入門篇(その三)


改訂版

入門篇(その三)

(平成11-1-1書込み。令和3年11月1日最終修正)(テキスト約16頁)


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  目  次

2 原ポリネシア語の子音がマオリ語、ハワイ語および日本語でどのように変化したか(続き)

(6) P音の変化とその例

 a 竜飛(たっぴ)崎

 b 琵琶(びわ)湖

 c 比楽(ひらか)河

 d 箸(はし)墓伝説の真実

3 ハワイ語に原ポリネシア語の語義が残存していると考えられるもの

(1) 隠岐(おき)と壱岐(いき)

(2) 比叡(ひえい)山

(3) 枯野(からの)船

4 ポリネシア語による解読にあたっての留意事項

5 各論篇の構成など

<修正経緯>

付録(「夢間草廬」の名の由来ほか)

 

 


(6) P音の変化とその例

 

a 竜飛(たっぴ)崎

 「ご覧 あれが竜飛岬 北のはずれ」と名曲「津軽海峡冬景色」に歌われている竜飛崎は、青森県津軽半島の北端で、津軽海峡の西の入口に面しています。この岬の突端にある灯台に通ずる国道339号線の末端区間は、全国で唯一の車の通れない階段国道として有名です。

 津軽海峡は、黒潮から分流した対馬海流が西の日本海から東の太平洋に向かって激しく流れていますが、とくに竜飛崎付近は、底が比較的浅いこともあって、本流と岬にぶつかってできる反流とが交錯して、渦を巻き、複雑に変化し、古来航海の難所とされています。

 江戸時代の紀行文である橘南谿『東遊記』や古川古松軒『東遊雑記』にも、三厩(みんまや)から松前に渡るとき、竜飛崎の沖の流れが甚だ急で難渋したことが記されています。また、世界海難史上第二位の犠牲者を出した昭和29年の洞爺丸事件を契機としてはじまつた青函トンネル工事は、未曾有の難工事でしたが、その準備のための海底地質調査も「(竜飛崎は)流れも速く、潮の渦巻きができる、最も海況の悪い所」(持田豊『青函トンネルから英仏海峡トンネルへ』中公新書、1994年)であったため、大変苦しんだということです。

 この竜飛崎の由来は、アイヌ語の「タムパ、刀の意」が転訛したという説が有力です。

 しかし、この「たっぴ」は、

 原ポリネシア語の「タ・アピ」、TA-API((PPN-M)ta=(M)ta(dash,beat);(PPN-M)api=(M)api,apiapi(crowded,dense))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「タッピ」(「タ」の語尾のA音と「アピ」の語頭のA音が連結して「タピ」となり、さらに促音化して「タッピ」となった)、「(潮流が)凝集して・激しく打ち付ける(岬)」(「タ」のA音と「アピ」の語頭のA音が連結して「タピ」から「タッピ」となった)となった

と解します。これは原ポリネシア語のP音がそのまま日本語に入って残存した例です。この岬の名は、海峡の特徴を熟知した上で、岬を擬人化して形容されたもので、古代人の自然を観察する眼のたしかさと自然にたいする豊かな愛情を感じさせます。

 なお、静岡県沼津市多比(たぴ)も、江浦湾内の北奥の小さな岬の付け根の地名です。その小さな岬が「タピ」と呼ばれ、やがてその付近の地名となったもので、「竜飛」と同じ語源でしょう。

 

b 琵琶(びわ)湖

 琵琶湖は、滋賀県中央部にある断層陥没湖で、日本最大の湖です。
 その名は、湖の形が琵琶に似ているからとするのが通説です。そういわれるようになったのは、江戸前期以前といわれますが、その時期は不明です。古くは都に近い淡水湖という意味で「近つ淡海(あはうみ)」と呼ばれ、近江(おうみ)国の語源となり、「遠つ淡海」(浜名湖)のある遠江(とおとうみ)国に対する呼称となりました。また、近江之海、鳰(にお)の海(『新古今和歌集』など)とも呼ばれました。

 しかし、吉田東伍『大日本地名辞書』によりますと、「びは(琵琶、枇杷)」(旧仮名遣い)という地名(潟、溜、島、橋を含む)が古くから全国に数多くありますが、そこは川や海などに接し、地形が湾曲しており、水辺の湿地であるところが多いとされています。そしてその殆どが琵琶楽器説では説明できないといい、「びは」は「水輪(みわ)」の転音であろうと解釈しています。

 この「びは」は、

 原ポリネシア語の「ピハ」、PIHA((PPN-M)piha=(M)piha(yawn))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「ビワ」(「ピハ」のP音がB音に変化して「ビワ」となつた)、「あくびをしている(大きく口を開けている)(湖)」となつた

と解します。原ポリネシア語のP音が日本語に入ってB音に変化したものです。

 この解釈は、琵琶湖だけでなく、新川と湾曲した住吉川に挟まれた名古屋市西区枇杷島(びわじま)町、木津川が大きく蛇行して山とのあいだに開いた口のような地形をつくる京都府城陽市枇杷庄(びわのしょう)や、鵜川が大きく蛇行している河口付近の新潟県柏崎市枇杷島(びわじま)などについても、ピッタリ適合します。

 なお、「鳰(にお)の海」の@「にお」は、

 原ポリネシア語の「ニオ」、NIO((PPN)nio=(Hawaii)nio(doorway,threshold of a house))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ニオ」、「(日本海側から京への)入り口(にある。湖)」と、

 またはA「にほ」は、

原ポリネシア語の「ニホ」、NIHO((PPN-M)niho=(M)niho(traverse in a defensive trench))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「ニオ」(「ニホ」のH音が脱落して「ニオ」となった)、「(塹壕の中を行き来するように)浮巣を作って遊弋する(習性がある鳥。にお。かいつぶり。その鳥が多い湖)」

と解します。

 

c 比楽(ひらか)河

 石川県の手取(てどり)川は、県下最長の川で、白山(はくさん)大汝峰を源として、山麓の鶴来(つるぎ)から下流に広大な扇状地を形成し、多数の支流を扇状に分岐して、石川郡美川町で日本海に注いでいます。この川は、日本有数の急流で、いつごろかは判りませんが、手を取って渡らなければ渡れないところからその名がつけられたと言われています。

 この川は、古くは「比楽(ひらか)河」といいました。『三代実録』貞観11(869)年2月の条に「加賀国比楽河に渡子(渡し守)を置く」という記事がでています。また、『延喜式』主税上、諸国運漕雑物功賃の部に越前国(加賀、能登、越中等の国も同じ)の海路として「比楽(ひらか)湊」から敦賀津に至る海路とその運賃が記載されています。この湊は、江戸時代まで利用された比楽河河口の湊で、現在でも手取川河口の石川郡美川町に「平加(ひらか)町」の名が残っています。

 この「ひらか」は、

 原ポリネシア語の「ピラカラカ」、PIRAKARAKA((PPN-M)pirakaraka=(M)pirakaraka(fantail))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ヒラカ」(「ピラカラカ」のP音がF音を経てH音に変化し、さらに同音反復の「ラカ」が脱落して「ヒラカ」となった),「(扇の尾をもつ駒鳥の尾のような)扇状地を流れる川」となった

と解します。

 なお、秋田県平鹿(ひらか)郡、同郡平鹿(ひらか)町は、雄物川とその支流である皆瀬川、成瀬川から分岐した支流によって形成された大扇状地をその主たる部分とする横手盆地の上に位置していますし、青森県南津軽郡平賀(ひらか)町も岩木川の支流平川(ひらかわ)によって形成された扇状地の上に位置しています。これらの「ひらか」も同じ語源と考えられます。

 

d 箸(はし)墓伝説の真実
 

(a) 『日本書紀』をポリネシア語で読み直す

 奈良県櫻井市箸中に、箸墓古墳(全長276メートル、後円部の径150メートル)があります。

 『日本書紀』崇神紀10年9月の条に、大物主神の妻となつたヤマトトトビモモソヒメが夫の姿が蛇であることを発見して驚き、夫の怒りをかったことを悔やんで箸で陰(ほと)を突いて死んだために、その墓を箸墓というとあります。しかし、箸で自殺するというのは、伝説とはいいながら、あまりにも突飛で、合理性に欠けた行為です。

 この箸墓の「はし」の語源については、「はし」は土師器をつくり、古墳の造営を司った「土師(はじ)」氏の「土師」に由来するとする説(土橋寛「箸墓物語について」(『古代学研究』72)1974年)があります。しかし、土師氏と磯城地方との関係や、時代的関係などについてさらに検討を要します。また、箸墓の所在する字「箸中(はしなか)」の地名は、『大般若経奥書』(永保元(1081)年)に「大和国城上郡箸墓郷内」とあることから、「はしのはか」の転訛であろうとする説があります。

 

 この「はし」は、

原ポリネシア語の「パシア」、PASIA((PPN-M)pasia=(M)patia(spear);(PCP)pa(f,s)i=(hawaii)pahi(knife))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「ハシ」(「パシア」のP音がF音を経てH音に変化し、語尾のA音が脱落して「ハシ」となった)、「(衝動的に短刀で胸を突いて)自殺した姫(の墓)」

と解します。

 原ポリネシア語の「パシア、PASIA」が、マオリ語ではS音がT音に変化して「パチア、PATIA(spear)、槍」の意味となりますが、ハワイ語ではS音がH音に変化して「パヒ、PAHI(knife)、ナイフ・短刀」の意味になります。

 つまり同じ発音ですが、「はし」は食事に使う「箸」ではなく、「刃物一般」だったのです。通常女性が自殺する場合に使用する刃物は、「短刀、懐剣」でしょうが、短刀で自殺したのではあまりにも当たり前過ぎて、”話題性”に欠けます。しかし「衝動的に」自殺する場合に、すぐ近くに「長い槍」があるでしょうか。やはり、常に身に付けている「短刀」を使用したのではないでしょうか。

 また、『日本書紀』のこの条には、「悔いて急居(つきう)。即ち箸に陰(ほと)を撞(つ)きて薨(かむさ)りましぬ」(岩波書店、日本古典文学大系本による)とありますが、この「急居(つきう)」は、

 原ポリネシア語の「ツキ・ウ」、TUKI-U((PPN-M)tuki=(M)tuki(pound,beat,attack);(PPN-M)u=(M)u(breastof a female))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ツキ・ウ」、「女性の胸(乳房)を打つ(刺す)」となった

の意です。

 さらに、この「ほと」は、

 原ポリネシフ語の「ホト」、HOTO((PPN-M)hoto=(M)hoto(start,make a convulsive movement))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ホト」、「衝動的に行動を起こす」となった

の意です。

 これらを総合しますと、この箇所は「(ヤマトトトビモモソヒメは、自分の行為を)悔やんで、衝動的に短刀で自分の胸を突いて死んだ」と解釈するのが正しく、またきわめて合理的です。

 この『日本書紀』の原文には、「而悔之急居。急居、此云菟岐于(つきう)。即箸撞陰而薨。」とあり、「急居、此云菟岐于(つきう)。」の箇所は分注となつています。おそらく「はし」という音で伝えられていた言葉を「箸」と解釈し、「ほと」を「陰」と解釈したために、「つきう」を「急にどしんと腰を落とした」と解釈せざるをえなくなって「急居」の字をあて、その読み(本来の言葉の発音)を分注で示したものでしょう。この例は、『日本書紀』の編集者が、神話伝説の伝承に用いられた言葉が発音は同じでも日本語とは違う意味であることを知らず、すべて日本語で解釈したために犯した誤りの代表的な例ということができます。

 また、『古事記』のスサノオのヤマタノオロチ退治の条に、肥川(ひのかわ)の上流から箸が流れてくるのを見て人が住んでいるのを知ったという記事がありますが、古代においては一般庶民が箸を使用することはなかったそうで、庶民よりも早く使用したであろう朝廷の官吏でも、かれらが執務した朝堂跡から箸が発掘されるのは平安時代も中期に入ってからといいます。

 そうしますと、この話は全くの創作か、あるいはこの「はし」も「ナイフ」か「槍」であった可能性があります。この場合の「刃物」は、水に浮くわけですから、青銅や鉄の刃物ではなく、木の柄に黒曜石の細刃を埋め込んだ「ナイフ」か、木の棒に黒曜石の刃先をつけた「槍」であった可能性が高いと考えられます。

 なお、ちなみに、「倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命」の名は、

 原ポリネシア語の「イア・マト・トト・ピ・モモ・サウ」、IA-MATO-TOTO-PI-MOMO-SAU((PPN-M)ia=(M)ia(indeed);(PPN-M)mato=(M)mato(deep swamp);(PPN-M)toto=(M)toto(blood,bleed);(PPN-M)pi=(M)pi(flow);(PPN-M)momo=(M)momo(in good condition);(PPN-M)sau=(M)tau(come to rest))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「ヤ・マト・トト・ビ・モモ・ソ」(「イア」が「ヤ」と、「ピ」のP音がB音に変化して「ビ」と、「サウ」のAU音がO音に変化して「ソ」となった)、「実に・深い湿地がある地域(大和国)の・血を流して(死んで)・手厚く・葬られた(姫)」となつた

と解します。

 なお、人名に冠される「倭、大和、ヤマト」の語は、ここでは地名と解しましたが、記紀の歴代天皇の后妃のうち、「倭(やまと)」の名を持つ方がお二方あります。そのうち、継体天皇の妃「倭(やまと)媛」は 「三尾君堅威(みをのきみかたひ)の女」(継体紀元年3月条。継体記は「三尾君加多夫の妹」)ですが、三尾は天皇の父の別荘があった近江国高島郡の地名で、大和国とは関係がありません。また、天智天皇の皇后「倭(やまと)姫王」は「古人大兄皇子の女」(天智紀7年2月条)で、古人大兄皇子は舒明天皇と夫人蘇我嶋大臣の女法提郎女(ほてのいらつめ)の間に生まれ(舒明紀2年正月の条)、「更の名は、古人大市(ふるひとのおほち)皇子」(孝徳天皇即位前紀分注)といったとありますので、大市を地名とすれば、大和国城上郡於保以知郷で、現在箸墓のある奈良県櫻井市箸中付近ということですから、父は正に「倭」の地に関係が深い可能性が高いといえます。しかし、倭姫王がその下で育ったであろう母の出自は不明です。

以上の例からしますと、「倭」の語は、必ずしも地名とはかぎらず、

原ポリネシア語の「イア・マ・タウ」、IA-MA-TAU((ppn-M)ia=(M)ia(indeed);(PPN-M)ma=(M)ma(white,clean);(PPN-M)tau=(M)tau(beautiful))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ヤ・マ・ト」(「イア」が「ヤ」と、「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」となった)、「実に・清らかで・美しい(姫)」の意であるかもしれません。

 

(b) 「箸墓」古墳の名称の意味を考え直す

左 「日本の古代5 前方後円墳の世紀」中央公論社、昭和61年から
右 上田宏範「前方後円墳」学生社、1996年から

 平成10年10月末に奈良の正倉院展を見学に行った折り、山の辺の道をすこし歩いてみました。その際、箸墓古墳を半周しました(北側には箸中大池がありますが、南側は公道が接しています)が、古墳の形がいわゆる典型的な前方後円墳とはやや違うことに気が付きました。いわゆる前方部と後円部の接合部が緩やかにカーブしており、前方部の側面が直線ではなく、わずかに円く膨らんでいるのです。

左 箸墓古墳(北側から撮影)
右 出雲神庭荒神谷出土の銅矛の先端(「古代出雲文化展」島根県教育委員会・朝日新聞社、1997年から)

 そしてこの箸墓古墳を横からみますと、「矛(ほこ)」または「槍」の先端部分を半分土に埋めたように見えます。北側の池を隔ててみますと、池に映った半身と併せて「槍先」に見えますし、上からみても大分長さに比較して巾がたいへん太く広くなっていますが、「槍先」とみることができます。現在は墳丘には樹木が生い茂っていますが、『日本書紀』によれば、「大坂山の石を手越しで運んで」葺いたわけですから、墳丘を遠望すると葺き石が光を反射して巨大な槍の刀身に見えたのではないでしょうか。つまり、この古墳は、その特異な形状のために「槍(のような形)の墓」と付近の住民から呼ばれていたと思われます。

 そうしますと、古墳名が「槍」であっても、それはその形状を表すだけの名称であって、被葬者の由来を示す名称ではなかった可能性が大です。もちろん、被葬者の由来と墓の名称が意識的に結びつけられて呼ばれた可能性も否定はできませんが。

 したがって、この古墳名が単なる形状名であったとすれば、「大市の「箸墓」は、「箸」で自殺したヤマトトトビモモソ姫の墓である」と結論づけた『日本書紀』の記事はそもそも誤りだったことになります。

 なお、箸墓古墳が造成された時期は、従来、後円部から出土した吉備型特殊器台および周濠から出土した土師器の編年から庄内式期後半、すなわち4世紀の終わり頃とされてきました。そして箸墓古墳の造成年は、『日本書紀』の紀年から崇神天皇10癸巳(きし)年、西暦393年とする説(石渡信一郎『応神陵の被葬者はだれか』三一書房、1990年ほか)があります。ところが、最近になって考古学者は、周辺から出土した木材の年輪測定等を根拠として、箸墓古墳の周辺の古墳群の造営年代を逐次引き上げ、箸墓古墳の年代を約100年も繰り上げて280年代とし、「卑弥呼」または「台与」の墓に擬しようとしているかのようです。これらについては、さらに冷静に科学的な検討が必要と思われます。

 残念なことに、このポリネシア語による地名の解釈によって知りうることには限界があり、以上のようにある程度の事実関係の有無の判断や、事実の絞り込みはできますが、すべての疑問を解明できるわけではありません。真の造営年代や真の被葬者が誰であるかは不明のままです。

 なお、昨平成10年9月に奈良県を襲った台風7号によって、室生寺の五重塔をはじめ県内各地で大きな被害が出ましたが、箸墓古墳も前方部を中心にかなりの樹木が倒れ、墳丘が一部崩れました。仄聞したところによると、宮内庁の復旧工事が現在進められていますが、崩壊地からかなりの土器が出土しているもようです。この土器の学術的調査結果の報告が公表されれば、この造営年代等の解明が大きく進むことが期待されます。

 
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3 ハワイ語に原ポリネシア語の語義が残存していると考えられるもの

 

 日本の地名や言葉のなかには、その語源となった原ポリネシア語が現在マオリ語には残されておらず、ハワイ語に残された単語によってしかその意味を求めることができないものがあります。以下その例をいくつか示したいと思います。

 

(1) 隠岐(おき)と壱岐(いき)

 これについてはオリエンテーション篇(平成10年10月10日オープン)で解説ずみですので、ご参照ください。
 

(2) 比叡(ひえい)山

 比叡山(東の大比叡岳848メートル、西の四明ケ岳839メートル)は、滋賀県大津市と京都市左京区の境界の山で、古くから神が宿る山として山岳信仰の対象でした。山上には延暦寺が、山麓には日吉(ひえ)大社があって世の尊崇を集めています。

 古くから「ひえのやま」と呼ばれ、日枝ノ山、天台山、北嶺、我立杣(わがたつそま)などとも呼ばれました。

 山名の由来は、
a 夏でも寒い「冷え」の山、
b 比良山の枝山で「比枝山」、
c 日迎え(ひむかえ)の転訛で「日枝(ひえ)」などの説があります。

 この「ひえ」は、

 原ポリネシア語の「ヒエ」、HIE((PPN)hie=(Hawaii)hie(distinguished,dignified))が、

 ピジン語(およびクレオール語)の「ヒエ」、「高貴な(山。または威厳のある神が住む山)」となつた

と解します。これはハワイ語による解釈で、マオリ語では「ヒエ」、HIE(shout)、「叫び声(をあげる)」ですが、これは原ポリネシア語の原義が「神の威厳を畏れて嘆声を発する」という意味に変化してマオリ語に残ったものでしょう。
 

(3) 枯野(または軽野。「からの」または「かるの」)船

 『日本書紀』応神紀5年10月の条に「枯野(からの)」船の記事があります。伊豆国に命じて長さ10丈(約30メートル)の大船を建造させたところ、「軽く泛(うか)びて疾(と)く行くこと馳(はし)るが如し。故、其の船を名づけて枯野(からの)という」とあります。この箇所には分注がありまして「船の軽く疾きに由りて、枯野と名くるは、是義(ことわり)違へり。若しは軽野(かるの)と謂へるを、後人訛(よこなま)れるか」とあります。

 また、『古事記』仁徳紀にも、河内国の高樹でつくった船足の早い「枯野」船の記事があります。この条の歌には枯野を「加良怒」と表記していますから、船名は「からぬ」であった可能性があります。さらに、『常陸国風土記』香島郡の条に大船が流れ着いた軽野(かるの)郷の記事がありますが、この地名も「からの」船によるものではないかと考えられます。

 この「からの」は、「カラは軽を意味し、カルのルはロ、ラと交替しうる音。ノは去(ヌ)の転。速く走る意。あるいは地名による名か」(日本古典文学大系『日本書紀上』岩波書店、補注)という説があります。

 しかし、この「からの」は、

 原ポリネシア語の「タウルア・ノ」、TAULUA-NO((PPN)TAULUA=(Hawaii)kaulua(double canoe;(PPN)no=(Hawaii)no(very,good,very good))が、

ピジン語(およびクレオール語)の「カラ・ノ」(「タウルア」のT音がK音に、AU音がA音に、語尾のUA音がA音に変化して「カラ」となった)、「素晴らしい・双胴のカヌー」となった

と解します。

 (注) ハワイ語でカヌーは「ワア(WAA)」といい、単胴のカヌーは「カウカヒ(KAUKAHI(kau=to place,put,set,settle;kahi=one,single))」、双胴のカヌーは「カウルア(KAURUA(rua=two,double))」といいます。マオリ語でカヌーは「ワカ(WAKA)」または「マタワカ(MATAWAKA)」、双胴のカヌーは「タウルア(TAURUA)」(原ポリネシア語のT音はマオリ語ではそのまま、ハワイ語ではK音に吸収された)といいます。

 なお、英語の「カヌー(CANOE)」の語源は、コロンブスの新大陸発見の後にカリブ海のヒスパニョラ島のアラワク語から採集されて、スペイン語の「カノア(CANOA)」となり、フランス語を経由して英語となったといいます(『ランダムハウス英和大辞典』小学館)。

 この日本の古代の大型帆走カヌーを意味する「カラノ」の語が「カルノ」、「カノ」に変化し、太平洋環流に乗ってカリブ海に到達して「カノア」から「カヌー」になったのではないかとする説(茂在寅男『古代日本の航海術』小学館創造選書、1979年)があります。

 
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4 ポリネシア語による解読にあたっての留意事項

 

(1) 日本の古い地名等で意味が分からないものを解読しようとする場合、できるだけ古い呼称を探し、それを基準とします。たとえば茨城県多賀(たが)郡ではなく常陸国多珂(たか)郡を、静岡県田方(たがた)郡ではなく、伊豆国田方(たかた)郡を、石川県手取川ではなく、加賀国比楽河を対象としたように、原則として古い地名を解読の対象としてください。

 また、古い時代の発音をできるだけ尊重して解読することに心がけてください。

「地名は言語の化石である」といいます。魏志倭人伝に収録された地名が、2千年を経てなお昔のままの姿で残っているものもあります。もちろん多少の変化があるものもありますが、まず原則として変わっていないはずと考えて検討してみてください。きっと驚くほど、昔のままの発音で、それに音韻が対応するポリネシア語が見つかるはずです。

 すでに説明したように、ポリネシア語の発音は、日本語そっくりです。日本語のローマ字表記の見出し語に、英語で意味が書いてあるという認識で、マオリ語またはハワイ語の辞書を引いてください。

 

(2) 正確にいえば、まず日本語の語源となった原ポリネシア語を探し、それが変化したマオリ語またはハワイ語を探してその意味を確かめるわけですが、多くの場合、入門篇(その一)で解説したように、それぞれ一定のルールに従った子音の変化が伴っていることを忘れないでください。

 なお、万葉集時代の日本語には、濁音が少なかったといいます。現在伝えられている地名に濁音が含まれている場合には、原則として、たとえば富士山(「ふじ」→「フチ」)の例のように、日本語の発音を清音に戻して考えてください。ただし、原ポリネシア語のNG音やP音のように、日本語に入ってきわめて複雑に変化しているものもありますので、ご注意ください。

 また、日本語と、原ポリネシア語を介したマオリ語またはハワイ語の単語の音韻の対応については、第一子音と第一母音および第二子音(いわゆる「語幹」の部分です)は、まず変化がなくほぼ完全に音韻の対応があると思ってください。それから第二母音または語尾の母音(最終母音)については、変化していることがしばしばあります。

 連続した母音は、場合により一部が欠落することがあります。さらに、ポリネシア語の複合母音AU音は、日本語に入ってO音に、EA音、UA音は通常A音に変化しているようです。
 

(3) 日本の地名等に対応するポリネシア語の単語を探す場合、数ある音節のうち、どこからどこまでを一つの単語と想定するかが一つの鍵になります。最小の一音節で構成される単語も数多くありますが、多くの基本語は二音節または三音節です。(これについては、入門篇(その一)の最後の部分を参照してください。)

(4) ポリネシア語には日本語にない定冠詞(nga,te)や、不定冠詞(he)などがあり、また場所等を表す前置詞または助詞(o=the placeof,i=beside,pasttime,tu=to stand)などの慣用語がひんぱんに使用されています。

 

(5) 日本の地名等に対応するポリネシア語の単語を探す場合、日本語ではときどき原ポリネシア語にあったH音やK音が脱落して母音だけが残ることがあります。

 それからポリネシア語は、反復語が多いのが特徴ですが、簡潔を旨とする日本の地名表現の場合には、比楽河(「ピラカラカ」→「ヒラカ」)の例のように、同音反復の語尾が脱落、省略されることが多いことに注意してください。長い音節の単語や、発音し難い単語についても、語尾の省略や途中省略が行われる場合があります。

(6) 一番困った問題は、日本の地名がその発音にあてて使われた漢字の字音や字義に引きずられて発音が変わってしまっていることがあることです。これはケースバイケースで検討して解決するほかありません。

(7) 以上の事項に注意しながら、日本の地名等に対応するポリネシア語の単語を探すわけですが、両者の間に音韻の対応があるといえるかどうか、探し当てた単語の意味が、地名であればその地形に即しているかどうか、あるいはその土地にまつわる伝承の内容等と一致しているかどうか、人名であればその人にまつわる人の性格、事績などの伝承と一致しているかどうかなどを検証しなければなりません。

 さらに、同じ語源と思われる他の地名、人名等についても同じような検討を加え、その解釈が妥当であるかどうかを慎重に検討する必要があります。とくに、ポリネシア語は同音多義語が多く、何通りもの解釈が可能な場合がむしろ普通ですから、考えられる単語の組み合わせについて何回も試行錯誤を重ね、反復して検討することが重要です。

 また、一つの結論を得ても、時間の経過とその後の研究の進展に伴って、先の推論の誤りに気づくこともままあります。
 

(8) 我々は、ややもすると、「地名のほとんどはその土地の地形の特徴とか自然条件を表すもの」と思いこみやすいのですが、原ポリネシア語でつけられた日本列島の古い地名を解読すると、その多彩なことと、自由闊達な発想と表現に驚かされます。そして、「竜飛崎」の例にみるように、古代人の自然を観察する眼のたしかさと自然に対する豊かな愛情を感じることがしばしばです。

 ご参考までに、ニュージーランドのマオリ語地名(オリエンテーション篇で紹介した『マオリ地名辞典』に収録されている地名)の種類別の件数、割合を次に示します。
 

     マオリ語地名の種別    件数 割合(%)  備考

 

  自然(地形・地勢・環境・現象)  731  32   高い、低い、砂地、湿地、
                            霧が多い、虹がかかるなど

  植物・動物名(食糧採取場所)   590  26

  先祖人名・事績・伝説       334  15

  自然条件(施設、用途)      225  10    港、定置網に適した場所など

  抽象形容             193   8   神が宿る、聖なる場所など

  器具名              94   4    斧、鍋など

  出身地名(外国地名)       44 2

  鉱物名              35   2   黒曜石など

  身体部分名            23   1   眼、まぶたなど

  宣教師名             20   1

  その他               1  -

     計            2,290  100

 このマオリ地名も多彩ですが、日本列島の古い原ポリネシア語地名と比較すると、マオリ地名の表現が比較的単純、直截なのに対し、日本列島のほうがより表現が多彩、複雑、繊細な感じがします。

 とくに、自然を擬人化した表現が多く、宗教性を感じさせるものもあり、また、ウィットといいますか、遊び心に富んだ表現もまま見られます。

 また、事績名では、マオリ地名には「敵の酋長の首を取った場所」といった残忍とも思える地名が散見されますが、今までのところ日本列島にはそのような地名は全く見られないようです。やはり縄文時代は平和な時代であったようです。

 それと日本列島の動植物相とオセアニアの動植物相が異なり、名称の一致するものが少ないため判読できないからでしょうか、あるいは日本列島には食糧が豊富であったためそのような地名を付ける必要がなかったからでしょうか、マオリ地名ではひんぱんに出てくる動植物名地名が、日本列島にはあまり見受けられないように思います。

 このような地名表現の多様性を頭に置いて、「地名だから、こういう表現はあり得ない、こういう意味であるべきだ」といったような固定観念を持たずに、柔軟に、素直に解読することを心がけてください。

 

5 各論篇の構成など

 

 オリエンテーション篇(平成10-10-10オープン)の最後の「4 入門篇にご期待ください」の項で、来る3月以降の各論篇の基本的な構成の考え方を説明しました。

 今月は、向こう一年くらいのテーマの予告を発表しようかと思っていたのですが、いろいろ書き進めるうちに、あまり先までの約束はかえって柔軟性を欠いて好ましくないと思うようになりました。

 そこで各論篇は、次回予告に止めることにさせていただくことにします。

 なお、そのときどきに応じ、このホームページの読者の要望があればそのご意見もふまえて、地名篇、古典篇などの種別にこだわらず、あるときは地名篇などの連続で、あるときはいくつかのオムニバスで、書き込むようにしたいと考えています。
 

 それからこのホームページの理解を助けるため、最小限度の地図ないし略図を、準備ができ次第、すでにアップロードした分への追加も含めて、載せて行きたいと思っています。パソコン初心者でもあり、画像についてはまったく自信がないのですが、しばらくの猶予をお願いいたします。

 なお、しばらくの間は、毎月追加してアップロードして行きますが、ホームページの容量の制限もありますので、容量の余裕をみながら、いずれ古い書き込みの分から、逐次削除することになろうかと思います。ご了承ください。

<修正経緯>

1 平成14年10月7日 (6)のa竜飛崎の解釈を一部修正しました。

2 平成19年1月1日 2の(6)のb琵琶湖の項中「近江」・「鳰の海」の解釈を削除しました。

3 平成19年2月15日 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<修正経緯>の新設、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

4 平成19年9月20日

 2の(6)のdの(a)の倭迹迹日百襲姫命の解釈の一部を修正しました。

5 平成20年3月1日

 (6)のb琵琶湖の項に「鳰の海」の新解釈を再び追加しました。

6 令和3年11月1日

 原ポリネシア語を語源とする解釈に修正したほか、必要な修正を行い、改訂版としました。

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[付録]

 

1 「夢間草廬(むけんのこや)」の名の由来

 

 「夢間(むけん)」は、お恥ずかしいのですが、書道(とくに篆刻)をたしなむ筆者の雅号です。

 これは、私のイニシャル、「M.I.」の「M」に「夢」、「I」に「間」の字をあてて付けました。
 このイニシャル利用(簡便、ものぐさ)命名法は、故吉田茂(よしだしげる)元首相から学んだものです。
 もう二十年ほど前になりますが、私が大阪に勤務していたころ、摂津国一宮の住吉大社で仕事の安全祈願をしたことがあります。その折り、社務所の応接間の壁をふと見ますと、色紙に「外交之祖神」と達筆で揮毫して「素淮(そわい)」の署名と落款があり、「吉田茂印」が捺してありました。これは、祭神の一柱の神功皇后の朝鮮出兵を日本外交の始まりと認めた元首相の直筆でした。雅号の「素淮」とは元首相のイニシャル「S.Y.」の「S」に「素」、「Y」に中国の淮河(わいが。北の黄河と南の揚子江(長江)の間を流れる大河)の「淮」の字をあてたものだと宮司さんから聞きました。

 「夢間」の号は、織田信長ではありませんが、「人生は束の間の夢」という意味を込めて付けたものだと常日頃人には言っております。しかし、口の悪い友人からはこんな号を名乗っていると「無間(むげん)地獄」に落ちるぞと冷やかされております。

 「草廬(そうろ)」は、字義の通り、草葺きの粗末な廬(いほり)で、「夢間草廬」を「むけんのこや」と読んでもらうことにしました。

 表紙の夢間草廬の篆刻は、筆者が刻したものです。

2 あけましておめでとうございます。

  今年が皆様にとって良き年になりますことを心から祈ります。

 次の篆刻は、私の今年の年賀状に押したものです。
 文面は、「雷震清飃」で、『碧巖録』第49則の禅語「(一声)雷震(ふる)って清飃(せいひょう。清々しいつむじ風)起こる」から採りました(実は「飃」の本字は、風偏に火が三つなのですが、JIS第二水準にありませんので、意味がおおむね同じこの字を使いました)。このホームページが一陣の清飃となることを祈念したものとご理解ください。

 清賀新禧

   平成11己卯歳旦  井上夢間

入門篇(その三) 終わり<.center>


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源 
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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