オリエンテーション篇 (平成10年10月10日書込み。令和3年10月1日最終修正) |
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[おことわり]
最近になってマオリ語−英語の辞書をインターネツト上でひくことができることを発見しました。すでにご存知の方もおられるかとは思いますが、始めてこの問題に取り組もうとする方々のために、とりあえず、その情報を2の(7)ポリネシア語辞書の項に追加しました。
この篇は、令和3年10月に(1)読者からのご要望に応じ、「2の(0)日本の地名はポリネシア語源ではないかと疑ったキッカケ」の項を追加し、(2)全体に必要最小限の補筆、修正を加えて、全体を「改訂版」と表示しました。
謎がいっぱいの日本の地名・日本の古典・日本語の語源を、ポリネシア語(マオリ語とハワイ語)の辞書を使って、好奇心旺盛な皆さんと一緒に解読し、また皆さんに私の解読結果を検証していただきたいと思います。
このホームページは、学問・知識を愛好する方々と一緒に勉強しようとするものですが、いわゆるアカデミックなものではありません。
ここでご紹介する事柄の多くは、これまでの日本の地名学や歴史学などのいわゆる伝統的な通説、定説といわれる、日本語だけに頼った、または一部古代朝鮮語、アイヌ語を用いての解釈の相当部分を、ポリネシア語を用いることによって否定し、一新するものです。従来の常識からすると、一見荒唐無稽と思われるかもしれませんが、実はこの方が真理であると私は信じています。しかし、いたずらに奇をてらったり、鬼面人を驚かすようなことは、私の最も嫌うところです。いわゆる既成の常識・権威にとらわれず、白紙で、合理性を探求することを旨として、じっくりと、考えながらお読みいただきたいと思います。
なお、このホームページには、理解を助けるため必要な最小限の地図、写真または図表のほかは、画像を載せません。画像が少なくて物足りないかもしれませんが、ご理解をいただきたいと思います。
(2)古い日本の地名がわからないのは、それが”外国語”だからだ
(5)「原ポリネシア語」を話す民族が縄文時代に日本列島に到来していた
皆さんは、日本の地名について「これはどういう意味だろう」と疑問を持ったことはありませんか?
自分が住んでいる地方、県、市町村、大字(おおあざ)、小字(こあざ)の地名など、新しい時代に成立したものは別として、古い時代のものは、どれ一つとっても意味が明確にわかるもののほうが少ないのではないでしょうか。
とくに律令制とともに成立した古代の国名は、意味のわからないものばかりといってもよいでしょう。
しかもその中の実質的な意味をもつ言葉としての名称をみてみますと、
「肥前・肥後」の「肥(ひ)」、「上野(こうづけ)・下野(しもつけ)」の「毛(け)」のようにわずか一音節のものがあります。
また、「伊勢」、「伊賀」、「志摩」、「伊豆」、「甲斐」、「安房」、「美濃」、「飛騨」、「陸奥」、「出羽」、「加賀」、「能登」、「佐渡」、「隠岐」、「安藝」、「紀伊」、「阿波」、「伊豫」、「土佐」、「壱岐」や「上総・下総」の「総(ふさ)」、「越前・越中・越後」の「越(こし)」、「備前・備中・備後」の「吉備(きび)」、「豊前・豊後」の「豊(とよ)」のようにわずか二音節の地名が多く含まれています。
そして三音節のものには、「大和」、「河内」、「和泉」、「摂津」、「尾張」、「三河」、「駿河」、「相模」、「武蔵」、「常陸」、「近江」、「信濃」、「若狭」、「丹波」、「但馬」、「因幡」、「伯耆」、「出雲」、「石見」、「播磨」、「周防」、「長門」、「淡路」、「讃岐」、「日向」、「薩摩」や「筑前・筑後」の「筑紫」などがあります。
このように古代の国名は、一音節から三音節までがほとんどで、四音節以上のものはわずか「山城」、「遠江」、「美作」、「大隅」の四つにすぎません。
これはどういうことでしょうか。
これはこれらの地名の古さ、換言すればその地名に用いた言語の古さを示すものでしょう。どの言語も通常その発達過程からみて、一音節からなる基礎語から始まるといいます。それは最初は身体の部分を示す単語、人の基本的動作を示す単語、数を示す単語、周囲の基本的な物や状況を示す単語などの基礎語が形成され、それが次第に複合して、二音節からなる基礎語、三音節からなる基礎語が形成されていき、その単語が組み合わされて次第に複雑な表現が可能になっていくという過程をたどるといいます。
古代の国名のほとんどが一音節から三音節までであるということは、その地名表現に用いられた言語のうちの基礎語一つだけで、あるいは基礎語二つを組み合わせて表現されている可能性が極めて高いということができます。
また、日本の地名は通常漢字で表記されていますが、その漢字が本来もっている意味がそのまま地名の意味として理解できるものは非常に稀です。昔から言い伝えられてきた発音に漢字をあてたにすぎないものが多いのです。さらに地名の漢字を見ただけでは、その正しい読み方が全くわからないものも多数ありますし、漢字で表記できなくて、ひらがなやカタカナで表記しているものもあります。
日本の国の地名なのに、日本語で意味がわからないばかりか、場合によると正しい読み方すら地元の人に聞かないとわからないというのが、日本の地名の実体です。どうしてこのような混沌とした状況になつているのでしょうか。
このホームページ「夢間草廬(むけんのこや)」(以下「HP」と略称します)は、これを解明する一つの説を好奇心旺盛な皆さんに提示します。
もともと地名というものは、そこに住み始めた人々が、あるいはその周辺に住む人々が、その土地をほかの土地と区別して呼ぶために付けた名前です。
したがって、意味をもった言葉で、”その土地の特徴を端的に表わす”ように付けるのが本来の原則です。その名前を聞けば、その言葉の意味を理解できる人であれば誰でも、すぐに「あの土地だな」と直感できるような意味をもつものでなければ、人々の間での意志の疎通が行われないのです。意味のないただの音、単なる符号では、それをあらかじめ約束した人々の間では合い言葉として通用しても、それ以外の人には場所を特定する「地名」として理解できないのです。
したがって、地名には、かならずその場所を特定することができる「意味がある」はずです。
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(2) 古い日本の地名の意味がわからないのは、それが”外国語”だからだ
それなのに、どうして意味がわからない地名が日本には多いのでしょう?
とくに古い地名の意味は、ほとんどというより、全くわからないと言ってよいでしょう。今や日本人は、地名とは意味がわからなくて当然で、意味をもたない単なる符号と思いこんでいるのではないでしょうか。その結果、最近では祖先から受け継いできた地名をあっさりと捨てて、○○銀座とか、すみれが丘とか、平和台とか字面(じづら)や語呂がよいだけの味もそっけもない地名に乗り換える風潮が流行するようになってしまいました。
地名には、それを命名し、使ってきた祖先の思いが滲みこんでいます。地名には、何千年という歴史がその中に刻まれているのです。文献に残されていない事実が地名を解読することによつて判明することもある(その一例として「ぼけ山古墳(仁賢天皇陵)」の例を後述します)のです。
日本の地名で文献に記載されたもっとも古いものは、中国で太康年間(西暦280ー289年)に陳寿によって編纂された『三国志』の中の『魏志』の一部分、通称『魏志倭人伝』に出てくる「対馬」、「壱岐」、「末廬」などです。日本の文献では八世紀初頭に編纂された『古事記』、『日本書紀』や、『風土記』に出てくる古い地名が今もそのまま残っていますが、その意味は全くわからないと言ってよいでしょう。これ以外にもいつの時代に付けられたかわからないような古い地名が数多くあります。
地名は、人間の生活、定住とともに始まったとするならば、日本の最初の地名は日本列島に人類が住み始めた新石器時代にさかのぼることになります。そのころの人類の言語がどのようなものであったのか、誰にもわかりませんが、縄文時代から弥生時代にかけての言語については、何人かの研究者による研究があるようです。
日本の古い地名の意味がわからない原因は、いま我々が使っている日本語、我々が理解できる日本語(標準語)ではなくて、今は失われた(あるいは埋没した)古い時代の原日本語、あるいは日本祖語ともいうべき言語、いわば現代に住むわれわれにとっての”外国語”で付けられた地名だからではないでしょうか。
我々の先祖も、『古事記』、『日本書紀』の時代には、すでにこのような原日本語がわけのわからない外国語となっていたのかも知れません。記紀の中には地名起源説話がひんぱんに出てきますし、和銅6(713)年に『風土記』の編纂を朝廷が命じた(その中には郡内の産物や土地の肥沃などとともに「山川原野の名号の所由」を書き出すことを命じています)のも、地名の意味が当時さっぱりわからなくなっていたことがその理由だといわれています。
それに加えてこの『風土記』編纂命令の中に含まれていた「郡郷の名に好字を著けよ」といういわゆる「地名二字好字令」が日本の地名を混乱させました。これによって、地域によっていろいろ差はありますが、(1)旧来の地名を「嘉名」に改名する、(2)その地名を表記する漢字に好字を用いる、(3)その表記を二字で行なうという大きな変革を全国に強制したのです。これによって旧来の地名が全く消し去られたケースもありますし、消されないまでも、旧来の地名の発音に似た音の漢字をあてはめることによって、次第に地名の発音を変えてしまう(訛らせる)結果を生んだり、あてはめた漢字の字義によって地名の元の意味を破壊し、人々の地名に対する認識を根本から間違わせてしまうなどの混乱を招いたのです。
そしてこの「地名二字好字令」の思想がそれ以後も日本の地名の付け方、表記の仕方を強く支配してきました。
そしてこの意味のわからなくなった日本の地名を、朝鮮語や、アイヌ語で解釈する試みが古くから行われてきました。その結果、西日本を中心として朝鮮語地名が、北海道および東北地方北部を中心としてアイヌ語地名がかなり分布すると言われるようになりました。(その中の一部は、原ポリネシア語源です。)それでもなお意味のわからない古い地名が、全国には数多く存在しています。
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それは昭和61年8月の事でした。その2年前に国家公務員を退職してある特殊法人の理事に就いていた私は、その仕事のためにニュージーランド(以下「NZ」と略称します。)に出張し、首都ウェリントンからその北のハミルトンに向かう車に乗っていたのですが、車窓から見える地名表示の中にその発音が日本の地名にそっくりなものが、それもかなりの頻度で出ては過ぎ去ることに氣が付いたのです。
それはNZの原住民マオリ族のマオリ語で付けられた地名でした。「何で日本の地名そっくりなんだ」という疑問が湧き、NZを離れる前に小さなマオリ語-英語の辞書、地名辞典(小学校用のもの。NZではマオリ語が小学校の必須科目になっている。)などを購入しました。
日本に帰って早速NZ地名辞典を引いて見ますと、アルファベットのAの部の最初から、AHAURA,アハウラ、安葉浦。AHIARUHE、アヒアルヘ、阿比有辺。AHIKIWI、アヒキヰ、安曳井。AHIMANAWA、アヒマナワ、阿比真縄。AHIPARA、アヒパラ、阿比原(音韻が変化した場合 相原、藍原)。・・・など日本の何処かにあっても不思議ではない漢字表記が可能な地名が連続して出現したのです。なお続けて見て行くと、「ARAI、アライ、新井」が目に止まりました。「新井」は私が生まれ育った東京都中野区上高田の隣にある町で、東京西郊では有名な新井薬師の寺院があり、幼い頃からその縁日に家族と訪れた思い出深い町です。ところが、その意味を見ると「(screen or veil)」とあります。この意味が全く理解できず、疑問を残したまま、しばらく懸案としました。(マオリ語の属するポリネシア語について、後から判った事ですが、世界の数ある言語の中で、唯一全ての単語が母音で終わる特徴を持ち、これとほぼ同じ特徴を持つ言語は世界で日本語だけである(例外は外来語に基因するN音などの子音で終わる単語が僅か存在する)ことでした。)
その翌年だったかと思いますが、毎年4月の初め頃に中野区主催の桜祭りが新井薬師の境内に隣接する公園で開催されます。所用があって祭りには行けなかったのですが、その直後に公園を訪れ、その広場の北側の端の手摺りから外を眺めてびっくりしました。私はそれまで新井薬師の場所の北側もずっと平らな土地が広がっているものとばかり思っていたのに、そこは東西200メートル、高さ20メートルは優にあろうかと思われる崖、それも殆ど凹凸のない平らな切り立った垂直の崖の上の端だったのです。「スクリーン」とはこの地形だったのだと気付いた瞬間でした。
「新井」で日本の地名にポリネシア語源のものがあることに開眼した後、まもなくだったと記憶しますが、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の書き出しに『土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。』とあることを知りました。この「はけ」についていろいろと調べたところ、広辞苑(第二版。岩波書店)には「丘陵山地の片岸。ばっけ。」とあり、日本国語大辞典(縮刷版。小学館)には「北海道・東北・関東から西の方にかけて、丘陵山地の片岸をいう地形名。地名になったものも多い。」とあり、前出『武蔵野夫人』の一節を用例として掲げ、方言として「山の斜面のくずれた所。また、急傾斜の地。崖。」とあり、語源説として「端の意のアイヌ語パケからか[地名の研究=柳田国男・総合日本民俗語彙]。」とあります。
この語源説については、堀井令以知編『語源大辞典』東京堂も「アイヌ語パケpakeからか」としますが、これまで調べた限りでは、パケpake頭(かしら)とするアイヌ語辞典はありますが、崖または容易に崖地を連想させる意味の単語は見当たりません。これに対しマオリ語PAKE(crack,creak,rustle,etc.)は、川の流れが大地を浸食して割れ目、溝をつくり、ひいては河岸段丘をつくり、段丘崖をつくることは容易に理解できます。(なお、同じポリネシア語であっても、ハワイ語PAKE(brittle;weak,of health)は、崖または容易に崖地を連想させる意味を全く持たず、日本語の語源とは考えられません。)そして、『武蔵野夫人』の「はけ」(PAKEのP音がF音を経てH音に変化した)は、最後に二子玉川で多摩川に合流する野川がつくる国分寺崖線の上流部の崩れた崖地です。また、広辞苑の同義語の「ばっけ」(PAKEのP音がB音に変化した)が私の地元の中野区上高田にそこを流れる妙正寺川(「新井」の崖は、上高田を流れる妙正寺川の上流がつくった崖です。)の遊水池(川の流れが大地を浸食してつくった溝の巾が大きく広がって洪水時に水を貯める場所となった土地)の名として「バッケの原」がかつて存在し(現在は住宅地、区立中学校、区営グランドになっています。)、この「バッケの原」の東端を妙正寺川が流れ、それに接する目白の山(新宿区西落合の高台。目白学園女子大学がある)に登る坂の名に「バッケの坂」名が残っています。(西武新宿線中井駅の近くから西にかけて一の坂、二の坂から九の坂まで数字を冠した坂が続き、十が「バッケの坂」となっています。)
この「アライ」、「ハケ(バッケ)」という私の身の周りの地名がポリネシア語源(特にマオリ語原ではあっても。ハワイ語原、アイヌ語原ではない。)として確信できたことが私の研究のキッカケであり、出発点でした。
驚くべきことに、この意味のわからない数多くの日本の地名や、『古事記』、『日本書紀』の中の神名、記事中のチンプンカンプンの言葉などが、日本語そっくりの発音をもつポリネシア語によって、全部ではありませんが、その太半が解読できると考えられます。
過去において私と同じように外国語で日本の言葉なり、万葉集など古典を解釈する仮説がいくつも提示されたことがあります。それらの多くは言語学者や国語学者、歴史学者によつて「フォルクス・エティモロギー(語源俗解)である」として一刀両断的に否定されてきました。「言語の系統的音韻分析に欠ける」、「いくつかの単語の意味が似ていたり、一致していてもそれは単に偶然の一致にすぎない」、「上代日本語の母音の使い方や、母音調和の原則に反する。言語学の初歩も知らない人間のたわごとだ」、「万葉集と同時代の外国語の音韻を明らかにできる文献が世界に全く存在しないのに、比較分析ができるわけがない」等々です。私の仮説に対しても、同様の否定論なり、黙殺が予想されます。
言語学者は、まず第一に数詞や身体に関する語など、意味内容が明確に規定できるものに限定して、その発音が一致または近似しているかどうかを検討します。安本美典氏(『日本人と日本語の起源』毎日新聞社、1991年)によれば、基礎語彙について上古日本語と諸言語の近さを測定すると、私が主として利用するマオリ語の基礎語彙の一致数28、一致が偶然によって得られる確率は0.225944、偏差値は0.853で、大野晋氏のタミール語よりは近いと判断されていますが、朝鮮語、インドネシア語、カンボジア語、ネパール語、台湾高砂族語などと比較して特に近いという内容ではありません。
この比較方法は、比較する二つの言語が系統関係にある場合には有効ですが、原ポリネシア語と縄文語は系統関係ではなく、原ポリネシア語が大陸系の異質な言語と接触して、新しい言語として縄文語が生まれ、発展したもの(比較言語学でいう「ピジン語」および「クレオール語」)ですから、これで「語源俗解」と決め付けるのは誤りです。具体的に説明しますと、異質な民族に新しい言葉を理解してもらわなければ話しが進まないわけですから、第一に、簡単な単語を多用する、難しい・長い単語は避け、場合により新しい単語を作る(例えば「山」を指す原ポリネシア語(マオリ語も同じ)は「MAUNGA(mountain)」ですが、原ポリネシア語(マオリ語も同じ)で「IA(indeed)-MAHA(many,abundance)」、「イア・マハ」の「イア」が「ヤ」となり、「マハ」のH音が脱落して「マ」となり、その結果「ヤマ」という新語を作るなど)、第二に、一つの単語の意味は通常二つ以上あることが多いので、ある単語がすでにある意味で使われている場合、別の単語でほぼ同じ意味をもつ単語か、やや意味は違うが同じ意味として使える単語を使用する(例えば「川」を指す原ポリネシア語は「AWA(river,channel)」ですが、すでに「阿波国」、「安房国」として使用されているので「KAWA(heap,reef of rocks,channel)」、「カワ」を使用するなど)、第三に、原ポリネシア語(マオリ語も同じ)では単語のなかに母音が連続することがよくありますが、大陸系の異質な言語ではまずないことで、非常に発音し難いということがあるので、原ポリネシア語の単語でその中に二重母音(三重母音を含む。)がある場合には、その一つが脱落するか、または一定のルールで一つの母音に変化することが一般です(私の姓を例に出して恐縮ですが、「井上」姓は、日本で15ないし16番目と言われ、姓だけでなく、地名としても全国に散在し(決して固まって存在することはありません)、神社名としてもかなりの数が存在し、古代史で最も有名なのは第49代光仁天皇の后、井上皇后ですが、日本語を勉強したことがない外国人に「井上(いのうえ)」の名詞を渡してキチンと発音できる人に会ったことがありません。「イニューエ」と読む人が殆どです。これは原ポリネシア語(マオリ語も同じ)が語源で、「イノイ・ウエ」、「INOI(beg,pray;prayer,entreaty)-UE(push,shove;shake,affect by an incantation)」の「イノイ」の語尾の「イ」が脱落し、「ウエ」が「エ」となるべきところ、変化させたら意味が通じなくなるとして特に変化を免れたものでしょう)。
なお、最近の研究成果ではオーストロネシア語の基礎語彙について多数の一致が見いだされていますし(日本語語源研究会『語源探求4』平成6年、川本崇雄「オーストロネシア語との共通語彙の分類から推定される日本語の成立事情」)、私は上記のような検証方法自体にも問題があると考えています。この方法は、ヨーロッパ語のように単純な祖語とその系統に属する子孫語、姉妹語の関係にある言語については有効であっても、日本語のように縄文語(私は上記の山、川、井上を例として説明したように、原ポリネシア語を語源とし、大陸系のその他の言語と接触してピジン語(またはクレオール語)となったものと考えています)が弥生時代に入って系統の全く異なるウラル・アルタイ系の言語が覆いかぶさることによって動詞、形容詞等の語尾の活用変化などが生まれるなどの変質を遂げた言語には、かならずしも有効とは言えないと考えます。
しかし、最近になって崎山理氏や川本崇雄氏のように、縄文時代の原日本語にオーストロネシア語(ポリネシア語は東部オーストロネシア語の一つ)の強い影響を認める学者が増えてきました。川本崇雄氏は、「日本語とオーストロネシア語との間には、単語/形態の形と意味が一致するもの、或いは酷似するものがきわめて多い。その数は最近益々増加し、いずれは総数1000語に達するかも知れない。しかしその間には、インド=ヨーロッパ語の比較に存在するような整然たる音韻の規則的な対応がみられない。改めて言うまでもないが、その原因の一つはオーストロネシア語の日本列島への上陸が一度や二度ではなかったからであろう。」と述べています(同上書)。ところが、原ポリネシア語、とくにマオリ語については、上古の日本語の音韻の特徴と同じ特徴が数多くみられるほか、日本の古い地名や記紀の言葉と「整然たる音韻の規則的な対応」がほぼ完璧ともいえるほどにみられ、さらにその意味が地名については地形、地勢と、記紀の言葉については文脈のなかで実に適切で合理的な意味をもつものとして解釈されるのです。そしてその解読例が数千にも達し、辞書をひけばいくらでもでてくる感じなのです。これは、「偶然の一致」とは考えられない事実です。
地名学では、「地名は言語の化石である」といいます。地名の発音の基本的な部分を少しでも変えたら、それはその土地を指す名前であると認識されなくなってしまうからです。『魏志倭人伝』や、『古事記』、『日本書紀』の地名がほぼそのままの発音で現在でも残っているのはそのためです。(ただし、長い年月の間には、地名の同一性を損なわない範囲での多少の変化があることは否定しません。)
このような古い地名と、原ポリネシア語の姿を比較的良く伝えていると考えられる現代マオリ語の発音とが、ほぼそっくり対応し(一部子音が変化していますが)、その意味が地形や地勢にピッタリ適応するということはまさに奇跡としかいいようがありません。しかも、その解読例が一つや二つであれば、それはたまたまの一致、偶然の出来事ということもできますが、解読例が地名以外も含めれば、数百という多数に達するのです。この解読結果の集積自体が、なによりも雄弁に真理を証明していると私は考えます。
また、これまでの地名解釈や古典の解釈には、宛字にしかすぎない漢字の字義にこだわつたり、無理矢理に言葉が訛ったものと断定した上で解釈するなど、日本語や朝鮮語、アイヌ語にこだわるあまり、こじつけとしかいいようのない地名解釈や古典の解釈が非常に多かったと思います。しかも、地名や言葉のほんの一部分の音を恣意的に抜き出して解釈し、それ以外の音は助詞であるとか、添え字であるとかといって無視をする例がままみられます。しかし、地名や基礎語彙のように音節数が少ない言葉ほど、一音、一音にそれぞれの特別な意味が込められています。この後の解読例でご理解いただけると思いますが、言葉の音は、一音、一音にそれぞれ意味があるのです。私は、可能なかぎりすべての音を尊重したいと思います。この意味がわからない地名や言葉は、日本語ではなく、原ポリネシア語であったと仮定して解読することで、いままで隠されていた真の意味が明らかになるのです。これは、いままでの日本の地名学、古典学を正に一新するものと自負しています。
それから、欧米の学者による原ポリネシア語の研究結果をみますと、原ポリネシア語と現代ハワイ語、現代マオリ語の相違は、子音の変化とそれに伴う語形の変化(ハワイ語ではかなり変化しています)を除けば、それほど大きな変化はありません。語幹を構成する子音の組み合わせとその順序には、原則として変更はありません。ただ語尾の二重母音が短縮化されたり、語尾(一部は語中)の母音に若干の変化が見られるくらいです。とくに、子音の数の減少が少ないマオリ語は、ニュージーランドがポリネシアの中でも僻遠の地にあって他との交流がほとんどなく、かつマオリ族がニュージーランドの地に移住してから後、遠洋航海をしていないせいもあってか、原ポリネシア語からそう大きくは変わっていないといっても決定的な誤りはないように思います。
なお、原ポリネシア語起源の日本語に母音調和が見られないという問題がありますが、そもそも母音調和はツングース系統の言語の特徴といいますから、これも問題とはならないと思います。
ともかく、皆さんには、先入観念を捨てて、虚心坦懐にこのHPを読んでいただき、既成の学問がどういっているかに依存するのではなくて、ご自分の頭で考え、判断をしていただくことをお願いいたします。
原ポリネシア語は、地名に入っているだけではなく、日本語の語彙にじつに巾広く残っています。じっくり読んでいただければ、われわれの頭の奥底に、ポリネシア語とポリネシア的思考が無意識の世界の中に入りこんでいることを発見されると思います。
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ここまで言いますと、「またか。”日本語の起源は○○語だ”とか、”○○語で万葉集を読む”などと同じ眉唾ものに違いない」とか、「音が合いすぎる。出来過ぎだ。デッチアゲに違いない」などと思われる読者が必ず出てくるでしょう。これは研究者や読者が、ショッキングな新説、センセーショナルな著作の真否を自分の目と頭で確かめよう、検証しようとしても、新説の根拠となっている文献や事実をすべて著者が独占しており、公開されない、あるいは入手が困難なため、検証しようとしても検証できないケースが多いことによるものと思います。
しかし、このポリネシア語による解読の場合は、誰でも検証が可能です。ウソだと思ったら、ご自分でポリネシア語の辞書を引いてみてください。
私の仮説の根拠となっている「マオリ語−英語」および「ハワイ語−英語」の辞書は、いずれもハワイやニュージーランドの市中の書店、大学内の書店や博物館の売店で(一部は日本国内の洋書店でも)市販されているものばかりです。私が使用している辞書の一覧をISBNコード番号付きで後の(7)に掲載します。いずれもそんなに高価なものではありません。輸入書籍を扱っている書店にISBNコード番号を示して注文して、これらの辞書さえ入手されれば、多少の英語の読解力はもちろん必要ですが、容易に貴方自身で検証ができます。図書館でもこれらの辞書を備えているところがあるかも知れません。
その検証のしかた、対応語の追跡のしかたや、留意事項などを、来る平成10年11月1日に、このHPに入門篇としてオープンします。
ぜひ皆さんと一緒にこの謎に満ちた日本の地名・日本の古典・日本語の語源の解読と検証にトライしようではありませんか。私の仮説や方法論の誤り、解読の誤りや見落としがあれば、それを大いに指摘していただくこと、私の手のおよばない分野を皆さんに開拓していただくことが、この研究の発展のためになによりも大切なことと考えております。
大学で言語学、歴史学、考古学、民俗(族)学などを学んでいる学生諸君の挑戦をとくに期待します。できれば、マオリ族の方で日本語を勉強しておられる方の参加を熱望しています。私の考えに誤りがあれば、遠慮なく指摘してください。なお、このHPの内容の一部を卒業論文などに引用するのは結構ですが、かならずこのHPからの引用であることを明記してください。また、その論文のコピーを私あてにかならずEメールでご送付ください。
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ところで、なぜポリネシア語で意味がわかるのでしょう。この問いに答える前に、なぜ私がポリネシア語に注目して研究するようになったかをお話したいと思います。
これは実は私にとっては偶然の出会いでした。昭和59年から63年までの間に仕事で数回ニュージーランドに出張するうちに、英国に一泡も二泡も吹かせた勇猛な原住民マオリ族の文化や歴史に興味をもち、マオリ族に伝承されたすばらしい数々の雄大で奔放な神話の本を読み、日本語そっくりの発音をもつマオリ地名からマオリ語にひかれ、現地の”小学校の義務教育となっているマオリ語”の小さな辞書を買い込んで暇なときにパラパラめくっているうちに、いつのまにかこの道にのめり込むはめになったのです。
我々にとって幸運ともいうべきことは、マオリ語にも、ハワイ語にも、英語で記述した詳しくて正確で、分厚い辞書ができていることです。
これはアングロ・サクソンの植民地政策の伝統の産物です。アングロ・サクソンは、スペイン、ポルトガルに遅れて植民地の獲得と経営に乗り出しました。スペイン、ポルトガルの植民地経営は、キリスト教の布教とは名ばかりで、現地の実状を無視して、ひたすら強権による抑圧と富の収奪に専念したきらいがあり、しばしば住民の反乱を招きました。そしてそれが現在でも政情の不安定、経済の後進性となって残っています。
アングロ・サクソンは、その点ははなはだ巧妙な政策を採りました。インド経営にみるように、現地住民の言語と民俗習慣を徹底的に研究し、原住民の不必要な反感を買わないように注意しつつ、他方原住民が団結して反乱を起こさないよう飴と鞭による分割統治を行い、原住民相互間の反目抗争を助長しながら、収奪に努めたのです。
この植民地政策の中で、言語学、民俗学、人類学が大きく発展したのです。ポリネシア語のなかでもハワイ語、マオリ語に英語で記述した詳しくて正確で、分厚い辞書ができているのはその伝統によるものです。太平洋圏の中のほかのヨーロッパ諸国の旧植民地の言語も研究されてはいますが、アングロ・サクソンにはかなわないようですし、残念ながらオランダ語、スペイン語、フランス語、ドイツ語で書かれた辞書があっても私には歯が立ちません。
話は飛びますが、かつての日本の植民地政策には、言語学、民俗学、人類学の研究をその土台に据えるという観念が全く欠けていました。もしもこのアングロ・サクソンの流儀を日本が学んでいたら、朝鮮語、台湾語、ミクロネシア語およびこれらの周辺語の研究が進み、原日本語や日本人の起源までもとっくの昔に解明されていたでしょう。
ともかく、日本語の中に残存すると思われる南方系の言語を探索する中で、ポリネシア語だけが絶対というわけではないのですが、たまたま出会ったポリネシア語で、しかも期待以上の結果が出たので、現在はこれにのめりこんでいるわけです。
なお、東南アジアから太平洋にかけて、ポリネシア、ミクロネシア、メラネシア、インドネシア等の地域の類縁関係が認められる言語をオーストロネシア語と呼び、ポリネシア語は、このうちの東部オーストロネシア語に含まれます。日本で日本語の起源を東南アジアに求めようとする研究者は、東部オーストロネシア語と語順が違う西部オーストロネシア語に属するマレー語、インドネシア語に注目する人が多いようですが、私が見るかぎり、基本語においてかなりの一致がみられるのは事実ですが、やはりポリネシア語のほうが圧倒的に日本語の語彙との対応関係が密接であるように思います。
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−「原ポリネシア語」を話す民族が縄文時代に日本列島に到来していたと考える
太平洋の中の北はハワイ、南はニュージーランド、東はイースター島を頂点とする三角形の中に含まれる島々を「ポリネシア」といいます。「多くの島々の地域」という意味です。
そこに住むポリネシア族は、日本民族と同じ「モンゴロイド」で、東南アジア系の民族です。その起源は、中国の雲南あたりから南下して、南シナや海南島からインドシナ半島あたりの海岸部に住んでいた民族(中近東ないしインドに住んでいたという説もあります)が、海に出て東に進み、西暦紀元数百年ないし1千年ぐらいのころに、今のポリネシアの島々に定着したというのが欧米の学者の多数の見解のようです。(最近DNAの分析から、ハワイ族の出発地は台湾南部であるとの研究成果の発表があったようです。)。
ということは、このポリネシア族の祖先は、海に出てからポリネシアの地域に落ち着くまでに、何百年というよりは何千年かの年月がかかったと考えるべきでしょうから、紀元前何千年かのころから海に出ていったことになります。その「原ポリネシア語」を話す民族の一部が、ポリネシア族の祖先と同じ時期かあるいは前後して海へ出て、東進ではなく北進して、フィリッピン、台湾を経て、黒潮に乗って日本列島にやって来た可能性もまた極めて高い、というよりもほぼ確実と思われます。それは崎山理氏や川本崇雄氏が推定するように、何千年にもわたって何波にも分かれて来たかも知れませんし、東へ向かった民族がポリネシアに到達する前に、移動途中のインドネシアや、ニューギニアや、ミクロネシアからあるいは中国揚子江下流あたりを経由して日本列島にやって来た民族がいたかも知れません。さらにいったんポリネシアに落ちついた後に、アウトリガー・カヌーに乗って太平洋の中を自由自在に航海し、世界に名だたる航海民族となったポリネシア族として、黒潮に乗って日本列島にやってきた部族がいたかも知れません。
なお、私はこれらの「原ポリネシア語」を話す民族が日本列島に住み着いていたとすれば、その言語、言葉をかえれば「原日本語」の一つを話す民族といってもよいかも知れませんが、その民族が日本列島にやってきた時期は、地名や神話の解釈からその時期を考えると、おおむね縄文時代の中期から後期(今から6千年から2千数百年前ころ)ではなかったかと考えています。なぜそう推定するのかについては、各論篇の中で解説したいと思います。
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(5) 「原ポリネシア語」を話す民族が縄文時代に日本列島に到来していた
以上の仮説は、最近までの人類学の研究で、「縄文人は南方系の古モンゴロイド、弥生人はそれがアジアの北部で寒冷適応して髭(ひげ)が薄く、長くのっぺりした顔になった新モンゴロイドである」(埴原和郎『日本人の骨とルーツ』角川書店、1998年)と要約される「日本人二重構造説」が極めて有力となっていることからも裏付けされると思います。(最近、令和3年9月に「日本人二重構造説」に対する「日本人三重構造説」が出されたようです。それは金沢大や鳥取大などの国際研究グループが日本列島の遺跡から出土した縄文人・弥生人・古墳時代人のパレオゲノミクス解析を行い、現代における日本人集団のゲノムが三つの祖先集団で構成されていることを発見したというものです。)
この日本人と日本文化の起源に関する研究は、昭和63年以降、国立大学共同研究機関による広範な学際研究が行われ、とくに遺伝学におけるミトコンドリアDNAの分析など斬新な分析手法を用いて、つぎつぎと新しい研究成果を生み出しています。この成果をもととして、平成4年3月に国立民族学博物館において、「日本文化起源論をめぐる遺伝学と民族学の対話」というシンポジュウムが開催されました。その内容は、佐々木高明・森島啓子編『日本文化の起源ー民族学と遺伝学の対話』(講談社、1993年)として出版されていますが、南方からの人、栽培植物、家畜などの渡来を裏付けています。
また、最近では、「どこから来た日本人」(朝日新聞平成10年4月3日から6月19日まで金曜夕刊連載)の記事に、文部省助成による広範な学際研究によるほぼ同様の最新の研究成果が紹介されています。
また、かねてから言語学者の間に「基本語の音韻からみて日本語の深層には南方系の言語要素があり、その上に現在の北方系の言語構造をもつ日本語が覆いかぶさっている」という説(村山七郎氏など)がありました。最近では、川本崇雄氏のほか、崎山理氏が「縄文語はツングース諸語とオーストロネシア諸語の混合語である」(平成10年3月8日付け日本経済新聞)と断定しています。
さらに神話学者は、「日本の神話の構成要素の大部分は南方系のもの」(大林太良『日本神話の起源』角川選書、昭和48年。徳間文庫、1990年)で、「南方系、北方系の神話が朝鮮半島を経由してやってきた支配者文化の一環としての印欧系の神話によつて体系づけられた」(吉田敦彦『日本神話の源流』講談社現代新書、昭和51年)などと説いています。
また、言語学の通説では、言語はそれが多数の人々によって活きて話される本国では時間とともにどんどん変化するが、本国を飛び出した少数の人々の社会では、比較的に変化せずにその分かれた時代の言語が保存されるといいます。(アメリカやオーストラリアで、昔の英国の言語、とくにロンドンの下町の言語が残存していることなど。)
「原ポリネシア語」についても、ハワイ語ではかなり変化しています(元は13の子音があったのが、今は7の子音に減っています。)が、ニュージーランドはポリネシアの中でも僻遠の地にあって他との交流がほとんどなく、かつニュージーランドへの移住航海の後は遠洋航海を行っていないためか、マオリ語はあまり変化していないようです(10の子音が残っています)。
比較言語学者の言語の発展系統の研究によれば、マオリ語はポリネシア語の中でもかなり遅れて分化した原東部ポリネシア語に属するとされています。しかし、ハワイ語と比較すれば、変化の程度はきわめて少ないといえます。原ポリネシア語からもっとも早く分化したトンガ語やサモア語と対比してみたいのですが、辞書が手に入りません。どなたかの研究に期待します。しかし、早く分化したからといって、そのままの姿で残っている保証はありません。その後のほかの民族との交流によって変化している可能性があるからです。
ここであらためて注目していただきたいことは、ポリネシア語の発音は日本語そっくりだということです。ポリネシア語の母音は、A、E、I、O、Uの5音で現在の日本語と同じ、語尾は必ず母音で終わる、ということは、いわば五十音で単語が構成されているのです。語順が全く違いますし、動詞の活用がないなどの違いがあってポリネシア語は現在の日本語の祖語とは考えられません。しかし、その単語の発音はまさに日本語そのものなのに、その意味は全く異なるのです。
このために、日本には南は沖縄から、北は北海道の中央部(あるいは太平洋岸東部)まで数多くの、日本語では意味不明の「原ポリネシア語源」地名が「言語の化石」として残されています。
また、『古事記』、『日本書紀』や『風土記』の中には日本語では意味の分からない言葉が多数含まれており、そのかなりのものが「原ポリネシア語源」ですが、発音が同じなために日本語と誤解して編集、記述されたために、全く間違った内容のものとして理解されているものがかなり存在します。
さらに日本語の語彙の中に数多くの「原ポリネシア語源」の言葉が発見できます。
そこで意味不明の日本語を「原ポリネシア語」に引き直し、さらにマオリ語(またはハワイ語)に引き直して、マオリ語(またはハワイ語)−英語の辞書を引きますと、そのかなりの部分の言葉の意味が明確に判明するのです。
意味不明の日本語のすべてが「原ポリネシア語源」ではなく、一部は崎山氏のいうツングース諸語、ないしほかのオーストロネシア諸語、またはそれらとの混合語である可能性も否定はしませんが、これまでに調べた限りでは、「原ポリネシア語源」のものが大半であると考えています。(マオリ語の辞書の収録語数は2万語、ハワイ語の辞書は3万語。このHPの語句索引の収録語数は22,000語を超えています。)
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このようにポリネシア語に注目したのは、私が初めてではありません。言語学者では、村山七郎氏、大野晋氏などが早くから研究されていますが、言語の系統学的研究としての基礎語の比較検討に止まり、具体的に日本の地名や古典を解読しようとはされておられないようです。
私が知るかぎり、三人の先輩が次のような研究成果を出版されています。(私の読書歴の貧困を告白するようで、恥ずかしい限りですが、このお三方以外の研究結果が公表されていることをご存じの方がおられましたら、ぜひお知らせ下さい。)
(1) 中島洋『大和朝廷の水軍−神武移住団と結んだポリネシアの秘史』(双葉社、1976年)
中島氏は、太平洋学会事務局長で、ハワイにお住まいになったこともあるハワイ語の権威です。「熊野」の地名や、熊野の山中に残る「獅子垣」をハワイ語で解釈することから出発して、大和朝廷の東征を支えたのはポリネシア族の水軍であったと説いています。歴史の流れの認識については私もほぼ同意見ですが、著者がポリネシア語の中でも原ポリネシア語から非常に変化した(子音の数を減らした)ハワイ語を用いているために解釈の幅に限界を感じます。
(2) 茂在寅男『古代日本の航海術』(小学館創造選書、1979年。小学館ライブラリー、1993年)
茂在氏は、東京商船大学名誉教授で、航海学の権威です。この書では、『古事記』、『日本書紀』に出てくる海、船、航海などに関連する言葉、神名などをポリネシア語(原ポリネシア語、ハワイ語(主)、マオリ語(従))で広範に解釈されており、非常に示唆に富み、参考になります。双手を上げて賛成の解釈も多いのですが、私としては別の解釈をしたいものもいくつかあります。いずれ各論篇で触れる機会があるでしょう。
(3) 川瀬勇『新訂 日本民族秘史−マオリとユダヤ人の血は日本人の中に流れている』(山手書房新社、1992年)
川瀬氏は、畜産学者で、日本草地学会会長などを務められた方です。お仕事でニュージーランドやイスラエルに長期滞在された折りの体験から、マオリ族・マオリ語、ユダヤ族・ユダヤ語を研究され、これらと日本人・日本語との類似、風俗習慣の類似から血統の混入を確信されておられます。広範囲な分野について幅広く検討をされていて、示唆に富んでいます。
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私が使用している辞書は、次のとおりです。
<マオリ語辞書>
(1) DICTIONARY OF THE MAORI LANGUAGE,H.W.Williams M.A,7th edition,GPPUBLICATIONS,Wellington,1997,499p(ISBN1-86956-045-0)
私の持っている辞書のうち、もっとも詳しくて、スタンダードなマオリ語−英語の辞書です。1844年初版で、ニュージーランド国教育省マオリ語教育諮問委員会の監修による改訂第七版が最新版のようです。ただし、現代語は収録されていません。英語起源の単語は、巻末に簡単な一覧表が付いています。マオリ語の辞書をお買い求めになるのでしたら、一番のおすすめです。
これは平成9年に友人に頼んでニュージーランドで購入しました(29.95NZドル)。なお、この辞書を東京日本橋の丸善(03-3272-7211,洋書3273-3315)に注文したところ、11週間後の平成10年8月に購入できました(本体3,980円)。
この辞書の第6版(第7版での修正は、細部にわたるものおよび誤植訂正が多く、致命的な欠陥の修正は見当たらないようで、十分安心して使用できると考えます)が、下記のインターネット(ウエリントンのビクトリア大学のホームページ)上でPDF版として無料で利用できます。
A Dictionary of the Maori Language
(2) THE REED DICTIONARY OF MODERN MAORI,P.M.Ryan,REED BOOKS,Auckland,1995,648p(ISBN0-7900-0389-9)
マオリ語−英語と、英語−マオリ語を一冊にまとめた辞書で、訳語が簡潔で要を得ています。また、現代語や英語起源の単語も収録され、簡単な文法や基本語一覧がついていて、重宝です。表紙には、見出し語合計4万語とあります。平成7年に友人に頼んでニュージーランドで購入しました(39.95NZドル)。
(3) ENGLISH-MAORI DICTIONARY,H.M.Ngata,LEARNING MEDIA,Wellington,1994,559p(ISBN0-478-05845-4)
マオリ族出身の学者による英語−マオリ語の辞書です。見出し語は14.5千語とやや少ないのですが、すべて例文付きで、文中の用法、多義語の異同や慣用句がよくわかります。平成6年に友人に頼んでニュージーランドで購入しました(39.95NZドル)。
この辞書が、下記のインターネット(ラーニングメディア社)上で無料で利用できます。
ただし、このうちの英語ーマオリ語辞書は、刊本と同じ内容ですが、マオリ語ー英語辞書は、英語ーマオリ語辞書の内容に出てくるマオリ語を逆引きしたものですので、狭い内容の意味しかでてきません。マオリ語ー英語辞書を使うのでしたら、やはり、内容豊富な(1)の辞書をおすすめします。
(4) A DICTIONARY OF MAORI PLACE NAMES,A.W.Reed,A.H.&A.W.REED LTD,Wellington,1983,148p(ISBN0-589-01439-0)
小学校用の小冊子ですが、約2千3百ケ所のマオリ語地名の解釈を載せています。ざっと通読しますと、マオリ族の地名の付け方の特徴がわかり、また、ひんぱんに使われる地名用語の一覧もあって、便利です。昭和61年にニュージーランドで購入しました(価格不詳)。
<ハワイ語辞書>
(5) A DICTIONARY OF THE HAWAIIAN LANGUAGE,Lorrin Andrews,CHARLES E.TUTTLECOMPANY,Lutland,1985,559p(ISBN0-8048-1087-7)
非常に詳しいハワイ語−英語(見出し語1万5千語)の辞書で、日本で印刷されたものです。平成2年に日本橋の丸善で購入しました(本体3,000円)。
(6) THE POCKET HAWAIIAN DICTIONARY,Mary Kawena Pukui:Samuel H. Elbert:EstherT.Mookini,UNIVERSITYOFHAWAIIPRESS,Honolulu,1975,276p(ISBN0-8248-0307-8)
三人の著者によるコンパクトなハワイ語−英語(見出し語6千語)および英語−ハワイ語(見出し語4.8千語)の辞書ですが、内容は充実しています。見出し語の数はやや少ないのですが、訳語は簡潔で、精選されています。とくに、基本語にはその語源(PPN原ポリネシア語、PEP原東部ポリネシア語またはPNP原中核ポリネシア語)を付記してあり、また要を得た文法が付き、さらに原ポリネシア語から現代ハワイ語にいたるポリネシア語の変遷の簡単な系譜が載せてあって大変参考になります。昭和61年にニュージーランドで購入しました(3.95USドル)。
(7) HAWAIIAN DICTIONARY,Mary Kawena Pukui:Samuel H. Elbert,UNIVERSITYOFHAWAIIPRESS,Honolulu,1986,572p(ISBN0-8248-0703-0)
(6)のポケット版の著者二人による、ポケット版の元となった詳しい辞書で大変充実しています。見出し語は、ハワイ語−英語は3万語、英語−ハワイ語は12.5千語です。基本語には語源(PPN、PEP、PNP、PCP原中央ポリネシア語)が明示してあります。現代語も豊富です。ただし、文法とポリネシア語の変遷の系譜は省略されています。本文の活字がやや小さいのが玉にきずです。平成10年6月に日本橋の丸善で購入しました(本体5,870円)。
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次にポリネシア語による解読の例を三つ示します。
まず基礎語である二音で構成された短い一つの単語の地名(「あそ」、「おき」、「ぼけ」)を選び、同じ発音または派生ないし転訛した発音で同じ語源であると思われるほかの地名や、関連する地名等の解釈を行いました。いずれも従来意味不明であったものか、あるいは従来の地名学などの解釈を一新するものです。
阿蘇山は、熊本県北東部の霧島火山帯の最北端に位置し、世界最大級のカルデラをもつ複式活火山です。カルデラの中央部には、主峰の高岳(1592メートル)、中岳(1506メートル)、根子岳(1433メートル)、杵島岳(1326メートル)、烏帽子岳(1337メートル)などがほぼ東西に並んでいます。
「阿蘇」の由来については、『日本書紀』に地名伝説があります。景行紀18年6月の条に、阿蘇国が
「郊の原曠(ひろ)く遠くして、人の居(いへ)を見ず。天皇(景行)の曰く「是の国に人有りや」とのたまふ。時に、二(ふたはしら)の神有す。阿蘇津彦(あそつひこ)・阿蘇津媛(あそつひめ)と曰ふ。忽(たちまち)に人に化(な)りて遊詣(いた)りて曰く、「吾二人在り。何(あ)ぞ人無けむ。」とまうす。故(かれ)、其の国を號(なづ)けて阿蘇といふ。」(日本古典文学大系『風土記』岩波書店による)
とあります。
風土記逸文には「閼宗(あそ)岳」とあり(『釈日本紀』に引く「筑紫風土記」)、また『日本書紀』とほぼ同じ伝説を記して「阿蘇郡(あそのこほり)」の地名の由来と説いています(『肥後国風土記』逸文)。また古くは「阿曽」とも記されました。
この「アソ」の地名は、火山地帯に多く、アス・アズに通じる崩壊地名である例が多く、この場合も崩壊する外輪山の崖からきた地名とする説があります(創拓社『日本地名ルーツ辞典』1992年)。
これをマオリ語の辞典で引いてみましょう。(現代)マオリ語にはS音はありませんが、原ポリネシア語にはS音があり、その後マオリ語ではT音(一部はH音)に吸収されています。 したがって原ポリネシア語では 「ASO」であったと推測されます。
<注>
以下 「後にマオリ語となる原ポリネシア語」は、(PPM-M) と、「マオリ語」は (M) と、「原ポリネシア語」は (PPM) と、「ハワイ語」は (H) と表記します。
「阿蘇(あそ)」は、原ポリネシア語の「アソ」、ASO((PPN-M)aso=(M)ato(enclose in a fence,etc))が
ピジン語(およびクレオール語)の「アソ」、「垣根で囲まれた(山、土地)」となった
と解釈できます。阿蘇の外輪山を垣根と見立てて名づけたのです。
なお、ついでに触れますと、阿蘇津彦(あそつひこ)・阿蘇津媛(あそつひめ)の「津(つ)」は、
原ポリネシア語の「ツ」、TU((PPN-M)tu=(M)tu(stand,remain,take place))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「ツ」、「そこに居る(住んでいる)」
の意味です。
『古事記』、『日本書紀』にはいたるところに「地名+津彦(媛)」の名がでてきます。宇佐津彦(媛)、吉備津彦(媛)、伊勢津彦(媛)、阿蘇津彦(媛)などですが、どれも「津」の意味は同じです。
学者の中には「津、ツ」を日本語の「津、港」の意と解して、「吉備津彦」を吉備国の港を支配し、それによって瀬戸内海の交通、交易に強大な勢力をもっていた豪族と解している方もおられますが、それでは”港の無い”阿蘇の阿蘇津彦は解釈できません。記紀の「津彦(媛)」が登場するどの場面においても、前後の文脈からみて、「そこに居る(住んでいる)彦(媛)」という解釈であれば素直に理解できますが、「港の彦(媛)」とはとうてい解釈できないのです。
この原ポリネシア語による「アソ」の解釈によってはじめて、ほかの「アソ」地名が統一的に正しく理解することができるのです。
その第一は、京都府の北西にある日本三景の一つ、天橋立(あまのはしだて)によって宮津湾の奥に区切られた内海、潟湖(せきこ。砂嘴によって囲い込まれた湖)を「阿蘇海(あそかい)」と今でも呼んでいます。
この地名は『丹後国風土記』逸文(『釈日本紀』に引いている)にも出てくる古い地名で、イザナギノミコトが天に通うために使っていた梯子である「天椅立(あまのはしだて)」が、寝ている間に倒れたのを怪しんで「久志備(くしび)の浜」といい、「此より東の海を与謝(よさ)の海と云ひ、西の海を阿蘇(あそ)の海と云ふ」(日本古典文学大系『風土記』岩波書店による)とあります。
従来の「崩壊地名」説では「阿蘇海」の意味は説明できませんが、原ポリネシア語によれば明確に「天橋立(という垣根)によって区切られた海」として意味が正しく理解できるのです。
なお、天橋立(砂州)の別名、久志備の浜の「くしび」は、
原ポリネシア語の「クシ・ピ」、KUSI-PI((PPN-M)kusi=(M)kuti(pinch,contract);(PPN-M)pi=(M)pi(flow of the tide,soak))、が、
ピジン語(およびクレオール語)の「クシ・ビ」(ピのP音がB音に変化した)、「(海と海とに)挟まれ、波に洗われている(細長い砂州)」
の転訛と解します。
その第二は、香川県大川郡引田(ひけた)町安戸(あど)にある安戸池(あどいけ)です。
これも宮津の阿蘇海と同様、砂嘴に囲まれた潟湖です。中央に水門があって瀬戸内海と通ずる塩水湖で、昭和2年に日本で最初にハマチの養殖を開始した場所といわれています。この「アド」の地名は、原ポリネシア語の「アソ、ASO」のS音が日本語の中でマオリ語と同様T音に変化し、さらに濁音化したものです。
その第三は、琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)です。
安曇川は、京都市左京区の百井(ももい)峠から北東に流れる百井川を源流として、丹波高地と比良山地の間の花折(はなおれ)断層に沿う深い谷(南の大津市域では葛川(かつらがわ)谷、北の朽木(くつき)村域では朽木谷と呼ばれる)を北流し、やがて東に向きを変えて琵琶湖西岸に広い三角州を形成します。花折断層に沿った街道は、かつて若狭と京都を結ぶ最短路として古くから利用され、「鯖(さば)街道」の異名がありました。
この川名は、この花折断層に沿った谷の両側にそびえる一直線に連なる山脈を垣根に見立てて、安戸池と同様「アソ」が「アト」になり、さらに濁音化して「アド」となつたもので、「両側の垣根(山脈)に挟まれた(垣根と垣根の間を流れる)川」の意味です。
ついでに触れますと、この安曇川の「アド」は「アヅミ」の転訛で、愛知県渥美(あつみ)半島、長野県安曇(あづみ)村、安曇野(あづみの)とともに、海洋民族阿曇(あずみ)氏に由来するという説が有力です。
しかし、私はこの「アド」と「アツミ」、「アヅミ」は、たまたま同じ漢字をあててはいますが、その語源は別であると考えております。
渥美半島の「アツミ」の語源は、上述の阿曇(あずみ)氏に由来するという説のほか、低湿地を意味する「アクミズ(飽水)」が転訛したとか、「アヅマ(東方)」が転訛したという説もあります。
しかし、この「アツミ」は、
原ポリネシア語の「アツ・フミ」、ATU-HUMU((PPN-M)atu=(M)atu(to indicate reciprocated action);(PPM-M)humi=(M)humi(abundant,copious;abundance))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「アツミ」(「フミ」のH音が脱落して「ウミ」となり、その語頭のU音と「アツ」の語尾のU音が連結して「アツミ」となった)、「(太平洋の)風浪に・どこまでも逆らっている(半島(岬))」
の転訛と解します。渥美半島の東側、太平洋側を表浜といい、「片浜十三里」という直線状の海食崖が続いています。太平洋からの荒い風波を一身に受けて必死に耐えているような感じから命名されたものではないでしょうか。
そうしますと、阿曇連(あづみのむらじ)の「あづみ」の語源は何でしょうか。渥美半島に上陸し、そこに住んだ海洋民族が、この地名を付し、そしてこの地名を連(むらじ)名としたとも考えられますし、あるいは風浪に逆らって航海することが巧みだった海洋民族が自称した名前であったのかもしれません。
上述したように、信濃の安曇野、長野県南安曇郡安曇村については、海洋民族阿曇(あづみ)氏が土着したことから付いた地名とするのが通説です。
安曇村は、長野県の西部にあり、岐阜県に接し、北アルプスの山々と上高地を擁する観光と林業で知られています。村には、北アルプスの秀峰穂高(ほたか)岳があり、その真東に式内名神大社穂高神社が鎮座しています。祭神は綿津見(わたつみ)神で、その祭りは御船祭りと称され、船壇尻(ふねだんじり。山車)が曳かれます。これは海洋民族の祖霊信仰を伝えるものです。
『古事記』上巻には「底津綿津見(そこつわたつみ)神、・・・中津綿津見(なかつわたつみ)神、・・・上津綿津見(うはつわたつみ)神、・・・此の三柱の綿津見神は、阿曇連(あづみのむらじ)等の祖神と以(も)ち伊都久(いつく)神なり。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆(うつしひがなさく)命の子孫なり」(岩波書店、日本古典文学大系本による)とあります。
『新撰姓氏録』には、安曇連は「綿津見神命児、穂高見(ほたかみ)命之後也」(河内国神別、地祇)とあって、異なる伝承を載せています。
この「うつしひがなさく」は、
原ポリネシア語の「ウツ・シヒ・カナ・サク」、UTU-SIHI-KANA-SAKU((PPN-M)utu=(M)utu(return for anything,satisfaction);(PPN-M)sihi=(M)tihi(summit,lie in a heap);(PPN-M)kana=(M)kana(stare wildly,bewitch);(PPN-M)saku=(M)taku(threaten behind one's back))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「ウツ・シヒ・ガナ・サク」(「カナ」の「カ」が濁音化した)、「(人々を)最高に・満足させる・魅力を持つ・背筋が伸びている(族長)」
の転訛と解します。
さらに「ほたかみ」は、
原ポリネシア語の「ハウ・タカ・ミヒ」、HAU-TAKA-MIHI((PPN-M)hau=(M)hau(famous,vitality of man,vital essence of land);(PPN-M)taka=(M)taka(heap,lie in a heap);(PPN-M)mihi=(M)mihi(admire,show itself))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「ホ・タカ・ミ」(「ハウ」のAU音がO音に変化して「ホ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)、「賛美すべき・大地の精が凝って・高嶺となった山(に居る命)」
の転訛と解します。
また、阿曇連は海人族の統率者とされており、その由来について『日本書紀』応神紀三年一一月の条には、「處處の海人、さばめきて命に従はず。則ち阿曇連の祖大浜宿禰を遣して、其のさばめきを平ぐ。因りて海人の宰(みこともち)とす。」とあります。この「さばめき(く)」(この語は、原文ではJIS第二水準の漢字にもない難しい字を用い、分注で「佐麼賣玖(さばめく)」と読ませていますので、ひらがなで表記しました。)とは、「上をそしり、わけのわからぬ言葉を放つ意。この記事はアマ(海人)が、支配層と異なる言語を使っていた異民族であることを示す記事とも解釈される」(日本古典文学大系『日本書紀上』岩波書店補注による)とされます。
この「さばめき」は、
原ホリネシア語の「サパ・マイキ」、SAPA-MAIKI((PPN-M)sapa=(M)tapa(call,give the word for);(PPN-M)maiki=(M)maiki(remove;disaster,misfortune))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「サバ・メキ」(「サパ」のP音がB音に変化して「サバ」と、「マイキ」のAI音がE音に変化して「メキ」となった)、「災害に襲われたように・わめき立てる」
の転訛と解します。
このように、「あづみ」は、阿曇連の一族の姓氏地名である可能性ももちろん否定はできませんが、ここには特徴的な「半島(岬)」地形があり、この地形からきた地名と考えます。
それは、古代の松本盆地の大半は、湖でした。地形から見ますと、その湖の北に半島が出ていました。松本盆地の北の筑摩山地の西の一郭、長野県北安曇郡のうちほぼ美麻村、八坂村、池田町の地域は、現在西を高瀬川、東を高瀬川と合流した犀川が取り囲む形で流れ、半島(岬)の地形をつくっています。これが安曇の地名が付けられた最初の地域で、後に南安曇郡の地域をふくむ広い地域の名称となり、さらに濁音化して「アヅミ」となったのではないかと考えます。
なお、海を意味する「わたつみ、わだつみ」については、後の各論篇で説明する予定です。
その第四は,栃木県安蘇(あそ)郡です。この「あそ」も同じ語源で、同郡内を並行して流れる秋山川と旗川は、花折断層の姿に似たほぼ一直線の三本の山脈(尾根)の間の二本の谷を流れています。この「あそ」も、「垣根(山脈)に挟まれた(垣根と垣根の間を流れる)川のある地域」または「何本もの垣根のような山脈がある地域」の意と解します。
その第五は、長崎県の対馬の中央部にある湾で、浅茅湾(あそうわん)といいます。浅海(あそう)、浅尾(あそう)とも書きました。この語源については,二つの考え方があります。その第一は、「アソ」が長音化したものです。第二は、原ポリネシア語の「アソ・フ」がピジン語(およびクレオール語)の「アソ・ウ」となったとするものです(この「フ」はHU((PPN-M)hu=(M)hu(promontry,hill))で、H音が脱落して「ウ」となつたもので「(湾内に小さな)岬が多数突き出て(湾を形成している)」意と解するものです。
この湾は、きわめて複雑に入り込んだ「リアス式の海岸で囲まれ」ています。古くからの良港で、西は大口瀬戸が対馬海峡への通路となり、東は地峡部を人工的に開削した大船越瀬戸、万越瀬戸によって対馬海峡と連絡しています。
ついでに触れますと、この浅茅湾の存在が、対馬という島の最大の地理的特徴です。この特徴に着目して「対馬(つ・しま)」という地名が付けられました。そしてこの浅茅湾に似た、入りくんだ海岸をもつ湾がいくつもある(真珠の養殖で有名な的矢湾、英虞湾や、五ケ所湾など)、同じような地形の場所に「志摩(しま)」という地名が付けられたものと考えます。四万温泉の「しま」も同じでしょう。この「シマ」は、単なる「島、island」として使われる場合もありますが、ここでは原ポリネシア語の本来の意味で使われていると解されます。
この「対馬(つしま)」は、
原ポリネシア語の「ツ・シマ」、TU-SIMA((PPN-M)tu=(M)tu(fight with,engage,be ignited,energetic);((PPN-M)sima=(M)tima(work the soil with a wooden implement for cultivating the soil))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「ツ・シマ」、「一生懸命に・農耕用の掘り棒で大地を掘ったような(極めて複雑に海が入りこんでいる)地形の場所」
の意味と解します。縄文時代に日本列島にやってきた原ポリネシア語を話す古代の民族は、農耕といっても原始的な技術しかもっていなかったでしょうから、このように複雑に海が入りこんでいる地形を、山野に自生していた山芋や里芋などを「不規則に掘り散らかしたような」と見立てて、「掘り棒で掘ったような」地形と表現したものでしょう。
「つしま」という地名は、ほかにも愛知県津島(つしま)市、愛媛県北宇和郡津島(つしま)町があります。
津島市は、かつて木曽川の下流で、治水工事が現在のように完備されなかった時代の、網の目のような複雑な水路があった低湿地帯の真ん中の河口近くに、桑名湊と通う津島湊があり、そこにあった津島神社の門前町が発展した市です。
また、津島町は、宇和海に面したリアス式海岸にある町です。
いずれもその立地、地形からみて対馬の「つしま」と同じ語源と考えられます。
さらに、高知県南西部を流れる県下最大、四国第二の河川、四万十(しまんと)川の「しま」も、志摩国の「しま」と同じです。
この川は、貴重な日本最後の清流といわれます。一部を除いて、総じて交通路が未整備で、発電用ダムも少なく、未開発のまま残されているからでしょう。しかも、このため河川沿岸の植物相、生物相が多様であるばかりでなく、日本の河川の中でもっとも魚種の多い川として知られており、アユ・ウナギの漁獲量は日本有数です。
この川名は、江戸時代からの呼称ですが、それ以前にどう呼ばれていたのかは不明です。その語源については、(1)上流に四万(しま)川、十(戸。と)川があってこれらが合流したからとする説、(2)多くの支流(三百十八にものぼるといいます)があるからとする説、(3)アイヌ語で「シ(大きい)・マムタ(美しい、可愛らしい)」の転訛で、「大きな美しい川」の意とする説などがありますが、定説はありません。
この「四万十(しまんと」は、
原ポリネシア語の「シマ・(ン)ゴト」、SIMA-NGOTO((PPN-M)sima=(M)tima(work the soil with a wooden implement for cultivating the soil;(PPN-M)ngoto=(M)ngoto(head)が、
ピジン語(およびクレオール語)の「シマ・ント」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」となり、さらに「ノ」が「ン」に変化して「ント」となった)、「頭のような(形の山地の周囲を)・不規則に農耕用の掘り棒で掘って進んでいるような(川)」
の転訛と解します。この「(ン)ゴト、NGOTO」のNG音がN音に変化した「のと」は、能登(のと)国の「のと」と同じで、能登は「日本海に突き出た頭のような形の場所」の意です。
四万十川の地図をよくご覧ください。この川は、高知県高岡郡東津野村の不入山(いらずやま。1、336メートル)の東斜面に源流を発し、曲流に曲流を重ねて流れますが、とくに高岡郡窪川町から幡多郡大正町に入りますと、川は海に注ぐのを嫌がるように海に背を向けて内陸部に向かい、堂ケ森(857メートル)を最高峰とする山塊をぐるっと回って再び海に向きを変え、曲流しながら中村市で土佐湾に注ぐのです。これがこの川の最大の地理形的特徴で、しかもこの堂ケ森山塊(浅学で、正しい名称を知りません。とりあえずこう呼びます)の周囲は、四万十川の全域がそうなのですが、曲がりくねった、志摩の湾にも似た、リアス式海岸のようなといっても過言でないような地形であることを、皆さんは直ちに発見するでしょう。この堂ケ森山塊が「しま・のと、農耕用の掘り棒で掘ったような地形をその周囲に持っている、頭のような地形の場所」で、ここを巡って流れるから「しまんと」川なのです。
話は元に戻りますが、この「垣根で囲む」の「アソ、ASO」は、ハワイ語ではS音がH音に変化して「アホ、AHO(line,cord)、線、紐、縄」となって残っています。これは日本語の勢力範囲を示す「縄張り」や、城郭、庭園、屋敷の建設にあたっての「縄張り」の「縄」と意味が共通しています。
これまでにみたように、原ポリネシア語の「アソ」が阿蘇山、阿蘇海、安蘇郡ではそのまま「アソ」に、そして浅茅湾では「アソーまたはアソウ」に変化し、安戸池やつぎの安曇川(あどがわ)ではS音がT音に変化して「アト」となった後濁音化して「アド」と変化しています。日本語でも例えば「○○さん」が幼児語では「○○ちゃん」となりますし、江戸っ子は「真っ直ぐ(まっすぐ)」を「まっつぐ」と発音するように、S音が容易にT音に変化しますし、またその逆の変化がおこる例がたくさんあるのです。
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島根県に属し、日本海にある島嶼群で、隠岐諸島といい、かつては古代の山陰道八か国の一つの隠岐国でした。イザナギノミコト、イザナミノミコトが『古事記』では三番目に「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」を、『日本書紀』では四番目に「億岐之州(おきのしま)」と「佐渡州(さどのしま)」の双子(一書では五番目に「億岐之三子州(おきのみつごのしま)」)を生んだとされています。古代から流刑地とされ、小野篁、後鳥羽上皇、後醍醐天皇らが配流されました。
隠岐は、島後水道を境に東の円形の島を島後(どうご)、西の一かたまりになった知夫利(ちぶり)島、中ノ島、西ノ島を島前(どうぜん)と呼んでおり、ほかに約180の小島があります。「隠伎之三子島」は、島前を二つの島と考えていたのでしょうか。
この語源としては「海のオク(奥)にある」(吉田東伍『大日本地名辞書』)や、「沖の島」が転じたという説がもっぱらですが、うなづけません。「奥」や「沖」の島であれば、佐渡も、対馬も、壱岐も「オキ」と呼ばれてもよいはずです。
この「オキ」をハワイ語の辞書で引いてみますと(なぜマオリ語ではないのかは後で説明します)、
「オキ」、OKI((PPN)Koti=(H)oki(to cut,to cut in two,divide,separate))、「(二つに)切り離す」
と解釈できます。
つまり、隠岐とは、その最大の地理的特徴である「島前、島後の二つに切り離されている島々」という意味だったのです。標準語では通常「沖」とは「岸から遠く離れたところ」(岩波書店『広辞苑』第三版)を指しますが、その「沖」にある島の意味ではないのです。
ただし、この日本語の「沖」も「隠岐」と同じ原ポリネシア語源であると私は考えています。「岸から遠く離れたところ」の「離れている」というのが、そもそもの元の意味です。
日本最大の国語辞典である小学館『日本国語大辞典』は、さすがに内容が充実しています。同書には、「沖、澳」とは「[名]同じ平面で、遠く離れたほうをいう。(1)特に水面について、海、湖、川などのばあい、陸地から遠いほう。その中央部。・・・(2)田畑の人里から遠く開けたところ。沖通り。・・・(5)おく。・和訓栞「信濃の山中には今も奥といふ事をおきといへり」[方言](1)奥。(以下方言が使われている地方名を省略)(2)沢の上流。(3)山向こうの平野地帯。(4)田畑の広い所。(5)田原の中央のほう。(6)山寄りに対して川、または海に面する低いほう。(7)田。野良。作業場。(8)海。(9)家の後方に対して前方。・・・」などとあります。ただ、惜しいことには「二つに切り離す」という意味が明確には意識されていないために、「隠岐」の本当の意味が隠されてしまっています。
しかし、日本語の複合語の中には「切り離された」という元の意味を残す言葉があります。それは江戸時代の「沖船頭(おきせんどう)」という言葉です。これは森鴎外の『最後の一句』という短編にもでてきますが、「居船頭(ゐせんどう)」、または「直乗(じかのり)船頭」とも呼ばれる、自分の持ち船に乗り込んで運航する船頭に対比して、自分の持ち船ではなく(自分の持ち船が沈んでしまったなどの理由で)、雇われて他人の持ち船に乗り込んで運航する責任者の船頭を「沖船頭」と呼びます。この沖船頭の沖は「海の沖」ではありません。「海の沖」だけ操船するわけではないのです。この「沖」は、自分の船から「切り離された」船頭という元の意味で使われている、と解釈してはじめて合理的に理解することができるのです。
もともとこのハワイ語の「オキ、OKI」の語源は、原ポリネシア語の「コチ、KOTI」で、語頭のK音が省略され、次のT音がK音に変化したものです(マオリ語にはT音が残っていますが、ハワイ語ではT音がなくなり、K音に吸収されています)。なお、マオリ語にはこの原ポリネシア語の「コチ、KOTI(to cut,to cut in two,divide,separate;bloom)、切り離す、花が咲く」という単語がそのまま残っています。
ちなみに、マオリ語の辞書に「オキ、OKI」の単語がないのは当然です(原ポリネシア語の「コチ」がそのままあります)が、「オキ」の反復語(通常強調語になります)であるハワイ語の「オキオキ、OKIOKI(cut to pieces)、細かく切る」と同じ単語がマオリ語にあります。マオリ語ではやや意味が異なり、「オキオキ、OKIOKI(rest,pause)、休息する」で、この意味は、居住地から「遠く遠く離れる」結果、「休息する」という意味になったものと考えられますが、マオリ語の中にハワイ語と同じ変化をしたものが混入していることはいささか不思議です。
隠岐に現在ハワイ語にしか残っていない「オキ」という言葉が使われているのは、原ポリネシア語を話す民族はおそらく何百年か何千年にもわたって何波にも別れて日本列島へ渡来したものと考えられますから、その中には「コチ」が「オキ」と言葉が変化してしまった部族や、「コチ」と「オキ」が過渡的に併存していた部族がいたせいかもしれませんし、渡来後に言葉が「オキ」と変化した部族がいたせいかもしれません。これと同じことが、マオリ族の中でも起きていたため、マオリ語の中にハワイ語が混入したのかも知れません。
中島洋氏(前掲『大和朝廷の水軍』の筆者)によりますと、ハワイで布教活動を行っていた宣教師が集合して、始めてハワイ語の辞書を編纂したとき、ハワイ諸島の中の一部の島には依然してT音を残していた部族が存在していたが、それを無視して、すべてK音に統一して編纂したといいますから、何千年の昔から、古いT音やS音などを残した部族と、T音やS音などを失ってしまつた部族が同時期に併存することがずっとあった、あるいは、いわば小さな方言として同じ部族の中のグループにも存在していたのかも知れません。
ついでに、この原ポリネシア語の「コチコチ」は、マオリ語でもそのまま「コチコチ、KOTIKOTI(cut to pieces,devide,barrier)、細かく切る、分離する、障壁(をつくる)」という意味になりますが、これが日本語の「(人が緊張して)こちこちに固くなる」の「こちこち」(障壁をつくって外界と隔絶する)の語源になり、また、この原ポリネシア語の「コチコチ」のK音が省略されると、「オチオチ」になりますが、これが日本語の「おちおち休めない」の「おちおち」(ゆっくり休息する)になった可能性が高いと思われます。各論編で説明しますが、ポリネシア語の特徴である反復語で日本語の語源になっているものが極めて多いのです。
なお、この「コチ」が日本語の語源となったものがいくつかあります。
その一つは「御輿(みこし)」で、これは「メア・コチ、MEA-KOTI(mea=thing;koti=separate)、(神が通常居る所を)離れて巡行するための(乗り)物」が転訛したと解されます。
また、マオリ語の「コチ」には、「bloom、花が咲く」という別の意味もあるのですが、これが菅原道真公の「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」という歌の「東風(こち)」になったものと思われます。「こち」とは、寒い冬の北風が止んだ後に、春を告げる東または南東から吹く「花を咲かせる風」の意味と解します。南半球にあるニュージーランドでは、「コチウ」は「KOTIU(north wind)、北風」という意味になっています。
それから、私もまだ自信はないのですが、「越の国(こしのくに)」の「こし」もこのマオリ語の「コチ」の転訛(T音がS音に変化)であろうと考えています。ただし、その意味が「(出雲国あるいは丹波国などから)遠く離れている国」なのか、「花が咲く(花盛りの、繁栄している)国」なのかはにわかに断定できません。どちらかといえば、地理的には「遠く離れている国」ですが、越前(えちぜん)国の地域(三国湊あたり)から継体天皇が出たとされていますので、大和、山城と並ぶ美称としての「花が咲く(花盛りの、繁栄している)国」も捨てがたい解釈です。
さらに、以上の原ポリネシア語およびマオリ語の「コチ」、ハワイ語の「オキ」と語源が違いますが、原ポリネシア語には「オチ、OTI」という単語がありました。マオリ語ではそのまま「オチ、OTI(finished,completed)、終了した、完成した」、ハワイ語ではT音がK音に変化して「オキ、OKI(finished,completed)、終了した、完成した」となっています。
これが『和名抄』にみえる隠岐国隠地(をち)郡や伊豫国越智(乎知、をち)郡の「オチ」の語源で、「(道路または航路が)終わった(終点の、行き止まりの)土地」と解することができます。
この解釈を現地の地理と突き合わせてみますと、隠岐についてはピッタリです(島根県七類港から出る隠岐行きのフェリーは、島前に寄港した後、終点の隠地郡のある島後に向かいます)が、伊豫については私の知識不足のせいかどうもピンとこないのです。伊豫の「オチ」は「コチ(離れた)」のK音が省略された「オチ」で、「(国の中心部から)離れた土地」と解するほうが適切かも知れません。これも「越の国」と同様、解釈が複数可能で、断定に苦しむ例の一つです。
次の「ぼけ山古墳」は、『日本書紀』等の記事から推定した例です。
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大阪府藤井寺市から羽曳野市にかけて、日本第二の大きさを誇る伝応神天皇陵を中心として、約三十ほどの天皇陵や古墳が密集する古市古墳群と呼ばれる地域があります。
その古墳群の南縁、羽曳野丘陵の北の裾に仁賢天皇陵があり、別名を「ぼけ山」古墳と呼ばれています。
この「ぼけ」とは何でしょうか。樹木の「木瓜(ぼけ)」でもなければ、年をとっての「惚(ぼ)け」でもなさそうです。
この「ぼけ」を解釈しますと、
原ポリネシア語の「ポケ」、POKE((PPM-M)poke=(M)poke(beset in numbers,work at in crowd))が、ピジン語(およびクレオール語)の「ボケ」(P音がB音に変化した)、「大勢の人が群集して作業した(御陵)」
という意味と解釈できます。
ここに葬られている仁賢天皇は、『日本書紀』によると、その諡号のとおり「仁徳」があり「賢明」な天皇であったようです。さまざまな逸話が残されています。
そして『日本書紀』によれば、神武天皇から仁賢天皇に至るまでの歴代の天皇が崩御されてから御陵に葬られるまでの期間は、最長は反正天皇の4年10月(応神天皇は不明)で、通常で1年近くから3年ぐらい、もっとも短くて開化天皇の6ケ月です(垂仁天皇は垂仁紀によれば5ケ月ですが、景行前紀によれば10ケ月となります)。
また延喜式巻二十一諸陵寮の記事によれば、弟の顕宗天皇の御陵の規模が「兆域東西二町。南北三町」、兄の仁賢天皇の御陵の規模が「兆域東西二町。南北二町」とそう大きな差はないのに、顕宗天皇が崩御されてから御陵に葬られるまでの期間は1年半で、仁賢天皇が崩御(11年秋8月)されてから御陵に葬られる(冬10月)までの期間はわずか”2ケ月”となっています。
『日本書紀』はこの間の事情について何も語っていませんし、不審なことに『古事記』の仁賢天皇の条には陵墓記事がみえません。『日本書紀』は、歴代の天皇についてそれぞれ陵墓の記事を載せていますが、原則として極めて簡単に触れるだけです。そのなかで異例に詳しい記事は、世界一の大きさをもつ古墳である仁徳天皇陵で、天皇自身が崩御の20年前に場所を定め、寿墓(生前に造る墓)の築造を開始したと伝えています。
仮に仁賢天皇が崩御された後に、御陵の場所を選定し、築造を開始したとすれば、葬儀の準備期間を考えあわせると、実際の御陵の築造に要した期間は、わずか1ケ月そこそこであったと思われます。
私は、『古事記』や『日本書紀』の記事をすべて盲目的に信ずるものではありません。記紀の記事には、あまりにも非合理的な記事が多く含まれています。とくに継体天皇よりも前の記事には多くの年代の加上(歴史上の事実をそれがあった実際の年代よりも以前の年代にあったこととして歴史を記述すること)があることは、中国・朝鮮の史書との突き合わせ、考古学からの知見などからみて、ほぼ疑いのない事実です。また、多くの天皇がその加上のつじつま合わせのために創作、挿入された架空の天皇であるという説があること、顕宗、仁賢の両天皇にも架空説があることも、承知しています。
しかし、だからといって、顕宗、仁賢の両天皇の記事をすべて無視する気にはどうしてもなれないのです。仮に両天皇が架空であったとしても、記紀の編集者が全くの無から記事を創作したとはとても考えられません。天皇家の周辺に、これらの記事を構成するもととなった天皇家またはそれに連なる豪族の首長等にまつわる一連の伝承があり、これを材料として記紀が書かれたに違いないと私は考えます。
そうしますと、その記事の中には、天皇ではなく、他の首長等の事績であるとしても、当時の社会や思想、風俗の実体を反映した真実もまた数多く含まれていると考えたほうがよさそうです。天皇家の血統関係や、政争の事実などの記事については、編集者の政治的な意図や恣意による史実の改竄や、粉飾を場合に応じて疑ってかかる必要がありますが、そのようなこととは関係のない何気ない記事の端々や、人名、地名の記述のなかには、数多くの真実が含まれている可能性が大きいと私は思います。
そこで話を元に戻しますと、「ぼけ山」古墳の名は、仁賢天皇が崩御された後、その仁徳を慕って、「大勢の人が葬儀に集まった」ことはもちろんですが、やはり「大勢の人が群集して御陵を築造した」ことが古墳名として伝承に残ったものと私は考えます。
これが事実であったとしたら、「地名の中には、失われた歴史、記録されなかった歴史や事実が隠されている」ことを証明するものの一例と言うことができるでしょう。
この「ぼけ山」古墳だけでなく、伝仁徳天皇陵の「百舌鳥野耳原(もずのみみはら)陵」、ヤマトトトビモモソヒメの「箸(はし)墓古墳」をはじめ、「キトラ古墳」、「○○山古墳」といった古墳名、とくに通称名の中には、ポリネシア語で解釈できるものが多数あります。例えば「百舌鳥野耳」とは「川筋が変わって切れ切れに残された川(沼)」の意ですし、「箸墓」の「はし」は、食事に使う箸ではなく、ポリネシア語で「槍」または「ナイフ」の意です。このほかにもこれまでの日本史の常識、定説を覆す内容がたくさん出てきます。いずれ各論篇(地名または古典)の中で解説しますので、ご期待ください。
ちなみに『日本書紀』によると、兄の仁賢天皇は「億計王(おけのみこ)」、弟の顕宗天皇(この諡号は「兄弟の血統出自を顕らかにした天皇」の意でしょう)は「弘計王(をけのみこ)」といいます。(『古事記』では、兄は「意祁命(おけのみこと)」、弟は「袁祁命(をけのみこと)」となっています。)この名について『日本書紀』岩波書店日本古典文学大系本の注釈は、「弘(ヲ)は小、億(オ)は大の義であろう。計が何を指すかは明らかではないが、オ・ヲは、大・小を以て兄弟を表わすものであろう。」としています。
この名もマオリ語で明確に解釈できます。
弟、弘計(をけ)王は、
原ポリネシア語の「ワウ・カイ」、WAU-KAI((PPN-M)wau=(M)wau(quarrel,discuss);(PPN-M)kai=(M)kai(fulfil its proper function,have full play))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「ヲ・ケ」(「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」と、「カイ」のAI音がE音に変化して「ケ」となった)、「議論好きで・(何事にも)全力で事に当たつた(尊)」し、
兄、億計(おけ)王は、
原ポリネシア語の「アウ・カイ」、AU-KAI((PPN-M)au=(M)au(firm,intense);(PPN-M)kai=(M)kai(fulfil its proper function,have full play))が、
ピジン語(およびクレオール語)の「オ・ケ」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」と、「カイ」のAI音がE音に変化して「ケ」となった)、「着実に・(何事にも)全力で事に当たつた(尊)」
と解釈できます。
『古事記』、『日本書紀』は皆さんよくご承知と思いますので、その記事をここで引用するのは避けますが、これらの記事にみるとおり、兄弟の性格、事績を正確にピッタリと表現した名前です。
正に神話や伝説上の「名は体を表している」のです。
このほかにも『古事記』、『日本書紀』にでてくる神名、天皇名や人名で重要な名は、「名は体を表す」ものとして、殆どの場合は、その神等の性格または治績を端的に表現した名前となっています。重要でない名の場合には、出身地の地名を冠した名となっている場合が多数です。そしてこれらの日本語で意味の分からないものの多くが原ポリネシア語で続々と解釈できるのです。
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ポリネシア語による解読は、いかがだったでしょうか。「なるほど」、「実に面白い」と思っていただけたでしょうか。
それとも「ウソに決まってる。語源俗解の最たるものだ」とか、
「どうも信じられない、あまりにも音が合いすぎる、眉唾ではないか。デッチアゲではないか」とか、
「マオリ語なんて聞いたこともないが、本当にそんな言語が地球上にあるのかね」とか、
「どうもS音やT音などの子音がそんなに変化するなんて納得できない」とか、 「あの南洋の腰蓑一つで踊っている真っ黒な土人(『冒険ダン吉』的連想)の祖先が日本人の祖先と同じだなんて、そんな話は聞きたくない、絶対に信じたくもない」とか、
「私の好きなあの『万葉集』のきれいな言葉が南洋の土人の言葉かも知れないなんて、ひどすぎる。ああいやだ、いやだ」などと
いわれる方も大勢おられるのではないでしょうか。(「南洋の土人」という表現は、差別的な認識の下に、差別を助長する意図で使用しているわけではけっしてなく、むしろその逆に理解を深めるための一つの歴史上の事実としての出版物の表現をそのまま借りただけの表現ですので念のため。)
疑問をもたれた方には、先入観念を捨てて、冷静になつて、とりあえずお手元の百科事典を引くことをおすすめします。「ポリネシア」、「ポリネシア族」、「ポリネシア語」、「オーストロネシア語」、「マオリ族」、「マオリ語」あたりをじっくり読んでいただくと、「これは案外本当かも知れない、さらに勉強してみる価値がありそうだ」と思っていただけるのではないでしょうか。
また、興味がおありの方は、マオリ神話またはポリネシア神話をまずお読みになることをお勧めします。これらの神話と『古事記』、『日本書紀』の日本神話との間の類似性については、かねてから神話学者が指摘しているところです。神話そのものとしても、その雄大さと奔放さ、多彩なことは、世界の他の神話をはるかに凌ぐものがあると思います。
「日本とは何か」、「日本人とは何か」、「日本人はどこからやってきたのか」、「日本語とは何か」といった疑問を解こうとして、私はいつのまにかこのポリネシア語にのめりこんでしまいました。私は、本当の学問、科学とは、既存の学説や既成の権威を盲目的に信じるのではなく、まずすべてを疑い、自分の頭脳で考え、仮説を立て、事実を積み重ね、感情ではなく合理性のみをもって判断し、仮説を検証することにあると思っています。この観点から、できるだけ広く、この問題に関連する言語学、人類学、考古学、民族学(民俗学)、歴史学などを勉強する必要があると思います(なかなか自分では思うようにできませんが)。
次回の平成10年11月1日オープンの入門篇(その一)では、問題解決の方法を明らかにするために、まず基礎となるポリネシア語、とくにマオリ語の特徴と簡単な文法、子音の変化と、それを前提とした解読法、解読の実例などをくわしく解説したいと思います。ご期待ください。
なお、入門篇は、次のような構成になる予定です。また、HPの更新は原則として毎月1日に行う予定です。
入門篇(その一)(平成10年11月1日オープン予定)
1 マオリ語の特徴
2 マオリ語の文法
3 原ポリネシア語の子音がマオリ語、ハワイ語および日本語でどのように変化したか
(1) 概括
(2) 英語起源のマオリ語(借用語)にみる子音の変化
入門篇(その二)(平成10年12月1日更新予定)
(3) S音の変化とその例
(4) T音の変化とその例
(5) NG音の変化とその例
(6) P音の変化とその例
入門篇(その三)(平成11年1月1日更新予定)
3 ハワイ語に原ポリネシア語の語義が残存していると考えられるもの
4 ポリネシア語による解読にあたっての留意事項
5 各論篇の構成
(付録) 「夢間草廬(むけんのこや)」の名の由来
入門篇に引き続き、平成11年3月から各論篇を連載する予定です。
各論篇は、
A 地名篇(当面山岳名、河川名、海岸地名、歴史地名、難解地名、特殊地名、古墳名等の種類別の構成でスタートしますが、途中に適宜地域別概観の特集なども掲載したいと思います。)
B 古典篇(『古事記』、『日本書紀』、『風土記』を当面対象とします。必要に応じ、『続日本紀』ほかの六国史、『太平記』、『平家物語』などの中のポリネシア語源語彙などにも触れたいと思います。その後できれば『万葉集』にも取り組みたいと考えています。)
C 日本語篇(発見したものから順次解読します。)
D 雑楽篇(「ざつがくへん」と読んでも「ざつらくへん」と読んでいただいてもかまいません。雑多な興味にまかせてのいわゆる雑学と、自由奔放な想像、推理(?)を楽しむページです。)
の四部構成とし、A、Bをできるだけ輪番で、C、Dを随時掲載したいと思い ます。
1 平成18年10月10日
3の(3)ぼけ山古墳の項の弘計(をけ)王、億計(おけ)王の解釈を修正しました。
2 平成19年2月15日
インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<修正経緯>の新設などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。
3 平成22年12月1日
2の(7)ポリネシア語辞書の項にインターネットでひく辞書の情報を追加しました。
4 平成28年12月15日
2の(7)ポリネシア語辞書の項にインターネットでひく辞書のアドレスを修正しました。
5 令和3年10月1日
2の(0)日本の地名はポリネシア語源ではないかと疑ったキッカケの項を追加しました。
全体に必要な修正を加えて「改訂版」としました。
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U R L: http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル: 夢間草廬(むけんのこや) ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源 作 者: 井上政行(夢間) Eメール: muken@iris.dti.ne.jp ご 注 意: 本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など) このHPの内容をそのまま、または編集してファイル、電子出版または出版物として 許可なく販売することを禁じます。 Copyright(c)1998-2021 Masayuki Inoue All right reserved |