古典篇(その十三)

(平成15-8-1書込み。23-5-1最終修正)(テキスト約32頁)


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<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その七)>

ー舒明天皇から斉明天皇までー

  目 次

 

[234舒明天皇]

 

 234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇234B1岡本(をかもと)宮234B2田中(たなか)宮234B3有間温湯(ありまのゆ)宮234B4伊豫温湯(いよのゆ)宮234B5厩坂(うまやさか)宮245B6百済(くだら)宮234C1彦人大兄(ひこひとのおほえ)皇子234C2糠手(あらて)姫皇女234D1中津(なかつ)王234D2多良(たら)王234D3智奴(ちぬ)王234D4桑田(くはた)王234D5山代(やましろ)王234D6笠縫(かさぬい)王234E1寶(たから)皇女(235皇極天皇・237斉明天皇)234E2法提(ほて)郎媛234E3蚊屋(かや)采女234F1葛城(かづらき)皇子(238天智天皇)234F2間人(はしひと)皇女234F3大海(おほしあま)皇子(239天武天皇)234F4古人(ふるひと)皇子234F5蚊屋(かや)皇子234G1滑谷(なめはさま)岡陵234G2押坂(おしさか)陵234H1阿倍麻呂(まろ)臣・大伴鯨(くぢら)連・采女臣摩禮志(まれし)・高向臣宇摩(うま)・中臣連彌氣(みけ)・難波吉士身刺(むざし)・許勢臣大(おほ)麻呂・佐伯連東人(あづまひと)・紀臣鹽手(しほて)・蘇我倉(くら)麻呂(亦の名雄當(をまさ))臣234H2三国(みくに)王・櫻井臣和慈古(わじこ)・来隈(くるくま)采女黒女(くろめ)・栗下(くるもと)女王・女嬬鮪女(しびめ)・八口(やくち)采女鮪女(しびめ)234H3泊瀬仲(はつせのなかつ)王・身狭君勝牛(かつし)・錦織首赤猪(あかゐ)・阿椰(あや)・来目物部伊區比(いくひ)・毛津(けつ)234H4犬上君三田耜(みたすき)・大伴連馬養(うまかひ)・難波吉士小槻(をつき)・大河内直矢伏(やふし)・伊岐史乙等(おと)・難波吉士八牛(やつし)・吉士雄(を)摩呂・黒(くろ)摩呂234H5三輪君小鷦鷯(をさざき)234H6上毛野君形名(かたな)234H7書直縣(あがた)・大匠(おほたくみ)

 

[235皇極天皇]

 

 235A天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇235B1飛鳥板葺(あすかのいたぶき)宮235B2小墾田(をはりだ)宮235C1茅渟(ちぬ)王235C2吉備(きびつ)姫王235D軽(かる)皇子235F1漢(あや)皇子235F2葛城(かづらき)皇子から235F4大海(おほしあま)皇子まで235G小市岡上(をちのをかのうへ)陵235H1蘇我入鹿(いるか)235H2阿曇山背(やましろ)連比羅夫(ひらぶ)・草壁吉士磐金(いはかね)・倭漢書直縣(あがた)235H3津守連大海(おほあま)・国勝吉士水鶏(くひな)・草壁吉士眞跡(まと)235H4大舶(おほつむ)・母廬紀(もろき)船235H5巨勢臣徳太(とこだ)・粟田臣細目(ほそめ)・大伴連馬飼(うまかひ)・息長山田(やまだ)公235H6奴三成(みなり)・三輪文屋(ふみや)君・舎人田目(ため)連・莵田諸石(もろし)・伊勢阿倍堅経(かたぶ)・高向臣國押(くにおし)235H7中臣連鎌子(かまこ)(鎌足(かまたり))・南淵請安(しゃうあん)・蘇我倉山田(くらやまだ)麻呂・佐伯連子(こ)麻呂・葛城稚犬養連網田(あみた)235H8海犬養連勝(かつ)麻呂・潦水(にはたづみ。いさらみず)・韓人(からひと)・漢(あや)直・大郎(たいろう)・船史恵尺(ゑさか)

 

[236孝徳天皇]

 

 236A天萬豊日(あめよろづとよひ)天皇236B1難波長柄豊碕(ながらのとよさき)宮236B2子代(こしろ)行宮・蝦蟇(かはづ)行宮・小郡(をごほり)行宮・武庫(むこ)行宮・難波碕(さき)宮・味経(あぢふ)宮・大郡(おほごほり)宮・山碕(やまさき)宮236C1茅渟(ちぬ)王236C2吉備(きびつ)姫王236D寶(たから)皇女236E1間人(はしひと)皇女236E2小足(をたらし)媛236E3乳(ち)郎女236F有間(ありま)皇子236G大坂磯長(おほさかのしなが)陵236H1大伴長徳(ながとこ)連馬飼(うまかひ)・犬上健部(たけべ)君・阿倍内(うち)麻呂(倉梯(くらはし)麻呂)・蘇我山田石川(やまだのいしかは)麻呂236H2百済大使佐平縁福(えんふく)・三輪栗隈君東人(あづまひと)・馬飼(うまかひ)造・倭漢直比羅夫(ひらぶ)・忌部首子(こ)麻呂236H3沙門狛(こま)大法師・恵妙(ゑめう)法師・来目(くめ)臣・三輪色部(しこぶ)君・額田部連甥(をひ)236H4蘇我田口臣川掘(かはほり)・物部朴井(えのゐ)連椎子(しひのみ)・吉備笠臣垂(しだる)・倭漢文直(あたひ)麻呂・朴市(えち)秦造田来津(たくつ)・菟田朴室古(ふる)・高麗宮知(みやしり)・阿倍渠曽倍(こそへ)臣・佐伯部子(こ)麻呂・吉野(よしの)大兄王236H5穂積臣咋(くひ)・富制(ふせ)臣・巨勢臣紫檀(したの)・巨勢徳禰(とこね)臣・朴井(えのゐ)連・押坂(おしさか)連・台直須彌(すみ)・紀麻利耆它(まりきた)臣・三輪君大口(おほくち)・河辺臣百依(ももより)・河辺臣磯泊(しはつ)236H6塩屋制魚(しほやのこのしろ)・神社福草(かむこそのさきくさ)・朝倉(あさくら)君・椀子(まろこ)連・三河大伴直・蘆尾(すすきを)直236H7高向博士(はかせ)黒(くろ)麻呂(亦の名玄理(ぐゑんり))236H8倭漢直荒田井比羅夫(あらたゐのひらぶ)236H9蘇我臣日向(ひむか)(身刺(むさし))・大伴狛(こま)連・三国麻呂(まろ)公・法師(ほふし)・赤猪(あかゐ)(秦(はだ))・興志(こごし)・土師連身(む)・采女臣使主(おみ)麻呂・田口臣筑紫(つくし)・物部二田(ふった)造塩(しほ)・耳梨道徳(だうとこ)・高田醜雄(しこを)・秦吾寺(あてら)・蘇我造(みやつこ)媛・堅塩(きたし)・野中川原史満(みつ)236H10掃部連角(つの)麻呂236H11草壁連醜経(しこぶ)・道登(だうとう)法師・僧旻(そうみん)法師・粟田臣飯虫(いひむし)・猪名君高見(たかみ)・三輪君甕穂(みかほ)・紀臣乎麻呂岐太(きだ)・倉臣小屎(をくそ)236H12漢山口直大口(おほくち)・倭漢直縣(あがた)・白髪部連鐙(あぶみ)・難波吉士胡座(あぐら)236H13法師恵隠(ゑおん)・恵資(ゑし)236H14吉士長丹(ながに)・吉士駒(こま)(絲(いと))・室原首御田(みた)・高田首根(ね)麻呂(八掬脛(やつかはぎ))・掃守連小(を)麻呂・土師連八手(やつて)236H15狛竪部子(こ)麻呂・鮒戸(ふなと)直236H16曲(くま)・門部金(かどべのかね)236H17高向史玄理(ぐゑんり)・河辺臣麻呂(まろ)・薬師恵日(ゑにち)・書直(あたひ)麻呂・宮首阿彌陀(あみだ)・岡君宜(よろし)・置始連大伯(おほく)・中臣間人連老(おゆ)・田辺史鳥(とり)236H18百舌鳥土師連土徳(つちとこ)

 

[237斉明天皇]

 

 237A天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇237B1飛鳥板葺(いたぶき)宮237B2飛鳥川原(かわら)宮237B3後(のちの)飛鳥岡本(をかもと)宮237B4両槻(ふたつき)宮(天(あまつ)宮)・狂心(たぶれこころ)の渠237B5吉野(よしの)宮・難波(なにわ)宮・石湯(いはゆ)行宮・磐瀬(いはせ)行宮(長津(ながつ)宮)・朝倉橘廣庭(あさくらのたちばなのひろには)宮237C1茅渟(ちぬ)王237C2吉備(きびつ)姫王237D軽(かる)皇子237F1漢(あや)皇子から237F4大海(おほしあま)皇子まで237G小市岡上(をちのをかのうへ)陵237H1膳臣葉積(はつみ)・坂合部連磐鋤(いはすき)・犬上君白(しろ)麻呂・大蔵衣縫造(みやつこ)麻呂237H2佐伯連栲縄(たくなは)・難波吉士國勝(くにかつ)237H3沙門智達(ちだち)・間人連御厩(みうまや)・依網連稚子(わくご)・阿曇連頬垂(つらたり)・津臣區僂(くつま)237H4恩荷(おんが)237H5建(たける)王・秦大蔵造萬里(まろ)237H6沙尼具那(さにぐな)・宇婆佐(うばさ)・馬武(めむ)・青蒜(あをひる)・大伴君稲積(いなつみ)/237H7沙門智通(ちつ)・智達(ちだち)237H8蘇我赤兄(あかえ)臣・物部朴井連鮪(しび)・守君大石(おほいは)・坂合部連薬(くすり)・塩屋連制魚(このしろ)・新田部米(こめ)麻呂・丹比小澤連國襲(くにそ)237H9坂合部連石布(いはしき)・津守連吉祥(きさ)・伊吉(いき)連博徳(はかとこ)・東漢長直阿利麻(ありま)・坂合部連稲積(いなつみ)237H10乾豆波斯達阿(げんづはしだちあ)237H11童謡「まひらくつ」の歌

 

<修正経緯>

 

 

<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その七)>

  ー舒明天皇から斉明天皇までー

 

 [ここでは神武天皇の部を201とし、その中で和風諡号は201A(別名または幼名は201A2~)、宮都は201B、父母は201C1~2、兄弟姉妹は201D1~、后妃は201E1~、皇子は201F1~、陵は201G、治世中特筆すべき人名等は201H1~として整理番号を付し、以下同様に<その一>では201神武天皇から209開化天皇まで、<その二>では210崇神天皇・211垂仁天皇を、<その三>では212景行天皇から219允恭天皇まで、<その四>では220安康天皇から225武烈天皇まで、<その五>では226継体天皇から229欽明天皇まで、<その六>では230敏達天皇から233推古天皇まで、<その七>では234舒明天皇から237斉明天皇まで、<その八>以降では238天智天皇から250桓武天皇までを順次解説する予定です。

 表記は原則として『古事記』、『日本書紀』(242文武天皇から250桓武天皇までは『続日本紀』)すべて岩波日本古典文学大系本によります。本文中001〜199の神名は、古典篇(その五)<『古事記』の神名>により、名義は主として岩波日本古典文学大系本の注および『古事記』(新潮日本古典集成、校注西宮一民、昭和54年)の付録「神名の釈義」によります。

 ポリネシア語による解釈は、原則としてマオリ語により、ハワイ語による場合は注記を付します。]

 

 

[234舒明天皇]

 

234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇

 舒明即位前紀は230敏達天皇の子の230F1押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおほえ)皇子と230F9糠手(あらて)姫皇女(亦の名田村(たむら)皇女)の子の233H23田村(たむら)皇子とします。皇極紀2年9月条分注の或本は「廣額天皇を高市(たけち)天皇と為す」とし、『延喜式』は「高市岡本宮御宇舒明天皇」とします。

 敏達記は、忍坂の日子人(ひこひと)太子とその庶妹の田村王(亦の名糠代(ぬかで)比売命)の第1子の岡本宮に坐して天の下治しめしし天皇とします。

 推古天皇が聖徳太子の薨去後皇太子を立てず、臨終の際の遺言も趣旨が不明確であったため、次の天皇を田村(たむら)皇子とするか、231F1厩戸皇子と蘇我馬子の女の刀自古(とじこ)郎女の子の233H22山背(やましろ)大兄王とするかを巡って紛糾しましたが、遂に蘇我蝦夷によって山背大兄王を推していた有力者境部摩理勢が抹殺され、田村皇子が234舒明天皇に即位します。

 天皇の治世中に最初の遣唐使が派遣されたほかは、特筆すべき治績はありません。

 この「おきながたらしひひろぬか」、「たむら」、「たけち」は、

  「オキ・ナ・(ン)ガ・タラ・チヒ・ヒラウ・ヌカ」、OKI-NA-NGA-TARA-TIHI-HIRAU-NUKA((Hawaii)oki=divide,separate;na=belonging to;nga=satisfied,breathe;tara=point,peak,courage;tihi=summit,top,lie in a heap;hirau=entangle,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught;nuka=deceive,dupe,device,stratagem)、「(先帝の血統と離れた)傍系の・(境遇に満足して)悠々として・いた・最高に・抜きん出ていた(人物で)・策略をもって・(他の皇位継承候補者を)引きずり下ろした(自分が皇位に就いた。天皇)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」と、「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」と、「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

  「タ・ムラ」、TA-MURA(ta=the...of,dash,beat,lay;mura=blaze,flame)、「輝いて・いる(皇子)」

  「タカイ・チ」、TAKAI-TI(takai=wrap up,wrap round,wind round;ti=throw,cast,overcome)、「(境部摩理勢の死によって)風向きが変わって・(天皇の座に)就けられた(天皇)」または「(蘇我蝦夷によって)手足を縛られて(行動の自由を奪われて)・(天皇の座に)就けられた(天皇)」(「タカイ」のAI音がE音に変化して「タケ」となった)

の転訛と解します。

 

234B1岡本(をかもと)宮

 舒明紀2年10月条は、飛鳥岡の傍らの岡本(をかもと)宮(『延喜式』は「高市岡本宮御宇舒明天皇」とし、奈良県高市郡明日香村の岡寺付近と解する説と雷丘付近(後飛鳥岡本宮付近)と解する説があります。)に遷ったとあります。

 この「をかもと」は、

  「アウカハ・モト」、AUKAHA-MOTO(aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe;moto=strike with the fist)、「(塁壁を巡らした)岡の・拳骨で殴ったような(崩れている)場所(そこの宮)」(「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

の転訛と解します。

 

234B2田中(たなか)宮

 舒明紀8年6月条は、岡本宮が火災に遭ったので、田中(たなか)宮(現奈良県橿原市田中町)に遷ったとします。

 この「たなか」は、

  「タ・ナカ」、TA-NAKA(ta=the...of,dash,beat,lay;(Hawaii)naka=to crack open)、「(岡本宮と百済宮の間を分けている)中に・位置している(宮)」

の転訛と解します。

 

234B3有間温湯(ありまのゆ)宮

 舒明紀10年10月条は、有間温湯(ありまのゆ)宮(兵庫県有馬温泉)に行幸したとし、翌年正月に還幸されています。(「有間(ありま)」については、地名篇(その四)の兵庫県の(9)有馬温泉の項を参照してください。)

 

234B4伊豫温湯(いよのゆ)宮

 舒明紀11年12月条は、伊豫温湯(いよのゆ)宮(愛媛県松山市道後温泉)に行幸したとします。(「伊豫(いよ)」については、地名篇(その十四)の愛媛県の(10)温泉郡のb道後温泉の項を参照してください。)

 

234B5厩坂(うまやさか)宮

 舒明紀12年4月条は、伊豫温湯(いよのゆ)宮から還幸されて厩坂(うまやさか)宮(現奈良県橿原市大軽町付近とされます。)に入ったとします。

 この「うまやさか」は、

  「ウ・マイア・タカ」、U-MAIA-TAKA(u=breast of a female,be firm,be fixed,place of arrival;maia=brave,bold,bravery;taka=fall off,fall away)、「乳房のような丘から・急に・落ち込んだ場所(そこの宮)」

の転訛と解します。

 

245B6百済(くだら)宮

 舒明紀11年7月条は、「大宮および大寺」を造ることとするとの詔があり、百済川(曽我川)の側(ほとり)の地が選ばれ、西国(遠江以西、安芸以東)の民が動員されて宮を造ったとされ、同12年10月条は、造営された百済(くだら)宮に遷ったとします。

 この「くだら」は、

  「クフ・タラ」、KUHU-TARA(kuhu=thrust in,insert,conceal;tara=point,peak of mountain,horn of the moon,courage)、「(御所市から五條市へ抜ける)三日月の尖角のような谷に・(その上流が)入ってゆく(川。百済川。そのほとりに造営された宮)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

の転訛と解します。

 

234C1彦人大兄(ひこひとのおほえ)皇子

 父は230F1押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおほえ)皇子の項を参照してください。

 

234C2糠手(あらて)姫皇女

 母は230F9糠手(あらて)姫皇女(亦の名田村(たむら)皇女)の項を参照してください。

 

234D1中津(なかつ)王

 敏達記は、弟を230F1忍坂日子人太子とその庶妹の230F9田村王(亦の名糠代比売命)の第2子の中津(なかつ)王とします。

 この「なかつ」は、

  「ナカ・ツ」、NAKA-TU((Hawaii)naka=to crack open;tu=stand,settle)、「(長子と末子の間を分けている)中に・位置している(王)」

の転訛と解します。

 

234D2多良(たら)王

 敏達記は、弟を230F1忍坂日子人太子とその庶妹の230F9田村王(亦の名糠代比売命)の第3子の多良(たら)王とします。

 この「たら」は、

  「タラ」、TARA(point,peak of mountain,horn of the moon,courage)、「(山の頂のように)抜きん出ている(王)」または「勇気のある(王)」

の転訛と解します。

 

234D3智奴(ちぬ)王

 敏達記は、弟を230A忍坂日子人太子と漢(あや)王の妹の大俣(おほまた)王の第1子の智奴(ちぬ)王とします。

 紀は、茅渟(ちぬ)王(記は智奴(ちぬ)王)と吉備(きびつ)姫王の子の234E1寶(たから)皇女が234A舒明天皇の皇后となり、後に235皇極天皇、さらに重祚して237斉明天皇となったとします。

 『延喜式』は茅渟皇子の墓を「片岡葦田(かたおかのあしだ)墓、在大和国葛下郡」とします。

 この「ちぬ」、「あや」、「おほまた」、「かたをかのあしだ」は、

  「チヒ・ヌイ」、TIHI-NUI(tihi=summit,top,lie in a heap;nui=large,many)、「抜きん出ていた・偉大な(王)」

  「アイア」、AIA(=kaitoa=brave man,warrior,expressing satisfaction or complacency at any event,it is good,it serves one right etc.)、「勇気ある(王)」

  「オホ・マタ」、OHO-MATA(oho=spring up,wake up,arise;mata=face,eye,edge)、「すっくと立っている・眼の大きい(王)」

  「カタ・アウカハ・ノ・ア・チタハ」、KATA-AUKAHA-NO-A-TITAHA(kata=opening shellfish,laugh;aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe;no=of;a=the...of,belonging to;titaha=lean to one side,pass on one side,crooked)、「(片側が)口を開けている・(塁壁を巡らしたような)岡・の・片方に傾斜して・いる(墓)」(「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」と、「チタハ」のH音が脱落して「チタ」から「シダ」なった)

の転訛と解します。

 

234D4桑田(くはた)王

 敏達記は、妹を230A忍坂日子人太子と漢王の妹の大俣(おほまた)王の第2子の桑田(くはた)王とします。

 この「くはた」は、

  「クワタ」、KUWATA(long for,yearn,love,desire)、「(何かを)心に決めていた(皇女)」の転訛と解します。

 (「くはた」については古典篇(その八)の216H4桑田玖賀(くはたのくが)媛の項を参照してください。)

 

234D5山代(やましろ)王

 敏達記は、弟を230A忍坂日子人太子とその庶妹230F17櫻井玄(さくらゐのゆみはり)王の第1子の山代(やましろ)王とします。

 この「やましろ」は、

  「イア・マチ・イロ」、IA-MATI-IRO(ia=indeed,current;mati=surfeited;iro=maggot,vermin)、「実に・虫(苦虫)を・飽食した(噛み潰したような、難しい顔をした。王)」(「マチ」の語尾のI音と「イロ」の語頭のI音が連結して「マチロ」から「マシロ」となった)

の転訛と解します。

 

234D6笠縫(かさぬい)王

 敏達記は、弟を230A忍坂日子人太子とその庶妹230F17櫻井玄(さくらゐのゆみはり)王の第2子の笠縫(かさぬい)王とします。

 この「かさぬい」は、

  「カタ・ヌイ」、KATA-NUI(kata=opening of shellfish,laugh;nui=large,many)、「良く・笑う(王)」

の転訛と解します。

 

234E1寶(たから)皇女(235皇極天皇・237斉明天皇)

 紀は、皇后を234D3茅渟(ちぬ)王(記は智奴(ちぬ)王)と吉備(きびつ)姫王(『紹運録』は229欽明天皇の孫、櫻井皇子の女とし、皇極紀2年9月条は吉備嶋皇祖母命とします。)の子の寶(たから)皇女とし、234F1葛城(かづらき)皇子(238天智天皇)、234F2間人(はしひと)皇女および234F3大海(おほしあま)皇子(239天武天皇)の3人を生んだとします。 

 皇女は、後に235皇極天皇、さらに重祚して237斉明天皇となります。

 この「たから」は、

  「タカ・アラ」、TAKA-ARA(taka=heap,lie in a heap,turn on a pivot,revolve;ara=rise,rise up,raise)、「(戻って来て)重ねて・高い地位(天皇位)に就いた(皇女)」

の転訛と解します。

 

234E2法提(ほて)郎媛

 紀は蘇我の233H20嶋大臣(230H1蘇我馬子宿禰)の女、法提(ほて)郎媛が夫人となって234F4古人(ふるひと)皇子(亦の名大兄(おほえ)皇子)を生んだとします。

 この「ほて」は、

  「ホテ」、HOTE(chatter,jabber)、「おしゃべりな(媛)」

の転訛と解します。

 

234E3蚊屋(かや)采女

 紀は吉備国の蚊屋(かや)采女を娶って234F5蚊屋(かや)皇子を生んだとします。 この「かや」は、

  「カ・イア」、KA-IA(ka=take fire,be lighted,burn;ia=indeed,current)、「実に・(赤々と燃えている)光り輝くような(美しい。采女)」

の転訛と解します。

 

234F1葛城(かづらき)皇子(238天智天皇)

 紀は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇と234E1寶(たから)皇女の第1子の葛城(かづらき)皇子とします。

 舒明紀13年10月条は東宮開別(ひらかすわけ)皇子が父帝の葬儀において16歳で弔辞を述べたとし、皇極紀3年正月条以降中大兄(なかのおほえ)皇子と通称します。

 皇子は後に238天智天皇となります。

 この「かづらき」、「ひらかすわけ」、「なかのおほえ」は、

  「カツア・ラ(ン)ギ」、KATUA-RANGI(katua=adult,stockade or main fence of a fort,main portion of anything;rangi=sky,heaven,weather,tenor of a speech,chief,heart)、「堂々と演説する(音吐朗々と弔辞を述べた)・中核(的存在・人物)である(皇子)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」と、「ラ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ラギ」となった)

  「ヒラ・カツア・ワキ」、HIRA-KATUA-WHAKI(hira=numerous,great,important,widespread;katua=adult,stockade or main fence of a fort,main portion of anything;whaki=reveal,disclose,confess)、「(音吐朗々と弔辞を述べることによって)偉大な・中核(的存在・人物)であることを・明らかにした(皇子)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」から「カス」となった)

  「ナカ・ノ・オホ・ヘイ」、NAKA-NO-OHO-HEI((Hawaii)naka=to crack open;no=of;oho=spring up,wake up,arise;hei=go towards,turn towards,be requited)、「(舒明天皇・皇極天皇とその次の天皇との間を)分けて(中に)・いる・(兄弟の先頭に立って)進んで・行く(皇子)」

の転訛と解します。

 

234F2間人(はしひと)皇女

 紀は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇と234E1寶(たから)皇女の第2子の間人(はしひと)皇女とします。

 この「はしひと」は、

  「パチ・ピト」、PATI-PITO(pati=try to obtain by coaxing,flattery;pito=end,extremity,at first)、「最初は(または最高に)・チヤホヤされた(皇女)」(「パチ・ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ・ヒト」から「ハシ・ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

234F3大海(おほしあま)皇子(239天武天皇)

 紀は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇と234E1寶(たから)皇女の第3子の大海(おほしあま)皇子(天武天皇即位前紀は大海人(おほしあま。おほあま)皇子)とします。

 皇子は後に239天武天皇となります。

 この「おほしあま」、「おほあま」は、

  「オホ・チ・ア・マハ」、OHO-TI-A-MAHA(oho=spring up,wake up,arise;ti=throw,cast,overcome;a=the...of,belonging to;maha,mahamaha=liver,seat of affection)、「すっくと立ち・はだかっている・肝がすわって・いる(皇子)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「オホ・ア・マハ」、OHO-A-MAHA(oho=spring up,wake up,arise;a=the...of,belonging to;maha,mahamaha=liver,seat of affection)、「すっくと立っている・肝がすわって・いる(皇子)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

 

234F4古人(ふるひと)皇子

 紀は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇と234E2法提(ほて)郎媛の子の234F4古人(ふるひと)皇子(亦の名大兄(おほえ)皇子)とします。

 この「ふるひと」、「おほえ」は、

  「フル・ピト」、HURU-PITO(huru=glow,so rise the sun,contract,(coarse)hair;pito=end,extremity,offering to the god,at first)、「最初は(または最高に)・輝いていた(皇子)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「オホ・ヘイ」、OHO-HEI(oho=spring up,wake up,arise;hei=go towards,turn towards,be requited)、「(兄弟の先頭に立って)進んで・行く(皇子)」

の転訛と解します。

 

234F5蚊屋(かや)皇子

 紀は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇と234E3蚊屋(かや)采女の子の蚊屋(かや)皇子とします。

 「蚊屋(かや)」については、234E3蚊屋(かや)采女の項を参照してください。

 

234G1滑谷(なめはさま)岡陵

 皇極紀元年12月条は、天皇をいったん滑谷(なめはさま)岡(現奈良県高市郡明日香村冬野とそれます。)に葬つたとします。

 この「なめはさま」は、

  「ナ・メハ・タマ」、NA-MEHA-TAMA(na=nelonging to;meha=apart,separate;tama=son,child,man)、「(親と)はぐれた・子供の・ような(本体の山から離れた(派生する尾根にある)。岡)」

の転訛と解します。

 

234G2押坂(おしさか)陵

 皇極紀2年9月条は、天皇を押坂(おしさか)陵(『延喜式』は「押坂内(おしさかのうち)陵。在大和国城上郡」とし、『陵墓要覧』は所在地を奈良県桜井市大字忍阪字段ノ塚とし、上円下方墳、忍坂彦人皇子、妃糠手姫皇女と合葬するとします。)に改葬したとします。

 この「おしさか」、「おしさかのうち」は、

  「オチ・タカ」、OTI-TAKA(oti=finished;taka=heap,lie in a heap)、「(本道である墨坂の道と)離れた・(道にある別の)高台(にある。陵)」

  「オチ・タカ・ノ・ウチ」、OTI-TAKA-NO-UTI(oti=(Hawaii)oki=divide,separate;taka=heap,lie in a heap;no=of;uti=bite)、「(本道である墨坂の道と)離れた・(道にある別の)高台(にある。陵)・で・(今は)崩れている(陵)」

の転訛と解します。(「忍阪(おしさか)」については、地名篇(その五)の奈良県の(32)忍阪の項を参照してください。)

 

234H1阿倍麻呂(まろ)臣・大伴鯨(くぢら)連・采女臣摩禮志(まれし)・高向臣宇摩(うま)・中臣連彌氣(みけ)・難波吉士身刺(むざし)・許勢臣大(おほ)麻呂・佐伯連東人(あづまひと)・紀臣鹽手(しほて)・蘇我倉(くら)麻呂(亦の名雄當(をまさ))臣

 舒明即位前紀推古天皇36年9月条第1段は、29年に皇太子豊聡耳尊が薨去された後皇太子を定めないまま推古天皇が崩御したので、233H11蘇我蝦夷(そがのえみし)大臣が阿倍麻呂(まろ)臣と協議して群臣を大臣の家に集め、推古天皇の233H21田村皇子と233H22山背大兄王に対する遺言を伝えてどちらを天皇とすべきかを問うたところ、大伴鯨(くぢら)連が「遺言の趣旨は明らかで田村皇子である」といい、これに采女臣摩禮志(まれし)、高向臣宇摩(うま)、中臣連彌氣(みけ)および難波吉士身刺(むざし)の4人が賛意を表したのに対し、許勢臣大(おほ)麻呂、佐伯連東人(あづまひと)および紀臣鹽手(しほて)の3人が「山背大兄王を天皇とすべきである」といい、蘇我倉(くら)麻呂(亦の名雄當(をまさ))臣だけが意見を保留したので、大臣はその場で決着を避けて散会したとします。

 この「まろ」、「くぢら」、「まれし」、「うま」、「みけ」、「むざし」、「おほ」、「あづまひと」、「しほて」、「くら」、「をまさ」は、

  「マロ」、MARO(stretched out,hard,headstrong,a sort of kilt or apron worn by males and females、「(化粧廻しを付けた)礼装をした・男子(臣)」

  「クフ・チラ」、KUHU-TIRA(kuhu=thrust in,insert,conceal,join a company;tira=file of men,fin of fish,rays,mast of a canoe)、「(天皇の擁立判断についての)光を・照射した(明確な意見を述べた。連)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

 (なお、海の鯨は「クフ・チラ」、KUHU-TIRA(kuhu=conceal;tira=fin of fish)、「鰭を・隠している(大魚)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)の転訛と解します。ちなみに、鯨の異名「勇魚(いさな)」は「イヒ・タ(ン)ガ」、IHI-TANGA(ihi=power,authority,shudder,divide;tanga=be assembled)、「(とてつもない)力を・身に付けている(魚)」(「イヒ」のH音が脱落して「イ」と、「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「サナ」となった)の転訛と解します。)

  「マレチ」、MARETI(=maretireti=plump,fat)、「肥っている(臣)」

  「ウマ」、UMA(bosom,chest;(Hawaii)curved)、「(腰が)曲がっている(臣)」

  「ミキ」、MIKI((Hawaii)quick,active,alert)、「敏捷な(連)」

  「ムツ・アチ」、MUTU-ATI(mutu=brought to an end;ati=descendant,clan)、「一族の・(最後の)最年少の(吉士)」(「ムツ」の語尾のU音が「アチ」の語頭のA音と連結してA音に変化し「ムタチ」から「ムサシ」となった)

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「(びっくりして)立ち上がった(臣)」

  「アツ・マヒ・ト」、ATU-MAHI-TO(atu=to indicate a direction or motion towards;mahi=work,make,do,be occupied with;to=drag)、「ただただ前へ向かって・つっ・走る(連)」

  「チホウ・テ」、TIHOU-TE(tihou=an implement used for cultivating;te=crack)、「鍬で掘るように・(田村皇子派と山背大兄王派との間に)溝を作った(臣)」

  「クラ」、KURA(red,ornamented with feathers,precious,treasure,chief)、「素晴らしい(首長)」または「ク・ウラ(ン)ガ」、KU-URANGA(ku=silent;uranga=act or circumstance of becoming firm,glow of sunrise or sunset)、「静かに・(熟慮して後日に)態度を決定するとした(態度の表明を保留した。臣)」(「ク」のU音と「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウラ」となったその語頭のU音が連結して「クラ」となった)

  「オマ・アタ」、OMA-ATA(oma=move quickly,run,escape;ata=gently,slowly,clearly,openly)、「穏やかに(態度を明確にせずに)・退出した(臣)」

の転訛と解します。

 

234H2三国(みくに)王・櫻井臣和慈古(わじこ)・来隈(くるくま)采女黒女(くろめ)・栗下(くるもと)女王・女嬬鮪女(しびめ)・八口(やくち)采女鮪女(しびめ)

 舒明即位前紀推古天皇36年9月条第2段および第3段は、蘇我蝦夷大臣は第1段の協議に先立って233H13境部臣摩理勢(まりせ)に問うたところ「山背大兄王を天皇とすべきである」と答えた経緯があり、これらを聞きつけた山背大兄王が三国(みくに)王と櫻井臣和慈古(わじこ)を使者に立てて「田村皇子を天皇とする動きがあるようだが大臣の真意はどうか」と問い、大臣は阿倍臣等を呼んで斑鳩宮に行って山背大兄王に群臣が「田村皇子を天皇とすべし」と言っていると話させますが、王は「群臣が聞いた遺言は私が直に聞いた遺言と違う。私が天皇に呼ばれて行くと、中臣連彌氣が出迎え、また来隈采女黒女(くろめ)が迎えて、近くには栗下(くるもと)女王を首として女嬬鮪女(しびめ)が居て、天皇から「本から汝を天皇とする心積もりであった」と話があったことは近くに居た者すべてが知っている。また、私が豊浦寺に居たときに天皇が八口(やくち)采女鮪女(しびめ)を遣わして「汝の叔父の大臣は常日頃汝が次の天皇ではないかと言っている。自重せよ。」との話があった。これらのことを間違いなく大臣に伝えよ。」と言われたとあります。

 この「みくに」、「わじこ」、「くろめ」、「くるもと」、「しびめ」、「やくち」は、

  「ミイ・ク・ヌイ」、MII-KU-NUI((Hawaii)mii=clasp,good-looking;ku=silent;nui=large,many)、「(口を)結んで・あまり・しゃべらなかった(王)」

  「ワチ・コ」、WAHTI-KO(whati=be broken off short,be bent at an angle,turn and go away;ko=addressig to males or females)、「(収穫なしに)戻って行った・男性(臣)」

  「ク・ロ・マイ」、KU-RO-MAI(ku=silent;ro=roto=inside;mai=to indicate direction or motion towards,clothing,dance)、「心底から・無口で・走り回る(召使い)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「クル・モト」、KURU-MOTO(kuru=strike with the fist,weary;moto=strike with the fist)、「(召使達を)叱るのに・疲れた(女王)」

  「チピ・マイ」、TIPI-MAI(tipi=pare off,go quickly or smoothly;mai=to indicate direction or motion towards,clothing,dance)、「敏速に・走り回る(召使い)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

 (なお、魚の「鮪(しび)」も上記と同じ語源で「チピ」、TIPI(pare off,go quickly or smoothly)、「敏速に泳ぐ(魚)」であり、「鮪(まぐろ)」は「マ(ン)グ・ロ」、MANGU-RO(mangu=black;ro=roto=inside)、「内部(の肉色)が・黒い(魚)」(「マ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)の転訛と解します。)

  「イア・クチ」、IA-KUTI(ia=indeed,current;kuti=contract,pinch)、「流れるように(言葉が出る)・口(を持つ。采女)」

の転訛と解します。

 

234H3泊瀬仲(はつせのなかつ)王・身狭君勝牛(かつし)・錦織首赤猪(あかゐ)・阿椰(あや)・来目物部伊區比(いくひ)・毛津(けつ)

 舒明即位前紀推古天皇36年9月条第4段および第5段は、この皇位をめぐる紛糾について山背大兄王の異母弟の泊瀬仲(はつせのなかつ)王が中臣連、河辺臣に対し軽率な発言をしないよう注意したほか、山背大兄王は再三蘇我蝦夷大臣に回答を求めますが、大臣は慎重に回答を避けます。大臣は、境部臣摩理勢に再度意見を求め、摩理勢はすでに意見は述べたといい、当時蘇我一族が集まっていた蘇我馬子の墓を壊すという暴挙に及んだので、身狭君勝牛(かつし)と錦織首赤猪(あかゐ)を派遣して群臣の意見の大勢に従うよう諭しましたが、従わずに泊瀬王の宮に入り、山背大兄王も摩理勢を見捨て、泊瀬王が急に病死したので、遂に仲子の阿椰(あや)とともに来目物部伊區比(いくひ)に殺され、逃げた長子の毛津(けつ)も自殺し、田村皇子に反対する有力者がいなくなります。

 この「はつせのなかつ」、「かつし」、「あかゐ」、「このかみ」、「あや」、「いくひ」、「けつ」は、

  「ハ・ツタイ・ノ・ナ・カツア」、HA-TUTAI-NO-NA-KATUA(ha=what!,breathe;tutai=watch,spy;no=of;na=the...of,belonging to;katua=adult,stockade distinguished from the outside fence and also from the inside fence,main portion of anything)、「何と・(皇位の帰趨を)監視して・いた・傍系に・属する(王)」(「ツタイ」のAI音がE音に変化して「ツテ」から「ツセ」と、「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」となった)

  「カツア・ウチ」、KATUA-UTI(katua=adult,stockade distinguished from the outside fence and also from the inside fence,main portion of anything;uti=bite(utiuti=annoy,worry))、「(皇位をめぐる紛糾を)心配している・(部族の)中核である(首長)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」となった)

  「アカ・ウイ」、AKA-UI(aka=yerning,clean off,scrape away;ui=disentangle,relax or loosen a noose,ask)、「紛糾を解決することを・強く望んでいる(首長)」

  「アイア」、AIA(=kaitoa=brave man,warrior,expressing satisfaction or complacency at any event,it is good,it serves one right)、「勇敢な(仲子)」

  「イ・クヒ」、I-KUHI(i=past tense,beside;kuhi=gush forth,make a rushing sound,insert)、「鬨の声を・上げ(て襲いかかっ)た(戦士)」

  「ケ・ツ」、KE-TU(ke=strange,different;tu=fight with,energetic)、「異常に・闘争的だった(長子)」

の転訛と解します。

 

234H4犬上君三田耜(みたすき)・大伴連馬養(うまかひ)・難波吉士小槻(をつき)・大河内直矢伏(やふし)・伊岐史乙等(おと)・難波吉士八牛(やつし)・吉士雄(を)摩呂・黒(くろ)摩呂

 舒明紀2年8月条は犬上君三田耜(みたすき)を唐国に派遣した(第一回遣唐使)とあり、同4年8月条は唐は使者高表仁に犬上君三田耜を送らせ、対馬に到着したとあり、同10月条は高表仁等が難波に到着したので、大伴連馬養(うまかひ)に出迎えさせ、難波吉士小槻(をつき)と大河内直矢伏(やふし)を先導者とし、伊岐史乙等(おと)と難波吉士八牛(やつし)を後従者として迎賓館に案内したとあり、同5年正月条は高表仁等が(『旧唐書』によれば高表仁に「綏遠の才」(遠い国を鎮め平らにするー外交の才能)が無かったため王子と接見の礼法について争つた挙げ句、天皇と接見し国書を渡すことなく)帰国するのを吉士雄(を)摩呂と黒(くろ)摩呂が対馬まで送ったとあります。

 この「みたすき」、「うまかひ」、「をつき」、「やふし」、「おと」、「やつし」、「を」、「くろ」は、

  「ミヒ・タツ・キ」、MIHI-TATU-KI(mihi=greet,admire;tatu=reach the bottom,be content;ki=full,very)、「尊敬すべき・非常に・遠い場所(唐国)へ渡った(使者)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「ウマ(ン)ガ・カヒ」、UMANGA-KAHI(umanga=pursuit,occupation,food,accustomed;kahi=wedge,chief)、「(外国の使臣の応接に)慣れている・首長(連)」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」となった)

  「オ・ツキ」、O-TUKI(o=the...of,belonging to;tuki=beat,knock,attack,give the time to paddlers in a canoe)、「(船の漕ぎ手に合図を送る)運航を指揮・する(先導者)」

  「イア・フチ」、IA-HUTI(ia=indeed,current;huti=hoist,pull out of the ground,fish with a line)、「実に・(高い地位に)引き上げられた(先導者)」

  「アウト」、AUTO(trailing behind,slow,drag out)、「後ろについて歩く(史)」(AU音がO音に変化して「オト」となった)

  「イア・ツチラ」、IA-TUTIRA(ia=indeed,current;tutira=row,file)、「実に・列を作る(吉士)」(「ツチラ」の語尾のRA音が脱落して「ツチ」から「ツシ」となった)

  「アウ」、AU(sea,tide,firm,intense)、「しっかりした(堅実な。送使)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)

  「ク・ロ」、KUHU-RO(ku=silent;ro=roto=inside)、「心底から・静かな(礼装を付けた。送使)」

の転訛と解します。

 

234H5三輪君小鷦鷯(をさざき)

 舒明紀8年3月条は、采女を犯した者を取り調べて悉く罪に問うということがあり、三輪君小鷦鷯(をさざき)がこれを苦にして自殺したと伝えます。

 この「をさざき」は、

  「オ・タタキ」、O-TATAKI(o=the...of,belonging to;tataki=take to one side,take out of the way)、「(人の)道を踏み外し・た(君)」

  または「オ・タタキノ」、O-TATAKINO(o=the...of,belonging to;tatakino=hurry on in confusion)、「困惑のあまり急いで・(自殺に)走った(君)」(「タタキノ」の語尾の「ノ」が脱落して「タタキ」から「サザキ」となった)

の転訛と解します。

 

234H6上毛野君形名(かたな)

 舒明紀9年是歳条は、蝦夷が反乱して朝貢しなかったので、上毛野君形名(かたな)を将軍として蝦夷を討伐させましたが、蝦夷が優勢で砦を包囲され兵士も逃げ去る状況でした。このとき形名の妻が夫を叱咤激励し、女性数十人に弓の弦を鳴らさせるなど威勢を示したので、蝦夷は残る軍勢の数が多いと誤認して退却し、形名は軍勢を立て直して蝦夷を破り悉く捕虜としたと伝えます。

 この「かたな」は、

  「カタ・アナ」、KATA-ANA(kata=opening shellfish,laugh;ana=denoting continuance of action or state,of him,of her,of his,of hers)、「(意気地がないと妻の)笑い・もの(にされた。将軍)」(「カタ」の語尾のA音と「アナ」の語頭のA音が連結して「カタナ」となった)

  または「カハ・タ(ン)ガ」、KAHA-TANGA(kaha=strong,strength,rope,noose,file of an army;tanga=be assembled,row,devision of persons)、「強い者(味方。妻)が・同行していた(将軍)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」となった)(「刀(かたな)」も同じ語源で「(武士が腰に)携行している・強いもの(味方である武器)」の意と解することができます。)

の転訛と解します。

 

234H7書直縣(あがた)・大匠(おほたくみ)

 舒明紀11年7月条は、「今年大宮(245B6百済(くだら)宮)及び大寺(百済寺)を造ることとする」との詔が出され、書直縣(あがた)を大匠(おほたくみ)に任命したとあります。

 この「あがた」は、

  「ア(ン)ガ・アタ」、ANGA-ATA(anga=driving force,thing driven etc.;ata=gently,slowly,clearlycautiously)、「慎重に・(仕事を)進めて行く(直)」(「ア(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「アガ」となり、その語尾のA音と「アタ」の語尾のA音が連結して「アガタ」となった)

  「オホ・タ・ハク・ミ」、OHO-TA-HAKU-MI(oho=spring up,wake up,arise;ta=the...of,dash,beat,lay;haku=complain of,find fault with;mi=urine,to void urine)、「すっくと立っている・(仕事についての)不満を・空(から)にした(非の打ち所がない。完璧な仕事をする。工人)」(「タ」のA音と「ハク」のH音が脱落した語頭のA音が連結して「タク」となった)

の転訛と解します。

 

 

[235皇極天皇]

 

235A天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇

 紀は、234D3茅渟(ちぬ)王(記は智奴(ちぬ)王)と吉備(きびつ)姫王(『紹運録』は229欽明天皇の孫、櫻井皇子の女とし、皇極紀2年9月条は吉備嶋皇祖母命とします。)の子の寶(たから)皇女とします。 

 皇女は、始めに231用明天皇の孫高向(たかむく)王(未詳です。)に嫁して235F1漢(あや)皇子を生み(斉明即位前紀)、後に234舒明天皇の皇后となり(舒明天皇2年)、234F1葛城(かづらき)皇子(中大兄皇子。238天智天皇)、234F2間人(はしひと)皇女および234F3大海(おほしあま)皇子(239天武天皇)の3人を生み、同13年10月に舒明天皇が崩御した後、翌年正月に即位して235天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇(皇極天皇。さらにのちに重祚して237斉明天皇)となります(国風諡号は皇極・斉明天皇とも同じです)。

 天皇のわずか3年半の治世中には、朝鮮諸国との往来が盛んで、大きな土木事業が行われました。この間蘇我氏の専横が目に余るようになり、蝦夷が次第に登朝しなくなった後、入鹿が独断で山背大兄王を討ちます。

 これを憂えた中臣鎌子は軽皇子、次いで中大兄皇子に接近して策を練り、遂に皇極4年6月中大兄皇子は天皇の目前でクーデターを実行し、蝦夷・入鹿父子を殺害します。天皇はその直後に皇位を236孝徳天皇に譲位します。

 この「あめとよたからいかしひたらし」、「たから」は、

  「アマイ・トイ・イオ・タカ・アラ・イカ・チヒ・タラチ」、AMAI-TOI-IO-TAKA-ARA-IKA-TIHI-TARATI(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;toi=move quickly,encourage;io=muscle,tough,obstinate;taka=heap,lie in a heap,turn on a pivot,revolve;ara=rise,rise up,raise;ika=fish,victim,warrior,cluster;tihi=summit,top,topknot of hair;tarati=spurt,splash)、「きらきらと輝く(ばかりの美貌の)・疲れを知らずに・駆け抜けた・(戻って来て)重ねて・高い地位(天皇位)に就いた・(当時)最高の地位にあった・犠牲者(蘇我入鹿)の・血を迸ばしらせた(見殺しにした。天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「トイ」のI音と「イオ」の語頭のI音が連結して「トヨ」となった)

  「タカ・アラ」、TAKA-ARA(taka=heap,lie in a heap,turn on a pivot,revolve;ara=rise,rise up,raise)、「(戻って来て)重ねて・高い地位(天皇位)に就いた(皇女)」

の転訛と解します。

 

235B1飛鳥板葺(あすかのいたぶき)宮

 皇極紀元年9月条は、天皇が百済大寺の建設、船舶の建造を命じ、次いで12月までに宮(後に飛鳥板葺(あすかのいたぶき)宮と呼ばれます。)を造るよう國々から材木を調達し遠江國から安芸國まで人夫を徴発せよと命じたとします(舒明紀11年7月条の大宮・大寺の建設事業を引き継いだものと考えられます)。

 この「あすか」、「いたぶき」は、

  「アツ・カ」、ATU-KA(atu=to form a comparative or superative;ka=take fire,be lighted,burn)、「最高の・居住地(地域)」

  「イタ・プキノ」、ITA-PUKINO(ita=tight,fast,compact;pukino=greedy(pukiore=decorative panels in s superior house))、「小規模だが・贅を凝らした(注文の多い設計の。宮)」

の転訛と解します。

 

235B2小墾田(をはりだ)宮

 皇極紀元年12月21日条は舒明天皇の葬儀を終えて小墾田(をはりだ)宮に移ったとします(翌年2月に新造された飛鳥板葺宮に移ります)。

 この「をはりだ」は、

  「オ・パリ・タ」、o=the...of,belonging to;pari=cliff,flow over of the tide;ta=dash,beat,lay、「洪水が・襲った・場所(に造営した。宮)」(「パリ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」となった)

  または「オ・ハリ・タ」、O-HARI-TA(o=the...of,belonging to;hari=dance,song,joy,feel or show gladness;ta=dash,beat,lay)、「(先帝の葬儀を無事に終えた)喜びを・顕わして・いる(宮)」

の転訛と解します。

 

235C1茅渟(ちぬ)王

 父は234D3茅渟(ちぬ)王の項を参照してください。

 

235C2吉備(きびつ)姫王

 母は紀は吉備(きびつ)姫王(『紹運録』は229欽明天皇の孫、櫻井皇子の女とし、皇極紀2年9月条は吉備嶋(きびのしま)皇祖母命)とします。

 この「きびつ」、「きびのしま」は、

  「キ・ピ・ツ」、KI-PI-TU(ki=full,very;pi=eye,flow of the tide,headwaters,origin;tu=stand,settle)、「洪水の・多い場所に・住む(姫)」

  「キ・ピ・ノ・チマ」、KI-PI-NO-TIMA(ki=full,very;pi=eye,flow of the tide,headwaters,origin;no=of;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「洪水の・多い地域・の・掘り棒で掘ったような地形の場所(に住む姫)」

の転訛と解します。

 

235D軽(かる)皇子

 孝徳即位前紀は、同母弟を軽(かる)皇子(236孝徳天皇)とします。

 この「かる」は、

  「カル」、KARU(rags,spongy matter enclosing the seeds of a gourd,snare,eye,head)、「(スポンジのように)軟らかい(弱い性格の。皇子)」(236A天萬豊日(あめよろづとよひ)天皇の項および雑楽篇の301の(3)いろもの項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

235F1漢(あや)皇子

 231用明天皇の孫高向(たかむく)王(未詳です。)との子を235F1漢(あや)皇子とします。『紹運録』は高向王を用明天皇の子としますが、紀には見えません。

 この「あや」、「たかむく」は、

  「アイア」、AIA(=kaitoa=it is good,it serves one right,brave man,warrior)、「運の良い(または勇敢な。皇子)」

  「タカ・ムク」、TAKA-MUKU(taka=heap,lie in a heap;muku=wipe,rub,smear)、「(拭ったように表面が)滑らかな・高台(に住む。王)」

の転訛と解します。

 

235F2葛城(かづらき)皇子から235F4大海(おほしあま)皇子まで

 234舒明天皇との子は234F1葛城(かづらき)皇子(238天智天皇)から234F3大海(おほしあま)皇子(239天武天皇)までの項を参照してください。

 

235G小市岡上(をちのをかのうへ)陵

 235皇極天皇(重祚して237斉明天皇)は、朝鮮出兵のため西下した筑紫の朝倉宮で斉明天皇7年7月に崩御、11月に飛鳥の川原で殯(もがり)し、天智紀6年2月条は「235A天豊財重日足姫天皇とその子の234F2間人皇女(同4年2月薨去)を小市岡上(をちのをかのうへ)陵に合葬した」とします。なお、斉明天皇4年5月に皇孫237H5建(たける)王が8才で死亡し、天皇は「朕の陵に合葬するように」と詔しています。『延喜式』は「越智岡上陵。飛鳥川原宮御宇皇極天皇。在大和国高市郡」とし、『陵墓要覧』は所在地を奈良県高市郡高取町大字車木とします。

 陵は、真弓丘の西端の曽我川を見下ろす丘陵の頂上にあり、「車木(くるまぎ)ケンノウ古墳」と通称されています。頂上部の手前に天武天皇妃239E2太田皇女の越智岡上墓があります。

 この「をち」、「をかのうへ」、「くるまぎけんのう」は、

  「オチ」、OTI(finished)、「(飛鳥からみて曽我川の谷の)終点の(地域)」

  「アウカハ・ノ・ウエ」、AUKAHA-NO-UE(aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe;no=of;ue=push,shake,an incantation recited upon the roof of a house)、「(その上で)呪文を唱える儀式(葬儀)を行った・(塁壁を巡らしたような)岡(そこにある陵)」

  「クル・マ(ン)ギ・ケネ・アウ」、KURU-MANGI-KENE-AU(kuru=strike with the fist;mangi=floating,drifting,unsettled;kene,kenekene=the prominence at the front of the neck;au=sea,tide,firm,intense)、「(拳骨で殴ったような)浸食が・所々にある(地域にある)・固い・喉仏のような丘(に似た。古墳)」

の転訛と解します。

 

235H1蘇我入鹿(いるか)

 皇極紀元年正月条は、天皇が即位して233H11蘇我臣蝦夷(えみし)を引き続き大臣としましたが、大臣の子蘇我入鹿(いるか)(亦の名鞍作(くらつくり)は、自ら国政を執行し、その威勢は父を凌ぐものがあったとします。

 入鹿は、父蝦夷とともに極悪非道の大悪人のように紀は記しますが、当時の国際情勢にも通じた開明的な思想の餅縫いであったとする説があります(門脇禎二氏、遠山美都男氏など)。早くから俊秀の名をほしいままにしていたようです。後に藤原鎌足の事績を記した『家伝上』には、僧旻(そうみん)法師が「吾が堂に入る者、宗我大郎(入鹿)に如くは無し」と語つたとあり、続けて「公(鎌足)、神識奇相にして実に此の人(入鹿)に勝れり」と語つて鎌足の自重を求めたとあります。この伝記は、鎌足の神格化を目的としたものですから、鎌足の評価についてはそのまま信じることはできませんが、比較対照の相手の入鹿については、当時の世間の評価を反映していたとみてよいでしょう。 入鹿は、おそらく若い頃からずば抜けた能力を発揮したものと思われ、皇極紀同条の記事もそれを認めたもので、「是に由りて、盗賊恐懾げて、路に遺拾らず」とあるのは、恐怖政治の結果ではなく、政治がきわめて良好であったことを示すものと考えます。

 紀によれば入鹿の専横は次第に高まり、山背大兄王一族を殺戮しますが、遂に皇極4年6月に中大兄皇子等により殺されます(乙巳の変)。

 この「いるか」、「くらつくり」は、

  「イ・ルカ」、I-RUKA(i=past tense,by,at;rukaruka=utterly,completely)、「実に・完璧な(非の打ち所のない。人間)」(海獣の「いるか」については、雑楽篇(その二)の734くじら(鯨)の項のいるか(海豚)の条を参照してください。)

  「クラ・ツク・ウリ」、KURA-TUKU-URI(kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure,chief;tuku=let go,leave,allow,receive,present;uri=descendant,relative)、「(祖先の)素晴らしい長所(や財産)を・受け継いだ・子孫」(「ツク」の語尾のU音と「ウリ」の語頭のU音が連結して「ツクリ」となった)

の転訛と解します。

 

235H2阿曇山背(やましろ)連比羅夫(ひらぶ)・草壁吉士磐金(いはかね)・倭漢書直縣(あがた)

 皇極紀元年2月条は、百済から来た弔使の従者阿曇山背(やましろ)連比羅夫(ひらぶ)から百済の国情が不穏なことを聞いた朝廷が、同人、草壁吉士磐金(いはかね)および倭漢書直縣(あがた)を百済の弔使の下に派遣してその国情を聴取させたとします。

 この「やましろ」、「ひらぶ」、「いはかね」、「あがた」は、

  「イア・マハ・チロ」、IA-MAHA-TIRO(ia=indeed,current;maha=many,abundance,satisfied;tiro=look)、「実に・多くの(百済国内の)事件を・黙って視ていた(連)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「ヒ・ラプ」、HI-RAPU(hi=raise,rise;rapu=seek,look for,apply to any one for advice,ascertain)、「(大和朝廷に)協力するために・立ち上がった(連)」

  「イ・ワ・カネ」、I-WHA-KANE(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;kane=head)、「頭角を・顕わ・した(吉士)」または「イ・ワ・カノイ」、I-WHA-KANOI(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;kanoi=strand of a rope,authority,show good breeding)、「権威(があること)を・顕わ・した(百済の内情を聞き出した。吉士)」

  「ア(ン)ガ・アタ」、ANGA-ATA(anga=driving force,thing driven etc.;ata=gently,slowly,clearlycautiously)、「慎重に・(仕事を)進めて行く(直)」(「ア(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「アガ」となり、その語尾のA音と「アタ」の語尾のA音が連結して「アガタ」となった)

の転訛と解します。

 

235H3津守連大海(おほあま)・国勝吉士水鶏(くひな)・草壁吉士眞跡(まと)

 皇極紀元年2月条は、津守連大海(おほあま)を高麗に、国勝吉士水鶏(くひな)を百済に、草壁吉士眞跡(まと)を任那に使者として派遣すべしと詔があったとします。

 この「おほあま」、「くひな」、「まと」は、

  「オホ・ア・マハ」、OHO-A-MAHA(oho=spring up,wake up,arise;a=the...of,belonging to;maha,mahamaha=liver,seat of affection)、「すっくと立っている・肝がすわって・いる(連)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「クヒ・ナ」、KUHI-NA(kuhi=insert;na=to indicate position near)、「(先方の)懐へ飛び込む(吉士)」

  「マタウ」、MATAU(know,understand,feel certain of)、「(物事を良く)知っている(吉士)」(AU音がO音に変化して「マト」となった)

の転訛と解します。

 

235H4大舶(おほつむ)・母廬紀(もろき)船

 皇極紀元年8月条は、百済の使者の帰国に際し、大舶(おほつむ)と同船(分注は母廬紀(もろき)船とします)と計3隻を与えたとします。この母廬紀(もろき)船は「諸木船」で「多くの木材を合わせて作った船」と解されています。なお、『釈日本紀』は「同船」の別訓として「はしふね」を載せます(小学館『日本国語大辞典』)。

 この「おほつむ」、「もろき」、「はし」は、

  「オホ・ツム」、OHO-TUMU(oho=spring up,wake up,arise;tumu=promontory,contrary of wind,go against the wind)、「(舷側が)高くなっている・風に逆らって進む(ことができる。大船)」

  「モロキ」、MOROKI(continuing)、「(昔から続く)在来の(船)」または「(2隻の船を)連結した(ダブル・カヌーまたはカタマラン形式の。船)」

  「パチ」、PATI(shallow)、「浅瀬を航行する(舷側が低い。船)」(P音がF音を経てH音に変化して「ハチ」から「ハシ」となった)

の転訛と解します。

 

235H5巨勢臣徳太(とこだ)・粟田臣細目(ほそめ)・大伴連馬飼(うまかひ)・息長山田(やまだ)公

 皇極紀元年12月条は、舒明天皇の喪を発し、巨勢臣徳太(とこだ)が230F7大派(おほまた)皇子の代理で、粟田臣細目(ほそめ)が235D軽(かる)皇子の代理で、大伴連馬飼(うまかひ)が大臣の代理で、息長山田(おきながのやまだ)公が日嗣の誄(しのびごと)を述べたとあります。

 この「とこだ」、「ほそめ」、「うまかひ」、「やまだ」は、

  「トコ・タ」、TOKO-TA(toko=pole,push or force to a distance;ta=dash,beat,lay)、「(死者を)遠くに送る・((死者の魂を運ぶ鳥を頂上に付けた柱を陵の上に建てるなどの)儀式を)行った(臣)」または「ト・コタ」、TO-KOTA(to=drag;kota=open,anything to scrape or cut with,a rope of human hair used in certain rites)、「(葬儀で用いられる人の毛髪で作った(石棺を曳く))綱を・引いた(臣)」

  「ホト・マイ」、HOTO-MAI(hoto=wooden spade,begin,join;mai=to indicate direction or motion towards)、「木製の鍬で・(陵の土を)掘った(臣)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「ウマ(ン)ガ・カヒ」、UMANGA-KAHI(umanga=pursuit,occupation,food,accustomed;kahi=wedge,chief)、「(儀式や誄(しのびごと)に)慣れている・首長(連)」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」となった)

  「イア・マタ」、IA-MATA(ia=indeed,current;mata=face,eye,deep swamp,medium of communication of spirit,spell)、「実に・神霊の啓示を受けることができる(公)」

の転訛と解します。

235H6奴三成(みなり)・三輪文屋(ふみや)君・舎人田目(ため)連・莵田諸石(もろし)・伊勢阿倍堅経(かたぶ)・高向臣國押(くにおし)

 皇極紀2年11月条は、蘇我臣入鹿が235H5巨勢徳太(とこだ)臣、233H6土師娑婆(さば)連を斑鳩に遣して、233H23山背大兄(やましろのおほえ)王を攻めさせましたが、奴三成(みなり)が舎人十数人と奮戦し、土師娑婆連が矢に当たつて死亡し、討手は恐れて退却します。山背大兄王は、馬の骨を室内に撒き散らして、一族を率い、三輪文屋(ふみや)君、舎人田目(ため)連、莵田諸石(もろし)、伊勢阿倍堅経(かたぶ)等が供をして生駒山に隠れます。巨勢徳太臣が斑鳩の宮を焼き、焼け跡に骨を発見して山背大兄王等が焼死したと考えて退去します。三輪文屋君は東国に移つて軍勢を編成して戦うならば必ず勝利できると進言しますが、山背大兄王は人民に迷惑を掛けたくないと拒みます。山背大兄王を山中で見た人の連絡を受けて蘇我臣入鹿は、高向臣國押(くにおし)に山背大兄王を逮捕するよう要請しますが天皇の宮を離れることはできいと断られます。山背大兄王は山を離れて斑鳩寺に入り、一族と共に自殺します。

 この「みなり」、「ふみや」、「ため」、「もろし」、「かたぶ」、「くにおし」は、

  「ミヒ・(ン)ガリ」、MIHI-NGARI(mihi=greet,admire;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「尊敬すべき(活躍をした)・(討手を)悩ました(奴)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「フ・ミヒ・イア」、HU-MIHI-IA(hu=silent,quiet;mihi=greet,admire;ia=indeed,current)、「物静かな・実に・尊敬すべき(君)」

  「モロイチ」、MOROITI(small)、「小さな(男性)」(「モロイチ」が「モロチ」から「モロシ」となった)

  「カタ・プ」、KATA-PU(kata=opening of shellfish,laugh;pu=tribe,bunch,heap,skilled person,wise one)、「(良く)笑う・賢明な(男性)」

  「クニ・オチ」、KUNI-OTI((Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle;oti=finished)、「(出身の)集落の・灯が消えた(消滅した。臣)」

の転訛と解します。

 

235H7中臣連鎌子(かまこ)(鎌足(かまたり))・南淵請安(しゃうあん)・蘇我倉山田(くらやまだ)麻呂・佐伯連子(こ)麻呂・葛城稚犬養連網田(あみた)

 皇極紀3年正月条は、中臣連鎌子(かまこ)(孝徳紀5年正月条からは鎌足(かまたり))が神祇伯に任命されようとしましたが病と称して固辞し、たまたま足の病で引き籠もっていた235D軽(かる)皇子の宮を見舞ったところ、皇子が寵妃阿倍氏(236E2小足(をたらし)媛)に命じて鄭重に世話をさせたので非常に感激し、「(この皇子こそ)天皇となるべき方である」と舎人に語ったとします。

 また鎌子は、234F1中大兄皇子の法興寺の槻の木の下の打鞠の仲間に加わって皇子と親交を結び、共に唐から帰国した南淵請安(しゃうあん)先生に師事して国際事情を学び、入鹿の従兄弟の蘇我倉山田(くらやまだ)麻呂の次女を皇子の妃に進め、また皇子に佐伯連子(こ)麻呂(天智紀5年3月条は皇太子中大兄皇子が自ら佐伯連子麻呂の病気を見舞ったと伝えます。)および葛城稚犬養連網田(あみた)を推挙したとします。

 この「かまこ」、「かまたり」、「しゃうあん」、「くらやまだ」、「こ」、「あみた」は、

  「カマ・コ」、KAMA-KO(kama=eager(kamakama=joyous,talkative,full of spirits);ko=addressing to males or females)、「熱心な(情熱的に中大兄皇子を説得した)・男性(連)」または「カマ・カウ」、KAMA-KAU(kama=eager(kamakama=joyous,talkative,full of spirits);kau=swim,wade)、「熱心に・(軽皇子・中大兄皇子の間を)往来した(連)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  「カマ・タリ」、KAMA-TARI(kama=eager(kamakama=joyous,talkative,full of spirits);tari=carry,bring,urge,incite,wait,expect)、「熱心に・(中大兄皇子の決起を)促した(連)」

  「チホウ・ア(ン)ガ」、TIHOU-ANGA(tihou=an implement for cultivating;anga=driving force,thing driven etc.)、「決起に向けて・耕した(素地をつくる教育をした。先生)」

  「クラ・イア・マ・タ」、KURA-IA-MA-TA(kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure;ia=indeed,current;ma=white,clear,ta=dash,beat,lay)、「素晴らしい・実に・清らかな(心を)・持っている(首長)」

  「コア」、KOA(glad,joyful)、「(皇太子中大兄皇子の病気見舞いを受けて)喜んだ(連)」(語尾のA音が脱落して「コ」となった)

  「ア・ミ・タ」、A-MI-TA(a=the...of,belonging to;mi=urine,to void urine;ta=dash,beat,lay)、「(入鹿誅滅の際、中大兄皇子が喚声を上げて飛び出すまで)斬ることを・失念した・ように見えた(連)」

の転訛と解します。

 

235H8海犬養連勝(かつ)麻呂・潦水(にはたづみ。いさらみず)・韓人(からひと)・漢(あや)直・大郎(たいろう)・船史恵尺(ゑさか)

 皇極紀4年6月条は、中大兄皇子が235H7蘇我倉山田(くらやまだ)麻呂に対し朝廷で三韓の貢物を披露する際に蘇我入鹿を斬る計画を伝え、同意を得たとします。当日は俳優に命じて入鹿の剣を外させ、海犬養連勝(かつ)麻呂から235H7佐伯連子(こ)麻呂・葛城稚犬養連網田(あみた)に剣を渡させて「(合図をしたら)直ちに斬るように」と伝えます。いざとなると倉山田麻呂は汗を流し声が乱れ、子麻呂等がなかなか飛び出そうとしないので、中大兄皇子が喚声を上げて飛び出し、子麻呂、網田と共に天皇の前で入鹿を傷つけ、入鹿は「臣、罪を知らず」と天皇に訴え、天皇が「知らず。何事か」と中大兄皇子に問い、中大兄皇子が「鞍作が天皇家を滅ぼし天皇位を窺おうとしたからです」と答え、天皇が無言で退席した後、子麻呂と網田が入鹿を斬ります。

 この日雨が降って庭には潦水(にはたづみ。いさらみず)が満ち、そこに投げ出された入鹿の屍には蓆が掛けられただけでした。現場にいた234F4古人(ふるひと)皇子は自宅に走って帰り「韓人(からひと)(これが誰を指すか謎とされてきました)が鞍作(くらつくり。入鹿の異名)臣を殺した」と語って引き籠ったといいます。

 中大兄皇子は法興寺にすべての諸皇子、諸王、群臣を集め、235H5巨勢徳太(とこだ)臣を派遣して蘇我大臣の警護に当たっていた漢(あや)直等に君臣の道を説かせ、235H6高向臣國押(くにおし)が漢直に「我らは君大郎(たいろう。=入鹿)を守ることができなかったことを理由として殺されるだろう。大臣も一両日の中に殺されることは必定である。ならば誰のために戦って殺されるのか」と言って兵器を捨てて逃げ、他の兵士も逃げたとします。

 蘇我臣蝦夷は、殺される前に天皇記、國記、珍宝をすべて焼きますが、船史恵尺(ゑさか)がいちはやく國記を取り出して中大兄皇子に献上したとします。

 この「かつ」、「にはたづみ」、「いさらみず」、「からひと」、「あや」、「たいろう」、「ゑさか」は、

  「カハ・アツ」、KAHA-ATU(kaha=strong,able,strength,rope;atu=to indicate a direction or motion towards,to indicate reciprocated action,to form a comparative or superlative )、「最高に・強い(連)」(「カハ」のH音が脱落したその語尾のA音と、「アツ」の語頭のA音が連結して「カツ」となった)

  「ニア・タツ・ミ」、NIA-TATU-MI(nia,niania=small;tatu=reach the bottom,be content,strike one foot against the other,stumble;mi=urine,stream,river)、「(降雨の後にできる)小さな・次から次にできる・水(溜まり)」

  「イタ・ラ・ミ・ツ」、ITA-RA-MI-TU(ita=tight,fast,compact;ra=wed;mi=urine,stream,river;tu=stand,settle)、「こじんまりとした・繋がっている・水・溜まり」

  「カハ・アラ・ピト」、AHA-ARA-PITO(kaha=strong,able,strength,rope,file of army;ara=rise,rise up,awake;pito=end,extremity,at first)、「(突然)立ち上がった(出現した)・とてつもなく(最高に)・強い(戦士達)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となり、その語尾のA音と「アラ」の語頭のAが連結して「カラ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「アイア」、AIA(=kaitoa=brave man,warrior,it is good,it serves one right)、「勇敢な戦士(直)」

  「タイ・ラウ」、TAI-RAU(tai=sea,tide,wave,anger,violence;rau=hundred,multitude,catch as in a net,entangled,project)、「たいへん・(波のように)強大な(男性)」

  「ワイ・タカ」、WHAI-TAKA(whai=follow,pursue,look for,lay hold of;taka=turn on a pivot,revolve,undergo change in direction)、「(史籍を火中から一転して)回収すべく・追求した(中大兄皇子に献上した。史)」(「ワイ」のAI音がE音に変化して「ヱ」となった)

の転訛と解します。

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[236孝徳天皇]

 

236A天萬豊日(あめよろづとよひ)天皇

 紀は、234D3茅渟(ちぬ)王(記は智奴(ちぬ)王)と吉備(きびつ)姫王(『紹運録』は229欽明天皇の孫、櫻井皇子の女とし、皇極紀2年9月条は吉備嶋皇祖母命とします。)の子の235D軽(かる)皇子(235A天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇(皇極天皇)の同母弟)とします。

 皇極天皇は4年6月に中大兄皇子のクーデター(世に乙巳(いっし)の変と呼ばれます)によって蘇我蝦夷・入鹿父子が殺害された直後、皇位をまず中大兄皇子に譲ろうとしますが、中大兄皇子は年長の軽皇子を立てるべきであるとの中臣鎌子連の忠告を容れて辞退し、天皇は「咨(あ)(次の天皇は)、爾(なむじ)軽皇子」と軽皇子を指名して譲位します(天皇譲位の最初の例です)。軽皇子は辞退しようとしますが、古人大兄皇子が即座に出家して辞退したので、やむを得ず即位します。

 孝徳天皇は、中大兄皇子を皇太子とし、236H1阿倍内(うち)麻呂(倉梯(くらはし)麻呂)を左大臣、236H1蘇我山田石川(やまだのいしかは)麻呂を右大臣として新政策の検討・実施がなされ、大化改新が行われます。

 中大兄皇子のライバル、古人大兄皇子が反乱を企てたとして殺され、左大臣阿倍内麻呂の病死後、右大臣蘇我山田石川麻呂が讒言によって殺され、掣肘する人物がいなくなった中大兄皇子は天皇の反対を押し切って朝廷を事実上大和の飛鳥に移し、天皇は淋しく難波で崩御します。

 孝徳即位前紀は天皇を「人となりが柔仁(性格が弱く慈悲深い)で儒(学者)を好み、貴賎を問わず頻りに恩恵を与える勅を下した」と評し、孝徳紀大化4年3月条は左大臣阿部内麻呂の死を悲しんで人前で号泣したとし、白雉4年5月是月条分注は僧旻法師の病を見舞って「もし法師が今日死ぬようなことがあれば朕も明日法師の後を追って死にたい」と口走ったと伝えており、「自制力、判断力の欠けた性格の弱さ」、「軽々しい行動癖」を明らかにみてとることができます。

 この「あめよろづとよひ」、「かる」、「あ」は、

  「アマイ・イホ・ロツ・トイ・オヒ」、AMAI-IHO-ROTU-TOI-OHI(amai=swell on the sea;iho=heart,inside;rotu=heavy,oppressive,favourable;toi=move quickly;ohi=grow,be vigorous applied chiefly to childhood)、「目立っていた・(天皇位の重圧で)心が・重かった・(思い立つと)敏速に・(子供のように思慮なく)気ままに行動した(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「イホ」のH音が脱落して「ヨ」と、「トイ」の語尾のI音と「オヒ」の語頭のO音が連結して「トヨヒ」となった)

  「カル」、KARU(rags,spongy matter enclosing the seeds of a gourd,snare,eye,head)、「(スポンジのように)軟らかい(弱い性格の。皇子)」(雑楽篇の301の(3)いろもの項を参照してください。)

  「ア」、A(and,and then,only connecting successive motions or events)、「そして次(の天皇)は」

の転訛と解します。

 

236B1難波長柄豊碕(ながらのとよさき)宮

 大化元年12月条は、都を難波長柄豊碕(ながらのとよさき)に遷したとします。しかし、難波宮は仁徳天皇以来久しく使われていなかったためか、その後天皇は旧難波宮や、次項の子代(こしろ)行宮、蝦蟇(かはづ)行宮、小郡(をごほり)行宮、武庫(むこ)行宮、難波碕(さき)宮、味経(あぢふ)宮、大郡(おほごほり)宮を転々とし、造営が完成した新宮に移ったのは6年後の白雉2年12月晦日で、これを難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)宮と号したとあります。

 この「ながら」、「とよさき」は、

  「ナ・カラ」、NA-KALA(na=the...of,belonging to;(Hawaii)kala=to loosen,release,undo)、「どちらかといえば・(仁徳天皇以来使われていなかった難波宮を)再開した(宮)」(長柄宮の枕詞である国語篇(その五)の194うみをなす(績麻なす)の項を参照してください。)または「ナ・(ン)ガラ」、NA-NGARA(na=the...of,belonging to;ngara=snarl)、「(打ち寄せる波の音が)唸り声を立てている・ような(海岸の場所)」(「(ン)ガラ」のNG音がG音に変化して「ガラ」となった)

  「ト・イオ・タキ」、TO-IO-TAKI(to=drag,open or shut a door or a window;io=muscle,line,spur,lock of kair;taki=take to one side,take out of the way,track,bring(takitaki=fence,screen))、「潮流が・(潮の干満によって)方向を変えて流れる(場所の)・(垣根のように延びる)岬(にある。宮)」

の転訛と解します。

 

236B2子代(こしろ)行宮・蝦蟇(かはづ)行宮・小郡(をごほり)行宮・武庫(むこ)行宮・難波碕(さき)宮・味経(あぢふ)宮・大郡(おほごほり)宮・山碕(やまさき)宮

 大化2年正月是月条は、天皇は子代(こしろ)行宮(分注は難波狭屋部(さやべ)邑の子代屯倉を壊して行宮を造ったとします。)に滞在し、翌2月に長柄豊碕宮に還ったとします。

 大化2年9月条は、天皇は蝦蟇(かはづ)行宮に滞在したとします。

 大化3年4月是歳条は、小郡(をごほり。地名でなく行政機関と解されています。)を壊して宮を造り、天皇は小郡行宮において礼法を定めたとします。

 大化3年12月条は、10月に有間温湯に行幸された天皇が大晦日に還幸されて武庫(むこ)行宮に止まったとします。

 大化4年正月条は、元旦の儀式の後天皇は難波碕(さき)宮に行幸されたとします。

 白雉元年正月条は、天皇は味経(あぢふ)宮で元旦の儀式をなさったとします。

 白雉3年正月条は、元旦の儀式の後天皇は大郡(おほごほり。小郡と同じく地名でなく行政機関と解されています。)宮に行幸されたとします。

 白雉4年是歳条は、皇太子が大和へ移りたいといい、天皇の反対を押し切って皇祖母尊、間人皇后、皇弟達を引き連れて飛鳥河辺行宮に移ったので、天皇は退位を考えて山碕(やまさき)宮を造営したとします。

 この「こしろ」、「さやべ」、「かはづ」、「をごほり」、「むこ」、「さき」、「あぢふ」、「おほごほり」、「やまさき」は、

  「コチ・ロ」、KOTI-RO(koti=spurt out,flow,cut in two,cut off;ro=roto=inside)、「(行宮の)中を・(潮流が)流れる(宮)」

  「タイア・パエ」、TAIA-PAE(taia=neap of the tide,outer palisade of stockade;pae=horizen,lie across,be cast ashore)、「潮流の端が(洗う)・海岸に放り出されている(地域。邑)」(「パエ」のAE音がE音に変化して「ペ」から「ベ」となった)

  「カハ・ツ」、KAHA-TU(kaha=strong,strenfth,rope,edge;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(海岸の)縁に・ある(行宮)」

  「アウ・(ン)ガウ・リ」、AU-NGAU-RI(au=firm,intense;ngau=bite,hurt,attack,wander,raise a cry;ri=screen,protect,bind)、「堅固な・(敵の)攻撃から・防衛する(施設。地方行政機関)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」と、「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がOU音に変化して「ゴウ」となった)または「アウ・コホリマコ」、AU-KOHORIMAKO(au=firm,intense;kohorimako=bell-bird)、「堅固な・(けたたましい声で鳴く鈴鳥のように)大きな声で命令を布告する(施設。地方行政機関)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」と、「コホリマコ」の語尾の「マコ」が脱落して「コホリ」となった)

  「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=stump,knob)、「静かな・切り株のような(山。その地域にある行宮)」

  「タキ」、TAKI(take to one side,take out of the way,track,bring(takitaki=fence,screen))、「(垣根のように延びる)岬(にある。行宮)」

  「ア・チホイ」、A-TIHOI(the...of,belonging to;tihoi=diverge,turn aside)、「(本体の宮(長柄豊崎宮)から分離して)別に建て・た(宮)」(「チホイ」のOI音がU音に変化して「チフ」となった)(大化3年12月晦日に皇太子の宮が焼失していますので、長柄豊崎宮の新宮ができるまでの行宮兼皇太子の宮として造営されたものかと考えられます。なお、国語篇(その六)の355 みけむかふ(御食向かふ)の項を参照してください。)または「アチ・フ」、ATI-HU(ati=descendant,clan,beginning;hu=swamp,hollow,promomtory,hill)、「岡(または半島)の・(子孫)麓(にある。宮)」

  「オホ・カウハウ・リ」、OHO-KAUHAU-RI(oho=spring up,awake,arise;kauhau=recite,proclaim,declare aloud;ri=bind,screen,protect)、「(すっくと立った)大きな・(命令を)声高らかに宣言する・砦(役所)」(「カウハウ」のAU音がO音に変化して「コホ」となった)または「オホ・コホリマコ」、OHO-KOHORIMAKO(oho=spring up,awake,arise;kohorimako=bell-bird)、「(すっくと立った)大きな・(鈴のようなけたたましい声で鳴く鳥のように)大きな声で命令を布告する(施設。地方行政機関)」(「コホリマコ」の語尾の「マコ」が脱落して「コホリ」となった)

  「イア・マ(ン)ガ・タキ」、IA-MANGA-TAKI(ia=indeed,current;manga=branch of a tree or river etc.,ditch;taki=take to one side,take out of the way,track,bring(takitaki=fence,screen))、「実に・(大きな山の)尾根が・(垣根のように突き出ている)岬となっている(場所。そこの宮)」(「マ(ン)ガ」のNGA音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

 

236C1茅渟(ちぬ)王

 父は234D3茅渟(ちぬ)王の項を参照してください。

 

236C2吉備(きびつ)姫王

 母は235C2吉備(きびつ)姫王の項を参照してください。

 

236D寶(たから)皇女

 姉は235A天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇の項を参照してください。

 

236E1間人(はしひと)皇女

 紀は皇后を234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇と234E1寶(たから)皇女の第2子の234F2間人(はしひと)皇女とします。子は見えません。

 この「はしひと」は、

  「パチ・ピト」、PATI-PITO(pati=try to obtain by coaxing,flattery;pito=end,extremity,at first)、「最初は(または最高に)・チヤホヤされた(皇女)」(「パチ・ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ・ヒト」から「ハシ・ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

236E2小足(をたらし)媛

 紀は最初の妃を236H1阿倍倉梯(くらはし)麻呂大臣の女の小足(をたらし)媛とし、236F有間(ありま)皇子を生んだとします。

 この「をたらし」は、

  「オ・タラチ」、O-TARATI(o=the...of,belonging to;tarati=spurt,splash)、「(有間皇子の反乱に連座して斬られ)血を迸らせ・た(媛)」

の転訛と解します。

 

236E3乳(ち)郎女

 紀は次の妃を236H1蘇我石川麻呂大臣の女の乳(ち)郎女とします。子は見えません。

 この「ち」は、

  「チ」、TI(throw,cast,overcome)、「(蘇我石川麻呂の反乱に連座して)圧倒された(殺された。郎女)」または「チヒ」、TIHI(summit,top,topknot of hair,lie in a heap)、「お高く止まっていた(郎女)」(H音が脱落して「チ」となった)

の転訛と解します。

 

236F有間(ありま)皇子

 紀は236A天萬豊日(あめよろづとよひ)天皇と236E2小足(をたらし)媛の子の有間(ありま)皇子とします。斉明紀4年11月条は反乱を企てたとして紀温湯へ送られる途中の藤白坂で絞殺されたと伝えます。(後出237H8蘇我赤兄(あかえ)臣等の項および万葉集の[1-9]歌の項を参照してください。)

 この「ありま」は、

  「アリ・マハ」、ARI-MAHA(ari=clear,white,appearance;maha=many,abundance,satisfied)、「(反乱を企てたとして逮捕されて)著しく・蒼白となった(皇子)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

 

236G大坂磯長(おほさかのしなが)陵

 紀は陵を大坂磯長(おほさかのしなが)陵とします。『延喜式』は「大坂磯長陵、在河内国石川郡」と、『陵墓要覧』は所在地を大阪府南河内郡太子町大字山田とします。

 陵は王陵の谷の東端、竹ノ内街道を見下ろす丘の上にある山田上野(うえの)山古墳と通称される直径35メートルの円墳で、「鶯(うぐひす)の陵」(『枕草子』)とも呼ばれていました。

 この「おほさかのしなが」、「うえの」、「うぐひす」は、

  「オホ・タカ・ノ・チナ・(ン)ガ」、OHO-TAKA-NO-TINA-NGA(oho=wake up,arise;taka=heap,lie in a heap;no=of;tina=fixed,firm,satisfied;nga=satisfied,breathe)、「高い・丘の上に・あつて・ゆったりと(満足して)・鎮座している(陵)」

  「ウエ・ノホ」、UE-NOHO(ue=put,shake,an incantation recited upon the roof of a house;noho=sit,settle)、「(陵墓を造営する際にその上で)呪文が唱えられた・(陵墓がそこに)在る(山)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ウ・(ン)グ・ヒ・ツ」、U-NGU-HI-TU(u=be firm,be fixed,reach its limit;ngu=greedy,moan,groan;hi=raise,rise,lead a song,make a hissing noise;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「悲嘆を・閉じこめた場所(陵墓。その陵墓が密集した王陵の谷)の・高い場所に・在る(陵。または関所(鶯の関))」(「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)(鳥の「鶯(うぐひす)」は、上記と同じ語源で「鳴き声を・完成させるまで・熱心に・鳴く(鳥)」の意または「ウクイ・ツ」、UKUI-TU(ukui=rub,wipe,sweep away;tu=fight with,energetic)、「(女性が鶯の糞で顔を)しきりに・拭う(洗う。その糞を出す鳥)」の転訛と解します。)

の転訛と解します。

 

236H1大伴長徳(ながとこ)連馬飼(うまかひ)・犬上健部(たけべ)君・阿倍内(うち)麻呂(倉梯(くらはし)麻呂)・蘇我山田石川(やまだのいしかは)麻呂

 孝徳即位前紀は、皇極天皇は乙巳(いっし)の変の直後軽皇子を指名して譲位し、軽皇子は壇に登って即位し、その際壇の右には大伴長徳(ながとこ)連馬飼(うまかひ)が、左には犬上健部(たけべ)君が立ったとします。

 天皇は、中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内(うち)麻呂(倉梯(くらはし)麻呂)を左大臣に、蘇我山田石川(やまだのいしかは)麻呂を右大臣に任命したとします。

 この「ながとこ」、「うまかひ」、「たけべ」、「うち」、「くらはし」、「やまだのいしかは」は、

  「ナ・(ン)ガ・トコ」、NA-NGA-TOKO(na=the...of,belonging to;nga=satisfied,breathe;toko=pole,support with a pole,push to a distance,begin to move)、「呼吸をする(生きている)・柱(棒)の・よう(に立っている。連)」

  「ウマ(ン)ガ・カヒ」、UMANGA-KAHI(umanga=pursuit,occupation,accustomed;kahi=wedge,chief)、「(職務に)熟達した・首長」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」となった)

  「タケ・パイ」、TAKE-PAI(take=stump,base of a hill,origin,post in the palisading of a stockade,chief;pai=good,suitable,good-looking)、「美しい・(集落の入り口に立っている)飾り柱のよう(に立っている。君)」(「犬上(いぬかみ)」については234H4犬上君三田耜(みたすき)の項を参照してください。)

  「ウチ」、UTI(bite(utiuti=annoy,worry))、「(いろいろと)思い悩んだ(臣)」

  「クラ・パチ」、KURA-PATI(kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure,chief;pati=try to obtain by coaxing,flattery,shallow,ooze)、「(赤い羽で)飾り立てた・(天皇に)へつらった(寵愛された。臣)」(孝徳紀大化4年3月条は天皇が左大臣阿部内麻呂の死を悲しんで人前で号泣したと伝えます。)

  「イア・マタ・ノ・イチ・カハ」、IA-MATA-NO-ITI-KAHA(ia=indeed,current;mata=heap,headland,face,eye,medium of communication with a spirit,spell,prophetic song;no=of;iti=small;kaha=strong,strength,rope,edge,linrage,file of an army)、「実に・高い境地に居る(野心を持たない)・ところの・弱少な・兵力しか持たなかった(臣)」または「イア・マタ(ン)ゴヒ・イチ・カワ」、IA-MATANGOHI-ITI-KAWA(ia=indeed,current;matangohi=the first person killed or taken in war;iti=small;kawa=charmed,a ceremonies in connection with a battle etc.)、「実に・(236H9蘇我臣日向の讒言のために)戦いの最初の犠牲者となった・弱い(お座なりの)・勝利のための祈願をした(臣)」(「マタ(ン)ゴヒ」のNG音がN音に変化し、H音が脱落して「マタノ」となった)(孝徳紀大化5年3月条は蘇我臣日向の讒言のために兵を向けられましたが、臣下は反抗すべきべはないと率先して自ら首をくくり、一族も共に殉じたとします。236H9蘇我臣日向の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

236H2百済大使佐平縁福(えんふく)・三輪栗隈君東人(あづまひと)・馬飼(うまかひ)造・倭漢直比羅夫(ひらぶ)・忌部首子(こ)麻呂

 大化元年7月条は、高麗・百済・新羅の使者が来朝しましたが、百済大使佐平縁福(えんふく)が病気のため難波に止まって朝廷に来なかったと伝えます。この際任那の地域を所管する百済に三輪栗隈君東人(あづまひと)と馬飼(うまかひ)造を派遣することとなったとします。

 また神に奉る幣を課すために倭漢直比羅夫(ひらぶ)を尾張国へ、忌部首子(こ)麻呂を美濃国へ派遣したとします。

 この「えんふく」、「あづまひと」、「ひらぶ」は、

  「エ(ン)ガ・プク」、ENGA-PUKU(enga=anxiety;puku=swelling,abdomen,stomach)、「お腹(胃腸)に・心配があった(病気に罹って難波に止まった。大使)」(「エ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「エナ」から「エン」と、「プク」のP音がF音を経てH音に変化して「フク」となった)

  「アツ・マ・ピト」、ATU-MA-PITO(atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action;ma=white,clear;pito=end,extremity,at first)、「清らかに(私心無く)・行動することでは・一番の(君)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「ヒ・ラプ」、HI-RAPU(hi=raise,rise;rapu=seek,look for,apply to any one for advice,ascertain)、「(神に奉る幣を)追求するために・立ち上がった(将軍)」または「ヒラ・プ」、HIRA-PU(hira=numerous,great,important;pu=tribe,heap,wise one)、「偉大な・賢者(将軍。または巨大な・種類に属する(貝))」(前出の232H2巨勢臣毘羅夫(ひらぶ)連の項を参照してください。)

の転訛と解します。(「馬飼(うまかひ)造」については236H1大伴長徳(ながとこ)連馬飼(うまかひ)の項を、「忌部首子麻呂(こまろ)」については229H10東漢坂上直子麻呂(こまろ)の項を参照してください。)

 

236H3沙門狛(こま)大法師・恵妙(ゑめう)法師・来目(くめ)臣・三輪色部(しこぶ)君・額田部連甥(をひ)

 大化元年8月条は、沙門狛(こま)大法師をはじめ、236H13恵資(ゑし)法師、236H11道登(だうとう)法師、236H11僧旻(そうみん)法師、恵妙(ゑめう)法師など10人を十師に任じて僧侶の指導にあたらせ、特に恵妙法師を百済寺の寺主とし、また来目(くめ)臣、三輪色部(しこぶ)君、額田部連甥(をひ)を僧侶を取り締まる法頭に任じたとあります。

 この「こま」、「ゑめう」、「くめ」、「しこぶ」、「をひ」は、

  「コマ」、KOMA(pale,whitish)、「蒼白い(顔をした。法師)」

  「ワイ・ミイ・アウ」、WHAI-MII-AU(whai=follow,pursue,look for,lay hold of;(Hawaii)mii=clasp,good-looking;au=firm,intense)、「(学問を)追求し・しっかりと・しがみついた(専念した。僧)」(「ワイ」のAI音がE音に変化して「ヱ」と、「ミイ」のI音と「アウ」のAU音が変化したO音と連結して「ミョウ」となった)

  「クメ」、KUME(pull,drag,stretch,asthma)、「(法を犯した僧侶を)引っ張って行く(臣)」

  「チコ・プ」、TIKO-PU(tiko=stand out,protrude;pu=tribe,bunch,heap,skilled person,wise one)、「ずば抜けた・賢明な(君)」

  「オヒ」、OHI(grow,be vigorous)、「元気が良い(連)」

の転訛と解します。

 

236H4蘇我田口臣川掘(かはほり)・物部朴井(えのゐ)連椎子(しひのみ)・吉備笠臣垂(しだる)・倭漢文直(あたひ)麻呂・朴市(えち)秦造田来津(たくつ)・菟田朴室古(ふる)・高麗宮知(みやしり)・阿倍渠曽倍(こそへ)臣・佐伯部子(こ)麻呂・吉野(よしの)大兄王

 大化元年9月条は、古人大兄皇子が蘇我田口臣川掘(かはほり)、物部朴井(えのゐ)連椎子(しひのみ)、吉備笠臣垂(しだる)、倭漢文直(あたひ)麻呂および朴市秦造田来津(たくつ)と謀反を企てたとし、一味の中の吉備笠臣垂が中大兄皇子に自首したので、中大兄皇子は菟田朴室古(ふる)と高麗宮知(みやしり)に古人大兄皇子を討たせたとします。或本には阿倍渠曽倍(こそへ)臣と佐伯部子(こ)麻呂に討たせたとあり、また或本には吉野(よしの)大兄王(古人大兄皇子)が11月に謀反を企て露見して殺されたとあります。

 この「かはほり」、「えのゐ」、「しひのみ」、「しだる」、「あたひ」、「えち」、「たくつ」、「ふる」、「みやしり」、「こそへ」は、

  「カハ・ホリ」、KAHA-HORI(kaha=strong,strength,persistency,rope,edge,file of an army;hori=cut,be gone by,false,speak falsely)、「嘘を吐き・続けた(臣)」

  「エ・ノイ」、E-NOI(e=to denote action in progress or temporary condition;noi=elevated,on high,errected)、「たまたま・高い地位にある(連)」

  「チヒ・(ン)ガウ・ミイ」、TIHI-NGAU-MII(tihi=summit,top,lie in a heap;ngau=bite,hurt,attack;(Hawaii)mii=clasp,attractive,good-looking)、「高い地位にある・(人を)攻撃する・魅力のある(連)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「チ・タル」、TI-TARU(ti=throw,cast,overcome;taru=shake,overcome,painful,thing,sometimes with an idea of disparagement or unpleasantness involved)、「悪い感情(企て)を・吐露した(自首した。臣)」

  「アタ・ヒ」、ATA-HI(ata=expressive of disgust,how horrible!;hi=raise,rise)、「高い地位にある・何と悪い奴(直)」

  「エチ」、ETI(shrink,recoil)、「滅亡した(連)」

  「タク・ツ」、TAKU-TU(taku=slow,edge,threaten behind one's back;tu=fight with,energetic)、「人に遅れて(戦う人がいなくなっても一人だけ残って)・奮戦した(造)」(古典篇(その十四)の238H4朴市(えち)田来津(たくつ)の項を参照してください。)

  「フル」、HURU(dislike,refuse,hair,glow,contract,an incantation recited over weapons before fighting)、「(戦闘の前に)兵器に(戦勝の)祈りを籠めた(男子)」

  「ミヒ・イア・チリ」、MIHI-IA-TIRI(mihi=greet,admire;ia=indeed,current;tiri=throw or place one by one,scatter,offering to a god)、「尊敬すべき・実に・神に(捧げ物をして戦勝を)祈った(男子)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「コト・ヘ」、KOTO-HE(koto=loathing,averse,sob;he=wrong,erring,in trouble or difficulty)、「忌み嫌われる・悪い奴(臣)」

の転訛と解します。(「佐伯部子(こ)麻呂」については229H10東漢坂上直子麻呂(こまろ)の項を参照してください。)

 

236H5穂積臣咋(くひ)・富制(ふせ)臣・巨勢臣紫檀(したの)・巨勢徳禰(とこね)臣・朴井(えのゐ)連・押坂(おしさか)連・台直須彌(すみ)・紀麻利耆它(まりきた)臣・三輪君大口(おほくち)・河辺臣百依(ももより)・河辺臣磯泊(しはつ)

 大化2年3月条は、地方官が犯した罪過として、穂積臣咋(くひ)が百姓から物を奪ってすべてを返還せず、その介の富制(ふせ)臣、巨勢臣紫檀(したの)が上司を制止しなかったことを挙げ、以下同様に巨勢徳禰(とこね)臣とその部下の朴井(えのゐ)連、押坂(おしさか)連、台直須彌(すみ)の罪過、紀麻利耆它(まりきた)臣とその部下の三輪君大口(おほくち)と河辺臣百依(ももより)、さらにその部下の河辺臣磯泊(しはつ)等8名の罪過のほか11名の罪過を列挙します。

 この「くひ」、「ふせ」、「したの」、「とこね」、「えのゐ」、「おしさか」、「すみ」、「まりきた」、「おほくち」、「ももより」、「しはつ」は、

  「クヒ」、KUHI(insert)、「(百姓から取り上げた物を自分の懐に)入れた(臣)」

  「フテテ」、HUTETE(be tied up in a corner of a bag etc.)、「(百姓から取り上げた物を自分の)袋の中にしまい込む(介)」(反復語尾の「テ」が脱落して「フテ」から「フセ」となった)

  「チ・タ(ン)ゴ」、TI-TANGO(ti=throw,cast,overcome;tango=take in the hand,acquire,remove)、「(百姓から取り上げた物を)自分の物として・罪に問われた(臣)」(「タ(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「タノ」となった)

  「トコ・ネイ」、TOKO-NEI(toko=pole,propel with a pole,push to a distance;nei,neinei=stretched forward)、「(罪に問われて)遠国へ・放逐された(臣)」

  「オチ・タカ」、OTI-TAKA(oti=finished;taka=fall off,fall away,turn on a pivot)、「遂に・(高い地位から)落とされた(連)」

  「ツ・ミイ」、TU-MII(tu=stamd,settle;(Hawaii)mii=clasp)、「(悪事を行う上司に)迎合して・すがりついた(直)」

  「マリ・キタ」、MARI-KITA(mari=fortunate,luckey,of good omen;kita=tightly,fast,intensely,tightly clenched)、「幸運(の結果)と・固く信じていた(臣)」

  「オ・ハウク・チ」、O-HAUKU-TI(o=the...of;hauku=dew,damp;ti=ti=throw,cast,overcome)、「(罪に問われて)冷や汗を・流し・た(君)」(「ハウク」のAU音がO音に変化して「ホク」となった)

  「モモ・イ・オリ」、MOMO-I-ORI(momo=descendant,blood,in good condition,well proportined;i=past tense,beside;ori=agitate,sway,move about)、「(悪事を)扇動・した・子孫(部下。臣)」

  「チ・パツ」、TI-PATU(ti=throw,cast,overcome;patu=strike,ill treat in any way,kill)、「悪行を・行った(臣)」(「パツ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハツ」となった)

の転訛と解します。

 

236H6塩屋制魚(しほやのこのしろ)・神社福草(かむこそのさきくさ)・朝倉(あさくら)君・椀子(まろこ)連・三河大伴直・蘆尾(すすきを)直

 同上大化2年3月条は、地方官のうち塩屋制魚(しほやのこのしろ)、神社福草(かむこそのさきくさ)、朝倉(あさくら)君、椀子(まろこ)連、三河大伴直、蘆尾(すすきを)直の6人を法を順奉したとして褒賞します。

 この「しほやのこのしろ」、「かむこそのさきくさ」、「あさくら」、「まろこ」、「すすきを」は、

  「チホウ・イア・ノ・コノ・チロ」、TIHOU-IA-NO-KONO-TIRO(tihou=an implement for cultivating;ia=indeed,current;no=of;kono=bend,noose,small basket for cooked food;tiro=look,survey)、「鍬で耕した(収穫)・だけ・の・小さな食膳を・(黙って)見ていた(貧弱な食事で我慢した。男子)」

  「カム・コト・ノ・タキ・クタ」、KAMU-KOTO-NO-TAKI-KUTA(kamu=eat,munch;koto=loathing,sob(kotokoto=trickle,small of no account);no=of;taki=take to one side,take food from the fire;kuta=a rush,encumbrance)、「ほんの少量の・食事・として・雑草を・煮ていた(貧弱な食事で我慢した。男子)」

  「アタ・クラ」、ATA-KURA(ata=gently,clearly,opely,quite;kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure,chief)、「清らかな・(赤い羽根で飾った)美しい(場所。そこに住む君)」

  「ツツキ・アウ」、TUTUKI-AU(tutuki=reach the farthest limit,be completed;au=firm,intense)、「堅固に・(法の遵守を)極限まで履行した(直)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

の転訛と解します。

 

236H7高向博士(はかせ)黒(くろ)麻呂(亦の名玄理(ぐゑんり))

 大化2年9月条は、高向(たかむく)博士(はかせ)黒(くろ)麻呂(亦の名玄理(ぐゑんり))を新羅に派遣して人質を出させることとし、旧任那の貢物の納入義務を免除したとします。(大化元年6月高向史玄理は、僧旻法師とともに国博士(国政顧問)に任じられ、白雉4年6月僧旻法師病死、是歳皇太子、前天皇、皇后以下皇族、百官が飛鳥に移転、翌5年2月玄理は遣唐使として出発、唐において病死します。)

 この「たかむく」、「はかせ」、「くろ」、「ぐゑんり」は、

  「タカ・ムク」、TAKA-MUKU(taka=heap,lie in a heap;muku=wipe,rub,smear)、「(国博士という)高い地位に就いて・薄汚れた(博士)」

  「ハカ・タエ」、HAKA-TAE(haka=expressing surprise,complaint,admiration etc.;tae=arrive,reach,extend toproceed to)、「(学業等が)驚嘆すべき程度に・達している(博士)」(「タエ」のAE音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

  「ク・ロ」、KU-RO(ku=silent;ro=roto=inside)、「心底から・無口な(博士)」

  「(ン)グエ(ン)グエ・リ」、NGUENGUE-RI(nguengue=quiet,silent;ri=screen,rotect,bind)、「静かな上にも・静かな(博士)」(「(ン)グエ(ン)グエ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「グエヌエ」から「グエン」となった)

の転訛と解します。

 

236H8倭漢直荒田井比羅夫(あらたゐのひらぶ)

 大化3年是歳条は、工人である倭漢直荒田井比羅夫(あらたゐのひらぶ)が溝を掘って難波に引く工事を誤り、掘り直して百姓を疲労させたことを非難する上書があり、天皇はこれを認めて即日工事を中止したとします。

 この「あらたゐ」は、

  「アラ・タ・ウイ」、ARA-TA-UI(ara=way,path;ta=dash,beat,lay;ui=disentangle,relax or loosen a noose)、「ほどけた輪縄(のような蛇行する河川または水路)に・手を加えた(改修した)・水路(その水路を改修する工人)」

の転訛と解します。(「比羅夫(ひらぶ)」については前出236H2倭漢直比羅夫(ひらぶ)の項を参照してください。))

 

236H9蘇我臣日向(ひむか)(身刺(むさし))・大伴狛(こま)連・三国麻呂(まろ)公・法師(ほふし)・赤猪(あかゐ)(秦(はだ))・興志(こごし)・土師連身(む)・采女臣使主(おみ)麻呂・田口臣筑紫(つくし)・物部二田(ふった)造塩(しほ)・耳梨道徳(だうとこ)・高田醜雄(しこを)・秦吾寺(あてら)・蘇我造(みやつこ)媛・堅塩(きたし)・野中川原史満(みつ)

 大化5年3月条は、蘇我臣日向(ひむか)(字は身刺(むさし))が236H1蘇我山田石川(やまだのいしかは)麻呂を讒言して皇太子(中大兄皇子)を海辺で殺そうとしたと訴え、皇太子はこれを信じ、天皇は大伴狛(こま)連、三国麻呂(まろ)公および236H5穂積噛(くひ)臣を大臣の下へ派遣して事の真偽を問わせたところ、大臣は天皇に直接申し開きをするといい、天皇は直接の申し開きを許さず兵を差し向けようとしたので、大臣は法師(ほふし)と赤猪(あかゐ)(亦の名秦(はだ))の2人の子を連れて難波から大和へ逃げ、長男の興志(こごし)が天皇軍を迎え撃とうとするのを止め、「天皇に逆らう気は毛頭なく恨みもしない」と言って山田寺で自ら首をくくり、妻子8人も後を追います。

 天皇は大伴狛連と蘇我日向臣を将軍として大臣を追いますが、土師連身(む)と采女臣使主(おみ)麻呂が山田寺から大臣が家族とともに自殺したと告げます。そののち、大臣に同行した田口臣筑紫(つくし)等が逮捕され、物部二田(ふった)造塩(しほ)が大臣の死体の首を切り落とし、大臣の罪に連座して田口臣筑紫、耳梨道徳(だうとこ)、高田醜雄(しこを)、額田部湯坐連、秦吾寺(あてら)等14人が斬られ、9人が絞首され、15人が遠流されたとします。

 さらに同月是月条は、大臣の遺産を検めたところ、良き書には皇太子の書、重宝には皇太子の物と書かれてあり、皇太子は大臣の無実を知って悲しみ、蘇我日向臣を筑紫大宰師に追いやったとし、また、皇太子の妃蘇我造(みやつこ)媛は、物部二田造塩が大臣の首を斬ったと聞いて悲しみ、このため近侍の者は塩を堅塩(きたし)と呼び、遂に造媛は嘆きのあまり死に、これを悲しんだ皇太子に野中川原史満(みつ)が歌を詠んで慰めたと伝えます。

 この「ひむか」、「むさし」、「ほふし」、「あかゐ」、「はだ」、「こごし」、「む」、「おみ」、「つくし」、「ふった」、「しほ」、「だうとこ」、「しこを」、「あてら」、「みやつこ」、「きたし」、「みつ」は、

  「ヒ・ムカカ」、HI-MUKAKA(hi=raise,rise;mukaka=provoke,irritate)、「(讒言したことが判明して天皇・皇太子の)怒りを・引き起こした(臣)」(「ムカカ」の反復語尾の「カ」が脱落して「ムカ」となった)

  「ムツ・アチ」、MUTU-ATI(mutu=brought to an end,left off,truncated;ati=descendant,clan,to indicate a person and his clan)、「地の涯(はて。筑紫大宰師)へ追いやられた・人」

  「ハフ・チ」、HAHU-TI(hahu=disinter the bones of the dead before removing them to their final resting place,search for,scatter;ti=throw,cast,overcome)、「遺骨が掘り起こされて・ばら撒かれた(男子)」

  「アカ・ウイ」、AKA-WHI(aka=yearning,affection;whi=can,be able)、「(やっと)感情を表現・できる(子。幼児)」

  「ハ・アタ」、HA-ATA(ha=breathe,sound of voice,what!;ata=gently,clearly,opely,slowly,quite)、「たどたどしく・言葉を話す(呼吸をする。幼児)」(「ハ」のA音と「アタ」の語頭のA音が連結して「ハタ」となった)

  「ココチ」、KOKOTI(=koti=cut in two,divide,interrupt,cut across the path of any one)、「(父と)離れていた(長子)」または「(討手を)邀撃しようとした(長子)」

  「ム」、MU(murmur at,silent)、「(大臣一家が自殺したことを)小声でささやいた(連)」

  「アウミヒ」、AUMIHI(sigh for,greet,welcome)、「(天皇軍を)歓迎した(臣)」(AU音がO音に変化し、H音が脱落して「オミ」となった)

  「ツ・クチ」、TU-KUTI(tu=stand,settle;kuti=contract,pinch)、「(大臣と)密着して・(行動して)居た(臣)」

  「フ・ツタ」、HU-TUTA(hu=make any inarticulate sound,noise;tuta=back of the neck)、「首の後ろで・声を発する(首を斬ることを役目とする。造)」

  「チ・ホ」、TI-HO(ti=throw,cast,overcome;ho=put out the lips,shout)、「(斬るときに)叫び声を・上げた(造)」

  「タウトコ」、TAUTOKO(prop up,support,separate,incite)、「(大臣を)支援していた(男子)」

  「チコ・アウ」、TIKO-AU(tiko=stand out,protrude,settled upon;au=firm,intense)、「(大臣に)しっかりと・密着していた(男子)」

  「アテ・ラ」、ATE-RA(ate=liver,heart,spirit;ra=wed)、「(大臣と)心を・一つにしていた(男子)」

  「ミヒ・イア・ツコウ」、MIHI-IA-TUKOU(mihi=greet,admire;ia=indeed,current;tukou=dress timber with an adze)、「尊敬すべき・実に・(木を斧で削ったような)滑らかな肌をした(媛)」

  「キタ・アチ」、KITA-ATI(kita=tightly,fast,intensely;ati=descendant,clan)、「固結した・部類の(塩)」(「キタ」の語尾のA音と「アチ」の語頭のA音が連結して「キタチ」から「キタシ」となった)

  「ミヒ・ツ」、MIHI-TU(mihi=greet,admire;tu=stand,settle)、「尊敬すべきもの(素晴らしい歌の才能)が・ある(史)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。(「大伴狛(こま)連」については236H3沙門狛(こま)大法師の項を、「三国麻呂(まろ)公」については226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

236H10掃部連角(つの)麻呂

 大化5年5月条は、三輪君色夫(しこぶ)と掃部連角(つの)麻呂を新羅に派遣したとします。

 この「つの」は、

  「ツ(ン)ゴウ」、TUNGOU(nod,beckon)、「(三輪君色夫(しこぶ)の言うことに)頷いてばかりいた(連)」(NG音がN音に変化して「ツノウ」から「ツノ」となった)

の転訛と解します。(「色夫(しこぶ)」については前出236H3三輪色部(しこぶ)君の項を参照してください。)

 

236H11草壁連醜経(しこぶ)・道登(だうとう)法師・僧旻(そうみん)法師・粟田臣飯虫(いひむし)・猪名君高見(たかみ)・三輪君甕穂(みかほ)・紀臣乎麻呂岐太(きだ)・倉臣小屎(をくそ)

 白雉元年2月条は、穴門(あなと)国司草壁連醜経(しこぶ)が白雉を献上したので、百済君に質問したところ後漢に前例があると答え、沙門等はいまだ聞いたことがないと答えたのに対し、道登(だうとう)法師が高麗で吉祥として寺を建立した例などを、僧旻(そうみん)法師も聖王のときに出現する瑞祥で周・晋の前例などを詳しく答えて大赦を行うべきであると奏上したとあります。

 この後朝廷に百官が居並ぶ中を粟田臣飯虫(いひむし)等4人が雉の輿を持って進み、次いで三国公麻呂、猪名君高見(たかみ)、三輪君甕穂(みかほ)および紀臣乎麻呂岐太(きだ)4人が代わって雉の輿を持ち、左右大臣が前に附き、伊勢王、倉臣小屎(をくそ)が後ろに附いて天皇の前に出て、巨勢大臣が祝辞を述べ、白雉と改元し、大赦を行う旨の勅が発せられたと伝えます。

 この「だうとう」、「そうみん」、「いひむし」、「たかみ」、「みかほ」、「きだ」、「をくそ」は、

  「タウタウ(ン)ガ」、TAUTAUNGA(ambuscade,lying in wait)、「(伏兵のように)待ってましたとばかりに(吉祥の故事について)弁じた(法師)」(二番目のAU音がOU音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「タウトウ」となった)

  「タウ・ミネ」、TAU-MINE(tau=turn away,look another direction;mine=be assembled)、「(吉祥の故事について)別の見地から・補足した(法師)」(「タウ」のAU音がOU音に変化して「トウ」から「ソウ」と、「ミネ」が「ミン」となった)

  「イヒ・ム・チ」、IHI-MU-TI(ihi=power,authority,spell;mu=silent;ti=throw,cast,overcome)、「(白雉の輸送の無事を祈念する)呪文を・口の中で・唱えた(臣)」

  「タカ・ミイ」、TAKA-MII(taka=heap,heap up;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「(白雉を入れた輿を)しっかりと持って・持ち上げた(君)」

  「ミイ・カホ」、MII-KAHO((Hawaii)mii=clasp,good-looking;kaho=batten)、「(白雉を入れた輿の)取っ手を・しっかりと持った(君)」

  「キタ」、KITA(fast,intensely,tightly clenched)、「(白雉を入れた輿を)しっかりと保持していた(臣)」

  「オク・タウ」、OKU-TAU((Hawaii)oku=to stand errect,protrude,emerge;tau=come to rest,float,lie steeping in water,be suitable)、「際だって・ゆったりとしている(臣)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ソ」となった)

の転訛と解します。(「穴門(あなと)」については古典篇(その八)の214B3穴門豊浦(あなとのとゆら)宮の項を、「醜経(しこぶ)」については前出236H3三輪色部(しこぶ)君の項を参照してください。)

 

236H12漢山口直大口(おほくち)・倭漢直縣(あがた)・白髪部連鐙(あぶみ)・難波吉士胡座(あぐら)

 白雉元年是歳条は、漢山口直大口(おほくち)が詔によって千体の仏像を彫刻し、また倭漢直縣(あがた)、白髪部連鐙(あぶみ)および難波吉士胡座(あぐら)を安芸国へ派遣して百済舶二隻を建造させたと伝えます。

 この「おほくち」、「あぶみ」、「あぐら」は、

  「オ・ハウク・チ」、O-HAUKU-TI(o=the...of,belonging to;hauku=dew,damp;ti=throw,cast,overcome)、「実に・(千体の仏像を刻むのに)大汗を・振り撒いた(かいた。直)」

  「アプ・ミイ」、APU-MII(apu=force one's way into the ground,gather into the hands,heap upon;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「(船舶を建造することに)ひたすら専念して・手を休めなかった(直)」

  「ア・(ン)グ・ラ」、A-NGU-RA(a=the...of,belonging to;ngu=silent,greedy;ra=wed)、「(船舶を建造することに熱中して)実に・無口の・極みだった(直)」

の転訛と解します。(「倭漢直縣(あがた)」については235H2倭漢書直縣(あがた)の項を参照してください。)

 

236H13法師恵隠(ゑおん)・恵資(ゑし)

 白雉3年4月条は、法師恵隠(ゑおん)を内裏に呼んで講師とし恵資(ゑし)を質問者として、法師千人を対象として無量寿経を講義させましたが、(功徳がないばかりか)講義の終了とともに大雨が降り始めて大水害となったと伝えます。

 この「ゑおん」、「ゑし」は、

  「ワイ・アウ(ン)ガ」、WHAI-AUNGA(whai=follow,pursue,look for,lay hold of;aunga=not including)、「(学問の)研究の・内容が無かった(お粗末だった。法師)」(「ワイ」のAI音がE音に変化して「ヱ」と、「アウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がN音に変化して「オナ」から「オン」となった)

  「ワイ・チ」、WHAI-TI(whai=follow,pursue,look for,lay hold of;ti=throw,cast,overcome)、「(学問の)追求が・投げやりだった(お座なりだった。法師)」(「ワイ」のAI音がE音に変化して「ヱ」となった)

の転訛と解します。

 

236H14吉士長丹(ながに)・吉士駒(こま)(絲(いと))・室原首御田(みた)・高田首根(ね)麻呂(八掬脛(やつかはぎ))・掃守連小(を)麻呂・土師連八手(やつて)

 白雉4年5月条は、第二回遣唐使を派遣することとし、第一船には大使吉士長丹(ながに)、副使吉士駒(こま)(亦の名絲(いと))のほか学問僧13人(或本は15人)、学生2人(或本は3人)、送使室原首御田(みた)、合計121人が乗り組み、第二船には大使高田首根(ね)麻呂(亦の名八掬脛(やつかはぎ))、副使掃守連小(を)麻呂、学問僧2人、送使土師連八手(やつて)、合計120人が乗り組んだ(この第二船は薩摩沖で難破して236H16門部金(かどべのかね)等5人だけが生還しました)とします。

 この「ながに」、「こま」、「いと」、「みた」、「ね」、「やつかはぎ」、「を」、「やつて」は、

  「ナ・(ン)ガ(ン)ギ」、NA-NGANGI(na=belonging to;ngangi=cry of distress,noise)、「(船酔いで)つい・悲鳴を上げた(大使)」(「(ン)ガ(ン)ギ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ガニ」となった)

  「コマ」、KOMA(pale,whitish)、「(船酔いで)蒼白となった(副使)」

  「イト」、ITO(object of revenge,enemy)、「(船酔いという)罰を受けた(副使)」

  「ミイ・タ」、MII-TA((Hawaii)mii=clasp,good-looking;ta=dash,beat,lay)、「(皆が船酔いで苦しんでいる中で)涼しい顔をして・座っていた(送使)」

  「ネイ」、NEI(to denote proximityto or connection with the speaker,to denote continuance of action)、「(進めや進めと)前進し続けた(大使)」

  「イア・ツカハ・ア(ン)ギ」、IA-TUKAHA-ANGI(ia=indeed,current;tukaha=strenuous,vigorous,hasty;angi=free without hindrance,move freely)、「実に・怖いもの無しに・元気良く(行動する。大使)」(「ツカハ」の語尾のA音と「ア(ン)ギ」の語頭のA音が連結し、NG音がG音に変化して「ツカハギ」となった)

  「アウ」、AU(firm,intense)、「堅実な(行動をする。副使)」または「(恐ろしさに)縮み上がっていた(副使)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)

  「イア・ツテ」、IA-TUTE(ia=indeed,current;tute=shove,push,a charm to ward off malign influences)、「実に(無謀にも)・(前進を)促した(送使)」または「しきりに・(災害除けの)呪文を唱えた(送使)」

の転訛と解します。

 

236H15狛竪部子(こ)麻呂・鮒戸(ふなと)直

 白雉4年5月是月条は236H11僧旻法師が危篤と聞いた天皇が法師を見舞ったとし、同6月条は天皇、皇祖母尊、皇太子等が僧旻法師の死去を悼み、狛竪部子(こ)麻呂、鮒戸(ふなと)直等に菩薩像を多数造らせ、川原寺に安置したとします。

 この「こ」、「ふなと」は、

  「カウ」、KAU(swim,wade,stalk,multitude)、「(多数の菩薩像の間を)泳ぎ廻った(次から次に彩色・点晴して廻った。画工)」(AU音がO音に変化して「コ」となった)

  「フ(ン)ガ・ト」、HUNGA-TO(hunga=company of persons,slave;to=drag)、「工人達を・率いている(直)」(「フ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「フナ」となった)

の転訛と解します。

 

236H16曲(くま)・門部金(かどべのかね)

 白雉4年7月条は、遣唐使236H14高田根麻呂等が乗った第二船が薩摩の曲(くま)・竹嶋の間(錦江湾口と大隅諸島の竹島との間の大隅海峡と解します。)で沈没しましたが、5人だけが木にすがって竹嶋に泳ぎ着き、その中の門部金(かどべのかね)が竹を伐って筏を造り、神嶋に辿り着いたと伝えます。

 この「くま」、「かどべのかね」は、

  「クマ」、KUMA((Hawaii)cracking of the skin between fingers and toes)、「手指の間のような(地域。ここでは薩摩半島と大隅半島の間。錦江湾口を指す)」

  「カト・パエ・ノホ・カネ」、KATO-PAE-NOHO-KANE(kato=flowing,flood;pae=horizen,direction,lie across;noho=sit,settle;kane=head)、「首を・水面の・上に出して・漂流した(男子)」(「パエ」のAE音がE音に変化して「ペ」から「ベ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

236H17高向史玄理(ぐゑんり)・河辺臣麻呂(まろ)・薬師恵日(ゑにち)・書直(あたひ)麻呂・宮首阿彌陀(あみだ)・岡君宜(よろし)・置始連大伯(おほく)・中臣間人連老(おゆ)・田辺史鳥(とり)

 白雉5年2月条は、第三回遣唐使として、押使236H7高向史玄理(ぐゑんり)、大使河辺臣麻呂(まろ)、副使薬師恵日(ゑにち)、判官書直(あたひ)麻呂、宮首阿彌陀(あみだ)、岡君宜(よろし)、置始連大伯(おほく)、中臣間人連老(おゆ)、田辺史鳥(とり)等が2船に分乗し、新羅道を経由して唐に到達しましたが、高向史玄理ほかがその地で死んだとあります。

 この「ゑにち」、「あたひ」、「あみだ」、「よろし」、「おほく」、「おゆ」、「とり」は、

  「ワイ・ニチ」、WHAI-NITI(whai=follow,pursue,look for,lay hold of;niti=toy dart)、「投げ矢を的に命中させるように(病気に応じた薬を的確に処方する)・研究をしている(薬師)」(「ワイ」のAI音がE音に変化して「ヱ」となった)

  「ア・タヒ」、A-TAHI(a=the...of,belonging to;tahi=one,single,unique,sweep,smooth)、「(文書を)すらすらと・書く(判官)」

  「アミ・タ」、AMI-TA(ami=gather,collect;ta=dash,beat,lay)、「(文書を)集めて・(整理して)置く(書記)」

  「イ・オロ・チ」、I-ORO-TI(i=past tense,beside;oro=grind,defame,rumble;ti=throw,cast,overcome)、「悪い評判を・流し・た(君)」

  「オホ・ク」、OHO-KU(oho=spring up,wake up,arise;ku=silent)、「すっくと立っている・静かな(連)」

  「オイ・ウ」、OI-U(oi=shout,shudder,move continuously,agitate;u=bite,be firm,be fixed)、「(しょっちゅう)身体を揺すっているのが・習慣となっている(連)」

  「タウリ」、TAURI(fillet,band)、「(キチンと)帯を締めている(史)」(AU音がO音に変化して「トリ」となった)

の転訛と解します。( 「河辺臣麻呂(まろ)」については226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

236H18百舌鳥土師連土徳(つちとこ)

 白雉5年10月条は、天皇が難波宮で崩御し、百舌鳥土師連土徳(つちとこ)が南庭に殯宮(もがりのみや)を設営したとします。

 この「つちとこ」は、

  「ツ・チ・トコ」、TU-TI-TOKO(tu=stand,settle;ti=throw,cast,overcome;toko=pole,propel with a pole,push or force to a distance)、「(死者の霊魂を運ぶとされる木製の鳥を頂上に付けた)柱を・立て・並べた(殯の設営をした。連)」

の転訛と解します。

 

 

[237斉明天皇]

 

237A天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇

 天皇は235A天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇の項を参照してください(国風諡号は皇極・斉明天皇とも同じです)。

 孝徳天皇が失意のうちに崩御された後、重祚した天皇は、在世中盛んに土木工事を起こし、批判を受けます。

 孝徳天皇の遺児有間皇子は、最初狂人を装つていましたが、斉明天皇4年に天皇が紀温湯へ行幸中に蘇我赤兄の挑発に乗って反乱を企て、逮捕されて絞殺されます。

 斉明天皇6年には新羅・唐連合軍の攻撃を受けた百済から救援の要請があり、天皇は直ちに出兵を決意し、九州に赴きますが、朝倉神社の木を勝手に伐採して朝倉橘広庭宮を建てたため神罰を蒙って崩御します。

 

237B1飛鳥板葺(いたぶき)宮

 斉明紀元年正月条は、天皇が飛鳥板葺(いたぶき)宮で重祚したとします。(宮については前出235B1飛鳥板葺(あすかのいたぶき)宮の項を参照してください。)

 

237B2飛鳥川原(かわら)宮

 斉明紀元年10月条は、小墾田に大宮を造営し、瓦葺きにしよう(当時瓦葺きの建物は仏寺だけでした)としましたが、必要な大材が得られず、造営は中止されたとします。

 同年冬条は、飛鳥板葺(いたぶき)宮が火災に遭ったので、飛鳥川原(かわら)宮に遷ったとします。

 この「かわら」は、

  「カワ・ラ」、KAWA-RA(kawa=heap,reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals;ra=wed)、「水路(の縁)に・沿って造られた(宮)」

の転訛と解します。

 

237B3後(のちの)飛鳥岡本(をかもと)宮

 斉明紀2年是歳条は、飛鳥の岡本(をかもと)に更めて宮を造営して遷り、後(のちの)飛鳥岡本(をかもと)宮と呼んだとします。(宮については前出234B1岡本(をかもと)宮の項を参照してください。)

 

237B4両槻(ふたつき)宮(天(あまつ)宮)・狂心(たぶれこころ)の渠

 斉明紀2年是歳条は、田身(たむ)嶺(多武峰)の上に垣を巡らし、嶺の上の両つの槻の木の辺に道観を建てた宮を造り、両槻(ふたつき)宮(亦の名天(あまつ)宮)と呼んだとします。

 また、天皇はさかんに土木工事を好み、香具山の西から石上山に至る水路を掘削して世人から狂心(たぶれこころ)の渠と謗られました。

 この「ふたつき」、「あまつ」、「たぶれこころ」は、

  「フ・タツ・キ」、HU-TATU-KI(hu=silent,desire,hill;tatu=reach the bottom,be at ease,be content;ki=full,very)、「(天皇が)望みを・十分に・叶えた(満足した。宮)」または「プタ・ツキ」、PUTA-TUKI(puta=opening,hole,survivor as widow,move from one place to another,pass through;tuki=pound,beat,attack,central passage for water in an eel weir)、「未亡人(斉明天皇)が・(鰻が導水路に乗って一直線に筌(うけ)へ入って行くように)脇目も振らずに走り込む(宮)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となった)(「ツキ」については古典篇(その二)の1の(5)「ヤマタノオロチ退治ー成功の鍵は「サズキ」にあった」の項を参照してください。)

  「ア・マツ」、A-MATU(a=the...of,belonging to;matu=ma atu=go,come)、「(頻繁に)行き来する(宮)」

  「タ・プレ・ココロ」、TA-PURE-KOKORO(ta=the...of,belonging to,dash,beat,lay;pure=a ceremony for removing tapu,affect by the pure rite;kokoro=old man)、「呪術に・かかったような(正常な精神状態でなくなった。気が狂った)・老人(が開削した水路)」

の転訛と解します。(「田身(たむ)嶺」については地名篇(その五)の奈良県の(42)多武峰(とうのみね)の項を参照してください。)

 

237B5吉野(よしの)宮・難波(なにわ)宮・石湯(いはゆ)行宮・磐瀬(いはせ)行宮(長津(ながつ)宮)・朝倉橘廣庭(あさくらのたちばなのひろには)宮

 斉明紀2年是歳条は、両槻宮に続き、吉野(よしの)宮を造営したとします。(「吉野(よしの)」については地名篇(その五)の奈良県の(19)吉野郡の項を参照してください。)

 斉明紀6年12月条は、天皇が筑紫に行幸して朝鮮へ出兵する準備のために、難波(なにわ)宮に行幸されたとします。(「難波(なにわ)」については地名篇(その四)の大阪府の(2)難波津の項を参照してください。)

 斉明紀7年正月条は、天皇が乗られた船が伊豫の熟田(にぎた)津の石湯(いはゆ)行宮に泊まったとします。(「熟田(にぎた)津」については地名篇(その十四)の愛媛県の(9)和気郡のb熟田津の項を参照してください。)

 斉明紀7年3月条は、天皇が乗られた船が那大津(なのおほつ)に着き、磐瀬(いはせ)行宮に入られ、長津(ながつ)宮と改名したとします。(「那大津(なのおほつ)」については古典篇(その四)の09奴(な)国の項を参照してください。)

 斉明紀7年5月条は、朝倉橘廣庭(あさくらのたちばなのひろには)宮に遷ったとします。(「朝倉(あさくら)」については地名篇(その十八)の福岡県の(14)下座郡の項を参照してください。)

 この「いはゆ」、「いはせ」、「ながつ」、「たちばなのひろには」は、

  「イ・ワイ・ウ」、I-WAI-U(i=past tense,beside;wai=water,memory;u=be firm,be fixed)、「水(海)・辺に・造営された(宮)」(「ワイ」のI音が「ウ」のU音と連結して「ワユ」となった)または「イ・ワイウ」、I-WAIU(i=past tense,beside;waiu=milk,relative(whakawaiu=promote good feeling))、「居心地が良か・った(くつろいだ。行宮)」(「ワイウ」が「ワユ」となった)

  「イ・ワ・テ」、I-WA-TE(i=past tense,beside;wa=definite space,area;te=crack)、「裂け目のある・場所(川のほとり)に・造営された(宮)」

  「ナ・(ン)ガ・ツ」、NA-NGA-TU(na=the...of,belonging to;nga=satisfied;tu=stand,settle)、「満足して(安心して)・居られる・ような(くつろげる。行宮)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

  「タ・チパ・ナハ・ノ・ヒロウ・ニワ」、TA-TIPA-NAHA-NO-HIROU-NIWHA(ta=the...of,belonging to,dash,beat,lay;tipa=dried up,broad,extend;naha=noose for snaring ducks;no=of;hirou=rake,net for dredging shellfish;niwha=resolute,fierce,bravery)、「(朝鮮出兵の兵士を集めようと)広い地域に・網を・かけ・て・強引に・熊手でかき集める(ために滞在した。行宮)」(「ナハ」のH音が脱落して「ナ」となった)

の転訛と解します。

 

237C1茅渟(ちぬ)王

 父は234D3茅渟(ちぬ)王の項を参照してください。

 

237C2吉備(きびつ)姫王

 母は235C2吉備(きびつ)姫王の項を参照してください。

 

237D軽(かる)皇子

 弟は235D軽(かる)皇子の項を参照してください。

 

237F1漢(あや)皇子から237F4大海(おほしあま)皇子まで

 子は235F1漢(あや)皇子および234F1葛城(かづらき)皇子(238天智天皇)から234F3大海(おほしあま)皇子(239天武天皇)までの項を参照してください。

 

237G小市岡上(をちのをかのうへ)陵

 陵は235G小市岡上(をちのをかのうへ)陵の項を参照してください。

 
237H1膳臣葉積(はつみ)・坂合部連磐鋤(いはすき)・犬上君白(しろ)麻呂・大蔵衣縫造(みやつこ)麻呂

 斉明紀2年9月条は、高麗に派遣する大使として膳臣葉積(はつみ)を、副使として坂合部連磐鋤(いはすき)(237H9坂合部連石布(いはしき)と同一人とする説があります。)を、大判官として犬上君白(しろ)麻呂を、中判官として河内書首(名は伝えられていません)を、小判官として大蔵衣縫造(みやつこ)麻呂を任命したとします。

 この「はつみ」、「いはすき」、「しろ」、「みやつこ」は、

  「パツ・ミイ」、PATU-MII(patu=screen,edge,strike,ill treat in any way;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「(大使としての)任を果たさなかった・立派な容貌の(臣)」(「パツ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハツ」となった)

  「イ・ワツキヒ」、I-WHATUKIHI(i=past tense,beside;whatukihi=kidney)、「豪胆で・あった(連)」(「ワツキヒ」のH音が脱落して「ワツキ」から「ワスキ」となった)または「イ・ワツ・キ」、I-WHATU-KI(i=past tense,beside;whatu=stone,kernel,core;ki=full,very)、「芯が・強かっ・た(臣)」

  「チロ」、TIRO(look)、「(人の行状を)よく見ている(君)」

  「ミイイ・アツ・カウ」、MII-ATU-KAU((Hawaii)mii=clasp,good-looking;atu=o indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action;kau=alone,swim,wade,stalk)、「立派な容貌をした・右往左往・していた(男子)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

の転訛と解します。

 

237H2佐伯連栲縄(たくなは)・難波吉士國勝(くにかつ)

 斉明紀2年是歳条は、西海使佐伯連栲縄(たくなは)、難波吉士國勝(くにかつ)等が百済から帰国し、鸚鵡(あうむ)一羽を献上したと伝えます。

 この「たくなは」、「くにかつ」は、

  「タク・ナハ」、TAKU-NAHA(taku=edge,border,gunwale;naha=noose for snaring ducks)、「辺境(西海)を・(鴨を捕る罠をかけている)監視している(連)」

  「ク・ヌイ・カツア」、KU-NUI-KATUA(ku=silent;nui=large,many;katua=adult)、「非常に・(口数が少ない)静かな・成人の男子(吉士)」(「ヌイ」が「ニ」に変化し、「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」となった)

の転訛と解します。

 

237H3沙門智達(ちだち)・間人連御厩(みうまや)・依網連稚子(わくご)・阿曇連頬垂(つらたり)・津臣區僂(くつま)

 斉明紀3年9月条は、新羅に使を派遣して、唐へ行く新羅の使が沙門智達(ちだち)、間人連御厩(みうまや)、依網連稚子(わくご)等を一緒に連れていって欲しいと申し入れましたが、断られたので帰国したとします。

 また、同月に西海使の阿曇連頬垂(つらたり)と津臣區僂(くつま)が百済から帰国して駱駝一匹と驢馬一匹を献上したとします。

 この「ちだち」、「みうまや」、「わくご」、「つらたり」、「くつま」は、

  「チタハ・チ」、TITAHA-TI(titaha=lean to one side,decline,pass on one side;ti=throw,cast,overcome)、「(唐に留学することに傾いて)執心していた・(のができなくなってその場に)くず折れた(僧)」(「チタハ」のH音が脱落して「チタ」から「チダ」となった)(なお、斉明紀4年7月是月条は、沙門智通(ちつ)とともに新羅から唐へ渡り宿願を果たしたとします。237H7沙門智通(ちつ)の項を参照してください。))

  「ミイ・ウマ(ン)ガ・イア」、MII-UMANGA-IA((Hawaii)mii=clasp,good-looking;umanga=pursuit,occupation,business,accustomed;ia=indeed,current)、「実に・(唐での)勉学に・固執していた(連)」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」となった)

  「ワク・カウ」、WAKU-KAU(waku=rub,scrape,abrade;kau=alone,empty,swim,wade,stalk)、「無駄に・往復した(連)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」から「ゴ」となった)

  「ツラ・タリ」、TURA-TARI(tura,turatura=molest,spiteful;tari=urge,incite,noose for catching birds etc.,ensnare)、「鳥を捕らえる(土産を持ち帰る)のに・悩んだ(連)」

  「クフ・ツマ」、KUHU-TUMA(kuhu=insert,conceal;tuma=challenge,defiance,abscess)、「(上司への)反感を・隠した(臣)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

の転訛と解します。

 

237H4恩荷(おんが)

 斉明紀4年4月条は、阿倍臣が180隻の船を連ねて蝦夷を征伐し、齶田(あぎた)の蝦夷恩荷(おんが)が服従を誓ったので官位を与え、渟代(ぬしろ)・津軽(つがる)二郡の郡領に任じたとします。

 この「おんが」は、

  「オ(ン)ガ」、ONGA(agitate,shake about)、「暴れ回る(首長)」

の転訛と解します。

 (なお、男鹿(おが)半島の「男鹿(おが)」は、「アウ(ン)ガ」、AUNGA(not including)、「内部が空(から)の(内部に陸地でなく八郎潟がある。半島)」(AU音がO音に、NG音がG音に変化して「オガ」となった)の転訛と解します。また、「齶田(あぎた)」については地名篇(その二)の秋田県の(3)秋田市の項を、「渟代(ぬしろ)」については同篇の秋田県の(4)米代川の項を、「津軽」については同篇の青森県の(2)津軽の項を参照してください。)

 

237H5建(たける)王・秦大蔵造萬里(まろ)

 斉明紀4年5月条は、天皇の孫238F  建(たける)王(234F1葛城(かづらき)皇子(238天智天皇)と238E2遠智娘との子。唖であったと伝えます。)が8才で夭折したのを悲しみ、自分の死後に陵に合葬するようにと命じ、同年10月条は紀温湯へ行幸した天皇が詠んだ王を悼む歌を語り継ぐよう秦大蔵造萬里(まろ)に命じたとあります。

 この「たける」、「まろ(まり)」は、

  「タケ・ル」、TAKE-RU(take=absent oneself,base of a hill,cause,origin;ru=shake,agitate,scatter)、「無心に・走り回る(王)」

  「マリ」、MARI(fortunate,lucky)、「幸運な(造)」または「マリヒ」、MARIHI(precious)、「素晴らしい(歌人。造)」(H音が脱落して「マリ」となった)

の転訛と解します。

 

237H6沙尼具那(さにぐな)・宇婆佐(うばさ)・馬武(めむ)・青蒜(あをひる)・大伴君稲積(いなつみ)

 斉明紀4年7月条は、蝦夷200人余が朝廷にやってきて産物を献上したので宴を開き、渟代(ぬしろ)郡の大領沙尼具那(さにぐな)、少領宇婆佐(うばさ)、津軽郡の大領馬武(めむ)、少領青蒜(あをひる)、渟足(ぬたり)の柵造大伴君稲積(いなつみ)等に対しそれぞれ物を下賜し官位を授けたとあります。

 この「さにぐな」、「うばさ」、「めむ」、「あをひる」、「いなつみ」は、

  「タ(ン)ギ・(ン)グヌ」、TANGI-NGUNU(tangi=sound,cry;ngunu=bent,crouch)、「(大きな声で)叫ぶ・背が曲がった(大領)」(「タ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「タニ」と、「(ン)グヌ」のNG音がG音に変化して「グヌ」から「グナ」となった)

  「ウパ・タ」、UPA-TA(upa=fixed,settled,at rest,satisfied;ta=dash,beat,lay)、「満足して・居る(少領)」

  「メ・ム」、ME-MU(me=if,as if like;mu=silent)、「無口な・ように見える(大領)」

  「アオ・ヒ・ル」、AO-HI-RU(ao=daytime,cloud,bright;hi=raise,rise;ru=shake,agitate,scatter)、「明るく・陽気で・走り回る(少領)」

  「イ・ナツ・ミイ」、I-NATU-MII(i=past tense,beside;natu=scratch,mix,tear out,show ill feeling,angry;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「不機嫌・だった・容貌の立派な(君)」

の転訛と解します。

 

237H7沙門智通(ちつ)・智達(ちだち)

 斉明紀4年7月是月条は、沙門智通(ちつ)とさきに新羅から唐へ渡ろうとして果たせなかった237H3沙門智達(ちだち)が、勅を受けて新羅の船に乗って唐に赴き、玄奘法師に師事したとあります。

 この「ちつ」は、

  「チヒ・ツ」、TIHI-TU(tihi=summit,top,lie in a heap;tu=fight with,energetic)、「(仏教の勉学に)熱心な(ことでは)・一番の(沙門)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」となった)

の転訛と解します。

 

237H8蘇我赤兄(あかえ)臣・物部朴井連鮪(しび)・守君大石(おほいは)・坂合部連薬(くすり)・塩屋連制魚(このしろ)・新田部米(こめ)麻呂・丹比小澤連國襲(くにそ)

 斉明紀4年11月条は、天皇が紀温湯へ行幸中の留守を預かる官の蘇我赤兄(あかえ)臣が236F有間(ありま)皇子に対し天皇には三つの大きな失政があると言ったので、皇子は喜んで「我が生涯で始めて兵を用いる時が来た」と言い、赤兄の家で挙兵の相談をしますが、不吉なことが起きたので決起を中止します。その夜赤兄は物部朴井連鮪(しび)を派遣して皇子の家を包囲し、駅馬で天皇に報告し、次いで皇子と守君大石(おほいは)、坂合部連薬(くすり)および塩屋連制魚(このしろ)を捕らえ、舎人新田部米(こめ)麻呂が随従して紀温湯へ送ります。その途中、丹比小澤連國襲(くにそ)が遣わされて皇子を藤白(ふじしろ)坂で絞首し、塩屋連制魚と新田部米麻呂が同所で斬られ、守君大石は上毛野国へ、坂合部連薬は尾張国へ流されたと伝えます。

 この「あかえ」、「おほいは」、「くすり」、「こめ」、「くにそ」は、

  「アカ・エ」、AKA-E(aka=clean off,scrape away;e=to denote action in progress or temporary condition,to give emphasis)、「(有間皇子ほか反乱分子を)一掃・した(臣)」

  「オホ・イ・ワ」、OHO-I-WA(oho=spring up,wake up,arise;i=past tense,beside;wa=definite space,area)、「(唐の高宗の泰山での封禅の儀の)式場の・傍らに・すっくと立っていた(立ち会っていた。君)」(古典篇(その十四)の238H5守君大石(おほいは)の項を参照してください。)

  「ク・ツリ」、KU-TURI(ku=silent;turi=knee,deaf,obstinate)、「無口な・頑固者(連)」

  「コマイ」、KOMAI(rejoice)、「(いつも)嬉しそうにしている(麻呂)」(AI音がE音に変化して「コメ」となった)または「コマエ」、KOMAE(shrunk,withered)、「(年を取って)皺が増えた(麻呂)」(AE音がE音に変化して「コメ」となった)

  「ク・ヌイ・ト」、KU-NUI-TO(ku=solent;nui=large,many;to=drag,carry the wooden weapon at the trail)、「無口で・大きな・棍棒を小脇に抱えて肩を怒らせて歩く戦士(連)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

の転訛と解します。(物部朴井連鮪(しび)の「鮪(しび)」については前出234H2女嬬鮪女(しびめ)の項を、「塩屋連制魚(このしろ)」については前出236H6塩屋制魚(しほやのこのしろ)の項を参照してください。)

 

237H9坂合部連石布(いはしき)・津守連吉祥(きさ)・伊吉(いき)連博徳(はかとこ)・東漢長直阿利麻(ありま)・坂合部連稲積(いなつみ)

 斉明紀5年7月条は、坂合部連石布(いはしき)と津守連吉祥(きさ)を唐へ派遣し、その際道奥の蝦夷男女2名を引き連れて唐の皇帝(高宗)に見せたとします。

 なお、同条分注の伊吉(いき)連博徳(はかとこ)の書によれば、津守連吉祥の船は無事唐に到着しましたが、坂合部連石布の船は東シナ海で難破し、南海の爾加委(にかゐ)嶋で石布は殺され、東漢長直阿利麻(ありま)、坂合部連稲積(いなつみ)等5人が脱出して唐に到着し、皇帝と謁見して蝦夷について詳細に説明しますが、遣唐使の従者の讒言や唐の百済出兵に遭遇して抑留され、翌々年5月に漸く帰国したとあります。

 この「いはしき」、「きさ」、「はかとこ」、「にかゐ」、「ありま」、「いなつみ」は、

  「イ・ワ・チキ」、I-WHA-TIKI(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tiki=fetch,unsuccessful,unsuccessful man)、「海外で・不幸に・遭った(殺された。連)」または「イ・ワチ・キ」、I-WHATI-KI(i=past tense,beside;whati=be broken off short,be bent at an angle;ki=full,very)、「(身体を)隅々まで・バラバラに・された(頭皮を剥がれた。臣)」

  「キ・タ」、KI-TA(ki=full,very;ta=dash,beat,lay,breathe,be uttered)、「(命が助かって)大きく・息をした(連)」または「キタ」、KITA(tightly,fast,tightly clenched)、「(頭皮が剥がされずに)しっかりと附いていた(連)」

  「ハカ・トコ」、HAKA-TOKO(haka=expressing surprise or admiration,dance,deformed;toko=pole,propel with a pole,push or force to a distance)、「海外へ進出した(活躍した)・驚嘆すべき(業績を残した。連)」(「伊吉(いき)連」については地名篇(その十八)の長崎県の(5)壱岐(いき)国の項を参照してください。)

  「ヌイ・カウィウ」、NUI-KAWIU(nui=large,many;kawiu=be shrunk,scalp of enemy kept for use in some incantations)、「大勢の・(敵の頭皮を剥ぎ取り乾かしてまじないに用いる)首狩族がいる(島)」(「ヌイ」が「ニ」と、「カウィウ」の語尾のU音が脱落して「カヰ」となった)

  「アリ・マハ」、ARI-MAHA(ari=clear,white,appearance;maha=many,abundance,satisfied)、「(首狩族に殺されそうになって)著しく・蒼白となった(連)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「イ・ナツ・ミ」、I-NATU-MI(i=past tense,beside;natu=scratch,stir up,tear out,show ill feeling,angry;mi=urine,stream)、「(恐怖で)顔をこわばらせて・(思わず尿を)失禁・した(連)」

の転訛と解します。

 

237H10乾豆波斯達阿(げんづはしだちあ)

 斉明紀6年7月条は、覩化羅(とから)人乾豆波斯達阿(げんづはしだちあ)が本国に帰りたいと思い、「後で大和朝廷に仕えたいので、そのために妻を残して置く」といって一行数十人と西海へ旅立ったとあります(この乾豆はインドを指し、波斯はペルシアを指し、達阿は提婆達多の達多と同じでインドの人名の語尾かとする説(岩波『日本古典文学大系』注)があります)。

 この「げんづはしだちあ」は、

  「(ン)ゲネ・ツワ・チタハ・チア」、NGENE-TUWHA-TITAHA-TIA(ngene=wrinkle,fold,fat;tuwha=spit,spit out;titaha=lean to one side,pass on one side,go in an oblique direction;tia=stick in,take a vigorous stroke in paddling)、「皺が寄った(年老いた妻を)・(人質として)唾を吐くように吐き捨てて・(置き去りにした妻の)横を通って・勇んで船出した(首長)」(「(ン)ゲネ」のNG音がG音に変化し、語尾のE音が脱落して「ゲン」と、「チタハ」のH音が脱落して「チタ」から「シダ」となった)

の転訛と解します。

>237H11童謡「まひらくつ」の歌

 斉明天皇6年是歳条は、百済のために新羅を討とうとして駿河国に命じて建造した船が原因不明で転覆するなど凶兆が相次ぎ、次のような童謡(わざうた)が歌われたとします。

 まひらくつのくれつれ   をのへたをらふくのりかりが
 みわたとのりかみ     をのへたをらふくのりかりが
 甲子(こうし)とわよとみ をのへたをらふくのりかりが
 (以上の読みは岩波大系本により、かつ、「甲子)をここでは通常の万葉仮名の読みに従い「こうし」と訓ずることとします。)

 この歌は、

  「マヒラ・クツ・ノ・クレ・ツレレ」、MAHIRA-KUTU-NO-KURE-TURERE(mahira=interfering,greedy;kutu=louse;no=of;kure=cry like a seagull;turere=flee,creep off)、「(人に)仇なす・害虫・の(が)・(人を)咬んで(悲鳴を上げさせて)は・逃げてゆくよ」(「ツレレ」の反復語尾が脱落して「ツレ」となった)

  「ワウ・(ン)ゴヘ・タ・オラ・プク・ノ・リカ・リ(ン)ガ」、WAU-NGOHE-TA-ORA-PUKU-NO-RIKA-RINGA(wau=foolish,silly;ngohe=soft,quivering,obedient;ta=beat,dash;ora=well in health,safe,escape;puku=swelling,abdomen,seat of affections;no=of;rika=writhe,toss oneself about,impatient;ringa=hand,arm)、「愚かなことに・優しく・(害虫を)叩く・健康で・太っ腹・の(人が)・(害虫に咬まれて)手を震わせて・七転八倒(しているよ)」(「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」と、「(ン)ゴヘ」のNG音がN音に変化して「ノヘ」と、「プク」のP音がF音を経てH音に変化して「フク」と、「リ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「リガ」となった)(この第二句は、第四句、第六句と同じです。)

  「ミイ・ワタ・トノ・リカ・ミヒ」、MII-WHATA-TONO-RIKA-MIHI(mii=attractive,fine-looking:whata=elevated stage,elevate,protrude;tono=bid,command,demand;rika=writhe,toss oneself about,impatient;mihi=sigh for,greet,express discomfort)、「綺麗な・高床(に住ん)で・(下々に)命令する(人々は)・七転八倒して・嘆いているよ」(「ミイ」が「ミ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「カフ・チト・ワイオイオ・ト・ミヒ」、KAHU-TITO-WHAIOIO-TO-MIHI(kahu=hawk,harrier;tito=do anything without previous practise;whaioio=groundlark,pipit;to=drag;mihi=sigh for,greet,express discomfort)、「鷹が・造作もなく・田雲雀を・捕まえて・可哀相な目に遭わせるよ」(「カフ」ののH音が脱落したAU音がOU音に変化して「コウ」と、「チト」が「シト」と、「ワイオイオ」の反復語尾が脱落して「ワヨ」と、「ミイ」が「ミ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 また、この「わざうた」は、

  「ワタ(ン)ガ・ウ・タハ」、WATANGA-U-TAHA(watanga=object of desire;u=be firm,be fixed;taha=pass on one side,go by)、「何らかの意図(の対象)をもって行われる行動の・心の中を通り過ぎて行くもの(考え)を・(定着させた)歌にしたもの(童謡・謡歌)」(「ワタ(ン)ガ」の名詞形語尾のNGA音が脱落して「ワタ」から「ワザ」と、「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。


 

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<修正経緯>

1 平成15年9月1日 235Aの項の一部を修正しました。

2 平成16年3月1日 236B2大郡(おおごおり)宮の解釈を修正しました。

3 平成16年7月1日 236B1難波長柄豊崎(ながらのとよさき)宮の項および236B2子代(こしろ)行宮の項の味経(あぢふ)宮の部の解釈を追加修正しました。

4 平成17年8月1日 236G大坂磯長陵の解釈が欠落していたのを補充しました。

5 平成18年9月1日 234E1寶皇女の項、235A天豊財重日足姫天皇の項、235H1蘇我入鹿の項、235H8海犬養連勝麻呂の項の大郎の条、236H7高向博士黒麻呂の項の解釈を修正しました。

6 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

7 平成19年8月1日

 237H11童謡「まひらくつ」の歌の項を追加しました。

8 平成23年5月1日 

 237H11童謡「まひらくつ」の解釈の一部を修正し、「童謡(わざうた)」の解釈を追加しました。

 

古典篇(その十三)終わり

 

 
U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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