天皇まで、<その五>では226継体天皇から229欽明天皇まで、<その六>では230敏達天皇から233推古天皇まで、<その七>では234舒明天皇から237斉明天皇まで、<その八>では238天智天皇から241持統天皇まで、<その九>では242文武天皇から245聖武天皇まで、<その十>では246孝謙天皇から250桓武天皇(延暦10年12月まで)、<その十一>では250桓武天皇(延暦11年1月以降)から253淳和天皇(天長10年2月)までを解説します(『続日本紀』および『日本後紀』については主要な事項のみに限ります)。

 表記は原則として『古事記』、『日本書紀』(以上岩波日本古典文学大系本)、『続日本紀』(岩波新日本古典文学大系本)および『日本後紀』(講談社学術文庫)によります。本文中001〜199の神名は、古典篇(その五)<『古事記』の神名>により、名義は主として岩波日本古典文学大系本または岩波新日本古典文学大系本の注および『古事記』(新潮日本古典集成、校注西宮一民、昭和54年)の付録「神名の釈義」によります。

 ポリネシア語による解釈は、原則としてマオリ語により、ハワイ語による場合は注記を付します。]

 

[250桓武天皇](承前)

(注:治世中の事績に関係する人名等は、『日本後紀』延暦11年1月以降の記事を対象とします。)

 

250H10胆沢公阿奴志岐(あどしき)

 延暦11年1月11日条(逸文)は、陸奥国から斯波村の夷胆沢公阿奴志岐(あどしき)が自分たちが朝廷と連絡するのを伊治村の俘らが妨害するので排除してほしいと使をよこしたので、物を下賜したと言上してきたとします。

 この「あどしき」は、

  「アト・チキ」、ATO-TIKI(ato=enclose in a fence;tiki=unsuccessful)、「(周囲を)封鎖された(交通できない)・不幸な(首長)」

の転訛と解します。

250H11伝灯大法師施暁(せぎょう)・秦忌寸刀自女(とじめ)

 延暦11年1月15日条(逸文)は、伝灯大法師位の施暁(せぎょう)が山林等で修行する僧侶に食料を供給してほしいこと、山城国の百姓秦忌寸刀自女(とじめ)ら31人が朝廷のため宝亀3年から今年にいたるまで春秋ごとに悔過修福の仏事を行っているので全員の出家を認めてほしいとの奏上があったので、これを許したとします。

 この「せぎょう」、「とじめ」は、

  「テ・(ン)ギオ」、TE-NGIO(te=the,particle used with verbs to make an emphatic statement;ngio=extinguished,faded)、「実に・(論争相手を)顔色なからしめる(碩学の。僧)」(「(ン)ギオ」のNG音がG音に変化して「「ギオ」から「ギョウ」となった)

  「タウチマイ」、TAUTIMAI(welcome!)、「人を喜んで迎え入れる(者)」(AU音がO音に、AI音がE音に変化して「トチメ」から「トジメ」となった)

の転訛と解します。

 

250H12善珠(ぜんじゅ)法師

 延暦11年2月30日条(逸文)は、大蔵省から年来善珠(ぜんじゅ)法師に施したあしぎぬ・真綿などを法師が辞退して受け取らないので官庫に戻したいとの奏請があったので天皇が驚いたとします。

 この「ぜんじゅ」は、

  「テ(ン)ガ・チウ」、TENGA-TIU(tenga=distended,strained;tiu=soar,swing,swift)、「かたくなに・(下賜品を受け取らずに)逃げ回る(法師)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「テン」、「ゼン」と、「チウ」が「チュ」から「ジュ」となった)

の転訛と解します。

 

250H13安曇宿禰継成(つぐなり)

 延暦11年3月17日条(逸文)は、内膳奉膳正六位安曇宿禰継成(つぐなり)が神事の際の序列を安曇氏は高橋氏の次にするとの勅定に従わず職務を放棄して出奔したので、死罪を減じて佐渡国へ配流したとします。

 この「つぐなり」は、

  「ツ・(ン)グ・(ン)ガリ」、TU-NGU-NGARI(tu=stand,fight with,energetic;ngu=silent,moan,groan;ngari=annoyance,disturbance,power)、「(安曇氏が高橋氏の後に位置づけされた)窮境を・ひどく・嘆き悲しんだ(男)」(「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。

 

250H14尓散南(にさな)公阿破蘇(あわそ)

 延暦11年7月25日条(逸文)は、天皇が勅して、夷尓散南(にさな)公阿破蘇(あわそ)が朝廷に帰服する意志があるというので、夷地から京までの国々は鄭重に迎送するように命じたとします。

 この「にさな」、「あわそ」は、

  「ニヒ・タ(ン)ガ」、NIHI-TANGA(nihi=move stealthly,surprise;tanga=be assembled,division of persons)、「ゆっくりと歩く・部類の(人間の。首長)」(「ニヒ」のH音が脱落して「ニ」と、「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「サナ」となった)

  「アワト」、AWHATO(vegetable caterpillar,a large caterpillar)、「巨大な芋虫(のように肥った。首長)」

の転訛と解します。

 

250H15宇漢米(うかめ)公隠賀(おんが)・吉弥候部(きみこべ)荒嶋(あらしま)

 延暦11年11月3日条(逸文)は、陸奥の帰服した夷俘である250H14尓散南(にさな)公阿破蘇(あわそ)と宇漢米(うかめ)公隠賀(おんが)および俘囚吉弥候部(きみこべ)荒嶋(あらしま)らを朝堂院で饗応し、官位を与え、天皇からお言葉を賜ったとします。

 この「うかめ」、「おんが」、「きみこべ」、「あらしま」は、

  「ウカ・メ」、UKA-ME(uka=hard,firm,be fixed;mai=if,as if,like)、「ほぼ・(朝廷に帰順する意志が)固まった(首長)」

  「オ(ン)ガ」、ONGA(agitate,shake about)、「騒がしく動き回る(首長)」

  「キミ・コペ」、KIMI-KOPE(kimi=seek,look for;kope=pulpy,pliable)、「つとめて(非常に)・勤勉な(部族)」

  「アラ・チマ」、ARA-TIMA(ara=rise up,awake;tima=a wooden implement for cultivating)、「農耕に・目覚めた(首長)」

の転訛と解します。

 

250H16曽乃君牛養(うしかい)

 延暦12年2月10日条(逸文)は、大隅国曽於郡の大領外正六位上曽乃君牛養(うしかい)が隼人を引率して朝廷に出頭したことを賞して外従五位下を授けたとします。

 この「うしかい」は、

  「ウチ・カイ」、UTI-KAI(uti,utiuti=annoy,worry;kai=consume,eat)、「(隼人が反逆するのではという)心配を・なくした(大領)」

の転訛と解します。

 

250H17多治比真人弥高(いやたか)・桜嶋部石守(いわもり)

延暦12年3月7日条(逸文)は、正親大令史正六位上多治比真人弥高(いやたか)が監督の任にありながら官物を盗取し、散位従六位上桜嶋部石守(いわもり)が匿名の投書で告発を行ったことで、二人を除名したとします。

居所を変えて治療にあたり、五度移遷したのち平城京に宮殿を造った この「いやたか」、「いわもり」は、

  「イア・タカ」、IA-TAKA(ia=indeed;taka=fall off,fall away)、「実に・(悪の道に)落ち込んだ(男)」

  「イ・ワ・マウリ」、I-WHA-MAURI(i=past tense;wha=be disclosed;mauri=life principle,thymos of man)、「(匿名で告発するという下劣な)品性を・さらけ・出した(男)」(「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

の転訛と解します。

 

250H18山辺真人春日(かすが)・紀朝臣国(くに)・佐伯宿禰成人(なるひと)・巨瀬朝臣嶋人(しまひと)

 延暦12年8月21日条(逸文)は、本日夜内舎人山辺真人春日(かすが)と春宮坊の帯刀舎人紀朝臣国(くに)が共謀して帯刀舎人佐伯宿禰成人(なるひと)を殺害しようとし、翌日発覚して春日らは逃亡したが、伊予国で捕まり、左衛士佐従五位上巨瀬朝臣嶋人(しまひと)を派遣して素手で殴殺させたとします。

 この「かすが」、「くに」、「なるひと」、「しまひと」は、

  「カ・ツ(ン)ガ」、KA-TUNGA(ka=screech;tunga=wound,circumstance etc. of being wounded)、「傷を負って・悲鳴を上げた(真人)」(「ツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ツガ」から「スガ」となった)

  「クニ」、KUNI(kunikuni=dark)、「(腹の)黒い(朝臣)」

  「(ン)ガルル・ピト」、NGARURU-PITO(ngaruru=surfeited,dislike,refuse;pito=end,extremity)、「非常な・嫌われ者(宿禰)」(「(ン)ガルル」のNG音がN音に変化し、反復語尾のRU音が脱落して「ナル」となった)

  「チ・マヒ・イト」、TI-MAHI-ITO(ti=throw,overcome;mahi=work,make,perform;ito=object of revenge)、「罰を加えるべき者に・死を・与えた(朝臣)」(「マヒ」の語尾のI音と「イト」の語頭のI音が連結して「マヒト」となった)

の転訛と解します。

 

250H19三宅連真継(まつぐ)

延暦12年8月22日条(逸文)は、筑前国那賀郡の人三宅連真継(まつぐ)が在京中にしばしば濫行を犯したので郷里に逓送し、京に入ることを禁止したとします。

 この「まつぐ」は、

  「マ・アツ・(ン)グ」、MA-ATU-NGU(ma atu=go,come;ngu=groan,moan)、「嘆き悲しみながら・帰って行った(連)」(「マ」のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「マツ」と、「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)

の転訛と解します。

 

250H20深草(ふかくさ)王

延暦12年10月6日条(逸文)は、四世王の深草(ふかくさ)が父を殴り、勅により死刑を減じられて隠岐国に配流されたとします。

 この「ふかくさ」は、

  「プカ・ク・ウタ(ン)ガ」、PUKA-KU-UTANGA(puka=eager,jealous,impatient;ku=silent;utanga=burden)、「黙って・荷物を運ぶ(ような)ことに・辛抱ができなかった(王)」(「プカ」のP音がF音を経てH音に変化して「フカ」と、「ク」のU音と「ウタ(ン)ガ」の語頭のU音が連結し、語尾のNGA音が脱落して「クタ」から「クサ」となった)

の転訛と解します。

 

250H21海上真人真直(まなお)

 延暦13年11月26日条(逸文)は、海上真人真直(まなお)が父故太宰少弐従五位上249H12海上真人三狩(みかり)の妾の一人を積年の恨みによつて殺し、下獄して死亡したとします。

 この「まなお」は、

  「マハ・ナオ」、MAHA-NAO(maha,mahamaha=liver,seat of the emotion;nao=handle,lay hold of)、「(怨みの)感情を・持ち続けていた(真人)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

250H22出雲臣人長(ひとなが)・神賀事(かんよごと)

 延暦14年2月26日条(逸文)は、出雲国国造外正六位上出雲臣人長(ひとなが)は、遷都に関連して神賀事(かんよごと)を奏上したので、特別に外従五位下を授けられたとします。

 この「ひとなが」、「かんよごと」は、

  「ピト・(ン)ガ(ン)ガ」、PITO-NGANGA(pito=end,extremity,at first;nganga=breath heavily or with difficulty)、「究極の(素晴らしい)・(苦しそうに唱える)祝詞を唱えた(臣)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」と、「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」となった)

  または「ピト・ナ・(ン)ガ」、PITO-NA-NGA(pito=end,extremity,at first;na=by,belonging to,by reason of;nga=satisfied)、「(朝廷にとって)この上ない・満足を・得た(祝詞を唱えた。臣)」(「ピトのP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」と、「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

  「カ(ン)ガ・イホ・(ン)ゴト」、KANGA-IHO-NGOTO(kanga=curse,execurate;iho=heart,essence,the strength of a thing,object of reliance,up above;ngoto=be deep,firmly)、「(ある)事が長く・(堅固に)続くことを・祈る(祝詞)」(「カ(ン)ガ」のNG音がNおとに変化して「カナ」から「カン」と、「イホ」のH音が脱落して「イオ」から「ヨ」と、「(ン)ゴト」のNG音がG音に変化して「ゴト」となった)

の転訛と解します。

250H23石川朝臣清主(きよぬし)・藤原朝臣都(みやこ)麻呂・大伴宿禰是成(これなり)・久米舎人望足(もちたり)

 延暦14年4月1日条(逸文)は、さきに信濃国介正六位上石川朝臣清主(きよぬし)が矢を射かけられた事件があり、従五位下藤原朝臣都(みやこ)麻呂らを遣わして探索したが犯人は捕まらず、衛門佐大伴宿禰是成(これなり)を遣わして小県郡の人久米舎人望足(もちたり)を尋問したところ、罪を認めたので讃岐国へ配流したとします。

 この「きよぬし」、「みやこ」、「これなり」、「もちたり」は、

  「キオ・ヌイ・チ」、KIO-NUI-TI((Hawaii)kio=projection,to protrude;nui=big,many;ti=throw,cast)、「(人物の)大きさを・十分に・見せている(朝臣)」

  「ミヒ・イア・カウ」、MIHI-IA-KAU(mihi=sigh for,express discomfort;ia=indeed;kau=alone,only)、「実に・不満・だらけの(朝臣)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  「コレ・(ン)ガリ」、KORE-NGARI(kore=not,no,absence;ngari=annoyance,disturbance)、「(捜索に)障碍が・何も無かった(なんなく仕事をやってのけた。宿禰)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「モチ・タリ」、MOTI-TARI(moti=consumed,scarce;tari=carry,urge,wait)、「不満を・持っていた(舎人)」

の転訛と解します。

250H24上毛野兄国女(えくにめ)

 延暦14年5月3日条(逸文)は、右京の人上毛野兄国女(えくにめ)を諸天の名を自称して妖言で人を惑わした罪により土佐国に配流したとします。

 この「えくにめ」は、

  「エ・クニ・マイ」、E-KUNI-MAI(e=to give emphasis;kuni=dark;mai=dance)、「ほんとうに・(腹の)黒い・(踊りを踊る)女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

250H25大伴部阿弖良(あてら)・吉弥候部真(ま)麻呂

 延暦14年5月10日条(逸文)は、俘囚の大伴部阿弖良(あてら)らの妻子・親族66人を俘囚の吉弥候部真(ま)麻呂父子2人を殺した罪で日向国に配流したとします。

 この「あてら」、「ま」は、

  「アテ・エラ(ン)ギ」、ATE-ERANGI(ate=liver,heart,high feeling;erangi=engari=but,on the contrary)、「心が清く・ない(者)」(「アテ」の語尾のE音と「エラ(ン)ギ」の語頭のE音が連結し、語尾のNGI音が脱落して「アテラ」となった)

  「マ」、MA(white,clean)、「(心が)清い(者)」(吉弥候部(きみこべ)については、前出250H15吉弥候部(きみこべ)荒嶋(あらしま)の項を参照してください。)

の転訛と解します。

250H26上道広成(ひろなり)

 延暦15年6月3日条(逸文)は、木工大允上道広成(ひろなり)に備前国で銀を採取した功績により外従五位下を授けたとします。

 この「ひろなり」は、

  「ヒロウ・(ン)ガリ」、HIROU-NGARI(hirou=rake,net for dredging shellfish;ngari=annoyance,disturbance,power)、「苦労して・(銀をかき集め)採取した(男)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。

250H27尋来津(ひろきつ)公関(せき)麻呂

 延暦15年6月7日条(逸文)は、正六位上尋来津(ひろきつ)公関(せき)麻呂に外従五位下を授けたとします。関麻呂は、筝の演奏に巧みで、方磬(ほうけい。金属板を音階順に並べ懸けた打楽器)を作ることができました。

 この「ひろきつ」、「せき」は、

  「ヒロキ・ツ」、HIROKI-TU(hiroki=thin,lean;tu=stand,be established)、「薄い(金属)板を・(音階順に)配置する」

  「タイキ」、TAIKI(rib,wicker basket,anything of wickerwork)、「肋骨のような(方磬を作る男)」(AI音がE音に変化して「テキ」から「セキ」となった)

の転訛と解します。

250H28生江臣家道女(いえみちめ)

 延暦15年7月22日条は、京内の市で妄りに人の運命について説教して惑わし、越の優婆夷と呼ばれていた越前国足羽郡の人生江臣家道女(いえみちめ)を郷里に逓送したとします。

 この「いえみちめ」は、

  「イ・ヘ・ミヒ・チ・マイ」、I-HE-MIHI-TI-MAI(i=from,beside,with;he=wrong,in trouble or difficulty;mihi=sigh for,greet,show itself of affection;ti=throw,overcome;mai=dance)、「(人の)不幸や悩み・について・説き・癒す・(踊る)女」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

250H29大津海成(うみなり)

 延暦16年7月2日条(逸文)は、陰陽允大津海成(うみなり)に晴雨の占いが的中したことを賞してあしぎぬ、布を下賜したとします。

 この「うみなり」は、

  「ウ・ミヒ・(ン)ガリ」、U-MIHI-NGARI(u=be fixed,strike home of blows;mihi=sigh for,greet;ngari=annoyance,disturbance)、「行事の障碍(晴雨)の・告知を・的中させた(男)」(「ミヒ」のH「(ン)ガリ」NGN)

の転訛と解します。

250H30村国(むらくに)連悪人(あしひと)

 延暦17年2月1日条(逸文)は、美濃国の人村国(むらくに)連悪人(あしひと)を、群盗を宿泊させ、百姓に悪事をなした罪で、淡路国へ配流したとします。

 この「むらくに」、「あしひと」は、

  「ムラ・クニ」、MURA-KUNI(mura=blaze,flame;kuni=dark)、「顕著に・(腹の)黒い(悪い奴等)」

  「アチ・ピト」、ATI-PITO(ati=clan;pito=end,extremity,at first)、「(盗賊と)同類の・頂点に立つ(首領)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

250H31弓削部虎(とら)麻呂・丈部小広刀自女(こひろとじめ)

 延暦18年2月21日条は、陸奥国新田郡の百姓弓削部虎(とら)麻呂、妻丈部小広刀自女(こひろとじめ)らを、長らく蝦夷の居住地に住み、その言葉を習得し、しばしば妖言をもって蝦夷らを扇動した罪で、日向国に配流したとします。

 この「とら」、「こひろとじめ」は、

  「タウラ」、TAURA(a tohunga(=priest) who accompany an army to battle)、「(従軍の)祈祷師」(AU音がO音に変化して「トラ」となった)

  「コ・ヒロウ・タウチマイ」、KO-HIROU-TAUTIMAI(ko=girl;hirou=rake,net for dredging shellfish;tautimai=welcome!)、「(人々を)集め・歓迎した・女」(「タウチマイ」のAU音がO音に、AI音がE音に変化して「トチメ」から「トジメ」となった)

の転訛と解します。

250H32吉弥候部黒田(くろだ)・吉弥候部田苅女(たかりめ)・吉弥候部都保呂(つほろ)・吉弥候部留志女(るしめ)

 延暦18年12月16日条は、陸奥国が、俘囚吉弥候部黒田(くろだ)とその妻吉弥候部田苅女(たかりめ)、吉弥候部都保呂(つほろ)とその妻吉弥候部留志女(るしめ)らは野蛮な心を改めず、蝦夷の居住地へ往来していると言上してきたので、身柄を拘束して太政官へ送らせ、土佐国へ配流することとしたとします。

 この「くろだ」、「たかりめ」、「つほろ」、「るしめ」は、

  「ク・ロタ」、KU-ROTA(ku=silent;rota,rotarota=sign with the hands without speaking)、「寡黙で・手で合図をする男」

  「タカリリ・マイ」、TAKARIRI-MAI(takariri,whakatakariri=angry,indignant;mai=dance)、「(いつも)怒っている・女」(「タカリリ」の反復語尾が脱落して「タカリ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「ツ・ホロ」、TU-HORO(tu=stand,fight withenergetic;horo=run,escape,swallow)、「精力的に・走り回る(男)」

  「ル・チ・マイ」、RU-UTI-MAI(ru=shake,scatter,quiver;uti=annoy,worry;mai=dance)、「(いつも)心配して・震えている・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。(吉弥候部(きみこべ)については、前出250H15吉弥候部(きみこべ)荒嶋(あらしま)の項を参照してください。)

250H33橘朝臣入居(いりゐ)

 延暦19年2月10日条(逸文)は、右中弁従四位下橘朝臣入居(いりゐ)が死去したとし、入居は適切な建白書を提出し、その多くが採用されたとします。

 この「いりゐ」は、

  「イリ・ウイ」、IRI-UI(iri=be elevated on something,hang;ui=disentamgle,disengage)、「(政治上の問題を)解決して・高位に登った(朝臣)」

の転訛と解します。

250H34景国(けいこく)・大国忌寸木主(きぬし)・孝聖(こうしょう)・田中朝臣名貞(なさだ)

 延暦19年8月15日条(逸文)は、薬師寺の僧景国(けいこく)が、私はもと摂津国西成郡の大国忌寸木主(きぬし)ですが、性格が愚鈍で僧侶の修行について行けませんので還俗したいと言上してきたので、許可したとします。

 また、同年10月14日条(逸文)は、大安寺の僧孝聖(こうしょう)が、私はもと右京の田中朝臣名貞(なさだ)で゜すが、生まれつき虚弱で修行について行けませんので還俗して老母の世話をしたいと言上してきたので、許可したとします。

 この「けいこく」、「きぬし」、「こうしょう」、「なさだ」は、

  「ケイ・コクフ」、KEI-KOKUHU(kei=at,on,in,in the act of;kokuhu=insert,introduce)、「(僧になるための)修行・中の(者)」(「コクフ」のH音が脱落して「コク」となった)

  「キヒ・ヌイ・チ」、KI-NUI-TI(ki=say,tell;nui=big,many;ti=throw,cast)、「おしゃべりが・大変・多い(忌寸)」(「キヒ」のH音が脱落して「キ」と、「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

  「カウ・チオフ」、KAU-TIOHU(kau=alone,only;tiohu=stoop)、「ただただ・(修行について行けずに)かがみ込んでいる(者)」(「カウ」のAU音がOU音に変化して「コウ」と、「チオフ」のH音が脱落して「チオウ」から「ショウ」となった)

  「ナ・タタ」、NA-TATA(na=by,belonging to;tata=wag,nod,tail of the hapuku fish which was regarded as a delicacy)、「(ある種の魚の尾のように)繊細な・体質の(朝臣)」

の転訛と解します。

250H35高橋朝臣祖(おや)麻呂

 延暦19年12月19日条(逸文)は、駿河守従五位上高橋朝臣祖(おや)麻呂が不当な主張をして前司に与えるべき解由をあたえなかったので、免職としたとします。

 この「おや」は、

  「オイ・イア」、OI-IA(oi=shudder,move continuously,disturb;ia=indeed)、「実に・言うことがくるくる変わる(人の邪魔をする。朝臣)」(「オイ」の語尾のI音と「イア」の語頭のI音が連結して「オヤ」となった)

の転訛と解します。

250H36漢人部千倉売(ちくらめ)

 延暦20年6月14日条(逸文)は、参河国碧海郡の人漢人部千倉売(ちくらめ)が三子を産んだので褒賞を下賜したとします。

 この「ちくらめ」は、

  「チ・クラ・マイ」、TI-KURA-MAI(ti=throw,cast;kura=treasure;mai=dance)、「(国の宝である)子を・(たくさん)産んだ・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

250H37長倉(ながくら)王

 延暦22年8月13日条(逸文)は、右京の人正六位上長倉(ながくら)王が天皇に対し不敬の発言を行ったとして多根(正しくは衣偏に執)島へ配流したとします。

 この「ながくら」は、

  「(ン)ガ(ン)ガ・クラ」、NGANGA-KURA(nganga=make a noise;kura=ornamented with feathers,chief,ceremonial resttriction(=tapu))、「(雑音を発した)不敬の発言をした・王」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」となった)

の転訛と解します。

250H38布留宿禰高庭(たかにわ)

 延暦24年2月10日条は、文章生従八位上布留宿禰高庭(たかにわ)が解を太政官に提出し、平安京への遷都に伴い、石上神宮の神宝の武器類を山城国葛野郡へ移すことは石上大神の意に反する祥があるので停止されたいと申し出たが拒否され、その後移された武器庫がひとりでに倒れ、天皇が病気になり、女巫の託宣から布留御魂のたたりであることが判明したので、旧に復したとします。

 この「たかにわ」は、

  「タカ・ニワ」、TAKA-NIWHA(taka=turn on a pivot,revolve,veer;niwha=resolute,bravery)、「勇気をもって・政策を撤回する(石上神宮の武器の移管を停止することを求めた。宿禰)」

の転訛と解します。

250H39吉弥候部兼(かね)麻呂・吉弥候部色雄(しこお)・道公全成(またなり)

 延暦24年10月22日条は、播磨国の俘囚吉弥候部兼(かね)麻呂・吉弥候部色雄(しこお)ら十人を、野蛮な心性を改めず屡々国法に違反した罪で、多根(正しくは衣偏に執)島へ配流したとします。

 また、同月25日条は、佐渡国の人道公全成(またなり)を、官有の鵜を盗んだ罪で、伊豆国へ配流したとします。

 この「かね」、「しこお」、「またなり」は、

  「カネ」、KANE(kanekane=pungent,nauseated)、「腐臭がする(根性が腐っている。男)」

  「チコ・ワウ」、TIKO-WAU(tiko=stand out,protrude;wau=quarrel,wrangle)、「際だって・わめき散らす(男)」(「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」となった)

  「マタ・(ン)ガリ」、MATA-NGARI(mata=layer,raw,face,eye,spell;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「極めて・粗野な(男)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。

250H40山田宿禰豊浜(とよはま)・紀朝臣浜公(はまきみ)

 延暦24年11月7日条は、以前伊豆国掾正六位上山田宿禰豊浜(とよはま)が使人となって京へ向かう途中伊勢国の榎撫・朝明両駅間で村人から毒酒を飲まされ、京へ到着後死亡したので、左兵衛少志従六位下紀朝臣浜公(はまきみ)を派遣して捜査したが究明できなかったとします。

 この「とよはま」、「はまきみ」は、

  「ト・イオ・ハマ」、TO-IO-HAMA(to=drag;io=twitch;hama=faded,be consumed)、「痙攣を・引き起こして・青ざめて死んだ(宿禰)」

  「ハマ・キミ」、HAMA-KIMI(hama=faded,be consumed;kimi=seek,look for)、「青ざめて死んだ・(真相を)探った(朝臣)」

の転訛と解します。

250H41壱志濃(いちしの)王

 延暦24年11月12日条は、大納言正三位兼弾正尹壱志濃(いちしの)王が死去したので詔して従二位を贈ったとします。王は、田原天皇(施基皇子)の孫で、湯原親王の第二子、飲酒するとよく喋り、よく笑い、ほどよく酔うたびに桓武天皇に向かい昔のことを語り、天皇はこれを楽しんだとします。 

 この「いちしの」は、

  「イ・チ・チノ」、I-TI-TINO(i=past tense;ti=throw,cast;tino=essentiallity,reality,sometimes it is used to give vividness and force to the narrative)、「重要事を生き生きと力を籠めて・語る・ことをした(王)」

の転訛と解します。

250H42浄村(きよむら)宿禰源(げん)・浄村宿禰晋卿(しんけい)・春科(はるしな)宿禰道直(みちなお)

 延暦24年11月19日条は、左京の人正七位下浄村(きよむら)宿禰源(げん)が言上して、日本に帰化した唐の使人を父として生まれた私は、父の死により外祖父故浄村(きよむら)宿禰晋卿(しんけい)の養子として育てられましたが、延暦18年3月22日格(不詳。祖父の養子となることを禁じたものか)に従い自首をしますが、お情けにより、位記の没収を免じ、姓名を改めて、春科(はるしな)宿禰道直(みちなお)と名乗ることを請願して許されたとします。

 この「きよむら」、「げん」、「しんけい」、「はるしな」、「みちなお」は、

  「キオ・ムラ」、KIO-MURA((Hawaii)kio=projection,to protrude;mura=blaze,flame)、「格別・輝いている(宿禰)」(「キオ」が「キヨ」となった)

  「(ン)ゲ(ン)ゲ」、NGENGE(weary,tired)、「疲れた(男)」(「(ン)ゲ(ン)ゲ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゲネ」から「ゲン」となつた)

  「チ(ン)ガ・ケイ」、TINGA-KEI(tinga=likely;kei=stern of a canoe)、「(船の)艫の・ような(どっしりとした。男)」(「チ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「チナ」から「シン」となった)

  「ハル・チナ」、HARU-TINA(haru=soiled,disagreeable to the eye;tina=fixed,firm)、「泥に汚れ・切った(宿禰)」

  「ミヒ・チ・ナオ」、MIHI-TI-NAO(mihi=sigh for,greet,acknowledge an obligation;ti=throw,cast;nao=nanao=midge)、「嘆き悲し・んでいる(またはその分を心得ている)・小さな奴(やつ)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

[251平城天皇]

251A日本根子天推国高彦(やまとねこあめおすくにたかひこ)天皇

 249光仁天皇の孫、250桓武天皇の第一皇子で、250E1藤原乙牟漏(おとむろ)を母とする250F1安殿(あて)親王です。宝亀5年に平城宮で生まれました。

 『続日本紀』延暦2年4月条は、小殿(をての)親王を改名して安殿(あての)親王としたとし、同4年10月条は249F3早良親王に代わり12歳で皇太子に立ったとします。同7年正月条は、15歳で元服したとします。『後紀』平城天皇即位前紀は、親王は、成長すると、賢く、敏く、考え深くてさまざまな面で優れ、広く儒教の経典を学び、詩文が巧みであったとします。親王は、251E4藤原縄主(ただぬし)と250H5藤原種継(たねつぐ)の女251E4藤原薬子(くすこ)の間に生まれた娘を後宮に迎えますが、薬子は皇太子と醜聞を流し、桓武天皇によって追放されます。

 桓武天皇崩御の翌々月、大同元年5月に即位し、先帝の平安京建設と蝦夷征討の大事業による国家財政の破綻を収拾するために官司の整理、観察使の創設等に努めますが、早良親王の祟りとされる風病に悩み、いくたびか転地療養を試みますが効果が無く、在位3年で皇太弟の250F4神野(かみの。賀美能)親王(252嵯峨天皇)に譲位して、243B2平城旧京に隠棲します。

 その後上皇の健康が奇跡的に回復し、寵愛する薬子等に囲まれて国政への意欲を示し、「二所朝廷」の状態となり、遂に弘仁元年薬子の変によって失脚し、詩文や和歌を愛し、失意のうちに天長元年に崩御します。

 なお、森鴎外『帝謚考』は「平城」を在所号とし、『後紀』大同3年6月条、『続後紀』承和13年9月条等は国風諡を「日本根子天推国高彦(やまとねこあめおしくにたかひこ)尊」とします。

 この「あての」、「をての」、「やまとねこあめおしくにたかひこ」は、

  「アテ・(ン)ゴ」、ATE-NGO(ate=liver,heart,spirit,high feeling;ngo=cry,grunt)、「(内)心が・(満たされずに)ぶつぶつ言っている(親王)」(「(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ノ」となった)

  「オ・タイ(ン)ゴ」、O-TAINGO(o=the...of,belonging to;taingo=spotted,mottled)、「そばかすが・ある(親王)」(「タイ(ン)ゴ」のAI音がE音に、NG音がN音に変化して「テノ」となった)

  「イア・マト・ネイ・コ・アマイ・オチ・クニ・タカ・ヒコ」、IA-MATO-NEI-KO-AMAI-OTI-KUNI-TAKA-HIKO(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls;amai=swell on the sea,giddy,dizzy;oti=finished;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;taka=turn on a pivot,revolve,go or pass round,be completely encircled;hiko=move at random or irregularly)、「実に・深い湿地がある(大和国の)・(世の中を揺るがす)騒ぎを引き起こした(財政の立直しと行政改革に執念を燃やし、退位後に薬子の乱を起こした)・光り輝いた・(いったん)国の灯を・消して(退位して)・再び戻ろうとした・各地を(病気療養等のため)転々とした(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」となった)

の転訛と解します。

 

251B平安宮・平城宮

 大同元年5月13日条は、平城天皇は、先帝の喪が明けても宮の新造を行わず、旧宮(250B2平安宮)をそのまま皇宮とする旨勅したとします。

 大同4年4月平城天皇は病気のため皇太弟神野親王(嵯峨天皇)に譲位して太上天皇となり、居所を変えて治療にあたり、五度移遷したのち243B2平城旧京に宮を造りました。これを平城宮と呼び、天皇謚号となりました。

251C1日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇

 父は250A日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇(250A桓武天皇)の項を参照してください。

251C2藤原乙牟漏(おとむろ)

 母は250E1藤原乙牟漏(おとむろ)の項を参照してください。

251D1伊豫(いよ)親王から朝原(あさはら)内親王まで

 兄弟姉妹は、250F2伊豫親王から250F8大宅内親王までの項を参照してください。

251E1藤原朝臣帯子(おびこ)

 妃は、贈太政大臣249H17藤原朝臣百川の女の帯子(おびこ)で、桓武天皇夫人の250E4藤原朝臣旅子(たびこ)の妹です。

 皇太子の妃となりましたが、延暦13年5月28日条(逸文)に帯子)が急病となり、木蓮子(いたび)院に移すとすぐに死去したとあります。木蓮子院は長岡京内の邸宅かとされます。

 大同元年6月9日条は、帯子に皇后を追贈し、大和国添下郡の河上陵に報告したとします。

 この「おびこ」、「いたび」は、

  「オピ・コ」、OPI-KO(opi=terrified;ko=girl)、「恐ろしい(病気にかかった)・妃」または「オ・ピカウ」、O-PIKAU(o=the...of;pikau=carry on the back,bring,load for the back)、「(死後に皇后の称号を)贈られ・た(妃)」(「ピカウ」のAU音がO音に変化して「ピコ」から「ビコ」となった)

  「イ・タピ」、I-TAPI(i=from,by,at;tapi=apply as drressings to a wound,mend)、「(そこで)看病する・建物(隔離「オ・ピカウ」、O-PIKAU(o=the...of;pikau=carry on the back,bring,load for the back)、「(死後に皇后の称号を)贈られ・た(妃)」(「ピカウ」のAU音がO音に変化して「ピコ」から「ビコ」となった)病室)」(なお、植物の「木蓮子(いたび)」は、「いたびかずら(崖石榴)」でクワ科イチジク属のつる性植物、茎から付着根を出して岩壁や他の木の幹に匍い登り、盛んに分枝を出して葉を茂らせます。この「いたび」は、「イタ・ピヒ」、ITA-PIHI(ita=tight,fast;pihi=shoot,sprout)、「密に・若枝を出す(植物)」(「ピヒ」のH音が脱落して「ピ」から「ビ」となった)の転訛と解します。)

の転訛と解します。

251E2朝原(あさはら)内親王

 妃は、桓武天皇の第一皇女、二品249F6酒人内親王を母とする250F7朝原(あさはら)内親王です。

 延暦元年8月、幼くして(4歳で)伊勢斎宮となり、同4年9月旧平城宮で3年の潔斎を終えて父桓武天皇に見送られて伊勢へ向かい、同15年2月通常の斎宮の交替の理由(天皇の譲位、崩御、身内の不幸、病気など)がないのに退下し(『日本後紀』には「斎内親王、京に帰らんと欲し」とあるのみで、何の理由も記されていません)、それにもかかわらず同年7月に無品から三品となり、異母兄の250F1安殿親王(251平城天皇)の妃となりますが、大同5年の薬子の変には同行せず、異例なことに弘仁3年5月16日に妃(このとき二品)を辞し、同8年4月39歳で没しました。

 この「あさはら」は、

  「アタ・ハラ」、ATA-HARA(ata=form,shadow,early morning(whakaataata=scare,freighten away);hara=violate tapu,sin,miss,excess above a round number(harahara=abundance))、「異例に・はかない(幼さで斎王となった。内親王)」または「(禁忌を無視するという)思い切ったことをしてのけて・(人々を)びっくりさせた(内親王)」

の転訛と解します。

251E3大宅(おおやけ)内親王

 妃は、桓武天皇の皇女で、兵部大輔橘朝臣島田麻呂の女の女御常子を母とする250F8大宅(おおやけ)内親王です。

 延暦20年11月、加笄の儀を行い、異母兄の皇太子250F1安殿親王(251平城天皇)の妃となり、大同5年の薬子の変には同行せず、朝原内親王に十日遅れて弘仁3年5月26日に妃(このとき四品)を辞し、天長6年に出家、嘉祥2年(このとき三品)に没しました。

 この「おおやけ」は、

  「オホ・イ・アケ」、OHO-I-AKE(oho=surprise,wake up;i=past tense;ake=indicating immediate continuation in time)、「(朝原内親王が妃を辞したのを知って)びっくりして・すぐに・後を追った(妃を辞した。内親王)」

の転訛と解します。

251E4藤原朝臣薬子(くすこ)・藤原朝臣縄主(ただぬし)

 尚侍は、中納言250H5藤原朝臣種継の女で、はじめ藤原朝臣縄主(ただぬし)と結婚し、三男二女をもうけています。延暦4年、父が暗殺され、早良親王廃太子、安殿親王立太子の後、その長女(名、生没年不詳)が皇太子安殿親王の妃となった縁で東宮坊宣旨となり、皇太子と醜聞を流して桓武天皇に退けられました。

 平城天皇の即位後、薬子はふたたび朝廷に復帰して尚侍となり、兄弟の252H4藤原朝臣仲成とともに権勢を振るい、大同2年10月の伊豫親王謀反事件は薬子・仲成の策謀によるとの説があります。同年12月尚侍は準従五位から、準従三位に格上げされ、大同3年11月薬子は従四位下から正四位下に、翌4年正月には従三位に叙され、さらに弘仁元年9月までの間に正三位に叙されています。

 大同4年4月平城天皇は病気のため皇太弟神野親王(嵯峨天皇)に譲位し、居所を変えて治療にあたり、五度移遷したのち平城京に宮殿を造りましたが、健康が回復すると政令を盛んに発して「二所朝廷」の様相を呈しました。弘仁元年9月平城太上天皇が平城京への遷都を指示したため大混乱となり、嵯峨天皇は薬子の官位を剥奪して朝廷からの追放および仲成の佐渡権守への左遷と拘留・処刑を命じ、太上天皇は薬子と輿に同乗して東国へ向かおうとしますが、坂上田村麻呂に進路を阻まれ断念して出家し、薬子は毒を仰いで自殺しました。

 藤原朝臣縄主(ただぬし)は、縄主は参議従三位馬養の孫、参議従三位藏下麻呂の子で、延暦2年4月従五位下、同6年3月少納言、同10年正月従五位上、同17年8月参議、春宮大夫・式部大輔等を歴任、桓武天皇行幸の際しばしば装束司長官となり、大同元年3月の桓武の葬儀では参議正四位下で装束司となり、翌月には誄を奉っています。その後西海道観察使兼太宰帥となり(九州へ左遷されたとみる説があります)、大同3年6月新任の国司に給する公粮の停止について上表し、弘仁3年正月参議従三位から兵部卿、同年12月中納言になり、同8年9月16日条(逸文)の中納言従三位兼兵部卿藤原朝臣縄主の薨伝によれば、内と外を区別せず、親族はみな縄主を慕ったとします。

 この「くすこ」、「ただぬし」は、

  「クツ・コ」、KUTU-KO(kutu=louse,vermin of any kind infesting human beings;ko=addressing to males and females)、「(娘婿と醜聞を流すという)とんでもない不倫をしでかした・女」(「クツ」のT音がS音に変化して「クス」となった)
  または「ク・ウツ・コ」、KU-UTU-KO(ku=silent,make a low inarticulate sound,coo,etc.;utu=return for anything,satisfaction,ransom,reward,price,reply.make response,whether by way of payment,blow,or answer,etrc.)、「ひそかに・(自らと身内の不名誉を挽回しようと)とんでもない(上皇の復位という)荒業を企み実行しようとした・女」(「ク」のU音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「クツ」となり、そのT音がS音に変化して「クス」となった)

  「タタ・ヌイ・チ」、TATA-NUI-TI(tata=dash down,oppose,near of place or time,nearness;nui=large,many;ti=throw,cast,overcome)、「(妻薬子の後宮での振る舞いに)強く・反対を・唱えた(朝臣)」(「タタ」が「タダ」と、「ヌイ」が「ヌ」となった)
  または「(周囲の)たくさん(の人に)・親しく・接した(朝臣)」(「タタ」が「タダ」と、「ヌイ」が「ヌ」となった)

の転訛と解します。

251F1阿保(あぼ)親王

 平城天皇の第一皇子で、母は正五位上葛井道依の女葛井藤子です。妃は桓武天皇の第七皇女伊都(いつ)内親王、子は在原行平、在原業平などです。

 弘仁元年9月薬子の変に連座して大宰権師に左遷(このとき四品、19歳)され、平城太上天皇の死後天長元年8月嵯峨太上天皇の勅により入京を許され、帰京の翌年伊都内親王と結婚しますが、その後上野国・上総国守、治部卿・兵部卿、弾正尹等を歴任、その間天長3年行平等の子等に在原姓が与えられます。承和9年、承和の変に際し橘逸勢らから相談を受け、これを太皇太后橘嘉智子に密書で知らせて判断をゆだね、変の直後に急死したため、逸勢の祟りと噂され、死後一品を追贈されました。

 この「あぼ」、「いつ」は、

  「アポ」、APO(gather together,grasp,acquire wrongfully)、「よからぬ望みを抱いた(薬子の変に荷担した。親王)」

  「イ・ツ」、I-TU(i=from,beside,at,in the act of;tu=fight with,energetic)、「豪放に・行動する(興福寺に残る「伊都内親王願文」にみる雄渾な書を書いた。内親王)」

の転訛と解します。

251F2高丘(たかおか)親王

 平城天皇の第三皇子で、母は木工頭伊勢老人の女伊勢継子です。

 大同4年4月嵯峨天皇の即位に伴い皇太子に立てられます(このとき10歳)が、翌弘仁元年9月薬子の変に連座して皇太子を廃されます。弘仁13年正月四品が与えられますが、出家し、名を真如(しんにょ)と改め、奈良の宗叡・修円、また弘法大師の弟子として修行し、阿闍梨となり、のち入唐求法を志し、貞観4年唐に渡りますが、当時仏教が弾圧下にあったため、同7年広州から海路天竺に向かいますが、以後行方不明となり、『日本三代実録』によれば元慶5年の唐の留学生の報告で羅越国(マレー半島の南端と推定されます)で虎の害に遭って死亡したと伝えられます。

 この「たかおか」は、

  「タカ・オカ」、TAKA-OKA(taka=heap,lie in a heap,fall off,fall away;oka=stab,branch line of descent)、「(皇太子という)高位についた(そして落とされた)・傍流の(親王)」

の転訛と解します。

251G楊梅(やまもも)陵

 天長元年7月12日条(逸文)は、同月7日に崩御した平城太上天皇を楊梅(やまもも)陵に葬ったとします。

 『延喜式』は、陵を「楊梅陵。大和国添上郡に在り。兆域東西二町、南北四町、守戸五烟」とし、蒲生君平『山陵志』の比定により現奈良市佐紀町所在の市庭(いちば)古墳が楊梅陵とされています。しかし、奈良国立文化財研究所の調査によれば、市庭古墳は出土品から5世紀中頃の築造で、当初全長250mの前方後円墳の前方部が破壊されて後円部が残ったものとされます。

 この「やまもも」は、

  「イア・マ・モモ」、IA-MA-MOMO(ia=indeed;ma=white,clear;momo=in good condition,well proportioned)、「実に・清らかで・均整がとれている(陵)」または「イア・マ・マウマウ」、IA-MA-MAUMAU(ia=indeed;ma=for,by,to emphasis the subject of a verb in the future;maumau=waste)、「実に・(打ち捨てられて)次第に・荒れ果てて行く(陵)」(「マウマウ」のAU音がO音に変化して「モモ」となった)

の転訛と解します。

251H1藤原朝臣内(うち)麻呂

 大同元年6月6日条は、正三位守右大臣兼近衛大将藤原朝臣内(うち)麻呂が上表して、功績がないのに高禄を食むのは心苦しいので、大臣の食封千戸の増封を返納したいと願つたが許されなかったとします。

 この「うち」は、

  「ウチ」、UTI(utiuti=annoy,worry)、「自責の念にかられた(朝臣)」

の転訛と解します。

251H2紀勝長(かつなが)

 大同元年10月3日条(逸文)は、紀勝長(かつなが)が死去したが、生まれつき人柄が温かく雅量があり、客を好んで接待を始めると終わることを知らなかったなどとします。

 この「かつなが」は、

  「カハ・アツ・ナ・(ン)ガ」、KAHA-ATU-NA-NGA(kaha=strong,strength,persistency;atu=to indicate a direction or motion onwards;na=by,belonging to;nga=satisfied)、「満足に・至る・までが・非常に長い(性癖の。臣)」(「カハ」のH音が脱落し、その語尾のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「カツ」と、「(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ガ」となった)

の転訛と解します。

251H3調田(つきた)造庭継(にわつぐ)

 大同2年2月14日条(逸文)は、左京の人調田(つきた)造庭継(にわつぐ)が父を殴ったが、桓武天皇の諒闇中のため、斬刑を減じて伊豆国に配流したとします。

 この「つきた」、「にわつぐ」は、

  「ツキ・タ」、TUKI-TA(tuki=pound,beat,attack;ta=dash,strike,beat)、「(父を)殴りに・殴った(造)」

  「ニワ・ツ・(ン)グ」、NIWA-TU-NGU(niwaniwa=dark,permanent;tu=stand,fight with;ngu=silent,moan,groan)、「永く・嘆き悲し・んだ(男)」(「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)

の転訛と解します。

251H4物部国吉女(くによしめ)・大田部直守宅売(もりやかめ)

 大同2年3月3日条(逸文)は、相模国愛甲郡の人物部国吉女(くによしめ)が三子を産み、また同年10月13日条(逸文)は、相模国の人大田部直守宅売(もりやかめ)が一男二女を産んだので、それぞれ褒賞を与えたとします。

 この「くによしめ」は、

  「クニ・オチ・マイ」、KUNI-OTI-MAI((Hawaii)kuni=burn,blaze.kindle;oti=finished,gone or come for good;mai=dance)、「輝かしい・(三つ子を産むという)快挙を遂げた・女」(「クニ」と「オチ」が連結して「クニヨチ」から「クニヨシ」となった)

  「モリ・イア・カハ・マイ」、MORI-IA-KAHA-MAI(mori=fondle,caress;ia=indeed;kaha=strong,strength;mai=dance)、「子育てに・本当に・奮戦した・女」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

250H5脩哲(しゅうてつ)

 大同2年9月4日条(逸文)は、律師伝灯大法師位脩哲(しゅうてつ)が、僧綱としての任務を果たさず、詔使に対して無礼な態度をとったとして免職されたとします。

 この「しゅうてつ」は、

  「チウ・タイツ」、TIU-TAITU(tiu=soar,swing,swift;taitu=hindered,intermitted)、「ふらふらした(仕事振りで)・(詔使を)妨害した(法師)」(「タイツ」のAI音がEおとに変化して「テツ」となった)

の転訛と解します。

250H6藤原雄友(おとも)・藤原内(うち)麻呂・安倍兄雄(あにお)・巨勢野足(のたり)・藤原吉子(よしこ)

 大同2年10月17日条(逸文)は、中務卿三品伊豫(いよ)親王陰子藤原宗成(むねなり)が謀反を勧めたことを大納言藤原雄友(おとも)が耳にして右大臣藤原内(うち)麻呂に告げたところ、親王が宗成から勧められたと奏上したので宗成を捕らえたとします。

 同月30日条(逸文)は、宗成が謀反の首謀者は親王と言ったので、左近衛中将安倍兄雄(あにお)と佐兵衛督巨勢野足(のたり)を派遣して、親王邸を包囲したとします。

 翌11月2日条(逸文)は、伊豫親王の謀反のため大嘗祭をとりやめた(翌年11月14日に実施した)ことと、親王と母夫人藤原吉子(よしこ)を川原寺に移して飲食を絶ったとし、同月11日条(逸文)は、天皇が詔して謀反人らの解任・親王の廃号を宣したとし、翌12日条(逸文)は親王母子が毒を仰いで死去し、時の人はこれを哀れんだとします。

 なお、大同3年10月19日条は、安倍朝臣兄雄(あにお)が死去したとし、故人は「まっすぐな性格で世俗に阿(おもね)ず、経歴した職では、公平で清廉の評判をとった」、「伊予親王が罪がないのに親王を廃されたとき、平城天皇の怒りの見幕に群臣中誰も諫言しなかったが、兄雄は言葉を尽くして諫争した」と記します。

 この「おとも」、「うち」、「あにお」、「のたり」、「よしこ」は、

  「オ・タウマウ」、O-TAUMAU(o=the...of;taumau=hold,keep in place,bespeaking)、「(自分の)分を外さない・穏和な(朝臣)」(「タウマウ」のAU音がO音に変化して「トモ」となった)

  「ウチ」、UTI(annoy,worry)、「心配性の(朝臣)」

  「アニ・ワウ」、ANI-WAU(ani=resounding,echoing;wau=quarrel,wrangle)、「(天皇に)反論して・強く諫言した(朝臣)」(「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」となった)

  「(ン)ガウ・タリ」、NGAU-TARI(ngau=bite,hurt,attack,wander,raise a cry;tari=carry,urge,strain)、「曲解して・厳しく当たった(朝臣)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「イオ・チコ」、IO-TIKO(io=muscle,line,spur,lock of hair,tough,obstinate,twitch;tiko=evacuate the bowels,settled upon,stand out)、「(息子とともに謀反の罪に問われ)顔をひきつらせて・(腸を空にした)食を断った(夫人)」

の転訛と解します。

250H7藤原朝臣乙叡(たかとし)

 大同3年6月3日条は、散位従三位藤原朝臣乙叡(たかとし)が死去したとし、故人は平城天皇が皇太子のとき無礼を働いたことがあり、伊豫親王の試験に連座し、免されて邸に帰ったのち自分に罪がないことを知り、不満のまま死去したとします。

 この「たかとし」は、

  「タカ・トチ」、TAKA-TOTI(taka=lie in a heap,fall off;toti=limp,halt)、「高位にあったが・(伊豫親王謀反事件に連座して)びつこを引くようになつた(朝臣)」

の転訛と解します。

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[252嵯峨天皇]

252A神野(かみの。賀美能)

 桓武天皇の第4皇子(『文徳天皇実録』仁寿3年6月条250F3葛原親王薨伝に桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄とあることなどから推定しました。笠原英彦『歴代天皇総覧』(中公新書)に第2皇子とするのは誤りです。)の250F4神野(賀美能)親王で、母は250E1藤原乙牟漏(おとむろ)です。

 大同元年5月兄の251平城天皇の皇太子となり、同4年に即位して252嵯峨天皇となります。

 譲位した平城上皇が健康を回復して「二所朝廷」の観を呈し、弘仁元年平城遷都令を発し、重祚の動きが出てきたので、坂上田村麻呂の軍を出して制圧します(薬子の変)。この後弘仁、天長、承和の30余年間は政局が安定し、平安文化が華を開きました。『弘仁格』、『弘仁式』が編纂され、勅撰の『凌雲集』、『文華秀麗集』が編まれ、空海、小野篁等多くの才能ある人々が活躍し、唐風文化が隆盛となりました。

 天(上)皇は三筆の一人に数えられ、後宮は盛大を極め、皇子・皇女は約50人に及び、多くは源氏姓を与えられました。承和9年に崩御すると、政局はにわかに流動化へ向かいます。

 なお、森鴎外『帝謚考』は「嵯峨(さが)」を在所号とします(「嵯峨」は、唐の洛陽の北にある風光明媚な嵯峨山にちなんで京都盆地の北西の地域につけた地名とする説があります。)。唐風文化に心酔した天皇であったためか、国風諡号はありません。

 この「かみの」、「さが」は、

  「カ・ミノノ」、KA-MINONO(ka=take fire,be lighted,burn;minono=beg)、「情熱的に・(あらゆるものを)求め続ける(親王)」(「ミノノ」の反復語尾の「ノ」が脱落して「ミノ」となった)

  「タ(ン)ガ」、TANGA(be assembled,row,division of persons)、「(多方面にわたる)能力を兼備した(天皇)」または「(その周囲に)文人グループを集めた(天皇)」(NG音がG音に変化して「タガ」から「サガ」となった)

の転訛と解します。

 

252B平安(へいあん)宮・冷然(れいぜい)院・嵯峨(さが)院

 大同4年4月13日条は、皇太弟(250F4神野親王)が譲位を受けて大極殿で即位したとし、251B平安宮をそのまま皇宮としました。

 天皇は、宮城南東部と大路をはさんで東接する場所(現二条城東北隅付近。延暦14年6月桓武天皇が行幸した近東院と同じ場所と考えられています)に冷然(れいぜい)院(離宮)を造営し、弘仁7年8月冷然院に行幸して詩宴を催したのをはじめとして同様の記事が頻出します。(冷然院の結構については『枕草子』でも称賛しています。)弘仁14年4月10日条(逸文)は、天皇は冷然院へ移つて譲位し、その後11年にわたりここを後院(上皇御所)とします。

 また、天皇は、嵯峨荘に嵯峨別館(弘仁8年8月から嵯峨院と呼称)を造り、弘仁7年8月行幸して詩宴を催したのをはじめ、しばしば行幸しており、承和元年に嵯峨院内に御所を新造し、冷然院から皇后とともにここに移り、8年後に崩御しました。

 この「れいぜいいん」は、

  「レイ・テイナ」、REI-TEINA(rei=tusk,ivory,cherished possession,jewel;teina=younger brother of a male,younger sister of a female)、「珠玉のような(殿舎・池庭が美しい)・(内裏の弟分にあたる)離宮」(「テイナ」が「テイン」から「テイイン」、「ゼイイン」となった)

の転訛と解します。

252C1日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇

 父は250A日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇(250A桓武天皇)の項を参照してください。

252C2藤原乙牟漏(おとむろ)

 母は250E1藤原乙牟漏(おとむろ)の項を参照してください。

252D1安殿(あて)親王から朝原(あさはら)内親王まで

 兄弟姉妹は、250F1安殿親王から250F8大宅内親王までの項を参照してください。

252E1高津(たかつ)内親王

 桓武天皇の皇女で、母は248H14坂上大宿禰苅田麻呂の女の全(又。また)子で、延暦20年11月加笄の儀を行い、神野親王の妃となり、業良親王、業子内親王を産み、嵯峨天皇の即位に伴い、大同4年6月三品を授けられ、妃となりましたが後に「まことにゆゑあること(『続日本後紀』薨伝)」として妃を廃され、承和8年4月死去します。

 この「たかつ」は、

  「タカ・ツ」、TAKA-TU(taka=heap,lie in a heap,fall off,fall away;tu=fight with,energetic)、「(妃という)高位についた(そして落とされた)・性格の激しい(内親王)」

の転訛と解します。

252E2橘朝臣嘉智(かち)子(壇林皇后)

 父は245H23橘宿禰諸兄の孫の内舎人橘朝臣清友、母は田口氏です。

 嵯峨天皇の即位に伴い、大同4年6月夫人となり、正良親王(254仁明天皇)、正子内親王(253E1淳和天皇皇后)を産み、弘仁元年11月従三位に叙せられ、弘仁6年7月皇后に立てられました。弘仁14年4月天皇譲位に伴い皇太后となり、天長10年3月仁明天皇即位に伴い太皇太后となり、承和9年嵯峨太上天皇崩御の後、嘉祥3年3月仁明天皇の病に際し出家、同5月冷然院で崩御し、深谷山で火葬の後、嵯峨陵に葬られました。

 皇后は、「風容絶異、手は膝に過ぎ、髪は地にしたがう。観る者皆驚く」と伝えられ、法華寺の十一面観音像は皇后を模したものともいわれます。また、仏教への信仰が深く、承和年間に日本最初の禅院壇林寺を創設したことから「壇林皇后」と呼ばれます。

 この「かちこ」は、

  「カハ・チコ」、KAHA-TIKO(kaha=strong,strengthltiko=stand out,protrude)、「(手・髪が)長く・(麗容が)突出していた(皇后)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

252E3多治比真人高(たか)子

 父は多治比真人氏守、母は六人部美波留です。

 嵯峨天皇の即位に伴い、大同4年6月橘嘉智子とともに夫人となり、弘仁元年11月従三位に叙せられ、弘仁6年7月妃となり、天長3年3月死去し、従一位を追贈されました。

 この「たかこ」は、

  「タカ・コ」、TAKA-KO(taka=heap,lie in a heap,fall off,fall away;ko=girl)、「(妃という)高位についた・娘」

の転訛と解します。

252F1有智(うち)子内親王

 嵯峨天皇の第二皇女、母は交野(かたの)女王(天武天皇の皇子舎人親王の孫山口王の女)です。

 弘仁元年9月薬子の変の平定後、伊勢斎宮に倣つて設けられた賀茂斎院の初代となり(このとき4歳)、史書・漢籍に通じ、文才があり、弘仁14年2月山荘に行幸した天皇の前で優れた漢詩を詠み、その場で三品に叙せられ、天長8年12月病により退下、同10年二品に昇叙、承和14年に死去しました。

 この「うちこ」は、

  「ウチ・コ」、UTI-KO(uti,utiuti=annoy,fuss,ado;ko=girl)、「よくしゃべる・女子(才気煥発な・内親王)」

の転訛と解します。

252F2正良(まさら)親王(254A仁明天皇・深草帝)

 嵯峨天皇の第二皇子、母は252E2橘朝臣嘉智子(壇林皇后)です。

 弘仁14年叔父253A淳和天皇の皇太子となり、天長10年2月淳和天皇の譲位により即位(254A仁明天皇)し、淳和天皇第二皇子恒貞親王を皇太子に立てますが、承和9年7月嵯峨上皇が崩御した直後、春宮坊帯刀舎人伴健岑(こわみね)・但馬権守橘逸勢(はやなり)らが恒貞親王を擁して謀反を企てたとの報告を受け、直ちに両名を逮捕させ、流刑に処し(承和の変)、子の通泰親王を皇太子に立てます(これには帝の意志と藤原良房の陰謀があったとする説があります)。嘉祥3年3月19日病により255A文徳天皇に譲位、同月21日崩御し、深草陵に葬られました。

 この「まさら」は、

  「マタラ」、MATARA(untied,untwisted,untangled)、「(しがらみに)とらわれない(物事に拘泥しない。親王)」

の転訛と解します。

252F3正(まさ)子内親王

 嵯峨天皇の皇女、母は252E2橘朝臣嘉智子(壇林皇后)です。

 弘仁14年ごろ叔父253A淳和天皇に入内し、天長4年皇后に立てられ、同10年淳和天皇退位とともに皇太后となり、第二皇子恒貞親王が254A仁明天皇の皇太子に立てられます。承和7年淳和上皇の崩御とともに落飾、同9年承和の変により恒貞親王が廃太子、出家、仁寿4年太皇太后、元慶3年に崩御しました。容貌美しく、しとやかな優しい女性で母の徳もよく備えていたと伝えられ、承和の変ではその陰謀の影にいた母嘉智子太皇太后を激しく泣いて恨んだとします(『日本三代実録』)。その後は父嵯峨上皇の旧宮嵯峨院を大覚寺に改め、僧尼のための医療施設の済治院の設置、淳和院を仏教の道場にするなどに努めました。

 この「まさこ」は、

  「マタ・コ」、MATA-KO(mata=face,eye;ko=girl)、「顔が際だつ(て美しい)・女子(内親王)」

の転訛と解します。

252G嵯峨山上(さがのやまのへ)陵

 遺詔により徹底した薄葬(散骨)が行なわれたため、陵の所在は長期にわたり不明となっており、『延喜式』に陵の記載はありません。のちに旧嵯峨離宮北の御廟山の山頂に嵯峨天皇御陵岩と称する巨岩があったので、ここに考定し、径38mの墳丘を築いて嵯峨山上陵(京都市右京区北嵯峨朝原山町所在)とされました。 

252H1大伴吉成(よしなり)・大風(おおかぜ)麻呂・御贖(みあが)

 大同4年7月14日条(逸文)は、因幡国の人大伴吉成(よしなり)は、御贖(みあが。羅城門で行う天皇の罪穢を祓う神事)の官奴大風(おおかぜ)麻呂に替わり神事を行ったので、杖罪に処し、本国へ逓送し、大風麻呂は対馬志摩ほ配流したとします。

 この「よしなり」、「おおかぜ」、「みあが」は、

  「イオ・チ・(ン)ガリ」、IO-TI-NGARI(i=past tense;oti=finished;ngari=annoyance,disturbance)、「(御贖の儀式の)妨害を・行っ・た(男)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「オホ・カハ・テ」、OHO-KAHA-TAI(oho=spring up,wake up,arise;kaha=able,persistency,a general term for several charms;tai=dash,knock,perform certain ceremonies to remove tapu etc.)、「(罪に問われて)びっくりした・長く・(御贖の)神事を営んでいる(官奴)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となつた)

  「ミヒ・ア(ン)ガ」、MIHI-ANGA(mihi=lament,greet,acknowledge an obligation;anga=face or move certain direction,turn to doing anything)、「(天皇の罪穢を)祓い棄てる・儀式」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「ア(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「アガ」となった)

の転訛と解します。

252H2物部文連全敷女(またしきめ)

 弘仁元年正月21日条(逸文)は、土佐国香美郡の人物部文連全敷女(またしきめ)は、夫の死後悲しみの泣き声を絶やさず、道を行く者に哀れの思いを起こさせた節婦として、官位を授け、戸の田租を終身免除したとします。

 この「またしきめ」は、

  「マタチキ・マイ」、MATATIKI-MAI(matatiki=spring of water;mai=dance)、「(涙が)泉のように湧いて出た・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

252H3高多仏(こうたふつ)・羽栗馬長(うまなが)・高庭高雄(たかにわのたかお)

 弘仁元年5月27日条(逸文)は、渤海使の首領(下級船員)の高多仏(こうたふつ)が脱走して越前国に残留したので、越中国に住まわせ、史生羽栗馬長(うまなが)と習語生らに渤海語を学習させることとしたとします。

 また、弘仁3年12月8日条は、高多仏に高庭高雄(たかにわのたかお)の姓名を賜ったとします。

 この「こうたふつ」、「うまなが」、「たかにわのたかお」は、

  「カウ・タフ・ツ」、KAU-TAHU-TU(kau=alone,only;tahu=lover;tu=stand,settle)、「単に・恋人が・(越前国に)居た(から残留した。船員)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  「ウマ(ン)ガ・(ン)ガ」、UMANGA-NGA(umanga=pursuit,occupation;nga=satisfied,breathe)、「仕事に・満足して(精勤している。史生)」(「ウマ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ウマナ」と、「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

  「タカ・ニワ・ノ・タカ・アウ」、TAKA-NIWHA-NO-TAKA-AU(taka=turn on a pivot,revolve;niwha=resolute,bravery;no=of;au=firm,intense)、「(渤海国へ帰らずに日本へ)勇気をもって・引き返した・その・引き返して・(日本に)しっかりと定着した(者)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

の転訛と解します。

252H4藤原朝臣仲成(なかなり)・上毛野朝臣穎人(ひでひと)・文室朝臣綿(わた)麻呂・藤原朝臣葛野(かどの)麻呂・藤原朝臣真雄(まかつ)

 弘仁元年9月10日条は、伊勢・近江・美濃三国に使を派遣し、国府・故関を固めるとともに、右兵衛督従四位上藤原朝臣仲成(なかなり)を右兵衛府に拘留したとします。また、詔して尚侍正三位藤原朝臣薬子の官職を解いて宮中から追放、藤原朝臣仲成を佐渡国権守に左遷したとします。

 同月11日条は、大外記外従五位下上毛野朝臣穎人(ひでひと)が平城宮から急行して「平城太上天皇が今朝早く川口道から東国へ向かおうとしています。平城宮の諸司・宿衛の兵士はみな随従しています。」と報告したので、大納言正三位坂上大宿禰田村麻呂に、田村麻呂の進言によりさきに平城宮から呼び寄せられて拘留されていた従四位下文室朝臣綿(わた)麻呂を正四位上参議に任じて添えて派遣し、太上天皇の一行を邀撃させることとしたとします。また、同日夜、仲成を射殺したとします。

 同月12日条は、中納言藤原朝臣葛野(かどの)麻呂と左馬頭藤原朝臣真雄(まかつ)の諫止を退けて出発した太上天皇が大和国添上郡越田村まできて進路が封鎖されていると聞き、平城宮に戻り、髪を剃つて僧体となり、天皇の輿に同乗していた薬子は自殺したとします。

 この「なかなり」、「ひでひと」、「わた」、「かどの」、「まかつ」は、

  「ナ・カハ・(ン)ガリ」、NA-KAHA-NGARI(na=by,belonging to;kaha=strong,strength,persistency;ngari=annoyance,disturbance)、「長く・大きな・災いとなった(朝臣)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「ヒテ(ン)ギ・ピト」、HITENGI-PITO(hitengi=hop on one foot;pito=at first)、「(片足で跳ねるように)急いで走ってきて・最初に(急を告げた。朝臣)」(「ヒテ(ン)ギ」の語尾のNGI音が脱落して「ヒテ」から「ヒデ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「ワタ」、WHATA(elevate,support,be suspended)、「(一時は迷っていたが、高位を与えられて、遂に田村麻呂を)応援した(朝臣)」

  「カハ・トノ」、KAHA-TONO(kaha=strong,strength;tono=bid,command,demand)、「(太上天皇が平城宮に止まるよう)強く・請願した(朝臣)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

  「マカチチ」、MAKATITI(split with a wedge,fasten with a peg or pin)、「(太上天皇を平城宮に)引き止めようとした(朝臣)」(反復語尾の「チ」が脱落して「マカチ」から「マカツ」となった)

の転訛と解します。

252H5阿倍朝臣清継(きよつぐ)・百済王愛筌(あいせん)・登美真人藤津(ふじつ)・紀朝臣南(みなみ)麻呂

 弘仁元年9月17日条は、越前介従五位下阿倍朝臣清継(きよつぐ)と越前権少掾百済王愛筌(あいせん)は平城太上天皇が伊勢国へ発進したことを聞いて兵を動員してこれに応じ、新任の越前介従五位下登美真人藤津(ふじつ)を捕らえて事務の引き継ぎをしなかったので、民部少輔従五位下紀朝臣南(みなみ)麻呂を派遣して糾明し、清継等は死罪を軽減して遠流としたとします。

 この「きよつぐ」、「あいせん」、「ふじつ」、「みなみ」は、

  「キオ・ツ・(ン)グ」、KIO-TU-NGU((Hawaii)kio=projection,to protrude;tu=stand,settle;ngu=moan,groan)、「暴発して・後悔・した(朝臣)」(「キオ」が「キヨ」と、「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)

  「アイ・テネ」、AI-TENE(ai=denoting an action or state consequent upon some previous action;tene=be importunate(whakatenetene=annoy,provoke,quarrel))、「(太上天皇起つの報に)呼応して・反抗した(王)」(「テネ」が「テン」から「セン」となった)

  「フチ・ツ」、HUTI-TU(huti=hoist;tu=stand,settle)、「(高い地位に)引き上げられて・いる(真人)」

  「ミナ・ミヒ」、MINA-MIHi(mina=desire;mihi=sigh for,greet,show itself of affection)、「(罪人の)懺悔を・求めた(それによつて減刑を進言した。朝臣)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

252H6石川朝臣難波(なにわ)麻呂

 弘仁2年正月17日条は、去る霊亀年中に常陸国守従四位上石川朝臣難波(なにわ)麻呂がはじめて五万束の稲の出挙の利稲をもって調を京へ輸送する脚夫の路粮に充てることとしたのを主税寮が違法として停廃したが、良い制度なので旧に復せと勅したとします。

 この「なにわ」は、

  「(ン)ガ(ン)ギ・ワ」、NGANGI-WA(ngangi=cry of distress,noise;wa=definite space,be far advanced)、「非常に進歩した・(脚夫の苦労の)嘆き(を解決するため)の対策(を立てた。朝臣)」(「(ン)ガ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「ナニ」となった)

の転訛と解します。

252H7大伴宿禰今人(いまひと)・河原連広法(ひろのり)

 弘仁2年3月20日条は、蝦夷の掃討作戦において出羽守従五位下大伴宿禰今人(いまひと)が雪中の奇襲作戦を行って輝かしい軍功をあげ、また、今人は以前備□守のときにも、掾正六位上河原連広法(ひろのり)と協議して大渠を開削し、水利に悩んでいた百姓から大きな賞賛を受けたとします。

 この「いまひと」、「ひろのり」は、

  「イ・ムア・ピト」、I-MUA-PITO(i=past tense,beside,at,by,from;mua=the front,in front,before;pito=end,extremity)、「極めて・前へ前へと(敏速に)・行動する(宿禰)」(「ムア」が「マ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「ヒロウ・(ン)ゴリ」、HIROU-NGORI(hirou=rake,net for dredging shellfish;ngori=weak,listless)、「(水利の)不便な場所を・探し集めた(連)」(「ヒロウ」が「ヒロ」と、「(ン)ゴリ」のNG音がN音に変化して「ノリ」となった)

の転訛と解します。

252H8泰仙(たいせん)・阿牟(あむ)公人足(ひとたり)

 弘仁2年3月25日条は、工作技術が巧みな大安寺の僧泰仙(たいせん)に漏刻の製作を命じ、長期間かけて完成し、天皇がその巧みなことを喜び、還俗した阿牟(あむ)公人足(ひとたり)に外従五位下を授けたとします。しかし、この漏刻は不正確で、時計として用をなさなかったとあります。

 この「たいせん」、「あむ」、「ひとたり」は、

  「タイ・テネ」、TAI-TENE(tai=a term of address to males or females;tene=be importunate)、「(工作に)熱中する(僧)」(「テネ」が「テン」から「セン」となった)

  「アム」、AMU(grumble,complain)、「(完成の遅延、また完成品の不良に)クレームが付いた(男)」

  「ピト・タリ」、PITO-TARI(pito=end,extremity;tari=carry,urge,wait,expect)、「極めて・(注文主を)待たせた(男)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

252H9邑良志閉(おらしべ)村・吉弥候部都留岐(つるき)・爾薩体(にさちて)村・伊加古(いかこ)・都母(つも)村・幣伊(へい)村

 弘仁2年7月29日条は、出羽国が奏上して、邑良志閉(おらしべ)村の帰降した夷の吉弥候部都留岐(つるき)が、爾薩体(にさちて)村の夷伊加古(いかこ)らと長年敵対してきましたが、今伊加古らは軍備を整え、都母(つも)村に住んで幣伊(へい)村の夷を誘って攻め込もうとしていますので、兵粮を頂いて先制攻撃をしたいとおもいます」と願ってきたので米を支給したいと奏上があったのでこれを許したとします。

 この「おらしべ」、「つるき」、「にさちて」、「いかこ」、「つも」、「へい」は、

  「オラ・チペ」、ORA-TIPAE(ora=alive,well,safe,slave;tipae=lie to one side,lie across)、「こちら側の・安全な(村)」

  「ツルキ」、TURUKI(grow up in addition as the sucker of a tree etc.,travel by short stages,reinfoece)、「(戦力の)増強(を願っている。夷)」

  「ニヒ・タ・チテイ」、NIHI-TA-TITEI(nihi=steep,move stealthly;ta=dash,beat,lay;titei=spy)、「スパイが・密かに・(内情を)探っている(村)」(「ニヒ」のH音が脱落して「ニ」となった)

  「イカ・コ」、IKA-KO(ika=warrior,victim;ko=addressing to males and females)、「戦士・野郎」

  「ツマウ」、TUMAU(fixed,contininuous,slave)、「(敵に)ずっと従っている(村)」(AU音がO音に変化して「ツモ」となった)

  「ヘイ」、HEI(tie round the neck,be bound)、「(敵に)首根っこを押さえられている(村)」

の転訛と解します。

252H10壬生公郡守(こほりもり)

 弘仁4年2月14日条は、上野国甘楽郡の大領外従七位下壬生公郡守(こほりもり)が戸口を増益し、民が懐いていることにより、特に外従六位下を授けたとします。

 この「こほりもり」は、

  「カウハウ・リ・モリ」、KAUHAU-RI-MORI(kauhau=recite,proclaim,declare aloud;ri=screen,protect,bind;mori=fondle,caress)、「(命令を)声高らかに宣言する・(砦。役所。その役所が支配する)地域(=郡)・(の住民を)慈しんで治める(公)」(「カウハウ」のAU音がO音に変化して「コホ」となった)

の転訛と解します。

252H11遠胆沢公母志(もし)・荒橿(あらかし)の乱・吉弥候部高来(たかき)・吉弥候部年子(としね)

 弘仁5年2月10日条(逸文)は、夷第一等遠胆沢公母志(もし)に出雲の荒橿(あらかし)の乱を討伐した功績により外従五位下を授けたとします。

 同月15日条(逸文)は、出雲国の俘囚吉弥候部高来(たかき)と吉弥候部年子(としね)に荒橿の乱に遭遇して妻子を害されたことにより各稲三百束を賜つたとします。

 この「もし」、「あらかし」、「たかき」、「としね」は、

  「モチ」、MOTI(consumed(whakamoti=destroy,extirpate))、「(賊を)絶滅した(公)」

  「アラ・カチ」、ARA-KATI(ara=rise up,raise;kati=block up,shut of a passage)、「蜂起して・路を塞いだ(賊)」

  「タカ・キ」、TAKA-KI(taka=fall off,fall away;ki=full,very)、「多数が・打ち倒された(者)」

  「タウチネイ」、TAUTINEI(hold up or support a weak person)、「(老人・子供の)弱者を世話していた(者)」(AU音がO音に変化し、語尾のI音が脱落して「トシネ」となった)

の転訛と解します。

252H12吉備朝臣泉(いずみ

 弘仁5年閏7月8日条は、散位正四位上吉備朝臣泉(いずみ)が死去した、泉は右大臣従二位真備の子で、生まれつき度量が狭く短気で、反抗的な態度をとることが多く、伊豫守を免職になり、佐渡権守を経て蟄居の後、大同のはじめに観察使となったが、性格は老いてもかわらなかったとします。

 この「いずみ」は、

  「イツ・ミヒ」、ITU-MIHI(itu=side;mihi=sigh for,greet,acknowledge an obligation)、「謙虚さを・棄てた(傲慢な性格の。朝臣)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

252H13日下部土方(ひじかた)

 弘仁5年8月21日条は、囚人日下部土方(ひじかた)は銭を私鋳して下獄していたが、堀川の改修に使役したところ、たいへん土木技術にすぐれていたので、これを免して木工長上に任じたとします。

 この「ひじかた」は、

  「ヒ・チカ・タ」、HI-TIKA-TA(hi=raise,rise;tika=straight,correct(whakatika=straighten oneself);ta=stand,settle)、「(心を)正しく・入れ替えて・(身分を)引き上げられた(男)」

の転訛と解します。

252H14布古伊(ふこい)・波古知(はこち)・清石珍(せいせきちん)・金男昌(きんだんしょう)・遠山知(えんさんち)

 弘仁5年8月23日条は、帰化した新羅人加羅布古伊(ふこい)ら六人を美濃国に住まわせることとしたとします。

 同年10月27日条は、太宰府が「新羅人辛波古知(はこち)ら22人が遠方から日本の教化を慕い帰化したいと筑前国博多津に漂着しました」と言上したとします。

 同7年10月13日条(逸文)は、太宰府が「新羅人清石珍(せいせきちん)ら180人が帰化してきました」と言上してきたので、時服と食料を与えて幸便の船で入京させよと指示したとします。

 同8年2月15日条(逸文)は、太宰府が「新羅人金男昌(きんだんしょう)ら43人が帰化してきました」と言上してきたとします。

 同8年4月22日条(逸文)は、太宰府が「新羅人遠山知(えんさんち)ら144人が帰化してきました」と言上してきたとします。

 この「ふこい」、「はこち」、「せいせきちん」、「きんだんしょう」、「えんさんち」は、

  「フ・コイ」、HU-KOI(hu=desire,resound;koi=move about,good,suitable)、「(どこか)良い土地に住むことを・希望する(者)」

  「ハハ・コチ」、HAHA-KOTI(haha=seek,look for;koti=cut in two,divide)、「(故郷と)絶縁して・(新天地を)探し求める(者)」(「ハハ」の反復語尾が脱落して「ハ」となった)

  「タイ・テキ・チ(ン)ガ」、TAI-TEKI-TINA(tai=the sea,the coast,tide,wave;teki=graze,drift with the anchor down but not touching the bottom;tinga=likely)、「大海に・錨を中途に垂らして・(漂流している)ような(者)」(「チ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「チナ」から「チン」となった)

  「キナ・タ(ン)ガ・チオ」、KINA-TANGA-TIO(kina=sea-urchin;tanga=be assembled,row,division;tio=rock-oyster,cry)、「(岩牡蠣のような)ぼろを着た・雲丹の・仲間のような(者)」(「キナ」が「キン」と、「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「ダン」と、「チオ」が「ショウ」となった)

  「エ(ン)ガ・タ(ン)ガ・チ」、ENGA-TANGA-TI(enga=anxiety;tanga=be assembled;ti=throw,cast,overcome)、「たくさんの・不安に・打ちひしがれている(者)」(「エ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「エナ」から「エン」と、「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」カラ「タン」、「サン」となった)

の転訛と解します。

252H15大伴宿禰黒成(くろなり)・多治比真人清雄(きよお)・和邇部臣真継(まつぐ)・藤原朝臣鷹養(たかかい)・上村主乎加豆良(おかつら)

 弘仁6年2月9日条は、越中国介正六位上大伴宿禰黒成(くろなり)・掾正六位上多治比真人清雄(きよお)・少目従七位下和邇部臣真継(まつぐ)らを官有の財物を盗んだ罪で免職とし、越中守従五位上藤原朝臣鷹養(たかかい)・大目正六位上上村主乎加豆良(おかつら)は死去したため罪に問わなかったとします。

 この「くろなり」、「きよお」、「まつぐ」、「たかかい」、「おかつら」は、

  「クフ・ロ・(ン)ガリ」、KUHU-RO-NGARI(kuhu=insert,conceal;ro=roto=inside;ngari=annoyance,disturbance)、「(心の)中に・(人を)害する悪を・秘めている(朝臣)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「キオ・ワウ」、KIO-WAU((Hawaii)kio=projection,to protrude;wau,wawau=quarrel,foolish)、「たいへん・議論好きな(または愚かな。真人)」(「キオ」が「キヨ」と、「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」となった)

  「マハ・ツ・(ン)グ」、MAHA-TU-NGU(maha=many;tu=stand,settle;ngu=moan,groan)、「深く・後悔・した(臣)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「(ン)グ」のNG音がN音に変化して「グ」となった)

  「タカ・カイ」、TAKA-KAI(taka=heap,lie in a heap;kai=consume,eat)、「(高い)名誉ある地位を・失った(朝臣)」

  「ワウ・カハ・ツラ」、WAU-KAHA-TURA(wau,wawau=quarrel,foolish;kaha=strong,strength;tura,turatura=molest,spiteful)、「議論好きで・たいへん・(人を)悩ます(臣)」(「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」と、「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

252H16賀陽朝臣豊年(とよとし)

 弘仁6年6月27日条は、播磨守贈正四位下賀陽朝臣豊年(とよとし)が死去したが、豊年は、右京の人で、儒教の教典と史書に通じ、学殖は釈道融・御船王を凌ぐといわれ、操を立てて信義を守り、怖じ恐れるところがなく、知人以外は交際することを好まず、平城太上天皇の伊勢遷幸に随行せず、式部大輔の職を辞したとします。

 この「とよとし」は、

  「トイ・アウ・トチ」、TOI-AU-TOTI(toi=summit,origin;au=firm,fast;toti=limp,halt)、「(学殖は)天下第一で・信義に厚く・広く交際しようとはしなかった(朝臣)」(「トイ」の語尾のI音と「アウ」のAU音がO音に変化したそのO音が連結して「トヨ」となった)

の転訛と解します。

252H17勇山(いさやま)連文継(ふみつぐ)

 弘仁7年6月15日条(逸文)は、外従五位下勇山(いさやま)連文継(ふみつぐ)が天皇に『史記』を教授し終わったので、従五位下を授けたとします。

 この「いさやま」、「ふみつぐ」は、

  「イ・タイア・マハ」、I-TAIA-MAHA(i=past tense,ferment,be stired;taia=by and by;maha=many)、「逐次・大部(の史書)の・(講義を)終えた(連)」(「タイア」が「タヤ」から「サヤ」と、「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「フ・ミ・ツ(ン)グ」、HU-MI-TUNGU(hu=resound,tenor or drift of a speech;mi=urine,stream;tungu=kindle)、「言葉が・流れ出すもの(文、書籍)を・(照らす。解説する)講義した(連)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

の転訛と解します。

252H18大中臣朝臣清持(きよもち)

 弘仁7年6月22日条(逸文)は、伊勢大神宮司従七位下大中臣朝臣清持(きよもち)は忌を守らず、仏事を行い、神祇官で卜占すると祟りがあることが判明したので、大祓えを科し、現職を解任したとします。

 この「きよもち」は、

  「キオ・モチ」、KIO-MOTI((Hawaii)kio=projection,to excrete;moti=consumed,scarce)、「(規則を)ないがしろにして・解任された(朝臣)」(「キオ」が「キヨ」となった)

の転訛と解します。

252H19大中臣朝臣井作(いつくり)・久米部当人(まさひと)・物部中原宿禰敏久(みにく)

 弘仁7年8月23日条(逸文)は、公卿から奏上があり、上総国夷隅郡の正倉の火災に関し、検焼損使散位正六位上大中臣朝臣井作(いつくり)の判断は、税長久米部当人(まさひと)が失火時に逃亡して自殺したのは盗みを隠すためであつたとし、また外従五位下守大判事物部中原宿禰敏久(みにく)は、新任の国司らが損失を填補すべきであるとしますが、印鑰受領後十数日後の火災であり、新任の国司に責を負わすべきではないと裁可したとします。

 この「いつくり」、「まさひと」、「みにく」は、

  「イ・ツク・ウリ」、I-TUKU-URI(i=past tense;tuku=let go,send,catch in a net;uri=dark)、「(怪しい)被疑者を・捕らえ・た(朝臣)」(「ツク」の語尾のU音と「ウリ」の語頭のU音が連結して「ツクリ」となった)

  「マタ・ヒタウ」、MATA-HITAU(mata=heap,receptacle packed with preserved fish or birds or fern root;hitau=short peticoat or apron)、「貯蔵品(稲)を・管理する(前掛けを付けた者。税長)」(「ヒタウ」のAU音がO音に変化して「ヒト」となった)

  「ミ(ン)ギ・クフ」、MINGI-KUHU(mingi=curly,twisted of timber etc.;kuhu=insert,cobceal)、「曲がりくねった(論理を)・内蔵する(判事)」(「ミ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「ミニ」と、「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

の転訛と解します。

252H20長野(ながの)女王・出雲家刀自女(いえとじめ)・船延福女(のぶふくめ)

 弘仁8年5月27日条(逸文)は、内教坊の同室の女儒長野(ながの)女王と出雲家刀自女(いえとじめ)が後からころがりこんできた船延福女(のぶふくめ)の所有する衣類を奪おうと共謀して延福女を殺し、顔皮を剥いで宮の外へ棄てた罪で伊豆国へ配流したとします。

 この「ながの」、「いえとじめ」、「のぶふくめ」は、

  「(ン)ガ(ン)ガ・(ンガウ)」、NGANGA-NGAU(nganga=breathe heavily or difficulty;ngau=bite,hurt,attack)、「息を切らしながら・殺害した(女王)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」と、「(ンガウ)」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「イ・ヘ・タウチマイ」、I-HE-TAUTIMAI(i=past tense,he=wrong,error,mistake;tautimai=welcome!,come)、「間違った(悪事を)・受け入れて・しまった(女)」(「タウチマイ」のAU音がO音に、AI音がE音に変化して「トチメ」から「トジメ」となった)

  「ナウ・プ・フク・マイ」、NAU-PU-HUKU-MAI(nau=go,come;pu=tribe,bundle;huku=tail;mai=dance)、「(同室の)仲間に・入り込んで・その尻尾についた・女」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

252H21吉弥候部等波醜(とはしこ)・小野朝臣岑守(みねもり)・吉弥候部於夜志閉(おやしべ)

 弘仁8年7月5日条(逸文)は、陸奥国が俘吉弥候部等波醜(とはしこ)が帰順したと報告してきたので、天皇は守小野朝臣岑守(みねもり)らの努力を賞したとします。

 同年9月20日条(逸文)は、陸奥国が言上して、反乱を起こした俘囚吉弥候部於夜志閉(おやしべ)らの仲間61人を捕らえたが、城下に留め置きその妻子を呼び寄せることとしたいと要望し、これを許可したとします。

 この「とはしこ」、「みねもり」、「おやしべ」は、

  「トハ・チコ」、TOHA-TIKO(toha=spread out;tiko=settled upon as by frost,stand out,protrude)、「(あちこちに)分散して・突出した(目障りな存在であった。者)」

  「ミネ・モリ」、MINE-MORI(mine=be assembled;mori=fondle,caress)、「慈しみ、教化(の努力を)・重ねてきた(国守)」

  「アウ・イア・チパエ」、AU-IA-TIPAE(au=firm,fast;ia=indeed;tipae=lie to one side)、「実に・しっかりと・こちら側に付いた(俘囚)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」と、「チパエ」のAE音がE音に変化して「チペ」カラ「シベ」となった)

の転訛と解します。

252H22上村主乙守(おともり)・上村主豊田(とよた)麻呂

 弘仁10年7月28日条(逸文)は、正六位上上村主乙守(おともり)の息子豊田(とよた)麻呂が蝉歌(せんか)が巧みなことに悦んだ天皇が外従五位下を授けたところ、豊田麻呂がそれを父に譲ったとします。

 この「おともり」、「とよた」は、

  「アウト・モリ」、AUTO-MORI(auto=trailing behind,slow,protract;mori=fondle,caress)、「遅くまで(子が大きくなっても)・可愛がった(男)」(「アウト」のAU音がO音に変化しテ「オト」となった)

  「トイ・アウタ」、TOI-AUTA(toi=tip,finger,move quickly;auta=toss,writhe)、「(官位を)すぐに・(父へ)回した(譲った。男)」(「トイ」のI音と「アウタ」のAU音がO音に変化したそのO音と連結して「トヨタ」となった)

の転訛と解します。

252H23吉弥候部欠奈閉(かけなべ)・吉弥候部小槻(おづき)麻呂

 弘仁11年6月11日条(逸文)は、因幡国の俘囚吉弥候部欠奈閉(かけなべ)ら6人を百姓の牛馬を盗んだ罪で土佐国へ配流したとします。

 同13年9月26日条(逸文)は、常陸国が言上して「俘囚吉弥候部小槻(おづき)麻呂が朝廷に帰順して20年がたち、風化に順応して生計をたてることができるようになったので、公戸の民に編入して永く課役を負担することを要望します」と申し出たので、公戸に編入するが、課役は徴収しないと勅したとします。

 この「かけなべ」、「おづき」は、

  「カカイ・ナナペ」、KAKAI-NANAPE(kakai=frequentative;nanape=disturb)、「しばしば・悪事(百姓の農耕を妨害)をした(俘囚)」(「カカイ」のAI音がE音に変化して「カケ」と、「ナナペ」の反復語頭が脱落して「ナペ」から「ナベ」となった)

  「ホツ・ウキ」、HOTU-UKI(hotu=sob,desire eagerly;uki=distant times past or future)、「(今後)長く・(公戸の民に編入されることを)強く願った(俘囚)」(「ホツ」のH音が脱落し、語尾のU音と「ウキ」の語頭のU音が連結して「オツキ」から「オヅキ」となった)

の転訛と解します。

252H24三村部黒刀自(くろとじ)・吉弥候部道足女(みちたりめ)

 弘仁12年4月5日条(逸文)は、常陸国筑波郡の人三村部黒刀自(くろとじ)が一度に一男二女を産んだので稲三百束を賜ったとします。

 同14年3月19日条(逸文)は、下野国芳賀郡の人吉弥候部道足女(みちたりめ)が夫同郡少領下野公豊継の死後再婚せず、常に墓の側で哭声を絶やさなかったので、少初位上を授け、終身田租を免除して褒賞することとしたとします。

 この「くろとじ」、「みちたりめ」は、

  「クロ・タウチチ」、KULO-TAUTITI((Hawaii)kulo=to wait a long time;tautiti=support an invalid in waking)、「(お産が終わって)赤子を世話するのに・長く待たせた(難産だった。女)」(「タウチチ」のAU音がO音に変化し、反復語尾が脱落して「トチ」から「トジ」となった)

  「ミヒ・チ・タリ・マイ」、MIHI-TI-TARI-MAI(mihi=sigh for,greet;ti=throw,cast;tari=carry,urge;mai=dance)、「嘆き悲しむ(声を)・上げ・続けた・女」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

252H25藤原朝臣縵(かずら)麻呂

 弘仁12年9月21日条(逸文)は、従四位下藤原朝臣縵(かずら)麻呂が死去したが、縵麻呂は贈太政大臣正一位種継の二男で、生まれつき愚鈍で、事務能力がなく、大臣の子孫ということで内外の官を経歴したが、名声を上げることはなく、ただ酒色のみ好み、他のことに思いをいたすことはなかったとします。

 この「かずら」は、

  「カ・ツラ(ン)ガ」、KA-TURANGA(ka=to denote the commencement of a new action or condition;turanga=in disorder,perplexed,fatigued)、「(人を)悩ます・ばかりの(朝臣)」(「ツラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ツラ」から「ズラ」となった)

の転訛と解します。

[253淳和天皇]

253A日本根子天高譲弥遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)尊・淳和天皇・西院帝(さいいんのみかど)

 桓武天皇の第5皇子(『文徳天皇実録』仁寿3年6月条250F3葛原親王薨伝に桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄とあることなどから推定しました。笠原英彦『歴代天皇総覧』(中公新書)に第3皇子とするのは誤りです。)の250F5大伴(おほとも)親王で、母は250E4藤原朝臣旅子(たびこ)です。

 弘仁元年薬子の変により252嵯峨天皇の皇太子であった251平城天皇の第3皇子の高丘親王が廃太子となったのを受けて立太子し、同14年4月嵯峨天皇の譲位により即位しました。

 天皇は、謙譲、温厚で、兄上皇と円満な関係を保ち、勘解由使・巡察使を派遣し、良吏を積極的に登用するなどの政策を行われ、『日本後紀』、『令義解』の編纂が行われています。

 天長10年皇太子である嵯峨天皇の第1皇子、正良(まさら)親王(254仁明天皇)に譲位し、承和7年に崩御しました。

 なお、森鴎外『帝謚考』は「淳和」を在所号とし、『続後紀』承和7年5月条は国風諡号を「日本根子天高譲弥遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)尊」とします。

 この「おほとも」、「やまとねこあめたかゆずるいやとお」は、

  「オホ・トモ」、OHO-TOMO(oho=spring up,wake up,arise;tomo=be filled,pass in,enter,begin,assault)、「(薬子の変により廃された高丘親王に代わって皇太子に立てられて)びっくりして立ち上がって・(皇太子の地位に)就いた(親王)」

  「イア・マト・ネイ・コ・アマイ・タカイ・ウツ・ル・イア・トフ」、IA-MATO-NEI-KO-AMAI-TAKAI-UTU-RU-IA-TOHU(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls;amai=swell on the sea,giddy,dizzy;takai=wrap up,wind round;utu=return for anything,satisfaction,reward,make response;ru=shake,agitate,scatter;ia=indeed,current;tohu=mark,company or divosion of any army,point out(tohunga=skilled person,priest))、「実に・深い湿地がある(大和国の)・(世の中を揺るがす)騒ぎを引き起こした(嵯峨天皇に続き自らの皇子がありながら先帝の皇子を皇太子とし、散骨という希代の薄葬を厳命した)・光り輝いた・(勘解由使・巡察使を派遣し、良吏を積極的に登用するなどの改革を行って)実に・官僚群を・まとめ上げ・志気を・鼓舞した(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「タカイ」の語尾のI音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「タカユツ」と、「トフ」のH音が脱落して「トウ」となった)

の転訛と解します。

 

253B平安(へいあん)宮・淳和(じゅんな)院

 弘仁14年4月13日条は、皇太弟(250F5大伴親王)が譲位を受けて天子となったとし、同月18日東宮を出て内裏に遷御し、252B平安宮をそのまま宮としました。

 天長10年2月24日条(逸文)は、天皇が譲位のため西院に遷御したとし、同月28日条(逸文)は淳和院(西院。南池院と同じとされます)において皇太子に譲位したとし、淳和(じゅんな)院を後院(上皇御所)としました。なお、森鴎外『帝謚考』は追号「淳和(じゅんな)」を漢風謚号ではなく、在所号とします。

 この「じゅんな」は、

  「チウ(ン)ガ」、TIUNGA(=tiu=soar,wander,swing)、「(林泉の間を)逍遙する(場所。後院)」(NG音がN音に変化して「チウナ」から「ジュンナ」となった)

の転訛と解します。

253C1日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇

 父は250A日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇(250A桓武天皇)の項を参照してください。

253C2藤原旅子(たびこ)

 母は250E4藤原朝臣旅子(たびこ)の項を参照してください。

253D1安殿(あて)親王から朝原(あさはら)内親王まで

 兄弟姉妹は、250F1安殿親王から250F7朝原内親王までの項を参照してください。

253E1高志(こし)内親王

 桓武天皇の皇女250F6高志(こし)内親王、250F1安殿(あての)親王(251平城天皇)および250F4神野(かみの)親王(252嵯峨天皇)の同母妹で、母は250E1藤原乙牟漏(おとむろ)です。

 延暦20年加笄の儀を経て、異母兄の250F5大伴(おほとも)親王(253淳和天皇)の妃となり、253F1恒世親王、253F3氏子内親王、有子内親王、貞子内親王等を生みましたが、大同4年5月に21歳で没し、一品を贈られ、弘仁14年6月淳和天皇の即位後皇后を追贈されました。

 この「こし」は、

  「コチ」、KOTI(spurt out,come into bloom of plants)、「花が咲いたような(美しい。内親王)」

の転訛と解します。

252E2正(まさ)子内親王

 嵯峨天皇の皇女252F3正(まさ)子内親王、母は252E2橘朝臣嘉智子(壇林皇后)です。

 弘仁14年ごろ叔父253A淳和天皇に入内し、天長4年皇后に立てられ、同10年淳和天皇退位とともに皇太后となり、第二皇子253F2恒貞親王が254A仁明天皇の皇太子に立てられます。承和7年淳和上皇の崩御とともに落飾、同9年承和の変により恒貞親王が廃太子、出家、仁寿4年太皇太后、元慶3年に崩御しました。容貌美しく、しとやかな優しい女性で母の徳もよく備えていたと伝えられ、承和の変ではその陰謀の影にいた母嘉智子太皇太后を激しく泣いて恨んだとします(『日本三代実録』)。その後は父嵯峨上皇の旧宮嵯峨院を大覚寺に改め、僧尼のための医療施設の済治院の設置、淳和院を仏教の道場にするなどに努めました。

 この「まさこ」は、

  「マタ・コ」、MATA-KO(mata=face,eye;ko=girl)、「顔が際だつ(て美しい)・女子(内親王)」

の転訛と解します。

253F1恒世(つねよ)親王

 淳和天皇の第一皇子、母は贈皇后253E1高志(こし)内親王です。

 延暦24年に生まれ、大同4年4歳にして母253E1高志(こし)内親王を失い、弘仁14年4月皇位を譲られた淳和天皇が侍従従四位下恒世親王を皇太子としますが親王が上表を提出して固辞したので、252F1正良(まさら)親王が皇太子となりました。天長3年5月1日条(逸文)は、三品恒世親王が21歳の若さで死去し、天皇はたいへん悲しんで長期間政務を行わなかったとします。

 この「つねよ」は、

  「ツ(ン)ゲヘ・イオ」、TUNGEHE-IO(tungehe=quail,be alarmed;io=tough,hard,obstinate)、「皇太子(となること)にひるんで・強情(に拒否)を通した(親王)」(「ツ(ン)ゲヘ」のNG音がN音に変化し、H音が脱落して「ツネ」となった)

の転訛と解します。

253F2恒貞(つねさだ)親王・法名恒寂

 淳和天皇の第二皇子、母は252E2正(まさ)子内親王です。

 天長2年に生まれ、同3年253F1恒世(つねよ)親王の死去により淳和天皇の後継者となり、同10年2月淳和天皇から譲位を受けた仁明天皇が即位すると皇太子に立てられます。(この立太子については、淳和上皇・恒貞親王は度々辞退しますが、嵯峨上皇・仁明天皇に慰留されます。)

 淳和上皇が崩御(承和7年5月)し、嵯峨上皇が崩御(承和9年7月15日)した直後、同月17日に発生した承和の変によって皇太子を廃されます。その後24歳で出家して法号を恒寂と称し、真如法親王から潅頂を受け、嵯峨大覚寺の初祖となりました。

 この「つねさだ」は、

  「ツ(ン)ゲヘ・タタハ」、TUNGEHE-TATAHA(tungehe=quail,be alarmed;tataha=swerve)、「皇太子(の地位が逸れていった)を廃されて・驚いた(親王)」(「ツ(ン)ゲヘ」のNG音がN音に変化し、H音が脱落して「ツネ」と、「タタハ」のH音が脱落して「タタ」から「サダ」となった)

の転訛と解します。

253F3氏子(うじこ)内親王

 淳和天皇の第一皇女、母は贈皇后253E1高志(こし)内親王です。

 弘仁14年6月伊勢斎宮に卜定され、天長元年8月野宮へ入り、翌2年9月伊勢へ向かいますが、翌3年5月同母兄の253F1恒世親王が死去、父淳和天皇の嘆きと同じく悲嘆に暮れたからか、同4年2月病のため退下し、その66年後(歴代の斎宮の中で退下後最も長生きしています)の仁和元年に死去します。 

 この「うじこ」は、

  「ウチ・コ」、UTI-KO(uti,utiuti=annoy,worry,fuss;ko=girl)、「(兄の死をひどく)悲しんだ・女性(内親王)」

の転訛と解します。

253G大原野西嶺上(おおはらのにしのみねのへ)陵

 遺詔により徹底した薄葬(散骨)が行なわれたため、陵の所在は長期にわたり不明となっており、『延喜式』に陵の記載はありません。後に『日本紀略』に承和7年5月に「山城国乙訓郡物集女村で火葬」し、遺詔により「骨を砕き粉と為し」、「大原野の西の嶺の上に」散骨したとあるところから、その場所を小塩山山頂に考定し、大原野西嶺上陵(京都市西京区大原野南春日町所在)とされました。

253H1吉弥候部井出(いで)麻呂

 弘仁14年5月5日条(逸文)は、甲斐国の賊の首領吉弥候部井出(いで)麻呂ら子供を含め男女13人を伊豆国へ配流したとします。

 この「いで」は、

  「ウイ・タイ」、WI-TAI(wi=tussock grass;tai=anger,rage,violence)、「(稗のような)野生の・暴虐な(賊の首領)」(「ウイ」が「ヰ」となった)

の転訛と解します。

253H2伴宿禰弥継(いやつぐ)・橘朝臣長谷(はせ)麻呂

 弘仁14年7月22日条(逸文)は、越後守従四位下伴宿禰弥継(いやつぐ)が死去したが、弥継は従三位伯麻呂の息子で、たいそう歩射に巧みで若いときから鷹犬を好み、邪悪な性格で人を射ることも憚らなかったが、のちに気持ちを改め、暴慢の評判はなくなったとします。

 天長元年2月9日条(逸文)は、弾正大弼従四位下橘朝臣長谷(はせ)麻呂が死去したが、長谷麻呂は兵部大輔正五位下嶋田麻呂の第二子で、若年で大学に学び、大いに『史記』と『漢書』を読み、穏やかな性格で、世間に逆らわず、裁判や刑の執行で法令に違反することがなかったとします。

 この「いやつぐ」、「はせ」は、

  「イア・ツ・(ン)グ」、IA-TU-NGU(ia=indeed;tu=stand,settle;ngu=moan,groan)、「実に・後悔の念に・駆られた(宿禰)」(「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)

  「ハタイ」、HATAI(mild weather)、「穏やかな(性格の。朝臣)」(AI音がE音に変化して「ハテ」から「ハセ」となった)

の転訛と解します。

253H3大村直諸縄(もろただ)

 天長元年4月28日条(逸文)は、丹波国の医師正七位下大村直諸縄(もろただ)に正税四百束を支給し、病の治療の費用に充てさせたとします。

 この「もろただ」は、

  「モロ・タタ」、MOLO-TATA((Hawaii)molo=to turn,spin,twist;tata=dash down,strike repeatedly)、「くるくると・走り回る(治療する。医師)」

の転訛と解します。

253H4公子部八代(やしろ)麻呂

 天長元年10月13日条(逸文)は、常陸国の俘囚公子部八代(やしろ)麻呂ら21人が課役を納入したいと請願したので許可したとします。

 この「やしろ」は、

  「イア・チラウ」、IA-TIRAU(ia=indeed;tirau=peg,stick,pick root crops etc. out of the ground)、「実に・(農作物の)収穫がある(俘囚)」(「チラウ」のAU音がO音に変化して「チロ」から「シロ」となった)

の転訛と解します。

253H5三村部吉成女(よしなりめ)・丈部子氏女(こうじめ)・舎人臣福長女(ふくながめ)・別公今虫売(いまむしめ)

 天長元年11月14日条(逸文)は、下野国の人三村部吉成女(よしなりめ)が、夫の主帳外大初位上軽部豊益の死後、常に墓を清掃して操を守り、再婚の気持がなかったので、位二級を授け、終身田租を免除してその節操を褒賞することとしたとします。

 同2年3月21日条(逸文)は、常陸国の人丈部子氏女(こうじめ)が、15歳で同郷の勲7等新治直軍と結婚し、18年後に夫が死ぬと、墳墓を清掃して朝夕悲しみの泣き声を上げ、多年を経て気持ちを変えなかったので、位二級を授け、終身田租を免除してその貞節を褒賞することとしたとします。

 同月22日条(逸文)は、筑前国の人舎人臣福長女(ふくながめ)が、一度に男子二人・女子一人を産んだので、稲四百束を下賜したとします。

 同年6月3日条(逸文)は、節婦の別公今虫売(いまむしめ)の節行を褒賞して終身その戸の田租を免除することとしたとします。

 この「よしなりめ」、「こうじめ」、「ふくながめ」、「いまむしめ」は、

  「イオ・チナ・リ・マイ」、IO-TINA-RI-MAI(io=lock of hair;tina=fixed,fast,firm;ri=screen,protect,bind;mai=dance)、「髷を・(既婚者の髷のまま)固く結って・(求婚の)防壁とした・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「カウ・ウチ・マイ」、KAU-UTI-MAI(kau=alone,only;uti=bite,annoy,worry;mai=dance)、「ただただ・(夫の死を)悲しんだ・女」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「プク・(ン)ガ(ン)ガ・マイ」、PUKU-NGANGA-MAI(puku=swelling,abdomen;nganga=breathe heavily or difficulty;mai=dance)、「膨らんだお腹で・苦しそうに息をした・(女)」(「プク」のP音がF音を経てH音に変化して「フク」と、「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「イ・ムア・アム・チ・マイ」、I-MUA-AMU-TI-MAI(i=past tense;mua=the front,before;amu=grumble,begrudge;ti=throw,cast;mai=dance)、「(夫が死んでから)ずっと・哀惜の念を・表し続けた・女」(「ムア」の語尾のUA音と「アム」の語頭のA音が連結してA音に変化して「マム」となった)

の転訛と解します。

253H6紀朝臣田上(たがみ)・紀朝臣長田(ながた)麻呂・佐味(さみ)親王・紀朝臣末成(すえなり)

 天長2年4月13日条(逸文)は、散位従四位下紀朝臣田上(たがみ)が死去したが、紀氏は武芸を家業とし、田上は華やかな才能で評判が立ち、相模守を勤めて、政務に従って民心を失うことがなかったが、薬子の乱に連座して佐渡権守となり、赦によって帰郷の後にわかに死去したとします。

 同年6月9日条(逸文)は、散位従四位上紀朝臣長田(ながた)麻呂が死去したが、長田麻呂は清貧に安んじて名利を求めることが無く、その周辺には清らかな雰囲気が漂っている人物であったとします。

 同年7月16日条(逸文)は、弾正尹四品佐味(さみ)親王が死去したが、親王は容姿や立居振舞いに優れ、はなはだ女性との情事を好んだが、淳和天皇の践祚の日に朝堂院に参列中急に倒れ、そのまま病床にあって死去したものとします。

 同年月日条(逸文)は、越前守従四位上紀朝臣末成(すえなり)が死去したが、末成は大納言正三位古佐美の第九子で、幼時から聡明で書籍を博覧し、20歳で仮に式部丞となり、以後伊予介、出雲・常陸・大和・越前守を歴任したが、名声には実が伴わなかったようで、長を切つて短を補うような辻褄合わせをするようなところがあったとします。

 この「たがみ」、「ながた」、「さみ」、「すえなり」は、

  「タ(ン)ガ・ミヒ」、TANGA-MIHI(tanga=bs assembled;mihi=sigh for,show itself of affections)、「(いろいろの)才能を・兼ね備えていた(朝臣)」(「タ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「タガ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「ナ・(ン)ガタ」、NA-NGATA(na=by,belonging to;ngata=appeased,satisfied,dry)、「あたりの(雰囲気を)・和ませる(朝臣)」(「(ン)ガタ」のNG音がG音に変化して「ガタ」となった)

  「タミ」、TAMI(press down,smother)、「(急に)倒れた(親王)」

  「ツアイ・(ン)ガリ」、TUAI-NGARI(tuai=thin,lean;ngari=annoyance,greatness,power)、「(実は行政)能力が・乏しかった(朝臣)」(「ツアイ」のAI音がE音に変化して「ツエ」から「スエ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。

253H7伊予部連真貞(まさだ)

 天長2年8月6日条(逸文)は、釈奠に伴い大学博士・学生らを紫宸殿に召して論議させ、身分に応じて物わ下賜したが、博士従五位下伊予部連真貞(まさだ)の論旨の展開と用語が優れていたので、直により次侍従に補任したとします。

 この「まさだ」は、

  「マタタ」、MATATA(carry on a litter,defend with a pad)、「(議論を輿を担ぐように)粛々と進めた(博士)」

の転訛と解します。

253H8石川朝臣継人(つぐひと)・安倍朝臣男笠(おがさ)・橘朝臣常主(つねぬし)・藤原朝臣冬嗣(ふゆつぐ)・安倍朝臣雄能(おの)麻呂・安倍朝臣真勝(まかつ)

 天長3年1月3日条(逸文)は、散位従四位上石川朝臣継人(つぐひと)が死去したが、継人は正四位下難波麻呂の孫、従四位上豊人の子で、質素な性格で飾り立てることがなく、悪評もなく好評もなかったとします。

 同年5月1日条(逸文)は、散位従四位上安倍朝臣男笠(おがさ)が死去したが、男笠は質素な性格で才学を欠き、職を内外の官に歴任し、善悪ともに聞くことがなかったが、鷹の調教では誰よりも優れ、桓武天皇の寵愛を受けていたとします。

 同年6月2日条(逸文)は、参議従四位下橘朝臣常主(つねぬし)が死去したが、「常主は薪を積みその上で焼死した」との噂が立ち、勅使が遣わされて調査を行ったとします。

 同年7月24日条(逸文)は、左大臣正二位兼行左近衛大将藤原朝臣冬嗣(ふゆつぐ)が死去したが、冬嗣は才能に優れ穏やかでゆつたりしていて、見識と度量を有し、文武の才があり、柔軟・寛容で多くの人に好かれたとします。

 同年8月2日条(逸文)は、従四位上安倍朝臣雄能(おの)麻呂が死去したが、雄能麻呂は従五位下憶宇麻呂の孫、因幡守従五位上人成の子で、はじめ鷹の調教を習得したが、他の才学はなく、高位高官となったのは幸運であったとします。

 同年9月6日条(逸文)は、伊予守従四位上安倍朝臣真勝(まかつ)が死去したが、真勝は大宰大監正六位上三綱の子で、陰陽頭、神祇伯、甲斐守・伊予守を歴任し、生まれつき質朴で、阿り媚びることを好まず、老荘の哲学を学び、その文章をよく口にしたがその内容はよく理解しておらず、歴任の職では寛静をもつて処したとします。

 この「つぐひと」、「おがさ」、「つねぬし」、「ふゆつぐ」、「おの」、「まかつ」は、

  「ツ・(ン)グ・ピト」、TU-NGU-PITO(tu=stand,settle;ngu=silent,groan;pito=end,extremity)、「たいそう・物静かで・あった(朝臣)」(「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「アウ(ン)ガ・タ」、AUNGA-TA(aunga=not including;ta=dash,beat,lay)、「(才学が)全くなくて・(朝廷に)席を得ていた」(「アウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「オガ」となった)

  「ツ(ン)ゲヘ・ヌイ・チ」、TUNGEHE-NUI-TI(tungehe=quail,be alarmed;nui=large,many;ti=throw,cast)、「(焼身自殺の実行にあたって)たいへん・躊躇・した(朝臣)」(「ツ(ン)ゲヘ」のNG音がN音に変化し、H音が脱落して「ツネ」と、「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

  「フイ・ウ・ツ(ン)グ」、HUI-U-TUNGU(hui=put or add together,meet,double up;u=be fixed,reach its limit;tungu=kindle)、「(才能と美徳を)ありつたけ・兼ね備え・輝いていた(朝臣)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「ワウ・ナウ」、WAU-NAU(wau=foolish,silly;nau=go,come)、「愚鈍で・(高位高官に)進んだ(朝臣)」(「ワウ・ナウ」のAU音がO音に変化して「ヲ・ノ」となった)

  「マカ・ツ」、MAKA-TU(maka=shy,wild,lithe,active;tu=stand,settle)、「内気で柔軟・だった(朝臣)」

の転訛と解します。

253H9難波部首子刀自売(ことじめ)・難波部安良売(あらめ)

 天長4年正月22日条(逸文)は、豊前国の人難波部首子刀自売(ことじめ)が18歳のとき下毛郡擬大領蕨野勝宮守の妻となつて20年後に夫が死んでから10年遠近の男の求婚を断り亡き夫を偲んで暮らしてきたので、節婦として戸の課役・伝租を終身免除することとしたとします。

 天長5年3月28日条(逸文)は、筑前国の人難波部安良売(あらめ)が父母の死後墓参を欠かさず、朝夕哀悼の意を示し、また、16歳のときに宗像郡大領外正七位宗形佐臣秋足と結婚し、夫の死後15年も遠近から求婚されたが死んでも再婚しないと誓ったその孝と節操は称賛すべきものとして、位二階を叙し、戸の田租を免除したとします。

 この「ことじめ」、「あらめ」は、

  「コト・ チ・マイ」、KOTO-TI-MAI(koto=sob,make a low sound;ti=throw,cast;mai=dance)、「忍び泣きを・する・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「アラ(ン)ガ・マイ」、ARANGA-MAI(aranga=rise to the surface,become famous;mai=dance)、「(孝と節操が堅固なことで)有名な・女」(「アラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「アラ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

253H10藤原朝臣伊勢人(いせひと)・佐伯宿禰清岑(きよみね)・勤操(ごんぞう)・下路真人年継(としつぐ)・藤原朝臣継彦(つぐひこ)・坂上大宿禰広野(ひろの)・伴宿禰国道(くにみち)

 天長4年3月13日条(逸文)は、散位従四位下藤原朝臣伊勢人(いせひと)が死去したが、伊勢人は贈太政大臣正一位武智麻呂の孫、参議従三位巨勢麻呂の第七子で、生まれつき几帳面な性格で、政務に熟練していたが、世間の実情に疎く寛容を欠き、下僚や友人は苦しんだとします。

 同年4月26日条(逸文)は、散位正四位下佐伯宿禰清岑(きよみね)が死去したが、清岑は従五位下男人の孫、従五位下人麻呂の子で、温顔で怒りを顔に出すことがなかったが、緩急の間で適切に処することははなはだ下手で、清廉は極め付き、地方官として悪い噂はなかったが、上野守・常陸守のとき出挙加増を行つて評判を落としたとします。

 同年5月8日条(逸文)は、贈僧正伝灯大法師位勤操(ごんぞう)が死去したが、勤操は秦氏、大和国高市郡の人で、母が賀龍寺に祈願し、夜明星が懐中に入るのを夢見て妊娠した子で、12歳で得度、16歳で深山に入って10余年にわたり修行したとします。

 同年6月24日条(逸文)は、尾張守従四位下下路真人年継(としつぐ)が死去したが、年継は従五位下野上の孫、正七位上正道の子で、地方官を歴任し、文才は欠いていたが、職務に精励して怠ることがなかったとします。

 天長5年2月26日条(逸文)は、従三位藤原朝臣継彦(つぐひこ)が死去したが、継彦は生まれつき聡敏で、識見と度量を有し、天文歴法に詳しく、笛や弦楽器に習熟していたとします。

 同年閏3月9日条(逸文)は、右兵衛督従四位下坂上大宿禰広野(ひろの)が死去したが、広野は大納言贈従二位田村麻呂の第二子で、若いときから武勇の評判をとったが、他に才芸はなく、節操は称賛に値したとします。

 同年11月12日条(逸文)は、参議従四位上伴宿禰国道(くにみち)が死去したが、国道は延暦4年に藤原種継暗殺事件の首謀者に問われた父継人に連座して佐渡国に配流されたが、佐渡の国政の良き助言・指導者となり、延暦24年に恩赦により帰京し、今年陸奥・出羽両国方面の機務に与るため赴任していたとします。

 この「いせひと」、「きよみね」、「ごんぞう」、「としつぐ」、「つぐひこ」、「ひろの」、「くにみち」は、

  「イ・タイヒ・ト」、I-TAIHI-TO(i=past tense;taihi=be split;to=drag)、「(下僚や友人の考えと)かけ離れた(考えで)・(人を)引きず・った(朝臣)」(「タイヒ」のAI音がE音に変化して「テヒ」から「セヒ」となった)

  「キオ・ミネ」、KIO-MINE((Hawaii)kio=projection,to protrude;mine=be assembled)、「(地方官として)突出した・点が多かった(朝臣)」

  「(ン)ゴ(ン)ゲ・タウ」、NGONGE-TAU(ngonge=consume,eat;tau=come to rest,settle down)、「(明星が)お腹に入って・宿った(子)」(「(ン)ゴ(ン)ゲ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゴネ」から「ゴン」と、「タウ」のAU音がOU音に変化して「トウ」から「ゾウ」となった)

  「トチ・ツ(ン)グ」、TO-TI-TUNGU(toti=limp.halt;tungu=kindle)、「(文才を欠き)歩みは遅かったが・輝いていた(真人)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「ツ(ン)グ・ヒコ」、TUNGU-HIKO(tungu=kindle;hiko=move at random or irregularly,flash as lightning,shine)、「(輝かしい)才能と徳性を持ち・あちこちの職を歴任した(朝臣)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「ヒ・ロ(ン)ゴ」、HI-RONGO(hi=rise,raise;rongo=hear,feel,smell)、「(武勇と節操が)高いと・評判をとった(宿禰)」(「ロ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ロノ」となった)

  「クニ・ミチ」、KUNI-MITI((Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle;miti=lick,lick up)、「(灯りをともす)国を・(なめた)指導下に置いた(宿禰)」

の転訛と解します。

253H11吉弥候部衣良由(えらゆ)・吉弥候部良佐閉(らさべ)・吉弥候部奥家(おくいえ)

 天長5年3月10日条(逸文)は、豊前国の俘囚吉弥候部衣良由(えらゆ)が百姓3360人に酒食を提供し、豊後国の俘囚吉弥候部良佐閉(らさべ)が稲964束を提供して百姓327人を援助したとして、衣良由を少初位下、良佐閉を従六位上に叙したとします。

 同年7月13日条(逸文)は、肥前国の人白丁吉弥候部奥家(おくいえ)が俘囚ではあるが朝廷の風化になじみ、命令に良く従い、公役につき怠ることなく官舎・地溝・道橋等を修造し、国司入部の日には礼儀をもって送迎する等その善行は称賛すべきものとして、少初位上に叙したとします。

 この「えらゆ」、「らさべ」、「おくいえ」は、

  「エラ(ン)ギ・ウ」、ERANGI-U(erangi=engari=it is better,but;u=be fixed,reach its limit)、「たいそう・良いことをした(俘囚)」(「エラ(ン)ギ」のNG音がN音に変化し、その語尾のI音と「ウ」のU音が連結して「エラニュ」から「エラユ」となった)

  「ラ・タパエ」、RA-TAPAE(ra=there;tapae=stack,present)、「(そこ)百姓に・贈った(俘囚)」(「タパエ」のAE音がE音に変化して「タペ」から「サペ」となった)

  「オ・クイ・エ」、O-KUI-E(o=the...of,belonging to;kui=weak,cowardly,stunted;e=at the end of the line or stanza without any particular meaning)、「たいそう・臆病な(白丁)」

の転訛と解します。

253H12大中臣朝臣春継(はるつぐ)・萩原(はぎはら)王・藤原朝臣全雄(またお)・飛鳥戸造福刀自売(ふくとじめ)

 天長5年閏3月27日条(逸文)は、大中臣朝臣春継(はるつぐ)を萩原(はぎわら)王を射殺した罪で伊豆国へ配流したとします。

 天長6年11月11日条(逸文)は、藤原朝臣全雄(またお)の妾飛鳥戸造福刀自売(ふくとじめ)を殺した罪死罪を減じて遠流に処したとします。

 天長年月日条(逸文)は、

 この「はるつぐ」、「はぎわら」、「またお」、「ふくとじめ」は、

  「パル・ツ・(ン)グ」、PARU-TU-NGU(paru=dirt,dirty;tu=stand,settle;ngu=speechless,greedy,moan,groan)、「嘆かわしい・汚い(卑怯な殺人を)・行った(朝臣)」(「パル」のP音がF音を経てH音に変化して「ハル」と、「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)

  「ハ(ン)ギ・ワラ」、HANGI-WHARA(hangi=earth-oven,scarf;whara=be struck,be hit accidentally)、「矢が刺さった・蒸焼き竈(人の身体を指す。それのような王)」(「ハ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ハギ」となった)

  「マタオ」、MATAO(cold,cool,infertility)、「(心の)冷たい(痩せた。朝臣)」

  「プク・タウチマイ」、PUKU-TAUTIMAI(puku=swelling;tautimai=welcome!)、「肥った・(客を)歓迎する(女)」(「プク」のP音がF音を経てH音に変化して「フク」と、「タウチマイ」のAU音がO音に、AI音がE音に変化して「トチメ」から「トジメ」となった)

の転訛と解します。

253H13私(きさき)朝臣宅継(やかつぐ)・赤(あか)麻呂

 天長6年3月16日条(逸文)は、若狹国の比古神の神主に私(きさき)朝臣宅継(やかつぐ)をあてたとし、宅継の書状によれば、疫病が頻発し、天候不順で飢饉となっていた養老年中に、仏教に帰依して深山で修行していた曾祖父赤(あか)麻呂に、比古神が「ここは私の住処である。私は神身を受けてはなはだ苦しんでいる。仏教に帰依して神身から離脱しようと思う。この願いが果たされなければ、災害を起こすだけである。汝は、私のためによく修行せよ。」と告げたので、赤麻呂は、道場を建てて仏像を造り、寺号を神願寺として、大神のために修行したところ、穀物は豊に稔り、夭死する人はいなくなった云々とあるとします。

 この「きさき」、「やかつぐ」、「あか」は、

  「キ・タキ」、KI-TAKI(ki=full,very;taki=lead,recite,challenge)、「修行に・励む(朝臣)」

  「イア・カハ・ツ(ン)グ」、IA-KAHA-TUNGU(ia=indeed;kaha=strong,persistency;tungu=kindle)、「実に・永く・灯火を灯し続ける(朝臣)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「アカ」、AKA(yearning,affection)、「(仏教に)熱心な(朝臣)」

の転訛と解します。

253H14曽禰連広刀自女(ひろとじめ)・丈部若刀自売(わかとじめ)

 天長6年6月21日条(逸文)は、因幡国高草郡の人曽禰連広刀自女(ひろとじめ)が、一度に一男二女を産んだので、正税稲三百束を支給し、乳母一人と三年分の粮料にあてることとしたとします。

 同年11月10日条(逸文)は、佐渡国の人丈部若刀自売(わかとじめ)が三男を産んだので、正税稲三百束を支給し、乳母一人と三年分の粮料にあてることとしたとします。

 この「ひろとじめ」、「わかとじめ」は、

  「ヒロウ・タウチマイ」、HIROU-TAUTIMAI(hirou=rake,net for dredging shellfish;tautimai=welcome!)、「(熊手で)掻き集めるように・(客を)歓迎する・女」(「タウチマイ」のAU音がO音に、AI音がE音に変化して「トチメ」から「トジメ」となった)

  「ウアカハ・タウチマイ」、UAKAHA-TAUTIMAI(uakaha=vigorous,strenous;tautimai=welcome!)、「元気いっぱいの・女」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ウアカ」から「ワカ」と、「タウチマイ」のAU音がO音に、AI音がE音に変化して「トチメ」から「トジメ」となった)

の転訛と解します。

253H15吉弥候部長子(ながこ)・吉弥候部江岐(えき)麻呂・吉弥候部佐津古(さつこ)・吉弥候部軍(いくさ)麻呂

 天長6年6月28日条(逸文)は、俘囚勲十一等吉弥候部長子(ながこ)は父母とともに朝廷に帰順して尾張国に移配されたが、野蛮な心性があるとの評判はなく、たいへん孝行なので、特に位三階を叙して仲間を勧奨することとしたとします。

 同年7月19日条(逸文)は、越中国の俘囚勲八等吉弥候部江岐(えき)麻呂を、皇化になじみ、気持ちは良民とおなじで、仲間に教諭して礼儀を守らせたので、従八位上に叙したとします。

 天長8年11月5日条(逸文)は、安芸国の俘囚の長吉弥候部佐津古(さつこ)を外従八位下、俘囚吉弥候部軍(いくさ)麻呂を外少初位下に、ともに内国の風俗に慣れ、仲間への教喩が道にかなっているので叙したとします。

 この「ながこ」、「えき」、「さつこ」、「いくさ」は、

  「ナ・(ン)ガ・コ」、NA-NGA-KO(na=by,belonging to;nga=satisfied,;ko=addressing to males and females)、「どちらかと言えば・(満足して)落ち着いている・男(俘囚)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

  「エキ」、EKI(=ekieki=high,lofty)、「背が高い(俘囚)」

  「タツ・コ」、TATU-KO(tatu=be at ease,be content,agree;ko=addressing to males and females)、「満足している・男(俘囚)」

  「イク・タ」、IKU-TA(iku=hiku=tip of a leaf etc.,eaves of a house;ta=dash,beat,lay)、「(集団の)頂点に・居る(俘囚)」

の転訛と解します。

253H16上村主万女(まめ)・風早直益吉女(ますよしめ)

 天長6年10月19日条(逸文)は、甲斐国の人上村主万女(まめ)が、15歳のとき小長谷直浄足と結婚して3男1女を生み、去る大同3年に夫が死ぬと、死者の霊をあたかも生きているように拝礼し、村人たちは万女を称賛したので、節婦として位二級を叙し、終身その戸の田租を免除することとしたとします。

 天長7年6月22日条(逸文)は、伊予国の人風早直益吉女(ますよしめ)が、夫の死後いつまでも取り縋り慕い、出家して悟りの境地に達し、節操を固くして変えることがなかったので、節婦として位二階を叙し、終身その戸の田租を免除することとしたとします。

 この「まめ」、「ますよしめ」は、

  「マハ・マイ」、MAHA-MAI(maha=gratified,satisfied;mai=dance)、「(満足し)落ち着いている・女」(「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「マツ・イオ・チ・マイ」、MATI-IO-TI-MAI(matu=cut;io=lock of hair;ti=throw;mai=dance)、「髪を・切り・落とした・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

253H17橘朝臣浄野(きよの)・小野朝臣岑守(みねもり)・藤原朝臣三成(みつなり)・良岑朝臣安世(やすよ)・藤原朝臣真夏(まなつ)・石川朝臣河主(かわぬし)・文室真人弟直(おとなお)

 天長6年12月19日条(逸文)は、散位従四位上橘朝臣浄野(きよの)が死去したが、浄野は質素な性格で欲が少なく、太皇太后(橘嘉智子)の叔父であることにより高位を授けられたが、交野に隠居して出仕しようとしなかったとします。

 天長7年4月19日条(逸文)は、参議従四位上小野朝臣岑守(みねもり)が、出雲国造が神宝を献上する日に長時間にわたり朝堂院に立ち、発病して死去したとします。

 同月30日条(逸文)は、春宮亮従四位下藤原朝臣三成(みつなり)が死去したが、三成の祖父は参議従三位巨勢麻呂、父は従五位上真作で、生まれつき慎み深く、話し方に欠陥がなく、琴の名手であったとします。

 同年7月6日条(逸文)は、大納言正三位良岑朝臣安世(やすよ)が死去したが、従二位が贈られ、嵯峨太上天皇が挽歌二編を作った。安世は、騎射を得意としたが、他の技芸についても才能があるとされ、成人してはじめて『孝経』を読み、「名分を明らかにする教えの極致がここにある」と語ったとします。

 同年11月10日条(逸文)は、散位従三位藤原朝臣真夏(まなつ)が死去したが、生まれつき言葉を巧みに飾ることができ、音楽に優れた才能を示し、大同のはじめから盛大な八侑の舞を行うようになつたのは真夏の演出であるとします。

 同年12月27日条(逸文)は、正四位上武蔵守石川朝臣河主(かわぬし)が死去したが、河主は左大弁従三位石足の孫、中納言正三位兼宮内卿右京大夫豊成の子で、一度出家したが、還俗して再出仕し、多数の仏教およびそれ以外の経典を学び、あわせて技術の知識を有し、桓武天皇の時代の盛んな建造に関与して蓄財したとします。

 同年閏12月18日条(逸文)は、従四位下文室真人弟直(おとなお)が死去したが、弟直の祖父は大納言従二位智努王、父は大宰大弐従四位下与岐、母は従四位下平田孫王で、淳和天皇が幼時に母と死別したとき桓武天皇はその身寄りを失なったことを憐れんで女王を養母とした。土佐守から治部大輔、上野・備中・播磨守を歴任したが、在任中謗られることも褒められることもなく、生まれつき品行が悪く節操を欠き、物事を弁えることがなかったが、寿命を全うしたとします。

 この「きよの」、「みねもり」、「みつなり」、「やすよ」、「まなつ」、「」は、

  「キオ・ノホ」、KIO-NOHO((Hawaii)kio=projection,to protrude,small pool for stocking fish spawn;noho=sit,settle)、「(生け簀のような)山荘に・隠居していた(朝臣)」({キオ」が「キヨ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ミネ・マウリ」、MINE-MAURI(mine=be assembled;mauri=life principle,source of the emotion)、「(忠勤の)信念を・保持していた(阿蘇臣)」(「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

  「ミヒ・ツ・(ン)ガリ」、MIHI-TU-NGARI(mihi=sigh for,greet,be expressed of affection etc.;tu=stand,settle;ngari=annoyance,disturbance,power)、「(琴の)演奏に・(力が)巧みで・あった(朝臣)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「イア・ツ・イオ」、IA-TU-IO(ia=indeed;tu=stand,settle;(Hawaii)io=true,genuine,true worth)、「実に・真実が・(『孝経』の中に)ある(と語っていた。朝臣)」

  「マナ・ツ」、MANA-TU(mana=authority,prestage,power;tu=stand,settle)、「(音楽について)権威を・有していた(朝臣)」

  「カハ・ワヌイ・チ」、KAHA-WHANUI-TIHI(kaha=strong,persistency;whanui=broad,wide;ti=throw,overcome)、「永く・広い分野で・力を行使した(朝臣)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「ワヌイ」の語尾のI尾とが脱落して「ワヌ」となった)

  「アウト・ナオ」、AUTO-NAO(auto=trailing behind,slow,protract;nao=handle,lay hold of)、「(淳和天皇の義兄弟という)縁にすがって・長生きした(真人)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

の転訛と解します。

253H18高根朝臣真象(まきさ)・藤原朝臣世継(よつぐ)・伴宿禰勝雄(かつお)・藤原朝臣家雄(いえお)・伴宿禰真臣(まおみ)・林朝臣山主(やまぬし)・紀朝臣咋(くい)麻呂

 天長8年3月8日条(逸文)は、正五位下丹波守高根朝臣真象(まきさ)が死去したが、真象は外従五位下虫麻呂の子で、淳和天皇の皇太子時代からの旧臣として天長元年広階連を改めて姓宿禰を、同3年広階宿禰を改めて姓高根朝臣を下賜され、死去に先立ち従四位下を授けられた。美濃介、丹波介から丹波守を歴任したが、生まれつき慎み深く、善悪をはっきりさせる性格で、地方官在職中厳しく取り締まることで評判が立つたとします。

 同月11日条(逸文)は、従四位上藤原朝臣世嗣(よつぐ)が死去したが、世嗣は無位清成の孫、贈太政大臣正一位種継の第四子で、若くして博く学び、心を一にして努力し、自ら才能がないことを知り、身分の低い者に尋ねることを恥とせず、人に接するときは常に慎み深く、伊勢国司となったが褒められることも謗られることもなかったとします。

 同年12月8日条(逸文)は、従四位下伴宿禰勝雄(かつお)が死去したが、勝雄は従三位古慈悲(こしび)の孫、従三位弟麻呂の息子で、性格は心が広く大まかで、隠し事を許さず、家風は清く私欲がなく、ほんの僅かな不正もせず、才学は乏しかったが軍事指揮官の器量は有していたとします。

 天長9年3月20日条(逸文)は、左兵衛督従四位上藤原朝臣家雄(いえお)が死去したが、家雄は贈太政大臣正一位百川の孫、左大臣正二位緒嗣の長子で、生まれつき家風を引き継いで清廉で、典籍を多く学び、歩射を得意としたが、大臣として朝政に参与することなく行年34で早逝したとします。

 同年5月24日条(逸文)は、右兵衛督従四位下伴宿禰真臣(まおみ)が死去したが、真臣は従五位下名鳥の第九子で、天長7年に正五位下、さらににわかに従四位下に叙されて右兵衛督に遷ったが、急に重病となって私宅で死去したとします。

 同年7月28日条(逸文)は、従四位下林朝臣山主(やまぬし)が死去したが、生まれつき公平で、人を愛憎することがなく、古くからの天皇の臣下で、国家の功臣であったとします。

 天長10年正月19日条(逸文)は、出雲守従四位下紀朝臣咋(くい)麻呂が死去したが、咋麻呂は生まれつき才能がなく、光仁天皇の外戚ということで高位に登り、天寿を全うしたとします。

 この「まきさ」、「よつぐ」、「かつお」、「いえお」、「まおみ」、「やまぬし」、「くい」は、

  「マキ・タ」、MAKI-TA(maki=a prefix giving the force that an action is done spontaneously;ta=dash,beat,lay)、「厳しく・対応する(朝臣)」

  「イオ・ツ(ン)グ」、IO-TUNGU((Hawaii)io=true,genuine;tungu=kindle)、「真の価値を・照らし出す(身分の上下などに拘らずに・対応する)(朝臣)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「カハ・ツ・アウ(ン)ガ」、KAHA-TU-AUNGA(kaha=strong,persistency;tu=stand,settle;aunga=not including)、「(心が)強固で・(中に)私心が・ない(宿禰)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「アウ(ン)ガ」のAU音がO音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「オ」となった)

  「イ・エオ」、I-EO(i=past tense;eo=whakaeo=deprive of power cause to waste away generally by occult means)、「(不思議なことに)命が消え・た(朝臣)」

  「マハ・アウミヒ」、MAHA-AUMIHI(maha=many,abundance;aumihi=greet,welcome)、「(短期間に続けて異例の高位に叙されて)たいそう・感謝した(喜んだ。宿禰)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「アウミヒ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オミ」となった)

  「イア・マヌ・チヒ」、IA-MANU-TIHI(ia=ideed;manu=person held in high esteem;tihi=summit,top)、「実に・最高の・尊敬を得た(朝臣)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

  「クイ」、KUI(weak,cowardly,stunted)、「おどおどしていた(朝臣)」

の転訛と解します。

253H19秦飯持女(いいもちめ)・秦乙(おと)麻呂・山口忌寸目刀自売(まとじめ)・都和利別公阿比登(あひと)

 天長8年4月25日条(逸文)は、越前国の人秦飯持女(いいもちめ)が三男を産んだので、正税稲三百束を支給したとします。

 天長9年6月28日条(逸文)は、越前国の荒道(あらち)山道(旧愛発関を通る山道)を開削した坂井郡の秦乙(おと)麻呂に同国の正税三百束を下賜したとします。

 同年9月10日条(逸文)は、尾張国海部郡の人山口忌寸目刀自売(まとじめ)が三男を産んだので、正税稲三百束を支給したとします。

 天長10年2月20日条(逸文)は、筑後国の夷第五等都和利別公阿比登(あひと)を、私稲を提供して弊民を助けたことにより、従八位下に叙したとします。

 この「いいもちめ」、「おと」、「まとじめ」、「あひと」は、

  「イヒ・モチ・マイ」、IHI-MOTI-MAI(ihi=split,divide;moti=consumed,scarce;mai=dance)、「(水を入れた器と米を入れた器を分離して蒸した)食べる飯が・なくなった・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「アウト」、AUTO(trailing behind,slow,protract)、「(開削に)長期間をかけた(男)」(AU音がO音に変化して「オト」となった)

  「マハ・タウチマイ」、MAHA-TAUTIMAI(maha=many,abundance;tautimai=welcone!)、「たくさん(の客を)・歓迎する(女)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「タウチマイ」のAU音がO音に、AI音がE音に変化して「トチメ」から「トジメ」となった)

  「アピ・ト」、API-TO(api,apiapi=crowded,dence;to=drag)、「大勢(の人々)を・引き連れる(公)」(「アピ」のP音がF音を経てH音に変化して「アヒ」となった)

の転訛と解します。

253H20当麻旅子女(たびこめ)

 天長8年12月16日条(逸文)は、殺人の従犯当麻旅子女(たびこめ)を西市で60の杖打ちに処したとします。

 この「たびこめ」は、

  「タピコ・マイ」、TAPIKO-MAI(tapiko=bend anything or spring of a trap,set a trap or snare;mai=dance)、「罠をしかけた・女」

の転訛と解します。

 
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<修正経緯>

1 平成19年7月1日

 251A平城天皇の項、253A淳和天皇の項の一部(ヤマトネコの解釈)を修正しました。

2 平成20年2月1日

 251E2朝原(あさはら)内親王の項を修正しました。

3 平成28年9月1日

 251E4藤原朝臣薬子の項の薬子(くすこ)および縄主(ただぬし)の解釈を修正しました。

古典篇(その十九)<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その十一)>
ー桓武天皇(承前)から淳和天皇まで(追補)ー 終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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