古典篇(その一)

(平成11-3-1書き込み。19-7-1最終修正)(テキスト約16頁)


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目    次

 

1 「ハツクニシラス」の解釈ー神武天皇架空説の根拠の誤りー

(1) 記紀の誤りの原因

(2) 「ハツクニシラス」天皇

(3) 「ハツクニシラス」の意味

(4) 「ヤマトイワレヒコ」の意味

(5) 「カム」の意味ー「ヤマト」の征服とタギシミミ殺害

(6) 「ヒコホホデミ」の意味

(7) 「ホオリ」の意味

 

2 「ミマキイリヒコ・イニヱ」の解釈ー崇神天皇から井上皇后までー

(1) 崇神天皇の治績

(2) 「ミマキイリヒコ・イニヱ」の意味

(3) 「オオタタネコ」の意味

(4) 井上(イノエ)皇后と他戸(オサベ)皇子の悲劇

(5) 「イノエ」は「イニヱ」と同じ

(6) 「オサベ」ほか関係者の名の意味

<修正経緯> 

 

1 「ハツクニシラス」の解釈ー神武天皇架空説の根拠の誤りー
 

(1) 記紀の誤りの原因

 

 『古事記』では崇神天皇に、『日本書紀』では神武天皇と崇神天皇に「ハツクニシラス」の称号を上(たてまつ)っています。また、風土記にもこの称号を記した記事があります。この「ハツクニシラス」を「始めて国を治めた」と解釈し、「始祖」たる天皇が二人いることは有り得ないから、神武天皇は架空の存在であったとする説が有力です。
 私は「ハツクニシラス」は「偉大な」天皇に対する美称で、「始祖」という意味ではないと解釈します。この「始祖」解釈を根拠とする神武天皇架空説は、明らかに誤りです。『日本書紀』の編集者も「始祖」と解釈して、そのような漢字を当てて表記しましたが、その結果生ずる矛盾についても当然意識していたものと思われます。

 ではどうしてこのような結果、そして混乱が生じたのでしょうか。
 『古事記』、『日本書紀』の編纂は、『古事記』序文にあるように「諸家の齎(もた)る帝紀及び旧辞」を材料としたとされています。
 この「帝紀及び旧辞」とは、どのようなものであったのでしょうか。これについて私は、次のように考えています。

a 最初に大和の地に覇を唱えた神武天皇が出自した一族は、おそらく対馬を本拠とし、北九州から朝鮮半島南岸にかけて勢力をもっていた南方系の航海民族ではなかったかと考えています。(その根拠についてはいずれ説明します。)
 この一族およびそれに協力して大和にやってきた南方系の航海民族や、それ以前から(おそくとも縄文時代の中期ないし後期には)日本列島各地に居住していた南方系の航海民族が、原ポリネシア語で語り伝えてきた神話・伝承が、記紀を編集する際の材料である「帝紀・旧辞」の重要な根幹をなしたものと思われます。

b 八世紀初頭において記紀等の編集にあたった朝廷の官人のほとんどは、弥生時代以後に朝鮮半島から渡来してきた古代朝鮮語またはアルタイ語系統の言語を母語としていた渡来人の子孫であったろうと思われます。
 彼らは、原ポリネシア語を基幹祖語とする縄文語の上に古代朝鮮語またはアルタイ語系統の言語がかぶさって成立したと思われる弥生語または古代日本語で育ち、古代朝鮮語はある程度理解し、中国語および漢字文化に精通はしていたが、原ポリネシア語はほとんど理解することができなかった世代でしょう。
 そこで、記紀の編纂にあたって、原ポリネシア語で語り伝えられた神話、帝紀、旧辞を細部にわたって完全には理解することができず、意味がわからない原ポリネシア語の語彙の意味を同じ発音をもつ古代日本語で解釈して、それに漢字をあてはめたものと推察されます。

c この結果、記紀の中には、一応古代日本語に漢字をあてはめて書かれてはいるものの、かなりの数の間違った解釈、理解による記事が混入することとなりました。
 また、全く最初から意味の判らない語彙も混入しており、これらの多くには、たとえば「入門篇(その三。平成11年1月1日書き込み)」で説明したように、「箸墓古墳」のヤマトトトビモモソヒメの項(崇神紀10年9月の条)の「急居(つきう)」の語のように分注という形で原音の読みが記載されていたり、中には「娜比騰耶幡麼珥(なひとやはばに)」の語(雄略紀元年3月の条)の分注で「此の古語、未だ詳(つまびらか)ならず」と意味不明を率直に認めたものさえみられます。
 そしてこれらの意味不明の語彙の多くが、ポリネシア語によって文脈に即し、適切な内容のものとして、合理的に解釈ができるのです。

d 記紀の中にみえる原ポリネシア語源の語彙で、もっとも普遍的に、時代を問わずにみられるものは、当然のことですが、地名です。
 この地名以外で、記紀の文中にみえる原ポリネシア語源の語彙は、時代が新しくなるのにつれて、急激にその数が少なくなります。
 その最も時代の新しいものは、『日本書紀』天武天皇即位前紀元年7月甲午(5日)の条の中にでてくる軍隊の「金(かね)」という合言葉(実は号令語)です。

 また、『続日本紀』の聖武天皇の光明子立后の宣命体の詔勅(天平元(729)年8月24日)の中にもポリネシア語源の語彙があります。

 このほか、『日本後紀』には、数多くの人名や「神賀詞」、「木蓮院」、「冷然院」、「淳和院」などの専門用語、施設名、離宮名が散見されます。(これ以後の六国史についても、子細に点検すれば、人名をはじめ、いくつかは発見できるものと思います。)

 さらに「入門篇(その二。平成10年12月1日書き込み)」の「アララギ」の項で説明したように、『延暦儀式帳』(延暦23(804)年)の中におそらく聖徳太子から聖武天皇までの時代に選定されたと推定されるポリネシア語源の「塔=あららぎ」という言葉が、伊勢神宮の「斎宮の忌詞(いみことば)」として収録されています。

 ポリネシア語源の人名は、『日本後紀』で確認した限りでは、時代とともに少なくなりますが、事績の記事があるものはほとんどすべてポリネシア語で解釈が可能です。

 これらのことからすると、原ポリネシア語は、古代日本語が成立した後も、朝廷の内外の一部で、あるいは地方の一部で、かなり後まで(少なくとも9世紀半ば近くまで)使われていた可能性があると考えられます。

 前置きが長くなりましたが、この「ハツクニシラス」も原ポリネシア語源で、記紀の誤りの一つで、長期間にわたって日本の歴史の理解を歪めてきた最たるものでしょう。
 

(2) 「ハツクニシラス」天皇

 
 『古事記』では崇神天皇に、『日本書紀』では神武天皇と崇神天皇に「ハツクニシラス」の称号を上(たてまつ)っています。また、風土記にもこの称号を記した記事があります。これらを表にしてみますと、

 
区   分 神武天皇 崇神天皇
A 古事記

和風謚号 神倭伊波礼毘古命
(かむやまといはれびこ)
御真木入日子印恵命
(みまきいりひこいにゑ)
称 号
 
其の御世を称(たた)えて、
初国知(はつくにし)らしし御真
木天皇(みまきのすめらみこと)
と謂ふ
B 日本書紀

和風謚号
 
神日本磐余彦天皇
(かむやまといはれびこ)
御間城入彦五十瓊殖天皇
(みまきいりびこいにゑ)
称 号 故語(ふること)に称(ほめ
まう)して曰(まう)さく、
「畝傍の橿原に、宮柱底磐の
根に太立て、高間の原に搏風     
峻峙(ちぎたかし)りて、
始馭天下之(はつくにしらす)
天皇を、號けたてまつりて
神日本磐余彦火火出見天皇
と曰す」(神武紀元年正月)
称(ほめまう)して御肇国(は
つくにしらす)天皇と謂ふ
(崇神紀12年9月)

始治国(はつくにしらしし)皇
祖(すめらみおや)
(孝徳紀大化3年4月)
C 常陸国
風土記

初国知(はつくにし)らしし美
麻貴(みまき)の天皇のみ世
(香島郡)

 
 (以上いずれも岩波書店、日本古典文学大系本による)
 

 この称号をめぐっては、いろいろの説が出されています。
 いずれの説も、この「ハツクニシラス」という称号を「始めて国を治めた」あるいは「始めて国の政治体制をととのえた」という意味に解し、このいわば「始祖」の称号がなぜお一方だけでなく神武と崇神の二天皇に上られているのかという疑問をまず提起しています。

 そして綏靖天皇から開化天皇までの八代の天皇については、記紀の記事に内容が乏しいことから、欠史八代といわれ、その実在性を疑うとともに、この称号は実在の天皇と認められる崇神天皇に上られたもので、神武天皇も架空の存在であったとする説が生まれました。そしていくつかの古代王朝交替説が盛んに行われるようになりました。
 これらの説には、神武天皇架空説だけでなく、実在説も含まれますが、これもこの「始祖」称号が二天皇に上られているのをどう合理的に説明するかがその説の重要な一部分をなしています。
 

 
(3) 「ハツクニシラス」の意味
 

 この「ハツクニシラス」という称号は、原ポリネシア語で伝承されてきた称号を、日本語で解釈して記紀を編纂したところから生まれたもので、「始めて国を治めた」または「始めて国の政治体制をととのえた」などという意味ではありません。

 これはマオリ語の、

  「ハ・ツクヌイ・チラツ」、HA-TUKUNUI-TIRATU(ha=what!;tukunui=mainbody of an army,large;tiratu=mast of a canoe)、「なんと巨大なカヌーのマストよ!」
 
の転訛と解します。原ポリネシア語の「ツクヌイ、TUKUNUI」の語尾の「ヌイ、NUI(large)」が日本語に入って「ニ、NI」に変化して「ツクニ」となり、さらに原ポリネシア語の「シラス」が日本語ではそのままですが、マオリ語ではS音がT音に変化して「チラツ」となったものです。

 部族を率いて九州から大和へ赴き、大和を征服するという偉業は、神武天皇の強い指導力と行動力によって達成されたものです。
 また四道将軍を東海、北陸、山陽、山陰に派遣して勢力範囲を広げ、出雲を服属させ、国の祭祀体制を確立した大きな業績も、崇神天皇の強い指導力と行動力によつて達成されたものです。
 そこで、これらの国家体制の確立強化の推進力となった天皇を「巨大なカヌーのマスト」のようだ、「国家の推進力の根元」だ、「国家の柱石」のようだと褒め称えたのがこの称号だったのです。したがってこの称号が二天皇に上つられていても何も不思議はないのです。

 記紀の記事をみますと、いずれも「称(たたえて)」とか、「称(ほめまう)して」、「ハツクニシラスという」と述べています。本当に「始めて国を治めた」のであれば、伝承としても、史書としても、当然「○○天皇は始めて国を治めた」と直接話法で「事績」記事として記述すべきものです。それを「ほめたたえて「ハツクニシラス」と称した」としか述べていないのは、伝承の内容そのものが天皇の偉大さの一つの形容にすぎなかったことの証拠です。

 書紀の編纂者は、おそらく「ハツクニシラス」=「始祖」と考えたのでしょう。そして「始祖」がお二方いることとなる矛盾を自覚しながら、あえてお二方に「ハツクニシラス」という称号を記したのは、両天皇にこのような伝承があることがすでに当時の貴族階級に知れ渡っており、それを無視して一方のみの称号として整理することができなかったからではないでしょうか。「始馭天下之天皇」とか、「御肇国天皇」とか、「始治国皇祖」とか漢字表現を変えているのは、編纂者が自己矛盾に悩みながら、やむをえず漢字表現を変えることで両立させようとした、苦し紛れの弁解をしようとしたものと私は理解しています。

 
 

 
(4) 「ヤマトイハレヒコ」の意味
 

 神武天皇は、和風謚号を神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命(『古事記』)、神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)火火出見(ほほでみ)天皇(『日本書紀』)といいます。
 これをマオリ語で解釈しますと、「かむやまといはれひこほほでみ」は、
 
  「カム・イア・マト・イ・ワレ・ヒコ・ホホ・テ・ミヒ」、KAMU(eat)-IA(indeed)-MATO(deep swamp)-I(past tense,beside)-WHARE(house,habitation,a division of an army)-HIKO(move at random or irregularly)-HOHO(prominent)-TE(the,emphasis)-MIHI(greet,admire)、「実に・大きな沼地がある地域(大和)を・征服した・各地を遍歴して・定住・した・とりわけて・特に・崇敬すべき(天皇)」
 
の転訛(IA音がYA音に、AU音がO音に変化した)と解します。「ひこ」はこれまでの通説では、男子の美称で、「立派な男子」の意とされていますが、後述のようにその事績に照らして「各地を遍歴した者」と解すべき場合と、単に「身分の高い・男子」と解すべき場合があるように思います。
 
 「ヤマト」の語源については、
a ヤマ(山)・ト(門)で、山間地帯への入り口、
b ヤマ(山)・ト(処)で、山国、
c 山の神が居られる処、
d 大物主神が鎮座する三輪山のあたりなどの説があります。
 かつて大和国の中心部、奈良盆地にはその中央に大きな湖がありました。このことは、縄文時代以降の遺跡の分布や古墳群の所在状況などからも明らかです。ただし、その湖がいつごろから縮小しはじめ、いつごろ完全に乾陸化したのかは定かではありません。おそらく神武天皇が大和へ入ってきた縄文時代の末期または弥生時代の初期にはいまだに大きな湖が存在し、その周辺に先住の部族がたむろしていたものと思われます。
 「ヤマト」とは、この乾陸化以前の「大きな、深い沼地」が存在するというこの地域の最大の地形的特徴を表現した地名であったのです。
 
 また、次の「伊波礼(いはれ)、磐余(いはれ)」は、「(九州から移住して)定住した」という意味ですが、通説では大和の地名と解釈されています。この謚号の「いはれ」と、地名の「いはれ」は同語源で、「イ・ワレ」、I(past tense,beside)-WHARE(a divosion of an army)、「一群の軍隊が・いた場所」と解します。

 地名の「磐余(いはれ)」が『日本書紀』にはじめてでてくるのは神武即位前紀戊午年9月5日の条に、神武天皇がいよいよ大和の地に入ろうとして宇陀の高倉山の山頂から域(くに)の中をはるかに展望すると、「国見丘の上に八十梟師(やそたける)有り、・・・復兄磯城(えしき)の軍有りて、磐余(いはれ)邑に布(し)き満(いは)めり。賊虜(あた)の拠る所は、皆是要害(ぬみ)の地なり。故、道路絶え塞りて、通らむに処なし」とあります。

 また、『日本書紀』神武即位前紀己未年2月20日の条に、地名「磐余(いはれ)」の起源説話があります。これによりますと、「夫れ磐余の地の舊の名は片居(かたゐ)。亦は片立(かたたち)と曰ふ。我が皇師(みいくさ)の虜(あた)を破るに逮(いた)りて、大軍集ひて其の地に満(いは)めり。因りて改めて號けて磐余とす。」とあり、さらに異説として、「或(あるひと)の曰はく、「天皇往(むかし)厳瓮(いつへ)の粮(おもの)を嘗(たてまつ)りたまひて、軍を出して西を征ちたまふ。是の時に、磯城(しき)の八十梟師(やそたける)彼處に屯聚(いは)み居たり。・・・故、名づけて磐余邑と曰ふ。」とあり、いずれも多数の人が「イハミヰ」たので「イハレ」という名が付けられたとしています。この「いはみゐ」は、マオリ語の、
  「イ・ハム」、I-HAMU(i=past time;hamu=gather,glean)、「(多数の人が)集められた」
の転訛と解します。
 ついでに、磐余の旧名「かたゐ」または「かたたち」は、マオリ語の、
  「カタ・ヰ」、KATA-WI(kata=opening of shellfish;wi=tussock grass)、「草むらのある潟のような地形の場所」または「カタ・タチカ」、KATA-TATIKA(kata=openingof shellfish;tatika=coastline)、「潟の・岸」(「タチカ」の語尾の「カ」が脱落して「タチ」となつた)
の転訛と解します。この「カタ」は、「入門篇(その一。平成10年11月1日書き込み)」で説明した「カサ」地名のS音がT音に変化した「カタ=潟」であることは言うまでもありません。

 このように、「イハレ」は、神武天皇がはじめて大和の地に足を踏み入れたその最初の地であり、その意味では記念すべき地ですが、その後その場所を本拠としたわけではないようです。したがって、通説は「イハレ」を地名としていますが、地名としての「イハレ」をその名とすべきほどの重要な土地であったとは考えられません。

 
 

(5) 「カム」の意味ー「ヤマト」の征服とタギシミミ殺害

 
 謚号に「神(かむ)」がつくのは、この初代神武天皇の神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命(『古事記』)、「神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)彦」(『日本書紀』)と第二代綏靖(すいぜい)天皇の「神沼川耳(かむぬなかはみみ)命」(『古事記』)、「神渟名川耳(かむぬなかはみみ)尊」(『日本書紀』)のお二方だけです。

 この「神(かむ)」を「やまと」にかかる「美称」、または「かむやまと」と連続した「美称」と解釈する説が有力ですが、これも原ポリネシア語と考えるならば、「かむ、カム、KAMU(eat)」は、神武天皇も綏靖天皇も「敵対する勢力を武力で倒してその土地を”食べた”、または天皇位を手に入れた」という意味で、事績を表した名称と解することができます。

 神武天皇の東遷については、説明するまでもありません。

 次に、綏靖紀によれば、神武天皇が崩御した後、吾田の吾平津(アヒラツ)媛が産んだ庶兄手研耳(タギシミミ)命が、正妃媛蹈鞴五十鈴(ヒメタタライスズ)媛命が産んだ神八井耳(カムヤヰミミ)尊と神渟名川耳(カムヌナカハミミ)尊の二人の弟を殺そうとしたので、二人で庶兄を射殺しますが、カムヤヰミミは手足が震えて矢を射ることができず、カムヌナカハミミが代わって矢を射ったため、カムヤヰミミは天皇位を弟に譲って臣従することを誓い、多氏の祖となったと伝えています。

 『古事記』にも同様の記事がありますが、注目すべきことは、神武天皇の正妃の富登多多良伊須須岐(ホトタタライススキ)比賣命、亦の名は比賣多多良伊須気余理(ヒメタタライスケヨリ)比賣が産んだ子は日子八井(ヒコヤヰ)命、神八井耳命および神渟名川耳命の三人であることと、伊須気余理比賣は神武天皇の崩御の後タギシミミの妃となり、三人の御子を殺す計画を知って苦しみ、暗喩の歌を歌って御子に危険を知らせ、驚いたカムヌナカハミミらがタギシミミを殺すことになるのです。

 この綏靖天皇となる「カムヌナカハミミ」は、マオリ語の
 
  「カム・ヌナ・カワ・ミミヒ」、KAMU-NUNA-KAWA-MIMIHI(kamu=eat;(Hawaii)nuna=luna=high,above,foreman,boss,leader;kawa=heir,heap;(Hawaii)mimihi=intensive of mihi,to change one's course,to cease to do wrong)、「筆頭の・相続人(庶兄手研耳命)を・倒して・(自らの)運命を変えた(命)」(「ミミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)
 
の転訛と解することができますし、「カムヤヰミミ」は、マオリ語の
 
  「カム・イア・ウイ・ミミヒ」、KAMU-IA-UI-MIMIHI(kamu=eat;ia=indeed;ui=disentangle;(Hawaii)mimihi=intensive of mihi,to repent,to change one's course,to cease to do wrong)、「(庶兄タギシミミを)倒して・実に・(天皇位を弟に譲って)紛糾を一挙に解決した・(自らの)運命を変えた(命)」(「ミミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)
 
の転訛と解することができますし、「タギシミミ」は、マオリ語の
 
  「タ(ン)ギ・チ・ミミヒ」、TANGI-TI-MIMIHI(tangi=cry;ti=throw,cast,overcome;(Hawaii)mimihi=intensive of mihi,to repent,to change one's course,to cease to do wrong)、「悲鳴を上げて・打倒された・(自らの)運命が変わった(悪だくみに終止符を打った。命)」(「タ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「タギ」と、「ミミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)
 
の転訛と解することができますし、タギシミミ討伐行動に参加しなかった「ヒコヤヰ」は、マオリ語の
 
  「ヒコ・イア・ウイ」、HIKO-IA-UI(hiko=move at random or irregularly;ia=indeed;ui=disentangle)、「(天皇位の争奪をめぐる)紛糾を解決する際に・実に・あちこち出歩いていた(その場に居なかった・命)」
 
の転訛と解することができます。

 これらの神名は、これまで「河」や「井」など水に関連する名と解されていますが、マオリ語によればこのように天皇位争奪をめぐる「事績伝説に即した命名」であることが明白になるのです。
 
 また、比賣多多良伊須気余理(ヒメタタライスケヨリ)比賣の「タタライスケヨリ」は、マオリ語の
 
  「タタラ・イ・ツ・ケ・イオ・リ」、TATARA-I-TU-KE-IO-RI(tatara=loose,active;i=pasttime;tu=fight with;ke=extraordinary;io=tough;ri=protect)、「活発な性格で、風変わりな方法で戦って(暗喩の歌で子供たちに危険を知らせて)しっかりと(子供たちを)保護した(姫)」
 
の転訛と解します。なお、富登多多良伊須須岐(ホトタタライススキ)比賣命の「ホト」、「イススキ」(以上記)、媛蹈鞴五十鈴(ヒメタタライスズ)媛命の「イスズ」(紀)は、マオリ語の
 
  「ホト」、HOTO(make a convulsive movement)、「衝動的に行動する」、

  「イ・ツツ・キ」、I-TUTU-KI(i=past time;tutu=move with vigour;ki=full)、「元気いっぱいに行動した」

  「イ・ツツ」、I-TUTU(i=past time;tutu=move with vigour)、「元気に行動した」
 
の転訛と解します。いずれも性格、事績を表した名称です。「タタラ」は、これまで日本語で解釈して、鉄や銅の製錬用の踏鞴、送風炉と解し、製鉄・製銅や鍛冶を支配する氏族の娘とされてきました。しかし、製鉄・製銅や鍛冶の仕事に携わる男子の名前に全く付けられた例がないのに、女子の名だけに製鉄・製銅や鍛冶の道具や施設の名を付けるのは不自然で、なんら必然性がありません。

 ちなみに、このヒメタタライスケヨリの母、勢夜陀多良比賣(セヤダタラヒメ)は三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘ですが、この「セヤダタラ」、「ミシマ」、「ミゾクヒ」は、マオリ語の
 
  「テ・イア・タタラ」、TE-IA-TATARA(te=the;ia=indeed;tatara=loose,active)、「実に活発な(姫)」

  「ミミ・チマ」、MIMI-TIMA(mimi=river;tima=a wooden implement forcultivating the soil)、「堀棒で掘ったような地形の場所を流れる川(の地域)」

  「ミト・クヒ」、MITO-KUHI(mito=whakamito=pout;kuhi=gush forth)、「口を尖らせて吐き出すように話をする(人)」
 
の転訛と解します。

 なお、福岡市東区の箱崎・香椎間の海浜を多多良(たたら)浜(元糟屋郡多多良町)といい、元寇の古戦場として、また『太平記』に記されているように延元元(1336)年新田義貞に京を追われた足利尊氏・直義の軍が菊池武敏・阿蘇惟直の大軍を破り、九州を制圧した古戦場であり、また永禄12(1569)年毛利軍が九州に進出して大友軍と戦った場所として著名です。

 この多多良浜は、多多良川の旧河口にあった入り江(潟)を塞ぐように横たわっていた砂嘴の浜で、この「タタラ」は、マオリ語の
 
  「タタラ」、TATARA(fence)、「垣根(のような浜)」
 
の意と解します。

 また、群馬県館林市の西北部に、利根川と渡良瀬川にはさまれた低湿地にある湖沼群の一つに多多良(たたら)沼があります。沼の北東部の低湿地は、戦後干拓されて水田となりました。沼の南東側には、松林がある古砂丘が連なり、沼の周辺とともに風致地区となっています。この「タタラ」も、上記と同じく、「垣根(のある沼。砂丘に接する沼)」の意と解します。
 さらに、八千矛(やちほこ)神(大国主神の別名)が妻問いした高志(こし)国の沼河(ぬなかは)比賣の「ヌナカハ」は、綏靖天皇の「ヌナカハミミ」の「ヌナカハ」と同じで、マオリ語の「ヌヌイ・カワ」、NUNUI-KAWA(nunui=great;kawa=heir,heap)、「偉大な相続人」の転訛と解します。この妻問い説話にしか現れない「ヤチホコ神」を「八千矛神」と記紀は記し、武勇の神と解釈する説が有力ですが、この「ヤチホコ」は、マオリ語の
 
  「イア・チ・ホコ」、IA-TI-HOKO(ia=indeed;ti=throw,cast;hoko=lover)、「各地に恋人をもっていた(神)」
 
の転訛と解します。

 
 

(6) 「ヒコホホデミ」の意味

 

 『日本書紀』が記している系譜によれば、天照大神ー正哉吾勝勝速日天忍穂耳(まさかつあかつかちはやひあまのおしほみみ)尊ー天津彦彦火瓊瓊杵(あまつひこひこほのににぎ)尊ー彦火火出見(ヒコホホデミ)尊ー彦波瀲武鵜草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)尊ー神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)天皇(諱は彦火火出見(ヒコホホデミ))となっています。

 神武天皇の「ヒコホホデミ」の名は、祖父の「山幸彦」である「火遠理(ほをり)命、亦の名はアマツヒコ・ヒコホホデミノミコト(『古事記』)」の名と同じです。

 この「ホホデミ」の名は、「おそらく、もと炎出見で、ホノホが出る意。ミは、ヤマツミ・ワタツミのミ。更に古くは、穂出見の意で、稲の穂が出る神の意であったろう。それが鹿葦津姫の一夜妊娠の話と結合して、火(ホ)の話に転じたものであろう。」(『日本書紀上』の注、岩波書店、日本古典文学大系)などと解釈されています。

 津田左右吉は、神武天皇の異名が多いことに着目して、「本来はニニギノミコトの子のヒコホホデミノミコトが東征の主人公であったが、後になって、海幸山幸の話が付会されたり、ウガヤフキアエズノミコトが作られたり、一方で東征の主人公として新たにイハレヒコが現れた時、元の話が捨てきれず、「神日本磐余彦火火出見天皇」(神武紀元年正月条)や、「諱は彦火火出見」(神武前紀)のような記載が生じた」と主張しました(『日本古典の研究』上、岩波書店、昭和21年)。

 しかし、異名が多いことが、その名は他の人物の名を借りてきたことの証明になるのでしょうか。また、同じ名が二人に付けられることは絶対にあり得ないのでしょうか。私は、その名の意味を正確に解釈することが先決で、その意味が二人に付けられる事情なり、合理性があれば、そのようなことも当然あり得ると思います。この「ヒコホホデミ」は、正にその代表例だと考えます。

 この「ヒコホホデミ」は、マオリ語の、
 
  「ヒコ・ホホ・テ・ミヒ」、HIKO-HOHO-TE-MIHI(hiko=move at randomor irregularly;hoho=prominent;te=emphasis;mihi=greet,admire)、「あちこちさまよった(または長い困難な旅をした)・特に・尊敬すべき卓越した(神)」
 
の転訛(「テ」が濁音化し、語尾の「ヒ」が脱落した)と解します。
 
 この「ヒコ、あちこちさまよった(または長い困難な旅をした)」というのは、山幸彦(ホオリ)の場合は亡くした兄海幸彦の釣り針を求めて海神の宮に行ったことを指していますし、神武天皇の場合は東遷の途次、日向から宇佐、筑紫、吉備、河内、熊野、吉野を巡って大和に入ったことを指しています。「ホホデミ」というのは「特に尊敬すべき卓越した」という敬称ですから、この両者に同一の名がつけられていても何の不思議もないのです。
 
 ちなみに、ちょっと寄り道をしましょう。

 神武天皇は四男で、『古事記』では若御毛沼(わかみけぬ)命、亦の名は豊御毛沼(とよみけぬ)命、亦の名は神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)命とあります。紀の一書では年少のときの名を狭野(さの)尊としています。長兄は五瀬(いつせ)命(紀では彦五瀬命)、次兄は稲氷(いなひ)命(紀では稲飯命)、次に御毛沼(みけぬ)命(紀では三毛入野(みけいりの。又はみけの、わかみけの)命)とあります。

 記紀の神名にはしばしば「ワカ」がつく名がでてきます。記紀ではこれに「若」の字をあて、「年少」または親に対する「子」の意味としています。
 しかし、この「ワカ」には、二種類あるようです。それはマオリ語の
 
  「ワカ」、WAKA(medium of an ATUA(god))、「神の霊媒」
 
の意、または
 
  「ウアカハ」、UAKAHA(vigorous)、「元気が良い、活力がある、奮闘する」
 
の転訛(語尾のハが脱落した)と解することができます。このどちらかは、その説話の内容によって判断するしかないと思われます。

 この神武天皇の幼名の「ワカ」は、たとえば神武即位前紀戊午年4月9日の条ではクサエの坂で長髄彦の軍の抵抗にあって苦戦した際、天皇の「今我は是日神の子孫にして、日に向ひて虜(あた)を征(う)つは、此天道に逆れり」と言って転進したことや、同年6月23日の条では山中で道に迷ったとき、天照大神、天皇に訓へまつりて曰く、「朕今頭八咫烏を遣はす。以て郷導者としたまへ」とあることや、前出の「イハレ」の同年9月5日の条には、大和に入る道路が敵の大軍で溢れていることを展望した天皇が、「是夜、自ら祈(うけ)ひて寝ませり。夢に天神有して訓へまつりて曰く・・・」とあるところなど、危機に遭遇するたびに天皇が神の託宣をくだして危機を乗り切っているところをみますと、明らかに霊媒の能力があったものと思われます。

 つぎの「ミケヌ」は、マオリ語の
 
  「メ・ケヌ」、ME-KENU(me=as if,like,with;kenu=flat nose)、「鼻が低いようにみえる(神)」
 
の転訛と解します。

 また、同じく幼名の「狭野(サノ)」は、マオリ語の
 
  「タ(ン)ゴ」、TANGO(take up,acquire,remove)、「(何かを)求めた(または何かを求めて移動した。じっとして居られない。尊)」(NG音がN音に変化して「タノ」から「サノ」となった)
 
の転訛と解します。
 神武の兄弟の名については、いずれ東遷の解説のところで解説します。
 
 

(7) 「ホオリ」の意味

 
 ヒコホホデミの別名「ホオリ」の名についても、記紀の編集者は誤った理解の下に「火遠理」の漢字をあてています。

 ホノニニギに一夜で妊んだことを疑われたコノハナサクヤヒメは、産屋を密閉して火を付けて子を産みますが、記では、その「火の盛りに燃ゆる時に生める子の名は、火照(ホデリ)命。次に生める子の名は、火須勢理(ホスセリ)命。次に生める子の御名は、火遠理(ホヲリ。紀では火折)命。亦の名は天津日子穂穂手見命。」とあります。紀では、子の生まれる順序および名に若干の差異があります。

 この三柱の御子に共通する「ホ」は、これまで記紀の編集者の理解に従い、なんらの疑問もなく、「火」の意味と解釈されてきました。

 しかし、以下のように、この「ホ」は「火」ではなく、海幸彦山幸彦伝説の内容に即した「大声で泣き叫ぶ」という意味だったのです。

 ホオリは、マオリ語の

  「ホ・オリ」、HO-ORI(ho=shout;ori=cause to wave to and fro,moveabout)、「大きな声で呪文を唱えて・(自在に)潮の干満や降雨を起こした(神)」
 
の意と解されますし、ホデリは、マオリ語の
 
  「ホ・タイリ」、HO-TAIRI(ho=shout;tairi=block up,be suspended)、「(潮の干満や降雨を自在に操られることによって行動を)封じられて・叫び声をあげる(神)」(「タイリ」のAI音がE音に変化して「テリ」から「デリ」となった)
 
の転訛と解されますし、ホスセリは、マオリ語の
 
  「ホ・ツテ・リ」、HO-TUTE-RI(ho=shout;tute=a charm to ward offmalign influences;ri=protect)、「大きな声で災いを避ける呪文を唱えてわが身を守った(神)」
 
の転訛と解することができます。こう解釈しますと、三柱の御子のうち、ホスセリノミコトだけが、その後海幸彦山幸彦伝説に登場しない理由が理解できます。おそらく原伝説には、ホオリが潮の干満が起こした時、ホスセリも「大きな声で災いを避ける呪文を唱えてわが身を守った(神)」として登場していたのが、後に話の本筋に関係が無いということで省略されたのでしょう。

 この「スセリ」は、オホナムチの正妻須勢理(スセリ)姫の名と同じです。これまで、この「スセリ」とは「嫉妬深い」とか、「性格がきつい」とか解釈されてきましたが、このスセリヒメの「スセリ」は、マオリ語の
 
  「ツテ・リ」、TUTE-RI(tute=a charm to ward off malign influences;ri=protect)、「災いを避けるまじないで(夫を)守った(姫)」
 
の転訛と解します。スサノオの娘スセリヒメが、その夫オホナムチ(アシハラノシコオ)が蛇の室や、むかでと蜂の室に入れられたとき、まじないを教えてその危難を救った事績を表現したものです。

 また、同様に、火の中から生まれた(または火の中をくぐった)から「ホ」のつく名が付けられたとこれまで解されている神名には、ほかに垂仁天皇の御子の誉津別(ホムツワケ)皇子があります。この皇子は、叛乱罪で焼き殺された兄のサホヒコに殉じた母のサホヒメの手から、火をかいくぐつて助け出された皇子です。垂仁紀23年9月、10月および11月の条には、誉津別(ホムツワケ)皇子は30才になっても言葉が喋れず、子供のように泣いていたのが、ある日白鳥を見、白鳥と遊ぶようになってから喋るようになったとあります。『古事記』では、白鳥を得てもまだ喋れず、出雲大神の祟りとして出雲に赴き、大神を拝んで喋れるようになったとあります。この「ホ」も、上記の「ホ」と同じで、「火」とは関係ありません。

 このホムツワケは、マオリ語の
 
  「ホ・ムツ・ワケ」、HO-MUTU-WAKE(ho=pout,droop,shout;mutu=end,finished,completed;wake,wakewake=hurry,hasten)、「元気がない(言葉がしゃべれない)状態が・終わって・急いで行動するようになった(活発になった・命)」
  または「ホウ・ムツ・ワケ」、HOU-MUTU-WAKE(hou=force downwards or under,persist,dedicate or initiate a person,establish by rites as above;mutu=end,finished,completed;wake,wakewake=hurry,hasten)、「抑圧されていた状態(または成人になる儀式)が・終わって・急いで行動するようになった(活発になった・命)」
 
の意と解します。この「ムツ」は、「陸奥(むつ)国」の「ムツ、MUTU(end,finished)、地の果て」と同じです。

 

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2 「ミマキイリヒコ・イニエ」の解釈ー崇神天皇から井上皇后までー
 

(1) 崇神天皇の治績
 

 崇神天皇の和風謚号は、『古事記』では御真木入日子印恵(ミマキイリヒコイニエ)命、『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)天皇で、その漢風謚号にも明らかなように、神祇祭祀に力をつくした天皇です。

 崇神紀5年の条には国内に疫病が流行し、人民の半数以上が死ぬほどであったと伝えています。そこで、それまで天皇の宮殿の中に祀っていた天照大神は豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命に笠縫邑で、日本大国魂(ヤマトノオオクニタマ)神は渟名城入姫(ヌナキイリヒメ)命に祭らせますが、ヌナキイリヒメは髪が抜け落ち、体が痩せて祭ることができなかったといいます。(垂仁紀25年3月10日条注は、一説として、崇神天皇は神祇祭祀の根元をおろそかにし、日本大国魂命を祀ったのは垂仁天皇であったとします。)

 そこで天皇がこの災害の原因を知ろうと占いをしますと、大物主神が倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ)命に乗り移って、「吾を祭れば国は治まるであろう」と託宣があります。そのとおりお祭りをしても効験がないので、さらにお伺いをたてますと、「吾の子、大田田根子(オオタタネコ。記では意富多多泥古(オホタタネコ))に祭らせよ」との託宣を得ます。

 そこでオオタタネコが茅渟(ちぬ)県の陶(すえ)邑にいたのを探し出して、大物主神を祭らせ、市磯長尾市(イチシノナガヲチ)に倭の大国魂神を祭らせ、さらに八十萬(やそよろづ)の群神を祭って国内が静まり、豊作となったといいます。

 以上のように天皇は、「崇神」という漢風謚号を受けるにふさわしい手厚い神祇祭祀を行ったほか、大彦命を北陸へ、武渟川別(タケヌナカハワケ)を東海に、吉備津彦を西海へ、丹波道主(タニハノチヌシ)命を丹波に派遣し、大和朝廷の勢力の外縁的拡大を図り、また武埴安彦の叛乱を鎮定しています。

 さらに、はじめて課役を課し、すでに解説したように「ハツクニシラス」の称号を得ています。

 そのほか、池の造営、船舶の建造、出雲神宝の貢上、任那からの朝貢の事績記事があり、前回(平成11年1月1日)書き込みの「入門篇(その三)」で解説したヤマトトトビモモソヒメの箸墓伝説の記録があります。

 

(2) 「ミマキイリヒコ・イニヱ」の意味

 
 この崇神天皇の名の「ミマキ」、「イニヱ」の意味は従来不明とされてきました(岩波日本古典文学大系本注ほか)。また、「イリ」は、「タラシ」と共存しない特徴があり、このことが「イリ」王朝説の根拠となっているようです。

 この「ミマキイリヒコ」は、マオリ語の

  「ミヒ・マキ・イリ・ヒコ」、MIHI-MAKI-IRI-HIKO(mihi=greet,admire,sigh for;maki=invalid,sore;iri=be elevated on something,be published,a spell to influence or attract or render visible one at a distance;hiko=move at random or irregularly)、「病人(疫病の蔓延)を・悲しんで・夢占いをした・各地を遍歴した者」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)  
の転訛と解します。

 また、「イニヱ」は、マオリ語の
 
  「イノイ・ウエ」、INOI-UE(inoi=pray,prayer;ue=push,shake,affect by anincantation)、「(オオタタネコなどの)祈祷者に祈祷を行わせた(または祈祷(まじない)によって効験を顕した)」(「イノイ」のOI音がI音に変化して「イニ」となった)
 
の転訛と解します。

 以上のいずれも記紀に伝えられている崇神天皇の事績を的確に表現した名前です。

 
 

(3) 「オオタタネコ」の意味
 

 大物主神を祭る神主となった「オオタタネコ」は、マオリ語の
 
  「オホ・タタ・ネイ・コ」、OHO-TATA-NEI-KO(oho=wake up,be awake,arise;tata=suddenly;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls,descend)、「突然・叩き起こされて(引っ張り出されて大物主神を祀る神主となった)・(世の中を揺るがす)物議を醸した・(大物主神の)末裔」
 
の転訛と解します。これも的確に「名は体を表」しています。

 なお、オオタタネコの母、活玉依毘賣(イクタマヨリヒメ)は、『古事記』では夜しか現れない夫の正体を知ろうとして、床に赤土を撒き、夫の衣の裾に麻糸をつけた針を刺しておいたところ、翌朝麻糸は戸の鍵穴を通って美和山の神の社に止まっていたので、三輪の神と知ったといいます。

 この「イクタマヨリ」は、マオリ語の
 
  「ヒク・タマ・イオ・リ」、HIKU-TAMA-IO-RI(hiku=tail of a fish or reptile;tama=son,child,man;io=muscle,line,tough;ri=protect,bind)、「(蛇身の)夫の衣の裾(尾)に糸を結びつけ(て正体を知っ)た(姫)」
 
の転訛と解します。

 ただし、ヒコホホデミ(ホヲリ。山幸彦)と海神の娘トヨタマヒメとの間に生まれたウガヤフキアヘズを育て、後にウガヤフキアヘズと結婚したトヨタマヒメの妹玉依毘賣(タマヨリヒメ)の「タマヨリ」は、「イクタマヨリ」の「タマヨリ」とは意味が違います。マオリ語の特色である一語多義による違いですが、この「タマヨリ」は、マオリ語の
 
  「タマ・イオ・リ」、TAMA-IO-RI(tama=son,child,man;io=muscle,line,tough;ri=protect,bind)、「(姉が遺した)子供をしっかりと保護した(育てた)(姫)」
 
の転訛と解します。

 また『古事記』は、イクタマヨリヒメが結びつけた麻糸が「三勾(みわ。三巻き)遺りしに因りて、其地を名づけて美和といふ」と「三輪」の地名の由来を説いています。
 この「ミワ」は、マオリ語の
 
  「ミヒ・ワ」、MIHI-WA(mihi=greet,admire;wa=definite space,place,area)、「尊崇すべき(神の座す)場所」
 
の転訛と解します。
 
 なお、オオタタネコと並んで、倭大国魂神を祭る神主となった市磯長尾市(イチシノナガヲチ)は、十市郡の地名で履中紀三年の条に磐余市磯(いはれいちし)池としてでてくる市磯(イチシ)に住む長尾市(ナガヲチ)で、垂仁紀3年3月条と同7年7月条に倭直(やまとのあたひ)長尾市の名が見えます。(垂仁紀25年3月10日条注は、一説として、崇神天皇は神祇祭祀の根元をおろそかにし、日本大国魂命を祀ったのは垂仁天皇であったとします。)
 この「イチシ」、「ナガオチ」は、マオリ語の
 
  「イ・チチ」、I-TITI(i=by,beside;titi=peg,comb,steep)、「嶮しい岡のほとり」、「ナ・(ン)ガオ・チ」、NA-NGAO-TI(na=satisfied;ngao=dresstimber with an adze,strength;ti=throw,overcome)、「存分に力を振るう(人。大変な力持ち)」
 
の転訛と解します。

 

(4) 井上(イノエ)皇后と他戸(オサベ)皇子の悲劇

 

 奈良時代の末から平安時代のはじめにかけて、相次ぐ政変の中で悲運にも生命を落とす皇族、豪族が続出しました。人々は、天変地異や疫病の流行をそれら非業の死をとげた怨霊によるものと考え、御霊神として祭りました。この神仏習合的な神事を御霊会(ごりょうえ)と呼びます。また、御霊を祭る京都の上御霊神社、下御霊神社ができました。このほか御祭神は違いますが、御霊会で有名な神社は、京都の祇園八坂神社、今宮神社や、北野天満宮があります。

 記録に残る最初の御霊会は、『三代実録』によれば清和天皇貞観5(863)年5月20日に京都神泉苑で行われました。そのときの御霊は、崇道天皇(早良(サワラ)親王。桓武天皇の弟)、伊豫親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(伊豫親王の母)、橘速勢、文室宮田麻呂など六座でした。

 しかし、これらの御霊をもっとも恐れ、最初に鎮めようとしたのは、桓武天皇であったようです。というのは、長岡京に遷都した翌年、桓武天皇延暦5(786)年9月24日藤原種継の暗殺事件が起こります。この直後、事件に連座して、桓武天皇の即位とともに皇太子となっていた弟の早良親王が同9月28日に皇太子の位を剥奪されます。この事件は、『日本紀略』によりますと、「式部卿藤原朝臣(種継)を殺し、朝庭を傾け奉り、早良王を君と為さんと謀りけり」とあって、早良親王自身が謀反を起こしたとは書いてないのですが、結局親王は乙訓寺に幽閉され、親王は潔白を主張して飲食を絶ち、流罪地である淡路に送られる途中で死にます。ところがこの後、兄の桓武天皇の周囲にさまざまな不幸が連続して起こります。まず夫人の藤原旅子が死に(延暦7年)、母の高野新笠が死に(延暦8年)、皇后の藤原乙牟漏が死にます(延暦9年)。しかも早良親王に代えて皇太子に立てた嫡男の安殿(あて)親王(後の平城天皇)が病弱で重い病にかかるのです。

 そこで桓武天皇は早良親王の怨霊がこのような不幸の原因であろうと考え、延暦9(790)年に早良王の親王の位を回復し、さらに延暦19(800)年には早良親王に前例のない崇道天皇の号を追贈します。これまで光仁天皇が宝亀元年に父の施基皇子を春日宮天皇と追尊したなど、子の天皇が天皇位につかなかった父に天皇号を追贈した例はありますが、弟に贈った例はありませんでした。いかに早良親王の怨霊を恐れていたかが判ります。

 このとき、同時に行ったのが、前の光仁天皇の皇后を廃された井上(イノエ)内親王に対する皇后位の回復でした。

 井上内親王は、聖武天皇の皇女で、母は県犬養宿禰広刀自です。養老5(721)年に斎内親王に卜定され、神亀4(727)年伊勢神宮の斎宮となりました。のち、天智天皇の皇子施基(しき)皇子の子白壁(しらかべ)王の妃となりました。神護景雲4(770)年8月称徳天皇が崩御されて天武天皇の血統が絶えると、白壁王が皇太子に立てられ、皇位を望んだとされる道鏡が下野薬師寺別当に左遷され、同年10月(改元して宝亀元年)白壁王が即位して光仁天皇となるに及んで同年11月皇后となり、その子の他戸(オサベ)皇子も翌宝亀2年1月皇太子となりました。ところが、翌宝亀3年3月、「巫蠱(ふこ。「巫」はみこ、「蠱」はまじないによって人を呪うこと)に座した」という理由で皇后の位を剥奪されます。さらに同年5月、他戸皇子も皇太子を廃されます。翌宝亀4年1月、光仁天皇と高野新笠の間に生まれた山部親王(後の桓武天皇)が皇太子に立てられます。同年10月、天皇の同母姉難波内親王が没したのは、井上内親王の厭魅(えんみ。まじないで人を呪うこと)によるものとされ、井上内親王と他戸皇子は吉野に幽閉されます。そして宝亀6(775)年4月27日、井上内親王と他戸皇子は吉野で同時に死去します。『続日本紀』は二人の死について何も説明していませんが、山部親王を擁立した藤原百川らによって毒殺されたものとする説があります。その後宝亀8年12月に山部皇太子が病気になり、百川が必死で看病しますが、宝亀10年7月百川は皇太子の身代わりのように死に、井上内親王と他戸皇子の怨霊の祟りという噂が流れました。

 そもそも井上皇后は血統も申し分なく、その子も皇太子に立てられているのですから、何の不満があって天皇を呪詛しようとしたのか理解に苦しみます。他方、山部親王の生母高野新笠は、渡来人系の和史(やまとのふひと)乙継の娘で、家柄は低く、本来皇太子になるべくもない生まれでした。この井上皇后と他戸皇子の獄死には、山部親王、後の桓武天皇の陰謀の陰がちらつきます。桓武天皇の脳裏には、おそらく、実子を皇太子とするために無実の罪を着せて死に追いやった弟早良親王とともに、井上皇后の顔が焼き付いて離れなかったのではないでしょうか。

 なお、井上皇后と他戸皇子は、京都の上御霊神社の八座の祭神の中に入っていますが、下御霊神社の八座の祭神(いずれも「八所御霊」といいます)には入らず、代わりに伊豫親王(桓武天皇の皇子で、その母藤原吉子とともに大同2(806)年10月に謀反の罪で捕らえられ、11月に大和の川原寺に幽閉され、親王を廃された翌日の同月12日に母子とも毒を飲んで死んだといいます)と藤原広嗣が入り、残りの六座(早良親王、藤原吉子、橘速勢、文室宮田麻呂、菅原道真、吉備真備)は両社共通となっているのが不審です。

 

 

(5) 「イノエ」は「イニヱ」と同じ

 

 この「井上」は、通常は「イノエ」または「イノウエ」(吉川弘文館『国史大辞典』)と読み、稀に「イカミ」(平凡社『世界大百科事典』)と読む先生もおられます。孝徳紀大化2年3月19日の条に「井上(ゐのうへ)君」(岩波日本古典文学大系本)の名が出てきますが、その詳細は不明です。地名としては、各地に分布します。私の姓は井上(いのうえ)で、清和源氏(信濃源氏)の流れという伝承はあるものの、その由来の本当のところはよくわかりません。通常は、「井の辺(へ。ほとり)」の意と理解されております。和泉国の国名の由来となった式内社和泉井上(いずみいのへ)神社の名や、山城国の下賀茂神社の境内にある式内社出雲井於(いずもいのへ)神社の名などからみて、やはり「イノエ」または「イノウエ」と読むべきものでしょう。

 私の経験からしますと、欧米人にローマ字の名刺を出し、読み方を教えても、母音が三連続する「イノ・ウ・エ」とはどうしても読んでもらえません。きまって「イニュエ」と呼ばれるのが常です。
 これらのことから推測しますと、この「井上(イノエ)」は、崇神天皇の名、「イニヱ」と同じで、マオリ語の
 
  「イノイ・ウエ」、INOI-UE(inoi=pray,prayer;ue=push,affect by anincantation)、「祈祷者(巫女に)に祈祷を行わせた(または祈祷(まじない)によって効験を顕した)」
 
の転訛と解します。崇神天皇、井上皇后ともにその歴史上の事績と一致した名です。

 

(6) 「オサベ」ほか関係者の名の意味

 

 この悲劇の「他戸(オサベ)皇子」は、15才(25才とする説もあります)で死んだとされていますが、この「オサベ」は、マオリ語の
 
  「オタ・ペ」、OTA-PE(ota=unripe;pe=crushed)、「押し潰された若者」
 
の転訛と解します。
 
 その父である光仁天皇の諱白壁(シラカベ)王は、『続日本紀』光仁天皇即位前紀によりますと、「天皇、寛仁敦厚にして、意、豁然たり。勝宝より以来、皇極弐(つぎ)なく、人彼此を疑ひて、罪し廃せらるる者多し。天皇、深く横禍の時を顧みて、或いは酒を縦(ほしいまま)にして迹を晦(くら)ます。故を以て害を免るる者数(あまたたび)なり。」とあります。つまり、「飲酒をほしいままにして、皇位継承の争いに巻き込まれるのを避けて」いたのです。この「シラカベ」は、マオリ語の
 
  「チラハ・カペ」、TIRAHA-KAPE(tiraha=face upwards,exposed;kape=reject,refuse)、「(皇位継承の意志表示を)拒否する・態度を示した(皇子)」(「チラハ」のH音が脱落した)または「ヒラ・カペ」、HIRA-KAPE(hira=numerous,multitude;kape=reject,refuse)、「何回も何回も・(皇位継承の意志表示を)拒否した(皇子)」
 
の転訛(原ポリネシア語の「シラ」の語頭のS音がマオリ語ではT音に変化したとすれば前者、H音に変化したとすれば後者になります)と解します。

 また、桓武天皇の諱山部(ヤマベ)親王の「ヤマベ」は、乳母の山部子虫の姓氏によったとする説もありますが、これはマオリ語の
 
  「イ・アマ・ペ」、I-AMA-PE(i=past tense;ama=outrigger of a canoe;pe=crushed)、「舷側の浮き材が・壊れて・しまった(思想・行動が不安定な。親王)」
 
の転訛と解します。
 
 なお、桓武天皇の同母弟早良(サワラ)親王の「サワラ」は、マオリ語の
 
  「タ・ワラ」、TA-WHARA(ta=the...of;whara=be struck,be pressed)、「押し潰された(親王)」
 
の転訛と解します。

 これに対し、筑前国の西北部の早良(さわら)郡の地名は、これとは違って、マオリ語の
 
  「タワラ」、TAWHARA(wide apart,spread out)、「(平野が)広く開けている(地域)」
 
の転訛と解します。

 
 さらに、桓武天皇、早良親王の生母である高野新笠(タカノノニイガサ)の「タカノ」、「ニイガサ」は、マオリ語の
 
  「タカ・ノホ」、TAKA-NOHO(taka=heap,lie in a heap;noho=sit,stay)、「(光仁天皇の妃、桓武天皇の生母という)高い地位についた」、

  「ヌイ・(ン)ガタ」、NUI-NGATA(nui=big,many;ngata=satisfied)、「大変満足した(光仁天皇の妃、桓武天皇の生母)」
 
の転訛と解します。
 
 こうしてみますと、聖武天皇の頃はもちろん、桓武天皇の頃の時代まで、朝廷の内外の一部で原ポリネシア語が使われていたか、または理解する人がいたと考えるほかありません。

 

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<修正経緯>

1 平成14年1月1日

 「1の(4)カムヤマトイワレヒコの意味」の項の「ヤマト(大和国)」の解釈を修正しました。

2 平成17年6月1日

 1の(4)の片立の解釈、1の(7)の火照命の解釈、2の(3)の大田田根子の解釈を修正しました。 

3 平成18年4月1日

 2の(6)の白壁王と山部親王の解釈を修正しました。

4 平成19年2月15日

  インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

5 平成19年7月1日 

 1の(1)の一部を修正(『日本後紀』にみえるポリネシア語源の語彙を追加)、(5)の手研耳命・神八井耳命・神渟名川耳命の解釈を一部修正、(6)の狭野尊の解釈を修正、(7)の誉津別皇子の解釈を一部修正、2の(2)のミマキイリヒコの解釈を一部修正、(3)のオオタタネコの解釈を一部修正しました。

古典篇(その一) 終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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