古典篇(その十六)

(平成15-12-1書込み。28-9-1最終修正)(テキスト約51頁)

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<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その十)>

  ー孝謙天皇から桓武天皇まで(完)ー

 

  目 次

 

[246孝謙天皇]

 

 246A宝字称徳孝謙皇帝(尊号)(246孝謙天皇。のちに重祚して248称徳天皇。高野(たかの)天皇とも)246B1大郡(おほこほり)宮246B2智識寺行宮・難波宮・田村(たむら)宮246C1天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇246C2藤原光明(こうみよう)子246D1基(き。もとゐ)王から246D4安積(あさか)親王まで246G高野(たかの)山陵246H1茨田宿禰弓束女(ゆつかめ)246H2大嘗(おほなめ)・由機(ゆき)国・須岐(すき)国246H3八幡(やはた)大神・大神朝臣杜女(もりめ)・大神朝臣田(た)麻呂246H4藤原朝臣清河(きよかは)・大伴宿禰古(こ)麻呂246H5山口忌寸人(ひと)麿246H6小野朝臣田守(たもり)246H7渤海使慕施蒙(ぼしもう)246H8道祖(ふなと)王246H9大伴宿禰古慈斐(こじひ)・淡海真人三船(みふね)246H10禅師法栄(ほふゐやう)・小僧都良弁(らうべん)・花巌講師慈訓(じきん)・法師安寛(あんくわん)・法華寺鎮慶俊(きやうしゆん)246H11新嘗(にひなめ)246H12藤原朝臣豊成(とよなり)・中務卿藤原朝臣永手(ながて)・塩焼(しほやき)王・文屋真人珍努(ちの)・池田(いけだ)王・船(ふね)王・大炊(おほひ)王246H13山背(やましろ)王・橘奈良(なら)麻呂・上道臣斐太都(ひだつ)・巨勢朝臣堺(さかひ)麻呂・黄文(きふみ)王(久奈多夫礼(くなたぶれ)と改名)・道祖(ふなと)王(麻度比(まとひ)と改名)・多治比犢養(こうしかひ)・小野東人(あづまひと)・賀茂角足(つのたり。乃呂志(のろし)と改姓)・藤原弟貞(おとさだ)246H14安宿(あすかべ)王・佐伯大成(おほなり)・多治比国人(くにひと)・佐伯全成(またなり)・藤原朝臣乙縄(おとなは)・県犬養宿禰佐美(さみ)麻呂・佐味朝臣宮守(みやもり)

 

[247淳仁天皇]

 

 247A淳仁天皇(淡路廃帝)247B1保良(ほら)宮247B2小治田(をはりだ)宮247C1舎人(とねり)親王247C2当麻(たぎま)真人山背(やましろ)247D三原(御原。みはら)王・三島(みしま)王・船(ふね)王・池田(いけだ)王・守部(もりべ)王・室(むろ)女王・飛鳥田(あすかた)女王・三長(みなが)真人・山辺(やまのへ)真人247E粟田朝臣諸姉(もろね)247G淡路(あはぢ)陵247H1恵美押勝(ゑみのおしかつ)・真先(まさき。本名執弓(ゆみとり))・訓儒(くす)麻呂(本名浄弁(じやうべん))・朝獵(あさかり)・少湯(をゆ)麻呂(小弓(こゆみ)麻呂)・薩雄(さつを)・辛加知(からかち)・執棹(さをとり)・刷雄(よしを)247H2高元度(ぐゑんど)・羽栗翔(はくりのかける)247H3僧華達(くゑたち)(俗名山村臣伎波都(きはつ))・範曜(ぼむえう)247H4葦原(あしはら)王(竜田(たつた)眞人)・御使(みつかひ)連麿(まろ)247H5仲眞人石伴(いはとも)・石上朝臣宅嗣(やかつぐ)・高麗朝臣大山(おほやま)・伊吉連益(ます)麻呂・藤原朝臣田(た)麻呂・梶(かじ)・中臣朝臣鷹主(たかぬし)・高麗朝臣広山(ひろやま)247H6御長(みなが)真人247H7板振(いたふり)鎌束(かまつか)・平群朝臣虫(むし)麻呂・高内弓(ないきゅう)・広成(ひろなり)・戒融(かいゆう)247H8中臣朝臣伊加(いか)麻呂・葛井連根道(ねみち)・真助(ますけ)・酒波長歳(さかなみのをさとし)247H9文屋真人浄三(じゃうさむ。きよみ)・益(ます)人(益麻呂)・紀袁祁臣糠売(ぬかめ)・内原牟羅(むら)・身売(みめ)・狛売(こもめ)・真玉女(またまめ)・紀朝臣伊保(いほ)・田後部(たしりべ)247H10新羅使大奈麻金才伯(こむさいはく)・紀朝臣牛養(うしかひ)・粟田朝臣道(みち)麻呂247H11山村(やまむら)王・坂上苅田(かりた)麻呂・牡鹿嶋足(しまたり)・矢田部老(おゆ)・紀船守(ふなもり)247H12高丘連比良(ひら)麻呂・日下部宿禰子(こ)麻呂・佐伯宿禰伊多智(いたち)・角君家足(いへたり)・物部直広成(ひろなり)・伯宿禰三野(みの)・大野朝臣真本(まもと)・藤原朝臣藏下(くらじ)麻呂・石村村主石楯(いはたて)・村国連嶋主(しまぬし)・氷上(ひかみ)塩焼・恵美朝臣巨勢(こせ)麻呂・仲石伴(いはとも)・石川氏人(うぢひと)・大伴古薩(こさち)・阿倍少路(こみち)247H13道鏡(どうきょう)禅師247H14和気(わけ)王

 

[248称徳天皇]

 

 248A宝字称徳孝謙皇帝(尊号)(246孝謙天皇。のちに重祚して248称徳天皇。高野(たかの)天皇とも)248B1小治田(をはりだ)宮・鎌垣(かまかき)行宮・岸村(きしむら)行宮・深日(ふけひ)行宮・新治(にひはり)行宮・弓削(ゆげ)行宮・因幡(いなば)宮248B2飽波(あくなみ)宮・由義(ゆぎ。「ゆげ」とも)宮248C1天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇248C2藤原光明(こうみよう)子248D1基(き。もとゐ)王から248D4安積(あさか)親王まで248G高野(たかの)山陵248H1紀朝臣益(ます)女・大津宿禰大浦(おほうら)・石川朝臣永年(ながとし)248H2佐伯宿禰助(たすく)・高屋連並木(なみき)248H3猶良比(なほらひ)・豊明(とよのあかり)248H4藤原朝臣真楯(またて)248H5昆解宮成(こむげのみやなり)・羽栗臣翼(たすく)・鈍隠(とんいむ)248H6弓削宿禰薩摩(さつま)248H7高橋連波自米女(はじめめ)・額田部蘇提売(そてめ)・網引公金村(かなむら)・少谷直五百依(いほえ)・建部大垣(おほかき)・倉橋部広人(ひろひと)248H8藤原朝臣浄弁(じゃうべん)248H9廚(くりや)真人廚女(くりやめ)・氷上志計志(ひかみのしけし)麻呂248H10県犬養姉女(あねめ)・忍坂(おしさか)女王・石田(いはた)女王248H11輔治能(ふぢの)(和気)真人清(きよ)麻呂・法均(ほうきん)・別(わけ)部穢(きたな)麿・広虫女(ひろむしめ)・明基(みやうき)・習宜阿曽(すげのあそ)麻呂248H12白壁(しらかべ)王248H13蝦夷宇漢迷(うかにめ)公宇屈波宇(うくつはう)・道嶋宿禰嶋足(しまたり)248H14吉備朝臣由利(ゆり)・坂上大忌寸苅田(かりた)麻呂・佐伯宿禰今毛人(いまえみし)・藤原朝臣楓(かへるて)麿

 

[249光仁天皇]

 

 249A天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇249B難波(なには)宮・竹原井(たかはらゐ)行宮・楊梅(やまもも)宮・新城(にひき)宮249C1施基(志紀。しき)皇子(御春日(かすが)宮天皇。田原(たはら)天皇)249C2紀朝臣橡(とち)姫249D1湯原(ゆはら)親王249D2榎井(えのゐ)親王249D3壱志(いちし)王249D4春日(かすが)王249D5海上(うなかみ)女王249D6衣縫(きぬぬひ)女王249D7難波(なには)女王249D8坂合部(さかひべ)女王249E1井上(ゐのうへ)内親王249E2高野新笠(たかののにひかさ)・天高知日之子(あめたかしらすひのこ)姫尊・和史乙継・大枝朝臣真妹・大枝陵249E3藤原朝臣曹子(さうし)249E4尾張(をはり)女王249E5嶋(しま)姫249E6県犬養勇耳(いさみみ)249F1他戸(をさべ)親王249F2山部(やまべ)親王(250桓武天皇)249F3早良(さはら)親王249F4稗田(ひへだ)親王249F5広根(ひろね)朝臣諸勝(もろかつ)249F6酒人(さかひと)内親王249F7能登(のと)女王249F8弥努摩(みぬま)女王249G1広崗(ひろをか)山陵249G2田原(たはら)陵249H1丹比宿禰乙女(おとめ)249H2渤海使壱万福(いちまんふく)249H3裳咋足嶋(もくひのたるしま)・粟田広上(あはたのひろかみ)・安都堅石女(あとのかたしはめ)294H4武生連鳥守(とりもり)249H5菅生(すがふ)王・小家(をやけ)内親王249H6上村主墨縄(すみなは)249H7渤海副使慕昌禄(もしやうろく)249H8渤海使烏須弗(うすほつ)249H9新羅使金三玄(さむぐゑん)249H10大仏師国中連公(きみ)麻呂・国骨富(こくこつふ)249H11川部(かはべ)酒(さか)麻呂249H12佐伯宿禰今毛人(いまえみし)・大伴宿禰益立(ましたて)・藤原朝臣鷹取(たかとり)・海上真人三狩(みかり)・小野朝臣石根(いはね)・大神朝臣末足(すゑたり)249H13渤海使史都蒙(しともう)・渤海判官高淑源(こうしゆくげん)・高麗朝臣殿継(とのつぐ)249H14小野朝臣滋野(しげの)・韓国(からくに)連源(みなもと)・津守宿禰国(くに)麻呂・大伴宿禰継人(つぐひと)・喜娘(きじやう)・叡造(えいぞう)249H15布勢朝臣清勅(きよなほ)・甘南備真人清野(きよの)・多治比真人浜成(はまなり)・大網高広道(ひろみち)249H16下道朝臣長人(ながひと)249H17藤原朝臣百川(ももかは)249H18伊治(これはり)公呰(あざ)麻呂・紀朝臣広純(ひろすみ)・道嶋大楯(おほたて)・大伴宿禰真綱(まつな)・石川浄足(きよたり)・藤原朝臣継縄(つぐただ)・紀朝臣古佐美(こさみ)・安倍朝臣家(いへ)麻呂・百済王俊哲(しゆんてつ)・多治比真人宇美(うみ)・藤原朝臣小黒(をぐろ)麻呂

 

[250桓武天皇]

(注:治世中の事績に関係する人名等は、『続日本紀』延暦10年までの記事を対象とします。)

 

 250A日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇250B勅旨(ちよくし)宮・長岡(ながをか)宮・交野(かたの)行宮・東(ひむがし)宮250B2葛野(かどの)宮・平安(へいあん)宮250C1天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇250C2高野新笠(たかののにひかさ)250D1他戸(をさべ)親王から250D7弥努摩(みぬま)女王まで250E1藤原乙牟漏(おとむろ)・天高藤広宗照(あめのたかふぢひろむねてる)姫尊250E2藤原朝臣吉子(よしこ)250E3多治眞宗(まむね)250E4藤原朝臣旅子(たびこ)250E5酒人(さかひと)内親王250F1安殿(あての)親王(小殿(をての)親王)(251平城天皇)・日本根子天推国高彦(やまとねこあめおしくにたかひこ)尊・藤原縄主(ただぬし)・薬子(くすこ)250F2伊豫(いよ)親王250F3葛原(かつらはら)親王250F4神野(かみの。賀美能)親王(252嵯峨天皇)250F5大伴(おほとも)親王(253淳和天皇)・日本根子天高譲弥遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)尊250F6高志(こし)内親王250F7朝原(あさはら)内親王250F8大宅(おおやけ)内親王250G柏原(かしははら)陵250H1伊佐西古(いさせこ)・諸絞(もろくり)・八十嶋(やそしま)・乙代(おとしろ)・内藏忌寸全成(またなり)・多朝臣犬養(いぬかひ)250H2氷上(ひかみ)真人川継(かはつぐ)・大和乙人(おとひと)・宇治(うぢ)王・藤原法壱(ほふいち)250H3三方(みかた)王・山上朝臣船主(ふなぬし)・弓削(ゆげ)女王250H4藤原朝臣魚名(うをな)・鷹取(たかとり)・末茂(すえしげ)・真鷲(まわし)250H5藤原朝臣種継(たねつぐ)・大伴宿禰竹良(ちくら)・大伴宿禰家持(やかもち)250H6笠(かさ)王・壱志濃(いちしの)王・紀朝臣馬守(うまもり)・当麻(たぎま)王・紀朝臣古佐美(こさみ)250H7紀朝臣真人(まひと)・佐伯宿禰葛城(かづらぎ)・入間宿禰広成(ひろなり)250H8池田朝臣真枚(まひら)・安倍猿嶋臣墨縄(すみなは)・阿弖流為(あてるい)・丈部善理(ぜんり)・進士高田道成(みちなり)・会津壮(たけ)麻呂・安宿戸吉足(よしたり)・大伴五百継(いほつぐ)・出雲諸上(もろかみ)・道嶋御楯(みたて)・大墓公(おおはかのきみ)阿弖利為(あてりい)・磐具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)250H9大伴宿禰弟(おと)麿・百済王俊哲(しゆんてつ)・坂上大宿禰田村(たむら)麻呂・巨勢朝臣野足(のたり)

<修正経緯>

 

<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その十)>

  ー孝謙天皇から桓武天皇まで(完)ー

 

 

 [ここでは神武天皇の部を201とし、その中で和風諡号は201A(別名または幼名は201A2~)、宮都は201B、父母は201C1~2、兄弟姉妹は201D1~、后妃は201E1~、皇子は201F1~、陵は201G、治世中特筆すべき人名等は201H1~として整理番号を付し、以下同様に<その一>では201神武天皇から209開化天皇まで、<その二>では210崇神天皇・211垂仁天皇を、<その三>では212景行天皇から219允恭天皇まで、<その四>では220安康天皇から225武烈天皇まで、<その五>では226継体天皇から229欽明天皇まで、<その六>では230敏達天皇から233推古天皇まで、<その七>では234舒明天皇から237斉明天皇まで、<その八>では238天智天皇から241持統天皇まで、<その九>では242文武天皇から245聖武天皇まで、<その十>では246孝謙天皇から250桓武天皇までを解説します(『続日本紀』および『日本後紀』については主要な事項のみに限ります)。

 表記は原則として『古事記』、『日本書紀』(以上岩波日本古典文学大系本)、『続日本紀』(岩波新日本古典文学大系本)および『日本後紀』(講談社学術文庫)によります。本文中001〜199の神名は、古典篇(その五)<『古事記』の神名>により、名義は主として岩波日本古典文学大系本または岩波新日本古典文学大系本の注および『古事記』(新潮日本古典集成、校注西宮一民、昭和54年)の付録「神名の釈義」によります。

 ポリネシア語による解釈は、原則としてマオリ語により、ハワイ語による場合は注記を付します。]

 

 

[246孝謙天皇]

 

246A宝字称徳孝謙皇帝(尊号)(246孝謙天皇。のちに重祚して248称徳天皇。高野(たかの)天皇とも)

 続紀は、245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(聖武天皇)と245E1藤原光明(こうみよう)子の第1子の阿倍(あへ)内親王とします。

 養老3年に出生、235F2基(き。もとゐ)王が夭折したため、天平10年正月21歳で皇女として初の皇太子に立てられ、天平勝宝元年7月に32歳で即位して246孝謙天皇となります。しかし、実権は紫微中台を設け藤原仲麻呂を紫微令に任じた母の光明皇太后が掌握していたとされます。天平勝宝8歳5月聖武太上天皇の崩御後、遺詔によつて246H8道祖(ふなと)王を皇太子としますが、翌天平宝字元年3月淫縦を理由に廃し、代わって246H8大炊(おほひ)王を皇太子とし、246H13橘奈良(なら)麻呂の乱を未然に鎮圧した後、天平宝字2年8月淳仁天皇に譲位します。

 天平宝字4年6月光明皇太后が没し、翌年保良宮に行幸したころから高野天皇は看病禅師道鏡を寵愛するようになり、これが原因となつて淳仁天皇と不和となり、天平宝字6年6月「常祀と小事は(淳仁)天皇が行い、国家の大事賞罰は朕が行う」との詔を発します。天平宝字8年9月恵美押勝の乱が勃発し、高野天皇は追討軍を発して乱を鎮圧し、同年10月淳仁天皇を廃し47歳で重祚して248称徳天皇となります。天皇は道鏡を太政大臣禅師に任じ、法王の暗いを授け、法王宮職を設置します。道鏡は宇佐八幡神の神託として皇位につこうとしますが、和気清麻呂に阻まれます。天皇は、神護景雲4年8月53歳で崩御します。

 続紀巻18の巻頭は、天皇名を宝字称徳孝謙皇帝と記し、その分注に「出家して仏になったので諡号を奉らなかった。そこで宝字2年に百官が奉った尊号を取つて称える」とします。天平宝字2年8月条は、高野(たかの)天皇が皇太子に譲位し、百官から上台(光明皇太后に対しては中台)、宝字称徳孝謙皇帝の尊号を奉られたとします。この尊号は、「(天平宝字元年3月に天皇の寝殿の承塵に「天下太平」の)宝字が出現してその徳を称えた、孝と謙譲の徳を兼ね備えた皇帝」の意とされます。国風諡号はありません。

 高野(たかの)天皇の呼称は、続紀巻21(淳仁即位前紀)以降にみえ、宝亀元年8月条に「高野天皇を大和国添下郡佐貴郷高野山陵に葬りまつる」とあり、この山陵名によるとする説と、西大寺付近にあった孝謙天皇の山荘の地名によるとする説があります。

 この「たかの」、「あへ」は、

  「タカ・ノホ」、TAKA-NOHO(taka=heap,lie in a heap;noho=sit,settle)、「(太上天皇として光明皇太后および淳仁天皇よりも)高い地位に・居る(天皇)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「アヘイ」、AHEI(able,possible within one's power)、「(何でもできる)能力がある(皇女)」(語尾のI音が脱落して「アヘ」となった)

の転訛と解します。

 

246B1大郡(おほこほり)宮

 天平勝宝元年10月条は、河内国智識寺への行幸(246H1茨田宿禰弓束女(ゆつかめ)の項参照)から大郡(おほこほり)宮に帰還したとします。この宮は難波の236B2大郡(おほこほり)宮ではなく、通常居住していた243B2平城宮の近傍にあった別宮とする説があります。吉田東伍『大日本地名辞書』は添上郡の郡山を大郡の郡家の名残りとみて、この地に設けられたとします。

 この「大郡(おほこほり)」については、古典篇(その十三)の236B2大郡(おほこほり)宮の項を参照してください。

 

246B2智識寺行宮・難波宮・田村(たむら)宮

 天平勝宝8歳2月条は、24日に難波に行幸し、河内国智識寺南の行宮(246H1茨田宿禰弓束女(ゆつかめ)の宅を行宮にしたものかとされます)に到ったとし、28日に245B3難波宮に到ったとします。同4月条は、15日に智識寺行宮に到り、17日に243B2平城宮に還ったとします。

 天平宝字元年5月条は、平城宮改修のために田村(たむら)宮へ遷ったとします。田村宮は、天平勝宝4年4月条に東大寺大仏開眼供養の後、大納言藤原朝臣仲麿の田村(たむら)第に還御し、御在所としたとあり、この邸宅を宮としたものとされます。

 この「たむら」は、

  「タ・ムラ」、TA-MURA(ta=the..of,dash,beat,lay;mura=blaze,flame)、「実に・光り輝いている(邸宅。宮)」

の転訛と解します。

 

246C1天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇

 父は245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(勝宝感神聖武皇帝)(聖武天皇)の項を参照してください。

 

246C2藤原光明(こうみよう)子

 母は245E1藤原光明(こうみよう)子の項を参照してください。

 

246D1基(き。もとゐ)王から246D4安積(あさか)親王まで

 兄弟姉妹は245F2基(き。もとゐ)王の項から245F5安積(あさか)親王までの項を参照してください。

 

246G高野(たかの)山陵

 宝亀元年8月条に「高野天皇を大和国添下郡佐貴(さき)郷高野山陵に葬りまつる」、「鈴鹿王の旧宅を山陵とす」とあり、『延喜式』は陵を「高野(たかの)陵、平城宮御宇天皇、在大和国添下郡」と、『陵墓要覧』は所在地を奈良市山陵町とし、成務陵の南に隣接する佐紀高塚古墳(全長約140メートルの前方後円墳)とします。この比定には、ここが鈴鹿王の旧宅であったのかおよび古墳の築造年代(5世紀)などから疑問があるとされます。なお、『紹運録』には「葬大和国高野陵、西大寺北也」とあります。

 この「高野(たかの)」については246A高野天皇の項を、「佐紀(さき)」については地名篇(その五)の奈良県の(4)佐紀楯波(さきたたなみ)古墳群の項を参照してください。

 

246H1茨田宿禰弓束女(ゆつかめ)

 天平勝宝元年10月条は、河内国智識(ちしき)寺に行幸し、茨田宿禰弓束女(ゆつかめ)(弓束とも)の家を行宮とし、弓束女は官位(正五位上)を賜ったとします。

 この「ゆつかめ」は、

  「イ・ウツ・カ・マイ」、I-UTU-KA-MAI(i=past tense,beside;utu=return for anything,satisfaction,make response;ka=take fire,be lighted,burn;mai=dance,song(maimai=a dance to welcome guests))、「(灯を灯した)宿の・もてなしをした・その報償を・受けた(宿禰)」(「イ」のI音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「ユツ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

 

246H2大嘗(おほなめ。おほにへ)・由機(ゆき)国・須岐(すき)国

 天平勝宝元年11月条は、因幡を由機(ゆき)国とし、美濃を須岐(すき)国として、南薬園の新宮において大嘗(おほなめ。おほにへ)祭を執行したとします。

 大嘗祭における悠基(ゆき)国において選定された斎田(悠基田)の新穀は大嘗宮の東の悠基殿で、主基(すき)国において選定された斎田(主基田)の新穀は大嘗宮の西の主基殿で神饌に供されます。この悠基(ゆき)は「斎酒(ゆき)」、主基(すき)は「その次」の意とする説など諸説があります。(なお、新嘗祭については246H11新嘗(にひなめ)の項を参照してください。)

 この「おほなめ」、「おほにへ」、「ゆき」、「すき」は、

  「オホ・ナ・アマイ」、OHO-NA-AMAI(oho=spring up,wake up,arise;na=satisfied,by,indicate parentage or descent,belonging to;amai=swell on the sea,giddy,dizzy)、「(天皇の)子孫が・(その霊力を)膨らませて(または輝きを取り戻して)・(始めて)すっくと立つ(ための儀式)」(「ナ」のA音と、「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」となったその語頭のA音と連結して「ナメ」となった)

  「オホ・ニヒ・アヱ」、OHO-NIHI-AWHE(oho=spring up,wake up,arise;nihi=steep,move stealthily,come stealthily upon;awhe=scoop up,gather into a heap,surround)、「徐々に・(天皇の霊力を)積み上げて(増して)・(天皇として始めて)すっくと立つ(ための祭儀)」(「オホ」のH音が脱落して「オオ」と、「ニヒ」のH音が脱落して「ニ」と、「アヱ」のWH音が脱落して「アエ」から「エ」となった)

  「イ・ウキ」、I-UKI(i=past tense,beside;uki=distant times past or future(ukiuki=old,continuous,undisturbed,peaceful))、「過去となった・(治世の)永続(を象徴する。国。斎田。そこで穫れた新穀)」

  「ツ・ウキ」、TU-UKI(tu=fight with,energetic;uki=distant times past or future(ukiuki=old,continuous,undisturbed,peaceful))、「(これから精一杯努力しなければならない)未来の・(治世の)永続(を象徴する。国。斎田。そこで穫れた新穀)」

の転訛と解します。

 

246H3八幡(やはた)大神・大神朝臣杜女(もりめ)・大神朝臣田(た)麻呂

 天平勝宝元年12月条は、八幡(やはた)大神が入京し、禰宜尼大神朝臣杜女(もりめ)が東大寺を拝み、同時に天皇、太上天皇、太后の行幸があり、八幡大神が大仏造営を支援したことを感謝する詔が出され、杜女と主神大神朝臣田(た)麻呂に官位が授けられたとします。

 この「やはた」、「もりめ」、「た」は、

  「イア・ワタ」、IA-WHATA(ia=indeed,current;whata=elevated stage for storing food and for other purposes,elevate,suport,bring into prominence,hang,rest)、「実に・(大仏造営を)支援した(大神)」または「実に・気高い(大神)」

  「モリ・マイ」、MORI-MAI(mori=fondle,caress;mai=dance,song)、「(大神に)奉祀する・女性(禰宜尼)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「タハ」、TAHA(side,edge,pass on one side,go by)、「(大神に)随行した(主神)」(H音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。

 

246H4藤原朝臣清河(きよかは)・大伴宿禰古(こ)麻呂

 天平勝宝2年9月条は、藤原朝臣清河(きよかは)を大使に、大伴宿禰古(こ)麻呂を副使とする遣唐使を任命したとします。

 また、同3年4月条は、この遣唐使の平安を祈るために245H27石川朝臣年足(としたり)を伊勢神宮に派遣したとします。

 さらに、同年11月条は、244H2吉備朝臣眞備(まきび)を入唐副使に追加任命したとします。

 この「きよかは」、「こ」は、

  「キオ・カハ」、KIO-KAHA((Hawaii)kio=projection,protuberance;kaha=strong,strength,persistency,rope,noose,edge)、「強さが・突出している(朝臣)」

  「カウ」、KAU(alone without appendage,bare,empty,only,as soon as,without hindrance,swim,wade)、「即座に対応した(入唐の翌年(天平勝宝4年)正月の朝賀に際して日本の席を新羅の席と変更させてその上位に列した(天平勝宝6年正月条にその帰朝報告が記されています)。宿禰)」または「(246H12橘奈良(なら)麻呂の変の首謀者の一人としてひそかに)泳ぎ回った(宿禰)」(AU音がO音に変化して「コ」となった)

の転訛と解します。

 

246H5山口忌寸人(ひと)麿

 天平勝宝4年正月条は、山口忌寸人(ひと)麿を遣新羅使に任命したとします。

 「人(ひと)麿」については古典篇(その十四)の238H11巨勢人(ひと)臣の項を参照してください。

 

246H6小野朝臣田守(たもり)

 天平勝宝5年2月条は、小野朝臣田守(たもり)を遣新羅大使に任命したとします。

 なお、天平宝字4年9月条は田守に対して新羅が礼を失したので使の事を行わずに帰ったとします。この件に関し、『三国史記』新羅本紀景徳王12年条は「秋八月、日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻」とし、使の名は記されていません。

 この「たもり」は、

  「タ・モリ」、TA-MORI(ta=dash,beat,lay;mori=fondle,caress)、「(大使に対する)待遇について・文句をつけた(朝臣)」

の転訛と解します。

 

246H7渤海使慕施蒙(ぼしもう)

 天平勝宝5年5月条は、渤海使輔国大将軍慕施蒙(ぼしもう)が佐渡国を経由して入京し、国書を呈し、信物を貢したとあります。同6月条は、帰国する慕施蒙に渤海国王に対し入朝を嘉とするが臣としての上表文がなかったことを非難する内容の璽書(天皇御璽を捺した文書)を持たせたとします。

 この「ぼしもう」は、

  「ポチ・モフ」、POTI-MOHU(poti=angle,basket for cooked food;mohu=selfish,stingy,silent)、「自分勝手な(臣としての上表文を欠いた)・信物(を持参した。使者)」(「モフ」のH音が脱落して「モウ」となった)

の転訛と解します。

 

246H8道祖(ふなと)王

 天平勝宝8歳5月条は、太上天皇(聖武天皇)が崩御し、遺詔で天武天皇の孫、240F8新田部(にひたべ)親王の子の道祖(ふなと)王を皇太子としたとします。

 皇太子は、天平宝字元年3月に「身は諒闇の中にあって志は淫縦で教えても悔い改めない」故をもって皇太子を廃され、同年7月246H13橘奈良麻呂の変に坐して杖下に死去します。

 この「ふなと」は、

  「フナ・ト」、HUNA-TO(huna=conceal,destroy,devaste,unnoticed;to=drag,set as the sun,dive,tingle,calm)、「破滅を・招いた(王)」

の転訛と解します。

 

246H9大伴宿禰古慈斐(こじひ)・淡海真人三船(みふね)

 天平勝宝8歳5月条は、10日に出雲国守大伴宿禰古慈斐(こじひ)と内竪淡海真人三船(みふね)が朝廷を誹謗したとして監禁されますが、13日に放免されます。のち古慈斐のみは出雲守を免じられて土左守に左遷され、さらに246H13橘奈良(なら)麻呂の変に連座して任地に配流されます。なお、この誹謗事件の内容は不詳ですが、『万葉集』の大伴家持の作歌(4465-4467)左注には三船が讒言したので古慈斐が任を解かれたとあります。

 この「こじひ」、「みふね」は、

  「コチ・ヒ」、KOTI-HI(koti=cut in two,divide,interrupt,cut across the path;hi=raise,rise)、「身分の高い者(淡海三船か)に・罪が及ぶのを防いだ(宿禰)」

  「ミヒ・プネ(ン)ガ」、MIHI-PUNENGA(mihi=greet,admire,sigh for;punenga=clever,intelligent always seeking and aquiring useful knowledge)、「(監禁されたことまたは神護景雲元年6月に東山道巡察使を解任されたことを)嘆いた・学殖のある(真人)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「プネ(ン)ガ」のP音がF音を経てH音にに変化し、語尾のNGA音が脱落して「フネ」となった)または「ミヒ・フネイ」、MIHI-HUNEI(mihi=greet,admire,sigh for;hunei,huneinei=hungeingei=anger,vexation,resentment)、「(監禁されたことまたは神護景雲元年6月に東山道巡察使を解任されたことを)嘆き・憤慨した(真人)」(「ミヒ」のH音と「フネイ」の語尾のI音が脱落して「ミ・フネ」となった)

の転訛と解します。

 

246H10禅師法栄(ほふゐやう)・小僧都良弁(らうべん)・花巌講師慈訓(じきん)・法師安寛(あんくわん)・法華寺鎮慶俊(きやうしゆん)

 天平勝宝8歳5月条は、先帝の看病に功績のあった禅師法栄(ほふゐやう)をはじめ、和上鑒眞(がむじん)、小僧都良弁(らうべん)、花巌講師慈訓(じきん)、法師安寛(あんくわん)、法華寺鎮慶俊(きやうしゆん)等に褒賞を与えたとします。

 この「ほふゐやう」、「らうべん」、「じきん」、「あんくわん」、「きやうしゆん」は、

  「ホウ・ウイ・アウ」、HOU-UI-AU(hou=bind,lash together,enter,force downwards or under;ui=disentangle,relax or loosen noose,ask;au=sea,rapid,firm,intense,certainly)、「しっかりと・(病気を)押さえつけ・(苦痛から)解放する(禅師)」

  「ラウ・ペナ」、RAU-PENA(rau=catch as in a net,entangle,project,extend;pena=take care of,tend)、「(病気の)苦痛の・介抱をする(僧都)」(「ペナ」の語尾のA音が脱落して「ペン」から「ベン」となった)

  「チキナ」、TIKINA(=tiki=fetch,proceed to do anything,go for a purpose)、「(苦痛を)取り去る(講師)」(語尾のA音が脱落して「チキン」から「ジキン」となった)

  「ア(ン)ガ・クア・ナ」、ANGA-KUA-NA(anga=driving force,thing driven etc.;kua=denoting that an action is completed;na=satisfied,content)、「(病気を)完全に・押さえつけて・(病人を)安心させる(法師)」(「ア(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「アナ」から「アン」と、「ナ」のA音が脱落して「ン」となった)

  「キオ・チ・ウヌ」、KIO-TI-UNU((Hawaii)kio=projection,protuberabce;ti=throw,cast,overcome;unu=pull off,pull out,bring out)、「(病気を)征伐し・(苦痛を)除去することに・突出した(能力がある。寺鎮)」

の転訛と解します。

 

246H11新嘗(にひなめ。にひあへ)

 天平勝宝8歳11月条は、先帝の諒闇のため宮中での新嘗(にひなめ。にひあへ)の会(ゑ)を中止したとします。

 この「にひなめ」、「にひあへ」、「ゑ」は、

  「ニヒ・ナ・アマイ」、NIHI-NA-AMAI(nihi=steep,move stealthily,come stealthily upon;na=satisfied,by,indicate parentage or descent,belonging to;amai=swell on the sea,giddy,dizzy)、「徐々に・(天皇の)子孫が・(一年の間に次第に小さくなったその霊力を)膨らませる(または輝きを取り戻すための。儀式)」(「ナ」のA音と、「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」となったその語頭のA音と連結して「ナメ」となった)

  「ニヒ・アヱ」、NIHI-AWHE(nihi=steep,move stealthily,come stealthily upon;awhe=scoop up,gather into a heap,surround)、「徐々に・(天皇の霊力を)積み上げる(増す)(ための祭儀)」(「ニヒ」のH音が脱落して「ニイ」と、「アヱ」のWH音が脱落して「アエ」となった)

  「ワイ」、WHAI(follow,look for,proceed to the next in order,practise,perform an incantation or rite)、「(順を追って行われる)儀式」(AI音がE音に変化して「ヱ」となった)

の転訛と解します。

 

246H12藤原朝臣豊成(とよなり)・中務卿藤原朝臣永手(ながて)・塩焼(しほやき)王・文屋真人珍努(ちの)・池田(いけだ)王・船(ふね)王・大炊(おほひ)王

 天平宝字元年4月条は、天皇が前月に廃太子となった246H8道祖(ふなと)王の代わりに誰を皇太子とすべきかを群臣に諮問したところ、右大臣藤原朝臣豊成(とよなり)、中務卿藤原朝臣永手(ながて)等は道祖王の兄塩焼(しほやき)王を推し、摂津大夫文屋真人珍努(ちの)(240F4長(なが)皇子の子珍努(ちの)王で天平勝宝4年9月に文室(ふむや)真人の姓を授けられました)、左大弁246H4大伴宿禰古(こ)麻呂等は舎人親王の子の池田(いけだ)王を推したので、大納言245H25藤原朝臣仲(なか)麻呂が天皇の裁断を仰ぎ、「皇室の中で240F6舎人親王、240F8新田部親王がもっとも年長であるので、その子からと考え、さきに道祖(ふなと)王を立てたが志は淫縦で教えても悔い改めないので廃した。船(ふね)王は閨房が治まらず、池田(いけだ)王は孝心に欠け、塩焼(しほやき)王は太上天皇に無礼を働き、大炊(おほひ)王一人だけがまだ若いが悪い評判がないのでこれを立てたい」との勅があったので、舎人親王の子の大炊(おほひ)王を皇太子としたとします。

 この「とよなり」、「ながて」、「しほやき」、「ちの」、「いけだ」、「ふね」、「おほひ」は、

  「トイ・イオ・(ン)ガリ」、TOI-IO-NGARI(toi=tip,summit,origin,move quickly,incite;io=muscle,tough,obstinate;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「疲れを知らずに・駆け抜けた・困難に遭遇した(左遷された。朝臣)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「ナ・(ン)ガ・タイ」、NA-NGA-TAI(na=by,belonging to,indicating parentage or descent,satisfied;nga=satisfied,breathe;tai=the sea,tide,wave,anger,violence)、「現状に・満足している・猛烈な(朝臣)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」と、「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」となった)

  「チオ・イア・キ」、TIO-IA-KI(tio=cry;ia=indeed,current;ki=full,very)、「(聖武天皇の女245F4不破(ふは)内親王を妻としたため聖武後の皇位継承の有力候補とされながら、天平14年10月から17年4月まで伊豆に配流、天平宝字元年4月にも皇嗣とならず、同年7月の246H12橘奈良(なら)麻呂の乱にも皇嗣の一人とされ、同8年9月恵美押勝によって今帝に擁立されて近江で非業の死を遂げるなど、悲運に)泣くことが・実に・多かった(王)」

  「チノ」、TONO(essentiality,self,reality,main,exact,quite)、「中核の(真人)」

  「イケ・タ」、IKE-TA(ike=high,lofty,strike with a hammer or other heavy instrument;ta=dash,beat,lay)、「(皇太子になり損ねるという)打撃を・受けた(王)」または「イカ・イタ」、IKA-ITA(ika=victim;ita=small,compact)、「(後に恵美押勝の乱に連座して配流された)小さな・犠牲者(王)」(「イカ」の語尾のA音と「イタ」の語頭のI音が連結し、AI音がE音に変化して「イケタ」となった)

  「フネネ」、HUNENE(luscious,ashamed,spiritless)、「恥ずべきことがあった(王)」(反復語尾が脱落して「フネ」となった)

  「オホ・オヒ」、OHO-OHI(oho=spring up,wake up,arise;ohi=grow,be vigorous)、「(思いがけず皇太子となって)びっくりして立ち上がって・元気を出した(王)」(「オホ」の語尾のO音と、「オヒ」の語頭のO音が連結して「オホヒ」となった)

の転訛と解します。

 

246H13山背(やましろ)王・橘奈良(なら)麻呂・上道臣斐太都(ひだつ)・巨勢朝臣堺(さかひ)麻呂・黄文(きふみ)王(久奈多夫礼(くなたぶれ)と改名)・道祖(ふなと)王(麻度比(まとひ)と改名)・多治比犢養(こうしかひ)・小野東人(あづまひと)・賀茂角足(つのたり。乃呂志(のろし)と改姓)・藤原弟貞(おとさだ)

 天平宝字元年6月条は245H1長屋王の子の山背(やましろ)王が「245H23橘諸兄の子の橘奈良(なら)麻呂が兵器を用意して246B2田村宮(皇太子が居る藤原仲麻呂邸)を包囲しようとしており、246H4大伴宿禰古(こ)麻呂もこの挙兵を知っている」と密告し、7月条は中衛舎人上道臣斐太都(ひだつ)および右大臣巨勢朝臣堺(さかひ)麻呂が奈良麻呂の謀反を密告したので、関係者を捕らえて糾明し、山背王の兄の黄文(きふみ)王(久奈多夫礼(くなたぶれ)と改名)、246H8道祖(ふなと)王(麻度比(まとひ)と改名)、246H4大伴宿禰古麻呂、多治比犢養(こうしかひ)、小野東人(あづまひと)、賀茂角足(つのたり。乃呂志(のろし)と改姓)等が杖下に、奈良麻呂は獄中に死んだとします。

 なお、天平宝字7年10月条によれば、孝謙天皇は山背王の密告を嘉して藤原の姓と弟貞(おとさだ)の名を賜ったとします。

 この「なら」、「ひだつ」、「さかひ」、「きふみ」、「くなたぶれ」、「まとひ」、「こうしかひ」、「あづまひと」、「つのたり」、「のろし」、「おとさだ」は、

  「ナ・アラ」、NA-ARA(na=by,belonging to,indicating parentage or descent,satisfied;ara=rise,rise up,awake)、「(反乱に)決起した・(橘諸兄の)子孫」

  「ヒタ・ツ」、HITA-TU(hita=move convulsively or spasmodically;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「急に(衝動的に)行動を起こす・ところがある(臣)」

  「タカヒ」、TAKAHI(trample,tread,place the foot on anything to hold it,disobey)、「(反乱を)押さえつけた(朝臣)」

  「キフ・ミ」、KIHU-MII(kihu,kihukihu=fringe,thrums of a cloak;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「(首謀者の)端に・しがみついていた(王)」

  「クナ・タ・プレ」、KUNA-TA-PURE((Hawaii)kuna=ithed,scabbies;ta=the...of,dash,beat,lay;pure=a ceremony for removing tapu and for other purposees)、「疥癬にかかっている(汚らしい)・(謀反という)禁忌破りを・犯した(王)」

  「マトヒ」、MATOHI(a kind of dance performed by men only(tumatohi=erect,watchful,onthe alert))、「(人の注目を集める)纏を持って踊った(だけの。王)」(古典篇(その十)の221H15都摩杼比(つまどひ)の項を参照してください。)

  「カウ・ウチ・カヒ」、KAU-UTI-KAHI(kau=swim,wade;uti=bite;kahi,kakahi=chief)、「(泳ぐように)あちこちに・噛みついた(攻撃的な)・首長」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  「ツノウ・タリ」、TUNOU-TARI(tunou=nod the head,sign of assent;tari=carry,bring,urge,incite)、「(他の者に)同意を・強要した(者)」

  「ナウ・ラウチプ」、NAU-RAUTIPU(nau=come,go;rautipu=rautupu=retaliate,kill in revenge)、「死の報復が・やってきた(者)」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」と、「ラウチプ」のAU音がO音に変化し、語尾のPU音が脱落して「ロチ」から「ロシ」となった)

  「オ・トタタ」、O-TOTATA(o=the...of;totata=hasten)、「(いち早く密告することによって謀反人の捕縛を)急がせた・功労者(王)」

の転訛と解します。(「山背(やましろ)王」については古典篇(その十二)の233H24山背(やましろ)大兄王の項を、「小野東人(あづまひと)」については古典篇(その十三)の234H1佐伯連東人(あづまひと)の項を参照してください。)

 

246H14安宿(あすかべ)王・佐伯大成(おほなり)・多治比国人(くにひと)・佐伯全成(またなり)・藤原朝臣乙縄(おとなは)・県犬養宿禰佐美(さみ)麻呂・佐味朝臣宮守(みやもり)

 天平宝字元年7月条は、さらに奈良麻呂の変の処置として、246H13黄文王の兄の安宿(あすかべ)王とその妻子を佐渡に配流し、信濃国守佐伯大成(おほなり)、土左国守246H9大伴古滋斐(こしび)は任国へ配流し、遠江守多治比国人(くにひと)を伊豆国へ配流し、陸奥国守佐伯全成(またなり)は自ら首をくくり、右大臣246H12藤原朝臣豊成(とよなり)を太宰員外師に、その男乙縄(おとなは)を日向員外掾にそれぞれ左遷したとし、密告者の246H13山背(やましろ)王、246H13巨勢朝臣堺(さかひ)麻呂、上道臣斐太都(ひだつ)、県犬養宿禰佐美(さみ)麻呂、佐味朝臣宮守(みやもり)に叙位が行われたとします。

 この「あすかべ」、「おほなり」、「くにひと」、「またなり」、「おとなは」、「さみ」、「みやもり」は、

  「アツ・カペ」、ATU-KAPE(atu=to indicate a direction or motion towards,to indicate reciprocated action;kape=pass by,reject,pick out,move with the point of a stick,eyebrow)、「(つまみ出されて)別扱いに・された(王)」

  「オホ・(ン)ガリ」、OHO-NGARI(oho=spring up,wake up,arise;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「すっくと立つている・力のある(国守)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「クニ・ピト」、KUNI-PITO((Hawaii)kuni=(Maori)tungi=set a light to,kindle,burn;pito=end,extremity,at first)、「(灯を灯す)集落(国)の・第一人者(国守)」

  「マタ・(ン)ガリ」、MATA-NGARI(mata=deep swamp,face,eye,edge,medium of communication with a spirit,spell;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「眼に・力がある(眼光が・鋭い。国守)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「アウト・ナハ」、AUTO-NAHA(auto=trailing behind,slow,drag out;naha,nahanaha=well arranged,in good order)、「(お膳立てができた)列の・後ろについて行く(朝臣)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

  「タミ」、TAMI(press down,suppress,smother,cmpleted in weaving)、「(灰をかけて火を消した)反乱を未然に防止した(宿禰)」

  「ミヒ・イア・モリ」、MIHI-IA-MORI(mihi=greet,admire,sigh,for;ia=indeed,current;mori=fondle,caress)、「実に・尊敬すべき人(貴人。その住む宮)を・世話する(人)」

の転訛と解します。

 

 

[247淳仁天皇]

 

247A淳仁天皇(淡路廃帝)

 240F6舎人親王の第7子、親王と上総守当麻(たぎま)真人老(おゆ)の女山背(やましろ)の子の246H12大炊(おほひ)王です。

 天平宝字元年4月に前月に廃太子となった246H8道祖(ふなと)王の代わりに皇太子となり、天平宝字2年8月に禅譲を承けて即位しました。大納言245H25藤原仲麻呂はかねてから大炊王に亡き長男、真従(まより)の未亡人、247E粟田朝臣諸姉(あはたのもろね)を娶らせ、自邸田村第に住まわせており、立太子・即位には仲麻呂の画策があったとされます。

 天皇は、即位するとまもなく仲麻呂を太保(右大臣)に任じ、247H1恵美押勝(えみのおしかつ)の姓名のほか、功封、功田、鋳銭、挙稲を与え、恵美家印を太政官印に代えて用いることを認め、天平宝字4年正月には太政大臣に任じました。

 同年6月光明皇太后が没し、翌年247B1保良宮に行幸したころから高野天皇(孝謙上皇)は看病禅師道鏡を寵愛するようになり、これが原因となつて淳仁天皇と不和となり、天平宝字6年6月高野天皇は「常祀と小事は淳仁天皇が行い、国家の大事賞罰は朕が行う」との詔を発します。

 天平宝字8年9月恵美押勝の乱が勃発し、高野天皇は追討軍を発して乱を鎮圧し、同年10月淳仁天皇は廃されて淡路国の一院に幽閉され、このため淡路廃帝、淡路公などと称されます。翌年10月淳仁天皇は脱走を試みて失敗、翌日死亡しました。

 国風諡号はありません。明治3年7月淳仁天皇の名が追贈されました。

 この「おほひ」は、

  「オホ・オヒ」、OHO-OHI(oho=spring up,wake up,arise;ohi=grow,be vigorous)、「(思いがけず皇太子となって)びっくりして立ち上がって・元気を出した(王)」(「オホ」の語尾のO音と、「オヒ」の語頭のO音が連結して「オホヒ」となった)

の転訛と解します。

 

247B1保良(ほら)宮

 天平宝字3年11月条は、造宮輔中臣丸連張弓(ゆみはり)と越前員外介長野連君足(きみたり)を派遣して保良(ほら)宮を造らせたとします。

 同5年正月には官人に宅地を支給、同年10月ここに遷都して北京と称し、近江国滋賀郡、栗太郡を畿内に準ずる畿県とし、同6年3月には諸国に諸殿等の造営を急がせていますが、同年5月の孝謙上皇・淳仁天皇の対立、平城宮への帰還以後放棄されたようです。

 宮の位置は、瀬田川右岸、大津市国分付近とされます。

 この「ほら」は、

  「ホラ」、HORA(scatter over a surface,spread out,display,go,flee,escape)、「(広い地域に)広がった(宮)」または「(政変があって)逃げ出した(宮)」

の転訛と解します。

 

247B2小治田(をはりだ)宮

 天平宝字4年8月条は、小治田(をはりだ)宮に行幸したとします。

 翌年正月7日条は小治田岡本(をはりだのをかもと)宮とあり、11日条は243B2平城宮に還つたとします。

 この宮は、現在までの発掘により奈良県高市郡明日香村の雷(かみなり)丘の東方一帯と推定されます。

 この「をはりだのをかもと」、「かみなり」は、

  「オ・パリ・タ・ノ・アウカハ・モト」、O-PARI-TA-NO-AUKAHA-MOTO(o=the...of;pari=cliff,flowing of the tide;ta=dash,beat,lay;no=of;aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe;moto=strik with the fist)、「崖が・ある・場所・の・塁壁を巡らした(岡の)・拳骨で殴った(浸食された)場所にある(宮)」(「パリ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」と、「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

  「カミ・(ン)ガリ」、KAMI-NGARI(kami=eat;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「強い力で・(食べる)圧倒する(雷。雷が落ちたように浸食された。丘)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。

 

247C1舎人(とねり)親王

 父は240F6舎人親王の項を参照してください。

 

247C2当麻(たぎま)真人山背(やましろ)

 母は上総守当麻(たぎま)真人老(おゆ)の女山背(やましろ)です。

 この「たぎま」、「やましろ」は、

  「タ(ン)ギ・マ」、TANGI-MA(tangi=sound,cry,lamentation;ma=white,clear)、「呪文を唱える(祭祀を行う)・清らかな(真人)」

  「イア・マチロ」、IA-MATIRO(ia=indeed,current;matiro=look longingly at,beg for food)、「実に・(食欲がありそうに見える)肥っている(女)」

の転訛と解します。(「当麻真人老(おゆ)」の「老(おゆ)」については古典篇(その十四)の241H5氷連老(おゆ)の項を参照してください。)

 

247D三原(御原。みはら)王・三島(みしま)王・船(ふね)王・池田(いけだ)王・守部(もりべ)王・室(むろ)女王・飛鳥田(あすかた)女王・三長(みなが)真人・山辺(やまのへ)真人

 兄弟姉妹は三原(御原。みはら)王、三島(みしま)王、246H12船(ふね)王、246H12池田(いけだ)王、守部(もりべ)王、室(むろ)女王および飛鳥田(あすかた)女王が続紀に見えています。

 三原(御原。みはら)王は、弾正尹、治部卿、大蔵卿などを歴任し、天平勝宝4年7月中務卿正三位にて没しています。

 三島(みしま)王は、従四位下(皇族として与えられる最初(最低)の位階)のまま没(没年不詳)しています。その女の河辺王と葛王は天平宝字8年10月淳仁の廃位に伴い伊豆国へ配流されていたのを宝亀2年7月に属籍を回復しました。

 船(ふね)王と池田(いけだ)王については、前出246H12船(ふね)王246H12池田(いけだ)王の項を参照してください。

 守部(もりべ)王は、宝亀2年7月以前に従四位上にて没(没年不詳)しています。その男の笠王、何鹿王と為奈王は、三原王の男の山口王、長津王、船王の男葦田王等とともに、三長(みなが)真人の姓を与えられて、丹後国へ配流されていましたが、宝亀2年7月に皆属籍を回復し、笠王、何鹿王と為奈王は、三島王の男林王とともに同年9月に山辺(やまのへ)真人の姓を与えられたとします。

 室(むろ)女王は、天平宝字3年11月に従四位下四品にて没しています。

 飛鳥田(あすかた)女王は、天平宝字8年10月淳仁の廃位に伴い従四位下四品を剥奪されますが、宝亀4年3月に従四位下を復され、延暦元年6月に没しています。

 この「みはら」、「みしま」、「もりべ」、「むろ」、「あすかた」、「みなが」、「やまのへ」は、

  「ミハ・ラ」、MIHA-RA(miha=wonder,distant descendant,young fronds of fern;ra=wed)、「感嘆すべき(能力を発揮したことが)・たくさんある(王)」または「ミハロ」、MIHARO(wonder at,admire,be surprised)、「驚くほど(優秀で)感嘆すべき(王)」(語尾のO音がA音に変化して「ミハラ」となった)

  「ミチ・マハ」、MITI-MAHA(miti=lick,backwash;maha=many,abundance,satisfied,depressed)、「何回も・(唇を噛んだ)失敗した(王)」

  「モリ・ペ」、MORI-PE(mori=fondle,caress,low,mean,person of no account;pe=crushed,soft)、「抹殺された・取るに足りない(王)」

  「ムフ・ロ」、MUHU-RO(muhu=grope,feel after;ro=roto=inside)、「内部を・手探りで探すような(暗い部屋(室)に閉じこもっている。女王)」(「ムフ」のH音が脱落して「ム」となった)

  「アツ・カタ」、ATU-KATA(atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action;kata=laugh,opening of shellfish)、「良く・笑う(女王)」

  「ミナ・(ン)ガ」、MINA-NGA(mina=desire,feel inclination for;nga=satisfied,breathe)、「(属籍を回復して)満足することを・切望している(真人)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

  「イア・マ・ノヘア」、IA-MA-NOHEA(ia=indeed,current;ma=white,clear;no=of,belonging to;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(属籍が回復されて)何処で・も・実に・清浄である(晴れて名誉ある身分に復した。真人)」(「ノヘア」の語尾のA音が脱落して「ノヘ」となった)

の転訛と解します。

 

247E粟田朝臣諸姉(もろね)

 淳仁即位前紀は、大納言245H25藤原仲麻呂はかねてから246H12大炊王に亡き長男、真従(まより)の未亡人、粟田朝臣諸姉(もろね)を娶らせ、自邸田村第に住まわせていたと記します。諸姉の父母、兄弟姉妹は伝えられていません。淳仁の即位後天平宝字2年8月、諸姉は従5位下を授けられます(淳仁の嬪となったことを示すとされます(後宮職員令))。

 宝亀9年3月の勅により、「(淡路親王)の先妃当麻氏の墓を御墓と称すべし」とされました。『延喜式』は御墓を「淡路墓、当麻氏、在淡路国三原郡」とします。『陵墓要覧』は所在地を兵庫県三原郡南淡町筒井馬目とします。

 なお、前夫藤原眞従(まより)は、天平勝宝元年4月従5位下、同年8月中宮少輔となり、まもなく没しています。

 この「もろね」、「まより」は、

  「モロ・ネイ」、MOLO-NEI((Hawaii)molo=to turn,twist,spin,to interweave and interlace,to tie securely;nei=to denote proximity to or connection with,to indicate continuance of action)、「くるくると(休みなく)・動き回っていた(女)」または「(夫または頼りになる者に)しっかりと・頼り切っていた(女)」

  「マイオリ」、MAIORI(=maori=normal,ordinary,native,freely without restrain)、「ごく普通の(息子)」(IO音がYO音に変化して「ヨ」となった)

の転訛と解します。

 

247G淡路(あはぢ)陵

 宝亀9年3月の勅により、廃位後天平神護元年10月に淡路の配所で没した「淡路親王の墓を山陵と称し、その先妃当麻氏の墓を御墓と称すべし」とされました。『延喜式』は陵を「淡路陵、廃帝、在淡路国三原郡」とします。『陵墓要覧』は所在地を兵庫県三原郡南淡町賀集字岡ノ前とします。

 「淡路(あはぢ)」については、地名篇(その四)の兵庫県の(36)淡路国の項を参照してください。

 

247H1恵美押勝(ゑみのおしかつ)・真先(まさき。本名執弓(ゆみとり))・訓儒(くす)麻呂(本名浄弁(じやうべん))・朝獵(あさかり)・少湯(をゆ)麻呂(小弓(こゆみ)麻呂)・薩雄(さつを)・辛加知(からかち)・執棹(さをとり)・刷雄(よしを)

 天平宝字2年8月条は、天皇が即位すると245H25藤原仲麻呂を太保(右大臣)に任じ、恵美押勝(ゑみのおしかつ)の姓名のほか、功封、功田、鋳銭、挙稲を与え、恵美家印を太政官印に代えて用いることを認めたとします。「恵美」は「長年にわたって皇室を補佐しその成果が凡恵の美の極である」ことにより、「押勝」は「暴を禁じ乱を静める」ことによるとされました。

 天平宝字8年9月条の薨伝は、押勝を藤原朝臣鎌足(かまたり)の曾孫、藤原武智(むち)麻呂の第二子、はなはだ聡明で阿倍少(すくな)麻呂に算術(測量、天文、暦法を含む)を学び、内舎人から昇進を重ねて天平勝宝元年に大納言となって朝政を一手に掌握し、橘奈良麻呂の乱を平定して天平宝字2年に恵美押勝の名を賜り、同4年に大師(太政大臣)となり、男真先(まさき。本名執弓(ゆみとり))、訓儒(くす)麻呂(本名浄弁(じやうべん))、朝獵(あさかり)を参議とし、少湯(をゆ)麻呂(小弓(こゆみ)麻呂)、薩雄(さつを)、辛加知(からかち)、執棹(さをとり)を皆衛府、関国司とし、道鏡が孝謙上皇に寵愛されると、都督使となつて兵を掌り、遂に乱を起こして一族は滅亡した(ただ一人第六子の刷雄(よしを)だけが少い頃から仏道を修めていたので死を免れて隠岐国へ流された)とします。

 この「ゑみのおしかつ」、「まさき」、「ゆみとり」、「くす」、「じやうべん」、「あさかり」、「をゆ」、「こゆみ」、「さつを」、「からかち」、「さをとり」、「よしを」は、

  「エミ・(ン)ガウ・オチ・カツア」、EMI-NGAU-OTI-KATUA(emi=be assembled,be gathered together;ngau=bite,hurt,attack;oti=fininished,gonr or come for good;katua=adult,stockade,main portion of anything as trunk of a tree etc.)、「乱を・治めたことが・何回もあった・(頼りになるしっかりした)男子」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」となった)

  「マタキ」、MATAKI(diminish,look at,inspect,watch)、「(切り刻まれて)小さくなった(男)」

  「イ・フミ・トリ」、I-HUMI-TORI(i=past tense,beside;humi=abundant,abundance;tori=cut)、「さんざんに・切り刻まれた(男)」(「イ」のI音と「フミ」のH音が脱落した語頭のU音が連結して「ユミ」となった)

  「クツ」、KUTU(louse,vermin of any kind infesting human beings)、「(人に害を及ぼす)蚤虱のような(男)」

  「チオ・ペナ」、TIO-PENA(tio=cry,rock-oyster;pena=like that,treat,do or act in that way)、「泣いて・ばかりいる(男)」または「岩牡蠣に・似ている(ごつい。男)」(「チオ」が「ジョウ」と、「ペナ」が「ベン」となった)

  「アタ・カリ」、ATA-KARI(ata=gently,clearly,openly,cautiously;kari=dig,wound,rush along violently)、「公明に・(丹念に掘り起こす)検討を積み重ねる(朝臣)」

  「オイ・ウ」、OI-U(oi=shout,shudder,move continuously,agitate;u=bite,be firm,be fixed)、「(しょっちゅう)身体を動かすのが・習慣となっている(男)」(「オイ」の語尾のI音と「ウ」のU音が連結して「オユ」となった)

  「コイ・フミ」、KOI-HUMI(koi=sharp,point,move about,almost;humi=abundant,abundance)、「しょっちゅう・動き回っている(男)」(「コイ」の語尾のI音と「フミ」のH音が脱落した語頭のU音が連結して「コユミ」となった)

  「タツ・アウ」、TATU-AU(tatu=reach the bottom,be content,agree;au=firm,sound,intense,certainly)、「確固とした・安心の境地に達している(悟りを開いている。男。僧)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)(叙位記事からみて薩雄と刷雄は別人とする説がありますが、この解釈からしますと、同一人と解されます。刷雄(よしを)の訓は『尊卑分脈』によるとされますが、「さつを」、「よしを」のいずれの訓による意味も本人に適合しています。下記の刷雄の解釈を参照してください。)

  「カラ・カチ」、KARA-KATI(kara=basaltic stone,old man,a term of address,secret plan,a request fo assistance in war,flag;kati=leave off,block up,shut of a passage,boundary)、「(越前守となって北陸)道を・塞いだ(男)」または「(為す術なく)取り残されて・いた(男)」

  「タオ・トリ」、TAO-TORI(tao=spear about 6 ft. long,younger brother or sister;tori=cut)、「(美濃守として中山道を守ったが瀬田の橋を落とされて押勝軍と合流することができず)槍を・切られた(武力を行使できなかった。男)」

  「イ・オチ・アウ」、I-OTI-AU(i=past tense,beside;oti=finished,gone or come for good;au=firm,sound,intense,certainly)、「実に・(命が助かって)うまく行った(男)」(「イ」のI音と「オチ」の語頭のO音が連結して「ヨチ」から「ヨシ」と、「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)(上記の薩雄の解釈を参照してください。)

の転訛と解します。

 

247H2高元度(ぐゑんど)・羽栗翔(はくりのかける)

 天平宝字3年2月条は、渤海使楊承慶等とともに迎藤原河清使の高元度(ぐゑんど)が出発したとします(「高」は高句麗の王族の姓とされます(『新撰姓氏録』))。

 高元度は、同5年8月に蘇州から南路をとって先に帰国しましたが、録事の羽栗翔(はくりのかける)は藤原河清のところに止まって帰国しなかったことが同5年11月条にみえます。

 この「ぐゑんど」、「はくりのかける」は、

  「(ン)ゲ(ン)ゲ・ト」、NGENGE-TO(ngenge=weary,tired,exhaustion;to=drag)、「(246H4藤原朝臣清河(きよかは)を)連れ帰ることに・(失敗して)疲れ果てた(使者)」(「(ン)ゲ(ン)ゲ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゲネ」から「ゲン」となった)

  「ハク・リ・ノ・カケ・ル」、HAKU-RI-NO-KAKE-RU(haku=complain of,find fault with;ri=bind,protect,screen;no=of;kake=ascend,beat to windward in sailing,climb upon or over,be superior to,overcome;ru=shake,agitate,scatter,quiver)、「不満を・持って・いた・(帰国船に乗るのを)強く・拒んだ(録事)」

の転訛と解します。

 

247H3僧華達(くゑたち)(俗名山村臣伎波都(きはつ))・範曜(ぼむえう)

 天平宝字4年12月条は、薬師寺の僧華達(くゑたち)(俗名山村臣伎波都(きはつ))が同寺の僧範曜(ぼむえう)と博打をして争いの末殺害したので、還俗させ陸奥国桃生の柵戸に配流したとします。

 この「くゑたち」、「きはつ」、「ぼむえう」は、

  「クワイ・タ・アチ」、KUWAI-TA-ATI(kuwai=a species of shark;ta=dash,beat,lay;ati=descendant,clan)、「鮫が・襲うような・(凶暴な性格の)種族(に属する人間)」(「クワイ」のAI音がE音に変化して「クヱ」となった)

  「キ・パツ」、KI-PATU(ki=full,very;patu=strike,beat,ill treat in any way,kill)、「(人を)数多く・傷つけた(臣)」(「パツ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハツ」となった)

  「ポノ・イホ」、PONO-IHO(pono=come upon,fall in one's way,be effected,taunt;iho=where the speaker is about to depart to some place,he is regarded as occupying a superior position)、「(博打に)勝ち誇って・冷笑した(そして立ち去ろうとした。僧)」(「ポノ」が「ポン」と、「イホ」のH音が脱落して「ヨ」から「ヨウ」となった)

の転訛と解します。

 

247H4葦原(あしはら)王(竜田(たつた)眞人)・御使(みつかひ)連麿(まろ)

 天平宝字5年3月条は、忍壁(おさかべ)親王の孫、山前(やまさき)王の子の葦原(あしはら)王が、天性凶悪で御使(みつかひ)連麿(まろ)と酒を飲んだ末怒つて刺し殺しその股の肉を膾にして罪に問われ、皇族の故を以て罪一等を減じ王名を剥奪されて竜田(たつた)眞人の姓をあたえられて種子嶋に流されたとします。

 この「あしはら」、「たつた」、「みつかひ」、「まろ」は、

  「アチ・パラ」、ATI-PARA(ati=descendant,clan;para=sediment,refuse,dust)、「塵芥の・ような(種族に属する。王)」(「パラ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

  「タツ・ウタ」、TATU-UTA(tatu=reach the bottom,be content,agree;uta=the land,the inland,put persons or goods on board a canoe)、「地の・果て(の地=種子島に配流された。真人)」(「タツ」の語尾のU音と「ウタ」の語頭のU音が連結して「タツタ」となった)

  「ミヒ・ツカ・アイ」、MIHI-TUKA-AI(mihi=greet,admire,sigh for;tuka,tukatuka=start up,proceed forward;ai=denoting present habitual condition or action)、「尊敬すべき(人物に奉仕する)・常に・出歩く(使いをする。連)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「ツカ」の語尾のA音と「アイ」の語頭のA音が連結して「ツカイ」となった)

  「マラウ」、MARAU(fork,pronged stick for catching eels,subject of talk,appearance)、「(魚を捕る)ヤス(で突かれた。男)」(AU音がO音に変化して「マロ」となった)

の転訛と解します。

 

247H5仲眞人石伴(いはとも)・石上朝臣宅嗣(やかつぐ)・高麗朝臣大山(おほやま)・伊吉連益(ます)麻呂・藤原朝臣田(た)麻呂・梶(かじ)・中臣朝臣鷹主(たかぬし)・高麗朝臣広山(ひろやま)

 天平宝字5年10月条は、仲眞人石伴(いはとも)を遣唐大使に、石上朝臣宅嗣(やかつぐ)を副使に任じ、また高麗朝臣大山(おほやま)を遣高麗使に、(天平宝字6年10月条によれば伊吉連益(ます)麻呂を同副使に)任じたとします。

 なお、同6年3月条は、遣唐副使石上朝臣宅嗣を免じて藤原朝臣田(た)麻呂を副使としたとします。

 また、同年4月条は、遣唐使船四隻のうちの一隻が安芸国から難波へ回送する途中で座礁して海に浮かぶことができず、その梶(かじ。木扁に施の旁)もまた波浪のために船尾が破れるという事故があったので、やむなく二隻編成に変更し、正使仲眞人石伴および副使藤原朝臣田麻呂は渡唐せず、判官の中臣朝臣鷹主(たかぬし)を正使と、高麗朝臣広山(ひろやま)を副使としたとします。

 この「いはとも」、「やかつぐ」、「おほやま」、「ます」、「た」、「かじ」、「たかぬし」、「ひろやま」は、

  「イ・ワ・トモ」、I-WHA-TOMO(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tomo=pass in,enter,begin,assault,take by assault)、「予期しない(船の事故という)伏兵に・見舞われ・た(真人)」

  「イア・カ・ツ(ン)グ」、IA-KA-TUNGU(ia=indeed,current;ka=take fire,be lighted,burn;tungu=kindle)、「実に・(火を燃やすように)情熱的に行動する・(集落または家の)灯を灯す(希望の灯である。朝臣)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「オホ・イア・マ」、OHO-IA-MA(oho=spring up,wake up,arise;ia=indeed,current;ma=white,clear)、「すっくと立つている・実に・清らかな(朝臣)」

  「マ・アツ」、MA-ATU(ma=go,come;atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action)、「(高麗との間を)往復・する(連)」(「マ」のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「マツ」から「マス」となった)

  「タ」、TA(the...of,dash,beat,lay)、「(仕事に)奮励した(朝臣)」

  「カハ・アチ」、KAHA-ATI(kaha=strong,able,persistency;ati,atiati=drive away)、「(船を)追いやることが・できるもの(方向を転換するもの。舵)」(「カハ」のH音が脱落し、その語尾のA音が「アチ」の語頭のA音と連結して「カチ」から「カジ」となった)

  「タカ・ヌイ・チヒ」、TAKA-NUI-TIHI(taka=fish(v.),turn on a pivot,heap,heap up;nui=large,important,many;tihi=summit,top,lie in a heap)、「(自分の地位が)巡って・最高に・重要な(地位=正使となった。朝臣)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」と、「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

  「ヒラウ・イア・マ」、HIRAU-IA-MA(hirau=entangle,be caught;ia=indeed,current;ma=white,clear)、「(急に副使を命ぜられて)困惑した・実に・清らかな(朝臣)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

の転訛と解します。

 

247H6御長(みなが)真人

 天平宝字7年8月条は、糺政台尹三品246H12池田(いけだ)親王の上表に基づき、未だ王籍に入っていなかった凶族(246H13橘奈良麻呂を指すか)の女が生んだ男女五人に御長(みなが)真人の姓を賜ったとします。

 御長(みなが)真人の「みなが」については、前出247D三長(みなが)真人の項を参照してください。

 

247H7板振(いたふり)鎌束(かまつか)・平群朝臣虫(むし)麻呂・高内弓(ないきゅう)・広成(ひろなり)・戒融(かいゆう)

 天平宝字7年10月条は、左兵衛板振(いたふり)鎌束(かまつか)が渤海から帰国の途中人を海中に投げ入れたとして獄に下されたとします。

 事件は、送使判官平群朝臣虫(むし)麻呂が渤海使節王新福を送るとき、その船が腐って壊れかけていたので、上申して留まり、鎌束を修理した船の船師として王新福を送らせたが、帰りの船に留学生の高内弓(ないきゅう)(宝亀4年6月条では渤海使は日本の使「内雄(うちを)」と呼称しています)、妻高氏、男広成(ひろなり)、緑児(みどりご)一人、乳母一人、入唐学問僧戒融(かいゆう)、優婆塞一人を乗せたところ、暴風に遭い難渋したので、鎌束がこの災難は異国の女性や奇怪な優婆塞を乗せているからだとして、高氏の妻、緑児、乳母、優婆塞の四人を海中に投げ込んだというものでした。

 この「いたふり」、「かまつか」、「ないきゅう」、「みどりご」、「かいゆう」は、

  「イタ・プリ」、ITA-PURI(ita=tight,fast,compact;puri=sacred,pertaining to ancient lore,one instructed in esoteric lore)、「古い(秘密の)迷信に・凝り固まった(船師)」(「プリ」のP音がF音を経てH音に変化して「フリ」となった)

  「カマ・ツカ」、KAMA-TUKA(kama=eager;tuka,tukatuka=start up,proceed forward)、「一生懸命に・(船を)進めようとした(船師)」

  「ナイ・キフ」、NAI-KIHU(nai=nei,neinei=stretched forward,wagging,vacillating,bobbing up and down;kihu,kihukihu=fringe,thrums of a cloak)、「船縁で(または服の端を掴んで)・地団駄を踏んだ(留学生)」(「キフ」のH音が脱落して「キウ」から「キュウ」となった)

  「ミト・リ・コ」、MITO-RI-KO(mito=pout;ri=wed;ko=addressing to males and females)、「(不満があると)しょっちゅう・泣きわめく・児(赤児)」

  「カイ・ウフ」、KAI-UHU(kai=fulfil its proper function,have full play;uhu=perform certain ceremonies over the bones of the dead to remove tapu)、「死者の霊を・きちんと弔った(僧)」(「カイ」の語尾のI音が「ウフ」の語頭のU音と連結し、H音が脱落して「カイユウ」となった)

の転訛と解します。(「平群朝臣虫(むし)麻呂」については古典篇(その十四)の240H17穂積朝臣虫(むし)麻呂の項を、「広成(ひろなり)」については古典篇(その十五)の244H4白猪史広成(ひろなり)の項を参照してください。)

 

247H8中臣朝臣伊加(いか)麻呂・葛井連根道(ねみち)・真助(ますけ)・酒波長歳(さかなみのをさとし)

 天平宝字7年12月条は、礼部少輔中臣朝臣伊加(いか)麻呂、造東大寺判官葛井連根道(ねみち)、伊加麻呂の男真助(ますけ)の三人が酒を飲んで時の忌諱に触れること(孝謙と道鏡の関係か)を話したとして、伊加麻呂は大隅守に左遷、根道は隠岐に、真助は土佐に流され、訴えた酒波長歳(さかなみのをさとし)には位階を授けて近江の史生に任じたとします。

 この「いか」、「ねみち」、「ますけ」、「さかなみのをさとし」は、

  「イカ」、IKA(victim)、「(みせしめにされた)犠牲者(朝臣)」

  「ネイ・ミチ」、NEI-MITI(nei,neinei=stretched forward,wagging,vacillating,bobbing up and down;miti=lick,lick up,backwash)、「(後悔して)唇を噛みしめて・地団太を踏んだ(連)」(「ネイ」の語尾のI音が脱落して「ネ」となった)

  「マツア・ケ」、MATUA-KE(matua=parent,division of an army,adult,growm up;ke=different,strange,extraordinary)、「異常に・大人びた(色気付いた。子)」(「マツア」の語尾のA音が脱落して「マツ」から「マス」となった)

  「タ・カナ・ミイ・ノ・オタ・トチ」、TA-KANA-MII-NO-OTA-TOTI(ta=the...of,dash,beat,lay;kana=stare wildly,bewhitch;(Hawaii)mii=clasp,good-looking;no=of;ota=unripe,dregs;toti=limp,halt)、「じっと・食い入るような視線を・投げかけて・いた・未熟な(または人間の屑の)・びっこの(片輪の。人間)」

の転訛と解します。

 

247H9文屋真人浄三(じゃうさむ。きよみ)・益(ます)人(益麻呂)・紀袁祁臣糠売(ぬかめ)・内原牟羅(むら)・身売(みめ)・狛売(こもめ)・真玉女(またまめ)・紀朝臣伊保(いほ)・田後部(たしりべ)

 天平宝字8年7月条は、議政官筆頭の246H12文屋真人浄三(じゃうさむ。きよみ)(天平宝字4年6月条の位階記事に「諱・文屋真人智努(ちの)」とあるのを最後に、翌5年正月条以降浄三(じゃうさん。きよみ)の呼称となります。)等が奏上して、紀寺の奴益(ます)人(益麻呂)の訴えによれば紀袁祁臣の女糠売(ぬかめ)が内原牟羅(むら)に嫁いで子の身売(みめ)、狛売(こもめ)を生み、その後寺で炊事をしていたのが庚午年籍で奴婢とされたので元の身分に復してほしいとのことであるが、過去の戸籍には奴婢と明記されているが、なぜ奴婢となったのかの縁由(入由)が記載されておらず、どう判断するか迷っているので天皇の判断を仰ぎたいとしたところ、資材帳に入由が記載されていないので元に復すべしとの勅があったが紀朝臣伊保(いほ)がこれを疑つたので、天皇が文屋真人浄三と247H1藤原恵美朝臣朝獵(あさかり)に対し口ずから勅をのたまひ、よって益麻呂等12人に紀朝臣、真玉女(またまめ)等59人に内原直を与え、京戸に編入したとします。

 この紀朝臣益麻呂は、もまなく従六位上に叙され、翌天平神護元年4月には従五位下を授けられ、神護慶雲元年8月には正五位下に叙され陰陽頭に任じられますが、称徳天皇の崩と道鏡の失脚の後の宝亀2年7月には陰陽頭を大津大浦にとって代わられます。

 そして宝亀4年7月条は、従四位下紀益麻呂を免じて庶人とし、姓を田後部(たしりべ)とし、去る天平宝字8年7月に放免した紀寺の賤は益麻呂を除き75人を旧の寺の奴婢としたとします。

 この「じゃうさむ」、「きよみ」、「ます」、「ぬかめ」、「むら」、「みめ」、「こもめ」、「またまめ」、「いほ」、「たしりべ」は、

  「チホウ・タ(ン)ガ」、TIHOU-TANGA(tihou=an implement for cultivating;tanga=be assembled,row,division of persons)、「(鍬で耕すように)コツコツと・政務をこなした(真人)」(「チホウ」のH音が脱落して「チオウ」から「ジョウ」と、「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「サン」となった)

  「キオ・ミヒ」、KIO-MIHI((Hawaii)kio=projection,protuberance;mihi=greet,admire,sigh for)、「尊敬すべき・衆に抜きん出た(真人)」(「キオ」が「キヨ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「マ・アツ」、MA-ATU(ma=go,come;atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action)、「(低い身分と高い身分の間を)行き来した(男)」

  「ヌカ・マイ」、NUKA-MAI(nuka=deceive,dupe;mai=clothing,dance)、「(出自について)偽った・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「ム・ラ」、MU-RA(mu=silent;ra=wed)、「全く・無口だった(男)」

  「ミイ・マイ」、MII-MAI((Hawaii)mii=clasp,good-looking;mai=clothing,dance)、「綺麗な顔をした・女」(「」ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「コモ・マイ」、KOMO-MAI(koma=pale,whitish;mai=clothing,dance)、「蒼ざめた(顔をした)・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「マ・タマ・マイ」、MA-TAMA-MAI(ma=white,clear;tama=son,child,man;mai=clothing,dance)、「清らかな(出自に汚れがない)・(人々の)子孫である・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「イホ」、IHO(heart,kernel,that wherein consists the strength of the thing,object of the reliance)、「芯が強い(朝臣)」

  「タ・チリ」、TA-TIRI(ta=the...of,dash,beat,lay;tiri=throw or place one by one,scatter)、「急に(その身分から)・放り出された(男)」

の転訛と解します。

 

247H10新羅使大奈麻金才伯(こむさいはく)・紀朝臣牛養(うしかひ)・粟田朝臣道(みち)麻呂

 天平宝字8年7月条は、新羅使大奈麻金才伯(こむさいはく)等が博多津に到着したので、右少弁紀朝臣牛養(うしかひ)、授刀大尉粟田朝臣道(みち)麻呂を派遣して問うたところ、唐の勅使韓朝彩が渤海から来て「日本の僧247H7戒融(かいゆう)を帰国させるべく渤海に送ったがいまだに帰国の連絡がない。確認の使者を出し、消息を唐の天子に報告することとしたい」とのことで確認のためにやってきたといい、これに対して「最近新羅から日本に帰化した者によれば新羅では日本の来襲を恐れて警備を厳重にしているというが真偽はどうか」と問い、「唐国の安氏の乱で海賊が横行するのに備えている」との回答があり、戒融の帰国について詳細を説明して還らせたとあります。(この新羅使の来日は、前年に引き続いてのもので、日本の新羅征討計画の停止を再度確認したいとの思惑があったのではないかとする説があります。)

 この「こむさいはく」は、

  「コムフ・タイ・ハク」、KOMUHU-TAI-HAKU(komuhu=whisper,murmur;tai=the sea,tide,wave,anger,violence,the other side;haku=complain of,find fault with,cold,chief)、「別の国(唐)の・(帰国の連絡がないという)不満を・(低い声で)ささやいた(使者)」(「コムフ」のH音が脱落して「コム」となった)

の転訛と解します。(「紀朝臣牛養(うしかひ)」については古典篇(その十五)の245H2小野朝臣牛養(うしかひ)の項を、「粟田朝臣道(みち)麻呂」については古典篇(その十五)の242H4錦部連道(みち)麻呂の項を参照してください。)

 

247H11山村(やまむら)王・坂上苅田(かりた)麻呂・牡鹿嶋足(しまたり)・矢田部老(おゆ)・紀船守(ふなもり)

 天平宝字8年9月条は、大師247H1藤原恵美朝臣押勝(おしかつ)の謀反の企てが漏れたので、高野天皇が少納言山村(やまむら)王を派遣して淳仁天皇の御所中宮院にある駅鈴、内印(天皇御璽)を回収しましたが、押勝がその男247H1訓儒(くす)麻呂に帰り道で奪わせたので、天皇は授刀少尉坂上忌寸苅田(かりた)麻呂、将曹牡鹿連嶋足(しまたり)を遣わして訓儒麻呂を射殺させ、押勝はまた中衛将監矢田部老(おゆ)に勅使を脅かさせたので、またもや授刀紀朝臣船守(ふなもり)が老を射殺しました。

 天皇は、押勝一族の官位を剥奪し、藤原の姓を除き、職分・功封を収公し、三関を固関しました。

 この「やまむら」、「かりた」、「しまたり」、「ふなもり」は、

  「イア・マ・ムラ」、IA-MA-MURA(ia=indeed,current;ma=white,clear;mura=blaze,flame)、「実に・清らかで・輝いている(王)」

  「カリ・タ」、KARI-TA(kari=dig,wound,rush along violently;ta=dash,beat,lay)、「突進して・攻撃する(忌寸)」

  「チマ・タリ」、TIMA-TARI(tima=a wooden implement for cultivating the soil;tari=carry,bring,urge,incite)、「奮い立って・(鍬で土地を耕すように)丹念に攻撃する(連)」

  「フナ・マウリ」、HUNA-MAURI(huna=conceal,destroy;mauri=life principle,source of emotions,not to be confused)、「何の躊躇もなく・(相手を)殺す(朝臣)」(「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

の転訛と解します。(「矢田部老(おゆ)」については古典篇(その十三)の236H17中臣間人連老(おゆ)の項を参照してください。)

 

247H12高丘連比良(ひら)麻呂・日下部宿禰子(こ)麻呂・佐伯宿禰伊多智(いたち)・角君家足(いへたり)・物部直広成(ひろなり)・佐伯宿禰三野(みの)・大野朝臣真本(まもと)・藤原朝臣藏下(くらじ)麻呂・石村村主石楯(いはたて)・村国連嶋主(しまぬし)・氷上(ひかみ)塩焼・恵美朝臣巨勢(こせ)麻呂・仲石伴(いはとも)・石川氏人(うぢひと)・大伴古薩(こさち)・阿倍少路(こみち)

 天平宝字8年9月条の押勝薨伝は、押勝の謀反を最初に密告したのは大外記高丘連比良(ひら)麻呂で、押勝勢は中宮院の鈴・印を収めて宇治から近江に向かいますが、山背守日下部宿禰子(こ)麻呂、衛門少尉佐伯宿禰伊多智(いたち)等が直ちに田原道から先に近江に到り瀬田の橋を焼いたので、押勝勢は高島郡に走って前少領角君家足(いへたり)の宅に宿ります。伊多智等は馳って越前国に到り、国守247H1辛加知(からかち)を斬ります。押勝は246H12塩焼王を立てて今帝とし、愛発関に入ろうとしますが、授刀物部直広成(ひろなり)等が防いだので、別の道から愛発関を目指しますが、伊多智等がこれを防ぎ、戻って三尾埼で佐伯宿禰三野(みの)、大野朝臣真本(まもと)等と激戦しているところに藤原朝臣藏下(くらじ)麻呂が応援に駆けつけて247H1真先勢を大いに破ります。押勝は遂に妻子三四人と船で逃げるところを軍士石村村主石楯(いはたて)が捕らえて斬り、妻子徒党34人も皆湖岸で斬られ、ただ一人第六子の刷雄(よしを)(247H1薩雄と同一人と考えられます)だけが少い頃から仏道を修めていたので死を免れて隠岐国へ流されたとします。

 また、美濃少掾村国連嶋主(しまぬし)が謀反に加担したとして罪されましたが、天平神護2年に至って無罪を認められました。逆賊として斬られた主な者は、氷上(ひかみ)塩焼(246H12塩焼王)、恵美朝臣巨勢(こせ)麻呂、仲真人石伴(いはとも)、石川朝臣氏人(うぢひと)、大伴宿禰古薩(こさち)、阿倍朝臣少路(こみち)等です。

 さらにさきに天平宝字元年7月に仲麻呂の讒言によって左遷された246H12藤原朝臣豊成(とよなり)を右大臣に復しました。

  この「ひら」、「こ」、「いたち」、「いへたり」、「みの」、「まもと」、「くらじ」、「いはたて」、「しまぬし」、「ひかみ」、「こせ」、「いはとも」、「うぢひと」、「こさち」、「こみち」は、

  「ヒラ」、HIRA(=hihira=shy,suspicious,go over carefully)、「疑り深かった(連)」

  「カウ」、KAU(alone,bare,only,as soon as)、「(乱を知ると近江へ)直ちに(急行した。宿禰)」(AU音がO音に変化して「コ」となった)

  「イ・タハ・チ」、I-TAHA-TI(i=past tense,beside;taha=side,edge,pass on one side;ti=throw,cast,overcome)、「一方の側(琵琶湖の東側)を・制圧・した(宿禰)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

  「イ・ヘ・タリ」、I-HE-TARI(i=past tense,beside;he=wrong,mistaken,difficulty,fail;tari=carry,bring,urge,incite)、「(押勝を)援助して・失敗・した(君)」

  「ミイ・(ン)ガウ」、MII-NGAU((Hawaii)mii=clasp,good-looking;ngau=bite,hurt,attack)、「ひたすら・攻撃する(宿禰)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「マハ・モト」、MAHA-MOTO(maha=many,abundance;moto=strike with the fist)、「たゆまずに・攻撃する(朝臣)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「クラ・チ」、KURA-TI(kura=red,precious,treasure,a weapon adorned with red feathers;ti=throw,cast,overcome)、「貴重な武器(兵力)を・投入した(困難な時に援軍を率いて来た。朝臣)」(古典篇(その六)の201H7高倉下(たかくらじ)の項を参照してください。)

  「イ・ワ・タタイ」、I-WHA-TATAI(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tatai=measure,arrange,plan,tactics)、「戦術(に長けていること)を・明らかに・した(村主)」(「ワ」のWH音がH音に変化して「ハ」と、「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「チマ・ヌイ・チ」、TIMA-NUI-TI(tima=a wooden implement for cultivating the soil;nui=large,many;ti=throw,cast,overcome)、「たくさんの・鍬を・配った(広い土地を・耕作させている。村主)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

  「ヒカ・ミイ」、HIKA-MII((Hawaii)hika,hikaka=to stagger,totter;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「よろめいて(謀反に加担して)・抜き差しできなくなった(王)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

  「コテ」、KOTE(squeeze out,crush,a form of incantation for bewitching)、「(敵を倒す)呪術を行った(朝臣)」または「破滅した(朝臣)」

  「イ・ワ・トモ」、I-WHA-TOMO(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tomo=be filled,pass in,enter,begin,assault)、「(逆賊の仲間に)入ったことが・明るみに・出た(真人)」(「ワ」のWH音がH音に変化して「ハ」となった)

  「ウチ・ピト」、UTI-PITO(uti=bite(utiuti=annoy,worry,ado);pito=end,extremity,at first)、「(将来を)心配した・(部族の中で)第一の人物(朝臣)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「コ・タツ」、KO-TATU(ko=addressing to males and females;tatu=reach the bottom,be content,agree)、「(地獄の)底に転落した・男子(宿禰)」

  「コ・ミチ」、KO-MITI(ko=addressing to males and females;miti=lick,backwash)、「(捕まって後悔して)唇を噛んだ・男子(朝臣)」

の転訛と解します。(「物部直広成(ひろなり)」については古典篇(その十五)の244H4白猪史広成(ひろなり)の項を参照してください。)

 

247H13道鏡(どうきょう)禅師

 天平宝字8年9月条は、道鏡(どうきょう)禅師に大臣禅師の位を与え、職分封戸は大臣に準ずるとし、さらに道鏡が出した辞表を却下したとします。

 この「どうきょう」は、

  「トウ・キオ」、TOU-KIO(tou=anus,posteriors,lower end of anything as the point of a whipping top;(Hawaii)kio=projection,protuberance)、「突出した(巨大な)・男根を持つ(禅師)」

の転訛と解します。

 

247H14和気(わけ)王

 天平宝字8年10月条は、高野天皇が247D三原(御原。みはら)王の子の兵部卿和気(わけ)王、左兵衛督247H11山村王、外衛大将245H28百済王敬福(きゃうふく)等を遣わして兵数百をもつて中宮院を囲み、押勝と共謀して高野天皇を退けようとした罪により、天皇を廃して親王とし、淡路公として退ける旨の詔を伝え、右兵衛督247H12藤原朝臣藏下(くらじ)麻呂が配所に護送したとします。

 また、同年10月条は、246H12船(ふね)親王および246H12池田(いけだ)親王を押勝に加担した親王の名を剥奪して船王は隠岐国へ、池田王は土佐国へ配流されました。なお、皇太子を定めない旨を宣したとします。

 この「わけ」は、

  「ワケ」、WAKE(=wakewake=hurry,hasten)、「(称徳天皇が皇太子を定めないことから皇位を望み、天平神護元年8月に謀反が発覚したという)事を急いだ(王)」

の転訛と解します。

 

 

[248称徳天皇]

 

248A宝字称徳孝謙皇帝(尊号)(246孝謙天皇。のちに重祚して248称徳天皇。高野(たかの)天皇とも)

 続紀は、245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(聖武天皇)と245E1藤原光明(こうみよう)子の第1子の阿倍(あへ)内親王とします。

 養老3年に出生、245F2基(き。もとゐ)王が夭折したため、天平10年正月21歳で皇女として初の皇太子に立てられ、天平勝宝元年7月に32歳で即位して246孝謙天皇となります。しかし、実権は紫微中台を設け藤原仲麻呂を紫微令に任じた母の光明皇太后が掌握していたとされます。天平勝宝8歳5月聖武太上天皇の崩御後、遺詔によつて246H8道祖(ふなと)王を皇太子としますが、翌天平宝字元年3月淫縦を理由に廃し、代わって246H8大炊(おほひ)王を皇太子とし、246H13橘奈良(なら)麻呂の乱を未然に鎮圧した後、天平宝字2年8月淳仁天皇に譲位します。

 天平宝字4年6月光明皇太后が没し、翌年保良宮に行幸したころから高野天皇は看病禅師道鏡を寵愛するようになり、これが原因となつて淳仁天皇と不和となり、天平宝字6年6月「常祀と小事は(淳仁)天皇が行い、国家の大事賞罰は朕が行う」との詔を発します。天平宝字8年9月恵美押勝の乱が勃発し、高野天皇は追討軍を発して乱を鎮圧し、同年10月淳仁天皇を廃し47歳で重祚して248称徳天皇となります。天皇は道鏡を太政大臣禅師に任じ、法王の暗いを授け、法王宮職を設置します。道鏡は宇佐八幡神の神託として皇位につこうとしますが、和気清麻呂に阻まれます。天皇は、神護景雲4年8月53歳で崩御します。

 続紀巻18の巻頭は、天皇名を宝字称徳孝謙皇帝と記し、その分注に「出家して仏になったので諡号を奉らなかった。そこで宝字2年に百官が奉った尊号を取つて称える」とします。天平宝字2年8月条は、高野(たかの)天皇が皇太子に譲位し、百官から上台(光明皇太后に対しては中台)、宝字称徳孝謙皇帝の尊号を奉られたとします。この尊号は、「(天平宝字元年3月に天皇の寝殿の承塵に「天下太平」の)宝字が出現してその徳を称えた、孝と謙譲の徳を兼ね備えた皇帝」の意とされます。国風諡号はありません。

 高野(たかの)天皇の呼称は、続紀巻21(淳仁即位前紀)以降にみえ、宝亀元年8月条に「高野天皇を大和国添下郡佐貴郷高野山陵に葬りまつる」とあり、この山陵名によるとする説と、西大寺付近にあった孝謙天皇の山荘の地名によるとする説があります。

 この「たかの」、「あへ」は、

  「タカ・ノホ」、TAKA-NOHO(taka=heap,lie in a heap;noho=sit,settle)、「(太上天皇として光明皇太后および淳仁天皇よりも)高い地位に・居る(天皇)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「アヘイ」、AHEI(able,possible within one's power)、「(何でもできる)能力がある(皇女)」(語尾のI音が脱落して「アヘ」となった)

の転訛と解します。

 (この項は、246A宝字称徳孝謙皇帝の項を再掲しました。)

 

248B1小治田(をはりだ)宮・鎌垣(かまかき)行宮・岸村(きしむら)行宮・深日(ふけひ)行宮・新治(にひはり)行宮・弓削(ゆげ)行宮・因幡(いなば)宮

 天平神護元年十月条は、13日に天皇が紀伊国への行幸に出発され、同日大和国高市郡の小治田(をはりだ)宮に到り、17日には紀伊国那賀郡の鎌垣(かまかき)行宮(所在地は現和歌山県那賀郡粉河町粉河とされます)に、25日には海部郡の岸村(きしむら)行宮(所在地は紀伊国名草郡貴志里。現和歌山市梅原・栄谷・中付近とされます)に、26日には和泉国日根郡の深日(ふけひ)行宮(所在地は現大阪府泉南郡岬町深日とされます)に、27日には同郡の新治(にひはり)行宮(所在地は未詳ですが、現大阪府貝塚市新井付近とする説があります)に、29日には河内国の弓削(ゆげ)行宮(所在地は河内国若江郡弓削郷。現大阪府八尾市東弓削・八尾木とされます)に到ったとします。

 同年閏10月3日条は大和国へ還つて因幡(いなば)宮()に到ったとします。

 この「かまかき」、「きしむら」、「ふけひ」、「にひはり」、「ゆげ」、「いなば」は、

  「カマカ・キ」、KAMAKA-KI(kamaka=rock,stone;ki=full,very)、「岩石が・いっぱいの(宮)」

  「キヒ・チム・ラ」、KIHI-TIMU-RA(kihi=indistinct,murmur of the sea;timu=ebb,ebbing,shoulder,end,tail;ra=wed)、「微かな潮騒が聞こえる・海岸に・接している(宮)」(「キヒ」のH音が脱落して「キ」となった)

  「フケ・ピ」、HUKE-PI(huke=dig up,excavate,disembowel fish;pi=flow of the tide,soaked)、「(川または潮の)流れが・穴を掘っている(場所。そこの宮)」(「ピ」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒ」となった)

  「ニヒ・パリ」、NIHI-PARI(nihi,ninihi=steep,neap of the tide,move stealthly;pari=cliff,upstanding,flowing of the tide)、「険しい・崖(の側の。宮)」(「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」となった)

  「イフ・(ン)ゲ」、IHU-NGE(ihu=nose,bow of a canoe;nge=noise,thicket)、「(東端が)カヌーの舳先のように高くなっている・灌木が生い茂る(土地。そこの宮)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」と、「(ン)ゲ」のNG音がG音に変化して「ゲ」となった)または「イ・フ(ン)ゲイ」、I-HUNGEI(i=past tense,beside;hungei,hungeingei=anger,vexation,resentment)、「怒り狂っ・た(首長=物部守屋大連の居住地。そこの宮)」(「イ」のI音と、「フ(ン)ゲイ」のH音が脱落し、NG音がG音に変化し、語尾のI音が脱落して「ウゲ」となった語頭のU音が連結して「ユゲ」となった)

  「イナ・パ」、INA-PA(ina=bask,warm oneself;pa=block up,stockade)、「日溜まりの・集落(宮)」の転訛と解します。(「小治田(をはりだ)宮」については古典篇(その十二)の233B3小墾田(をはりだ)宮の項を参照してください。)

 

248B2飽波(あくなみ)宮・由義(ゆぎ。「ゆげ」とも)宮

 神護景雲元年4月条は、飽波(あくなみ)宮(所在地は現奈良県生駒郡安堵町東安堵付近とされます)に行幸したとします。

 神護景雲3年10月条は、飽波宮を経て、由義(ゆぎ。「ゆげ」とも)宮(所在地は、248B1弓削(ゆげ)行宮を拡張した由義宮を西京とし、河内国の大県・若江・高安郡から安宿・志紀郡の一部にも及ぶものであったと推定されます)に行幸したとします。

 この「あくなみ」、「ゆぎ」は、

  「アク(ン)ガ・ミ」、AKUNGA-MI(akunga=rank and file;mi,mimi=stream,river)、「川が・列をなして(並んで)流れている(順次合流している土地。そこの宮)」(「アク(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「アクナ」となった)

  「イフ・(ン)ギア」、IHU-NGIA(ihu=nose,bow of a canoe;ngia=seem,appear to be)、「(東端が)カヌーの舳先のように高くなっている・ように見える(土地。そこの宮)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」と、「(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾のA音が脱落して「ギ」となった)(「由義(ゆげ)宮」と訓ずる場合については前出248B1弓削(ゆげ)行宮の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

248C1天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇

 父は245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(勝宝感神聖武皇帝)(聖武天皇)の項を参照してください。

 

248C2藤原光明(こうみよう)子

 母は245E1藤原光明(こうみよう)子の項を参照してください。

 

248D1基(き。もとゐ)王から248D4安積(あさか)親王まで

 兄弟姉妹は245F2基(き。もとゐ)王の項から245F5安積(あさか)親王までの項を参照してください。

 

248G高野(たかの)山陵

 宝亀元年8月条に「高野天皇を大和国添下郡佐貴(さき)郷高野山陵に葬りまつる」、「鈴鹿王の旧宅を山陵とす」とあり、『延喜式』は陵を「高野(たかの)陵、平城宮御宇天皇、在大和国添下郡」と、『陵墓要覧』は所在地を奈良市山陵町とし、成務陵の南に隣接する佐紀高塚古墳(全長約140メートルの前方後円墳)とします。この比定には、ここが鈴鹿王の旧宅であったのかおよび古墳の築造年代(5世紀)などから疑問があるとされます。なお、『紹運録』には「葬大和国高野陵、西大寺北也」とあります。

 この「高野(たかの)」については246A高野天皇の項を、「佐紀(さき)」については地名篇(その五)の奈良県の(4)佐紀楯波(さきたたなみ)古墳群の項を参照してください。

 (この項は、246G高野(たかの)山陵の項を再掲しました。)

 

248H1紀朝臣益(ます)女・大津宿禰大浦(おほうら)・石川朝臣永年(ながとし)

 天平神護元年8月条は、247H14和気(わけ)王が称徳天皇が皇太子を定めないことから皇位を望み、紀朝臣益(ます)女に呪詛をさせ、これに参議兼因幡守247H10粟田朝臣道(みち)麻呂、兵部大輔兼美作守大津宿禰大浦(おほうら)、式部員外少輔石川朝臣永年(ながとし)等が加担して謀議を行ったとの謀反が発覚し、和気王は逃亡して捕らえられ、伊豆国へ流される途中山城国相楽郡で絞殺されて狛野に埋葬されました。益女は綴喜郡で絞殺され、道麻呂は飛騨員外介とされ、宿敵の飛騨守246H13上道朝臣斐太都(ひだつ)によって幽閉されて死亡し、大浦は日向守(神護慶雲元年9月条は日向員外介を解かれ、その所持していた天文・陰陽の書を没収されたとします)となり(のち宝亀のはじめに免されて帰京)、永年は隠岐員外介となって数年後に自殺します。

 なお、宝亀2年9月には王の男女大伴王等5人の属籍が回復されています。

 この「おほうら」、「ながとし」は、

  「オホ・ウラ(ン)ガ」、OHO-URANGA(oho=spring up,wake up,arise;uranga=act or circumstance of becoming firm,place etc. of arrival)、「(日向に)配流されて・跳び上がって驚いた(宿禰)」(「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウラ」となった)

  「(ン)ガ(ン)ガ・トチ」、NGANGA-TOTI(nganga=breathe heavily or with difficulty,make a hoarse noise;toti=limp,halt)、「足を痛めて・苦しそうに息をしていた(朝臣)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」となった)

の転訛と解します。(「紀朝臣益(ます)女」については前出247H9益(ます)人(益麻呂)の項を参照してください。)

 

248H2佐伯宿禰助(たすく)・高屋連並木(なみき)

 天平神護元年10月条は、天皇が紀伊国行幸中に、淡路廃帝が逃亡しましたが、かねて2月に警備の強化を命じられていた淡路守佐伯宿禰助(たすく)、掾高屋連並木(なみき)等が兵を率いてこれを阻止し、淡路公は還つて翌22日に薨去したとします。

 この「たすく」、「なみき」は、

  「タツ・ク」、TATU-KU(tatu=reach the bottom,be content,strike one foot against the other;ku=silent)、「黙って・安心していた(宿禰)」または「(天皇から注意をうけて)あわてて(配所の警備に)駆けつけた・口数の少ない(宿禰)」

  「ナ・アミキ」、NA-AMIKI(na=by,belonging to;amiki=gather up without omitting any,go round about)、「(警備に)万全を・期した(連)」(「ナ」のA音と「アミキ」の語頭のA音が連結して「ナミキ」となった)

の転訛と解します。

 

248H3猶良比(なほらひ)・豊明(とよのあかり)

 天平神護元年11月条は、天皇が即位したので美濃国を246H2由機(ゆき)とし、越前国を246H2須伎(すき)として246H2大嘗(おほなめ)の祭を行い、猶良比(なほらひ)の豊明(とよのあかり)の節会(宴会)を行ったとします。直会(なほらひ)は神祭りの物忌みの状態から旧に復することをいうとされます。

 この「なほらひ」、「とよのあかり」は、

  「ナ・オラ・ヒ」、NA-ORA-HI(na=by,belonging to;ora=alive,well in health,safe,satisfied with food,survive,recover;hi=raise,rise)、「食事・によって・(気分や体調を)高揚させる(行事)」

  「トイ・イオ・ノア・カリ」、TOI-IO-NOA-KARI(toi=move quickly,encourage;io=muscle,tough;noa=free from tapu or any other restrictions,ordinary,denoting absence of limitations or conditions;kari=dig,rush along violently)、「疲れを知らずに・動き回り・止め度なく(無礼講で)・走り回る(宴会)」(「トイ」のI音と「イオ」の語頭のI音が連結して「トヨ」となった)

の転訛と解します。

 

248H4藤原朝臣真楯(またて)

 天平神護2年正月条は、前年11月に右大臣246H12藤原朝臣豊成(とよなり)が没したので、大納言246H12藤原朝臣永手(ながて)を右大臣に、中納言248H12白壁王と中納言藤原朝臣真楯(またて)(本名八束(やつか))を共に大納言に、参議244H2吉備朝臣真備(まきび)を中納言に、左大弁247H5石上朝臣宅嗣(やかつぐ)を参議に任じたとします。

 この「またて」、「やつか」は、

  「マ・タタイ」、MA-TATAI(ma=white,clear;tatai=measure,arrange,set in order,adorn,plan,tactics)、「(政務を)整理した・清らかな(私心がない。朝臣)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「イア・ツカ」、IA-TUKA(ia=indeed,current;tuka,tukatuka=start up,proceed forward)、「実に(ひたすら)・勉励する(朝臣)」

の転訛と解します。

 

248H5昆解宮成(こむげのみやなり)・羽栗臣翼(たすく)・鈍隠(とんいむ)

 天平神護2年7月条は、昆解宮成(こむげのみやなり)が丹波国天田郡華浪山から採掘したという白い鉛に似た金属を唐の錫と同等のものであるといって献上したので外従五位下を与えたところ、これは「鉛に似て鉛ではない。何というものか分からない」と言う者があり、他の鋳工とともに鋳造を行わせたところ、鉛ではないことが明らかとなったにもかかわらず、宮成はあくまでも白い鉛だと言い張ったが、宝亀8年に入唐準判官羽栗臣翼(たすく)がこの金属を楊州の鋳工に見せたところ、「是は鈍隠(とんいむ)(未詳。亜鉛またはアンチモニーかとされます)といって、贋銭を私鋳する者が用いるものだ」ということが判明したとします。

 この「こむげのみやなり」、「たすく」、「とんいむ」は、

  「コモウ・(ン)ガイ・ノ・ミヒ・イア・(ン)ガリ」、KOMOU-NGAI-NO-MIHI-IA-NGARI(komou=cover a fire with ashes or earth to keep it smouldering;ngai=tribe or clan;no=of;mihi=sigh for,grret,admire,show itself;ia=indeed,current,ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「(火を灰に埋めるように)事実を隠蔽する・族(やから)・の・実に・力強く・(これは白い鉛だと)主張した(男)」(「コモウ」のOU音がU音に変化して「コム」と、「(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化して「ゲ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「タ・ツク」、TA-TUKU(ta=dash,beat,lay;tuku=let go,give up,leave,send,evade a blow)、「言い逃れに・痛撃を与えた(臣)」

  「ト(ン)ガ・イナ」、TONGA-INA(tonga-restrained,suppressed,secret;ina=adding a fact as proof of anything,used to emphasise statement as to quality)、「とっておきの・秘密(の製造法。それに用いる金属)」(「ト(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「トナ」から「トン」と、「イナ」が「イン」となった)

の転訛と解します。

 

248H6弓削宿禰薩摩(さつま)

 神護景雲元年6月条は、東山道巡察使246H9淡海真人三船(みふね)が下野前介弓削宿禰薩摩(さつま)を罪に問うたのは不公平であるとして勅により解任し(道鏡の意によるものかとされます)、また薩摩の訴状はただ法文の文句を守つて義理を顧みていないから今後このようなことのないようにせよとします。

 この「さつま」は、

  「タ・ツマ」、TA-TUMA(ta=the...of,dash,beat,lay;tuma=challenge,abscess)、「(役所の中の)かさぶた・のような(見苦しい悪行をしている。宿禰)」

  または「タツ・マ」、TATU-MA(tatu=reach the bottom,be content;ma=white,clear)、「清らかな・極致にある(法文の一字一句に拘って道理を理解していない。宿禰)」

の転訛と解します。

 

248H7高橋連波自米女(はじめめ)・額田部蘇提売(そてめ)・網引公金村(かなむら)・少谷直五百依(いほえ)・建部大垣(おほかき)・倉橋部広人(ひろひと)

 神護景雲2年2月条は、対馬嶋上県郡の人高橋連波自米女(はじめめ)が夫とその父の死後墓のそばに廬を結んで孝義を尽くし、道を通行する人を感動させたとして、石見国美濃郡の人額田部蘇提売(そてめ)は寡婦となって久しく節義が顕著で、貯蓄で多くの人を救ったとして、備後国葦田郡の人網引公金村(かなむら)は幼くして父母を失い、痩せるほど追慕して礼を尽くしたとして、それぞれ租税を免除して表彰したとします。

 また、同年5月条は、甲斐国八代郡の人少谷直五百依(いほえ)は孝行で賞賛されたとして、信濃国更級郡の人建部大垣(おほかき)は兄弟の情が厚く苦楽を共にしたとして、同郡の人倉橋部広人(ひろひと)は私稲6万束を出して百姓の負債を償ったとして、それぞれ租税を免除して表彰したとします。

 この「はじめめ」、「そてめ」、「かなむら」、「いほえ」、「おほかき」、「ひろひと」は、

  「ハ・チヒ・マイマイ」、HA-TIHI-MAIMAI(ha=what!,breathe,taste,flavour;tihi=summit,top,topknot of hair,lie in a heap;mai,maimai=dance,song)、「何と・高尚な(心根の)・女性」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」と、「マイマイ」のAI音がE音に変化して「メメ」となった)

  「タウテ・マイ」、TAUTE-MAI(taute=mature,prepare food,look after;mai=dance,song)、「(人々の)面倒を見た・女性」(「タウテ」のAU音がO音に変化して「トテ」から「ソテ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「カ・ナ・ムラ」、KA-NA-MURA(ka=take fire,be lighted,burn;na=belonging to;mura=blaze,flame)、「光り輝く・ような・(父母を追慕する)情を燃やした(公)」

  「イ・ホエ」、I-HOE(i=past tense,beside;hoe=push away with the hand,paddle,make a voyage)、「(孝行で表彰に値するとして)推薦・された(直)」

  「アウ・ホウ・カキ」、AU-HOU-KAKI(au=firm,intense;hou=bind;kaki=neck,throat)、「(兄弟が)首を・固く・(情で)結んでいる(男子)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

  「ヒロウ・ピト」、HIROU-PITO(hirou=rake,net for dredging shellfish;pito=end,extremity,at first)、「(百姓の負債を)根こそぎにした(償った)・(部族で)第一の(人物)」(「ビト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

248H8藤原朝臣浄弁(じゃうべん)

 神護景雲2年8月条は、下総国から、天平宝字2年に問民苦使藤原朝臣浄弁(じゃうべん)等が毛野川(鬼怒川)を掘削して洪水を防ぐべきであると詳細に上申し、許可を得たにもかかわらず、常陸国が反対して着工できないと上申があったので、両国に命令して工事をさせたとします。

 この「じやうべん」は、

  「チホウ・ペヌ」、TIHOU-PENU(tihou=an implement for cultivating;penu=quite,completely,smear,a digging instrument)、「(鍬で耕すように丹念に)詳細で・完璧に(報告書をまとめた。朝臣)」(「チホウ」のH音が脱落して「チオウ」から「ジョウ」と、「ペヌ」が「ペン」から「ベン」となった)

の転訛と解します。

 

248H9廚(くりや)真人廚女(くりやめ)・氷上志計志(ひかみのしけし)麻呂

 神護景雲3年5月条は、詔で245F4不破(ふは)内親王は先に(押勝の乱に坐して)親王の名を剥奪したが、その後も悪事を重ねその罪は斬罪にあたるが特に赦し、廚(くりや)真人廚女(くりやめ)の姓名を与えて京から追放し、また(247H12氷上塩焼(246H12塩焼王)との子の)氷上志計志(ひかみのしけし)麻呂は土佐国へ遠流したとします。

 この「くりや」、「くりやめ」、「ひかみ」、「しけし」は、

  「クリ・イア」、KURI-IA(kuri=dog,any quadruped;ia=indeed,current)、「実に・(四つ足の)獣のような(真人)」

  「クリ・イア・マイ」、KURI-IA-MAI(kuri=dog,any quadruped;ia=indeed,current;mai=clothing,dance)、「実に・(四つ足の)獣のような・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「ヒカ・ミイ」、HIKA-MII((Hawaii)hika,hikaka=to stagger,totter;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「よろめいて(謀反に加担して)・抜き差しできなくなった(王=塩焼王)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

  「チカイ・チ」、TIKAI-TI(tikai=insult,domineer over,presumption,disrespect;ti=throw,cast,overcome)、「傍若無人な・振舞いがあった(王)」(「チカイ」のAI音がE音に変化して「チケ」から「シケ」となった)

の転訛と解します。

 

248H10県犬養姉女(あねめ)・忍坂(おしさか)女王・石田(いはた)女王

 神護景雲3年5月条は、県犬養姉女(あねめ)等を親しい臣下として厚遇していたにも拘わらず、忍坂(おしさか)女王、石田(いはた)女王等を率いて248H9廚(くりや)真人廚女(くりやめ)の下へ行き、248H9氷上志計志(ひかみのしけし)麻呂を皇太子に立てようとして三度にわたり厭魅を行ったので罪一等を減じて遠流したとします。

 この「あねめ」、「おしさか」、「いはた」は、

  「ア・ネイ・マイ」、A-NEI-MAI(a=the...of,belonging to;nei=stretch forward,to denote proximity to,to indicate continuance of action;mai=clothing,dance)、「(兄弟の)先に立つ(姉の)・女性」(「ネイ」の語尾のI音が脱落して「ネ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「オチ・タカ」、OTI-TAKA(oti=finished,gone or come for good;taka=fall off,fail of fukfilment,turn on a pivot,prepare,heap)、「(高い地位から)落ちて・終わった(女王)」

  「イ・ワタ」、I-WHA-TA(i=past tense,beside;wha=elevated stage,elevate,support,sring into prominence,hang,rest)、「(姉女を)援助・した(女王)」

の転訛と解します。

 

248H11輔治能(ふぢの)(和気)真人清(きよ)麻呂・法均(ほうきん)・別(わけ)部穢(きたな)麿・広虫女(ひろむしめ)・明基(みやうき)・習宜阿曽(すげのあそ)麻呂

 神護景雲3年5月条は、輔治能(ふぢの)和気真人清(きよ)麻呂等に姓を輔治能(ふぢの)真人と賜ったとします。

 同年9月条は、因幡国員外介輔治能真人清麻呂とその姉法均(ほうきん)(出家前の名は虫女(むしめ))が宇佐八幡大神の託宣をねじ曲げて言ったとして清麻呂は姓は剥奪して別(わけ)部と、名は穢(きたな)麿として大隅国へ追放し、法均は広虫女(ひろむしめ)と還俗して備後国へ追放し、また明基(みやうき)も名を取って追放したとします。なお、清麻呂と広虫は、称徳天皇の崩後の宝亀元年9月に赦免されて帰京します。

 この事件の発端は、太宰の主神習宜阿曽(すげのあそ)麻呂が道鏡に媚びて八幡大神の託宣を偽ったことに始まっています。

 この「ふぢの」、「きよ」、「ほうきん」、「わけ」、「きたな」、「ひろむしめ」、「みやうき」、「すげのあそ」は、

  「フチ・ノホ」、HUTI-NOHO(huti=hoist,fish(v.);noho=sit,settle)、「(高い地位に)引き立てられて・居る(真人)」

  「キオ」、KIO((Hawaii)projection,protuberance)、「(才能・業績が)突出している(真人)」(「キオ」が「キヨ」となった)

  「ホウ・キニ」、HOU-KINI(hou=bind,enter,dedicate or initiate a person;kini=nip,pinch,acrid,pungent)、「(性格に他人に対して)厳しいものを・持っている(尼)」(「キニ」が「キン」となった)

  「ワカイ(ン)ガ」、WAKAINGA(distant home)、「遠いところに住んでいる(部族。人)」(AI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

  「キ・タ(ン)ガエ」、KI-TANGAE(ki=full,very;tangae,tangaengae=umbilical cord,crop of bird,postration,exhaustion)、「徹底的に・打ちのめされた(人)」(「タ(ン)ガエ」のNG音がN音に変化し、語尾のE音が脱落して「タナ」となった)

  「ヒラウ・ム・チヒ・マイ」、HIRAU-MU-TIHI-MAI(hirau=entangle,be entangled,paddle;mu=silent;tihi=summit,top,point,lie in a heap;mai=clothing,dance)、「(流罪となって)困惑した・無口な・高い境地に居る・女性」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「ミオ・キ」、MIO-KI((Hawaii)mio=to disappear swiftly,to move swiftly,narrow;ki=full,very)、「実に・流れるように動き回っていた(尼)」

  「ツ(ン)ゲヘ・ノ・アト」、TUNGEHE-NO-ATO(tungehe=quail,be alarmed;no=of;ato=thatch,enclose in a fence)、「(自分が捏造した神託が清麻呂によって否定されて)たじろいだ・(垣根を引き回したような外輪山のある)阿蘇山の・地の出身の(神主)」(「ツ(ン)ゲヘ」のNG音がG音に変化し、H音が脱落して「ツゲ」から「スゲ」となった)

の転訛と解します。

 

248H12白壁(しらかべ)王

 宝亀元年8月4日条は、称徳天皇が崩御し、即日左大臣246H12藤原永手等が協議し遺宣として、諸王のうちで最も年長(62歳)の238天智天皇の孫、238F13施基(しき)親王の子の大納言白壁(しらかべ)王を皇太子に立てたとします。

 この「しらかべ」は、

  「チラハ・カペ」、TIRAHA-KAPE(tiraha=face upwards,exposed;kape=pass by,reject,pick out)、「(皇位に就くことを)拒否する・態度を示した(王)」(「チラハ」のH音が脱落して「チラ」から「シラ」となった)

の転訛と解します。

 

248H13蝦夷宇漢迷(うかにめ)公宇屈波宇(うくつはう)・道嶋宿禰嶋足(しまたり)

 宝亀元年8月条は、蝦夷宇漢迷(うかにめ)公宇屈波宇(うくつはう)が俄に一族を率いて賊地に逃げ帰り、使を出して呼んでも帰ろうとせず、同族を率いて城柵を侵すと公言したので、近衛中将兼相模守道嶋宿禰嶋足(しまたり)等を派遣して事実を検問することとしたとします。

 この「うかにめ」、「うくつはう」、「しまたり」は、

  「ウカ・ヌイ・マイ」、UKA-NUI-MAI(uka=hard,firm,be fixed,stanch blood;nui=large,many;mai,maimai=token or expression of affection)、「感情の表現(いろいろな記憶)を・たくさん・(心に)刻みつけている(公)」(「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「ウク・ツハウ」、UKU-TUHAU(uku=white clay,wash using clay for soap,ally,supporting tribe;tuhau=tuhou=a ceremonial girdle worn by the priest)、「きれいに洗った・(神主が着用する)特別の帯を締めている(首長)」

  「チマ・タリ」、TIMA-TARI(tima=a wooden implement for cultivating the soil;tari=carry,bring,urge,incite)、「(鍬で耕すように)丹念に・奮闘した(検問した。宿禰)」

の転訛と解します。

 

248H14吉備朝臣由利(ゆり)・坂上大忌寸苅田(かりた)麻呂・佐伯宿禰今毛人(いまえみし)・藤原朝臣楓(かへるて)麿

 宝亀元年8月条は、天皇が4月に由義宮から平城宮へ還られてから病床に臥して政務を執らず、典藏吉備朝臣由利(ゆり)だけが病室に出入りしたとし、247H13道鏡は押勝が斬首されてから権力をほしいままとし、みだりに土木工事を起こし、伽藍を修理し、国費を乱費し、刑罰を厳しくしてみだりに人を殺したとします。

 同月条は、皇太子が令旨を発して、坂上大忌寸苅田(かりた)麻呂の告発によって道鏡法師の姦謀が発覚したとして、造下野国薬師寺別当に任じて、左大弁佐伯宿禰今毛人(いまえみし)、弾正尹藤原朝臣楓(かへるて)麿に任地へ護送させたとします。

 この「ゆり」、「かりた」、「いまえみし」、「かへるて」は、

  「イ・フリ」、I-HURI(i=past tense,beside;huri=turn round,overturn,revolve)、「(病室と外部を)ぐるぐると(廻る)往復・した(朝臣)」(「イ」のI音と「フリ」のH音が脱落した語頭のU音が連結して「ユリ」となった)(なお、同音の植物の「百合(ゆり)」は、「イフ・リ」、IHU-RI(ihu=nose,bow of a canoe etc.;ri=bind)、「カヌーの舳先のような(先が湾曲している)花弁が・集まっている(花)」の転訛と解します。)

  「カリ・タ」、KARI-TA(kari=dig,dig up,rush along violently;ta=dash,beat,lay)、「(悪事の数々を)掘り起こして・痛撃を加えた(大忌寸)」

  「イ・ムア・エ・ミチ」、I-MUA-E-MITI(i=past tense,beside;mua=the front,the former time,the past,the future;e=to denote action in progress or temporary condition,by,of the agent,to give emphasis;miti=lick,lick up,backwash)、「以前・から・(顕著な功績や速い昇進を妬まれるなど強い反発)誹謗を・受けた」(「ムア」のUA音がA音に変化して「マ」と、「ミチ」が「ミシ」となった)(後出249H12佐伯宿禰今毛人(いまえみし)の項を参照してください。)

  「カヘル・テ」、KAHERU-TE(kaheru=spade or other implement for working the soil;te=crack)、「鍬で(濠を掘るように)・(道鏡を外界と)遮断した(朝臣)」

の転訛と解します。

 

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[249光仁天皇]

 

249A天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇

 続紀は、238A天智天皇の孫、238F13田原(たはら)天皇(施基(志紀。しき)皇子)の第六皇子の248H12白壁(しらかべ)王で、母は贈太政大臣243H3紀朝臣諸人(もろひと)の女の紀朝臣橡(とち)姫とします。

 天皇は、寛仁敦厚で、天平9年従四位下に、以後官職を歴任、累進して天平神護2年に正三位大納言に至りますが、「天平勝宝からこの方、皇位を嗣ぐ人が決まらなかったので、人はあれこれと疑い、罪し廃される者が多かった。天皇はこれらの事件を教訓として、思いがけない災難に遭わないように用心して、あるいは酒を飲んで行方をくらましたりして、災難を免れたことが何度もあった」と続紀は記します。

 道鏡の野望が潰れ、神護景雲4年8月に称徳天皇が崩御して、天武系の皇統が絶えると、藤原百川、永手等に擁立されて皇太子となり、道鏡を下野薬師寺別当に左遷し、10月に62歳で即位、宝亀と改元、249E1井上(ゐのうへ)内親王を皇后とし、249F1他戸(をさべ)親王を皇太子とします。まもなく皇后が巫蠱(ふこ)に坐して廃后・廃太子が行われ、249F2山部(やまべ)親王が立太子します。

 天皇は、在位中おおむね穏健な政策を敷き、大中臣清麻呂を右大臣に、藤原良継を内大臣とし、庶政刷新、綱紀粛正を図ったほか、渤海、新羅、唐からの使節が相次ぎ、また蝦夷の鎮定に努めています。

 天応元年4月、病により皇太子に譲位、同年12月に73歳で崩じました。

 同月条末付載明年正月条は、250H1藤原朝臣小黒(をぐろ)麻呂が誄(しのびごと)と天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇の尊諡を奉ったとします。漢風諡号は、同条に天皇の事績を称えて「(龍潜(即位前)の日は)物と光を和し、・・・寛仁大度にして、人に君とある徳有る者と謂ひつべし」とあることによるとする説があります。

 この「あめむねたかつがす」、「しらかべ」は、

  「アマイ・ムフ・ネイ・タカツ・(ン)ガツ」、AMAI-MU-NEI-TAKATU-NGATU(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;muhu=grope,push one's way through bushes,stupid;nei=to denote proximity to or connection with the speaker,to indicate continuance of action or sometimes merely sequence of events;takatu=prepare,bustling,wriggle;ngatu=crushed,mashed)、「燦然と光り輝いていた(天皇で)・手探りで・(皇后と皇太子を)次々に・あたふたと・抹殺した(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ムフ」のH音が脱落して「ム」と、「(ン)ガツ」のNG音がG音に変化して「ガツ」から「ガス」となった)

  「チラハ・カペ」、TIRAHA-KAPE(tiraha=face upwards,exposed;kape=pass by,reject,pick out)、「(皇位に就くことを)拒否する・態度を示した(王)」(「チラハ」のH音が脱落して「チラ」から「シラ」となった)

の転訛と解します。

 

249B難波(なには)宮・竹原井(たかはらゐ)行宮・楊梅(やまもも)宮・新城(にひき)宮

 宝亀2年2月条は、13日に交野(かたの)に行幸し、14日に245B3難波(なには)宮に到り、21日に竜田道を通って平城宮へ還る途中に245B4竹原井(たかはらゐ)行宮に到ったとします。

 同4年2月条は、平城宮内に造成していた楊梅(やまもも)宮が完成し、天皇が移り住んだとします。楊梅宮は、藤原仲麻呂の田村第の北にあったとされ、宝亀8年6月条には南池の蓮に一茎二花が生じたとあり、大きな池が造られていました。

 同5年8月条は、新城(にひき)宮(楊梅宮を指すかとされます)に行幸したとします。

 この「やまもも」、「にひき」は、

  「イア・マ・モモ」、IA-MA-MOMO(ia=indeed,current;ma=white,clear;momo=in good condition,well proportioned)、「実に・清らかで・(建造物や山川草木が)調和よく配置されている(宮)」

  「ニヒ・イキ」、NIHI-IKI(nihi=steep,move stealthily,(Hawaii)nihi=edge,border,sideways,stealthily;iki=comsume,devastate,sweep away)、「(時が)過ぎ去って行く・際にある(直近の。新しい。宮)」(「ニヒ」の語尾のI音と「イキ」の語頭のI音が連結して「ニヒキ」となった)

の転訛と解します。

 

249C1施基(志紀。しき)皇子(御春日(かすが)宮天皇。田原(たはら)天皇)

 父は、238F13施基(志紀。しき)皇子の項を参照してください。

 宝亀元年11月に施基(志紀。しき)皇子が春日の地に宮を営んでいたことにちなんで御春日(かすが)宮天皇と追尊しました。山陵の名にちなみ、田原(たはら)天皇とも称されます。

 山陵は、『延喜式』は「田原(たはら)西陵、在大和国添上郡」とし、『陵墓要覧』は所在地を奈良市矢田原町とし光仁天皇の田原東陵(奈良市日笠町所在)とは約2キロメートル隔たっています。

 この「春日(かすが)」については地名篇(その五)の(3)奈良のb春日の項を、「田原(たはら)」については後出249G2田原(たはら)陵の項を参照してください。

 

249C2紀朝臣橡(とち)姫

 母は、243H3紀朝臣諸人(もろひと)の女の紀朝臣橡(とち)姫です。

 宝亀2年12月に追尊して皇太后が贈られ、墓を山陵と称し(『延喜式』は山陵を「吉隠陵、在大和国城上郡」と、『陵墓要覧』は所在地を奈良県宇陀郡榛原町角柄とします。)、忌日を国忌の例に入れました。

 諸人には宝亀10年10月に従一位が贈られ、延暦4年5月に正一位太政大臣が贈られました。

 この「とち」は、

  「トチ」、TOTI(limp,halt)、「足を引きずっている(姫)」

  または「タウチチ」、TAUTITI(stick in as feathers into the hair or anything into one's girdle,girdle)、「髪を(羽根や簪などで)飾り立てている(姫)」(AU音がO音に変化し、反復語尾の「チ」が脱落して「トチ」となった)

の転訛と解します。

 

249D1湯原(ゆはら)親王

 『紹運録』、『日本後紀』延暦24年11月条は249C1志紀皇子の子、大納言兼弾正尹壱志濃王の父として湯原(ゆはら)親王を記します。

 この「ゆはら」は、

  「イフ・ハラ」、IHU-HARA(ihu=nose;hara=miss,come short of)、「鼻が・低かった(王)」(「イフ」のH音が脱落して「ユ」となった)

の転訛と解します。

 

249D2榎井(えのゐ)親王

 『紹運録』、『日本後紀』大同元年4月条は249C1志紀皇子の子、右大臣神王の父として榎井(えのゐ)親王を記します。

 この「えのゐ」は、

  「エ・ノイ」、E-NOI(e=to denote action in progress or temporary condition;noi=elevated,on high,erected)、「(短い期間)束の間・高い身分にあった(親王となってまもなく薨じた。王)」

の転訛と解します。

 

249D3壱志(いちし)王

 『紹運録』は249C1志紀皇子の子として壱志(いちし)王を記し、続紀和銅5年正月条は従五位下に叙されたとします。

 この「いちし」は、

  「イ・チチ」、I-TITI(i=past tense,beside;titi=peg,stick in,shine,adorn by sticking feathers into the hair,go astray)、「髪を飾り立てて・いた(王)」または「あちこち放浪・した(王)」

の転訛と解します。

 

249D4春日(かすが)王

 『紹運録』は249C1志紀皇子の子として春日(かすが)王を記し、続紀養老7年正月条は従四位下に叙されたとします。

 この「春日(かすが)」については古典篇(その十一)の227E1春日山田皇女の項を参照してください。

 

249D5海上(うなかみ)女王

 『紹運録』は249C1志紀皇子の子として海上(うなかみ)王を記し、続紀養老7年正月条は海上(うなかみ)女王が従四位下に、神亀元年2月条は245聖武天皇の即位に際し従三位に叙された(『万葉集』相聞歌(530-531)から聖武天皇夫人として遇されたものかと解されています。)とします。

 この「うなかみ」は、

  「フナ・カミ」、HUNA-KAMI(huna=conceal,destroy,unnoticed;kami=eat)、「(征服された。聖武天皇と)情を交わしたことを・隠した(垣根に標(しめ)を結って他人の来訪を禁じた(『万葉集』530-531)。女王)」(「フナ」のH音が脱落して「ウナ」となった)

の転訛と解します。

 

249D6衣縫(きぬぬひ)女王

 249C1志紀皇子の子の光仁天皇の同母姉の衣縫(きぬぬひ)女王は、天平17年正月に従四位下、宝亀元年11月に四品に叙され、同3年7月に没しています。『紹運録』には志紀皇子の子としてみえません。

 この「きぬぬひ」は、

  「キ・ヌヌイ」、KI-NUNUI(ki=full,very;nui,nunui=large,many,important,greatness)、「非常に・大柄な(女王)」

の転訛と解します。

 

249D7難波(なには)女王

 249C1志紀皇子の子の光仁天皇の同母姉の難波(なには)女王は、天平19年正月に従四位下、天平勝宝2年8月に従四位上、宝亀元年11月に四品、同3年5月に三品、同4年9月に二品に叙され、同年10月に没しています。その死は井上皇后の厭魅によるとされて皇后と他戸皇太子は吉野に幽閉されました。『紹運録』には志紀皇子の子としてみえません。

 この「なには」は、

  「ナ・ニワ」、NA-NIWHA(na=belonging to;niwha=resolute,fierce,bravery)、「確固として(信念を持って行動して)・いた(女王)」

の転訛と解します。

 

249D8坂合部(さかひべ)女王

 249C1志紀皇子の子の光仁天皇の異母姉の坂合部(さかひべ)女王は、天平11年正月に従四位下、宝亀元年11月に四品、に叙され、同5年11月に三品、同9年5月に没しています。『紹運録』には志紀皇子の子としてみえません。

 この「さかひべ」は、

  「タカ・ヒパエ」、TAKA-HIPAE(taka=heap,lie in a heap;hipae=across,broadside on)、「高い地位の・(天皇の異母姉であることから船の片舷に居るように)遠慮して居る(女王)」(「ヒパエ」のAE音がE音に変化して「ペ」から「ベ」となった)

の転訛と解します。

 

249E1井上(ゐのうへ)内親王

 続紀は245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(聖武天皇)と245E2県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)の第1子の245F3井上(ゐのうへ)皇女とします。

 内親王は、養老5年に5歳で斎内親王に卜定され、11歳から約20年伊勢神宮の斎宮として奉仕したのち、天智天皇の皇子238F13施基(しき)皇子(追尊して春日宮天皇)の子白壁(しらかべ)王の妃となりました。神護景雲4年8月248称徳天皇が崩御されて天武天皇の血統が絶えると、白壁王が皇太子に立てられ、道鏡が左遷され、同年10月(改元して宝亀元年)白壁王が即位して249光仁天皇となるに及んで同年11月皇后となり、その子の249F1他戸(おさべ)皇子も翌宝亀2年1月皇太子となりました。また、その子の249F6酒人(さかひと)内親王は宝亀3年11月に伊勢斎宮となっています。

 しかし、翌宝亀3年3月、「巫蠱(ふこ。「巫」はみこ、「蠱」はまじないによって人を呪うこと)に座した」という理由で皇后の位を剥奪され、さらに同年5月、他戸皇子も皇太子を廃されます。翌宝亀4年1月、光仁天皇と249E2高野新笠の間に生まれた249F2山部親王(後の250桓武天皇)が皇太子に立てられます。同年10月、天皇の同母姉難波内親王が没したのは、井上内親王の厭魅(えんみ。まじないで人を呪うこと)によるものとされ、井上内親王と他戸皇子は大和国宇智郡の没官宅に幽閉され、宝亀6年4月27日、二人は同時に死去します。

 続紀は二人の死の原因について何も記していませんが、山部親王を擁立した藤原百川らによって毒殺されたものとする説があります。その後宝亀8年12月に山部皇太子が病気になり、百川が必死で看病しますが、宝亀10年7月百川は皇太子の身代わりのように死亡し、井上内親王と他戸皇子の怨霊の祟りという噂が流れました。

 その墓は宝亀8年12月に改葬され、延暦19年7月には皇后位を回復し、墓を山陵と称することとされました(『延喜式』は「宇智(うち)陵、皇后井上内親王、在大和国宇智郡、兆域東西十町南北七町、守戸一烟」とします)。(古典篇(その一)の2の(4)井上皇后と他戸皇子の悲劇の項から(6)「おさべ」ほか関係者の名の意味までの項を参照してください。)

 この「ゐのうへ」は、

  「イノイ・ウエ」、INOI-UE(inoi=pray,prayer;ue=push,affect by anincantation)、「祈祷者(巫女)に・祈祷(魘魅)を行わせた(または祈祷(魘魅)によって・効験を顕した。皇后)」

の転訛と解します。(「宇智(うち)陵」については地名篇(その五)の奈良県の(18)宇智郡の項を参照してください。)

 

249E2高野新笠(たかののにひかさ)・天高知日之子(あめたかしらすひのこ)姫尊・和史乙継・大枝朝臣真妹・大枝陵

 和(やまと)史乙継(おとつぐ)と大枝朝臣眞妹(まいも)の子の和史新笠(にひかさ)で、白壁王の妃から光仁天皇の夫人となり、249F2山部(やまべ)親王(250桓武天皇)、249F3早良(さはら)親王および249F7能登(のと)女王を生みます。和史は百済武寧王の子純陀太子の後と伝えます。

 宝亀年中に高野(たかの)朝臣と姓を改め、宝亀9年正月夫人となって従三位、桓武天皇即位後の天応元年4月に皇大夫人となり、延暦8年12月に崩じ、翌年正月天高知日之子(あめたかしらすひのこ)姫尊の諡号を受け、大枝(おほえ)陵に葬られ、さらに皇太后の称号を受けました。

 『延喜式』は山陵を「大枝(おほえ)陵、太皇太后高野氏、在山城国乙訓郡」と、『陵墓要覧』は所在地を京都市西京区大枝沓掛町とします(京都から亀岡市へ抜ける旧山陰道(現国道9号線が山麓で急に曲がつて老ノ坂に向かう屈曲点の地域に所在します)。

 この「たかの」、「にひがさ(にひかさ)」、「あめたかしらすひのこ」、「おとつぐ」、「まいも」、「おほえ」は、

  「タカ・ノホ」、TAKA-NOHO(taka=heap,lie in a heap;noho=sit,stay)、「(光仁天皇の妃、桓武天皇の生母という)高い地位に・就いた(妃。朝臣)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ニヒ・(ン)ガタ(カタ)」、NIHI-NGATA(KATA)(nihi=steep,move stealthily,(Hawaii)nihi=edge,border,sideways,stealthily;ngata=satisfied(kata=laugh,opening of shellfish))、「(時が経過する際にある)最近になって・大変満足した(または笑った。妃)」または「(山辺皇子を皇太子とするための)隠密の行動(が成功したこと)で・大変満足した(または笑った。妃)」(「(ン)ガタ」のNG音がG音に変化して「ガタ(カタ)」から「ガサ(カサ)」となった)

  「アマイ・タカ・チラツ・ヒノ(ン)ガ・コ」、AMAI-TAKA-TIRATU-HINONGA-KO(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;taka=heap,lie in a heap,prepare;tiratu=mast of a canoe;hinonga=doing,undertaking;ko=addressing to males and females)、「燦然と輝いている・カヌーのマストが・その為すべき仕事をする(山部親王が天皇となって立派な政治を行う)ように・準備をした・女性(姫)」(「ヒノ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ヒノ」となった)

  「アウト・ツ(ン)グ」、AUTO-TUNGU(auto=trailing behind,slow;tungu=kindle)、「遅れて(晩年になって)・輝いた(娘が皇后の地位に登つた。父)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」と、「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「マイモア」、MAIMOA(fondling,cherish)、「(新笠を)可愛がつて育てた(母)」(語尾のA音が脱落して「マイモ」となつた)

  「オ・ハヱ」、O-HAWE(o=the place of;hawe=eddy,turn aside,bend in road or river)、「(道や川が)屈曲する・地点(場所。そこにある陵)」(「ハヱ」のHAWE音がHAUE音からHOE音に変化して「ホエ」となった)

の転訛と解します。

 

249E3藤原朝臣曹子(さうし)

 藤原朝臣永手(ながて)の女の曹子(曹司。さうし)で宝亀3年正月に正四位上となり、同8年正月従三位、同年8月に夫人、延暦2年2月に正三位に叙せられています。『尊卑分脈』は母を藤原鳥養(とりかひ)女または藤原良継(よしつぐ)女とし、文章を能くしたとします。

 この「さうし」は、

  「タウ・チ」、TAU-TI(tau=come to rest,float,be suitable,be possible;ti=throw,cast,overcome)、「(夫に)安らぎを・与える(姫)」または「タウチチ」、TAUTITI(support an invalid in walking,stick in as feathers into the hair,belt)、「髪を(鳥毛などで)飾り立てている(姫)」(AU音がOU音に変化し、反復語尾の「チ」が脱落して「トウチ」から「ソウシ」となった)

の転訛と解します。

 

249E4尾張(をはり)女王

 『紹運録』は249F4稗田(ひへだ)親王の母を249D1湯原(ゆはら)親王の子、尾張(をはり)女王とします。女王は、宝亀元年10月に従四位下、延暦2年2月に従四位上に叙せられています。

 この「をはり」は、

  「オハ・リ」、OHA-RI(oha=greet,generous,abundant,relic;ri=screen,protect,bind)、「とても・おおらかな(女王)」または「肥った・衝立のような(女王)」

の転訛と解します。

 

249E5嶋(しま)姫

 『紹運録』は249F8弥努摩(みぬま)女王の母を県主毛人の女嶋(しま)姫とします。

 この「しま」は、

  「チヒ・マ」、TIHI-MA(tihi=summit,top,lie in a heap;ma=white,clear)、「最高に・清らかな(姫)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

の転訛と解します。

 

249E6県犬養勇耳(いさみみ)

 『姓氏録』左京皇別は、249F5広根(ひろね)朝臣諸勝(もろかつ)の母を従五位下女儒県犬養勇耳(いさみみ)とします。

 この「いさみみ」は、

  「イタ・ミヒミヒ」、ITA-MIHIMIHI(ita=small,compact;mihimihi=frequentive of mihi(mihi=greet,admire,sigh for))、「小柄な・しきりに(子の不運(臣籍降下)を)嘆いている(女儒)」(「ミヒミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)

の転訛と解します。

 

249F1他戸(をさべ)親王

 他戸(をさべ)親王は、『紹運録』によれば光仁天皇の第四皇子で、249E1井上(ゐのうへ)皇后を母とし、宝亀2年正月条は他戸親王を法に随い皇太子に立てたとし、翌3年5月井上内親王の巫蠱(ふこ)に連座して皇太子を廃されて庶人とされ、翌4年10月井上内親王の再度の巫蠱のために共に大和国宇智郡の没官宅に幽閉され、同6年4月27日に同時に没します。

 廃太子、幽所での死は、藤原百川の陰謀によるものとする説が有力です。生年は不詳ですが、『水鏡』は宝亀3年に12歳とし、また別に22歳とする説があります。

 この「をさべ」は、

  「オタ・ペ」、OTA-PE(ota=unripe;pe=crushed)、「押し潰された・未熟な若者(親王)」

の転訛と解します。

 

249F2山部(やまべ)親王(250桓武天皇)

 山部(やまべ)親王は、光仁天皇の皇子で、249E2高野新笠(たかののにひかさ)を母とし、天平宝字8年10月に28歳で従五位下、天平神護2年11月従五位上、宝亀元年11月白壁王の即位により四品親王、同4年正月に立太子され、天応元年4月即位して桓武天皇となり、大同元年3月70歳で崩御します。

 この「やまべ」は、

  「イ・アマ・ペ」、I-AMA-PE(i=past tense;ama=outrigger of a canoe;pe=crushed)、「舷側の浮き材が・壊れて・しまった(思想・行動が不安定な。親王)」

の転訛と解します。

 

249F3早良(さはら)親王

 早良(さはら)親王は、光仁天皇の皇子で、249E2高野新笠(たかののにひかさ)の同母弟として天平勝宝2年に生まれ、天応元年4月に249F2山部(やまべ)親王が即位して桓武天皇となると皇太子に立てられます。

 延暦4年9月の藤原種継暗殺事件に坐して皇太子を廃され、乙訓寺に移されますが十余日飲食を絶ち、淡路へ移送される途中高瀬橋頭で死去し、屍を淡路に葬ったとします(『日本紀略』)。のちに同9年閏3月皇后藤原乙牟漏の崩による大赦により親王号を復され、同11年6月皇太子安殿親王の病は早良親王の祟りとの卜占により親王の霊に鎮謝が行われ、同19年7月には崇道天皇の尊号が追諡され、同24年4月には八嶋山陵に改葬されます。貞観5年5月の神泉苑における御霊会では事に坐して誅された怨霊の一人として祀られました。

 この「さはら」は、

  「タ・ワラ」、TA-WHARA(ta=the...of;whara=be struck,be pressed)、「押し潰され・た(親王)」

の転訛と解します。

 

249F4稗田(ひへだ)親王

 続紀は光仁天皇の第3皇子を稗田(ひへだ)親王とし、宝亀6年2月に四品に叙し、天応元年4月には三品、同年12月に没します。『日本後紀』大同3年8月条は葛野王を稗田親王の四男とし、『三代実録』貞観5年7月16日条は豊江王を稗田親王の孫、高橋王の子とします。『紹運録』は三品、母尾張女王とあり、子として高橋王を記します。

 この「ひへだ」は、

  「ヒエ・タ」、HIE-TA((Hawaii)hie=attractive,distinguished,dignified,noble,becoming;ta=dash,beat,lay)、「気品が・備わっている(親王)」

の転訛と解します。

 

249F5広根(ひろね)朝臣諸勝(もろかつ)

 延暦6年2月条は、諸勝(もろかつ)に勅をもつて広根(ひろね)朝臣の姓を賜ったとします。諸勝の母は249E5県犬養勇耳(いさみみ)で、諸勝は弘仁元年9月従五位下、同月山城介、同年10月摂津介となり、同5年2月に従五位上に叙せられています。

 この「ひろね」、「もろかつ」は、

  「ヒラウ・ネイ」、HIRAU-NEI(hirau=entangle,pull down anything by engaging it in a forked stick;nei=to denote proximity to or connection with,to indicate continuance of action)、「(皇族の身分から朝臣に)身分を落とし・(将来にわたって)続ける(朝臣)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ネイ」の語尾のI音が脱落して「ネ」となった)

  「モロ・カツア」、MOLO-KATUA((Hawaii)molo=to turn,spin,to interweave,to tie securely;katua=adult,stockade,main prtion of anything)、「(母の出身の部族の)集落に・戻った(朝臣)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」となった)

の転訛と解します。

 

249F6酒人(さかひと)内親王

 酒人(さかひと)内親王は、249E1井上(ゐのうへ)内親王を母とし、続紀宝亀元年11月に三品となり、同3年11月条は、内親王を伊勢斎宮とし、仮に春日(かすが)斎宮に住んだとします。宝亀5年9月、伊勢へ向かい、翌6年4月母后の喪により退下したのち、山部親王(250桓武天皇)の妃となり、250F7朝原内親王(4歳で伊勢斎宮となる)を産みます。『東大寺要録』は「容貌が美しくたおやか、若くして斎王となり、年を経て退下し、桓武天皇の後宮に入り、盛んな寵愛を受け、朝原内親王を産んだ。生まれつき驕りたかぶり、感情や気分が不安定であったが、桓武天皇は咎めず放任したので、淫らな行いが多くなり、自制することができなくなった。弘仁年中に年老い衰えたのを憐れんでとくに二品を授けた。」と記します。天長6年8月、76歳で没しました。

 この「さかひと」は、

  「タカヒ・ト」、TAKAHI-TO(takahi=trample,stamp,tread;to=drag,tingle)、「興奮して・地団駄を踏む(わがままで手がつけられない所行をする。内親王)」

  「タカ・ピト」、TAKA-PITO(taka=fall off,fall away;pito=end,extremity)、「極めて・堕落した(内親王)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

249F7能登(のと)女王

 能登(のと)女王は、249E2高野新笠(たかののにひかさ)を母とし、宝亀元年11月に四品、同7年正月に三品、249C1志紀皇子の曾孫、249D4春日(かすが)王の孫、安貴王の子正五位下市原王に嫁し、五百井女王、五百枝王を生み、天応元年2月に49歳で没し、特に懇篤な詔により一品を贈られ、その子を二世王としています。

 この「のと」は、

  「(ン)ゴト」、NGOTO(head,be deep,be intense of emotions,penetrate)、「情がこまやかな(深い。女王)」(NG音がN音に変化して「ノト」となった)

の転訛と解します。

 

249F8弥努摩(みぬま)女王

 弥努摩(みぬま)女王は、249E4嶋(しま)姫を母とし、宝亀元年11月に四品、同11年11月に三品、249D2榎井(えのゐ)親王の子の右大臣神王に嫁し、弘仁元年2月に没しています。

 この「みぬま」は、

  「ミイ・ヌイ・マ」、MII-NUI-MA((Hawaii)mii=clasp,good-looking;nui=large,many;ma=white,clear)、「美しくて・たいへん・清らかな(女王)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」と、「ヌイ」のUI音がU音に変化して「ヌ」となった)または「ミイ・ヌマ(ン)ガ」、MII-NUMANGA((Hawaii)mii=clasp,good-looking;numanga=disappearance)、「(姿を消した。結婚して)人前に出なくなった・美人(女王)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」と、「ヌマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ヌマ」となった)

の転訛と解します。

 

249G1広崗(ひろをか)山陵

 天応元年12月に光仁太上天皇が崩御し、翌延暦元年正月に広崗(ひろをか)山陵(『大和志』は添上郡広岡村(現奈良市広岡町)にあったとしますが、不詳です。)に葬つたとします。

 この「ひろをか」は、

  「ヒロウ・アウカハ」、HIROU-AUKAHA(hirou=rake,net for dredging shellfish;aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe)、「熊手で平らにしたような・塁壁を巡らした(丘。場所)」(「ヒロウ」の語尾のU音が脱落して「ヒロ」と、「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

の転訛と解します。

 

249G2田原(たはら)陵

 延暦5年10月条は、光仁太上天皇を大和国田原(たはら)陵に改葬したとします。

 『延喜式』は陵を「田原(たはら)東陵、平城宮御宇天宗高紹天皇、在大和国添上郡」と、『陵墓要覧』は所在地を奈良市日笠町とします。なお、『三代実録』は約2キロメートル隔たっている父施基親王陵(田原西陵。奈良市矢田原町所在)と区別して「後田原陵」とします。

 この「たはら」は、

  「タワラ」、TAWHARA(wide apart,spread out)、「(両墓が)遠く離れている(陵がある。場所。そこの陵)」

  または「タ・ワラ」、TA-WHARA(ta=the...of,dash,beat,lay;whara=burial cave,mouth of a trumpet,be struck,be pressed)、「(墓が口をあけている)墓が・ある(場所。そこの陵)」

の転訛と解します。

 

249H1丹比宿禰乙女(おとめ)

 宝亀2年8月条は、外従五位下丹比宿禰乙女(おとめ)が神護景雲3年5月におこなった248H10県犬養姉女(あねめ)・忍坂(おしさか)女王・石田(いはた)女王の乗輿厭魅の密告が誣告であったことを姉女が証明したので、乙女の位記を廃棄したとします。

 この「おとめ」は、

  「アウト・メ」、AUTO-ME(auto=trailing behind,slow;me=like,as if like,as it were)、「後になって・(真相が)露見した(宿禰)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

の転訛と解します。

 

249H2渤海使壱万福(いちまんふく)

 宝亀3年正月条および2月条は、渤海王の国書が無礼であるとして返却したところ、大使壱万福(いちまんふく)がこのまま帰れば殺されるといって泣きだし、どのような罪に問われてもかまわないといって無礼を陳謝したので、これを赦し、使者一行を饗宴し、大使には従三位、副使には正四位下等の高い位階を与え、無礼を咎める国書を交付したとします。

 この「いちまんふく」は、

  「イチ・マヌ・フク」、ITI-MANU-HUKU(iti=small,compact;manu=bird,person held in high esteem,kite;huku=tail(huku=huki=transfix,avenge death))、「小柄な(または人物が小さい)・(無礼を陳謝して)高い評価を得た(高い位階を与えられた)・(国使の役を全うしないと国へ帰って)罰せられて殺される(と言った。大使)」

の転訛と解します。

 

249H3裳咋足嶋(もくひのたるしま)・粟田広上(あはたのひろかみ)・安都堅石女(あとのかたしはめ)

 宝亀3年3月条は、249E1井上(ゐのうへ)皇后の巫蠱(ふこ)に参画した従七位上裳咋(もくひ)臣足嶋(たるしま)が自首したので、皇后は廃位し、足嶋には従五位下を授け、巫蠱に参画しながら隠した粟田広上(あはたのひろかみ)と安都堅石女(あとのかたしはめ)は流罪に処したとします。

 この「もくひのたるしま」、「あはたのひろかみ」、「あとのかたしはめ」は、

  「マウ・クヒ・ノ・タル・チマ」、MAU-KUHI-NO-TARU-TIMA(mau=fixed,caught;kuhi=insert,conceal;no=of;taru=shake,overcome,painful,thing,sometimes with an idea of disparagement or unpleasantness;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「隠されたもの(巫蠱の事実)を・掴んだ・その・(他人の墓穴を)掘ったという・悪業の」

  「アワ・タ・ノ・ヒロウ・カミ」、AWA-TA-NO-HIROU-KAMI(awa=channel,landing place,river,gorge;ta=dash,beat,lay;no=of;hirou=rake,net for dredging shellfish;kami=eat)、「海峡の地に・居る(部族)・の・根こそぎに・成敗された(者)」

  「アト・ノ・カタ・チハハ・マイ」、ATO-NO-KATA-TIHAHA-MAI(ato=thatch,enclose in a fence,recite names etc.;no=of;kata=laugh,opening of shellfish;tihaha=rave,act like a madman,spread out,search for;mai,maimai=dance,song)、「垣根を引き回したような(山などで囲まれた)地(に住む部族)・の・狂ったように・笑った・女性」(「チハハ」の反復語尾の「ハ」が脱落して「チハ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

 

294H4武生連鳥守(とりもり)

 宝亀3年9月条は、249H2渤海使壱万福(いちまんふく)を送る使の武生連鳥守(とりもり)が船出してすぐに暴風に遭い、客と使がなんとか命が助かって能登国に漂着したとします。

 なお、鳥守は再度船を出し、翌4年10月に帰国しています。

 この「とりもり」は、

  「タウリ・モリ」、TAURI-MORI(tauri=fllet,band,secure with a fillet;mori=caress,fondle)、「帯で(渤海使を船に)緊縛して・(命を)守つた(連)」(「タウリ」のAU音がO音に変化して「トリ」となった)

の転訛と解します。

 

249H5菅生(すがふ)王・小家(をやけ)内親王

 宝亀3年10月条は、中務卿兼少納言信濃守従五位上菅生(すがふ)王が、(斎宮の)小家(をやけ)内親王(『斎宮記』には「小宅内親王、孝謙皇女、在任7年、天平勝宝2年」と、『一代要記』には「天平勝宝元年9月6日、以従三位三原王女小宅女王為斎宮」とあります。)を姦した罪で除名され、内親王は属籍を削られたとします。なお、菅生王は、宝亀4年4月の大赦によつて本位従五位上を復します。

 この「すがふ」、「をやけ」は、

  「ツ(ン)ガ・フ」、TUNGA-HU(tunga=decayed tooth;hu=resound,be rumoured,silent,secretly)、「ひそかに・虫歯をつくるように(斎宮を犯した。王)」(「ツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ツガ」から「スガ」となった)

  「オイ・アケ」、OI-AKE(oi=shout,shudder,move continuously,agitate;ake=indicating immediate continuation in time,intensifying the force of some noun etc.)、「(罪の深さを自覚して)一瞬・身体が震えた(内親王)」

の転訛と解します。

 

249H6上村主墨縄(すみなは)

 宝亀3年12月条は、壱岐嶋掾上村主墨縄(すみなは)等が年粮を対馬嶋へ送るとき、難破して荷物を失い、天平宝字4年の格によれば弁償すべきところを不可抗力によるものとして免除されたとします。

 この「すみなは」は、

  「ツ・ミナ・ハ」、TU-MINA-HA(tu=fight with,energetic;mina=desire,feel inclination for;ha=breathe,tone of voice)、「(不可抗力によることを)熱心に・息せき切って弁じて・(弁償を免除することを)願った(村主)」

の転訛と解します。

 

249H7渤海副使慕昌禄(もしやうろく)

 宝亀4年2月条は、さきに正四位下を賜わった渤海副使慕昌禄(もしようろく)が死亡したので使を遣して弔い、従三位を贈ったとします。

 この「もしやうろく」は、

  「マウ・チオフ・ロク」、MAU-TIOHU-ROKU(mau=carry,bring,fixed,caught,entangled;tiohu=tuohu=stoop;roku=bend,grow weak,decline)、「(国書の問題で陳謝を余儀なくされて)困惑し・身を屈して・次第に衰弱した(副使)」(「チオフ」のH音が脱落して「チオウ」から「シヨウ」となった)

の転訛と解します。

 

249H8渤海使烏須弗(うすほつ)

 宝亀4年6月条は、渤海使烏須弗(うすほつ)が能登国に漂着し、10年前に帰国した日本の使内雄(247H7高内弓(ないきゅう))と本国を出発して4年を経てまだ帰らない249H2壱万福の安否を問うているとの報告があり、表詞が無礼であるとして受領せず、食料を与えて帰国させたとします。

 この「うすほつ」は、

  「ウツ・ホツ」、UTU-HOTU(utu=return for anything,make response;hotu=sob,desire eagerly)、「返事(国書)を・熱心に望んだ(使)」

の転訛と解します。

 

249H9新羅使金三玄(さむぐゑん)

 宝亀5年3月条は、新羅国使礼府卿金三玄(さむぐゑん)が太宰府に来たり、在唐大使藤原河清の書と貢物でなく信物を持って対等の国交の使者として来日したといったので、旧来の慣習に背く無礼な使者として、国書は受領せず、食料を与えて帰国させたとします。

 この「さむぐゑん」は、

  「タ(ン)ゲ(ン)ゲ」、TANGENGE(feeble)、「(弱い)迫力がない(使)」(二番目のNG音がN音に変化して「タンゲネ」から「サンゲン」となった)

の転訛と解します。

 

249H10大仏師国中連公(きみ)麻呂・国骨富(こくこつふ)

 宝亀5年10月条は、散位従四位下大仏師国中連公(きみ)麻呂が死亡したが、本人は天智2年の白村江の敗戦後に祖父の国骨富(こくこつふ)に連れられて帰化し、天平年間に東大寺大仏の造営に極めて大きな力があつたので従四位が授けられたものであるとします。

 この「きみ」、「こくこつふ」は、

  「キミ」、KIMI(seek,look for)、「(大仏の鋳造の方法を)探求した(連)」

  「コクフ・カウ・ツフ(ン)ガ」、KOKUHU-KAU-TUHUNGA(kokuhu=insert,introduce;kau=swim,wade;tuhunga=perch for birds to light on placed in a convenient position)、「(戦乱を逃れて)誘導されて・さまよって・止まり木(定住地)に止まった(安住した。祖父)」(「コクフ」のH音が脱落して「コク」と、「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」と、「ツフ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ツフ」となった)

の転訛と解します。

 

249H11川部(かはべ)酒(さか)麻呂

 宝亀6年4月条は、肥前国松浦郡の人川部(かはべ)酒(さか)麻呂が天平勝宝4年発遣の遣唐使第四船の舵取となり、順風の中で船尾から出火し、皆があわてて為す術がないとき、冷静に手に火傷を負いながら舵を巡らして舳先を風上へ向けて延焼を防ぎ、遂に消火に成功したので、厚く功績を賞し、郡の員外主帳に補し、五位を授けたとします。

 この「かはべ」、「さか」は、

  「カハ・ペ」、KAHA-PE(kaha=strong,able,persistency;pe=crushed)、「(火を)消すことが・できた(舵取)」

  「タカ」、TAKA(turn on a pivot,revolve,go or pass round)、「(船を)旋回させた(船尾から舳先への延焼を防いだ。舵取)」

の転訛と解します。

 

249H12佐伯宿禰今毛人(いまえみし)・大伴宿禰益立(ましたて)・藤原朝臣鷹取(たかとり)・海上真人三狩(みかり)・小野朝臣石根(いはね)・大神朝臣末足(すゑたり)

 宝亀6年6月条は、佐伯宿禰今毛人(いまえみし)を遣唐大使に、大伴宿禰益立(ましたて)と藤原朝臣鷹取(たかとり)を副使に任命したとします。

 同7年11月条は、8月に出発しようとした遣唐使船が順風を得ることができずに秋の逆風季を迎えたので大使は帰京して異例にも節刀を返還し、副使の大伴宿禰益立と判官の海上真人三狩(みかり)等は太宰府に止まったとします。

 同年12月条は、副使の大伴宿禰益立を解任し(藤原朝臣鷹取も解任されたようです)、小野朝臣石根(いはね)と大神朝臣末足(すゑたり)の二人を共に副使としたとします。

 同8年4月条は、大使の佐伯宿禰今毛人が病気となり、摂津職まで来て動けなくなったので、副使の小野朝臣石根が大使を代行し、順風を得たならば直ちに出発すべしと命じられたとします。

 この「いまえみし」、「ましたて」、「たかとり」、「みかり」、「いはね」、「すゑたり」は、

  「イ・ムア・エ・ミチ」、I-MUA-E-MITI(i=past tense,beside;mua=the front,the former time,the past,the future;e=to denote action in progress or temporary condition,by,of the agent,to give emphasis;miti=lick,lick up,backwash)、「以前・から・(顕著な功績や速い昇進を妬まれるなど強い反発)誹謗を・受けた」(「ムア」のUA音がA音に変化して「マ」と、「ミチ」が「ミシ」となった)または「イ・マエ・ミチ」、I-MAE-MITI(i=past tense,beside;mae=languid,withered,struck with astonishment,paralysed with fear etc.;miti=lick,backwash)、「(遣唐大使に任じられたのに)病気に・なって(任を果たさず)・強く誹謗を・受けた(宿禰)」(「ミチ」が「ミシ」となった)

  「マチ・タタイ」、MATI-TATAI(mati=surfeited,toe,fingers;tatai=measure,arrange,adorn,plan)、「飽きるほど・盛装をした(宿禰)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「タカ・トリ」、TAKA-TORI(taka=fall off,fall away,fail of fulfilment;tori=cut)、「(遣唐副使を解任され、さらに延暦元年6月には父左大臣藤原朝臣魚名の左遷事件に坐して石見介に左遷されるという)職を(切られ)解かれて・降された(左遷された。朝臣)」

  「ミイ・カリ」、MII-KARI((Hawaii)mii=clasp,good-looking;kari=dig,wound,rush along violently)、「(耽羅嶋に抑留されて)負傷者を・見捨てて脱出できなかった(共に残留した。真人)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

  「イ・ワネ」、I-WHANE(i=past tense,beside;whane,whanewhane=liver,choleric,irascible)、「怒りっぽ・かった(朝臣)」または「イ・ワネア」、I-WANEA(i=past tense,beside;wanea=satisfied,satisfaction)、「満足して・いた(朝臣)」(「ワネア」の語尾のA音が脱落して「ワネ」となった)

  「ツワエ・タリ」、TUWAE-TARI(tuwae,tuwaewae=visitors,company;tari=carry,bring,urge,incite)、「(唐の)客人を・連れてきた(朝臣)」(「ツワエ」のAE音がE音に変化して「ツヱ」から「スヱ」となった)

の転訛と解します。

 

249H13渤海使史都蒙(しともう)・渤海判官高淑源(こうしゆくげん)・高麗朝臣殿継(とのつぐ)

 宝亀7年11月条は、渤海国使の史都蒙(しともう)等が弘仁天皇の即位を賀し、自国王の妃の喪を告げるため来日したところ難破して生存者46人が越前国加賀郡に漂着したとします。

 同8年5月条は、溺死した渤海判官高淑源(こうしゆくげん)に正五位上を贈り、高麗朝臣殿継(とのつぐ)を送使として史都蒙等を本国へ送還したとします。殿継は、翌9年9月に帰国します。

 同9年2月条は一行のうち120人が死亡したとし、同9年4月条はこのとき溺死し、江沼・加賀郡に漂着した30人の遺体の葬儀と埋葬を行わせたとします。

 この「しともう」、「しゆくげん」、「とのつぐ」は、

  「チ・ツモウ」、TI-TUMOU(ti=throw,cast,overcome;tumou=fixed,continuous,slave)、「従者たちが・散り散りになった(使者)」または「(漂着して)投げ出されている(溺死者の遺体を)・放置した(使者)」(岩波新日本古典文学大系本は「しともう」と訓じますが、「しつもう」と訓ずるのが正しいと考えられます。)

  「チ・ウク・(ン)ゲ(ン)ゲ」、TI-UKU-NGENGE(ti=throw,cast,overcome;uku=white clay,wash(ukuuku=swept away,destroyed);ngenge=weary,exhaustion)、「(漂着して)投げ出された・風浪で洗われた(死んだ)・(暴風で)疲れ果てた(判官)」(「(ン)ゲ(ン)ゲ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゲネ」から「ゲン」となった)

  「トノ・ツ(ン)グ」、TONO-TUNGU(tono=bid,command,send,demand;tungu=kindle)、「灯を灯して・送った(送使)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

の転訛と解します。

 

249H14小野朝臣滋野(しげの)・韓国(からくに)連源(みなもと)・津守宿禰国(くに)麻呂・大伴宿禰継人(つぐひと)・喜娘(きじやう)・叡造(えいぞう)

 宝亀9年10月条は、遣唐使第3船が肥前国松浦郡橘浦に帰着し、判官小野朝臣滋野(しげの)から報告があったとします。

 同年11月条は、遣唐使第4船が薩摩国甑嶋郡に帰着し、判官249H12海上真人三狩(みかり)等は耽羅嶋人に捕らわれ、録事韓国(からくに)連源(みなもと)等40数人が脱出して帰還したとし、第2船は薩摩国出水郡に帰着し、第1船は途中で分断し、艫(とも)には主神津守宿禰国(くに)麻呂と唐の行官等56人が乗って甑嶋郡に漂着し、舳(へさき)には判官大伴宿禰継人(つぐひと)と前入唐大使藤原河清の女喜娘(きじやう)等41人が乗って肥後国天草郡に漂着したとし、継人によれば副使249H12小野朝臣石根(いはね)等38人と唐使趙宝英等25人は海に沈んだとし、「臣の再生は叡造(えいぞう。天または天子の徳をいうかとされます。)の救う所なり(臣之再生、叡造所救)」と報告したとします。 

 翌10年3月条は、遣唐副使249H12大神朝臣末足(すゑたり)が帰国したとします。

 この「しげの」、「からくに」、「みなもと」、「くに」、「つぐひと」、「きじやう」、「えいぞう」は、

  「チ(ン)ゲイ・ナウ」、TINGEI-NAU(tingei=unsettled,ready to move;nau=go,come)、「出発の・準備が整っている(朝臣)」(「チ(ン)ゲイ」のNG音がG音に変化し、語尾のI音が脱落して「チゲ」から「シゲ」と、「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「カラク・ヌイ」、KALAKU-NUI((Hawaii)kalaku=to release as evil by prayer,chilled,shivering;nui=large,many)、「(生命の危機に)しばしば・身が震えた(連)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

  「ミナ・モト」、MINA-MOTO(mina=desire,feel inclination for;moto=strike with the fist)、「拳骨で殴ることを・望む(何か事があればすぐに力づくで解決することを・好む。抑留を力づくで振り切って脱出した。連)」

  「ク・ヌイ」、KU-NUI(ku=silent;nui=large,many)、「たいへん・口数が少ない(宿禰)」(「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」となった)

  「ツ(ン)グ・ピト」、TUNGU-PITO(tungu=kindle;pito=end,extremity,at first)、「(のちに早良親王を皇位に付けるという謀反の灯を)灯した・(部族の中では)第一の(朝臣)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「キ・チオフ」、KI-TIOHU(ki=full,very;tiohu=tuohu=stoop,bow the head,skulk,cower)、「とても・気弱な(娘)」(「チオフ」のH音が脱落して「チオウ」から「ジョウ」となった)

  「アイ・トフ(ン)ガ」、AI-TOHUNGA(ai=expressing the reason for which anything is done,marking the time or place of an action or event;tohunga=skilled person,wizard,priest(tohu=mark,proof,point out,preserve,save alive))、「(祈祷師または祈祷による)神仏の・お陰で(命が助かった)」(「アイ」のAI音がEI音に変化して「エイ」と、「トフ(ン)ガ」のH音および語尾のNGA音が脱落して「トウ」から「ゾウ」となった)

の転訛と解します。

 

249H15布勢朝臣清勅(きよなほ)・甘南備真人清野(きよの)・多治比真人浜成(はまなり)・大網高広道(ひろみち)

 宝亀9年12月条は、布勢朝臣清勅(きよなほ)を送唐客使と、甘南備真人清野(きよの)、多治比真人浜成(はまなり)を判官に、大網公広道(ひろみち)を送高麗客使としたとします。

 この「きよなほ」、「きよの」、「はまなり」、「ひろみち」は、

  「キオ・ナホ」、KIO-NAHO((Hawaii)kio=projection,protuberance;naho=hasty,quick in speech or action)、「際だつて・(行動が)素早い(朝臣)」

  「キオ・ノホ」、KIO-NOHO((Hawaii)kio=projection,protuberance;noho=sit,settle)、「際だった・存在(感がある。真人)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)または「キオ・(ン)ガウ」、KIO-NGAU((Hawaii)kio=projection,protuberance;ngau=bite,hurt,attack)、「突出して・(他人に)噛み付く(文句を言う。真人)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「ハマ・(ン)ガリ」、HAMA-NGARI(hama=faded,light-coloured,be consumed;ngari=annoyance,disturbance;greatness,power)、「蒼白い(顔をした)・力のある(真人)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「ヒラウ・ミチ」、HIRAU-MITI(hirau=entangle,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught;miti=lick,backwash)、「(大役を命ぜられて)困惑して・唇を噛んだ(公)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

の転訛と解します。

 

249H16下道朝臣長人(ながひと)

 宝亀10年2月条は、下道朝臣長人(ながひと)を遣新羅使としたとします。帰国途中に耽羅嶋で抑留された遣唐判官の249H12海上真人三狩を迎えるためとされ、同年7月に任務を全うして帰国します。

 この「ながひと」は、

  「ナ・(ン)ガ・ピト」、NA-NGA-PITO(na=belonging to;nga=satisfied;pito=end,extremity,at first)、「(任務を全うして)満足・した・(部族で)第一の(朝臣)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

の転訛と解します。

 

249H17藤原朝臣百川(ももかは)

 宝亀10年7月条は、藤原朝臣宇合の第八子、参議中衛大将兼式部卿藤原朝臣百川(ももかは)が48歳で薨じたとします。延暦2年2月右大臣、弘仁14年5月太政大臣を贈られます。

 この「ももかは」は、

  「モモ・カハ」、MOMO-KAHA(momo=descendant,in good condition,well proportioned;kaha=strong,able,persistency,roperidge of a hill,line of ancestry)、「節度がある・強い力をもつ(朝臣)」

の転訛と解します。

 

249H18伊治(これはり)公呰(あざ)麻呂・紀朝臣広純(ひろすみ)・道嶋大楯(おほたて)・大伴宿禰真綱(まつな)・石川浄足(きよたり)・藤原朝臣継縄(つぐただ)・紀朝臣古佐美(こさみ)・安倍朝臣家(いへ)麻呂・百済王俊哲(しゆんてつ)・多治比真人宇美(うみ)・藤原朝臣小黒(をぐろ)麻呂

 宝亀11年3月条は、陸奥国上治郡大領伊治(これはり)公呰(あざ)麻呂が背いて、按察使紀朝臣広純(ひろすみ)と牡鹿郡大領道嶋大楯(おほたて)を伊治城で殺し、介大伴宿禰真綱(まつな)を多賀城へ送ると、真綱と掾石川浄足(きよたり)は城から逃げだしたとします。

 そこで朝廷は、中納言藤原朝臣継縄(つぐただ)を征東大使と、249H12大伴宿禰益立(ましたて)と紀朝臣古佐美(こさみ)を副使としたとし、大伴宿禰真綱を陸奥鎮守副将軍、安倍朝臣家(いへ)麻呂を出羽鎮狄将軍、大伴宿禰益立を兼陸奥守としたとします。

 同年6月条は、百済王俊哲(しゆんてつ)を陸奥鎮守副将軍と、多治比真人宇美(うみ)を陸奥介としたとします。

 同年9月条は、藤原朝臣小黒(をぐろ)麻呂を持節征東大使に任じたとします。

 この「これはり」、「あざ」、「ひろすみ」、「おほたて」、「まつな」、「きよたり」、「つぐただ」、「こさみ」、「いへ」、「しゆんてつ」、「うみ」、「をぐろ」は、

  「コレパ・リ」、KOREPA-RI(korepa=split,tear,sling stone;ri=screen,protect,bind)、「割れ目(のような川。渓谷)が・連なっている(地域。そこを本拠とする部族。公。そこに造られた城)」

  「アタ」、ATA(expressive of disgust)、「嫌な(奴。公)」

  「ヒロウ・ツ・ミイ」、HIROU-TU-MII(hirou=rake,net for dredging shellfish;tu=fight with,energetic;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「(反抗する蝦夷を)根こそぎにしょうと・精力的に戦うことに・こだわっていた(朝臣)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

  「オホ・タタエ」、OHO-TATAE(oho=spring up,be awake,arise;tatae=tae=arrive,reach,proceed to,be affected,be overcome)、「(奇襲を受けて)跳び上がって・殺された(大領)」(「タタエ」のAE音がE音に変化して「タテ」となった)

  「マ・アツ・ナ」、MA-ATU-NA(ma atu=go,come;na=satisfied,the force being to add emphasis,as I say)、「(すでにご承知のように)あの・(呰麻呂の襲撃から)逃げに・逃げた(宿禰)」

  「キオ・タリ」、KIO-TARI((Hawaii)kio=projection,protuberance;tari=carry,bring,urge,incite)、「(真綱を)連れ出した(逃げた)・突出していた(掾)」

  「ツ(ン)グ・タタ」、TUNGU-TATA(tungu=kindle;tata=near of place or time,suddenly,dash down,strike repeatedly,oppose)、「突然(命を受けて)・灯を灯した(軍を指導した。朝臣)」

  「カウ・タミ」、KAU-TAMI(kau=alone,only,swim,wade;tami=press down,suppress,smother)、「ひたすら・(敵を)撃滅する(朝臣)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  「イ・ヘ」、I-HE(i=past tense,beside;he=wrong,mistaken,in trouble or difficulty)、「困難に・遭った(朝臣)」または「イ・ワイ」、I-WHAI(i=past tense,beside;whai=follow,pursue,look for,practise)、「(敵を)追求・した(朝臣)」(「ワイ」のWH音がH音に、AI音がE音に変化して「ヘ」となった)

  「チウ・(ン)ガテ・ツ」、TIU-NGATE-TU(tiu=soa,wander,sway to and fro,unsettled;ngate=move shake;tu=fight with,energetic)、「休み無く・動き回って・精力的に戦う(王)」(「(ン)ガテ」のNG音がN音に変化して「ナテ」から「ンテ」となった)

  「ウミ」、UMI((Hawaii)to strangle,choke,smother,supress)、「(敵を)絞め殺す(真人)」

  「オ・ク・ロ」、O-KU-RO(o=the...of,belonging to;ku=silent;ro=roto=inside)、「心から・無口な・人間(朝臣)」

の転訛と解します。

 

 

[250桓武天皇]

(注:この篇では治世中の事績に関係する人名等は、『続日本紀』延暦10年までの記事を対象とします。)

 

250A日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇

 続紀は238天智天皇の孫、249光仁天皇の皇子で、249E2高野新笠(たかののにひかさ)を母とする249F2山部(やまべ)親王とします。

 天平宝字8年10月に28歳で従五位下、天平神護2年11月従五位上、宝亀元年11月父白壁王の即位により四品親王、翌2年3月中務卿、翌3年5月249F1他戸親王の廃太子の後、翌4年正月に立太子され、光仁天皇の病と高齢による譲位を受けて天応元年4月45歳で即位して桓武天皇となり、同母弟の249F3早良親王を皇太子とします。

 翌2年正月氷上川継の謀反事件があり、凶作と疫病の流行が相次いだことから年号を延暦と改め、同3年長岡京に遷都します。翌4年9月天皇の留守のとき長岡京への遷都を推進していた250H5藤原種継が暗殺され、250H5大伴継人、250H5大伴竹良等皇太子の側近者が処刑され、早良皇太子が太子を廃されます。皇太子には250F1安殿親王が立てられますが、天皇の身辺では次々に病死が相次ぎ、早良親王の祟りとされてその対応に追われます。延暦13年には人心一新を図って平安京へ遷都します。

 一方光仁天皇の末期、宝亀11年陸奥国249H18伊治(これはり)公呰(あざ)麻呂が反乱を起こして以来、朝廷の征討軍は鎮定ができず、250H8阿弖流為(あてるい)に大敗していましたが、250H9坂上大宿禰田村(たむら)麻呂によって延暦20年胆沢地方まで平定を果たします。

 天皇は大同元年3月70歳で崩御します。

 なお、『後紀』延暦18年正月条は国風諡を「日本根子皇統弥照(やまとねこあまつひつぎいやてらす)天皇」とします。

 この「やまべ」、「やまとねこあまつひつぎいやてらす」は、

  「イ・アマ・ペ」、I-AMA-PE(i=past tense;ama=outrigger of a canoe;pe=crushed)、「舷側の浮き材が・壊れて・しまった(思想・行動が不安定な。親王)」(後年の度重なる遷都にみられるような不安定さが若い時から目立つていたのでしょう。)

  「イア・マト・ネイ・コ・アマイ・ツ・ヒ・ツ(ン)ギ・イア・テラ・ツ」、IA-MATO-NEI-KO-AMAI-TU-HI-TUNGI-IA-TERA-TU(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls;amai=swell on the sea,giddy,dizzy;tu=stand,settle,fight  with,energetic;hi=raise,rise;tungi=set a light to,kindle,burn;tera=that,yonder,the other)、「実に・深い湿地がある(大和国の)・(世の中を揺るがす)騒ぎを引き起こした(予想外の父の即位・他戸皇太子の廃太子を承けて天皇位に就き、母の出自を高めた)・光り輝くものが・ある・高い地位に登って・灯を灯した・実に・もう一人の(他戸親王とは別の)皇太子で・あった(天皇)」(「アマイ」の語尾のI音が脱落して「アマ」と、「ツ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ツギ」となった)

の転訛と解します。

 

250B勅旨(ちよくし)宮・長岡(ながをか)宮・交野(かたの)行宮・東(ひむがし)宮

 延暦元年7月条は、勅旨(ちよくし)宮に移ったとします。(同年4月廃止された勅旨省の建物かとされますが、場所、移転の理由ともに未詳です。)

 同3年5月条は都を長岡に移すため相地使を派遣し、同年6月条は造長岡宮使を任じて造営を開始したとし、同年11月条は天皇が長岡(ながをか)宮に移ったとします。

 同4年8月条は、斎王250F7朝原内親王出立のため243B2平城宮に行幸したとし、同9月条は平城宮から還つたとします。

 同6年10月条および10年10月条は、河内国の交野(かたの)に行幸して249H18藤原朝臣継縄の別業を行宮としたとします。

 同6年2月条は、長岡宮内の西(にし)宮から東(ひむがし)宮に移ったとします。

 この「ちよくし」、「ながをか」、「かたの」、「にし」、「ひむがし」は、

  「チオ・クチ」、TIO-KUTI(tio=sharp of cold,ice,rock-oyster,cry,call;kuti=contract,pinch,close the mouth or hand)、「(岩牡蠣のような)不細工で・手狭な(宮)」または「悲鳴を上げ(そうにな)るのを・(口を結んで)こらえる(宮)」(当時天皇は先帝の服喪中であり、また前年から本年に引き続いて不作・疫病の流行があって朝廷内外の組織の整理・倹約が行われていたことと関係しているのかも知れません。)

  「ナ・(ン)ガ・アウカハ」、NA-NGA-AUKAHA(na=by,belonging to;nga=satisfied,breathe;aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe)、「満足している・ような(おだやかな)・(塁壁を巡らしたような)高台(岡。そこに造られた宮)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」と、「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

  「カタ・ノホ」、KATA-NOHO(kata=laugh,opening of shellfish;noho=sit,stay,settle)、「貝が口を開いているような地形の場所に・位置している(地域。そこに造られた行宮)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ニチ」、NITI(toy dart)、「(太陽が)投げ矢のように(一直線に進む方向。西方)」

  「ヒ・(ン)ガチ」、HI-NGATI(hi=rise,raise;ngai,ngati=tribe,clan)、「昇る(太陽の)・一族(が住む場所。東方)」(「(ン)ガチ」のNG音がG音に変化して「ガチ」から「ガシ」となった)

の転訛と解します。

(ちなみに、方角を表す言葉は、民族、地域、時期、その文化の発展段階等によってすべて異なっています。日本列島の多くの地域では「ニチ」→「ニシ」は西方を、「ヒ・(ン)ガチ」→「ヒガシ(ヒンガシ)」が東方を表します。

 ところが沖縄地方では「イリ」が西方を指し、また奄美地方から九州西岸の漁民の間では「イリ」は北方を指す言葉です。この場合の「イリ」は、「ウイ・リ」、UI-RI(ui=disentsngle,disengage,unravel,relax or loosen a noose,ask,inquire;ri=screen,shut out with a screen,protect,bind)、「(沖縄地方では)束縛された(太陽が)・解放されて真っ直ぐ向かう(方向。西方)」または「(奄美地方から九州西岸の漁民の間では)行く手を阻まれていた(黒潮が)・(障害物が無くなって)一直線に奔流して行く(対馬海流の流れる方向。北方)」の転訛と解します。

 また、沖縄地方では「アガリ」が東方を指す言葉ですが、この「アガリ」は、「ア(ン)ガ・リ」、ANGA-RI(anga=driving force,thing driven etc.;ri=screen,shut out with a screen,protect,bind)、「(昇ろうとする太陽を)強い力で引き留める・障碍物がある(方向。東方)」の転訛と解します。)

 

250B2葛野(かどの)宮・平安(へいあん)宮

 後紀延暦12年1月15日条(逸文)は、大納言藤原小黒麻呂・左大弁紀古佐美を再度の遷都のため山背国葛野(かどの)郡宇太村へ派遣したとし、以後新京の造営が進められ、同13年10月22日条(逸文)は、この日新京へ遷ったとし、同月28日条(逸文)の遷都の詔は宮を所在の郡名により「葛野(かどの)宮」と呼び、翌月8日条(逸文)の詔は新京を「平安京」としました。(あわせて「山背国」を「山城国」と、滋賀の「古津」を「大津」と改称しました。)

 また、同14年1月16日条(逸文)の踏歌には「平安の宮名は無窮のものであることを示す」とあります。

250C1天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇

 父は249A天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇(249光仁天皇)の項を参照してください。

 

250C2高野新笠(たかののにひかさ)

 母は249E2高野新笠(たかののにひかさ)の項を参照してください。

 

250D1他戸(をさべ)親王から250D7弥努摩(みぬま)女王まで

 兄弟姉妹は、249F1他戸(をさべ)親王から249F8弥努摩(みぬま)女王までの項を参照してください。

 

250E1藤原乙牟漏(おとむろ)・天高藤広宗照(あめのたかふぢひろむねてる)姫尊

 皇后は、藤原朝臣良継(よしつぐ)(もと宿奈(すくな)麻呂)と中務大輔阿倍朝臣糠虫(ぬかむし)の女尚藏兼尚侍阿倍朝臣古美奈(こみな)の子、藤原乙牟漏(おとむろ)とします。

 延暦2年4月条は、藤原夫人を皇后に立てたとします。当時24歳とされます。皇后は、250F1安殿(あての)親王(小殿(をての)親王)(251平城天皇)、250F4神野(かみの。賀美能)親王(252嵯峨天皇)および250F6高志(こし)内親王の3人を生みます。

 同9年閏3月に薨去、天高藤広宗照(あめのたかふぢひろむねてる)姫尊の諡号を贈られ、長岡山陵(『延喜式』は「高畠(たかはたけ)陵、皇太后藤原氏、在山城国乙訓郡」とし、『陵墓要覧』は所在地を京都府向日市寺戸町大牧とし、そこの円丘と比定します。)に葬られました。

 この「おとむろ」、「あめのたかふぢひろむねてる」、「たかはたけ」、「よしつぐ」、「ぬかむし」、「こみな」は、

  「アウト・ム・ラウ」、AUTO-MU-RAU(auto=trailing behind,slow,drag out,protract;mu=silent;rau=hundred,multitude,catch as in a net,entangle,embarrassed)、「おとなしく・黙って・(夫の後に)ついて行く(姫)」(「アウト」および「ラウ」のAU音がO音に変化して「オト」、「ロ」となった)

  「アマイ・ノ・タカ・フチ・ヒラウ・ム・ネイ・タイルア」、AMAI-NO-TAKA-HUTI-HIRAU-MU-NEI-TAIRUA(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;no=of;taka=heap,lie in a heap;huti=hoist,fish(v.);hirau=entangle,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught;mu=silent;nei=to denote proximity to or connection with,to indicate continuance of action;tairua=valley,depression)、「燦然と輝いて・いる・(皇后という)高い地位に・引き上げられて・困惑して・黙り込んで・いよいよ・意気消沈した(姫)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「タイルア」のAI音がE音に変化し、語尾のA音が脱落して「テル」となった)

  「タカ・パタ・カイ」、TAKAHA-TAKE(taka=heap,lie in a heap;pata=prepare food;kai=eat,food)、「ご飯を・(椀に)盛り上げた(ような)・丘(円丘)」(「パタ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハタ」と、「カイ」のAI音がE音に変化して「ケ」となった)

  「イオ・チ・ツ(ン)グ」、IO-TI-TUNGU(io=muscle,line,spur,lock of hair,tough,obstinate;ti=throw,cast,overcome;tungu=kindle)、「高く・灯を・掲げた(照らした。朝臣)」(旧名「宿奈(すくな)麻呂」については古典篇(その十四)の240H7佐味君宿那(すくな)麻呂の項を参照してください。)

  「ヌカ・ム・チ」、NUKA-MU-TI(nuka=deceive,dupe,stratagem,mu=solent;ti=throw,cast,overcome)、「黙りこくって・(人に)誤解を・与える(朝臣)」

  「コミ・ナ」、KOMI-NA(komi=bite,close the jaws on,eat;na=satisfied,belonging to)、「食べていると・安心する(朝臣)」

の転訛と解します。

 

250E2藤原朝臣吉子(よしこ)

 夫人は、藤原朝臣是公(これきみ)の女の吉子(よしこ)とし、延暦2年2月に従三位に叙せられ、同月250E1藤原乙牟漏(おとむろ)とともに夫人となり、桓武天皇の第2皇子(『文徳実録』仁寿3年6月条葛原親王薨伝に桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄とあることなどから推定しました)の250F2伊豫(いよ)親王を生んでいます。

 『日本紀略』によれば大同2年10月藤原宗成が伊豫親王に謀反を勧めたことが発覚し、吉子は親王とともに捕らえられ、無実を主張しましたが川原寺に幽閉されて飲食を絶たれたため、両人は毒を仰いで自殺し、時の人はこれを哀れんだとします。

 続後紀承和6年9月条は、吉子に従三位を贈り、翌10月祟りがあるとしてさらに従二位を追贈し、三代実録貞観5年5月条の御霊会において崇道天皇、伊豫親王とともに祀られました。

 この「よしこ」、「これきみ」は、

  「イオ・チコ」、IO-TIKO(io=muscle,line,spur,lock of hair,tough,obstinate;tiko=stand out,protrude,settled upon as by frost)、「疲れを知らずに(行動することでは)・傑出している(姫)」または「イオ・チ・コ」、IO-TI-KO(io=muscle,line,spur,lock of hair,tough,obstinate;ti=throw,cast,overcome;ko=addressing to males and females)、「髪を・振り乱している・女性」

  「コレ・キミ」、KORE-KIMI(kore=not,no,not at all,absence or lack of anything;kimi=calabash,seek,look for)、「何も・欲しいものがない(何でも所有している。朝臣)」

の転訛と解します。

 

250E3多治眞宗(まむね)

 夫人は、多治(『文徳天皇実録』仁寿3年6月条250F3葛原親王薨伝は「多治」氏としますが、「多治比」氏と解する説があります。)眞宗(まむね)で、桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄の250F3葛原(かつらはら)親王を生んだとします。続紀には夫人・親王ともに叙位記事がみえません。

 この「まむね」は、

  「マ・アム・ネイ」、MA-AMU-NEI(ma=white,clear;amu=grumble,begrudge,complain;nei=to denote proximity to or connection with,to indicate continuance of action)、「清らかな・(夫人・親王ともに叙位されないことに)ぶつぶつと不平を洩らし・続けた(姫)」(「マ」のA音と「アム」の語頭のA音が連結して「マム」と、「ネイ」の語尾のI音が脱落して「ネ」となった)

の転訛と解します。

 

250E4藤原朝臣旅子(たびこ)

 夫人は、249H17藤原朝臣百川(ももかは)と250E1藤原良継の女藤原諸姉(もろね)の子、藤原朝臣旅子(たびこ)とします。

 延暦初年に後宮に入り、同4年11月従三位、同5年正月に夫人となり、250F5大伴(おほとも)親王(253淳和天皇)を生み、同7年5月に30歳で没し、妃と正一位を贈られたとします。のち淳和天皇が即位すると弘仁14年5月贈皇太后とされます。

 この「たびこ」は、

  「タピ・コ」、TAPI-KO(tapi=apply as dressings to a wound,earth oven,cook,patch,mend;ko=addressing to males and females)、「(傷の手当をする)人を癒す・女性」

の転訛と解します。(「藤原諸姉(もろね)」については前出247E粟田朝臣諸姉(もろね)の項を参照してください。)

250E5酒人(さかひと)内親王

 249F6酒人(さかひと)内親王は、249E1井上(ゐのうへ)内親王を母とし、続紀宝亀元年11月に三品となり、同3年11月条は、内親王を伊勢斎宮とし、仮に春日(かすが)斎宮に住んだとします。宝亀5年9月、伊勢へ向かい、翌6年4月母后の喪により退下したのち、山部親王(250桓武天皇)の妃となり、250F7朝原内親王(4歳で伊勢斎宮となる)を産みます。『東大寺要録』は「容貌が美しくたおやか、若くして斎王となり、年を経て退下し、桓武天皇の後宮に入り、盛んな寵愛を受け、朝原内親王を産んだ。生まれつき驕りたかぶり、感情や気分が不安定であったが、桓武天皇は咎めず放任したので、淫らな行いが多くなり、自制することができなくなった。弘仁年中に年老い衰えたのを憐れんでとくに二品を授けた。」と記します。天長6年8月、76歳で没しました。

 この「さかひと」は、

  「タカヒ・ト」、TAKAHI-TO(takahi=trample,stamp,tread;to=drag,tingle)、「興奮して・地団駄を踏む(わがままで手がつけられない所行をする。内親王)」

  または「タカ・ピト」、TAKA-PITO(taka=fall off,fall away;pito=end,extremity)、「極めて・堕落した(内親王)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

250F1安殿(あての)親王(小殿(をての)親王)(251平城天皇)・日本根子天推国高彦(やまとねこあめおしくにたかひこ)尊・藤原縄主(ただぬし)・薬子(くすこ)

 桓武天皇の第1皇子で、母は250E1藤原乙牟漏(おとむろ)です。

 延暦2年4月条は、小殿(をての)親王を改名して安殿(あての)親王としたとし、同4年10月条は249F3早良親王に代わり12歳で皇太子に立ったとします。同7年正月条は、15歳で元服したとします。親王は、藤原縄主(ただぬし)と250H5藤原種継(たねつぐ)の女薬子(くすこ)の間に生まれた娘を後宮に迎えますが、薬子は皇太子と醜聞を流し、桓武天皇によって追放されます。

 大同元年即位し、桓武天皇の平安京建設と蝦夷征討の大事業による国家財政の破綻を収拾するために官司の整理、観察使の創設等に努めますが、早良親王の祟りとされる風病に悩み、いくたびか転地療養を試みますが効果が無く、在位3年で皇太弟の250F4神野(かみの。賀美能)親王(252嵯峨天皇)に譲位して、243B2平城旧京に隠棲します。

 その後上皇の健康が奇跡的に回復し、寵愛する薬子等に囲まれて国政への意欲を示し、「二所朝廷」の状態となり、遂に弘仁元年薬子の変によって失脚し、詩文や和歌を愛し、失意のうちに天長元年に崩御します。

 なお、森鴎外『帝謚考』は「平城」を在所号とし、『後紀』大同3年6月条、『続後紀』承和13年9月条等は国風諡を「日本根子天推国高彦(やまとねこあめおしくにたかひこ)尊」とします。

 この「あての」、「をての」、「やまとねこあめおしくにたかひこ」、「ただぬし」、「くすこ」は、

  「アテ・(ン)ゴ」、ATE-NGO(ate=liver,heart,spirit,high feeling;ngo=cry,grunt)、「(内)心が・(満たされずに)ぶつぶつ言っている(親王)」(「(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ノ」となった)

  「オ・タイ(ン)ゴ」、O-TAINGO(o=the...of,belonging to;taingo=spotted,mottled)、「そばかすが・ある(親王)」(「タイ(ン)ゴ」のAI音がE音に、NG音がN音に変化して「テノ」となった)

  「イア・マ・トネ・コ・アマイ・オチ・クニ・タカ・ヒコ」、IA-MA-TONE-KO-AMAI-OTI-KUNI-TAKA-HIKO(ia=indeed,current;ma=white,clear;tone=projection,knob;ko=addressing to males and females;amai=swell on the sea,giddy,dizzy;oti=finished;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;taka=turn on a pivot,revolve,go or pass round,be completely encircled;hiko=move at random or irregularly)、「実に・清らかな・ずば抜けた・人物で・光り輝いた・(いったん)国の灯を・消して(退位して)・再び戻ろうとした・各地を(病気療養のため)転々とした(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」となった)

  「タタ・ヌイ・チ」、TATA-NUI-TI(tata=dash down,beat down,oppose;nui=large,many;ti=throw,cast,overcome)、「(妻薬子の後宮での振る舞いに)強く・反対を・唱えた(朝臣)」(「タタ」が「タダ」と、「ヌイ」が「ヌ」となった)
  または「(周囲の)たくさん(の人に)・親しく・接した(朝臣)」(「タタ」が「タダ」と、「ヌイ」が「ヌ」となった)

  「クツ・コ」、KUTU-KO(kutu=louse,vermin of any kind infesting human beings;ko=addressing to males and females)、「(娘婿と醜聞を流すという)とんでもない不倫をしでかした・女」(「クツ」のT音がS音に変化して「クス」となった)
  または「ク・ウツ・コ」、KU-UTU-KO(ku=silent,make a low inarticulate sound,coo,etc.;utu=return for anything,satisfaction,ransom,reward,price,reply.make response,whether by way of payment,blow,or answer,etrc.)、「ひそかに・(自らと身内の不名誉を挽回しようと)とんでもない(上皇の復位という)荒業を企み実行しようとした・女」(「ク」のU音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「クツ」となり、そのT音がS音に変化して「クス」となった)

の転訛と解します。

 

250F2伊豫(いよ)親王

 桓武天皇の第2皇子(『文徳天皇実録』仁寿3年6月条250F3葛原親王薨伝に桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄とあることなどから推定しました)で、母は250E2藤原朝臣吉子(よしこ)です。延暦11年に加冠し、三品式部卿、中務卿、太宰師を歴任し、政治的力量もあり、管弦もよくし、桓武天皇の信頼も厚かったといいます。

 『日本紀略』によれば大同2年10月藤原宗成(むねなり)が伊豫親王に謀反を勧めたことが発覚し、親王は母吉子とともに捕らえられ、無実を主張しましたが川原寺に幽閉されて飲食を絶たれたため、両人は毒を仰いで自殺し、時の人はこれを哀れんだとします。

 続後紀承和6年9月条は、伊豫親王に一品を追贈したとし、三代実録貞観5年5月条の御霊会において崇道天皇、母吉子とともに祀られました。

 この「いよ」、「むねなり」は、

  「イ・イオ」、I-IO(i=past tense,beside;io=muscle,line,spur,lock of hair,tough,obstinate,twitch)、「(謀反の罪で捕らえられて)顔をひきつらせ・た(親王)」

  「ム・ネイ・(ン)ガリ」、MU-NEI-NGARI(mu=murmur at,shoe discontent with,silent;nei=to denote proximity to or connection with,to indicate continuance of action;ngari=annoyance,disturbance;greatness,power)、「(天皇への)不満をささやき・続けて・人を悩ます(朝臣)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。

 

250F3葛原(かつらはら)親王

 桓武天皇の第3皇子(『文徳天皇実録』仁寿3年6月条葛原親王薨伝に桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄とあります。)で、母は250E3多治眞宗(まむね)です。延暦22年正月四品、治部卿となり、大同元年5月大蔵卿、同4年9月三品、弘仁元年9月式部卿を歴任して同7年正月二品、天長8年正月一品となっています。史伝に通じ、旧典について練達していないものはなかったといいます。承和10年に老病のため致仕を願いますが許されず、輦車で出入を許されました。その死に際しては薄葬を遺言し、朝廷の葬事監護を辞退しました。

 天長2年に子女の王号を停めて平朝臣姓を名乗ることを請い、許されて桓武平氏が始まっています。

 この「かつらはら」は、

  「カツア・ラハラハ」、KATUA-RAHARAHA(katua=full-grown,adult,stockade,main portion of anything;raharaha=spread out)、「大人になって・(才能が)開花した(親王)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」と、「ラハラハ」の反復語尾のH音が脱落して「ラハラ」となった)

の転訛と解します。

 

250F4神野(かみの。賀美能)親王(252嵯峨天皇)

 桓武天皇の第4皇子(『文徳天皇実録』仁寿3年6月条250F3葛原親王薨伝に桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄とあることなどから推定しました。笠原英彦『歴代天皇総覧』(中公新書)に第2皇子とするのは誤りです。)で、母は250E1藤原乙牟漏(おとむろ)です。

 大同元年5月兄の251平城天皇の皇太子となり、同4年に即位して252嵯峨天皇となります。

 譲位した平城上皇が健康を回復して「二所朝廷」の観を呈し、弘仁元年平城遷都令を発し、重祚の動きが出てきたので、坂上田村麻呂の軍を出して制圧します(薬子の変)。この後弘仁、天長、承和の30余年間は政局が安定し、平安文化が華を開きました。『弘仁格』、『弘仁式』が編纂され、勅撰の『凌雲集』、『文華秀麗集』が編まれ、空海、小野篁等多くの才能ある人々が活躍し、唐風文化が隆盛となりました。

 天(上)皇は三筆の一人に数えられ、後宮は盛大を極め、皇子・皇女は約50人に及び、多くは源氏姓を与えられました。承和9年に崩御すると、政局はにわかに流動化へ向かいます。

 なお、森鴎外『帝謚考』は「嵯峨(さが)」を在所号とします。唐風文化に心酔した天皇であったためか、国風諡号はありません。

 この「かみの」、「さが」は、

  「カ・ミノノ」、KA-MINONO(ka=take fire,be lighted,burn;minono=beg)、「情熱的に・(あらゆるものを)求め続ける(親王)」(「ミノノ」の反復語尾の「ノ」が脱落して「ミノ」となった)

  「タ(ン)ガ」、TANGA(be assembled,row,division of persons)、「(多方面にわたる)能力を兼備した(天皇)」または「(その周囲に)文人グループを集めた(天皇)」(NG音がG音に変化して「タガ」から「サガ」となった)

の転訛と解します。

 

250F5大伴(おほとも)親王(253淳和天皇)・日本根子天高譲弥遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)尊

 桓武天皇の第5皇子(『文徳天皇実録』仁寿3年6月条250F3葛原親王薨伝に桓武天皇の第3皇子で252嵯峨天皇の兄とあることなどから推定しました。笠原英彦『歴代天皇総覧』(中公新書)に第3皇子とするのは誤りです。)で、母は250E4藤原朝臣旅子(たびこ)です。

 弘仁元年薬子の変により252嵯峨天皇の皇太子であった251平城天皇の第3皇子の高丘親王が廃太子となったのを受けて立太子し、同14年4月嵯峨天皇の譲位により即位しました。

 天皇は、謙譲、温厚で、兄上皇と円満な関係を保ち、勘解由使・巡察使を派遣し、良吏を積極的に登用するなどの政策を行われ、『日本後紀』、『令義解』の編纂が行われています。

 天長10年皇太子である嵯峨天皇の第1皇子、正良(まさら)親王(254仁明天皇)に譲位し、承和7年に崩御しました。

 なお、森鴎外『帝謚考』は「淳和」を在所号とし、『続後紀』承和7年5月条は国風諡号を「日本根子天高譲弥遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)尊」とします。

 この「おほとも」、「やまとねこあめたかゆずるいやとお」は、

  「オホ・トモ」、OHO-TOMO(oho=spring up,wake up,arise;tomo=be filled,pass in,enter,begin,assault)、「(薬子の変により廃された高丘親王に代わって皇太子に立てられて)びっくりして立ち上がって・(皇太子の地位に)就いた(親王)」

  「イア・マ・トネ・コ・アマイ・タカイ・ウツ・ル・イア・トフ」、IA-MA-TONE-KO-AMAI-TAKAI-UTU-RU-IA-TOHU(ia=indeed,current;ma=white,clear;tone=projection,knob;ko=addressing to males and females;amai=swell on the sea,giddy,dizzy;takai=wrap up,wind round;utu=return for anything,satisfaction,reward,make response;ru=shake,agitate,scatter;ia=indeed,current;tohu=mark,company or divosion of any army,point out(tohunga=skilled person,priest))、「実に・清らかな・ずば抜けた・人物で・光り輝いた・(勘解由使・巡察使を派遣し、良吏を積極的に登用するなどの政策を行って)実に・官僚群を・まとめ上げ・志気を・鼓舞した(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「タカイ」の語尾のI音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「タカユツ」と、「トフ」のH音が脱落して「トウ」となった)

の転訛と解します。

 

250F6高志(こし)内親王

 桓武天皇の皇女、250F1安殿(あての)親王(251平城天皇)および250F4神野(かみの)親王(252嵯峨天皇)の同母妹で、母は250E1藤原乙牟漏(おとむろ)です。

 延暦20年加笄の儀を経て、異母兄の250F5大伴(おほとも)親王(253淳和天皇)の妃となり、253F1恒世親王、253F3氏子内親王、有子内親王、貞子内親王等を生みましたが、大同4年5月に21歳で没し、一品を贈られ、弘仁14年6月淳和天皇の即位後皇后を追贈されました。

 この「こし」は、

  「コチ」、KOTI(spurt out,come into bloom of plants)、「花が咲いたような(美しい。内親王)」

の転訛と解します。

 

250F7朝原(あさはら)内親王

 桓武天皇の第一皇女で、母は二品249F6酒人内親王です。

 延暦元年8月、幼くして(4歳で)伊勢斎宮となり、同4年9月旧平城宮で3年の潔斎を終えて父桓武天皇に見送られて伊勢へ向かい、同15年2月通常の斎宮の交替の理由(天皇の譲位、崩御、身内の不幸、病気など)がないのに退下し(『日本後紀』には「斎内親王、京に帰らんと欲し」とあるのみで、何の理由も記されていません)、それにもかかわらず同年7月に無品から三品となり、異母兄の250F1安殿親王(251平城天皇)の妃となりますが、大同5年の薬子の変には同行せず、異例なことに弘仁3年5月16日に妃(このとき二品)を辞し、同8年4月39歳で没しました。

 この「あさはら」は、

  「アタ・ハラ」、ATA-HARA(ata=form,shadow,early morning(whakaataata=scare,freighten away);hara=violate tapu,sin,miss,excess above a round number(harahara=abundance))、「異例に・はかない(幼さで斎王となった。内親王)」または「(禁忌を無視するという)思い切ったことをしてのけて・(人々を)びっくりさせた(内親王)」

の転訛と解します。

250F8大宅(おおやけ)内親王

 桓武天皇の皇女で、母は兵部大輔橘朝臣島田麻呂の女の女御常子です。

 延暦20年11月、加笄の儀を行い、異母兄の皇太子250F1安殿親王(251平城天皇)の妃となり、大同5年の薬子の変には同行せず、朝原内親王に十日遅れて弘仁3年5月26日に妃(このとき四品)を辞し、天長6年に出家、嘉祥2年(このとき三品)に没しました。

 この「おおやけ」は、

  「オホ・イ・アケ」、OHO-I-AKE(oho=surprise,wake up;i=past tense;ake=indicating immediate continuation in time)、「(朝原内親王が妃を辞したのを知って)びっくりして・すぐに・後を追った(妃を辞した。内親王)」

の転訛と解します。

250G柏原(かしははら)陵

 『延喜式』は陵を「柏原(かしははら)陵、平安宮御宇桓武天皇、在山城国紀伊郡、兆域東八町、西三町、南五町、北六町、加丑寅角二岑一谷、守戸五烟」とします。

 『陵墓要覧』は所在地を京都市伏見区桃山町とします。

 この「かしははら」は、

  「カチ・ワ・ハラ」、KATI-WA-HARA(kati=leave off,be left in statu quo,well,block up,shut of a passage,close up,barrier,bite;wa=definite place,area;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「(その地域の一部(丑寅=北東の角)が)浸食されている・地域の・(首長を埋葬した)墓地(陵)」

の転訛と解します。

 なお、天皇は延暦4年11月に河内国交野郡の柏原(かしははら)において天神を祀っています(255文徳天皇も斉衡3年11月に大納言藤原良相等を同所に遣わして昊天祭を行っています)。

 この「かしははら」は、

  「カチ・ワ・パラ」、KATI-WA-PARA(kati=leave off,be left in statu quo,well,enough,block up,shut of a passage,close up,in contact,barrier,bite;wa=definite place,area;para=a flake of stone,sediment,dust,cut down bushes etc.,clear(parapara=a place where certain rites were performed))、「(天神を祀るのに)好適な・(呪文を唱える)祭祀を行う・場所(地域)」(「パラ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

の転訛と解します。

 ちなみに、植物の「柏(かしは)」は、

  「カチ・パ」、KATI-PA(kati=well,enough;pa=touch,reach,operate on,join in an undertaking)、「(食物を)載せたり包んだり取り扱うのに・好適な(木の葉。その木)」(「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハ」となった)

の転訛と解します。

 

250H1伊佐西古(いさせこ)・諸絞(もろくり)・八十嶋(やそしま)・乙代(おとしろ)・内藏忌寸全成(またなり)・多朝臣犬養(いぬかひ)

 天応元年6月条は、参議持節征東大使249H18藤原朝臣小黒(をぐろ)麻呂等に対し、賊の首長である伊佐西古(いさせこ)、諸絞(もろくり)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)等を討つことなく軍を解いたのはよくない、副使内藏忌寸全成(またなり)・多朝臣犬養(いぬかひ)の一人がまず帰京して詳細を報告し、他の者は後の処分を待てと勅したとします。

 この「いさせこ」、「もろくり」、「やそしま」、「おとしろ」、「またなり」は、

  「イタ・テコ」、ITA-TEKO(ita=tight,fast,compact;teko=rock,isolated,standing out)、「小柄で(身体が締まっている)・目立っている(首長)」

  「モロ・クリ」、MOLO-KURI((Hawaii)molo=to turn,spin,to tie securely;kuri=dog,any quadruped(kurikuri=fusty,evil-smelling))、「(犬のように)敏捷に・体を翻す(首長)」

  「イア・ト・チマ」、IA-TO-TIMA(ia=indeed,current;to=drag,calm;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「実に・静かに・(鍬を使う)土地を崩す(または濠を掘るなど。首長)」

  「アウト・チロ」、AUTO-TIRO(auto=trailing behind,slow,protract;tiro=look,survey,examine)、「じっくり・偵察する(首長)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

  「マタ・(ン)ガリ」、MATA-NGARI(mata=face,eye;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「眼に・力がある(忌寸)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)の転訛と解します。(「多朝臣犬養(いぬかひ)」については古典篇(その十五)の245H20大伴宿禰犬養(いぬかひ)の項を参照してください。)

 

250H2氷上(ひかみ)真人川継(かはつぐ)・大和乙人(おとひと)・宇治(うぢ)王・藤原法壱(ほふいち)

 延暦元年閏正月条は、246H12塩焼(しほやき)王の子の因幡国守氷上(ひかみ)真人川継(かはつぐ)が謀反し、川継の従者大和乙人(おとひと)がひそかに兵器を帯びて宮中に侵入したのを捕らえて尋問すると宇治(うぢ)王を率いて朝廷を傾ける計画であった事が露見し、これを知った川継が逃走したので、三関を固関して捜索し大和国葛上郡で捕らえ、諒闇の始めであることから死を赦して妻藤原法壱(ほふいち)とともに伊豆国三島へ遠流し、その母245F4不破(ふは)内親王と川継の姉妹は淡路に流されたとします。

 この「かはつぐ」、「おとひと」、「うぢ」、「ほふいち」は、

  「カハ・ツ(ン)グ」、KAHA-TUNGU(kaha=crested grebe,strong,persistency,rope,edge;tungu=kindle)、「(謀反の)灯を灯した・(潜水(=逃亡)を得意とする水鳥の)カイツブリのような(真人)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「アウト・ピト」、AUTO-PITO(auto=trailing behind,slow,protract;pito=end,extremity,at first)、「(主人の)後について行く・(部族中で)一番の(男子)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

  「ウチ」、UTI(bite(utiuti=annoy,worry,ado))、「噛み付いた(謀反した。王)」

  「ホウ・イチ」、HOU-ITI(hou=tail feather,bind,enter,dedicate or initiate a person etc.;iti=small,unimportant)、「小柄な・(鳥の尻尾の羽根のような)夫の後ろにぴつたりとくっついている(妻)」

の転訛と解します。(「氷上(ひかみ)真人」については前出247H12氷上(ひかみ)塩焼の項を参照してください。)

 

250H3三方(みかた)王・山上朝臣船主(ふなぬし)・弓削(ゆげ)女王

 延暦元年3月条は、250H2氷上(ひかみ)真人川継(かはつぐ)の謀反に加担したとして同年閏正月に日向介に左遷された三方(みかた)王と隠岐介に左遷された山上朝臣船主(ふなぬし)および三方王の妻の弓削(ゆげ)女王(240F6舎人親王の子御原王の女)が乗輿を厭魅したとして、三方王と弓削女王を日向国へ、山上朝臣船主を隠岐国へ流したとします。

 この「みかた」、「ふなぬし」は、

  「ミヒ・カタ」、MIHI-KATA(mihi=greet,admire,sigh for;kata=laugh,opening of shellfish)、「尊敬すべき(または謀反に加担したことを後悔した)・良く笑う(王)」

  「フヌ・ヌイ・チ」、HUNU-NUI-TI(hunu,huhunu=double canoe;nui=large,many;ti=throw,cast,overcome)、「船を・たくさん・浮かべている(所有している。朝臣)」(「フヌ」のU音がA音に変化して「フナ」となった)

の転訛と解します。(「弓削(ゆげ)女王」については古典篇(その十四)の240F5弓削(ゆげ)皇子の項を参照してください。)

 

250H4藤原朝臣魚名(うをな)・鷹取(たかとり)・末茂(すえしげ)・真鷲(まわし)

 延暦元年6月条は、左大臣兼大宰師藤原朝臣魚名(うをな)が事に坐して(内容は未詳です)、大臣を免ぜられ、その男鷹取(たかとり)は石見介に左遷され、末茂(すえしげ)は土佐介に、真鷲(まわし)は父に従うことを命じられたとします。

 なお、魚名は摂津まで赴きましたが病気となってそこに止まり、翌年5月老病の故に京へ還ることを許され、7月23日には鷹取、末茂の入京が許され、25日に魚名は63歳で死去します。30日には本官を贈るとともに前年6月の魚名一族に対する処分がすべて破棄されました。

 この「うをな」、「たかとり」、「すえしげ」、「まわし」は、

  「ウ・アウ(ン)ガ」、U-AUNGA(u=be firm,be fixed,reach its limit;aunga=not including)、「(罪が)根も葉もなかった(無実であった)ことが・判明した(確定した。朝臣)」(「アウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がN音に変化して「オナ」となった)

  「タカ・トリ」、TAKA-TORI(taka=heap,lie in a heap;tori=cut)、「高い地位から・切り落とされた(朝臣)」

  「ツアイチ・(ン)ガイ」、TUAITI-NGAI(tuaiti=small,dimunitive;ngai=tribe,clan)、「小さな・奴(朝臣)」(「ツアイチ」のAI音がE音に変化して「ツエチ」から「スエシ」と、「(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化して「ゲ」となった)

  「マウア・チ」、MAUA-TI(maua=we two,us two;ti=throw,cast,overcome)、「(父と)二人で・放り出された(任地に赴くよう命じられた。朝臣)」(「マウア」が「マワ」となった)

の転訛と解します。

 

250H5藤原朝臣種継(たねつぐ)・大伴宿禰竹良(ちくら)・大伴宿禰家持(やかもち)

 延暦4年9月条は、天皇が平城宮に行幸した留守中に、中納言兼式部卿藤原朝臣種継(たねつぐ)が賊に射られて死亡し、249H14大伴宿禰継人(つぐひと)、大伴宿禰竹良(ちくら)等数十人を捕らえてそれぞれ法によって処断したとします。

 なお、この事件の直前の8月に死亡した中納言大伴宿禰家持(やかもち)は、その葬儀が終わらない前に事件に関与したとして除名されました。

 この藤原種継暗殺事件に関しては、続紀の記事が早良親王の怨霊にかかわって桓武朝に削除され、種継の子である薬子・仲成によって復活され、薬子の変を経て再び嵯峨天皇によって削除されています(『日本後紀』弘仁元年9月条)。

 この「たねつぐ」、「ちくら」、「やかもち」は、

  「タネ・ツ(ン)グ」、TANE-TUNGU(tane=male,showing manly qualities;tungu=kindle)、「(早良親王を皇位に付けるという謀反の灯を)灯した・男らしい(朝臣)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「チ・クラ」、TI-KURA(ti=throw,cast,overcome;kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure)、「(赤い羽根り)頭飾りを・投げ捨てた(朝臣)」

  「イア・カモ・チ」、IA-KAMO-TI(ia=indeed,current;kamo=eyelash,eye,wink,bubble up;ti=throw,cast,overcome)、「実に・(歌が)湧いて・出てくる(宿禰)」または「イア・カ・モチ」、IA-KA-MOTI(ia=indeed,current;ka=take fire,be lighted,burn;moti=consumed,scarce,surfeited)、「実に・(歌を作ることに)燃え・尽きた(宿禰)」

の転訛と解します。

 

250H6笠(かさ)王・壱志濃(いちしの)王・紀朝臣馬守(うまもり)・当麻(たぎま)王・紀朝臣古佐美(こさみ)

 延暦4年10月条は、中納言249H18藤原朝臣小黒(をぐろ)麻呂と大膳大夫笠(かさ)王を238G山科山陵(天智天皇陵)に、治部卿壱志濃(いちしの)王と紀朝臣馬守(うまもり)を249G2田原山陵(光仁天皇陵)に、中務大輔当麻(たぎま)王と中衛中将紀朝臣古佐美(こさみ)を245G後佐保山陵(聖武天皇陵)に派遣して、皇太子249F3早良(さはら)親王を廃することを告げさせたとします。

 なお、『日本紀略』弘仁元年9月条は皇太子早良親王と250H5藤原朝臣種継(たねつぐ)の不和を記し、同延暦4年9月条は種継暗殺事件にかかわるとされた皇太子早良親王は、乙訓寺に幽閉され、自ら食を絶つこと十余日、船で淡路に移送される途中に没し、その遺骸は淡路に埋葬されたとします。

 この「かさ」、「いちしの」、「うまもり」、「たぎま」、「こさみ」は、

  「カタ」、KATA(laugh,opening of shellfish)、「良く笑う(王)」

  「イチ・チノ」、ITI-TINO(iti=small,unimportant;tino=essentiality,main,very)、「実に・小柄な(王)」

  「ウマ(ン)ガ・マウリ」、UMANGA-MAURI(umanga=pursuit,occupation,an incantation for the destruction of the enemy;mauri=life principle,source of emotions,talisman)、「仕事に関して・確固とした信念を持っていた(朝臣)」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」と、「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

  「タキ・マ」、TAKI-MA(taki=take to one side,track,bring along;ma=white,clear)、「清らかに(私心無く)・職務に精励する(王)」(前出247C2当麻(たぎま)真人山背(やましろ)の項を参照してください。)

  「コタ・ミイ」、KOTA-MII(kota=cockle shell,anything to scrape or cut with;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「(稲穂の収穫等に使用する鳥貝の貝殻の包丁のように)旧式の武器・戦法に・固執していた(その結果蝦夷との戦いに大敗した。朝臣)」(「ミイ」の語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

250H7紀朝臣真人(まひと)・佐伯宿禰葛城(かづらぎ)・入間宿禰広成(ひろなり)

 延暦7年3月条は、249H15多治比真人浜成(はまなり)、紀朝臣真人(まひと)、佐伯宿禰葛城(かづらぎ)、入間宿禰広成(ひろなり)を征東副使に任じ、同年7月条は、250H6紀朝臣古佐美(こさみ)を征東大使に任じたとします。

 この「まひと」、「かづらぎ」は、

  「マヒ・ト」、MAHI-TO(mahi=work,make,be occupied with,perform;to=drag)、「一心不乱に・(軍を)統率する(真人)」

  「カ・ツラキ」、KA-TURAKI(ka=take fire,be lighted,burn,screech;turaki=throw or push down from an upright position,overthrow)、「情熱的に(またはがみがみと)・上から命令をする(宿禰)」の転訛と解します。(「入間宿禰広成(ひろなり)」については古典篇(その十五)の244H4白猪史広成(ひろなり)の項を参照してください。)

 

250H8池田朝臣真枚(まひら)・安倍猿嶋臣墨縄(すみなは)・阿弖流為(あてるい)・丈部善理(ぜんり)・進士高田道成(みちなり)・会津壮(たけ)麻呂・安宿戸吉足(よしたり)・大伴五百継(いほつぐ)・出雲諸上(もろかみ)・道嶋御楯(みたて)・大墓公(おおはかのきみ)阿弖利為(あてりい)・磐具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)

 延暦8年6月条は、征東将軍からの奏として、副将軍250H7入間宿禰広成(ひろなり)、左中軍別将池田朝臣真枚(まひら)、前軍別将安倍猿嶋臣墨縄(すみなは)が議して三軍が協力して河を渡り賊を討つこととしたが、賊師夷の阿弖流為(あてるい)の軍に挟み撃ちされて大敗し、別将丈部善理(ぜんり)、進士高田道成(みちなり)、会津壮(たけ)麻呂、安宿戸吉足(よしたり)、大伴五百継(いほつぐ)等が戦死し、多数の兵が河で溺れ死に、別将出雲諸上(もろかみ)、道嶋御楯(みたて)等が残兵をまとめて退却したとします。

 また、『日本紀略』は延暦12年に第二次征討軍を送りますが成功せず、同16年に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が同20年に大軍を率いて第三次征討に向かい、同年9月蝦夷を討伐したとの報告があり、同21年に田村麻呂は阿弖流為の本拠胆沢に胆沢城を築き、4月に大墓公(おおはかのきみ)阿弖利為(あてりい)と磐具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)は降伏して京に送られ、8月に坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず斬首されたと伝えます。

 この「まひら」、「すみなは」、「あてるい」、「ぜんり」、「みちなり」、「たけ」、「よしたり」、「いほつぐ」、「もろかみ」、「みたて」、「おおはかのきみあてりい」、「いわぐのきみもれ」は、

  「マヒラ」、MAHIRA(inquisitive,interfering,greedy,envious)、「干渉したがる(朝臣)」

  「ツ・ミナ・ワ」、TU-MINA-WA(tu=stand,settle,fight with,energetic;mina=desire,feel inclination for;wa=definite space,area,be far advanced)、「一定の場所(本陣)に・居ることを・望んだ(前線へ出撃せず、後方から指揮した。臣)」

  「アテ・ルイ」、ATE-RUI(ate=liver,heart;rui=shake,brandish,shake down)、「心が・勇み立つている(または勇猛を・誇示する。首長)」

  「テナ・リ」、TENA-RI(tena=encourage,urge forward,(int.)inviting co-operation or giving encouragement;ri=screen,protect,bind)、「(障碍物の)河を(越えて)・前進を促した(別将)」(「テナ」が「ゼン」となった)

  「ミチ・(ン)ガリ」、MITI-NGARI(miti=lick,backwash;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「(形勢が悪化して)唇を噛みしめた・力のある(進士)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「タカイ」、TAKAI(wrap up,wrap round)、「(賊軍に)包囲された(将)」(AI音がE音に変化して「タケ」となった)

  「イオ・チ・タリ」、IO-TI-TARI(io=muscle,line,tough;ti=throw,cast,overcome;tari=carry,bring,urge,incite)、「河に・(兵を)投じ・させた(多数の兵を河で溺れ死にさせた。将)」

  「イホ・ツ(ン)グ」、IHO-TUNGU(iho=heart,inside,that wherein consists the strength of a thing as an army,object of reliance,up above;tungu=kindle)、「(将兵の)心に・灯を灯した(勇気を与えた。将)」(「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「モロ・カミ」、MOLO-KAMI((Hawaii)molo=to turn,twist,to tie securely;kami=eat)、「(征服する)勝つことから・(生きて帰還することに方針を)転換した(将)」

  「ミイ・タタイ」、MII-TATAI((Hawaii)mii=clasp,good-looking;tatai=measure,arrange,adorn,plan,tactics)、「(最後に生きて帰還する)戦術に・固執した(将)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「オホ・ハカ・ノ・キ・ミヒ・アテ・リイ」、OHO-HAKA-NO-KI-MIHI-ATE-RIHI(oho=start from fear,surprise,wake up,arrise;haka=expressing surprise or admiration etc,deformed;no=of;ki=full,very;mihi=sigh for,greet,admire;ate=liver,heart;rihi=flat)、「人を驚かす・容貌魁偉・な・たいへん・尊敬される(首長)で・心が・(敗北を認めて)平静になった(首長)」(「オホ」のH音が脱落して「オオ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「リヒ」のH音が脱落して「リイ」となった)

  「イ・ハ(ン)グ・ノ・キ・ミヒ・モレ」、I-HANGU-NO-KI-MIHI-MORE(i=past tense,from,beside,with,by;hangu=dumb,quiet;no=of;ki=full,very;mihi=sigh for,greet,admire;more=cause,extremity,bare,plain,without adornment or appendages)、「至極・無口・な・たいへん・尊敬される(首長)で・降伏を言い出した(または飾り気のない。首長)」(「ハ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ハグ」から「ワグ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

250H9大伴宿禰弟(おと)麿・百済王俊哲(しゆんてつ)・坂上大宿禰田村(たむら)麻呂・巨勢朝臣野足(のたり)

 延暦10年7月条は、大伴宿禰弟(おと)麿を征夷大使に、百済王俊哲(しゆんてつ)、249H15多治比真人浜成(はまなり)、坂上大宿禰田村(たむら)麻呂、巨勢朝臣野足(のたり)を副使に任じたとします。

 この「おと」、「しゆんてつ」、「たむら」、「のたり」は、

  「オ・ト」、O-TO(the...of;to=drag)、「(軍を)率いて・いる(宿禰)」

  「チ・ウヌ・タイツ」、TI-UNU-TAITU(ti=throw,cast,overcome;unu=pull off,pull out,exhibit,start;taitu=be hindered,be intermitted,slow,take up,lift)、「出世の・出発(点)に・放り込まれた(王)」(「ウヌ」が「ウン」と、「タイツ」のAI音がE音に変化して「テツ」となった)

  「タ・アム・ウラ(ン)ガ」、TA-AMU-URANGA(ta=dash,beat,lay;amu=grumble,complain;uranga=act or circumstance etc. of becoming firm,reach the land,reach its limit)、「(朝廷に)反抗する(蝦夷を)・襲って・平定した(宿禰)」(「タ」のA音と「アム」の語頭のA音が連結して「タム」となり、その語尾のU音と「ウラ(ン)ガ」の語頭のU音が連結し、語尾のNGA音が脱落して「タムラ」となった)

  「(ン)ガウ・タリ」、NGAU-TARI(ngau=bite,hurt,attack;tari=carry,bring,urge,incite)、「攻撃を・促す(朝臣)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 
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<修正経緯>

1 平成17年8月1日

 249E2高野新笠の項に父和史乙継および母大枝朝臣真妹の名の解釈を追加し、249H1丹比宿禰乙女の解釈を修正し、249H3の項の裳咋足嶋の解釈を修正しました。

2 平成18年4月1日

 248H12白壁王、249F2山部親王の解釈を修正しました。

3 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

4 平成19年4月1日 

 249F6酒人内親王、250F4神野親王の項を修正し、250B2葛野宮・平安宮、250E5酒人内親王、250F7朝原内親王、250F8大宅内親王の項を追加しました。

5 平成19年6月1日

 250H9坂上大宿禰田村麻呂の解釈を修正しました。

6 平成19年7月1日

 250A桓武天皇の項の一部(ヤマトネコの解釈)を修正しました。 

7 平成20年2月1日

 249F6酒人内親王の項、250E5酒人内親王の項および250F7朝原内親王の項を修正しました。

8 平成20年5月1日

 249H14小野朝臣滋野の項の韓国連の解釈を追加しました。

9 平成21年9月1日

 250H8池田朝臣真枚の項の阿弖流為の解釈を修正し、大墓公阿弖利為および磐具公母礼の解釈を追加しました。

10 平成22年12月1日

 246H2大嘗の項に「おほにへ」の解釈を追加し、246H11新嘗の項に「にひあへ」の解釈を追加しました。

11 平成24年3月1日

 248H14吉備朝臣の項の佐伯宿禰今毛人(いまえみし)の解釈および249H12佐伯宿禰の項の佐伯宿禰今毛人(いまえみし)の解釈を修正しました。

12 平成28年9月1日

 250F1安殿親王の項の薬子(くすこ)および縄主(ただぬし)の解釈を修正しました。

古典篇(その十六)終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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