地名篇(その二)

(平成11-6-1書込み。26-12-1最終修正)(テキスト約71頁)


トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

   目  次

北海道・東北地方の地名

1 北海道の地名ーアイヌ語源ばかりではないー

(1) 松前(まつまえ)

(2) 白神(しらかみ)岬

(3) 江差(えさし)

(4) 函館(はこだて)

(5) 汐首(しおくび)岬

(5−2) 奥尻(おくしり)島、青苗(あおなえ)岬

(6) 室蘭(むろらん)ー絵鞆(えとも)半島、チキウ岬

(7) 石狩(いしかり)平野

(7−2) フゴッペ洞窟

(7−3) 旭(あさひ)岳

(8) 襟裳(えりも)岬

(9) 十勝(とかち)平野

(10) 釧路(くしろ)平野

(11) 霧多布(きりたっぷ)

(12) 根室(ねむろ)

(13) 納沙布(のさっぷ)岬ー野寒布岬、宗谷岬

(14) 野付(のつけ)半島

(14−2) 知床(しれとこ)半島・羅臼(らうす)岳

(15) 網走(あばしり)市ー能取(のとろ)湖

(16) サロマ湖

(16−2) 白滝幌加沢(ほろかざわ)遺跡

(16−3) 利尻(りしり)島、礼文(れぶん)島、スコトン岬

(16−4) 焼尻(やぎしり)島、天売(てうり)島

(17) 北方諸島ー歯舞(はぼまい)諸島・色丹(しこたん)島・国後(くなしり)島・択捉(えとろふ)島・珸瑶瑁(ごようまい)水道

2 青森県の地名

(1) 陸奥(むつ)国

(2) 津軽(つがる)・平賀(ひらか)郡(庄)・鼻和(はなわ)郡(庄)・田舎(いなか)郡(庄)

(2−2) 夏泊(なつどまり)半島

(2−3) 黒石(くろいし)市・じょんから節・五所川原(ごしょがわら)市

(3) 岩木(いわき)山

(3−2) 斯波(しわ)郡・志賀理和気(しがりわけ)神社・徳丹(とくたん)城

(4) 白神(しらかみ)山地

(4−2) 鰺ヶ沢(あじがさわ)町・舞戸(まいと)・艫作(へなし)崎

(5) 十三(とさ)湊

(6) 竜飛(たっぴ)岬

(7) 袰月(ほろづき)海岸ー袰部川、大幌内川、小幌内川

(8) 蟹田(かにた)町

(8−2) 糠部(ぬかのべ)郡・階上(はしかみ)郡(海上郡)・北(きた)郡・三戸(さんのへ)郡

(9) 大間(おおま)崎

(10) 尻屋(しりや)崎

(11) 恐山(おそれざん)

(11−2) 田名部(たなぶ)・小川原(おがわら)湖・砂土路(さどろ)川・土場(どば)川・高瀬(たかせ)川・つぼのいしぶみ(壺の碑)

(12) 三内丸山(さんないまるやま)

(13) 八甲田山(はっこうださん)ー田茂萢岳

(14) 十和田(とわだ)湖

(15) 奥入瀬(おいらせ)川

(16) 馬淵(まべち)川

(17) 種差(たねさし)海岸ー蕪島

3 岩手県の地名

(1) 岩手(いわて)山ー岩手(いわて)郡・磐鷲(がんしゅう)山

(1−2) 八幡平(はちまんたい)

(2) 盛岡(もりおか)市ー不来方(こずかた)

(3) 北上(きたかみ)山地、北上川

(3−2) 斯波(しわ)郡・志賀理和気(しがりわけ)神社・徳丹(とくたん)城

(4) 早池峰(はやちね)山ー岳(たけ)神楽・大償(おおつぐない)神楽

(4−2) 稗縫(ひえぬい)(稗貫(ひえぬき))郡・毒ヶ森(ぶすがもり)山塊・駒頭(こまがしら)山・大空(おおぞら)の滝・大ヘンジョウの滝・豊沢(とよさわ)川

(5) 姫神(ひめかみ)山ー渋民(しぶたみ)村

(6) 久慈(くじ)市ー久慈(くじ)ノ浜

(6−2) 根井(ねい)・安家(あっか)川

(7) 田老(たろう)町

(8) 宮古(みやこ)市

(9) 閉伊(へい)川(郡)

(10) 船越(ふなこし)半島

(11) 吉里吉里(きりきり)浜ー波板(なみいた)海岸・安渡(あんど)港

(12) 釜石(かまいし)市

(13) 遠野(とおの)市ー遠閉伊(とおのへい)・遠野保(とおのほ)

(14) 六角牛(ろっこうし)山ー六甲山、緑剛崎

(15) 胆沢(いさわ)郡

(15−2) 江刺(えさし)郡

(16) 夏油(げとう)温泉

(17) 和賀(わが)郡・江釣子(えづりこ)村

(17−2) 磐井(いわい)郡・平泉(ひらいずみ)町・達谷窟(たっこくのいわや)・悪路王(あくろおう)

(17−3) 気仙(けせん)郡・大船渡(おおふなと)市・理訓許段(りくこた)神社・乱曝谷(らんぼうや)

4 宮城県の地名

(1) 栗駒(くりこま)山

(1−2) 栗原(くりはら)郡・迫(はざま)川

(1−3) 玉造(たまつくり)郡

(2) 荒雄(あらお)川・江合(えあい)川

(3) 鳴子(なるご)温泉ー鬼首温泉郷、轟温泉、川渡温泉、尿前の関

(3−2) 遠田(とおた)郡・長岡(ながおか)郡・小田(おだ)郡

(3−3) 志田(しだ)郡

(4) 古川(ふるかわ)市ー緒絶川、小牛田町

(4−2) 登米(とよま。とめ)郡・新田(にひた)郡・讃馬(さぬま)郡

(5) 登米(とよま)町

(5−2) 本吉(もとよし)郡

(6) 気仙沼(けせんぬま)湾

(7) 桃生(ものう)郡

(7−2) 牡鹿(おしか)郡

(8) 牡鹿(おしか)半島

(9) 石巻(いしのまき)湊ー平駄(ひらた)船・高瀬(たかせ)船・天当(てんとう)船

(10) 十八鳴(くぐなり)浜ー琴け浜、琴引浜、ごめき浜

(10−2) 加美(かみ)郡・色麻(しかま)郡・富田(とみた)郡・鳴瀬(なるせ)川

(10−3) 黒川(くろかわ)郡・吉田(よしだ)川・品井(しない)沼・鶴田(つるた)川・高城(たかき)川

(10−4) 宮城(みやぎ)郡

(11) 松島(まつしま)

(12) 多賀城(たがじょう)市

(13) 広瀬(ひろせ)川ー作並、愛子

(13−2) 名取(なとり)郡

(14) 名取(なとり)川ー二口峠、磐司岩、磊々峡、秋保温泉、閖上浜

(14−2) 亘理(わたり)郡

(15) 阿武隈(あぶくま)川ー亘理

(15−2) 柴田(しばた)郡

(16) 蔵王(ざおう)連峰ー刈田嶺、不忘山

(17) 伊具(いぐ)郡ー居久根(いぐね)

5 秋田県の地名

(1) 男鹿(おが)半島ー恩荷(おが)、寒風(かんぷう)山、入道(にゅうどう)崎、なまはげ

(2) 八郎(はちろう)潟

(2−2) 山本(やまもと)郡

(2−3) 仙北(せんぼく)郡

(2−4) 秋田(あきた)郡・檜山(ひやま)郡

(2−5) 河辺(かわべ)郡・豊島(としま)郡

(3) 秋田(あきた)市ー久保田(くぼた)

(4) 米代(よねしろ)川

(5) 能代(のしろ)平野ー奚后(きみまち)坂

(6) 阿仁(あに)川

(6−2) 鹿角(かづの)郡・比内(ひない)郡・贄(にえ)の柵

(6−3) 達子森(たつこもり)・サツ比内(さっぴない)・長内沢(おさない)

(7) 花輪(はなわ)盆地(鹿角(かづの)盆地)ー毛馬内、尾去沢、湯瀬温泉、後生掛温泉

(8) 発荷(はっか)峠

(9) 田沢(たざわ)湖ー辰子潟・クニマス

(10) 玉(たま)川ー抱返渓谷

(11) 雄物(おもの)川ー鬼面川

(12) 平鹿(ひらか)郡ー比楽河、平賀町

(13) 横手(よこて)市

(13−2) 雄勝(おがち)郡

(14) 院内(いんない)銀山

(15) 小比内(こびない)山ー古井町、媚山

(16) 由利(ゆり)郡・飽海(あくみ)郡

(17) 象潟(きさがた)

6 山形県の地名

(1) 出羽(でわ)国

(2) 鳥海(ちょうかい)山ー大物忌神社

(3) 飽海(あくみ)郡・遊佐(ゆざ)郡

(4) 遊佐(ゆざ)町ー吹浦

(5) 酒田(さかた)市ー山居倉庫

(5−2) 出羽(いでは)郡・都岐沙羅(つきさら)柵・田川(たがわ)郡・櫛引(くしびき)郡

(6) 最上(もがみ)川

(7) 出羽三山ー羽黒山、月山、湯殿山

(8) 鼠ヶ関

(9) 朝日連峰

(9−2) 最上(もがみ)郡

(9−3) 村山(むらやま)郡

(9−4) 置賜(おきたま)郡

(10) 及位(のぞき)

(11) 寒河江(さがえ)市・左沢(あてらざわ)

(12) 米沢(よねざわ)市

(13) 置賜(おきたま)盆地

(14) 小国(おぐに)町

(15) 飯豊(いいで)山ー飯豊青皇女

(16) 蔵王(ざおう)山

(17) 有耶無耶(うやむや)関

7 福島県の地名

(1) 磐梯(ばんだい)山

(2) 安達太良(あだたら)山

(3) 猪苗代(いなわしろ)湖

(4) 会津(あいづ)

(4−2) 石背(いわせ)国・岩代(いわしろ)国

(4−3) 会津(あいづ)郡

(4−4) 耶麻(やま)郡

(4−5) 大沼(おおぬま)郡

(4−6) 河沼(かわぬま)郡

(5) 飯盛(いいもり)山

(6) 喜多方(きたかた)市

(7) 会津坂下(あいづばんげ)町

(8) 阿賀(あが)川ーー阿賀野(あがの)川、日橋(にっぱし)川、只見(ただみ)川、ヨッピ川

(9) 桧枝岐(ひのえまた)村

(10) 板谷(いたや)峠ー栗子峠

(10−2) 白河(しらかわ)郡

(10−3) 石川(いしかわ)郡

(10−4) 高野(たかの)郡

(10−5) 岩瀬(いわせ)郡・乙字(おつじ)ケ滝

(10−6) 安積(あさか)郡

(10−7) 田村(たむら)郡・三春(みはる)・大多鬼丸(おおたきまる)

(10−8) 安達(あだち)郡

(10−9) 信夫(しのぶ)郡

(10−10) 伊達(だて)郡

(11) 福島(ふくしま)市ー信夫山

(12) 飯坂(いいさか)温泉

(13) 白河(しらかわ)市

(13−2) 菊多(きくた)郡

(13−3) 磐前(いわさき)郡

(13−5) 楢葉(ならは)郡

(13−6) 標葉(しねは。しめは)郡

(13−7) 行方(なめかた)郡

(13−8) 宇多(うだ)郡・松川浦(まつかわうら)

(14) 棚倉(たなぐら)町

(15) 相馬(そうま)市

(16) いわき市ー夏井川、背戸峨廊

(17) 勿来(なこそ)関ー菊多関

<修正経緯>

 

北海道・東北地方の地名

 

1 北海道の地名ーアイヌ語源ばかりではないー

 

 北海道(から北東北まで)の古い地名には、アイヌ語源のものが多いことは事実ですが、そのアイヌ語による語源解釈には、数説あって定説がないもの、音韻がかけ離れているものも多く、少なからぬ疑問が残るものが数多く存在します。

 音韻の一致、地形との符合などからみると、アイヌ語源ではなく、ポリネシア語源の地名と考えられるものが、黒潮から分かれた対馬海流が洗う津軽海峡周辺から、北海道中央部、そして太平洋沿岸などに、かなり見られます。

 

(1) 松前(まつまえ)

 北海道渡島支庁松前(まつまえ)町は、松前半島の南端の白神岬の西にある漁業の町で、かつて松前藩の城下町でした。藩主松前氏は、古くは蛎崎(かきざき)氏を称していましたが、文禄2(1593)年豊臣秀吉から「蝦夷島主」の称号を賜り、慶長9(1604)年徳川家康から蝦夷交易の独占権を認められ、姓を松前に改めました。

 松前は古くからの地名で、蝦夷地を記録した最も古い地図とされる13世紀半ばの『諏訪大明神絵詞』に、「蝦夷ケ小島」に「満堂宇満伊」、「万当宇満伊」なる小島があり、これを「まとうまい」と訓んで、「松前」の語源とする説が有力です。また、『弘前蝦夷志』によれば、古記録には「的前」と書かれていたといいます。 この「まとうまい」は、アイヌ語でマツ・オマ・ナイ(婦人のいる沢)、マツ・オマ・イ(婦人のいるところ)、マツ・オマ・ナイ(山崩れのところ、半島)、マック・オマ・ナイ(山の後ろにある川)などの説があります。

 この「マトウマイ」は、マオリ語の

  「マトウ・マイ」、MATOU-MAI(matou=we;mai=be quiet)、「我ら(疲れはてて、またはびっくりして)静かになった(口を噤んだ場所)」

  または「マトウ・マエ」、MATOU-MAE(matou=we;mae=languid,drooping)、「我ら疲れはて(て到着し)た(場所)」

の転訛と解します。津軽海峡の荒波をやっと乗り切って、初めての土地に上陸することができた感慨が実に良く表現されている地名と考えられます。このような祖先の事績を表現した地名は、ニュージーランドのマオリ語地名には決して珍しいものではなく、約6パーセント(祖先の人名、伝説を含めると約15パーセント)にも達します。

 

(2) 白神(しらかみ)岬

 対馬海流が流れ込む津軽海峡の入り口には、北海道松前半島の白神岬が、青森県津軽半島の竜飛(たっぴ)崎(入門篇(その三)平成11年1月1日書き込み分参照)と向かい合っています。

 この白神岬の「しらかみ」は、アイヌ語の「シララ(岩)・カムイ(神)」からとする説があるようです。

 この「シラカミ」は、マオリ語の

  「チラ・カハ・アミ」、TIRA-KAHA-AMI(tira=fish fin;kaha=strength,rope,boundary line of land etc.,ridge of hill;ami=gather,collect)、「魚の鰭のような・山の峯が(一直線をなして)・連なっている(岬)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となり、そのA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「カミ」となった)

の転訛と解します。この岬の突端には、百メートルもの高さの断崖がありますが、この岬の後ろには、天狗山(310メートル)、白神岳(352メートル)、松倉山(661メートル)、百軒岳(772メートル)、袴腰山(815メートル)、大千軒岳(1072メートル)の山々がほぼ一直線に、次第に標高を増しながら連なっていますので、遠くの海上から一見すると「魚の鰭」のように見えることによるものです。

 青森県と秋田県にまたがる広大なブナの原生林を擁し、世界遺産に指定されている白神(しらかみ)山地の名も、全く同じ語源で、「魚の鰭のような・山の峯が(辺境の地に)・連なっている(場所。白神山地)」の転訛と解します。

 

(3) 江差(えさし)

 江差町は、桧山支庁桧山郡の海岸の町で、かつては松前藩による桧の伐採やニシン漁で繁栄し、北海道の商業の中心地として栄え、松前三湊(福山、江差、箱館)の一つに数えられました。

 この「えさし」は、永田方正『北海道蝦夷語地名解』(明治42年)は「エサシ(昆布)」としていますが、近年では「エ(頭)・サ(前浜)・ウシ(につけている)・イ(もの)」で山が海岸まで突き出した岬を指すとする説が有力です。しかし、北見枝幸(きたみえさし)も含め、地名のもととなるような突出した特徴のある岬はその周辺に見当たりません。

 この「エサシ」は、マオリ語の

  「エタヒ」、ETAHI(how great!)、「なんと大きなこと(浜)よ!」

  または「エタ・チ」、ETA-TI((PPN)eta=(Hawaii)eka=dirty,filth;ti=throw,cast)、「(穢い)アイヌ族が・たむろしている(浜。地域)」

の転訛と解します。前者では、原ポリネシア語で「エサシ、ESASHI」であったのが、日本語ではそのまま、マオリ語では「サ」が「タ」に、「シ」が「ヒ」に変化したものです。

 

(4) 函館(はこだて)

 函館市は、渡島半島の突端にある道南最大の都市で、その形から巴(ともえ)港とも呼ばれる天然の地形に恵まれて松前三湊の一つに数えられ、幕末の開港後は貿易港として、また、本土との連絡拠点として発展してきました。

 この地名は、古くはアイヌ語で「ウスケシ(入り江の端)」、「ウショロケシ(湾内の端)」と呼ばれ、「宇須岸」、「臼岸」などと表記されていましたが、享徳3(1454)年に津軽の安東氏が南部氏に追われたとき、この地に移り住んだ武将の一人、河野政通が築いた館が箱型であったところから、「箱舘」と名づけられたとも、またその館を「ハク(浅い)・チャシ(館)」と呼んだことによるともいいます。

 しかし、この地のような極めて特徴のある地形の土地に、その地形を表す地名が付けられなかったはずはありません。古く付けられた地形地名が、「はこだて」になつたものと私は考えます。

 この「ハコダテ」は、マオリ語の

  「ハコ・タタイ」、HAKO-TATAI(hako=anything used as a scoop or a shovel;tatai=arrange,adorn)、「形を整えたショベル(のような地形の土地)」

の転訛(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)と解します。

 

(5) 汐首(しおくび)岬

 津軽海峡の出口に、青森県下北半島の大間崎と相対して、亀田半島の汐首岬があります。

 この「しおくび」の語源は、通説では「山下」を意味するアイヌ語「シリポク」が転訛したものとされていますが、あまりにも音がかけ離れています。

 この「しおくび」は、マオリ語の

  「チオ・クピ」、TIO-KUPI(tio=oyster;kupi=be covered)、「牡蛎貝で覆われた(岬)」

の転訛と解します。

 なお、同様の名前の岬としては、徳島県の太平洋岸、海部郡由岐(ゆき)町に鹿ノ首(かのくび)岬(地名篇(その一)平成11年4月1日書き込み分参照)があります。

 この「カノクビ」は、マオリ語の

  「カノ・クピ」、KANO-KUPI(kano=seed;kupi=be covered)、「種子で覆われた(岬)」

の転訛と解します。この岬の岩は、粗粒砂岩で、写真をみると、波によって浸蝕され、表面は平滑ではなく無数の凹凸があります(阿波学会『由岐町地質調査報告』による)。例えば、苺のように果実の表面にポツポツと種子(砂利)が出ているような礫岩ではありませんが、「(苺などの)種子で覆われた」と言う形容も決して不自然ではない形状です。

  *

(5−2) 奥尻(おくしり)島、青苗(あおなえ)岬

 奥尻(おくしり)島は、道南西部の日本海に浮かぶ島で、道内では利尻島に次ぐ大きさです。南北に細長い山脈(最高峰は神威(かむい)山585メートル)の北側が東側に斜めに折れたような形の島です。「おくしり」は、アイヌ語で「イクシュンシリ(向こうの島)」の意味とする説があります。

 南端には千畳浜につづき青苗(あおなえ)岬がありましたが、平成5(1993)年7月の北海道南西沖地震によって千畳浜と青苗岬の先端は海に没しました。

 この「おくしり」、「あおなえ」は、

  「オ・クチ・リ」、O-KUTI-RI(o=the...of;kuti=draw tightly together,contract,pinch;ri=screen,protect)、「衝立(のような山)を・つまんで平たくしたような(島)」(「クチ」が「クシ」となった)

  「アオ・ナヱ」、AO-NAWE(ao=scoop up with both hands;nawe=be set on fire,be unmovable(nawenawe=secure,firm))、「(海底から土砂を)掬い上げて・堅く固定したような(土地。岬)」

の転訛と解します。

(6) 室蘭(むろらん)ー絵鞆(えとも)半島、チキウ岬

 室蘭市は、内浦(噴火)湾の東端の絵鞆(えとも)半島に抱かれた天然の良港に立地する胆振支庁の支庁所在地で、港湾と鉄鋼業で発展した臨海工業都市です。

 この地名は、アイヌ語の「モ・ルエラニ(緩やかに下る道)」から、「モルエラン」、「モロラン」に変化し、安政5(1858)年ごろから、あて字の室蘭の字に引かれて「むろらん」と呼ばれるようになったといいます。この解釈では、どこにでもある地形地名で、室蘭の特徴ある地形を表したものとは言い難く、疑問が残ります。

 この古名の「モロラン」は、マオリ語の

  「マウル・ラ(ン)ガ」、MAURU-RANGA(mauru=north-west;ranga=raise,pullup by the roots,ridge of a hill,sandbank)、「北西の部分を・根こそぎにした(除去して穴が空いている湾。この湾のある土地)」

の転訛(「マウル」のAU音がO音に変化して「モル」となり、さらに「モロ」に変化し、「ラ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ラナ」から「ラン」となった)と解します。室蘭の地形を見事に的確に表現しています。

 なお、もともと「ムロラン」と呼ばれていたと仮定しますと、

  「ム・ロ・ラ(ン)ガ」、MU-RO-RANGA(mu=insects;ro=roto=the inside;ranga=raise,pullup by the roots,ridge of a hill,sandbank)、「中を・虫が食った(虫食いがある)・(丘の稜線が伸びている)半島」(「ラ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ラナ」から「ラン」となった)

の転訛と解します。

 また、絶壁の景観が美しいチキウ岬や、金屏風、銀屏風の名所がある絵鞆(えとも)半島の「えとも」は、アイヌ語では襟裳(えりも)岬と同じで「エンルム(突き出ている頭。岬)」の転訛という説があります。また、『出雲国風土記』に秋鹿(あいか)郡恵曇(えとも)郷、恵曇(えとも)の浜の記事があり、この浜は岩壁が高く嶮しく、船の停泊ができないと記されています。

 この「エトモ」は、マオリ語の

  「エト・マウ」、ETO-MAU(eto=lean,attenuated;mau=fixed,continuing)、「(岩が剥がれて薄くなっている)絶壁が連なっている(半島、海岸)」

の転訛と解します。この「エト」、「マウ」は、後述する択捉(えとろふ)島の「エト」、襟裳(えりも)岬の「モ」と同じ語源です。

 絵鞆半島の南端にチキウ岬があります。この「チキウ」は、アイヌ語の「チケプ(断崖)」からとされていますが、これも音がかなり離れています。

 この「チキウ」は、マオリ語の

  「チキ・ウ」、TIKI-U(tiki=a rough representation of a human figure on the gable of a house;u=be fixed)、「(家の破風に付ける)人身像らしきものが(岬の突端の絶壁に)付いている(岬)」

の意と解します。

 

(7) 石狩(いしかり)平野

 石狩平野は、石狩川とその支流がつくった沖積地と、千歳川、豊平川などがつくった扇状地からなっている北海道西部にある日本屈指の大平野です。かつての石狩川とその支流は、曲流がはげしく、また平野の大部分は広大な泥炭地の湿地でした。

 この「いしかり」は、石狩川をさすとする説が一般で、アイヌ語の「イ・シカリ(塞がる)」(松浦武四郎)、「イ・シカリ(回流する)・ペツ(川)」、「イシ・カラ(美しく作られた)・ペツ(川)」などの説がありますが、定説はなく、「石狩地方を指す固有名詞」とする研究もあります(中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館、1995年)。

 この「イシカリ」は、マオリ語の

  「イ・チカ・リ」、I-TIKA-RI(i=beside;tika=straight,keeping a direct course;ri=protect,screen)、「真っ直ぐに行くのを妨害する(川や湿地の)付近一帯」

の転訛と解します。

 

(7−2) フゴッペ洞窟

 小樽市の西に隣接する余市町の海岸から200メートルの平地にある砂岩質の小丘陵の東側にある岩陰遺跡で、壁面に200余の原始的な図像が陰刻されており、呪術的な性質を有するものと考えられています。洞窟からは、賊縄文式土器、石器などが見つかっており、昭和28(1953)年に国の史跡に指定されました。

 この「フゴッペ」は、

  「フ・(ン)ガウ・パエパエ」、HU-NGAU-PAEPAE(hu=promontory,hill;ngau=bite,hurt,act upon;paepae=an ancient rite to cure sickness,ease disabilities of tapu,etc.)、「病気を治したり禁忌に触れて倒れた人を癒すなどの・呪術を行っ(て岩壁に図像を刻み付け)た・丘」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」から「ゴッ」と、「パエパエ」の反覆語尾が脱落し、AE音がE音に変化して「ペ」となった)

の転訛と解します。

(7−3) 旭(あさひ)岳

 北海道中央部、大雪山の南西部にある標高2290メートルの北海道の最高峰です。安山岩質の成層火山で、山頂直下から西に開いた縦長の爆裂火口(地獄谷)は最大幅500メートルに達し、噴気孔は今も活動しています。

 この「あさひ」は、

  「アタ・ヒ」、ATA-HI(ata=how horrible!,clearly,deliberately;hi=raise,rise)、「(恐ろしい)噴煙を上げる・高い(山)」(「アタ」が「アサ」となった)

の転訛と解します。

(8) 襟裳(えりも)岬

 日高山脈の南端部が太平洋に突出した岬で、先端部から西側の海岸は、高さ40〜60メートルの海食崖が続き、その先の海上にローソク岩やカマ岩などの岩礁が1.3キロメートルにわたって突出し、さらに海中を6キロメートルの沖合いまで岩礁が続く雄大な景観を呈しています。寒流と暖流の合流地点のため、海霧が発生しやすく、また強風で有名です。

 この「えりも」は、アイヌ語の「エンルム(突き出ている頭。岬)」の転訛という説があり、「ポロ(大きな)・エンルム(岬)」、「オンネ(年老いた)・エンルム(岬)」とも呼ばれたといいます。

 この「エリモ」は、特徴のある岬の突端の岩礁に着目した地名で、マオリ語の

 「エ・リ・マウ」、E-RI-MAU(e=to denote action in progress,by;ri=screen,protect,bind;mau=carry,fixed,continuing)、「(岩の)垣根が・ずっと(沖まで)・続いている(場所。岬)」(「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 十勝(とかち)平野

 十勝平野は、北海道東部の東西60キロメートル、南北100キロメートルにおよぶ盆地状の日本屈指の大平原をなす平野です。

 この「トカチ」の地名は、元来十勝川河口付近の地名とされますが、その語源には定説がありません。古くは、「トカプチ」とも称したようで、幕末に来航したオランダ船カストリクム号の船長フリースの日誌には、村落名「トカプチ」と、同船を訪れたアイヌが「タカプチ」と称したと記されています(『日本地名ルーツ辞典』創拓社、1992年)。また、トカチのアイヌは、隣接のシラヌカ、クスリ(釧路)のアイヌと仲が悪かったとあります(同上)。

 この「とかち」または「とかぷち」は、アイヌ語で「ト・カ・プ・チ(沼のあたりに枯れ木がある所)」、乳房のような双丘(トカプ)の間から十勝川が流れ出る、または乳が出るように十勝川の河口が二筋に分かれて流れるので、「トカプ・ウシ(乳のあるところ)」(松浦武四郎)、「トカリ・ペツ(トドのいる川)」、かつて強暴な十勝アイヌを憎んで、他の地域のアイヌが「トウカプチ(幽霊)」と呼んだ(永田方正)などの説があります。

 この「トカチ」は、マオリ語の

  「ト・カチ」、TO-KATI(to=the...of;kati=block up,closed of a passage)、「(立ち入りを)阻んでいる(または道が閉ざされている地域、平野)」

の意と解します。石狩平野が曲流する川と湿地で通行に難渋したように、十勝平野も繁茂する草木、薮のために通行に難渋したことによるものか、あるいは十勝アイヌが他部族の侵入を許さなかったことによるものかも知れません。

 なお、十勝アイヌが自称した村落名および自称名の「トカプチ」、「タカプチ」は、マオリ語の

  「ト(タ)・カプチ」、TO(TA)-KAPUTI(to=the...of(ta=the);kaputi=gather together,assemble)、「(人、部族が)集合している(村落、地域、部族)」

の意と解します。

 

(10) 釧路(くしろ)平野

 釧路平野は、北海道東部の沖積平野で、その大部分は低湿な泥炭地(釧路湿原)からなっています。

 江戸時代の古文書(『松前旧事記』寛永20(1643)年)や古地図(『正保日本図』正保元(1644)年)に「くすり」の地名が記されています。明治2年、松浦武四郎が音の似た「釧(くしろ)」の字をあてて「釧路」と命名しました。

 この「くすり」の古名は、アイヌ語の「クシュ・ル(通路)」、「チ・クシ・ル(我らが通る道)」、「チクシ・ル(往来する道)」、「クスリ(温泉)」、「クッチャロ((屈斜路湖の)咽喉もと)」などの転訛とする説がありますが、定説はありません。

 この「クスリ」は、マオリ語の

  「ク・ツリ」、KU-TURI(ku=silent;turi=water)、「静かな水(湿気の多い場所)」

の転訛と解します。

 

(11) 霧多布(きりたっぷ)

 霧多布は、釧路支庁厚岸町の砂州で繋がった島の名で、その地区の町名にもなっています。中心集落は霧多布島と内陸を繋ぐ砂州の上にありましたが、昭和35(1960)年のチリ地震津波で砂州の一部が切れたため、現在は霧多布大橋によって陸地と結ばれています。

 古くは「きいたっぷ」と呼ばれていたのが、霧の多い場所であるところから、「霧多布」となったといい、アイヌ語の「キ・タ・プ(茅を刈る場所)」の転訛とする説があります。

 この「キリタップ」は、この陸繋砂州をさす言葉で、マオリ語の

  「キリタプ」、KIRITAPU(hymen,unmarried)、「処女膜(のような砂州、このような砂州で繋がった島)」

の転訛と解します。

 

(12) 根室(ねむろ)

 北海道最東端に根室半島があり、その北側の根室湾に面して、根室港、根室市があります。千島航路の中継地でした。

 古くは「ねもろ」といい、アイヌ語で「ニ・ムイ(木の箕のような湾)」の転訛(松浦武四郎)、「ニ・ム・オロ(流木が詰まる所)」、「ニム・オロ(樹木の茂った所)」、「メム・オロ・ペツ(湧き壷のある川)」などの説があります。

 この「ネモロ」は、マオリ語の

  「ネイ・モ・ロ」、NEI-MO-RO(nei,neinei=stretched forward;mo=for,against;ro=inside)、「(根室半島の)内側に向かって広がっている(地域)」

の転訛と解します。

 

(13) 納沙布(のさっぷ)岬ー野寒布岬、宗谷岬・珸瑶瑁(ごようまい)水道

 根室半島の東端に北海道最東端の納沙布岬があります。

 元禄10(1697)年に松前藩が幕府に献上した『元禄絵図』には「ノツサフ」(稚内の野寒布(ノシャップ)岬は、「ノッシャフ」)とあります。

。納沙布岬と歯舞諸島の水晶島の間の海峡を珸瑶瑁(ごようまい)水道と呼んでいます。

 この「のさっぷ」は、アイヌ語の「ノッ・シャム(岬のかたわら)」で、稚内の野寒布岬の語源も同じとする説と、稚内は「ノシャップ(下顎)」とする説があります。また「ごようまい」は、アイヌ語の「コイ・オマ・イ(波が・在る・場所)」とする説があります。

 この「ノサップ」および「ノシャップ」は、いずれも同じマオリ語の

  「ノチ・アプ」、NOTI-APU(noti=pinch;apu=billow)、「大波のうねりに圧迫される(翻弄される岬)」

の転訛と解します。

 この「ごようまい」は、

  「(ン)ゴイオ・マイ」、NGOIO-MAI(ngoio=whistling sound,asthma;mai=to indicate direction,or motion towards)、「(ぜんそくの発作のように)激しく咳き・込む(ように潮流が流れる。海峡)」(「(ン)ゴイオ」のNG音がG音に変化して「ゴイオ」から「ゴヨウ」となった)

の転訛と解します。

 なお、稚内の野寒布岬と宗谷湾をへだてて東に対する日本最北端の岬、宗谷(そうや)岬の「そうや」は、アイヌ語で「ソー・ヤ(磯岩の岸)」という説があります。

 この「ソウヤ」は、マオリ語の

  「タウ・イア」、TAU-IA(tau=attack;ia=current)、「潮流が襲いかかる(岬)」

の転訛と解します。

 

(14) 野付(のつけ)半島

 北海道の東岸と国後島の間の根室海峡の中央に、野付半島が突き出ています。

 この「のつけ」は、アイヌ語で「ノツ・ケウ(顎の骨)」と解する説があります。

 この「ノツケ」は、マオリ語の

  「(ン)ガウ・ツケ」、NGAU-TUKE(ngau=bite,attack,hurt;tuke=elbow)、「食い千切られている(入り江が内側にある)・肘(ひじ)(のような。半島)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

(14−2) 知床(しれとこ)半島・羅臼(らうす)岳

 北海道の東北部にオホーツク海に突出する知床半島があり、平成17年に世界遺産に指定されました。厳しい自然を色濃く残す半島で、西北岸には知床連山の主峰羅臼(らうす)岳(1,660メートル)の火山流によつて堰き止められた知床五湖があります。

 この「しれとこ」は、アイヌ語の「大地の果て」の意とする説(平成17年7月の各新聞、テレビ等の世界遺産指定の報道による。)があります(「シリ」は大地、「エトク」は頭の突出部の意で、「シリ・エトク」は単なる「岬」の意(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』による)で、「大地の果て」と解するのは商業主義による誇張表現です。アイヌ族は千島列島からカムチャツカ、アリューシャン列島とも交流があり、ここが「大地の果て」などとは考えていなかったはずです)。

 この「しれとこ」、「らうす」は、

  「チ・レイ・トコ」、TI-REI-TOKO(ti=throw,cast;rei=swampy ground,peat,wet;toko=pole,rod)、「(池沼が多い)湿地が・(あたりに投げ出されて)ある・(真っ直ぐの)棒のような(半島)」

  「ラウツ」、RAUTU(sharp applied to the keel of a canoe)、「(カヌーの竜骨の立ち上がりのような)険しい(山。またはその険しい山が迫る海岸)」

の転訛と解します。

(15) 網走(あばしり)市ー能取(のとろ)湖

 網走市は、網走支庁の所在地で、オホーツク海に面する水産都市です。北部にある能取(のとろ)湖は、東西を丘陵、北岸を湾口砂州によって封じられた潟湖で、かつては毎年9〜11月の烈しい風波がはこぶ漂砂で湖口が塞がるため、春に湖口を開く「砂切り」が行われていました。

 この「あばしり」は、古くは「はゝ志り村」(『津軽一統志』)、「はゞしり」(『松前島郷帳』)で、アイヌ語の「ア・パ・シリ(われらが発見した土地)」、「アパ・シリ(入り口の土地)」や、網走港にある帽子岩をアイヌ漁民が「神の岩」として崇めたことから「チパ・シリ(幣場のある島)」から転じたとする説などがあります。

 この「アバシリ」は、マオリ語の

  「ハハ・チリ」、HAHA-TIRI(haha=deserted;tiri=scatter)、「荒漠とした風景が広がっている(土地)」

の転訛と解します。

 また、能取湖の「のとろ」は、アイヌ語の「ノトロ(岬のところ)」とする説では疑問が残ります。

 この「ノトロ」は、マオリ語の

  「ナウ・トロ」、NAU-TORO(nau=come,go;toro=creep,extend)、「(水路が狭くて浅いのでカヌーが)這うように出入りする(湖)」

の転訛(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)と解します。

 

(16) サロマ湖

 網走の西、オホーツク海に面してサロマ湖があります。琵琶湖、霞ヶ浦に次ぐ日本第三の湖です。延長30キロメートル、幅200〜700メートルの砂州が内湾と外海を隔てている細長い潟湖で、かつては湖の東端部で海と通じ、毎年冬季には漂砂によって閉塞されていました。

 この「さろま」は、アイヌ語の「サルオマトー(葦原にある湖)」からという説があります。

 この「サロマ」は、マオリ語の

  「タ・ロマ」、TA-ROMA(ta=dash,aim a blow at,cut;roma=channel,current)、「(湖に通ずる)水路が(漂砂に狙われて)閉塞する(湖)」

の転訛と解します。

 

(16−2) 白滝幌加沢(ほろかざわ)遺跡

 紋別市の南、遠軽町の旧白滝村地内の対雪山山系に属する赤石山(1,147m)の山頂付近に数カ所の大きな黒曜石の露頭があり、近くを流れる湧別川の流域に大規模な黒曜石の加工遺跡が発見されています。中でも湧別川の支流、幌加(ほろか)湧別川の源流に近い幌加沢(ほろかざわ)遺跡からは、旧石器時代中期から後期との説がある黒曜石の大型石器や、40万点を超す細石刃や石刃核が発見され、日本でも最大級の黒曜石の加工・流通拠点と考えられています。

 この「ほろかざわ」は、

  「ポロ・カハ・タワ」、PORO-KAHA-TAWHA(poro=butt end,pierce of anything cut or broken off short,cut short;kaha=strong,strength,persistency;tawha=burst open,crack)、「(黒曜石を)細かく切断加工することを・長期にわたって行った・(谷)沢」(「ポロ」のP音がF音を経てH音に変化して「ホロ」と、「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「タワ」が「サワ」となった)

の転訛と解します。

(16−3) 利尻(りしり)島、礼文(れぶん)島、スコトン岬

 利尻(りしり)島は、道北部の日本海に浮かぶ島で、円錐形火山の利尻山(利尻岳、利尻富士ともいう。1721メートル)からなるほぼ円形の火山島です。「りしり」はアイヌ語「リシリ(高い島)」の意とされます。

 礼文(れぶん)島は、礼文水道を挟んで利尻島の北東にあり、南北に細長い島で、最高点は礼文岳(490メートル)、北端にスコトン岬と金田ノ岬に挟まれた船泊湾があります。「れぶん」はアイヌ語「レプンシリ(沖の島)」の意とされます。

 この「りしり」、「れぶん」、「すことん」は、

  「リ・チリ」、RI-TIRI(ri=screen,protect;tiri=throw or place one by one,scatter,stack)、「衝立(のような山。利尻富士)を・置いたような(島)」(「チリ」が「シリ」となった)

  「レヘ・プ(ン)ガ」、REHE-PUNGA(rehe=wrinkle,fold,in the skin;punga=lump,swelling,anchor)、「皺が寄った・膨らみのような(島)」(「レヘ」のH音が脱落して「レ」と、「プ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「プナ」から「ブン」となった)

  「ツコ・トネ」、TUKO-TONE(tuko=a digging implement;tone=projection,knob)、「堀り棒で掘り崩されたような・突起(のような岬)」(「ツコ」が「スコ」と、「トネ」が「トン」となった)

の転訛と解します。

(16−4) 焼尻(やぎしり)島、天売(てうり)島

 焼尻島、天売島の2島は、道北西岸羽幌町の沖にあり、東西に並び、双子のようにみえる島ですが、自然景観は驚くほど異なっています。焼尻島は、イチイ(アイヌ語でオンコ)の原生林をはじめ、混合林に覆われ、畑や草地が開けた穏やかな景観であるのに対し、天売島は、高木はみあたらず、風が強いため低木がまばらにあるだけで野草地が殆どを占め、険しい海食崖が続く北西岸はオロロン鳥(ウミガラス)など海鳥の自然繁殖地となっていて、焼尻のオンコ原生林とともに天然記念物に指定され、きびしい自然景観を見せています。

 「やぎしり」は、アイヌ語で「ヤンケシリ((舟などを陸に引き)揚げる島)」や「足の裏」、「てうり」はアイヌ語で「足指」の意とする説があるようです。

 この「やぎしり」、「てうり」は、

  「イ・ア(ン)ギ・チリ」、I-ANGI-TIRI(i=past tense;angi=light air,fragment smell,free,without hindrance,move freely;tiri=throw or place one by one,scatter,stack)、「(森林や草地の)香わしい空気を生んで・いる(土地が)・(海に)置かれているような(島)」(「ア(ン)ギ」ののNG音がG音に変化して「アギ」となり、「イ・アギ」が「ヤギ」と、「チリ」が「シリ」となった)

  「テ・ウリ」、TE-URI(te=crack,emit a sharp explosive sound;uri=descendant,relative,race)、「けたたましい声を上げる・種類の(オロロン鳥、ウミネコなどが生息する。島)」

の転訛と解します。

(17) 北方諸島ー歯舞(はぼまい)諸島・色丹(しこたん)島・国後(くなしり)島・択捉(えとろふ)島

 北方諸島の地名は、それぞれアイヌ語で

歯舞(はぼまい)諸島の「はぼまい」は、「アプ・オマ・イ(流氷の中にある)」、

色丹(しこたん)島の「しこたん」は、「シ・コタン(本当の、または極地の村)」、

国後(くなしり)島の「くなしり」は、「キナ・シリ(草の島)」、

択捉(えとろふ)島の「えとろふ」は、「エツ・オロ・プ(鼻の中のもの=人が鼻水を流しているように見える岩がある)」とする説があります。

 これらをマオリ語(一部はハワイ語)で解釈しますと、

  「ハボマイ」は、「ハプ・オ・マイ」、HAPU-O-MAI(hapu=clan;o=of;mai=mussels taken out of the shells)、「剥き身の貝の一群(のような島々)」

  「シコタン」は、「チコ・タ(ン)ガ」、TIKO-TANGA(tiko=settled upon,stand out;tanga=row)、「(千島列島の)列からはみ出ている(島)」

  「クナシリ」は、「クナ・チリ」、KUNA-TIRI((Hawaii)kuna,kunakuna=itch,scabies;tiri=throw or place one by one,scatter)、「(大地が)疥癬(かいせん。皮膚病の一種)にかかったような(沼や湿原が)・あちこちにある(島)」または「ク・ヌイ・チ・リ」、KU-NUI-TI-RI(ku=silent;nui=many,large;ti=throw,cast;ri=screen)、「衝立(防波堤)のように・置かれた・非常に・静かな(島)」

  「エトロフ」は、「エト・ロプ」、ETO-ROPU(eto=lean,attenuated;ropu=heap)、「(痩せた、薄くなっている)幅が細くて高い(島)」

の転訛と解します。

トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引


 

2 青森県の地名

 

(1) 陸奥(むつ)国

 青森県は、古くは陸奥国の一部で、青森県、岩手県、宮城県、福島県の全域と秋田県の一部を含んでいました。陸奥国は東山道八か国の一つで、大化改新の後東海道、東山道の最奥の国として「道奥国」が置かれました。『日本書紀』景行紀に「道奥」、『万葉集』には「みちのく」、『和名抄』には「陸奥」で、「三知之於久(みちのおく)」と訓じています。

 「道奥」ですから、常陸国、下野国などとの境ははっきりしていますが、蝦夷国と接する北限ははっきりせず、「道奥国」の領域は当初は福島県および宮城県の一部であったものが次第に北上していったものと思われます。

 7世紀後半には「陸奥(むつ)国」の名称が次第に定着したようです。「むつ」は、「みちのく」の「みち」の転とする説や、「陸州」から「六州」になり、「六」が転じたとする説があります。

 この「むつ」は、マオリ語の

  「ムツ」、MUTU(finished,end)、「(道の)終わるところ、地のはて」

の転訛と解します。

 

(2) 津軽(つがる)・平賀(ひらか)郡(庄)・鼻和(はなわ)郡(庄)・田舎(いなか)郡(庄)

 本州北端、青森県西半部の津軽(つがる)は、『日本書紀』斉明天皇元(655)年7月11日条に「津刈(蝦夷)」として記され、また斉明天皇4年4月条に「渟代・津軽二郡郡領を定めた」とあり、後に都加留、都賀路、東日流とも記されています。

 『延喜式』の郡名には見えません。
 中世には古くから津軽平賀郡、津軽鼻和郡、津軽田舎郡、津軽山辺郡(南北朝期における山辺郡の存在については疑問視する説があります。)などの広域地名として用いられ、天文年間の文書には東日流六郡として奥法(おきのり)郡、馬郡、江流末(えるま)郡、田舎郡、平賀郡、鼻和郡の名がみえます。(最初の三郡の実在については疑問視する説があります。)
 近世には天正18年の豊臣政権の奥州仕置によつて津軽氏の「当三郡(平賀・鼻和・田舎)および合浦(外浜・北浜)」の支配が認められ、寛文4年には津軽郡となり、平賀・鼻和・田舎三郡は「庄」と呼ばれるようになりました。
 明治4年の廃藩置県、同6年の大小区制を経て、同11年津軽郡は東津軽郡・西津軽郡・中津軽郡・南津軽郡・北津軽郡の五郡に分割されました。

 この「津軽(つがる)」の語源は、(1) 津軽平野の岩木川氾濫原の大湿地で、水に「漬かる」地、
(2) 津軽山地の「ツカル(連なる)」ところ、
(3) 本州の北の果て、「尽(つきる)地」、
(4) 「ツカ・カル」の約、いずれも崖の意で、日本海側の海食崖を指す、
(5) 「ツ」は浜、「カル」は漁業の意、
(6) アイヌ語では北海道に「ツガル」の類例はありませんが、「ツカリ・コタン(日本の手前)」とか、
(7) アイヌ語で「ツカリ・ショ(あざらしの集まる場所)」などの説があります。

 この「ツガル」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ・ル」、TUNGA-RU(tunga=decayed tooth,worm-eaten or rotten of woods;ru=shake,scatter)、「虫に食われたような(湿地が)・散在する(地域)」(「ツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ツガ」となった)

  または「ツ・カル」、TU-KARU(tu=stand;karu=spongy matter enclosing the seeds of a gourd)、「スポンジ状の土地(泥炭が堆積した低湿地)の・上に位置する(地域)」

の転訛と解します。この地は、古代には十三(とさ)湖が大きく内陸に入り込んでおり、平野の大部分は岩木川の下流が曲流し、いたるところに湿地が散在する大湿地地帯であったようで、その状況を虫歯または虫に食われた木材(陸地)にたとえたか、または陸地といってもまだ土になる前のスポンジ状の泥炭堆積層が主体であったので、この地名が付けられたものと考えられます。

 以上の(1)平賀(ひらか)郡(庄)の地域は、おおむね旧南津軽郡碇ヶ関村、大鰐町、平賀町、尾上町、弘前市南部、黒石市西南部、中津軽郡相馬村の一部の地域に相当し、
(2)鼻和(はなわ)郡(庄)の地域は、おおむね現在の岩木川以西の弘前市、中津軽郡、北津軽郡南部の一部、鰺ヶ沢以南の西津軽郡の地域に相当し、
(3)田舎(いなか)郡(庄)は、平賀(ひらか)郡(庄)および鼻和(はなわ)郡(庄)以外の津軽半島から青森湾、津軽平野などにかけた広い地域に相当するとされます。

 この「ひらか」、「はなわ」、「いなか」は、

  「ピラカ」、PIRAKA(=pirakaraka=fantail bird)、「(山地から平野に移行する場所に存在する扇尾鳥の尾のような)扇状地(を主体とする地域)」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒラカ」となった)

  「ハ(ン)ガ・ワ」、HANGA-WA(hanga=head of tree;wa=definite space,area)、「(岩木山をはじめとする山岳地帯を含む、樹木の)樹冠のような高い(場所を主体とする地域)」(「ハ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ハナ」となった)

  「ウヰ・ナカ」、UWHI-NAKA(uwhi=cover,spread out;naka=move in a certain direction)、「(平野部から北の半島部の方向に)向かって・大きく広がる(地域)」(「ウヰ」が「ヰ」となった)

の転訛と解します。

(2−2) 夏泊(なつどまり)半島

 津軽半島と下北半島に抱かれる陸奥湾は、その最奥部の夏泊(なつどまり)半島を境に西は青森湾、東は野辺地(のへじ)湾に分かれ、また下北半島の湾奥は大湊(おおみなと)湾となっています。この夏泊半島から西が津軽、東が南部です。

 この「なつどまり」は、アイヌ語で「ノツ(岬)・トマリ(泊地)」の意とする説があります。

 この「なつどまり」は、

  「ナツ・トマ・リ」、NATU-TOMA-RI(natu=tear out,scratch,mix;toma=resting place for bones;ri=screen,protect)、「(湾を二つに)分ける・(船が)休息をとる場所を・保護する(衝立のような。半島)」

の転訛と解します。

(2−3) 黒石(くろいし)市・じょんから節・五所川原(ごしょがわら)市

 黒石(くろいし)市は、県中央部にある八甲田・十和田国立公園の西の登山口にある市です。昭和29(1954)年黒石町と山形、浅瀬石(あせいし)、中郷、六郷の四村が合併して黒石市となりました。市名の由来は、(1)市内を流れる浅瀬石川の自然堤防(クロ)から、(2)河流のくね曲がる曲流部の称の転、(3)黒い石のある川から、(4)クリ(暗礁)・イシ(石)の転、(5)蝦夷の住む土地を久慈須(くじす)、国栖(くにす)と呼んでいたのが転訛したなどの説があります。

 この黒石市は、民謡津軽じょんから節(曲中では「じょんがら」と歌われる)の発祥地とされています。じょんから節は、大浦城主津軽為信によって滅ぼされた浅瀬石城主千徳政氏の菩提所を守って浅瀬石川に入水した神宗寺の常縁(じょうえん)和尚の霊を供養した「常縁河原(じょうえんがわら)節」が「上河原(じょうがわら)節」となったことにはじまるという説があります。

 五所川原(ごしょがわら)市は、県北西部の岩木川の河岸にあり、津軽北西地方の政治経済の中心市です。昭和29(1954)年五所川原(ごしょがわら)町と榮、中川、三好、長橋、松島、飯詰の六村が合併して五所川原市となり、平成17(2005)年に金木、市浦の二町を合併しました。市名の由来は、(1)寛文年間ごろにこの付近で岩木川が大曲流し、五ヶ所に川原を作ったことによる、(2)岩木川上流の五所村のご神体が洪水のたびに流れ着くことからなどの説があります。

 この「くろいし」、「じょんから(じょんがら)」、「ごしょがわら」は、

  「クロ・ヒシ」、KULO-HISI((Hawaii)kulo=to wait a long time,to stand long;(PPN)hisi=(Hawaii)ihi=to strip,peel=(Maori)ihi=split,divide)、「(昔から)長く存続している・(自然堤防の上にある)細長い(集落。地域)」または「(昔から)長く存続している・(他の集落と)離れて孤立している(集落。地域)」(「ヒシ」のH音が脱落して「イシ」となった)

  「チオ・(ン)ガラ」、TIO-NGARA(tio=cry,call;ngara=snarl)、「唸り・叫ぶ(ように歌う。民謡)」

  「(ン)ガウ・チホウ・カワ・アラ」、NGAU-TIHOU-KAWA-ARA(ngau=bite,attack;tihou=an implement for cultivating;kawa=reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals;ara=way,path,rise up)、「(洪水で)荒々しく・鍬を入れたような・石がごろごろしている水路の・高くなった場所(自然堤防の上の。場所。地域)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」と、「チホウ」のH音が脱落し、OU音がO音に変化して「チオ」から「ショ」と、「カワ」の語尾のA音と「アラ」の語頭のA音が連結して「カワラ」となった)

の転訛と解します。

(3) 岩木(いわき)山

 岩木山は、津軽平野南西部に位置する二重式火山で、平野に孤立して円錐形の裾野を広げており、”端正で華奢な姿(太宰治)”をしているため、津軽富士の別名があります。山頂は、中央火口丘の岩木山(1625メートル)と外輪山の巌鬼山、鳥海山の三つの峰に分かれ、弘前市からは「山」の字の形に見えます。外輪山の西半分は、大きく爆発で破壊されています。

 この「いわき」は、(1) 「イハ(岩)・キ(接尾語)」または「イハ(岩)・キ(城)」で「石の砦」の意、
(2) 「ヰ(井)・ワキ(脇、湧)」で「岩木川に沿っている」の意などの説があります。

 この「イワキ」は、マオリ語の

  「イ・ワキ」、I-WHAKI(i=past time,beside;whaki,whawhaki=pluck off,tear off)、「むしり取られた(または引き裂かれた)(山またはそのあたり)」

の意と解します。

(4) 白神(しらかみ)山地

 白神山地は、北海道の白神岬(前出)の項で解説したとおり、「チラ・カハ・アミ」、TIRA-KAHA-AMI(tira=fish fin;kaha=strength,rope,boundary line of land etc.,ridge of hill;ami=gather,collect)、「魚の鰭のような・山の峯が(辺境の地に)・連なっている(場所。白神山地)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となり、そのA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「カミ」となった)

 また、白神山地の中の乱岩ノ森については、入門篇(その二)(平成10年12月1日書き込み)の中で解説しています。

 

(4−2) 鰺ヶ沢(あじがさわ)町・舞戸(まいと)・艫作(へなし)崎

 白神山地の北、岩木山の東に日本海に面して鰺ヶ沢町があります。中世末期から聞こえた港町です。その海岸部の南側の現在蛇行して流れる中村川の下流域は、おそらく古くは、細長い河口湖で、のち湿地帯であったものが現在は水田となったものでしょう。その河口は、海岸にほぼ直交する舞戸の丘の東壁にぶつかって流路を大きく変えて海に注ぎます。

 鰺ヶ沢町の西に深浦(ふかうら)町があり、その西端に細長く日本海に突出した難読地名として有名な艫作崎があり、その南北に岬に並行する形の小島または岩礁が点在しています。

 この「あじがさわ」、「まいと」、「へなし」は、マオリ語の

  「ア・チ(ン)ガ・タワ」、A(before names of places,the...of,belonging to)-TINGA(likely)-TAWA(ridge,calabash)、「あの(いわば)・(河口とそれに連なる低地帯が)瓢箪に・似ている(川が流れる地域)」(「チ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「チガ」から「ジガ」と、「タワ」が「サワ」となった)

  「マイ・ト」、MAI(to indicate direction or motion towards)-TO(drag,open or shut a door or window)、「(瓢箪の)口(くち)を塞ごう・としている(丘。その丘のある地域)」

  「ハエ・ナチ」、HAE(split,tear,cut)-NATI(pinch or contract)、「引き裂かれたように・細長い(岬。その岬がある地域)」(「ハエ」のAE音がE音に変化して「ヘ」と、「ナチ」が「ナシ」となった)

の転訛と解します。

(5) 十三(とさ)湊

 青森県北西部の十三(現在は「じゅうさん」ですが、江戸時代の中期までは「とさ」と呼んでいました)湖は、岩木(いわき)川の河口の潟湖で、かつては大きく内陸に入り込み、河口には、かつて三津七湊の一つに数えられた十三(とさ)湊が米や木材の積み出しで繁栄していました。”浅い真珠貝に水を盛ったような気品をもつがはかない感じの湖(太宰治「津軽」)”と描写されています。

 この「とさ」の地名は、「土佐」から人が移住したことによるとの説があります。

 この「トサ」は、マオリ語の

  「トタハ」、TOTAHA(bind,encircle with a band)、「帯を締めている(日本海と湖の間に細長い砂州がある湖)」

の転訛(原ポリネシア語の「トサハ」が、日本語では語尾の「ハ」が脱落し、マオリ語ではS音がT音に変化した)と解します。なお、土佐の「トサ」は、マオリ語の「トタ、TOTA(sweat)、蒸し暑い(土地)」の転訛と解します。

 

(6) 竜飛(たっぴ)岬

 津軽海峡に面する竜飛岬は、入門篇(その三)(平成11年1月1日書き込み)の中で解説しました。

 

(7) 袰月(ほろづき)海岸ー袰部川、大幌内川、小幌内川

 竜飛岬の東、東津軽郡今別町の袰月海岸は、津軽国定公園に属し、海食地形が発達した男性的な岩石海岸です。

 この「ホロヅキ」は、マオリ語の

  「ホロ・ツキ」、HORO-TUKI(horo=fall in fragments,landslip;tuki=beat,attack)、「山崩れに襲われた(海岸)」

の転訛と解します。

 下北半島の北東部、下北郡東通村に「袰部(ほろべ)川」があり、アイヌ語で「ポロ(大きい)・ペツ(川)」と解する説があります。

 この「ホロベ」は、マオリ語の

  「ホロ・ペ」、HORO-PE(horo=fall in fragments,landslip;pe=crashed)、「(粉々に)地崩れした(場所を流れる川)」

の転訛と解します。

 十和田湖に注ぐ川に、「大幌内(おおほろない)川」、「小幌内(こほろない)川」があり、この「ホロナイ」を「ポロ(大きい)・ナイ(川、沢)」と解する説があります。

 この「ホロナイ」は、マオリ語の

  「ホロ・ヌイ」、HORO-NUI(horo=fall in fragments,landslip;nui=big,many)、「(粉々に、大きく)地崩れした(場所を流れる川)」

の転訛と解します。

 また、宮崎県宮崎市南部の双石山(ぼろいしやま。509メートル)には、常緑広葉樹が繁茂する天然記念物双石山自然林があり、東にある加江田渓谷を含めた一帯は自然休養林となっています。この山の南東側は傾斜が緩やかですが、北から西側は急崖となっています。

 この「ボロイシ」は、マオリ語の

  「ホロ・イチ」、HORO-ITI(horo=fall in fragments,landslip;iti=small)、「小さな崖(がある山)」

の転訛と解します。

 

(8) 蟹田(かにた)町

 東津軽郡蟹田町は、陸奥湾に臨む津軽半島東岸の町で、後背山地はヒバの美林で知られています。

 最近、この町の大平山元(おおだいやまもと)T遺跡から出土した縄文土器および石器を最新の年代測定法で測定したところ、実に1万6千5百年前のものであることが判明して話題となりました。

 この町名は、古くは「神荷田」、「蟹多」、「神田」、「上田」と記しており、
(1) 「ハニ(埴)・タ(田)」の転、
(2) 水田に「蟹」がいたから、
(3) 川上から開発した「上(かみ)・田」の転、
(4) 蟹田川流域は製鉄が盛んで、「金(かね)」の転の「カニ」などの説があります。

 この「カニタ」は、マオリ語の

  「カ・ヌイ・タ」、KA-NUI-TA(ka=take fire,burn;nui=big,many;ta=lay)、「(炊事の)火が燃えるところ(住居)がたくさんある場所(人口の多い地域)」

の転訛と解します。

(8−2) 糠部(ぬかのべ)郡・階上(はしかみ)郡(海上郡)・北(きた)郡・三戸(さんのへ)郡

 青森県西半部の「津軽」に相当する東半部の古い広域地名は見あたりません。
 『日本後紀』弘仁2年7月29日条にみえる邇薩体(にさちて)村および都母(つも)村はいずれも上北郡かとされますが、不詳です(村名の解釈からは地域の特定はできません)。 
 中世では、『吾妻鏡』文治5年9月3日条ないし同月17日条には糟部郡、糠部郡、糠部駿馬の記事がみえ、この糠部(ぬかのべ)郡は本県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と、岩手県北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な地域であったとみられます。鎌倉時代初期に郡内を東・西・南・北の四門と一戸から九戸までの九部(戸)に分け、一の戸に七ヶ村を配し、一牧場を置いたとされます(『大日本地名辞書』)が、強い異論も出されています。
 江戸時代に入って寛永11年8月徳川家光から盛岡藩に与えられた領地目録では糠部郡は北(きた)郡・三戸(さんのへ)郡・二戸郡・九戸郡の四群に分割され、郡名は消滅しました。このうち北郡は、明治11年上北郡、下北郡に分割されました。
 江戸時代に作られた一部の寺社の縁起や鐘銘にのみ階上(はしかみ)郡(海上郡とも)の名がみえます。『大日本地名辞書』は、「戦国以後に至り、糠部を階上(はしかみ)といひ、移りて海上郡の濫称あり、恐らくは糠部の別名にすぎず」とします。この階上は、青森県階上町と岩手県旧種市町との境の階上岳(種市岳、臥牛山とも。標高740m)の山名で、この麓にある古社を光仁天皇の御代にこの地に配流された藤原有家卿の終焉の地として縁起に糠部郡に代え階上郡の表記をしたことによるとの説があります。

 この「ぬかのべ」、「はしかみ」、「きた」、「(一から九まで)のへ」は、

  「ヌカ・ノペ」、NUKA-NOPE(nuka=deceive(whakanuka=boast,brag);nope=constricted)、「(駿馬の産地という)自慢する土地が・集っている(地域)」

  「パチ(ン)ガ・ミイ」、PATINGA-MII(patinga=flowing of the tide;(Hawaii)mii=fine-appearing,good-looking)、「(山の形が)流れるように・美しい(山)」(「パチ(ン)ガ」のP音がF音を経てH音に、NG音がG音に変化して「ハチガ」から「ハシカ」と、「ミイ」の反復語尾が脱落して「ミ」となった)または「ハ・チカ・ミイ」、HA-TIKA-MII(ha=what!;tika=straight,just,well;(Hawaii)mii=fine-appearing,good-looking)、「(山の形が)何と・全く・綺麗な(山)」

  「キ・タハ」、KI-TAHA(ki=full,very,say;taha=side,spasmodic twitching of the muscles)、「(その方向へ行くと寒さで)震えが・来る(地域。北)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

  「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 大間(おおま)崎

 下北半島の北西端に、北海道亀田半島の汐首岬と相対して、大間崎があります。

 この「間(澗。ま)」には、「湾または海岸の船着き場」の意味があります。

 しかし、この「オオマ」は、マオリ語の

  「オ・オマ」、O-OMA(o=the place of;oma=move quickly)、「潮流が速く流れる場所」

の転訛と解します。

 

(10) 尻屋(しりや)崎

 下北半島の北東端に尻屋崎があります。石灰岩からなる岩石海岸で、高さ約20メートルの海食台をなしており、周囲の海上には岩礁が多く、夏は霧、冬は暴風雪となることが多いため、海難事故が絶えない場所でした。

 この地名は、アイヌ語の「シリ(山、絶壁)・ヤ(陸岸、港)」からという説があります。

 この「シリヤ」は、マオリ語の

  「チリ・イア」、TIRI-IA(throw or place one by one,scatter;ia=indeed)、「(岩礁が付近に)丹念にばらまかれている(岬)」

の転訛と解します。

 

(11) 恐山(おそれざん)

 下北半島にある円錐形の火山で、中央に直径約4キロメートルのカルデラがあり、大尽山(おおづくしやま。828メートル)などの外輪山と釜臥山(かまふせやま。879メートル)などの寄生火山があります。カルデラ内には直径約2キロメートルの宇曽利(うそり)山湖(恐山湖)があり、北東の外輪山の切れ目から正津川が流出しています。恐山湖の周囲から噴出する硫黄ガスによって、岩石は黄白色となり、荒涼とした地獄を思わせる風景は、日本三大霊場の一つとなりました。7月に行われる大祭にはイタコ(巫女)の口寄せが行われます。

 この山は、古くは「於曽礼(おそれ)山」または「宇曽利(うそり)山」ともいいったようで、

(1) 恐山の名はこの地の菩提寺であるむつ市の円通寺の山号に由来する、
(2) 慈覚大師円仁が鵜(う)の導きで入山したから、
(3) 「オソレ」は、「襲う」で「山が重なっている」から、
(4) 「ウ(大きい)・ソリ(崖)」の意、
(5) アイヌ語の「ウソ・ル(湾の内側)」の意、
(6) アイヌ語の「ウソル(入り江の内)」の意、
(7) アイヌ語の「ウシ・オリ・コタン(湾内の村)」の転などの説があります。 

 この「オソレ」または「ウソリ」は、マオリ語の

  「オ・トレ」、O-TORE(o=the place of;tore=be erect,cut,split)、「割れている場所(山)」

  「ウ・トリ」、U-TORI(u=breast of a female,be fixed,reach its limit;tori=cut)、「割れている乳房(のような山)」

の転訛と解します。

 

(11−2) 田名部(たなぶ)・小川原(おがわら)湖・砂土路(さどろ)川・土場(どば)川・高瀬(たかせ)川・つぼのいしぶみ(壺の碑)

 上北半島の先端の山地の付け根に古くからこの地方の中心地として栄えた旧田名部町(昭和34年に旧大湊町と合併して大湊田名部市、同35年に全国初のひらがな表記のむつ市となりました。)があります。

 この「たなぶ」は、

  「タ(ン)ガ・プ」、TANGA-PU(tanga=be assembled;pu=tribe,bunch,heap)、「(さまざまの)人や商品が・集まる(場所)」または「(恐山などの)高い山地に・接している(場所)」(「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」となった)

の転訛と解します。

 上北半島の付け根にある湖沼群のうち最大の湖が小川原(おがわら)湖です。三沢・上北台地に刻まれた河谷の河口部が海岸砂丘で閉鎖されて生まれた湖で、南西岸から七戸川、砂土路(さどろ)川、土場(どば)川が流れ込み、しだいに幅を増しながらやや湾曲して、東北岸から高瀬(たかせ)川が流れ出して太平洋に注ぎます。 

 上北郡東北町に「日本中央の碑歴史公園」があり、昭和24年に同町字石文(いしぶみ)で発見された「日本中央」と彫られた石碑が保存されています。これは平安時代の歌人藤原顕昭が『袖中抄』に「陸奥の国の奥につぼのいしぶみがある。田村の将軍征夷のときに弓の筈で、ここが日本の中央であることを刻みつけたので、石文というのである」と記していますが、後世多賀城の門碑を門の脇の「坪」(ちいさな庭)にあるとして「つぼのいしぶみ」と呼んだため両者が混同され、源頼朝、西行法師、和泉式部などが歌に詠み、芭蕉も多賀城で感慨にふけったといいます。幕末に松浦武四郎が『壺廼考』でこれまでの諸説を検討し陸奥国海上郡坪村(現上北郡七戸町(旧天間林村))にあると主張し、明治9年天皇の東北行幸に際し宮内省が青森県に捜索を命じましたが、発見されませんでした。なお、田村麻呂の足跡は幣伊村(現岩手県)までで、その跡を継いだ文室棉麻呂の時代に都母(つも)村(上北郡かとされます)まで平定した(『日本後紀』弘仁2年7月29日条は出羽国の奏として賊に賊を討たせるとあり、同年閏12月11日条の棉麻呂の奏は官軍の行動地域を明示していない)ので、この「つぼのいしぶみ」伝説は棉麻呂であろうとする説がありますが、不詳です。

 この「おがわら」、「さどろ」、「どば」、「たかせ」、「つぼの」は、

  「アウ(ン)ガ・ワラ」、AUNGA-WHARA(aunga=not including;whara=burial cave or hollow trees where bones of the dead are placed;mouth of a wooden trumpet)、「(一種の木製の)ラッパの吹き口が付いた・(大地が空になった)湖」(「アウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「オガ」となった)

  「タ・トロ」、TA-TORO(ta=the...of,dash;toro=stretch forth,creep)、「(流れが)這うように・襲ってくる(川)」

  「トパ」、TOPA(fly,soar(whakatopa=soar,dart,swoop as a halk))、「(鷹が急降下するように)真っ直ぐに流れ下る(川)」

  「タ・カテ」、TA-KATE(ta=the...of,dash:kate,katekate=small cape to cover the shoulders)、「(湖の出口を塞ぐ)肩のような土地を・切り開いて流れる(川)」

  「ツポノ」、TUPONO(light upon accidentally,chance to hit)、「(かつて平安時代に)偶然に(発見され)明らかになった(石碑)」

の転訛と解します。

(12) 三内丸山(さんないまるやま)

 青森市の中央部を流れて青森湾に注ぐ沖舘川の右岸の台地上に、縄文時代前期中ごろから中期末までを中心とした他にあまり類例のない長期にわたる大規模な集落跡である三内丸山遺跡があります。遺跡名は、遺跡が沖館川右岸の字三内とその南に隣接する字丸山(その南の高台には陸上自衛隊青森駐屯地がある)にまたがっていることによります。

 この「さんない」は、アイヌ語地名としては、沖館川が大雨が降ると鉄砲水が出る川であることにより、「サン・ナイ」、(Aynu)san(山から浜へ出る)-nay(川)、「(増水が)流れ出る・川」の意とされます(山田秀三『東北・アイフ語地名の研究』草風館、1993年)。縄文時代には、北海道にも東北地方にもアイヌ族がいた痕跡がなく、北海道南部地方に7世紀以降にはじめてアイヌ族の痕跡が出てきますので、「さんない」は縄文語でつけられた地名で、仮にその後この地にアイヌが住むようになったとしても、この縄文語地名がそのままアイヌ語にあっても引き継がれたものと考えます。縄文語の「さんない」は、@およびAの意味を合わせもつ地名であったと考えられます。

 この「サンナイ」、「マル(山)」は、マオリ語の

  @「タンガ・ヌイ」、TANGA-NUI(tanga=be assembled,company,relay of persons(circumstance,time,place of dashing,etc.);nui=big,numerous)、「永く・続いた(または大規模な集落があった。場所)」
  またはA「タネ・ナイ」、TANE-NAI(tane=eructate after food;nai=nei,neinei=Dracophylum latifolium,a shrub)、「(食事の後のげっぷのように大雨の後に)鉄砲水が流れる・灌木の生えている場所」(「タネ」が「サネ」から「サン」となった)

  「マル」、MARU(shelter)、「(人を保護する)集団居住地(砦がある。丘)」

の転訛と解します。

 

(13) 八甲田山(はっこうださん)・田茂萢岳(たもやちだけ)

 八甲田山は、青森県中央部の八甲田連峰の総称で、八甲田大岳(1,584メートル)を主峰とする10峰の火山からなる北八甲田連峰と、櫛ケ峰(1,516メートル)を主峰とする8峰の火山からなる南八甲田連峰の火山群に分かれます。これらの諸峰は、山麓は広く緩やかな裾野を持ち、湿原が数多く分布しますが、山体はドーム形または円錐形が多く急峻です。

 山名は、山上の「神ノ田」と呼ぶ湿地(ヤチ)が数多いところから、(1) 「糠壇(こうだ)の嶽」、
(2) 「八神田(はっこうた)山」、
(3) 「八耕田(はっこうた)山」、
(4) 「八甲田山」と呼ぶようになったといいます。

 この「ハッコウダ」は、マオリ語の

  「パツ・コウ・タ」、PATU-KOU-TA(patu=screen,wall;kou=stump;ta=lay,allay)、「壁のような切り株(に似た山)が並んでいる(連峰)」

の転訛(「パツ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハツ」となった)と解します。この「コウ、KOU(stump)、切り株」は、地名篇(その一)(平成11年4月1日書き込み)の「愛甲」の項で解説したものと同じです。

 また、北八甲田連峰の中の田茂萢岳(たもやちだけ。1,324メートル)の「タモヤチ」は、マオリ語の

  「タマウ・イア・チ」、TAMAU-IA-TI(tamau=fasten,love ardently;ia=current;ti=throw,overcome)、「(結びつけられた)静かに動かない・水流(=湿地)が・散在している(湿地が一面に多くある)(山)」(「タマウ」のAU音がO音に変化して「タモ」となった)

の転訛と解します。

 

(14) 十和田(とわだ)湖

 十和田湖は、青森、秋田県境にある二重式カルデラ湖で、南岸からもと中央火口丘であった牛の角のような二つの半島が湖面に突き出ています。面積59.8平方キロメートル、湖面標高400メートルです。

 古くは「十渡(とわた)の沼」、「十曲(とわた)湖」と呼ばれ、この語源は、
(1) 「ト(接頭語)・ワ(輪、曲)・タ(処)」の意、
(2) 「ト(鋭)・ワタ(湾曲)」の意、
(3) アイヌ語で「ト(沼、湖)・ワタラ(海中の岩、崖)」からとする説があります。

 この「トワダ」は、マオリ語の

  「タウ・ワタ」、TAU-WHATA(tau=beautiful;whata=elevate,hang,be laid,rest)、「(ぶらさがっているものがある)湖面に突き出ている半島がある・美しい(湖)」または「(高所で)静かに休んでいる・美しい(湖)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」と、「ワタ」が「ワダ」となつた)

の転訛と解します。

 

(15) 奥入瀬(おいらせ)川

 奥入瀬川は、十和田湖の東岸子ノ口に源を発して北流し、蔦川が合流する焼山付近まで渓流美を作り、焼山付近から東流して下流では相坂(おおさか)川と名を変えて太平洋に注ぎます。

 この名は、(1) 「アヒラセ(合ら瀬)」で川瀬に支流の小さい瀬が集まる渓流の意、
(2) 「オ(接頭語)・イラ(苛)・セ(瀬)」で「イラ(険峻な地形、急崖)」を流れる渓流の意とする説があります。

 この「オイラセ」は、マオリ語の

  「オイ・ラ・テ」、OI-RA-TE(oi=shout,shudder;ra=wed;te=crack)、「(瀬)音が・絶え間なく続く・瀬(川)」

の転訛と解します。日本海側の西津軽郡深浦町にも「追良瀬(おいらせ)川」が流れています。これも同じ語源です。

 

(16) 馬淵(まべち)川

 馬淵川は、岩手県北部の北上山地の突紫森(つくしもり)付近に源を発し、北流して青森県に入り、八戸市で太平洋に注ぎます。

 この名は、(1) 昔、名馬が主人を慕って入水したことによる、
(2) 「マ(間)・ベ(辺)・チ(地)」で山間の谷を流れる川の意、
(3) 「ママ(崖)・ベチ(淵)」の意、
(4) アイヌ語の「マク(奥)・ベツ(川)」の意、
(5) アイヌ語の「マ(沼)・ベツ(川)」の意、
(6) アイヌ語の「マ(静かな)・ベツ(川)」の意とする説があります。

 この「マベチ」は、マオリ語の

  「マ・ペチ」、MA-PETI(ma=white,clean;peti=heap up(whakapeti=gather))、「(水を集めて)増水する清らかな(川)」

の転訛と解します。

 

(17) 種差(たねさし)海岸ー蕪(かぶ)島

 種差海岸は、八戸市東部の蕪(かぶ)島から南東約10キロメートルの大久喜に至る海岸段丘下の海岸です。北部のウミネコが繁殖する蕪島、鮫角灯台、葦毛崎付近には、輝緑凝灰岩や玄武岩の奇岩が並んでいます。

 この「たねさし」は、アイヌ語の「タンネ・エサシ(長い岬)」からという説がありますが、疑問が残ります。

 この「タネサシ」は、マオリ語の

  「タネ・タハチチ」、TANE-TAHATITI(tane=male,showing manly qualities;tahatiti=peg or wedge used to tighten anything)、「男性的な風景の(奇岩怪石が)・しっかりと固定されている(海岸)」(「タハチチ」のH音および反復語尾が脱落して「タチ」カラ「サシ」となった)

の転訛と解します。

 また、蕪島の「かぶ」は、蕪と呼ばれる野生のアブラナが群生しているからとされていますが、この「カブ」は、マオリ語の

  「カプ」、KAPU(hollow of the hands,sprinkle,in the ceremony of KAWA(incantation))、「(手のひらの窪みに入るような)丸い塊のような(島)」または「豪快に水しぶきを上げる(島)」

の転訛と解します。

トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

3 岩手県 の地名

 

(1) 岩手(いわて)山ー岩手(いわて)郡・磐鷲(がんしゅう)山

 岩手山(2,041メートル)は、盛岡市の北西にそびえる円錐形の火山で、岩手県内の最高峰であり、「岩手富士」や「南部富士」と呼ばれています。東・北・南側は裾野がよく発達していますが、西側は古い時期に形成された火山が爆発によって大規模な山体崩壊を起こしており、複雑な山容を示すため、「南部の片富士」の名があります。

 古くから山岳信仰の対象とされ、「磐(岩)鷲(がんしゅう)山」とも呼ばれました。(福島県の磐梯山も、噴火、爆発を繰り返して、山体の一部分が吹き飛んでいる火山で、その山名は、「天に達する磐(いわ)の梯(はしご)」の磐梯(いわはし)の音読みの「ばんだい」からきたとの説があります。岩手山の古称「磐(岩)鷲(がんしゅう)山」も「いわわし、いわはし」で同じ語源であったと考えられます。)

 この山名は、(1) 岩手山の溶岩や岩がむき出す「イハ(岩)・デ(出)」の意、
(2) アイヌ語の「イワァ・テュケ(岩の手、枝脈)」の意、
(3) アイヌ語の「イワァ・テェ(岩地の森)」の意などとする説があります。

 岩手郡は、県名のおこりとなった古くから現代までの郡名で、現代では南は紫波郡、北は二戸郡、東は下閉伊郡、西は奥羽山脈を隔てて秋田県仙北郡に接します。初見は吾妻鏡の「奥六郡」(伊沢・和賀・江刺・稗抜・志和・岩手)の一としてみえます。二戸郡境の七時雨山に源を発する北上川が流れ、岩手県を代表する名山、岩手山がそびえるこの郡は、古代蝦夷の本拠であり、この郡の北が奥蝦夷の糠部郡(前出青森県の糠部郡の項を参照してください。)でした。この「イワテ」も山名と同じ語源と解します。

 この「イワテ」、「イワワシ(イワハシ)」は、マオリ語の

  「イ・ワタイ」、I-WHATAI(i=past time,beside;whatai=stretch out the neck,gaze intently)、「しっかりと・首を伸ばしてそびえたつている(山。またこの山がある地域)」(「ワタイ」のAI音がE音に変化して「ワテ」となった)

  「イ・ワワチ」、I-WHAWHATI(i=past time,beside;whawhati=break off anything rigid,bend at an angle,be broken)、「(山の一部が)吹き飛んで・いる(山)」(「ワワチ」の最初のWH音がW音に、次のWH音がH音に変化して「ワハシ」となった)

の転訛と解します。

 伊達政宗が仙台に移るまで居城した岩出山(いわでやま)城にちなむ宮城県玉造郡岩出山町の岩出山も、裂け目のある断崖絶壁にかこまれた山で、同じ語源です。

 和歌山県那賀郡岩出(いわで)町の岩出は、かつて紀ノ川の両岸に奇岩が突き出ており、右岸に紀州藩主が代々清遊した石手(いわで)御殿山があったことにちなむといいます。残念なことに昭和八年の河川改修によってこの景勝地の岩石がすべて除去されました(『岩出町史』)が、これも同じ語源です。

(1−2) 八幡平(はちまんたい)

 八幡平は、岩手・秋田両県の北部県境に広がる火山性高原で、十和田八幡平国立公園に属します。狭義には高原中央にある最高峰の楯状火山(1614メートル)をいい,広義には東の茶臼岳、西の栂森、焼山、南の畚(もつこ)岳、大深岳を結ぶ連峰およびその周辺地域を含みます。主峰の山頂部は約1・5平方キロメートルにわたって平たんな台地状をなし、付近には八幡沼や蟇沼などの湖沼が点在し、これらをとりまいて広大な高層湿原が広がります。

 この「はちまんたい」は、マオリ語の

  「パチ・マ(ン)ガ・タヒ」、PATI-MANGA-TAHI(pati=shallow water,shoal;manga=branch of a river or a tree;tahi=one,unique,together,throughout)、「(浅い水の)湖沼、湿原が・一面に・樹枝状に分布する(高原)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」と、「マ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「マナ」から「マン」と、「タヒ」のH音が脱落して「タイ」となった)

の転訛と解します。

(2) 盛岡(もりおか)市ー不来方(こずかた)

 盛岡市は、岩手県中央部の県庁所在地で、北上川・雫石川・中津川の合流点にあり、市の中央部の中津川に接する花崗岩の孤立丘上に南部藩の「不来方(こずかた)」城がつくられてから、南部藩20万石の城下町として発展してきました。

 この古名「不来方」は、後に「森岡」から嘉名「盛り(繁栄する)岡」に改められましたが、その由来は、(1) 昔、鬼が「もう悪さはしません」と約束して岩に手形を押し、再び来ることがなかったという伝説によるとも、
(2) 「コシ(北上川を越す)・カタ(方、潟)」からともいわれています。

 この「コズカタ」は、マオリ語の

  「コウツ・カタ」、KOUTU-KATA(koutu=promontory,point of land etc.,project,stand out;kata=opening of shellfish)、「(三川合流点の)潟にある・(半島状に)突き出た丘」(「コウツ」のOU音がO音に変化して「コツ」から「コズ」となった)

の転訛と解します。

 

(3) 北上(きたかみ)山地、北上川

 古代、北上山地と北上川の流れるこの地方を「日高見(ひたかみ)国」といいました(『日本書紀』景行紀27年2月12壬子日、同40年是歳の条)。吉田東伍『大日本地名辞書』は、『三代実録』貞観元年5月条にみえる陸奥国「日高見水神」は陸奥国桃生郡の式内社日高見神社にあたるとして、「景行紀の日高見国は北上川流域の広土をさす」としています。

 この「ひたかみ」が「きたかみ」に転訛したとするのが通説で、その語源は、

(1) 「ヒダ(高い、山ひだ)・カ(処)」の意、
(2) 「ヒタカミ(辺境)」の意、
(3) 「ヒナ(夷)・カ(処)」の意、
(4) 「ヒタ(直)・チ(地)」で、常陸と同じ、
(5) アイヌ語の「ピ・タイ・カ・モエ(小さな森がある盆地)」の意などとする説があります。

 この「ヒ(キ)タカミ」は、マオリ語の

  「ヒ(キ)・タカ・ミミ(ミヒ)」、HI(KI)-TAKA-MIMI(MIHI)(hi=raise,rise(ki=full);taka=raise,heap;mimi=river(mihi=greet,admire))、「高い高地を流れる川(または尊い高い高地)」

の転訛と解します。

 

(3−2) 斯波(しわ)郡・志賀理和気(しがりわけ)神社・徳丹(とくたん)城

 斯波郡は、古代から現代までの郡名で、律令制の下で最北の辺郡として、『日本後紀』弘仁2年に和賀郡(後出(17) 和賀(わが)郡の項を参照してください。)・稗縫郡(後出(4−2)稗縫郡の項を参照してください。)とともに建郡(岩手郡はその後と考えられます)され、大和朝廷の東北経営の最前線となりましたが、すでに『続日本紀』延暦8年6月条には「胆沢の地は賊奴の奥区」、「子波・和賀、僻して深奥にあり」ととみえています。また、『類聚国史』延暦11年正月条には「斯波村の夷、胆沢公阿奴志己」の名がみえます。この郡は、子和・志和・紫波とも書かれ、現代では北から西は岩手郡、東は閉伊郡、南は稗貫郡に囲まれます。

 紫波郡紫波町に式内社で最北端に位置する志賀理和気(しがりわけ)神社があります。この神社は、延暦23(804)年坂上田村麻呂が香取(経津主神)・香島(武甕槌神)の神を東北開拓の鎮護の神として祀つたのが始まりと伝えられます。志賀理和気(しがりわけ)の意味は不詳です。

 このころ、延暦21年に坂上田村麻呂が胆沢城を築き、同年降伏して上京した蝦夷の首長アテルイとモレを斬り、翌22年坂上田村麻呂が志波城を北上川と雫石川の合流点付近(現盛岡市中太田・下太田)に築きました。同城は水害のため弘仁4(813)年文屋綿麻呂が移築して徳丹(とくたん。「とこたん」の誤りか)城(現矢巾町徳田)としました。

 この「しわ」、「しがりわけ」、「とこたん」は、

  「チワ」、TIWA(=tiwha=patch,rings of paua shell inserted in carved work)、「(国の中に)はめ込まれた輪(当て布)のような(形状の。郡)」

  「チ・(ン)ガリ・ワカイ(ン)ガ」、TI-NGARI-WAKAINGA(ti=throw,overcome;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power;wakaing=distant home)、「辺境の・(邪魔物である)蝦夷を・討伐する(神を祀る神社)」(「(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「ガリ」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、名詞形語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

  「トコ・タ(ン)ガ」、TOKO-TANGA(toko=pole,rod;tanga=be assembled)、「丸太を・立て並べた(柵を回した。城)」(「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「タン」となった)

の転訛と解します。

(4) 早池峰(はやちね)山ー岳(たけ)神楽・大償(おおつぐない)神楽

 岩手県のほぼ中央部にある早池峰山(1,914メートル)は、北上山地の最高峰です。主峰をはさんで東に剣ケ峰(1,827メートル)、西に中岳(1,679メートル)、鶏頭山(1,445メートル)、毛無森(1,427メートル)の弧状の連峰が接近して並び、そのすぐ南に薬師岳(1,645メートル)を主峰として、西に小白森(1,350メートル)、白森山(1,339メートル)、土倉山(1,084メートル)の連峰が北の連峰と対称形の弧状をなして並んでいます。

 古くからの山岳信仰の山で、西側山麓の大迫町岳(たけ)に早池峰神社、山頂にはその奥宮があり、神社に奉納される岳(たけ)神楽は鎌倉時代から伝わる山伏神楽の源流とされており、大迫町大償(おおつぐない)の大償神楽とともに早池峰神楽として国の重要無形文化財に指定されているほか、柳田国男『遠野物語』で知られる民俗芸能や、伝承が多く残されています。(神楽(かぐら)については、雑楽篇(その一)の121かぐら(神楽)の項を参照してください。)

 この「はやちね」の山名は、(1) 山頂の霊泉「早池」から、
(2) 「ハヤテ(疾風)が吹く山」の意、
(3) 「ハヤツ(早つ)・ミネ(峰)」の意、
(4) アイヌ語の「パヤ・チネ・カ(東方の脚)」から、
(5) アイヌ語の「シュマ(石の)・ヌプ(丘)」の転訛とする説などがあります。

 この「ハヤチネ」は、マオリ語の

  「ハ・イア・チ・ネイ」、HA-IA-TI-NEI(ha=what!;ia=indeed;ti=throw,cast;nei=particle to denote proximity to)、「なんと実に近接している(山々)」

  または「ハ・イア・チネイ」、HA-IA-TINEI(ha=what!,breathe;ia=indeed;tinei,tinetinei=unsettled,confused,disordered)、「なんと・実に・(おなじような高い山が近接していて)混乱する(山)」

の転訛と解します。

 なお、「岳(たけ)」、「大償(おおつぐない)」の地名は、マオリ語の

  「タケ」、TAKE(base of a hill)、「山の麓」

  「オホ・ツク・ヌイ」、OHO-TUKU-NUI(oho=spring up,arise;tuku=shore,coast;nui=big,many)、「(隆起した)高くなった・広い・川岸の場所」(「オホ」のH音が脱落して「オオ」となった)

の意と解します。

 

(4−2) 稗縫(ひえぬい)(稗貫(ひえぬき))郡・毒ヶ森(ぶすがもり)山塊・駒頭(こまがしら)山・大空(おおぞら)の滝・大ヘンジョウの滝・豊沢(とよさわ)川 

 稗縫(ひえぬい)郡は、稗貫(ひえぬき)・稗抜・部貫とも書かれ、北は紫波郡および岩手郡、東は閉伊郡、南から西は和賀郡に接します。この郡の東部には早池峰山(前出の(4) 早池峰(はやちね)山の項を参照してください。)がそびえ、西部には毒ヶ森(ぶすがもり)山塊の駒頭(こまがしら。940m)山などの900m級の嶮しい山々がそびえ、宮沢賢治の童話「ナメトコ山の熊」にも登場する落差100mを越す大空(おおぞら)の滝や大ヘンジョウの滝などの大きな滝がある地域です。古代においては、和賀・稗縫は「遠胆沢」と呼ばれており、奥羽山脈の東麓に発してこの郡を流れ、花巻市で北上川に注ぐ豊沢(とよさわ)川は「遠胆沢(とおいさわ)」の名残とする説があります。  

 この「ひえぬい(ひえぬき)」、「ぶすがもり」、「こまがしら」、「おおぞら」、「おおへんじょう」、「とよさわ」は、

  「ヒエ・ヌイ」、HIE-NUI((Hawaii)hie=attractive,distinguished,dignified;nui=large,many)、「神々しい(山や滝が)・たくさんある(地域。郡)」または「ヒエ・ヌイ・キ」、HIE-NUI-KI((Hawaii)hie=attractive,distinguished,dignified;nui=large,many;ki=full,very)、「神々しい(山や滝が)・実に(密集して)・たくさんある(地域。郡)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

  「プツ(ン)ガ・マウリ」、PUTUNGA-MAURI(putunga=putu=lie in a heap,swell;mauri=a variety of forest timber which is dark in colour and light in weight valued for making canoes)、「大きく膨らんだ(山々で)・造船用材がある(山塊)」(「プツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「プツガ」から「ブスガ」と、「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

  「コマ(ン)ガ・チラ」、KOMANGA-TIRA(komanga=elevated stage for storing food upon;tira=row,fin of fish)、「(高床の倉庫のような)頂上が平らで・伸びている(山)」(「コマ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「コマガ」となった)

  「オホ・トラ」、OHO-TORA(oho=spring up,wake up,arise of feelings;tora=be erect)、「直立した(滝で)・(そのあまりの大きさに)びっくりする(滝)」

  「オホ・ヘ(ン)ガ・チオ」、OHO-HENGA-TIO(oho=spring up,wake up,arise of feelings;henga=curve from keel to gunwale of a canoe;tio=sharp of cold,rock-oyster)、「(カヌーの船体の側面のように)ゆるやかにカーブしている・(岩牡蠣のように)ごつごつした(岩を流れ下る)・(その大きさに)ビックリする(滝)」(「ヘ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ヘナ」から「ヘン」となった)

  「トイ・アウ・タワ」、TOI-AU-TAWHA(toi=move quickly,incite,climbing vine;au=firm,intense,certainly;tawha=burst open,crack)、「実に・流れの速い・谷間(の川)」(「トイ」と「アウ」のAU音がO音に変化した「オ」が連結して「トヨ」となった)

の転訛と解します。

(5) 姫神(ひめかみ)山ー渋民(しぶたみ)村

 姫神山(1,125メートル)は、岩手郡玉山村にある全山が花崗岩からなる角錐状の女性的な山容の山で、岩手山、早池峰山と並んで、「南部三霊山」、「北奥羽三山」といわれ、山岳信仰の中心でした。坂上田村麻呂が守護神を山頂にまつり、この地方を支配したとの伝承があります。山麓の渋民で生まれた石川啄木は、小説『雲は天才である』のなかで、”雲をいただく岩手山 名さへ優しき姫神の”と歌っています。

 この「ヒメカミ」は、マオリ語の

  「ヒ・メカ・ミヒ」、HI-MEKA-MIHI(hi=raise,rise;meka=true;mihi=greet,admire)、「本当に気高くて尊い(山)」

の転訛と解します。

 石川啄木の故郷、渋民(しぶたみ)の地名は、
(1) 「シブ(渋)・タミ(溜)」で水あかのたまる土地の意、
(2) 「シブ(渋)・タ(田)」で水はけの悪い低湿地の意、
(3) 「しぼむ谷」で、狭い谷の転などの説があります。

 この「シブタミ」は、マオリ語の

  「チプ・タミ」、TIPU-TAMI(tipu=tupu=grow,be firmly fixed,shoot,social position;tami=press down,smother)、「(抑圧された)蔑まれる・社会的地位にある(土地)」

の転訛と解します。

 

(6) 久慈(くじ)市ー久慈(くじ)ノ浜

 県北東部の太平洋に面して、断層が続く岩石海岸の久慈湾があり、久慈市があります。南西部の北上山地から久慈川、長内(おさない)川、夏井川が久慈湾に向かって流れ、沖積低地を形成していますが、久慈市の中心部で久慈川にまず長内川が合流し、次いで河口直前で夏井川が合流しています。

 この地名は、(1) 海食で「くじられた」、または「崩れた」場所の意、
(2) アイヌ語の「クツ・イ(断崖のある所)」の意、
(3) アイヌ語の「クチ(帯を締める、くびれた所)」の意、
(4) アイヌ語の「クシ(川の向こう・通る)」の意、
(5) 「コシ(越し)」の転で「越すところ」などの説があります。

 この「クジ」は、マオリ語の

  「クチ」、KUTI(draw tightly together,contract,pinch)、「(川を)引き寄せる(合流する場所)」

の転訛と解します。

 ただし、八溝山の福島県側斜面に発して茨城県北部の狭い峡谷をを南東流し、太平洋に注ぐ久慈(くじ)川も同じ語源ですが、やや岩手県とは地形が異なり、「クチ」、KUTI(draw tightly together,contract,pinch)、「狭くなった(ところ、峡谷を流れる)(川)」の転訛と解します。

 青森県東津軽郡平内町の夏泊半島西岸の久慈(くじ)ノ浜も「クチ」、KUTI(draw tightly together,contract,pinch)、「(陸奥湾と山に挟まれて)狭くなった(浜)」の転訛と解します。

 この「クチ(「クチ」のT音がS音に変化した同義の「クシ」を含む)」地名は、(1) 大分県の九重(久住。くじゅう)山の「クチ・ウ」、KUTI-U(kuti=draw tightly together,contract,pinch;u=breast of a female)、「(女性の)乳房を寄せ集めた(密着させたような山)」、

(2) 熊本県菊池市、菊池川の「キ・クチ」、KI-KUTI(ki=full;kuti=draw tightly together,contract,pinch)、「非常に狭くなった(ところ、峡谷を流れる)(川、地域)」、

(3) 滋賀県高島郡朽木(くっき)村、朽木渓谷の「クチ・キ」、KUTI-KI(kuti=draw tightly together,contract,pinch;ki=full)、「非常に狭くなった(ところ、峡谷を流れる)(川、地域)」、

(4) 宮崎県串間(くしま)市の「クチ・マ」、KUTI-MA(kuti=draw tightly together,contract,pinch;ma=white,clear)、「(山と山に締め付けられて)狭くなっている清らかな(場所)」などをはじめとして全国に多数分布しています。

 また、この「クチ」と殆ど同義の「ナチ」、NATI(pinch,contract)、「挟みつける、締め付ける」にいたっては枚挙にいとまがありません。

(6−2) 根井(ねい)・安家(あっか)川

 岩手県東部、九戸郡野田村の南部に根井(ねい)の地があります。その中流南岸の下閉伊郡岩泉町安家に日本最大の鍾乳洞といわれる安家(あっか)洞がある安家(あっか)川の下流が蛇行して流れる安家渓谷の北岸の河岸段丘上に立地します。

 この「ねい(ねゐ)」、「あっか」は、

  「ネヘネヘ・ウイ」、NEHENEHE-UI(nehenehe=forest,Epacris alpine,a shrub;ui=disentangle,disengage,unravel,relax or loosen a noose)、「(輪縄がほどけたような)蛇行する川(がそばを流れる)・森(の場所)」(「ネヘネヘ」のH音が脱落して「ネネ」と、またはさらにその反覆語尾が脱落して「ネ」と、「ウイ」が「ヰ」となった)

  「アツ・カハ」、ATU-KAHA(atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action,to form a comparative or superative;kaha=rope,noose,boundary line of land etc.,edge)、「ほどけた輪縄のように・蛇行を繰り返す(川。その渓谷。その川のそばにある鍾乳洞)」(「アツ」が「アッ」と、「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

 この根井(ねい)は、(1)秋田県大館市花岡町字根井下(ねいした。同所に根井神社がある)、(2)岩手県宮古市津軽石の根井沢(ねいざわ)川、(3)長野県佐久市根々井(ねねい)の「ねい」、「ねねい」と同じと解します。(これらの根井地名の所在については、根井立比古氏の教示を得ました。)

(7) 田老(たろう)町

 田老町は、岩手県東部、下閉伊郡の太平洋に臨む港町です。港口がV字形に開いているため、津波の被害が大きくなりやすく、「津波太郎」の異名がある津波の常襲地で、明治29年と昭和8年の三陸大津波では壊滅的な被害を受けましたが、その後防波堤を整備して昭和35年のチリ地震津波では被害を免かれました。

 この地名は、田老川、長内川のつくった「タイラ(小平地)」の転とする説があります。

 この「タロウ」は、マオリ語の

  「タラウ」、TARAU(beat,dredge)、「(津波によって)打撃を受ける(浚われる)(場所)」

の転訛(AU音がO音に変化した)と解します。

 

(8) 宮古(みやこ)市

 岩手県の東部の陸中海岸にほぼ長方形をなす宮古湾があり、湾に注ぐ閉伊(へい)川の三角州に宮古市の市街地が広がり、河口には宮古港が立地しています。宮古港は、古くから海陸交通の要衝で、江戸時代には江戸や長崎向けの海産物の積み出し港として栄えました。

 この地名は、(1) 横山八幡宮を祀る「ミヤ(宮)・コ(処)」の意、
(2) 閉伊地方の文化・経済の中心地「都」の意、
(3) 海産物を移出し、都物を移入する都のように栄える港の意などの説があります。

 この「ミヤコ」は、湾の名で、マオリ語の

  「ミヒ・イア・コ」、MIHI-IA-KO(mihi=greet admire,show itself;ia=indeed;ko=a wooden implement for digging or planting)、「実に・掘り棒で掘られたような地形(細長い深い湾)があることを・見せつけている(地域。湾)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 沖縄県の宮古(みやこ)島は、最高点の標高が109メートル(野原岳)の石灰岩からなる低平な島で、ほぼ三角形をなしています。

 この「ミヤコ」は、古くは「ミヤーコ」、「ミヤク」、「マアク」などとも呼ばれたようですが、これも全く同じ語源で、

  「メ・イア・コ」、ME-IA-KO(me=thing;ia=indeed;ko=a wooden implement for digging or planting)、「実に(先が尖った)鍬のようなもの(の形をした島)」

の転訛と解します。

 

(9) 閉伊(へい)川(郡)

 閉伊川は、早池峰山の西北、下閉伊郡川合村の兜明神岳(1,005メートル)を源とし、早池峰山の北を曲折しながら北上山地を東流、横断して宮古湾に注ぎます。この河谷に沿って国道106号(閉伊街道、宮古街道)やJR山田線が通り、内陸部と海岸部を結ぶ重要な交通路となっています。

 この川名および郡名の「へい」は、「ヘ(辺、辺地)」の意とされています。

 この「ヘイ」は、マオリ語の

  「ヘイ」、HEI(go towards,tie round the neck,be bound)、「海に向かって流れる(海と結び付けられている川)」

の意と解します。

 

(10) 船越(ふなこし)半島

 宮古市の南に隣接する下閉伊郡山田町にある船越半島は、かつては二つの島でしたが、砂州によって陸と繋がって半島になりました。そのかつて海峡であった場所には船越の地名があり、ここから船越半島、船越湾や船越海岸(船越半島の小根ケ崎から荒神にかけての断崖や岩礁の続く海岸)の名がつけられました。

 この「フナコシ」は、マオリ語の

  「フナ・コチ」、HUNA-KOTI(huna=conceal,destroy;koti=cut in two,cut off)、「(陸地を)破壊して二つに掘り割った(ような場所)」

の転訛と解します。秋田県男鹿市の船越町は、天王町とのあいだの船越水道を「渡し船でこえたところ」から「船越」というとする説がありますが、これも上記の「フナコシ」と同じ語源です。

 

(11) 吉里吉里(きりきり)浜ー波板(なみいた)海岸・安渡(あんど)港

 風光明媚な船越湾に面する海岸に、上閉伊郡大槌町大字吉里吉里の地名があります。井上ひさしの小説『吉里吉里人』の舞台となつて、一躍全国に有名となりました。

 この「きりきり」は、アイヌ語で「歩くとキリキリと音をたてる砂浜」の意とされています(小学館『日本地名大百科』)。しかし、アイヌ語でこのような同音反復語は極めて珍しいのに反し、ポリネシア語ではほとんどの動詞、形容詞または副詞には同音反復語が付随するという特徴があります。この言語的特徴からすると、この単語は、本来ポリネシア語であった可能性が高いと思われます。

 この「キリキリ」は、マオリ語の

  「キリキリ」、KIRIKIRI(gravel,pebble)、「小石(または砂の浜)」

の意と解します。

 この浜の北に、返し波のない「片寄せ波」で有名な「波板(なみいた)海岸」があります。この「ナミイタ」は、マオリ語の

  「ナ・アミ・イタ」、NA-AMI-ITA(na=satisfied,by,belonging to,by reason of;ami=gather,collect;ita=tight,fast)、「(波を)しっかりと集めて留める(海岸)」

の転訛と解します。

 なお、この吉里吉里浜のすぐ南の大槌湾には、安渡(あんど)という天然の良港があります。近世は江戸との海産物取引の集散地としてにぎわっていました。

 この「アンド」は、マオリ語の

  「アノ・タウ」、ANO-TAU(ano=quite,just;tau=come to rest,come to anchor,settle down)、「碇泊・好適地」(「アノ」が「アン」と、「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ド」となった)

  または「アンゴ・タウ」、ANGO-TAU(ango=gape;tau=come to rest,come to anchor,settle down)、「大きく口を開けたところ(湾、港)の・碇泊地」(「アンゴ」のNG音がN音に変化して「アノ」から「アン」と、「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ド」となった)

の転訛と解します。奈良県生駒郡安堵(あんど)町も、大和川水系に属する諸河川が合流する場所にあり、同じ語源と考えられます。

 

(12) 釜石(かまいし)市

 釜石市は、岩手県南東部の釜石湾に臨み、甲子川河口に位置する漁業と製鉄業の市です。近世初頭まで釜石湾に臨む地域と甲子川流域一帯を釜石と呼んでいたのが、湊の発展にともなって釜石、平田、甲子などの村に分かれたようです。

 1727(享保12)年江戸幕府採薬使阿部将翁が久子沢で磁石岩を発見したのが釜石鉱山の始めと伝えられ、1857(安政4)年に南部藩士大島高任が甲子村大橋に洋式高炉を建設し、日本最初の近代製鉄法による磁鉄鉱の精錬に成功し、近代製鉄発祥の地となりました。(それ以前にこの地域で製鉄が行われていたかどうかについては、記録がないようですが、甲子川の上流の釜石鉱山の北に連なる山々から流れ出す大槌川、小槌川では、「餅鉄(もちてつ)」という磁鉄鉱の良質のものがいまでも時折り採取でき、容易に鉄材に加工できるといわれます。確証はありませんが、はるか昔から、甲子川流域でも磁鉄鉱が容易に採取され、原始的な製鉄が行われていたのかも知れません。)

 この地名は、(1) 甲子川河口の釜池から、
(2) 甲子川中流の釜に似た大岩から、
(3) 釜石鉱山の釜形石から、
(4) 「カマ(釜。湾、磯の急に深いところ)・イソ(磯)」から、
(5) 「カマ(鎌。えぐられた崖)・イシ(石)」から、
(6) アイヌ語の「カマ(平岩)・ウシ(ある所)」から、
(7) アイヌ語の「クマ・ウシ(魚を干す所)」からなどの説があります。

 この「カマイシ」は、マオリ語の

  「カ・マイ・チ」、KA-MAI-TI(ka=take fire,burn;mai=fermented,musseles taken out of the shells,to indicate direction or motion towards;ti=throw,cast)、「火を燃やしている(人が住んでいる、または製鉄を行っている)ところが・剥貝のような小さな集落として(または次々に現れては消える集落として)・散在している(地域)」

  または「カマ・ヒシ」、KAMA-HISI(kama=eager;(PPN)hisi=(Hawaii)ihi=(Maori)ihi=split,divide,strip bark of a tree)、「熱心に・(鉄鉱石を)採取している(場所)」(「ヒシ」のH音が脱落して「イシ」となった)

の転訛と解します。この「マイ」は、「歯舞(はぼまい)諸島」の「マイ」と同じ語源です。

 

(13) 遠野(とおの)市ー遠閉伊(とおのへい)・遠野保(とおのほ)

 遠野市は、岩手県中南部、北上山地中央の遠野三山と呼ばれる早池峰山(1,914メートル)、六角牛山(ろっこうしやま。1,294メートル)、石上山(1,038メートル)に囲まれた遠野盆地にある酪農と林業の町です。遠野南部氏の城下町で、三陸沿岸と内陸を結ぶ街道の宿場町として栄えました。

 古い民俗、伝承や、芸能など歴史的遺産が豊富で、佐々木喜善の採集した民話に基づいて柳田国男が『遠野物語』を著して日本民俗学の出発点となりました。

 この地名は、『日本後紀』弘仁2(811)年条に「遠閉伊(とおのへい)」とみえ、南北朝から室町時代には「遠野保(とおのほ)」としてみえています。
(1) 「ト(遠くの)またはトホ(遠い)・ノ(野)」で山間の遠い野から、
(2) 『遠野物語』によれば、遠野の地は「大昔はすべて一円の湖水」であったといい、アイヌ語の「ト(沼)・ヌプ(野)」から、
(3) 「タオ(圷。山に囲まれた窪地)・ノ(野)」の転などの説があります。

 この「トオノ」は、遠野盆地がかつて湖であったころか、または乾陸化して間もないころに付けられた地名で、マオリ語の

  「トハウ・ヌイ」、TOHAU-NUI(tohau=damp,sweat;nui=big,many)、「湿気が・多い(場所)」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」と、「ヌイ」が「ヌ」から「ノ」となった)

  または「トハウ・(ン)ガウ」、TOHAU-NGAU(tohau=damp,sweat;ngau=bite,hurt,attack)、「湿気が・(人を)襲う(地域)」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 また、「トオノヘイ」、「トオノホ」は、マオリ語の

  「トハウ・ヌイ・ヘイ」、TOHAU-NUI-HEI(tohau=damp,sweat;nui=big,many;hei=go towards,tie round the neck,be bound)、「海に向う(途中の)・湿気が・多い(場所)」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」と、「ヌイ」が「ヌ」から「ノ」となった)または「トハウ・(ン)ガウ・ヘイ」、TOHAU-NGAU-HEI(tohau=damp,sweat;ngau=bite,hurt,attack;hei=go towards,tie round the neck,be bound)、「海に向う(途中の)・湿気が・(人を)襲う(地域)」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「トハウ・ヌイ・ ハウ」、TOHAU-NUI-HAU(tohau=damp,sweat;nui=big,many;hau=property,spoils)、「湿気が・多い(場所の)・(財産である)領地」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」と、「ヌイ」が「ヌ」から「ノ」と、「ハウ」のAU音がO音に変化して「ホ」となった)または「トハウ・(ン)ガウ・ハウ」、TOHAU-NGAU-HAU(tohau=damp,sweat;ngau=bite,hurt,attack;hau=property,spoils)、「湿気が・(人を)襲う(地域の)・(財産である)領地」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「ハウ」のAU音がO音に変化して「ホ」となった)

の転訛と解します。

 

(14) 六角牛(ろっこうし)山

 遠野市の東に、遠野三山の一つ、六角牛山(1,294メートル)がどっしりとした姿を見せています。

 この「ロッコウシ」は、マオリ語の

  「ロク・コウ・チ」、ROKU-KOU-TI(roku=be weighed down;kou=knob,stump;ti=throw,cast)、「ずっしりと重みのある瘤が置かれている(ような山)」

の転訛と解します。

 また、兵庫県神戸市の六甲(ろっこう)山も、これと同じ語源で、マオリ語の

  「ロク・コウ」、ROKU-KOU(roku=be weighed down;kou=knob,stump)、「ずっしりと重みのある切り株(のような山)」

の転訛と解します。石川県能登半島の珠洲市の北端、奈良時代に狼煙台が置かれた緑剛(ろっこう)崎の「ろっこう」も同じ語源でしょう。

 

(15) 胆沢(いさわ)郡

 胆沢郡は、古代から現代にいたる郡名で、中世には伊沢郡と書き、北は台地状の地続き(古くは和賀川が境界てあったとする説があります。)で和賀郡、東は北上川を挟んで江刺郡、南は衣川・衣川丘陵によって磐井郡、西は奥羽山脈を隔てて秋田県雄勝郡と接します。古代は鎮守府胆沢城の所在地として国府のある多賀城につぐ行政の中心でしたが、後に平泉に中心が移ります。胆沢郡が建てられた時期は大和朝廷が東北経営の拠点として坂上田村麻呂に胆沢城を築かせた延暦21年から同23年の間と推定され、古くは広義の胆沢は江刺を含んでおり、江刺郡が建てられたのは延暦の末年から大同の間とする説があります。

 「胆沢」の地名は、『続日本紀』宝亀7(776)年11月および延暦8(789)年6月の条にみえています。その語源は、(1) 「イ(接頭語)・サハ(沢)」から、
(2) 「イ(沼地、湿地、井戸)・サハ(沢)」から、
(3) 「イサ(砂)・ワ(輪、曲流)」から、
(4) 「イサ(砂)・・サハ(沢)」からなどの説があります。

 この「いさわ」は、マオリ語の

  「イ・タワ」、I-TAWHA(i=beside;tawha=burst open,crack)、「(川が山間を抜けて噴出して)扇状地(または平野)を形成した・場所一帯(の地域)」

  または「イ・タウア」、I-TAUA(i=beside,past tense;taua=army)、「(蝦夷討伐の)軍勢が・集結している(場所。地域)」 

の転訛と解します。前者は江刺を除く狭義の胆沢の地形に即した地名、後者は江刺を含む広義の胆沢の建郡当時の社会状況に即した事績地名です。山梨県東八代郡の石和(いさわ)町も、前者と同じ語源でしょう。

 (旧)水沢(みずさわ)市(昭和29(1954)年4月水沢町と周辺の五村が合併して水沢市となり、平成18(2006)年2月江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村と合併して奥州市となりました)は、岩手県南西部に位置する市で、西部は奥羽山脈の山岳地帯、中央部は胆沢川がつくる胆沢扇状地、東部は北上川の沖積地となっており、胆沢扇状地には典型的な散村集落が展開しています。県内最古で、埴輪を伴う前方後円墳として北限の角塚古墳があります。市名は、流水や地下水が豊富なことに由来するとされます。

 この「みずさわ」は、マオリ語の

  「ミ・ツ・タワ」、MI-TU-TAWHA((Hawaii)mi=urine;(Maori)mimi=urine,stream;tu=fight with,energetic;tawha=burst open,crack)、「川(水)が・(勢いよく流れる)暴れる・扇状地または平野(の場所)」(「ツ」が「ズ」と、「タワ」が「サワ」となった)

の転訛と解します。

 

(15−2) 江刺(えさし)郡

 江刺郡は、古代から近代までの郡名で、第二次大戦後その主要部は江刺市、残りは水沢市・北上市と合併して当郡は消滅しました。古くは広義の胆沢に含まれ、現在も「胆江」の呼称があります。北は和賀郡と上閉伊郡、東は北上高地を間にして気仙郡、南は東磐井郡、西は胆沢郡に接します。江刺郡の初見は『続日本後紀』承和8年3月で、建郡の時期は不明ですが、胆沢郡が建てられた時期は大和朝廷が東北経営の拠点として坂上田村麻呂に胆沢城を築かせた延暦21年から23年の間と推定され、古くは広義の胆沢は江刺を含んでおり、江刺郡が建てられたのは延暦の末年から大同の間とする説があります。

  この「えさし」は、

  「エタ・チ」、ETA-TI((PPN)eta=(Hawaii)eka=dirty,filth;ti=throw,cast)、「(穢い)蝦夷が・たむろしている(地域。郡)」

の転訛と解します。

(16) 夏油(げとう)温泉

 北上市の南西端の夏油川上流に、夏油温泉があります。嘉祥年間(848〜851年)に発見され、江戸時代の温泉番付では、西の有馬温泉と並んで東の大関にランクされていた温泉です。

 付近の川岸には、温泉の中の石灰分が沈着して鍾乳石のような岩石となる特別天然記念物の「石灰華(せっかいか)」が成長を続けており、その中でも高さ20メートル、下部径25メートル、頂上部径10メートルの天狗の湯の石灰華は日本最大です。

 この「ゲトウ」は、マオリ語の

  「ケ・トウ」、KE-TOU(ke=different,strange;tou=dip into a liquid,wet)、「水で濡れている・奇妙なもの(「石灰華」がある場所)」

の転訛と解します。

 釣りの用語で、目的の魚以外に釣れる別の魚を「外道(げどう)」といいますが、この語源も同じ(「水に濡れている・(ねらった魚と)別の魚」)でしょう。

 

(17) 和賀(わが)郡・江釣子(えづりこ)村

 和賀郡は、岩手県の南西部、奥羽山脈山中に位置する郡で、その中央を和賀川が流れています。「わが」の地名は、『続日本紀』天平9(737)年の条にみえ、『日本後紀』弘仁2(811)年の条に「和我・稗縫・斯波之郡建置」とあります。

 この地名は、(1) 「ワ(輪、回)・カ(処)」で、和賀川の曲流点の意、
(2) 和賀岳(1,440メートル)の「ハカ(崖)」の転、
(3) アイヌ語の「ワッカ(水)」の転という説があります。

 この「ワガ」は、沢内盆地をさした地名で、マオリ語の

  「ワ(ン)ガ」、WHANGA(bay,nook,stretch of water)、「引っ込んだ場所(隠れ里)」(NG音がG音に変化して「ワガ」となった)

  または「ウア(ン)ガ」、UANGA(=ua=neck,back of the neck)、「(胆沢・江刺地域の)後ろにある(地域。郡)」(NG音がG音に変化して「ウアガ」から「ワガ」となった)

の転訛と解します。

 和賀川と北上川の合流点に旧和賀郡江釣子村(1991(平成3)年に北上市と合併)があり、その和賀川左岸の河岸段丘上に江釣子古墳群があります。7世紀末から8世紀の築造かとされる直径6mから15mの円墳が西北に位置する五条丸地区から東端の八幡地区まで断続的に連なる4群、計120基をこえる国指定史跡です。

 この「えづりこ」は、

  「エ・ツ・リコ」、E-TU-RIKO(e=to denote action or progress,calling attention or expressing surprise;tu=stand,settle;riko=wane)、「何と・欠けた月(多数の円墳の環濠がその一部が切れて三日月の形をしている)が・(たくさん)存在する(場所)」

の転訛と解します。

(17−2) 磐井(いわい)郡・平泉(ひらいずみ)町・達谷窟(たっこくのいわや)・悪路王(あくろおう)

 磐井郡は、古代から近代までの郡名で、中世は多く岩井と書き、北は衣川・衣川丘陵を間にして胆沢郡・江刺郡と、東は北上山地を間にして気仙郡と、南は磐井丘陵を間にして宮城県栗原郡と、西は奥羽山脈を隔てて秋田県雄勝郡と接しています。律令時代に成立した胆沢・江刺・気仙・和賀・稗縫・斯波の各郡は、すべて六国史に記載があるのに、これらよりも早く宮城県栗原郡は神護景雲元年に、胆沢郡は延暦23年にはみえていますから、その間の奈良時代の末期または平安時代初期に成立した可能性がある磐井郡は六国史にはみえず、延喜式が初見です。

 磐井郡の地域は、胆沢郡・江刺郡と一帯の地域とみることができ、「磐井」は「磐堰」で北上川の一関市狐禅寺の川幅約100mの狭窄部によってせき止められ、大湿地帯となっていたと考える説があります。したがって住民の数も少なく、胆沢地区の確立安定ののちに建郡された可能性も否定できません。

 西磐井郡平泉町は、平安末期の中尊寺、毛越寺、無量光院などの奥州藤原氏三代約100年間の遺跡や、文化財が数多く残された歴史と観光の町です。

 平泉町西部の北沢には、達谷窟毘沙門堂があり、延暦20(801)年に坂上田村麻呂がここを砦として抵抗した蝦夷の首長悪路王を討伐したのち、清水寺を模して建てたと伝えられています。このことは、吾妻鏡文治5年9月条にもみえ、鹿島神宮には江戸時代の作とされる悪路王の首像が伝わつているといいます。地元では悪路王をアテルイ(古典篇(その十六)250H8阿弖流為の項を参照してください。)と同一視する見方があります。  

 この「いわい」は、

  「イ・ワイ」、I-WAI(i=past tense,beside;wai=water,vessel to hold water etc.)、「(水を湛えた)湿地の・辺り一帯の(地域。郡)」

  または「イ・ワイ」、I-WHAI(i=past tense,beside;whai=cat's-cradle)、「(綾取りのように洪水の度に)川の流路が一変・する(地域。郡)」もしくは「(綾取りのように戦争によって支配者が)一変・した(地域。郡)」

  「ヒラ・イツ・ミ」、HIRA-ITU-MI(hira=numerous,great or important of consequence;itu=side:mi=urine,river)、「(北上川の)流れの・傍らにある・重要な(地域)」

  「タツ・コクフ」、TATU-KOKUHU(tatu=reach the bottom,be content,strike one foot against the other;kokuhu=insert)、「中に踏み入ると・足がつかえるほどの(狭い岩屋)」(「コクフ」のH音が脱落して「コク」となった)

  「アク・ロ」、AKU-RO(aku=delay,cleanse(akuaku=firm,strong);ro=ro to=inside)、「(内)心が・堅固な(決心が揺るがなかった。首長)」

の転訛と解します。   

(17−3) 気仙(けせん)郡・大船渡(おおふなと)市・理訓許段(りくこた)神社・乱曝谷(らんぼうや)

 気仙郡は、古代から現代にいたる郡名で、和名抄は「介世(けせ)」と訓じ、北は上閉伊郡、東は太平洋、南は宮城県本吉郡、西は東磐井郡から江刺郡に接します。地形は、深く湾入したリアス式海岸(三重県志摩郡と違い直線的な溺れ谷が並んでいる)が特徴です。

 当郡の南部に大船渡湾があり、湾に臨んで大船渡市があります。市名の由来は、船を渡す場所から、あるいは岐(ふなど)の神が各所に祀られていたことからとする説があります。

 市の東側の尾崎岬の海岸には式内社理訓許段(りくこた)神社(神社名の傍訓は九条家本に拠つた『新訂増補国史大系』吉川弘文館による)とされる尾崎神社が鎮座します。この神社名についてはアイヌ語(リクン(高いところにある)・コタン(村))とする説があります。

 市の南端の末崎半島の先端には、名勝・天然記念物に指定された黒い扁平な碁石に似た礫がある碁石(ごいし)海岸には、数十mの切り立った岩壁が向かい合う海の谷間に白波が砕け散る乱曝谷(らんぼうや)などの奇景があります。

 この「けせ」は、

  「ケ・テ」、KE-TE(ke=different,strange;te=crack)、「変わった・(海岸に)切れ込み(湾入)がある(郡)」)

  「オホ・フナ・ト」、OHO-HUNA-TO(oho=spring up,wake up,arise;huna=conceal,destroy,devastate;to=drag,open or shut a door or window)、「(かつて津波の)襲来によって・全滅して・びっくりした(場所)」(記紀にみえる黄泉の国から戻つたイザナキが禊をした際に御杖から生じた「船戸(ふなと)神(または岐(ふなと)神)」もこれと同じ語源ですが、「往来する(汚れ・悪霊を)・根絶する(神)」と解します。)

  「リ・ク・コタ」、RI-KU-KOTA(ri=screen,protect,bind;ku,kuku=firm,thickened;kota=open.crack.gape)、「大きく口を開けた(湾を)・しっかりと・保護する(神を祀る。神社)」

  「ラ(ン)ガ・ポウ・イア」、RANGA-POU-IA(ranga=raise,rising ground in a plain;pou=pole,errect a stake etc.,make a hole with a stake;ia=indeed,current)、「実に・柱を立てたように・直立する(岩壁がある場所)」(「ラ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ラナ」から「ラン」となった)

の転訛と解します。   

トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引


 

4 宮城県の地名

 

(1) 栗駒(くりこま)山

 

 栗駒山(1,628メートル)は、岩手・宮城・秋田の三県にまたがる二重式成層火山です。山頂部は、岩手県と宮城県の境にあり、その北西側には馬蹄状の外輪山があり、その中に今も硫気を吐く中央火口丘の剣岳があります。

 栗駒山の名は、宮城県側の呼称で、岩手県側では、この山を水源とする磐井川に多量の酸性水が流入するところから、須川(酸川、酢川。すかわ)岳と呼び、秋田県側では、この山から朝日が昇るところから、大日岳と呼んでいます。

 もとは駒ケ岳でしたが、近くに岩手県和賀郡の駒ケ岳(1,130メートル)があるので、宮城県栗原郡の駒ケ岳の意で栗駒山としたという説がありますが、はるかに高く大きい栗駒山が小さい山に名を譲るのは不審です。

 この「クリコマ」は、マオリ語の

  「ク・リコ・マ」、KU-RIKO-MA(ku=silent;riko=wane;ma=white,clean)、「欠けた月のような(馬蹄形の外輪山を持つ)静かで清らかな(山)」

の意と解します。

 なお、全国に数多く分布する駒ケ岳の「コマ」は、マオリ語の

  「コマ(ン)ガ」、KOMANGA(elevated stage for storing food upon)、「高床の食料倉庫(のような山)」(NG音がG音に変化して「コマガ」となった)

の転訛と解します。

 

(1−2) 栗原(くりはら)郡・迫(はざま)川

 栗原郡は、古代から現代までの郡で、北は岩手県磐井郡、東は登米郡、南は遠田郡、志田郡、玉造郡、西は玉造郡から秋田県雄勝郡に接しています。『続日本紀』神護景雲元年11月条は「陸奥国栗原郡を置く。是はもと伊治(これはり)城(「伊治(これはり)」については、古典篇(その十六)の249H18伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の項を参照してください。)なり」とし、伊治城は続紀同年10月条によれば三旬を経ずに9月に完成したとされます。郡域は、中世に登米郡との間で出入がありましたが、2005(平成17)年4月町村合併により消滅しました。

 この郡の西北の栗駒岳の南面には、西から(一)迫((いち)はざま)川、二迫(にのはざま)川、三迫(さんのはざま)川が谷を刻み、若柳町で合流し、東南流して下流の登米郡迫(はざま)町付近では河床勾配がほとんどなく、流路が蛇行し、かつての大湿地帯・洪水常習地帯を形成したのち、旧北上川に合流します。

 この「くりはら」、「はざま」は、

  「ク・リハ・ラ」、KU-RIHA-RA(ku=silent;riha=nit,small,bad;ra=by way of,wed)、「静かな・なんということもない(特色のない)土地が・連なる(地域)」

  「ハタタ・マ」、HATATA-MA(hatata=blustering;ma=manga=branch of a river or tree)、「荒れ狂う・枝状に分かれた(一迫川から三迫川に分かれて流れる)川」(「ハタタ」の反復語尾が脱落して「ハタ」から「ハザ」となった)

の転訛と解します。

(1−3) 玉造(たまつくり)郡

 玉造郡は、古代から現在にいたる郡で、北は栗原郡、東は志田郡、南は加美郡、西は山形県最上郡に接します。荒雄川に沿った地域で、古代から羽前尾花沢・新庄(山形県)および羽前雄勝(秋田県)へ通じる交通・軍事上の要地です。

 『続日本紀』神亀5年4月条は「陸奥国が新たに白河軍団を置き、また丹取軍団を改めて玉造軍団となすことを請う。並びにこれを許す」とし、続紀天平9年4月条は大野東人が多賀柵〜出羽柵の間の連絡路を開く遠征をし、国内諸城柵の警備を固めましたとし、その「天平五柵」の一つとして「玉造柵」がみえます。郡名の初見は、神護景雲3年3月条ですが、天平14年正月条には黒川・加美以北の十郡は「奥郡」としてまとまった扱いをうけていることから、玉造郡の建郡は奈良時代前期に遡るとみられています。郡名は、おそらく玉造部の集団が開拓民として立てた集落をもとに開けたことによるかとする説があります。 

 この「たまつくり」は、

  「タ・マツ・クフ・リ」、TA-MATU-KUHU-RI(ta=the...of,dash,beat,lay;matu=ma atu=go,come;kuhu=thrust in,insert,conceal;ri=screem,protect,bind)、「あの・(山間に)入り込む・(街道の)往来を・防衛する(柵がある。地域)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

の転訛と解します。

(2) 荒雄(あらお)川・江合(えあい)川

 荒雄川は、古くは玉造川とも呼ばれ、栗駒山の南の鬼首カルデラの中央火口丘である荒雄岳(984メートル)の東麓に源を発し、荒雄岳の周囲を逆時計回りに4分の3周した後南流し、尿前(しとまえ)で大谷川を併せ、東流して大崎平野に入ります。かつての玉造川は大崎市古川師山付近で鳴瀬川に合流していましたが、寛永年間にそれまで古川北部に発して石巻湾に注いでいた江合(えあい)川に切り替えられ、さらにその下流を切り替えて、桃生郡河南町で北上川と合流します。上流には鬼首、鳴子等の温泉が数多くあります。

 この「アラオ」、「エアイ」は、マオリ語の

  「アラ・アウ」、ARA-AU(ara=way;au=current,whirlpool)、「渦を巻くように(山の周囲を)環流する水路(の川)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

  「エ・アイ」、E-AI(e=to denote action in progress,calling attention or expressing surprise;ai=substantive;e ai=in poetry "as it were")、「(切り替えがなかったかのように)昔のままの川のように流れる(川)」

の転訛と解します。

 

(3) 鳴子(なるご)温泉ー鬼首(おにこうべ)温泉郷・轟(とどろき)温泉・川渡(かわたび)温泉・尿前(しとまえ)の関

 

 宮城県の北西端、荒雄川の上流に鳴子温泉があります。『続日本後記』承和4(837)年の条に潟沼火山噴火の際、熱湯が噴出し、「鳴声の郷」とよんだことに由来するとの説があります。

 鳴子温泉郷の奥には、特別天然記念物の雌釜・雄釜間欠泉(現在は止まっているようです)や、轟(とどろき)温泉のある鬼首(おにこうべ)温泉郷があります。

 玉造八湯と称せられる鳴子温泉郷の入り口には、荒雄川を渡っていく川渡(かわたび)温泉があります。

 荒雄川と大谷川の合流点には、近世には最上(羽前)街道の尿前(しとまえ)の関が置かれ、芭蕉の「蚤虱馬の尿する枕もと」の句(『奥の細道』)が残されています。

 この鳴子温泉の「ナルゴ」は、マオリ語の

  「ナ・ル・(ン)ゴ」、NA-RU-NGO(na=by,made by;ru=shake,scatter,earthquake;ngo=cry)、「地震によって轟音をたてた(轟音とともに熱湯を噴き出した温泉)」

の転訛と解します。

 この鬼首温泉の「オニコウベ」、「トドロキ」は、マオリ語の

  「オ・ヌイ・コウ・ペ」、O-NUI-KOU-PE(o=the place of;nui=big,many;kou=knob,stump;pe=crashed,soft)、「崩れた瘤のような台地が多い場所」

  「タウタウ・ロキ」、TAUTAU-ROKI(tautau=howl;roki=be calm,calm)、「低いうなり声(をあげる温泉)」(「タウタウ」のAU音がO音に変化して「トト」となり、濁音化した)

の転訛と解します。

 この川渡温泉の「カワタビ」は、マオリ語の

  「カワ・タピ」、KAWA-TAPI(kawa=channel,passage between rocks or shoals;tapi=apply,as dressings to a wound)、「手を差し伸べて渡っていく川(のほとりの温泉)」

の転訛と解します。

 この尿前の関の「シトマエ」は、マオリ語の

  「チ・タウマイヒ」、TI-TAUMAIHI(ti=throw,cast;taumaihi=small tower in a stockade from which missiles were thrown)、「(見張りの)櫓が・置かれている(関所)」(「タウマイヒ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「トマイ」から「トマエ」となった)

の転訛と解します。

 

(3−2) 遠田(とおた)郡・長岡(ながおか)郡・小田(おだ)郡

 遠田郡は、古代から現在にいたる郡名で、成立は複雑、区域には変遷があり、北は栗原郡および登米郡、東は桃生郡、南から西は志田郡(西の一部は栗原郡)に接します。初見は『続日本紀』天平9年4月条に多賀城から出羽柵への路を開き、国内の城柵を固め、奥筋の蝦夷を鎮撫するために「田夷遠田郡領遠田君雄人を海道へ派遣した」とあります。「田夷」は農耕を行い開明化した蝦夷の意と解されます。和名抄は、「止保太(とほた)」と訓じます。

 長岡郡は、古代から中世の郡名で、地名の初見は『続日本紀』宝亀11年2月条に、郡名は延暦8年8月条の奥十郡の中にみえますが、宝亀元年にはすでに奥十郡は成立しており、その位置は、遠田郡の西、新田郡の南、玉造郡の東、志田郡の北にあったと考えられ、和名抄にみえる2郷のうち、中世に長岡郷が栗原郡(現大崎市(旧古川市)に長岡の地名が残ります。)に、潴城(ぬき)郷が遠田郡(現大崎市(旧田尻町)に沼木、大貫の地名が残ります。)に編入されたと考えられています。和名抄は、「奈加乎加(なかをか)」と訓じます。

 小田郡は、古代の郡名で、『続日本紀』天平勝宝元年4月条に国内ではじめて砂金を産出した郡として記載され、この由をもって天平を天平感宝と改元されました。遠田郡の東部にあったと考えられます。『日本後紀』延暦18年3月条は登米郡を併せたとしますが、延喜式民部式・和名抄ともに登米郡を載せていますから、その後旧に復したものでしょう。中世には遠田郡に編入されたと考えられます。和名抄は、「乎太(をた)」と訓じます。

 この「とほた」、「ながおか」、「をた」は、

  「トハウ・タ」、TOHAU-TA(tohau=damp,sweat;ta=dash,beat,lay)、「湿気が・襲う(湿地が多い。地域)」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」となった)

  「(ン)ガ(ン)ガ・アウカハ」、NGANGA-AUKAHA(nganga=breathe heavily or with difficulty;aukaha=bulwark to the body of a canoe)、「(カヌーの船壁のような)堤防(に囲まれた)・(洪水に)溺れそうな(地域)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」と、「アウカハ」のAU音かO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

  「アウタ」、AUTA(toss,writhe)、「(洪水に)弄ばれる(地域)」または「(砂を水中で揺り動かして)砂金を採取した(地域)」(AU音がO音に変化して「オタ」となった)

の転訛と解します。

(3−3) 志田(しだ)郡

 志田郡は、古代から現代までの郡名で、北は栗原郡、東は遠田郡、南は宮城郡および黒川郡、西は加美郡および玉造郡に接し、江合川と鳴瀬川が北と南を西から東へ流れています。郡名の初見は『続日本紀』8年8月条の奥十郡の一として記載されますが、他の郡と同様奈良時代中期には成立していたと考えられます。和名抄は「志太」と表記します。当郡は、2006(平成18)年3月市町村合併により大崎市が成立して消滅しました。 

 この「しだ」は、

  「チタハ」、TITAHA(lean to one side,pass on one side)、「(北から南へ向かう郡の先端が東南へ向かって)曲がっている(地域)」(H音が脱落して「チタ」から「シダ」となった)(愛知県知多郡・知多半島の語源と同じです。)

の転訛と解します。

(4) 古川(ふるかわ)市ー緒絶(おたえ)川・小牛田(こごた)町

 古川市は、宮城県中北部にあり、中央部を江合(えあい)川と鳴瀬(なるせ)川が流れ、かつては洪水常襲地帯でした。古くから交通の要衝で、奈良時代には多賀城の前進基地として玉造柵が置かれ、奥羽街道(現国道4号線)と陸羽街道などが交差していました。ササニシキ、ひとめぼれの発祥地としても有名です。

 この地名は、江合川が北に流路を変えた跡の古い川筋の上に町が形成されたことによるとされています。市の中央部を流れる緒絶(おたえ)川は、その古い流路です。

 この古川の「フル」は、マオリ語の

  「フル」、HURU(contract,gird on as the belt)、「(川に)挟まれている(または周りに川という帯を巻いている場所)」

の意と解することができます。

 また、緒絶川の「オタエ」は、マオリ語の

  「オ・タワエ」、O-TAWAE(o=the...of;tawae=divide,separate)、「(本流から)分かれた・川」(「タワエ」のAE音がE音に変化して「タヱ」となった)

の意と解します。

 古川市の東に隣接する遠田郡小牛田(こごた)町も、江合川と鳴瀬川に挟まれた低地の町で、かつては洪水常襲地帯でした。

小牛田町は、中世に小塩村と牛飼(うしかひ。『和名抄』にみえる小田郡牛甘郷の遺称地とする説があります。)村の中間の江合川の氾濫地が開発され、両村の名を取って小牛田(こうした)から小牛田(こごた)となったとされますが、古くから「こごた」と呼ばれていた可能性もあり、中世になってから当時まだ残存していた縄文語で命名された可能性もあります。

 この「ウシカヒ」、「コゴタ」は、マオリ語の

  「ウチ・カヒ」、UTI-KAHI(uti=bite;kahi=wedge,a comb made of fish bones)、「(魚の骨で造った)櫛で梳(くしけず)ったように・(川の流れが)浸食した(土地)」 

  「カウカウ・タ」、KAUKAU-TA(kaukau=bathe;ta=lay)、「風呂に・浸かって横たわっている(ような湿地。その地域)」(「カウカウ」のAU音がO音に変化して「ココ」となり、濁音化した)または「ココタ」、KOKOTA(a mark made at cross-roads to show which road has been taken)、「(道標がある)十字路(の場所。地域)」

の転訛と解します。

 

(4−2) 登米(とよま。とめ)郡・新田(にひた)郡・讃馬(さぬま)郡

 登米郡は、古代から現代までの郡名で、北は岩手県磐井郡、東は本吉郡、南は桃生郡、遠田郡、西は栗原郡に接していました。北から南に北上川が南流し、その西を迫川が並行して流れていました。和名抄は登米を「止与米(とよま)」と訓じ、近世以降戸伊摩、外山、豊米、登米などさまざまに表記し、現在では郡名は「とめ」、市町名は「とよま」と呼び分けています。

 新田郡は、古代から中世までの郡名で、登米郡の西部(迫川の流域)に置かれ、和名抄は「邇比太(にひた)」と訓じます。古代城柵に新田柵が『続日本紀』天平9年4月条にみえ、新田郡も同じく神護景雲3年3月条にみえます。『日本後紀』延暦18年3月条は東隣の讃馬(さぬま)郡を新田郡に併せたとしますが、以後讃馬(さぬま)郡の名は史料から姿を消します。室町時代に至って新田郡は、栗原郡に吸収され、讃馬郡の地は登米郡に残ります。

 この「とめ」、「にひた」、「さぬま」は、

  「ト・マイ」、TO-MAI(to=the...of,drag,carry the weapon at the trail;mai=to indicate direction or motion towards)、「(北上川が迫川を脇にかかえ込むように)引き連れて・(海へ向かって)流れ下る(地域)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)(「とよま」については、次の(5)登米町の項を参照してください。)

  「ニヒ・タ」、NIHI-TA(nihi=move stealthly,surprise;ta=dash,beat,lay)、「(迫川の水が)足音を忍ばせて・襲ってくる(地域)」

  「タ・ヌマ(ン)ガ」、TA-NUMANGA(ta=the...of;numanga=disappearance)、「(合併されて)消滅した(郡)」(「ヌマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ヌマ」となった)または「タ・ヌイ・マ(ン)ガ」、TA-NUI-MANGA(ta=dash,lay,allay;hui=big,many;manga=branch of a river or a tree)、「大きな・(川の支流である)沼が・並んでいる(地域)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」と、「マ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

(5) 登米(とよま)町

 宮城県の北東部に登米(とめ)郡登米(とよま)町があり、町の中央を北上川が南流しています。明治初期に登米(水沢)県庁が置かれました。郡名は今は「トメ」と呼んでいますが、『和名抄』では「止与末(とよま)」と訓じています。

 この「とよま」は、(1) もと「遠山(とほやま)」の転(吉田東伍)、

(2) 「川音が響(とよ)む土地」から、

(3) アイヌ語の「トイ・オマ・イ(食用粘土のあるところ)」から(金田一京助)という説があります。

 この「トヨマ」は、マオリ語の

  「ト・イオ・マ」、TO-IO-MA(to=the...of;io=strand of a rope,line;ma=white,clean)、「清い(綱のような)川の流れ(の土地)」

の転訛と解します。青森県八戸市豊崎町に浅水川に沿った豊間内(とよまない。「ナイ」は、ヌイ、NUI(big)、大きいの転訛)があり、岩手県下閉伊郡山田町に荒川川に沿った豊間根(とよまね。「ネ」は、ネイ、NEI(here)、此処の転訛)があり、これらも同じ語源でしょう(福島県いわき市平豊間(たいらとよま。旧平市豊間町)は海岸に沿っており、この「イオ」は、「IO(spur)、山の背、山脚」の意味でしょう)。

 

(5−2) 本吉(もとよし)郡

 本吉郡は、中世から現在に至る郡名で、北は岩手県気仙郡、東は太平洋、南は桃生郡、西は登米郡および岩手県磐井郡に接します。本吉郡の名は、延喜式、和名抄ともにみえず、桃生郡のうち磐城郷が本吉郡にあたると推定されています。初見は、『節用集』で、ほかに永正11(1514)年成立の『余目記録』に葛西氏の本所五郡の一として元良郡の名がみえます。

 この「もとよし」は、

  「モト・イオ・チ」、MOTO-IO-TI(moto=strike with the fist,blow with the fist;io=spur,ridge,lock of hair;ti=throw,cast)、「(拳骨で殴られたような)低い・山波が・連なる(地域)」

の転訛と解します。

(6) 気仙沼(けせんぬま)湾

 宮城県北東端、岩手県境に、細長く奥の深い気仙沼湾があり、湾口に大島があって太平洋の風波を遮り、湾奥の気仙沼港を保護しています。気仙沼市は、全国屈指の水産都市です。

 『三代実録』の貞観元(859)年の条に「計仙麻神」の名がみえ、『延喜式』神名帳には牡鹿郡に「計仙麻神社」、桃生郡に「計仙麻大嶋神社」の名がみえ、『和名抄』に陸奥国気仙郡に「介世」と訓じられていますので、古くは岩手県南東部から宮城県東北部にかけての一帯をさして「けせ」、「けせま」の地名があったのでしょう。

 この「けせま」は、(1) アイヌ語の「ケセ(下)・マ(海湾)」の意(吉田東伍)、
(2) 「ケシ(岸、削られたところ)・マ(澗・港)」の転、
(3) 「カセ(枷、水路)・マ(澗・港)」の意などの説があります。

 この「ケセンヌマ」または「ケセヌマ」は、マオリ語の

  「ケテ・ヌマ(ン)ガ」、KETE-NUMANGA(kete=belly of a net,womb;numanga=disappearance)、「(津波で)消え去った(ことがある)・子宮(のような。深く入り込んだ湾)」

の転訛と解します。

 

(7) 桃生(ものう)郡

 桃生郡は、古代から現代にいたる郡名で、宮城県北東部の北上川河口付近に位置し、北は登米郡及び本吉郡、東は太平洋、南は牡鹿郡および仙台湾、西は宮城郡および遠田郡に接し、新旧北上川に囲まれた桃生町の名にもなっています。古代には「海道の蝦夷」と呼ばれた人々の住んだ地域で、牡鹿柵が造られるとその支配下に入り、次いで牡鹿郡が建てられるとその管下にはいりました。「桃生」の地名の初見は『続日本紀』天平宝字元年4月条で、同2年10月条は「桃生城」を造るとし、同3年正月条は「大河に跨り、峻嶺を凌ぎ、桃生柵を造る」とあり、「桃生郡」の初見は宝亀2年11月条です。

 『和名抄』では「毛牟乃不(もむのふ)」と訓じられています。

 この「もむのう」は、
(1) アイヌ語の「ムンヌプ(草の丘)」の意、
(2) 「ママ(崖地)」の転などの説があります。

 この「モムノウ」は、マオリ語の

  「モモノ・フ」、MOMONO-HU(momono=mono=plug,caulk;hu=hill,promontory)、「(北上川の出口を)塞ぐ・丘陵(がある地域)」(「フ」のH音が脱落して「ウ」となり、「モモノウ」、「モノウ」となった。「モモノ」は「モノ」の派生語で同じ意味です)

の転訛と解します。

 

(7−2) 牡鹿(おしか)郡

 牡鹿郡は、古代から現在にいたる郡名で、古代ははじめ桃生郡の地域を含んでいましたが、桃生郡建郡の後は、西から北は桃生郡、東から南は太平洋に接します。 

 『続日本紀』神亀元年3月条は海道の蝦夷(多賀城東北方の広義の牡鹿蝦夷を指します)が反乱して国司を殺害したので、同年4月条は藤原宇合を征蝦夷持節大将軍に任じたとします。天平9年4月条に「天平五柵」の一として「牡鹿柵」がみえ、天平勝宝5年6月条に牡鹿郡の人丸子牛麻呂・丸子豊嶋等24人に牡鹿連姓を与えたとあります。同年8月牡鹿連姓を与えられた丸子嶋足が上京して授刀舎人となり、橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱で功績をあげ、授刀将曹から近衛中将まで出世し、道嶋宿禰と姓を改め、陸奥大国造となり、一族も多数陸奥国・鎮守府・征夷使の官人として活躍しました。この牡鹿郡領家の道嶋氏が別格郡司として権勢をふるったことが他の郡司の反発を招き、伊治公呰麻呂(古典篇(その十六)の249H18伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の項を参照してください。)の反乱となります。

 延喜式神名帳所載の式内社は牡鹿郡に10座、内2座が名神大社と異例に多くなっています。

 この「おしか」については、次の(8)牡鹿半島の項を参照してください。

(8) 牡鹿(おしか)半島

 牡鹿半島は、宮城県東部の仙台湾の東端を画する半島です。北上山地の南端部が、真っ直ぐ太平洋に突き出して没する部分で、リアス式海岸が形成されています。古くは、遠島(とおしま)とも呼ばれました。

 『続日本紀』天平9(737)年に「牡鹿の柵」、天平勝宝5(753)年に「牡鹿郡」の名がみえます。『和名抄』は「乎志加」と訓じています。

 この地名は、(1) 金華山の「鹿」から、
(2) 「シカ(好漁場)」の意、
(3) 「オシ(押)・カ(処)」の意、
(4) 「ヲ(接頭語)・スカ(洲処)」からなどの説があります。

 この「オシカ」は、マオリ語の

  「オ・チカ」、O-TIKA(o=the...of;tika=direct,straight)、「まっすぐに(太平洋へ向かって)・延びている(地域。半島)」

  または「オチ・カハ」、OTI-KAHA(oti=finished;kaha=boundary line of land etc.,edge,ridge of a hill)、「(北上山地が海に落ち込む)終端の・丘陵(がある地域。半島)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 石巻(いしのまき)湊ー平駄(ひらた)船・高瀬(たかせ)船・天当(てんとう)船

 石巻湊は、牡鹿半島の付け根、北上川の河口に発達した湊で、江戸時代には奥州第一の湊といわれました。中世には「牡鹿湊(おしかみなと)」、「牡鹿津」と呼ばれていましたが、元和年間(1615〜24年)伊達政宗が北上川の流路を付け替え、本流を石巻に南下させ、江戸廻米の積出港としたのに伴って大きく発展しました。

 この地名は、(1) 『日本書紀』仁徳紀55年の条の「伊寺水門(いじのみなと)」(伊寺川(現在の迫(はざま)川の古名)の河口の湊)の「いじ」が「石」に、「湊」の字がの「巻」に転じた、
(2) 北上川河口の住吉社の神岩(烏帽子岩)に水流が渦巻く「巻石」から、
(3) 「ヒジ(洲、泥)・マキ(牧)」から
(4) 「イソ(磯)・マキ(牧)」からなどの説があります。

 この「イシノマキ」は、マオリ語の

  「イ・チマ・キ」、I-TIMA-KI(i=past tense;tima=a wooden implement for cultivating the soil;ki=full,very)、「膨大な土を・(鍬で)掘り上げて・造った(新しい川。その河口の地域。河口の湊)」「(「イチマキ」から「イシノマキ」となった)

の転訛と解します。

 この北上川や阿武隈川の舟運で用いられた江戸時代の川船を、大型のものは「平駄(ひらた)船」、小型のものは「高瀬(たかせ)船」といい、河口で「天当(てんとう)船」に積み替えて江戸へ向かいました。

 この「ヒラタ」、「タカセ」、「テントウ」は、マオリ語の

  「ヒラ・タハ」、HIRA-TAHA(hira=great,numerous,widespread;taha=side,edge)、「(高瀬船よりも)巾が・広い(船)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

  「タカ・テ」、TAKA-TE(taka=revolve,go or pass round;te=crack,emit a sharp explosive sound)、「(音を立てて流れる)浅瀬を・行き来する(喫水の浅い小回りのきく船)」

  「テ・(ン)ゴト」、TE-NGOTO(te=the;ngoto=be deep)、「(喫水が)深い(大量の荷物を積める船)」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「テ・ノト」から「テント」、「テントウ」となった)

の転訛と解します。海洋民族の言語、原ポリネシア語は、江戸時代まで脈々と受け継がれていたのです。

 

(10) 十八鳴(くぐなり)浜

 宮城県気仙沼市大島に、十八鳴(くぐなり)浜という有名な「鳴き砂」の浜があります(三輪茂雄『粉の文化史』新潮選書、昭和62年)。また、宮城県牡鹿郡牡鹿(おしか)町にも、十八成(くぐなり)浜の地名があります。歩くと「キュッ、キュッ」と鳴るところから、「ク(九)」が二つで「十八」と宛字をしたようです。

 この「クグ」は、マオリ語の

  「クク」、KUKU(clench,make a grating sound)、「歯ぎしりする(浜)」

の転訛と解します。

 また、同様に鳴き砂の浜として著名なものに、島根県迩摩郡仁摩町馬路(まぢ)の琴ケ浜があります。壇ノ浦の合戦に敗れた平家の琴姫が琴を抱いてこの浜に漂着したとの伝説があります。

 この「コト」も、マオリ語の

  「コト」、KOTO(sob,make a low noise)、「すすり泣く(浜)」

の意と解します。京都府竹野郡網野町の琴引浜の語源もこれと同じでしょう。

 さらに、石川県鳳至郡門前町剣地(つるぎぢ)に「ごめき浜」があります。能登の方言で「ごめき」とは「赤ん坊が泣く、ぐずる」ことです。

 この「ゴメキ」は、マオリ語の

  「(ン)ゴ・メケ」、NGO-MEKE(ngo=cry,make any articulate sound;meke=memeke=be shy)、「恥ずかしそうに泣く(小さな音を立てる浜)」

の転訛と解します。

 

(10−2) 加美(かみ)郡・色麻(しかま)郡・富田(とみた)郡・鳴瀬(なるせ)川

 加美郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は玉造郡、東は志田郡、南は黒川郡、西は山形県北村山郡に接します。鳴瀬川の上流部で、古来黒川郡とともに多賀城から出羽国府・秋田城への連絡路として重要視されてきました。和名抄は、「賀美郡」と表記し、近世初期には「寒郡」とも書いています。郡名の初見は、『続日本紀』天平9年4月条で、中世には色麻郡を併せました。 

 色麻郡は、古代の郡名で、現代の加美郡の東部(現加美郡色麻町・加美町のうち旧中新田町の一部とされます。)に位置し、和名抄は「志加万(しかま)」と訓じています。天平9年4月多賀城以北の最初の城柵として色麻柵が設けられました。延暦8年8月奥十郡の一としてみえ、延暦18年3月富田郡を併合し、中世に加美郡に編入されました。

 富田郡は、古代の郡名で、黒川郡と色麻郡の間の東部(現黒川郡大衡村付近(陸上自衛隊演習地がある王城高原を含む)とされます。)に位置したと推定される郡で、延暦8年8月奥十郡の一としてみえ、延暦18年3月色麻郡に併合されました。

 鳴瀬川は、奥羽山脈中央部の船形山の北斜面に源を発し、加美郡内を多くの支流を併せながら東流し、のち南流して石巻湾に注ぎます。源流部一帯には大規模な地滑り地形が多く、風穴などもみられます。

 この「かみ」、「しかま」、「とみた」、「なるせ」は、

  「カハ・アミ」、KAHA-AMI(kaha=rope,edge,ridge of a hill;ami=gather,collect)、「(縄のような)川の流れが・集まる(順次合流して鳴瀬川となる。地域)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「カ」のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「カミ」となった)

  「チカ・マ(ン)ガ」、TIKA-MANGA(tika=straight,direct;manga=branch of a river or a tree)、「(鳴瀬川に最後に合流する)最も近い・支流の(流れる。地域)」(「マ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「マ」となった)

  「タウ・ミ・タ」、TAU-MI-TA(tau=ridge of a hill;(Hawaii)mi=to void urine,;ta=dash,beat,lay)、「(おしっこが出ない)水がない・丘陵が・ある(地域)」(「タウ」のAU音がO音に変化した「ト」となった)

  「(ン)ガル・テ」、NGARU-TE(ngaru=wave of the sea,corrugation;te=crack,emit a sharp explosive sound)、「地滑りがあって(海のような大きな波を起こす)・音を立てて流れる(川)」(「(ン)ガル」のNG音がN音に変化して「ナル」となった)

の転訛と解します。

(10−3) 黒川(くろかわ)郡・吉田(よしだ)川・品井(しない)沼・鶴田(つるた)川・高城(たかき)川

 黒川郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は加美郡・志田郡、東は桃生郡、南は宮城郡、西は山形県西村山郡に接します。多賀城のすぐ北に置かれ、多賀以北の奥十郡の起点をなす郡として古来特別の意味を持った郡です。郡名の初見は、『続日本紀』天平14年正月条ですが、加美郡が天平9年には成立していますので、当郡もそれまでには成立したものと考えられます。宮城県を仙北・仙南に分ける境界地帯である黒河丘陵ががあり、その中央を吉田川が西流して北上川に合流しています。(この吉田川は、かつて北上川に合流する直前は大きな品井(しない)沼という湿地であり、この沼を干拓するために元禄6年から文久元年に吉田川の流路と干拓地の排水路の鶴田(つるた)川を分離して吉田川の地下を通す元禄潜穴工事が行われ、明治に入って老朽化した水路を更新する明治潜穴工事が行われましたが、その鶴田川は潜穴を出た後は高城(たかき)川と呼ばれ、南流して石巻湾に注いでいます。)

 この「くろかわ」、「よしだ」、「しなゐ」、「つるた」、「たかき」は、

  「クフ・ロ・カワ」、KUHU-RO-KAWA(kuhu=thrust in,insert;ro=ro to=inside;kawa=heap,reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals)、「()中に・静かに・割って入っている(郡)()()」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

  「イオ・チタ(ン)ガ」、IO-TITANGA(io=muscle,line;titanga=loose)、「(綱のような)流れの・(綱がほどけたように)下流が大きな沼になっている(川)」(「チタ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「チタ」から「シダ」となった)

  「チナ・ウイ」、TINA-UI(tina=fixed,firm,constipated;ui=disentangle,relax or loosen a noose)、「便秘している(排水が悪い)・ほどけた綱(のような。沼)」(「ウイ」が「ヰ」から「イ」となった)

  「ツル・タハ」、TURU-TAHA(turu=kneel;taha=side,edge,pass on one side)、「膝を曲げて(流路を西から南へ変えて)・脇(の吉田川の下)を通る(川)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

  「タカキ」、TAKAKI(neck,throat)、「(咽喉のように)狭い潜穴(をくぐり抜けた。川)」

の転訛と解します。

(10−4) 宮城(みやぎ)郡

 宮城郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は黒川郡、東は桃生郡・仙台湾、南は名取郡、西は山形県村山郡に接します。郡名の初見は、『続日本紀』天平神護2年11月ですが、建郡は多賀城の成立から間もなくの奈良時代初期と考えられます。多賀城は、陸奥鎮所にはじまり、霊亀元年5月の「東国6国の富民千戸を陸奥に配した」とあるのは陸奥鎮所への柵戸移配と考えられます(和銅7年10月条に「尾張等4国の民2百戸を割いて出羽の柵戸に配した」あります)から、このころにははじまっていると思われます。これ以降、多賀城は陸奥国の行政の中心地となり、宮城郡以南の諸郡は内郡、黒川郡以北は奥郡として扱われるようになって行きます。和名抄は「美也木(みやき)」と訓じます。 

 県名の起こりとなった名で、(1)塩竃神社(宮)と多賀城(城)があったから、(2)屯倉(みやけ)があったから、(3)多賀城という「遠の朝廷」の「みちのく府城」であったからなどとする説があります。

 この「みやき」は、

  「ミ・イア・キ」、MI-IA-KI(mi=urine,river;ia=indeed;ki=full,very)、「実に・川が・多い(地域)」

  または「ミ・イア・ア(ン)ギ」、MI-IA-ANGI(mi=urine,river;ia=indeed,current;angi=free,move freely,float)、「実に・(自由に流れる)頻繁に流路を変える・川(の流れる地域)」(「ア(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「アギ」となり、その語頭のA音が「イア」のA音と連結して「ヤギ」となった)

の転訛と解します。

(11) 松島(まつしま)

 松島は、宮城県中部、仙台湾の支湾松島湾の沿岸部および松島湾に散在する島々の総称です。天橋立、安芸の宮島とともに、日本三景の一つとして著名な地で、「松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ず」(『奥の細道』)と賞賛されています。

 島と沿岸の海食崖の上には松が茂り、松と奇岩怪石のすばらしい景色を示すところから、「松島」というとされています。

 この「マツシマ」は、マオリ語の

  「マ・ツ・チマ」、MA-TU-TIMA(ma=white,clean;tu=stand;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形の場所がある清らかな地域」

の転訛と解します。すでに「オリエンテーション篇」(平成10年10月10日書き込み)の「阿蘇山」の項で説明した「対馬」の語源と同じです。

 

(12) 多賀城(たがじょう)市

 宮城県中部、仙台市の北東に接して、陸奥国府多賀城跡のある多賀城市があります。多賀城南門脇に日本三古碑の一つ「多賀城碑」があり、多賀城の創建、修造等について記しています(「壺の碑(つぼのいしぶみ)」については、青森県の(11−2)つぼのいしぶみ(壺の碑)の項を参照してください)。

 この「多賀(たが)」地名は、多賀、常陸国多珂郡、播磨国多可郡をはじめ全国各地にあり、「高地」の意と解されています。

 この「タガ」は、すでに「入門篇(その二)」(平成10年12月1日書き込み)で説明しましたが、マオリ語の

  「タ(ン)ガ」、TANGA(circumstance or place of dushing,striking,etc,be assembled,row,division of persons)、「人々が集まって作業をしている(狩りをしたり、耕作をしたりしている)地域」

の転訛と解します。

 

(13) 広瀬(ひろせ)川ー作並(さくなみ)温泉・愛子(あやし)

 広瀬川は、宮城県中部を東流する名取川最大の支流です。奥羽山脈の関山峠に源を発し、愛子(あやし)、郷六の小盆地を連ね、仙台市街地の西縁を流れ、市の南東部で名取川と合流します。上流部には作並(さくなみ)温泉があり、流域には河岸段丘が発達しています。

 広瀬川は、その名の通り「広い川瀬」の川と解されています。

 作並温泉の「サクナミ」は、マオリ語の

  「タク・(ン)ガミ」、TAKU-NGAMI(taku=edge,gunwale;ngami,whakangami=swallow up)、「膨れた(河岸段丘の)・縁(にある土地。そこの温泉)」(「(ン)ガミ」のNG音がN音に変化して「ナミ」となった)

の転訛と解します。

 愛子は、宮城郡の旧町で、昭和62年に仙台市に合併され、ベッドタウンとして発展しています。この町域は、広瀬川とその支流大倉川の流域を占め、広瀬川沿いに発達した河岸段丘の上にその中心集落および耕地が開かれています。

 この「アヤシ」は、マオリ語の

  「ア・イア・チ」、A-IA-TI(a=the...of;ia=current;ti=throw,overcome)、「川の流れ(洪水)によって押しひしがれた(削られた)土地」

の転訛と解します。全国各地の「ヤチ(谷地、谷戸など)」も同じ語源です。

 

(13−2) 名取(なとり)郡

 名取郡は、古代から現代までの郡名で、北は宮城郡、東は太平洋、南は柴田郡・亘理郡、西は山形県村山郡に接します。山道(中通り)、海道(浜通り)の二本に分かれて北上した幹線道路がこの郡で落ち合うことから、古来交通・軍事上の要地とされてきました。郡名の初見は、『続日本紀』和銅6年12月条に「新たに陸奥国丹取郡を建つ」とあり、和名抄は「名取」を「奈止里」と訓じます(「丹取」が「にとり」であったか「なとり」であったか不詳です)。昭和63年3月秋保町が仙台市に合併して名取郡は消滅しました。

 郡名は、郡中を西から東に流れる次の(14)名取川の川名によります。

(14) 名取(なとり)川ー二口(ふたくち)峠・磐司(ばんじ)岩・磊々(らいらい)峡・秋保(あきう)温泉・閖上(ゆりあげ)浜

 名取川は、宮城県中部を東進する川で、奥羽山脈の二口(ふたくち)峠(934メートル)付近に発し、上・中流部では第三紀の凝灰岩を切って二口渓谷や、磊々(らいらい)峡の奇勝をつくり、中・下流部で碁石川、広瀬川などを合わせて閖上(ゆりあげ)浜で仙台湾に注いでいます。二口峠の東北には磐司磐二郎(山の神を厚遇して狩猟の名人となった狩人)伝説の舞台とされる円柱状の磐司(ばんじ)岩がそそり立ち、西南には瀬ノ原山(1,182メートル)が峠を挟んでそびえています。磊々峡付近には、古くから「名取の御湯」として知られた秋保(あきう)温泉があります。

 名取の地名は、『続日本紀』和銅6(713)年に「丹取(にとり)郡設置」とあり、神護景雲3(769)年には「名取」に改めています。また、『和名抄』には「奈止里」とあります。

 この地名の語源は、(1) 瓦製造用の赤土(粘土)の土取り場、
(2) 丹(に。辰砂)を取る場所、
(3) 「ニタ(湿地)・リ(方向、場所を表す接尾語)」の意、
(4) 「ナ(接頭語)・トリ(取り)」で崩壊地、浸食地をさす、
(5) アイヌ護の「ニタツ・トリ(湿地や溜まり水のある所)」の意などの説があります。

 この「ナトリ」は、マオリ語の

  「ヌイ・トリ」、NUI-TORI(nui=big,many;tori=cut)、「大きく山地を切り割った(川)」(「ヌイ」が「ニ」から「ナ」となった)

  または「ヌイ・タウリ」、NUI-TAURI(nui=big,many;tauri=fillet,bamd)、「大きな・紐のような(川)」(「ヌイ」が「ニ」から「ナ」と、「タウリ」のAU音がO音に変化して「トリ」となった)

の転訛と解します。

 二口峠の「フタクチ」は、マオリ語の

  「フ・タ・クチ」、HU-TA-KUTI(hu=hill;ta=lay,ally;kuti=contract,pinch)、「山が並んで挟み付けている(峠)」

の意と解します。

 磐司岩の「バンジ」は、マオリ語の

  「パネ・チ」、PANE-TI(pane=head;ti=throw,cast)、「放り出されている頭(のような岩)」

の転訛と解します。

 磊々峡の「ライライ」は、マオリ語の

  「ライ」、RAI(ribbed,furrowed)、「皺が寄っている(岩が重なり合っている峡谷)」

の転訛と解します。

 秋保温泉の「アキウ」は、マオリ語の

  「アキ・フ」、AKI-HU(aki=dash;hu=bubble up)、「泡をたてて噴き出す(温泉)」

  または「ア・キフ」、A-KIHU(a=the...of,belonging to;kihulihu=fringe)、「(川の)縁に・ある(温泉)」(「キフ」のH音が脱落して「キウ」となった)

の転訛と解します。

 名取川の河口の閖上(ゆりあげ)浜の「ユリアゲ」は、マオリ語の

  「イ・フリ・ア(ン)ガイ」、I-HURI-ANGAI(i=beside;huri=turn round,overflow;angai=north-north-west wind)、「(冬季の)北北西の(季節風によって起こる)大波が・押し寄せる・あたり(の浜)」(「イ」と「フリ」のH音が脱落した「ウリ」が連結して「ユリ」と、「ア(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化して「アゲ」となった)

の転訛と解します。

 

(14−2) 亘理(わたり)郡

 亘理郡は、古代から現在にいたる郡名で、曰理とも書き、北は阿武隈川を隔てて名取郡、東は太平洋、南は福島県相馬郡(旧宇多郡)、西は伊具郡に接します。郡名の初見は、『続日本紀』養老2年5月条で陸奥国の南部を割いて石城(いわき)・石背(いわしろ)の2国を建てたとし、石城国は石城・標葉・行方・宇太・曰理(わたり)5郡と常陸国多珂郡210戸を割いて郡を建てた菊多郡の計6郡であったとします。亘理郡は南陸奥国の北辺であり、阿武隈川をもつて石城国の北限としました。のち数年で両国は廃止され、亘理郡は陸奥国所管となりました。和名抄は、「和多里(わたり)」と訓じます。

 この「わたり」は、

  「ワ・タリ」、WA-TARI(wa=place;tari=carry,bring)、「(人や物を)運ぶ(渡す)・場所(地域)」

の転訛と解します。

(15) 阿武隈(あぶくま)川

 阿武隈川は、東北地方第二の河川で、長さ239キロメートル、流域の八割は福島県で、那須火山帯の日光国立公園北端の甲子山(かっしやま)東斜面に発し、福島県の中通り地方を北流し、宮城県に入って北東流して亘理(わたり)郡亘理町荒浜で太平洋に注いでいます。古くは「あぶくま」川ではなく、「あふくま(逢隈)」河で、遇隈川、青熊川、大熊川とも表記していました。

 亘理町旧逢隈(おおくま)は、阿武隈川河口の古流域の地名です。かつては阿武隈川は水量豊かな暴れ川で有名で、亘理は浜街道の難所でした。川を渡る(曰理(わたり)・渡利)ことの安全を守る河伯(水神)を川のほとりに祀ったのが阿福麻(あぶくま)河伯神社(亘理町逢隈田沢)で、安福河伯神社(『延喜式』神名帳)、阿福麻水神(『三代実録』貞観5(863)年の条)、阿武隈明神神社(『封内風土記』)とも称しました。この地名が川の名となったといいます。

 この地名は、古語の「あふくま(溢曲)」で、河口付近の地形を示し、折れ曲がつて流れ、溢れるくらい水量の豊かな川の意であるとする説が有力です。

 この「アフクマ」は、マオリ語の

  「アフク・マ」、AHUKU-MA((Hawaii)ahuku=to stone to death,slaughter by burying the victim under a pile of stones;ma=a particle used after names of persons etc.,names of river)、「(石を投げて人を殺すように)すごい勢いで流れる・川(その地域)」

  または「ア・プク・マ」、A-PUKU-MA(a=the...of,drive,urge;puku=swelling,secretly,without speaking;ma=a particle used after names of persons etc.,names of river)、「(予兆なしに)突然水量が増えて・押し流す・川(その地域)」

の転訛と解します。

 

(15−2) 柴田(しばた)郡

 柴田郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は名取郡、東は名取郡・伊具郡、南は伊具郡・刈田郡、西は山形県村山郡に接します。当初の郡域は、刈田郡の領域を含み、郡名の初見は、『続日本紀』養老5年10月条で「柴田郡の2郷を分けて苅田郡を置かせた」とします。養老2年5月には石背・石城の2国が成立し、北隣の名取郡が和銅6年に建てられていますから、当郡も和銅初頭ごろには建てられたと考えられます。和名抄は「之波太(しはた)」と訓じ、郷は8を数えます。

 この「しばた」は、

  「チパ・タ」、TIPA-TA(tipa=dried up,broad,large;ta=dash,beat,lay)、「広い・場所を占める(地域。郡)」(「チパ」のP音がF音を経てH音に変化して「チハ」から「シハ」となった)

の転訛と解します。

(15−3) 刈田(かった)郡

 刈田郡は、古代から現在にいたる郡名で、苅田郡とも書き、北は柴田郡、東は伊具郡、南は福島県伊達郡・信夫郡、西は山形県東置賜郡・南村山郡に接します。郡名の初見は、『続日本紀』養老5年10月条で「柴田郡の2郷を分けて苅田郡を置かせた」とします。和名抄は、「葛太(かつた)」と訓じます。

 郡名は、蔵王連峰の一つ、刈田(かつた)嶺、式内名神大社として崇敬された刈田嶺(かむたみね)神社の名によります(次の(16)蔵王(ざおう)連峰の項を参照してください。)。

(16) 蔵王(ざおう)連峰ー刈田(かつた)嶺・不忘(ふぼう)山

 宮城・山形両県にまたがって蔵王山連峰があります。横川と澄川の上流を境として北蔵王と南蔵王の両火山群に分けられ、一般には北蔵王を蔵王山と呼んでいます。北蔵王は二重式火山で、最高峰の熊野岳(1,841メートル)とその南の刈田(かった)岳(1,758メートル)をつなぐ馬の背と呼ばれる稜線が外輪山で、その東の五色岳(1,674メートル)が中央火口丘です。

 南蔵王の中心は屏風(びょうぶ)岳(1,817メートル)で、その東斜面は断崖をなしています。東方には後烏帽子岳、前烏帽子岳、入道山などがあり、南端には頂上部が爆裂火口によって三方からえぐられて複雑な山容を呈する不忘(ふぼう)山があります。

 蔵王山は、かつては女人禁制の修験の山で、「西のお山」である出羽三山に対する「東のお山」として信仰されてきました。この蔵王山の名は、吉野の蔵王権現を勧請したことによります。古くは、「刈田(かつた)嶺」で、山上には刈田嶺神が祀られ、『延喜式』には「刈田(かむた。かつた)郡 刈田嶺(かむたみね)神社」とみえています。また、『和名抄』では刈田郡は「葛太(かつた)」と訓じられています。

 この語源は、(1) 「カツ(崖、砂丘)・タ(処)」から、
(2) 「カハ(川)・タ(処)」の転、
(3) 「カム(葛)・タ(多)」の転などの説があります。

 この「カツタ」は、マオリ語の

  「カ・ツタ」、KA-TUTA(ka=take fire,burn;tuta=back of the neck)、「火が燃える(火山の)後頭部(断崖絶壁のところ)」

  または「カハ・ツタ」、KAHA-TUTA(kaha=edge,boundary line of land etc.,ridge of a hill;tuta=back of the neck)、「山の後頭部(断崖絶壁)の麓の居住地(火が燃えるところ)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の意と解します。前者は蔵王連峰の主峰である屏風岳の断崖絶壁を宮城県側からみて山をこう呼んだものでしょう。

 また、北蔵王の不忘(ふぼう)山の「フボウ」は、マオリ語の

  「フ・ポウ」、HU-POU(hu=hill,promontry;pou=post,pole,stake)、「柱の(樹氷が林立する)・山」

の転訛と解します。

 

(17) 伊具(いぐ)郡ー居久根(いぐね)

 宮城県南部の郡名で、『和名抄』に「以久」と訓じられ、『旧事紀』国造本紀に「伊久国造」の名がみえます。

 この「イク」は、(1) 「イク」は、「穿つ」で「崖」の意、
(2) 「ウク」の転で、「湿地」の意などの説があります。

 この「イグ」は、マオリ語の

  「イ・(ン)グ」、I-NGU(i=beside;ngu=egg case of paper nautilas(whakangungu=defend,protect))、「(たこぶねの卵を保護するケースのような)保護帯(防衛線)の・あたりの土地」

の転訛と解します。

 屋敷の周囲(風上など)に植えて防風、防暑、防火の役割を果たし、薪や用材を採取する屋敷林を東北では「いぐね(居久根)」、関東では「くね」と呼びます。この「イグネ」は、マオリ語の

  「イ・(ン)グ・ヌイ」、I-NGU-NUI(i=beside;ngu=egg case of paper nautilas(whakangungu=defend,protect);nui=big,many)、「(たこぶねの卵を保護するケースのような)屋敷の周囲を十分に保護する(林)」

の転訛と解します。上記の「イグ」と同じ語源です。

トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引


 

5 秋田県の地名

 

(1) 男鹿(おが)半島ー恩荷(おが)、寒風(かんぷう)山、入道(にゅうどう)崎、なまはげ

 男鹿半島は、秋田県西部の日本海に突き出ている半島で、日本海内側島列に属する男鹿島とその東に噴出した二重式火山の寒風(かんぷう)山に、雄物川、米代川の両河口から伸びた2本の砂州がつながってできた典型的な複式陸繋島です。その内側に、琵琶湖に次ぐ日本第二の大きさで、水深の浅い潟湖の八郎潟がありましたが、その大部分が昭和32年以降の国営事業によって干拓されました。

 この地名は、『日本書紀』斉明紀4(658)年4月の条に齶田(あぎた)浦の蝦夷恩荷(おが。首長の名)としてみえるとされ、『吾妻鏡』には小鹿島、男鹿島として出てきます。

 この語源は、(1) 「ヲ(峰)・カ(処)」で「オカ(岡)」と同義、
(2) 砂州の先端(ヲ(尾)・カ(処))の意とする説があります。

 この「オガ」は、マオリ語の

  「アウ(ン)ガ」、AUNGA(=haunga=not including)、「中が空っぽ(八郎潟を中に抱いている半島)」(AU音がO音に変化して「オガ」となった)

の転訛と解します。

 なお、蝦夷の恩荷の「オガ」は、マオリ語の

  「オ(ン)ガ」、ONGA(shake about)、「(蝦夷征討軍の勢いに)震えおののいた(酋長)」

の転訛と解します。人名の恩荷は、地名とは異なる語源です。それにしても、「恩荷」とは、原語の発音を実に正確に漢字で表していることに驚きます。

 また、寒風山(355メートル)の「カンプウ」は、マオリ語の

  「カネ・プ」、KANE-PU(kane=head;pu=double)、「(頂上が鐘(トロイデ)状、裾野はなだらかな楯(アスピーテ)状の))二重になった頭(のような山)」

の転訛と解します。

 男鹿半島の北端の入道(にゅうどう)崎の「ニュウドウ」は、マオリ語の

  「ニウ・ト」、NIU-TO(niu=move along,glide;to=drag,calm)、「(海流が)ゆったりと滑るように流れていく(岬)」

の転訛と解します。(地名篇(その十七)の狩野川の河口の「我入道」の「入道」と同じ語源です。)ただし、田沢湖町と岩手県境にある楯状火山の乳頭(にゆうとう)山や、入道(にゅうどう)岳(新潟県)、入道ケ岳(三重県)などの山名の「ニユウトウ」または「ニュウドウ」は、やや異なり、マオリ語の

  「ニウ・タウ」、NIU-TAU(niu=glide,dress timber smooth with a axe;tau=ridge of a hill)、「(斧で材木を削ったように)表面が滑らかな山」

の転訛と解します。

 なお、男鹿地方には大晦日(かつては小正月)の夜、鬼の仮装で各戸を訪問し、泣く子、悪い子や怠け者を懲らしめ、除災招福をおこなう「なまはげ」の民俗行事(国指定重要無形民俗文化財)があります。この「ナマハゲ」は、「なもみ」(囲炉裏の火にあたってできる火だこ)ができるような怠け者の火だこを「剥ぎとる」=「怠け者を懲らしめる」意とされますが、これはマオリ語の

  「ナ・マハケ」、NA-MAHAKE(na=by reason of,on account of;mahake=small)、「子供の(躾の)為に(行う行事)」

の転訛と解します。石川県能登地方にも「あまめはぎ」と呼ぶ同じような行事がありますが、これはマオリ語の

  「アマイ・マハキ」、AMAI-MAHAKI(amai=giddy;mahaki=reduce,lesson)、「浮ついている者を教育する(減らす為に行う行事)」

の転訛と解します。

 

(2) 八郎(はちろう)潟

  秋田県西部、男鹿半島東部にあり、現在ではその大部分が干拓されましたが、干拓前は面積220平方km、最大水深4・7mの半鹹(はんかん)湖で、琵琶湖に次ぐ日本第二の湖でした。縄文晩期の海進期には太平山地と男鹿島間の水道でしたが、その後、雄物・米代両川の流出土砂などで両者が結ばれ、陸繋(りくけい)島になったため生じた海跡湖です。古くは大方、大潟と呼ばれ、八郎潟の呼称がみえるのは近世後期からです。近世に入って湖上交通が盛んとなり、漁業では村地先の潟の専用権が確立され、ワカサギ、ハゼ、フナ、シラウオ、ボラ、ウナギ、シジミなどを冬季は諏訪湖から技術導入した氷下引網、秋季は打瀬(うたせ)網で漁獲していました。

 潟名は、龍になった潟の主八郎の伝説に由来するとの説があります。

 この「はちろう」は、マオリ語の

  「パチ・ロウ」、PATI(shallow water,shaol)-ROU(reach or procure by means of a pole or a long stick,dredge for shellfish)、「浅瀬(の湖)で・(冬季には氷下引き網、秋季は打瀬網という)底引網で漁をする(湖)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」となった)

の転訛と解します。

 

(2−2) 山本(やまもと)郡

 古代から中世の山本郡は、山北(せんぼく)山本郡とも称し、横手盆地(後出(13)横手市の項を参照してください)の北端に位置し、北は陸奥国比内郡・鹿角郡、東は和賀郡・岩手郡、南は平鹿郡・由利郡、西は川辺郡(豊島郡)に接していました。郡名の初見は、『三代実録』貞観12年12月条で、和名抄は「也末毛止(やまもと)」と訓じます。建郡の時期は不明ですが、平安初期と考えられます。

 近世から現代にいたる山本郡は、寛文4年4月秋田藩の郡制整備により、出羽国檜山郡(後出(2−4)秋田郡・檜山郡の項を参照してください)を山本郡と改称して成立しました。北は陸奥国津軽郡、東から南は秋田郡、西は日本海に接します。

 この「やまもと」は、

  「イア・ママオ・ト」、IA-MAMAO-TO(ia=indeed,current;mao,mamao=distant,far away;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・遠くまで・(雄物川を)遡った(場所にある。地域)」(「ママオ」のAO音がO音に変化して「マモ」となった)

  または「イア・ママウ・ト」、IA-MAMAU-TO(ia=indeed,current;mau,mamau=grasp,wrestle with;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・(悪戦苦闘して)やっと・辿り着いた(地域)」(「ママウ」のAU音がO音に変化して「マモ」となった)

の転訛と解します。

(2−3) 仙北(せんぼく)郡

 古代から中世の仙北郡は、横手盆地(後出(13)横手市の項を参照してください)の山本・平鹿・雄勝の3郡を山北(せんぼく。仙北とも)3郡とも称し、また山北(仙北)郡とも称しました。山北の初見は『三代実録』元慶4年2月条、山北郡の初見は『吾妻鏡』文治6年1月条です。

 近世から現代にいたる仙北郡は、寛文4年4月秋田藩の郡制整備により、それまでの山本郡(前出(2−2)山本郡の項を参照してください)を仙北郡と改称しました。

 この「せんぼく」は、

  「テ(ン)ガ・パウク」、TENGA-PAUKU(tenga=Adam's apple,goitre;pauku=a thick closely woven cloak,swelling)、「(のど仏のように)膨らんだ山が・密集する(地域)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「セン」と、「パウク」のAU音がO音に変化して「ポク」から「ボク」となった)

の転訛と解します。

(2−4) 秋田(あきた)郡・檜山(ひやま)郡

 秋田郡は、古代からの郡名で、齶田・穐田とも書き、おおむね雄物川河口部以北の秋田平野を中心とする地域ですが、時代により郡域が異なります。『日本書紀』斉明紀4(658)年4月条に齶田(あぎた)浦、同5年3月の条に飽田(あきた)郡(令制郡ではありません。また、この条は4年4月条の異伝であろうとの説があります)としてみえ、『続日本紀』天平5(733)年12月条には「出羽柵を秋田村高清水の岡に遷す」とあります。建郡は、『日本後紀』延暦23年11月条で、「城を廃し、(秋田)郡と為す」とあります。『三代実録』貞観元年3月条に「出羽国秋田郡」がみえます。『和名抄』は「阿伊多」と訓じています。

 戦国時代末期、檜山安東家と湊安東家を統一した安東愛季・実季父子が秋田氏を名乗り、その領内を秋田郡と称しました。小鹿島・豊島郡・檜山郡と由利郡の一部を含みます。のち、天正19年豊臣秀吉もこの郡域を認めます。慶長7年から秋田藩領となり、秋田郡は小鹿島を含み旧秋田郡と比内郡を郡域としました。明治11年北秋田郡・南秋田郡に分かれます。

 檜山郡は、中世から近世の郡名で、戦国時代末期から寛文4年まで続きました。郡名の初見は、天正19年正月の豊臣秀吉朱印状で、米代川河口の檜山城に拠った檜山安東氏の支配していた地域です。寛文4年4月秋田藩の郡制整備により、それまでの檜山郡は山本郡と改称されました。

 この「あきた(あいた)」、「あぎた」、「ひやま」は、

  「アキ・タ」、AKI-TA(aki=dash,abut on;ta=dash,lay)、「(北の蝦夷地との)境を接する(場所に)・位置する(地域)」(「アキ」のK音が脱落して「アイ」となった)

  「ア(ン)ギ・タ」、ANGI-TA(angi=move freely;ta=dash,lay)、「(湊となる河口が洪水のたびに)移動する(場所に)・位置する(湊。その湊を中心とする地域)」(「ア(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「アギ」となった)

  「ヒイ・アマ」、HII-AMA((Hawaii)hii=to hold or carry in the arm as a child,tall as cliff or mountain;ama=outrigger of a canoe,thwart of a canoe)、「(カヌーの)舳先のように・高い山(その山に造られた城。その城が支配する地域)」(「ヒイ」の語尾のI音と「アマ」の語頭のA音が連結して「ヒヤマ」となった)

の転訛と解します。

(2−5) 河辺(かわべ)郡・豊島(としま)郡

 河辺郡は、古代から現代の郡名で、初見は『続日本後紀』承和10年12月条、建郡は『日本後紀』延暦23年11月条に「河辺府」(在河辺郡でなく、在出羽郡河辺郷とする説があります)がみえ、秋田郡の建郡の前後と考える説があります。雄物川下流を中心としますが、郡域は、時代によって異なります。和名抄は「加波乃倍(かはのべ)」と訓じます。

 和名抄所載の郷の現在地比定によれば、古くは北は雄物川河口以南および支流岩見川流域を含んで秋田郡、東は山北3郡、南は子吉川を境に飽海郡、西は日本海に接していたと考えられます。由利郡((16)由利郡の項を参照してください)成立後、雄物川以南は由利郡に属しました。中世末期から寛文4年までは岩見川流域を中心に豊島郡と称しました。寛文4年以降、雄物川下流部と支流太平川以南、岩見川流域を中心としました。平成17年1月市町村合併により秋田市に合併して河辺郡は消滅しました。

 この「かわべ(かわのべ)」、「としま」は、

  「カワ・ノペ」、KAWA-NOPE(kawa=heap,reef of rocks,passage between rocks and shoals;nope=constricted)、「(雄物川の下流の)水路が・(圧縮された)蛇行する(地域)」

  「ト・チマ」、TO-TIMA(to=drag,open or shut a door or a window;tima=a wooden implement for cultivating the soils)、「(潮流が潮の干満に伴って)上下する・(堀棒で掘り散らかしたような)屈曲が多い(川の流域の地域)」

の転訛と解します。

(3) 秋田(あきた)市ー久保田(くぼた)

 秋田市は、県中央部の雄物川下流にあり、日本海に面した県庁所在地です。

 男鹿半島の項で解説しましたように、『日本書紀』斉明紀4(658)年4月の条に齶田(あぎた)浦、同5年3月の条に飽田(あきた)郡(この条は4年4月の条の異伝であろうとの説があります)としてみえ、『続日本紀』天平5(733)年には「秋田村」とあります。『和名抄』は「阿伊多」と訓じています。藩政時代には、久保田(くぼた)といい、明治12年秋田県、秋田市となりました。

 この語源は、(1) 雄物川河口の「アクタ(悪土、芥)」から、
(2) 稲作に適しない「アクタ(悪田)」から、
(3) 「アギ(顎)」で顎に似た地形の場所の意、
(4) アイヌ語の「アキ(葦)・タイ(茂る所)」からという説があります。

 齶田浦の「アギタ」は、マオリ語の

  「ア(ン)ギ・タ」、ANGI-TA(angi=move freely;ta=dash,lay)、「(湊となる河口が洪水のたびに)移動する(場所に)・位置する(湊。その湊を中心とする地域)」

の転訛と解します。齶田浦は、雄物川河口にあったと比定されており、雄物川の意味((いつも溢れては)川筋を変えて速く流れる(川))と符合します。

 また、この「くぼた」は、

  「ク・ポタ」、KU-POTA(ku,kuku=firm,thickened;pota=broken,small)、「細かい(砂礫が)・固まった(土壌の土地。地域)」

の転訛と解します。(『日本後紀』延暦23年11月条には「秋田城は、…土地は痩せて穀物生産には不適当…。」とあります。)

 

(4) 米代(よねしろ)川

 米代川は、奥羽山脈の岩手県安代町に源を発して秋田県に入り、多くの支流を合流しながら、花輪(鹿角)盆地、大館盆地、鷹巣盆地、出羽山地を貫流し、能代平野から日本海に注ぎます。

 この「よねしろ」は、
(1) 古代の渟代(ぬしろ)から「ヌ(野)・シロ(砂地)」の意、
(2) 上流の安代の長者が流す米のとぎ汁で白濁する「米白」川の意、
(3) 「ヨネ(砂)・シロ(苗代)」の意、
(4) アイヌ語の「ノ(野)・シロ(大きい)・ル(路)」などの説があります。

 この「ヨネシロ」は、マオリ語の

  「イオ・ネイ・チロ」、IO-NEI-TIRO(io=strand of a rope,line;nei,nenei=waggle;tiro=look)、「綱が・尻尾を振っている(蛇行している)・ように見える(川)」

の転訛と解します。

 

(5) 能代(のしろ)平野ー奚后(きみまち)坂

 秋田県北西部、日本海に注ぐ米代川下流に能代平野があり、能代市があります。米代川は、河口付近では能代川と呼ばれています。

 この地名は、古く前出の『日本書紀』斉明紀4(658)年4月の条に齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)二郡の名としてみえ、『続日本紀』宝亀2(771)年の条には「野代湊」として渤海国使の来往がみえています。その後、元禄年間(1688〜1704年)に「野代」は地震で野に代わる不吉な名として「能代」に改めたといいます。

 この「ヌシロ」または「ノシロ」は、マオリ語の

  「ノチ・ロ」、NOTI-RO(noti=draw together,pinch;ro=roto=inside)、「内陸部で狭くなっている(川。またはその川が流れる平野)」

の転訛と解します。米代川が能代平野に出る直前の二ツ井狭窄部では、米代川に阿仁川、藤琴川、田代川、種梅川などが狭い範囲内で次々に合流しています。この二ツ井狭窄部をさして「内陸部で狭くなっている」と表現したものです。

 この狭窄部に、切り立った数十メートルの断崖に、奇岩怪石が散在する芝生の前庭が配された奚后(きみまち)坂の景勝地があります。この地名は、明治天皇東北巡幸時に、皇后からの便りをここで受け取ったことに由来するといいますが、古くからこの地名があったとすれば、これはマオリ語の

  「キミ・マチ」、KIMI-MATI(kimi=seek,look for;mati,matimati=toe,finger)、「(奇岩怪石の数が多いので、数を勘定するために両手の指では足りなくてさらに)指を探す(土地)」

の意と解します。

 

(6) 阿仁(あに)川

 秋田県北部、北秋田郡南部を北流する米代川の最大の支流の阿仁川の上流には、「阿仁マタギ」と呼ばれる特有の狩猟習俗を保持する人々が居住し、冬はツキノワグマ(以前はカモシカ)を狩り、夏はそれから得た民間薬を行商していたことで知られています。

 また、阿仁川中流には、近世において別子鉱山と並ぶ大鉱山であった阿仁十一カ山とも、阿仁六カ山とも呼ばれる金・銀・銅山の総称である阿仁鉱山がありました。

 この「あに」は、(1) 「ハニ(埴。赤土)」の転、
(2) アイヌ語の「アニ(居住する)・イ(谷)」の意などの説があります。

 この「アニ」は、マオリ語の

  「ア(ン)ギ」、ANGI(light air,fragrant smell,move freely)、「明るい(香わしい)空気に満ちている(地域。そこを流れる川)」または「(狩猟、行商のために)自由に移動する(人々の住む地域。その地域を流れる川)」

の転訛(「ア(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「アニ」となった)と解します。「鹿角」も含めて、古くからこのような狩猟民が住む地域であったのでしょう。

 

(6−2) 鹿角(かづの)郡・比内(ひない)郡・贄(にえ)の柵

 鹿角郡は、古代から現代の郡名で、米代川上流域の花輪盆地を中心とする地域で、古代には上津野(かつの)村として蝦夷地扱いで出羽国秋田城の管轄でした。郡名の初見は、文保2年12月の関東下知状に陸奥国鹿角郡とあり、建郡は西の比内郡、北の津軽平賀郡、東の糠部郡などと同様平安末期かとする説があります。中世から近世にかけては米代川の最上流部の二戸郡西部は当郡に属していたようです。近世には南部藩領で、西の秋田藩、北の津軽藩との間で境界争いが絶えませんでした。明治になって郡域・所属は変遷を重ね、同4年11月廃藩置県により秋田県鹿角郡となりました。

 比内郡は、中世陸奥国の郡名で、肥内、比那井とも書き、米代川中流の大館盆地と鷹巣盆地を中心とする地域で、北は陸奥国津軽平賀郡・津軽鼻和郡、東は陸奥国鹿角郡、南は出羽国豊島郡・山本郡、西は出羽国檜山郡・秋田郡に接しました。郡名の初見は、『吾妻鏡』文治5年8月条ですが、平安末期には成立していたとする説があります。この地には、鎌倉勢に追われて平泉から蝦夷地へ逃げようとした藤原泰衡が比内郡の贄(にえ)の柵で子飼いの郎党河田次郎の裏切りによつて首を討たれたと伝えられています。のち比内郡を浅利氏が支配しますが、やがて鹿角郡を押さえた南部氏と檜山城に拠った安東氏に挟撃され、天正のはじめに安東氏に降り、陸奥国比内郡は出羽国秋田郡に併合され、豊臣秀吉もこれを認めました。明治11年秋田県北秋田郡となります。

 この「かづの」、「ひない」、「にえ」は、

  「カハ・ツヌ」、KAHA-TUNU(kaha=boundary line of land etc.,edge,ridge of a hill;tunu=roast,broil)、「(温泉が多いことから)炙られているような・辺境の(地域)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「ツヌ」が「ツノ」となった)

  「ヒ・ヌイ」、HI-NUI(hi=raise,draw up,rise;nui=large,many)、「ひときわ・高い(山(独立峰の田代岳。1178m)がある。地域)」(「ヌイ」が「ナイ」となった)

  「ニエ」、NIE((Hawaii)nie=niele=to keep asking questions)、「(通行人を)誰何する(柵。関所。砦)」

の転訛と解します。

(6−3) 達子森(たつこもり)・サツ比内(さっぴない)・長内沢(おさない)

 秋田県大館市比内町(旧北秋田郡比内町)にアイヌ語地名が集中しているとされる地域があります。大館市街地の南の米代川の支流犀川のほとりに「美しい達子森の丘」があり、アイヌ語の「タプコプ」、(Aynu)tapkop(離れてぽつんと立っている円山)、「たんこぶ(のような山)」とされます(山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』草風館、1993年)。

 犀川の上流、支流の炭谷川の中流、日詰の東の「特に広い山ひだになっている処」があり、そこの川は「夏になると水がなくなる」、アイヌ語の「サツ・ピ・ナイ」、(Aynu)sat(水の涸れている、乾いた)-pi(石、小石)-nay(川)、「乾いた・石の・川」とされます(山田秀三、同上)。

 同じく犀川の支流に長内沢(おさない)川があり、この川は「山間を流れている上流ではいつでも水があるが、夏になるとそれが平地に出る長内沢部落の辺で水が川床の砂利層に吸い込まれてなくなるといい、アイヌ語の「オ・サツ・ナイ」、(Aynu)o(尻、川尻(川口))-sat(水の涸れている、乾いた)-nay(川)、「川口が・乾いている・川」とされます(山田秀三、同上)。

 縄文時代には、北海道にも東北地方にもアイヌ族がいた痕跡がなく、北海道南部地方に7世紀以降にはじめてアイヌ族の痕跡が出てきますので、これらの地名は最初縄文語でつけられたものが、仮にその後この地にアイヌが住むようになったとしても、この縄文語地名がそのままアイヌ語にあっても引き継がれたものと考えます。なお、「ペツ」地名は現在のところアイヌ語地名と考えられますが、それ以外は縄文語で解釈できるものは縄文語地名であった可能性が高いと思われます。

 この「たつこもり」、「さっぴない」、「おさない」は、マオリ語の

  「タツ・カウ・マウリ」、TATU-KAU-MAURI(tatu=be at ease,be content,agree;kau=alone,bare,only;mauri=a variety of totara timber,dark in colour,and light in weight,valued for making canoes)、「(のんびりと満足している)きれいに膨らんだ・独立した(山で)・カヌーの製作に適した木(が生えている。山)」(「カウ・マウリ」のAU音がO音に変化して「コ・モリ」となった)

  「タピ・ナイ」、TAPI(tapi=earth oven,find fault with;nai=nei,neinei=Dracophylium latifolium,a shrub)、「(下に石を敷き詰めた蒸し焼き穴のような)石ころだらけの・灌木の生えている(場所。そこを流れる川)」(「タピ」が「サッピ」となった)

  「オ・タハ・ナイ」、O-TAHA-NAI(o=the...place of;taha=side,margin,edge,part,portion,pass on one side;nai=nei,neinei=Dracophylium latifolium,a shrub)、「例の・(川の水が砂利層の)下を潜って流れる(場所で)・灌木が生えている(ところ)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」から「サ」となった)

の転訛と解します。

(7) 花輪(はなわ)(鹿角(かづの))盆地ー毛馬内(けまない)・尾去沢(をさりざわ)・湯瀬(ゆぜ)温泉・後生掛(ごしょがけ)温泉

 米代川の上流に花輪(鹿角)盆地があります。花輪盆地の南半部、米代(よねしろ)川の上流部には南部藩の代官所が置かれた花輪地区があり、北半部の大湯川と小坂川の合流点には同じく南部藩の代官所があった毛馬内(けまない)地区があります。この合流した川は、すぐ下流で米代川に合流します。

 この鹿角盆地の周辺には、狭い範囲内に銅、鉛、亜鉛、金、銀などの他種類の金属を含む数百条の割れ目充填鉱床があった尾去沢(をさりざわ)鉱山や、明治末期から大正はじめにかけて日本最大の銅生産量を誇った小坂(こさか)鉱山などの日本有数の鉱山がありました。

 また、盆地周辺には環状列石遺跡が近くにある大湯温泉や、米代川上流には、十和田八幡平国立公園の湯瀬(ゆぜ)温泉(単純硫化水素泉)、後生掛(ごしょがけ)温泉(酸性硫化水素泉)など温泉が多くあります。

 この鹿角盆地(郡、市)の「かづの」は、『三代実録』元慶2(878)年の条に「上津野(かつの)」とあります。

 その語源は、(1) 「カミツ(米代川の上流に開けた)・ノ(野)」、
(2) 「カハウチ(川内)」の約の「カチ」・「ノ(野)」と解する説があります。

 この「カヅノ」は、マオリ語の

  「カハ・ツヌ」、KAHA-TUNU(kaha=boundary line of land etc.,edge,ridge of a hill;tunu=roast,broil)、「(温泉が多いことから)炙られているような・辺境の(地域)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「ツヌ」が「ツノ」となった)

の転訛と解します。

 また、花輪の「はなわ」は、塙(はなわ)で、(米代川の河岸段丘の)高い所の意とされています。

 この「ハナワ」は、マオリ語の

  「ハ・(ン)ガワ」、HA-NGAWHA(ha=breathe,flavour,what!;ngawha=burst open,split of timber,boiling spring)、「(空気が)香わしい・(木が二股に裂けたように米代川と大湯川の)川が二つに裂けている(地域。盆地)」または「(空気が)香わしい・沸騰する温泉が湧出する(地域。盆地)」(「(ン)ガワ」のNG音がN音に、WH音がW音に変化して「ナワ」となった)

  または「ハ(ン)ガ・ワ」、HANGA-WA(hanga=make,work,head of a tree;wa=definite space,unenclosed country,be far advanced)、「木のてっぺんのような(米代川の上流の高地の)・辺境の地(地域)」(「ハ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ハナ」となった)

の意と解します。

 毛馬内の「けまない」は、(1) 「ケミナイ(検見内)」から、
(2) アイヌ語の「ケ(葦)・マ(沼)・ナイ(谷、川)」から、
(3) 「ケマ(漁具)・ナイ(谷、川)」の意と解する説があります。

 この「ケマナイ」は、マオリ語の

  「ケ・マ(ン)ガイ」、KE-MANGAI(ke=strange,different;mangai=mouth)、「特異な口(川を併せて呑む場所(川の合流点=口)が二段階になっている特異な地形の場所)」

の転訛(「マ(ン)ガイ」のNG音がN音に変化して「マナイ」となった)と解します。

 尾去沢の「オサリザワ」、小坂の「コサカ」は、マオリ語の

  「オタ・リ・タワ」、OTA-RI-TAWHA(ota=dregs;ri=bind;tawha=crack)、「滓(のような鉱脈)が付着している割れ目(がある山)」

  「コウ・タカ」、KOU-TAKA(kou=knob,stump;taka=heap,heap up)、「高いところにある瘤のような山」

の転訛と解します。

 湯瀬温泉の「ユゼ」、後生掛温泉の「ゴショガケ」は、マオリ語の

  「イ・ウテ」、I-UTE(i=ferment;ute,whakaute=care for)、「病気を治療する泡を立てて噴出する(湯)」

  「(ン)ガウ・チオ・カケ」、NGAU-TIO-KAKE(ngau=bite,affect;tio=sharp,cry;kake=ascend,overcome)、「(皮膚を刺すような)鋭い刺激が人を圧倒する(湯)」(「(ン)ガウ)」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

の転訛と解します。

 

(8) 発荷(はっか)峠

 青森県の部ですでに解説した十和田湖の南の入り口の峠で、展望の良いことで知られています。峠からは九十九折りの国道103号が湖岸に通じています。

 この「ハッカ」は、マオリ語の

  「ハ・ツカハ」、HA-TUKAHA(ha=breathe;tukaha=strenuous,hasty)、「息急(いきせ)き切(って登)る(坂、峠)」(「ツカハ」の語尾のH音が脱落して「ツカ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 田沢(たざわ)湖ー辰子潟(たつこがた)・クニマス

 鹿角郡の南に、日本で最大水深(423メートル)を持ち、摩周湖に次ぐ第2位の透明度を誇り、ほぼ円形の陥没カルデラ湖である田沢湖があります。湖岸から急に深くなり、湖底の中央はほぼ平坦です。水位の年間変動は1メートル程度で、冬季も氷結しません。

 この「たざわ」は、湖の北東の田沢集落の名にちなむもので、「タ(水田)・サワ(タマ川の沢)」の意とする説があります。

 この「たざわ」は、マオリ語の

  「タタ・ワ」、TATA-WA(tata=bail water;wa=place)、「船のあか水(が流れ出すように湖の水)が流れ出す場所(湖)」(「タタ」が「タザ」となった)

の転訛と解します。

 また、田沢湖の別名は、悲恋のすえ湖に身を投げて龍神に化身し、湖の主になったという辰子姫伝説にちなんで辰子潟(たつこがた)といいますが、この「タツコガタ」は、マオリ語の

  「タ・ツコフ・(ン)ガタタ」、TA-TUKOHU-NGATATA(ta=the;tukohu=a cylindrical basket used for holding food while steeping in water,or while cooking in a hot spring;ngatata=split,open)、「(一箇所)切れている(流れ出す川がある)・円筒形の魚篭(のような湖)」(「ツコフ」のH音が脱落して「ツコ」と、「(ン)ガタタ」のNG音がG音に変化し、反復語尾の「タ」が脱落して「ガタ」となった)

の転訛(語尾の「フ」が脱落した)と解します。田沢湖の地形をよく表現しています。辰子姫伝説は、このマオリ語源地名から付会された可能性が高いと思われます。

 田沢湖には、かつて辰子姫伝説(悲恋のすえ湖に身を投げて龍神と化し、投げ捨てた松明がクニマスとなったとも、自らの美貌を永遠に保ちたいと観音に願掛けして霊泉の水を飲んで龍神と化し、帰らぬ娘を捜して龍となった姿に驚愕した母が投げ捨てた松明がクニマスとなったともいいます)にちなむ陸封性のクニマスが生息していましたが、昭和15(1940)年ごろに湖の東を流れる強酸性の玉川の水を引き入れ、発電を開始したのに伴っていったん絶滅しました。クニマスは、体長30〜40cm、成魚は全体に黒色で、美味な高級魚とされていました。クニマスの語源は、江戸時代に田沢湖を訪れた秋田藩主がクニマスを食べ、お国産の鱒ということで国鱒と名付けられたと伝えられています。

 平成22年12月に山梨県の西湖で絶滅したと考えられていたクニマスが生育しているのが確認されました。

 この「くにます」は、

  「クニ・マツ」、KUNI-MATU((Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle,scorch;matu=fat,richness of food,kernel of a matter)、「(松明の燃えさしが魚になったという伝説が残る)焼けぼっくいのような(黒い色をした)・美味しい(魚)」(「マツ」が「マス」となった)

の転訛と解します。

(10) 玉(たま)川ー抱返(だきがえり)渓谷

 玉川は、八幡平大深岳付近に源を発し、仙北郡東部を南流して,大曲市花館で本流に合流する雄物川最大の支流です。

 上流の渋黒川流域にある玉川温泉から強酸性の水が流れ出すため、「玉(たま)川の毒水」として有名でした(現在は改良対策の実施によって改善されています)。

 田沢湖の南の玉川の中流には、急峻で狭いので、すれ違うとき抱き合って振り返ったことにちなむという抱返(だきがえり)渓谷の景勝地があります。

 この「タマガワ」は、マオリ語の

  「タ・マ(ン)ガ・ウア」、TA-MANGA-UA(ta=the;manga=branch of a river;ua=expostulation)、「(毒水だから近寄るなと)忠告する川の支流」

の転訛と解します。

 この「ダキガエリ」は、マオリ語の

  「タキ・(ン)ガエレ」、TAKI-NGAERE(taki=take to one side,track;ngaere=quake,oscillate)、「(嶮しくて)震えながら路を辿る(渓谷)」

の転訛と解します。

 

(11) 雄物(おもの)川

 雄物川は、奥羽山脈の神室(かむろ)山地に源を発し、皆瀬川などと合流して横手盆地を北流し、玉川と合流して西流し、出羽山地を蛇行しながら秋田平野に入り、日本海に注ぎます。日本三大急流の一つとされています。天長7(830)年の文献には「秋田河」、正保4(1647)年には「御物川」(『出羽国御絵図』)、元文・延享年間には「御膳川」(『久保田城下絵図』)、明治7年には「雄物川」(『本県触示留』)とあります。

 この語源は、
(1) 山北三郡(仙北、平鹿、雄勝郡)の貢物(おもの)を舟で運ぶ川、
(2) 木材など大物(おおもの、だいもつ)を運ぶ川、
(3) オモ(重)ノ(野)で、重要な川、
(4) オモ(重)ヌ(沼)の転で、河口に沼や湿地のある川、
(5) アイヌ語でオム・ナイ(塞がる川)などの説があります。

 この「オモノ」は、マオリ語の

  「オ・モノ」、O-MONO(o=the place of,belonging to;mono=plug,caulk,disable by means of incantations)、「しばしば・(河口が)塞がる(そのために氾濫する。川)」

  または「オモ・(ン)ガウ」、OMO-NGAU(omo=gourd;ngau=wander,raise a cry,bite,hurt,attack)、「さまよう(蛇行する)・(水を溜める)ひょうたん(のような。川)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった) 

の転訛と解します。山形県の最上川の支流で米沢市を流れる「鬼面(おもの)川」や、高知県宿毛市山奈町山田の「大物川(おものかわ)」も同じ語源でしょう。

 なお、類例として、愛媛県の面河(おもご)川、面河渓がありますが、これも後者と同じ語源で、

  「オモ・(ン)ガウ」、OMO-NGAU(omo=gourd;ngau=wander,raise a cry,bite,hurt,attack)、「さまよう(蛇行する)・(水を溜める)ひょうたん(のような。川)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった) 

の転訛と解します。

 

(12) 平鹿(ひらか)郡

 秋田県南東部、横手盆地の南半部に平鹿郡があり、平鹿(ひらか)町があります。古代からの郡名ですが、その範囲はやや異なっています。この横手盆地は、奥羽山脈と出羽山地の間にあり、奥羽山脈側には雄物川の支流、皆瀬川、旭川等によって形成された扇状地が発達しています。

 この「ひらか」は、「ヒラ(傾斜地)・カ(処)」の意とされています。

 この「ヒラカ」は、マオリ語の

  「ピラカラカ」、PIRAKARAKA(fantail)、「扇の尾をもつ駒鳥(扇状地を流れる川)」

の転訛(「ピラカ」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒラカ」となり、同音反復の語尾「ラカ」が脱落した)と解します。

 石川県金沢平野の南に大扇状地を形成する手取川は、古名を「比楽(ひらか)河」といい、『延喜式』主税上の部の諸国運漕雑物功賃の条に越前国比楽(ひらか)湊の名がみえ、今も手取川河口の石川県石川郡美川町に平加(ひらか)町の名が残っており、同じ語源です。青森県南津軽郡平賀町も、浅瀬石川の扇状地の上に位置しており、同じ語源です。

 

(13) 横手(よこて)市

 横手盆地のほぼ中央に横手市があります。

 この「よこて」は、「平鹿郡の平地の横」の意とする説などがあります。

 この「ヨコテ」は、マオリ語の

  「イオ・コテ」、IO-KOTE(io=muscle,line;kote=squeeze out,crash)、「絞られて粉々になった綱(狭い峡谷から一挙に盆地に出て扇状地を形成した川。そのあたり)」

の転訛と解します。

 

(13−2) 雄勝(おがち)郡

 雄勝郡は、古代から現在にいたる郡名で、雄物川の上流部、横手盆地の南端に位置し、北は平鹿郡、東は奥羽山脈をもって陸奥国磐井・胆沢・和賀の3郡、南は栗原・玉造の両郡、西は由利郡に接します。建郡は『続日本紀』天平5年12月条に出羽柵を秋田村に遷し、「雄勝村に郡を建つ」とします。和名抄は「乎加知(おかち)」と訓じます。

 この「おかち」は、

  「オ・カチ」、O-KATI(o=of,belonging to;kati=block up,shut of a passage,barrier)、「(陸奥国と出羽国との)交通を阻む・(と言ってもよい)場所(地域)」

の転訛と解します。

(14) 院内(いんない)銀山

 秋田県の南端、雄勝郡雄勝町の西部に、かつて17世紀の初頭から20世紀はじめまでにかけて、石見銀山、生野銀山と並ぶ大銀山であった院内銀山がありました。

 発見は慶長11(1606)年といわれ、一時は人口1万人、幕府運上銀200貫を越えましたが、常に湧水に悩まされ、その後文化10(1813)年に金の抽出に成功し、再び盛況を取り戻し、明治期には古川鉱業の手によって飛躍的な産出の増加を見せましたが、終戦後鉱脈の枯渇によって廃山となりました。

 この「インナイ」は、マオリ語の

  「イヌ・ヌイ」、INU-NUI(inu=drink;nui=large,numerous)、「大量の水を呑む(坑内に大量の湧水がある鉱山)」

の転訛と解します。

 

(15) 小比内(こびない)山

 雄勝町の院内銀山の東、雄勝町と湯沢市の間に、小比内山(1,004メートル)があります。この山は、「小」とい名がつけられてはいますが、南の栗駒国定公園の山々の前に屹立する堂々たる山容のほぼ独立した大きな山で、西側には役内川が、東側には高松川が北流し、小比内山の北で雄物川に合流します。高松川の上流には、日本三大霊場の一つと称する川原毛温泉の川原毛地獄があります。

 この「コビナイ」は、マオリ語の

  「コピ・ヌイ」、KOPI-NUI(kopi=hold between the legs,doubled together,gorge of a river;nui=large)、「両脚(二つの川)に挟まれた大きな(山)」

の転訛と解します。

 この「コピ」の類例として、岐阜県美濃加茂市に古井(こび)町があります。この町は、木曽川に合流する飛騨川の右岸の合流点付近にあり、その対岸、木曽川の左岸付近の地名は川合(かわい)です。この「コビ」は、マオリ語の

  「コピ」、KOPI(doubled together)、「二つの川が合流するところ」

の転訛であることは、いうまでもありません。しかも、大変珍しいことに、合流点を挟んで同じ意味を持つ「古井」と「川合」の地名があるという、典型的ないわゆる「双子地名」です。

 さらに、岩手県胆沢郡胆沢町の胆沢川の石淵ダムの横に媚(こび)山(684メートル)があります。この「コビ」は、石淵の名に明らかなように「峡谷(gorge of a river)」の意味です。

 

(16) 由利(ゆり)郡・飽海(あくみ)郡

 由利郡は、古代から現代までの郡名で、由里、油利、油梨、遊里、百合などとも書き、秋田県の南西部、雄物川流域の南部から鳥海山山麓にかけての広い地域が由利郡の地域です。郡名の初見は『吾妻鏡』建保元年5月条ですが、建郡は平安末期に飽海郡の北部(雄波・由利・余部の3郷)および河辺郡の南部(川合・中山・邑知・田郡・大泉の5郷)を割いて由利郡としたとみる説があります。平成17年10月市町村合併により由利郡は消滅しました。

 この郡名は、砂丘地を指す「ユリ、ユラ」に由来し、「砂がゆすり上げられた土地」と解する説があります。

 この「ユリ」は、マオリ語の

  「イフ・リ」、IHU-RI(ihu=nose,bow of a canoe;ri=screen,protect,bind)、「(カヌーの)舳先(のようにそそり立った鳥海山)が・衝立となっている(地域)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」となった)

の転訛と解します。

 飽海郡については、山形県の(3)飽海(あくみ)郡の項を参照してください。

 

(17) 象潟(きさかた)

 秋田県南西端にかつて東の松島と対比される「象潟」の景勝地がありました。由利郡象潟町から北となりの金浦(このうら)町南部におよぶ入り江で、東西1.5キロメートル、南北5キロメートルの小さな地域に、俗に八十八潟九十九島といわれる、松島を凝縮したような風景が展開していました。

 『奥の細道』で芭蕉は”松島は笑ふがごとく象潟はうらむがごとし”と述べ、”象潟や雨に西施がねぶの花”と詠んでいます。

 この地は、文化元(1804)年の象潟地震による地盤隆起によって干上がり、のちに水田化されました。

 古くは蚶方(きさかた。『延喜式』)といい、室町時代は蚶潟、応永年間(1394〜1428)に象潟となっています。

 この地名は、(1) 古くはここでキサガイ(巻き貝の一種)が採れたから、
(2) 「キサ(刻)・カタ(潟)」からとする説があります。

 この「キサカタ」は、マオリ語の

  「キ・タ・カタ」、KI-TA-KATA(ki=full,very;ta=dash,beat,lay;kata=opening of shellfish)、「たくさんの(小島が)・ある・貝が口を開いたような場所(潟)」

の転訛と解します。

トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引


6 山形県の地名

 

(1) 出羽(でわ)国

 出羽は、現在の山形県と鹿角市、小坂町を除く秋田県の地域の旧国名です。古くは越後国でしたが、和銅元(708)年に越後国の一部として出羽郡が置かれ(『続日本紀』)、和銅5(712)出羽郡に年陸奥国最上郡および置賜郡を割いて併せ、出羽国として分離しました。この「デワ」は、越後国の北方に突き出た「出端(いでは)」の意と解されています。

 この「デワ」は、マオリ語の

  「タエワ」、TAEWA(foreigner,cold)、「(外国人である)蝦夷(の住む。国)」(AE音がE音に変化して「テワ」から「デワ」となった)

  または「テ・ワ」、TE-WHA(te=the;wha=be disclosed,get abroad)、「最近状況が明らかになつた土地(国)」

の転訛と解します。

 

(2) 鳥海(ちょうかい)山

 鳥海山は、秋田・山形両県にまたがる東北第二の山で、出羽富士と呼ばれる秀麗な二重式の成層火山です。新火山の東鳥海山は七高山、伏拝山などの外輪山の中に北に開いた馬蹄形の爆裂火口があり、その中に最高点の新山(享和岳。2,236メートル)があります。その山頂は、山形県に属しています。旧火山の西鳥海山は、笙ケ岳、月山森などの外輪山に囲まれて、鍋森や扇子森などの中央火口丘と、直径約200メートルの火口湖「鳥(とり)ノ海」があります。

 奈良時代から霊山として信仰され、頂上には出羽国一宮大物忌(おおものいみ)神社が祀られ、平安時代には修験の山として栄えました。

 山名は、(1) 山頂の火口湖「鳥(とり)ノ海」からとする説、
(2) 「トウ(峠)・ウミ(海、湖)」の転、
(3) 「トリ(切り取る、崩壊する)・ウミ(海、湖)」の意とする説などがあります。

 この「トリノウミ」は、マオリ語の

  「トリ・(ン)ガウ・フミ」、TORI-NGAU-HUMI(tori=cut;ngau=bite,hurt,attack;humi=abundant)、「(東鳥海山の大爆裂火口部分が)大量に・食い・千切られている(山。その火口湖)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「フミ」のH音が脱落して「ウミ」となった)

の転訛(語尾の「キ」が脱落した)と解します。

 倉稲魂(うかのみたま)神と同神格とされる大物忌神をまつる大物忌神社の「オオモノイミ」は、マオリ語の

  「アウ・モノ・イミ」、AU-MONO-IMI(au=sea;mono=disable by means of incantations,an incantation to disable an army;imi(Hawaii)=seek,look for)、「海難を避ける呪術を行う(神)」

の転訛と解します。

 

(3) 飽海(あくみ)郡・遊佐(ゆざ)郡

 飽海郡は、古代から現在(戦国時代から江戸時代初期までを除く)にいたる郡名で、庄内地方の中央を流れる最上川の北側の鳥海山を含む地域で、北は古くは子吉川を境として河辺郡(のち由利郡)、東は雄勝郡(由利郡成立まで)および最上郡、南は田川郡、西は日本海に接しました。『和名抄』は「阿久三(あくみ)」と訓じます。

 この「あくみ」は、(1) 古代は飽海郷あたりが最上川の遊水池となっており、「阿古(あこ)海」と呼ばれていたものの転、
(2) 「アク(低地、湿地)・ミ(辺)」の意とする説などがあります。

 この「アクミ」は、

  「アク・ミ」、AKU-MI((Hawaii)aku=bonito,skipjack;mi=urine,river)、「鰹の(肌の縞模様の)ような・川が流れる(地域)」(秀麗な裾野を引く鳥海山の山腹には綺麗な放射状の谷が刻まれていますが、この放射状の谷を鰹の肌の縞模様に譬えた秀抜な地名です。)

の意と解します。

 遊佐郡は、戦国時代から寛文4年までの郡名で、北は由利郡、東は最上郡、南は櫛引郡(寛文4年以降は田川郡)、西は日本海に接します。古代から中世には飽海郡と称していましたが、戦国時代にいたり、武藤氏が庄内平野をほぼ平定したのち、最上川以北の地域、川北とも言っていた地域を遊佐郡と称したものが、天正18年および文禄3年の太閤検地により公認されたことによります。なお、飽海郡の名も伝統的に使用されており、寛文4年幕命により飽海郡と旧に復しました。

 この「ゆざ」については、次の(4)遊佐町の項を参照してください。

 

(4) 遊佐(ゆざ)町ー吹浦(ふくら)

 遊佐町は、庄内平野の北端、秋田県に接し、日本海に臨む町で、月光川水系の河口には吹浦(ふくら)の漁港があり、海岸線には砂丘が連なっています。「遊佐」は、古代以来の駅名(駅馬十疋を置きました)、郷名、荘園名に見えています。

 この「ゆざ」は、ユリ、ユラと同じく砂丘地を指す地名で、「砂がゆすり上げられた土地」と解する説があります。

 この「ユザ」は、マオリ語の

  「イフ・タ」、IHU-TA(ihu=nose,bow of a canoe;ta=dash,beat,lay)、「(その先がカヌーの舳先のようにそそり立つ鳥海山の)山麓(鼻の上)に・位置している(地域)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」となった)

の転訛と解します。

 吹浦の「ふくら」は、(1) 河川や海岸の袋状の土地とする説、
(2) 「フク(膨れる)・ラ(接尾語)」で湾曲した浜の意とする説があります。

 この「フクラ」は、マオリ語の

  「プク・ラ」、PUKU-RA(puku=swelling,knob;ra=wed)、「瘤(砂丘)が連続している(場所)」

の転訛と解します。古代に渤海からの使節を乗せた船が漂着したという能登半島の西岸、石川県羽咋郡富来町福浦(ふくら)など、海岸に多くある「フクラ」地名も同じ語源でしょう。

 

(5) 酒田(さかた)市ー山居(さんきょ)倉庫

 庄内平野は、かつて中央部北寄りを最上川が東西に貫流して日本海に注いでおり、北西端の吹浦(ふくら)丘陵と、南西端の加茂台地から北に延びる山地を結ぶ沿岸洲に囲まれた内湾状の潟湖でしたが、最上川や、これに合流する赤川などがつくる扇状地性の三角州が次第に発達してつくられた平野です。

 酒田湊は、最上川河口の湊で、室町時代の『義経記』には「酒田湊」と、『吾妻鏡』には「坂田」としてみえ、鎌倉時代末には有数の湊として著名でした。ほかに「狭潟」、「砂潟」とも書いています。

 この「さかた」は、(1) 砂の干潟の意、
(2) 「サカ(狭い)・カタ(潟)」の意、
(3) 「サ(接頭語)・カタ(潟)」の意、
(4) 「サキ(先)・タ(処)」の意などとする説があります。

 この「サカタ」は、マオリ語の

  「タ・カタ」、TA-KATA(ta=the;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような地形の場所(潟)」

の意と解します。

 また、河口近くの中州、山居(さんきょ)町には、米穀取引の拠点である山居倉庫があります。この「サンキョ」は、マオリ語の

  「タネ・キオキオ」、TANE-KIOKIO(tane=male,showing manly qualities;kiokio=lines in tatooing)、「男性を表す入れ墨の線のような水路(に囲まれた中州)」(「タネ」が「サン」と、「キオキオ」の反復語尾が脱落して「キョ」となった)

の転訛(同音反復の語尾「キオ」が脱落した)と解します。

 

(5−2) 出羽(いでは)郡・都岐沙羅(つきさら)柵・田川(たがわ)郡・櫛引(くしびき)郡

 出羽郡は、古代の郡名で、初見は『続日本紀』和銅元年9月条に「越後国が新たに出羽郡を建てたいと言上したのでこれを許した」とあります。当初の郡域は、(1)現代の東田川郡の地域、(2)庄内地方から由利地方にわたる地域、(3)最上川以南の地域とする説があり、(3)が有力視され、出羽柵および郡衙は現鶴岡市藤島町附近にあったと考えられています。建郡に先立ち、大化の改新以降越国から北方への開拓が海沿いに行われており、『日本書紀』斉明天皇4年7月条には都岐沙羅(つきさら)柵がみえ(現鶴岡市鼠ヶ関に比定する説があります)、天武天皇11年4月には越後夷伊高岐那らが俘70戸を請うて1郡をつくることを願い出て許されています(現鶴岡市付近に比定する説があります)。

 和銅5年9月出羽国が出羽郡に陸奥国最上郡および置賜郡を割いて併せて建国され、出羽郡は北部が出羽郡、南部が田川郡に分割されたと考えられます。なお、出羽郡の名は、中世以降史料から消え、平安時代末に消滅したものと考えられます。

 田川郡は、古代から現代までの郡名で、和銅5年9月出羽国の建国にともない旧出羽郡の南部、赤川中・上流域に位置したと考えられます。和名抄は「多加波(たかは)」と訓じます。中世には、領域支配が荘と国衙領に再編され、元来大泉荘内の意味の「庄内」・「庄中」が飽海・田川両郡名の総称となり、私的名称としての櫛引郡が発生し、戦国時代の末期にはこれが公的に認められました。天正18年以降は、最上川以南、おおむね赤川の西が田川郡、東が櫛引郡となり、寛文4年幕命により田川・櫛引両郡が合併して田川郡となり、明治11年おおむね赤川を境として東が東田川郡、西が西田川郡となりました。

 櫛引郡は、中世から近世までの郡名で、戦国時代に庄内地方のほぼ全域を支配下に収めた武藤氏が私的名称として最上川以南(川南)の赤川以東の東半分を櫛引郡と称したことにはじまり、これが公的に天正18年以降の太閤検地で認められ、のち寛文4年幕命により田川・櫛引両郡が合併して田川郡となり、櫛引郡は消滅しました。

 この「いでは」、「つきさら」、「たかは」、「たがわ」、「くしびき」は、

  「イ・タエワ」、I-TAEWHA(i=past tense,beside;taewha=foreigner,cold)、「(他の国から来た)入植者(が住む土地)の・傍ら(に置いた国府が所在する地域)」(「タエワ」のAE音がE音に変化して「テワ」となった)

  「ツキ・タラ」、TUKI-TARA(tuki=beat,attack;tara=point as a thorn,peak of a mountain,side wall of a house)、「(家の外壁のような)切り立った岩壁が・削られた(場所。そこに設けられた柵)」

  「タカ・ワ」、TAKA-WHA(taka=fasten a fish-hook to a line;wha=get abroad,be disclosed)、「(釣り糸に釣り針を結びつけたように)川(のほとり)に・(他の国からの)入植地がぶら下がっている(地域)」(「ワ」のWH音がH音に変化して「ハ」となった)

  「タ(ン)ガ・ワ」、TANGA-WHA(tanga=be assembled;wha=get abroad,be disclosed)、「(他の国からの)入植地が・集合した(地域)」(「タ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「タガ」と、「ワ」のWH音がH音に変化して「ハ」となった)

  「クチ・ピキ」、KUTI-PIKI(kuti=draw tightly together,contract,pinch;piki=climb,frizzled,closely curled of hair,press close together)、「(縮れ毛のような)蛇行する川が・密集して流れる(地域)」

の転訛と解します。

 

(6) 最上(もがみ)川

 最上川は、福島県境の吾妻火山に源を発し、米沢、長井、山形、新庄の4盆地を貫流し、出羽山地を最上峡で横切って庄内平野に出て、酒田市南部で日本海に注いでいます。山形県だけを流れる川で、水量が豊富で、球磨川、富士川とともに、日本三大急流の一つといわれています。古くから水運が発達し、山形県内陸部の大動脈でした。江戸時代までは、左沢から上流を松川、中流を最上川、清川から下流を酒田川と呼んでいました。

 『続日本紀』和銅5(712)年の条に「最上郡」がみえ、『延喜式』にも「最上駅」がみえます。『和名抄』には「毛加美」と訓じられています。この古代の最上郡は、今の東・西・南村山郡のあたりだったようです。

 この「もがみ」は、郡名が先とする説が多いようで、
(1) 仙北地方(秋田県)の上(かみ)にあるから、
(2) 「モ(接頭語)・カミ(上)」で「高い所(台地)」の意、
(3) 「モモ(ママ(崖))・カミ(上)」で「崖の上」(最上峡を指す)の意などの説があります。

 この「モガミ」は、川名が先に付いたもので、マオリ語の

  「マウ(ン)ガ・ミ」、MAUNGA-MI(maunga=mountain;mi=urine,river)、「(庄内平野と内陸部を隔てる出羽山地の)山を・(貫いて)流れる川(またはその流域)」(「マウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「モガ」となった)

  または「モカ・ミ」、MOKA-MI(moka=end,muzzle;mi=urine,river)、「口輪がかかっている(新庄盆地からの出口が出羽山地の山で狭められている)・川(またはその流域)」

の転訛と解します。

 

(7) 出羽三山(羽黒山、湯殿山、月山)

 山形県のほぼ中央部、朝日山地の北端部に位置する出羽三山は、古くからの純粋な信仰の山です。もとは別々の山神信仰でしたが、羽黒行者が熊野三山にちなみ、修験の聖地として「出羽三山信仰」をつくりあげました。

 羽黒山(はぐろさん。414メートル)は、山形県東田川郡羽黒町、藤島町、立川町にまたがる羽黒派修験の霊場で、山頂に羽黒(出羽)神社と、冬季に月山神社、湯殿山神社をあわせて祀る出羽三山合祭殿があります。この神社がある山頂は、月山の火山泥流の末端が第三紀層山地に乗り上げたところで、月山から細長い台地が延びた先端にあります。

 山名は、開山した崇峻天皇の皇子蜂子(はちのこ)皇子を導いた三本脚のカラスにちなむ(羽が黒い)といい、『延喜式』の式内社「伊で波(いでは)神社」が羽黒山にあったとする伝承がありますが、確証はないようです。羽黒山が歴史に登場するのは、鎌倉時代以降で、『吾妻鏡』などには「出羽国羽黒山」とあります。

 その語源は、(1) 「ハ(端)・クロ(小高いところ)」の意、
(2) または「ハ・クラ(場所、処)」の転で、いずれも「山の端の神がいますところ」とする説があります。

 この「ハグロ」は、マオリ語の

  「ハク・ロ」、HAKU-RO(haku=complain of;ro=roto=the inside)、「(月山山系の)内ふところにあって(この山だけ山容が違うために)不満を言っている(ように見える山)」

の転訛と解します。

 月山(がっさん。1,984メートル)は、東田川郡羽黒町、立川町、西村山郡西川町の境をなしています。第三紀中新世の地層からなる出羽山地のなかに噴出した成層火山で、なだらかな山頂付近や東側斜面とは対照的に、北西側は大きく崩壊した馬蹄形の爆裂火口の急斜面となっています。

 蜂子皇子の開山にかかる古い修験の霊場で、山頂の式内名神大社月山神社は月読命を祀ることから月山と称したといいます。また、その形から犂牛(くろうし)山、臥牛(がぎゅう)山とも呼ばれました。

 この「ガツ」は、マオリ語の

  「(ン)ガツ」、NGATU(crushed)、「崩れた(山)」

の転訛と解します。これから月山の呼称が先に成立して、それにちなむ月読命を祀る月山神社が後から勧請されたものでしょう。

 なお、島根県能義郡広瀬町にも月山(がっさん。184メートル)があります。頂上の富田(とだ)城は、鎌倉時代から諸氏が支配しましたが、とくに尼子経久の大永年間(1521〜28)には山陰・山陽支配の主城となりました。悲運の武将山中鹿之介の出た城でもあります。この山の麓は急崖で知られており、山名は出羽の月山の語源と同じとみてよいでしょう。

 湯殿山(ゆどのさん。1,500メートル)は、月山の西側中腹の峰で、東田川郡朝日村と西村山郡西川町の境をなしています。仙人沢に湯殿山神社があり、大山祇命(おおやまずみのみこと)ほかを祀っています。社殿はなく、山腹から突き出た温泉の湧き出る赤い巨岩がご神体で、出羽三山の奥の院ともいわれています。『奥の細道』に”語られぬ湯殿にぬらす袂かな”とあるように、古来ご神体については他言が禁止されていました。

 山名は、ご神体の「ユ(湯)・トノ(棚、段丘)」からとする説があります。

 この「ユドノ」は、マオリ語の

  「イフ・トノ」、IHU-TONO(ihu=nose,bow of a canoe;tono=bid,command,demand)、「(他言を)禁止している・鼻(のような岩。その岩のある山)」(「イフ」のH音が脱落して「ユ」となつた)

の転訛(IU音が「ユ」に、NG音がN音に変化して「ユタナ」になり、「ユトノ」になって濁音化した)と解します。

 

(8) 鼠ヶ関(ねずがせき)

 山形県の西南隅の海岸、西田川郡温海町大字鼠ヶ関に、奥羽三関の一つとして、越後と出羽の境の念珠関(ねずがせき)が置かれていました。越後から出羽庄内に入るルートは、この海岸通りと、雷峠を越えて木野俣を経由する路(ほかに堀切峠を越えて小国村から大きく迂回する路)がありました。この附近はごつごつした岩が連続する岩石海岸ですが、とくにここから約18km南には奇岩怪石が連続する笹川流れ(新潟県の(8)石船(いはふね)郡のb笹川流れの項を参照してください。)の天然記念物に指定された景勝地があります。

 この「ネズ(ガ)」は、

  「ネイ・ツ(ン)ガ」、NEI-TUNGA(nei=to denote proximity to,to indicate continuance of action;tunga=decayed tooth)、「虫歯のような(岩が並ぶ)場所(笹川流れ)に・ほど近い(場所にある。関所)」(「ネイ」が「ネ」と、「ツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ツガ」から「ズガ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 朝日(あさひ)連峰

 山形県の西部、新潟県との県境にまたがる山地で、朝日岳(あさひだけ。1,870メートル)を主峰として、1,400〜1,600メートルの山々がほぼ南北の主脈とそれと斜交する支脈をつくっています。

 朝日、旭のつく山は、太陽が最初に昇る山や、朝日で赤く染まる山を「あさひ」と呼んだことによるとされ、各地に存在しています。

 この「アサヒ」は、マオリ語の

  「アタ・ヒ」、ATA-HI(ata=how horrible!,clearly,deliberately;hi=raise,rise)、「どっしりとして(人を寄せ付けない凄みのある)高い(山)」

の転訛と解します。この「アタ」は、すでに解説した「浅間山」、「安達太良山」の語源と同じです。

 

(9−2) 最上(もがみ)郡

 最上郡は、古代から現在にいたる郡名で、当初は置賜郡とともに陸奥国に属していたのが和銅5年両郡を越後国出羽郡と併せ出羽国となり、内陸部の現最上郡の地域から上山までの最上川の中流域を郡域としていましたが、仁和2年11月最上郡を二分しておおむね現天童市の乱川以北、最上川が寒河江付近で大きく西へ曲がるその最上川以北の北半分を村山郡、南半分を最上郡としました(『三代実録』)。戦国時代に最上氏が最上・村山両郡を制圧した後、文禄年間の太閤検地により、南を村山郡、北を最上郡とされ、江戸時代初期の正保国絵図作成時に現在の境界が確定したと推定されます。和名抄は「毛加美(もかみ)」と訓じます。

 この「もがみ」、「もかみ」は、

  「マウ(ン)ガ・ミ」、MAUNGA-MI(maunga=mountain;mi=urine,river)、「(庄内平野と内陸部を隔てる出羽山地の)山を・(貫いて)流れる川(その流域)」(「マウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「モガ」となった)

  または「モカ・ミ」、MOKA-MI(moka=end,muzzle;mi=urine,river)、「口輪がかかっている(新庄盆地からの出口が出羽山地の山で狭められている)・川(その流域)」 

の転訛と解します。

(9−3) 村山(むらやま)郡

 村山郡は、古代から現代の郡名で、当初は置賜郡とともに陸奥国に属していたのが和銅5年両郡を越後国出羽郡と併せ出羽国となり、内陸部の現最上郡の地域から上山までの最上川の中流域を郡域としていた最上郡を、仁和2年11月二分しておおむね現天童市の乱川以北、最上川が寒河江付近で大きく西へ曲がるその最上川以北の北半分を村山郡、南半分を最上郡としました(『三代実録』)。戦国時代に最上氏が最上・村山両郡を制圧した後、文禄年間の太閤検地により、南を村山郡、北を最上郡とされ、江戸時代初期の正保国絵図作成時に現在の境界が確定したと推定されます。明治11年村山郡は北村山・東村山・西村山南村山の4郡に分割されました。和名抄は「牟良夜末(むらやま)」と訓じます。「村山」は、「群山(むれやま)」からとする説があります。

 この「むらやま」は、

  「ム・ライア・マ」、MU-RAIA-MA(mu=silent;raia=to give emphasis;ma=names of persons or streams)、「静かに・悠々と・流れる(川。その流域)」(「ライア」が「ラヤ」となつた)

  「ム・ライ・イア・マ」、MU-RAI-IA-MA(mu=silent;rai=ribbed,furrowed:ia=indeed;ma=white,clean)、「静かな・(皺が寄ったように)波を打つ・(実に・清らかな)山(が連なる。地域)」(「ライ」の語尾のI音と「イア」の語頭のI音が連結して「ラヤ」となった)

の転訛と解します。

(9−4) 置賜(おきたま)郡

 置賜郡は、最上川上流域に位置し、当初は最上郡とともに陸奥国に属していたのが和銅5年両郡を越後国出羽郡と併せ出羽国となり、北は村山郡、東は宮城県、南は福島県、西は新潟県に接します。表記・読みは様々で、『日本書紀』持統紀3年正月条に「優耆曇(うきたま)郡」がみえ、和名抄は「於伊太三(おいたみ)」と訓じ、延喜式(九条家本)は「オイタム」と、『節用集』文明本は「おきたま」と、同易林本は「おいたま」とする等で、古代から中世には「おいたみ」、以後は「おきたま」と訓ずる例が多いようです。

 この「おいたみ」、「おきたま」は、

  「オイ・タハ・アミ」、OI-TAHA-AMI(oi=shudder,move continuously,agitate,creep;taha=side,edge,part,go by;ami=gather,collect)、「揺れながら・(両)脇の・(支流を)集めて流れる(川。その流域)」(「タハ」のH音が脱落し、その語尾のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「タミ」となった)

  「オキ・タハ・マ」、OKI-TAHA-MA((Hawaii)oki=to finish,cut,separate;taha=side,edge,part;ma=names of persons or streams)、「川の流れを・(両)脇に・分岐させている(川。その流域)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。

(10) 及位(のぞき)

 及位は、山形県最上郡真室川町の北東部の旧及位(のぞき)村の地名で、雄勝(おかち)峠を境に秋田県雄勝郡雄勝町と接する旧羽州街道(現国道13号線)の宿場町で、JR奥羽本線及位駅があります。この道路も鉄道も、塩根川の深い切り立った渓谷の崖の上の方に張り付いて通っています。この地名は、「山岳修験の修行方法に由来するといわれる(小学館『日本地名大百科』)」といいます。

 奈良県吉野の奥に役小角が開いたと伝える山岳修験の霊場、大峰山(金峰山寺)があります。いまだに女人禁制の山で、かつて関西では大峰山に参詣して岩場めぐりを経験しない若者は一人前扱いされなかったといいます。この山上には修行の場所として、鉄鎖を頼りにようやく登る急峻な岩場をはじめ、切り立った絶壁の上の釣鐘状の岩の表面の小さな凹凸に手足を託して一周する「平等岩」や、絶壁の上にある僅かな平たい岩場の「西の覗(のぞ)き」などがあります。この「西の覗き」では、先達が、肩に縄をかけて腹這いになった信者の半身を前に押し出し、数百メートル下の谷底を覗かせて、恐怖に震える信者に神仏への絶対の帰依と今後の一層の信心を誓わせるのです。

 この「ノゾキ」は、マオリ語の

  「(ン)ゴト・キ」、NGOTO-KI(ngoto=be deep;ki=very)、「非常に深い(谷)」

の転訛(NG音がN音に変化して「ノトキ」となり、さらにT音がS音に変化して「ノソキ」となり、濁音化して「ノゾキ」となった)と解します。

 このほか、秋田県由利郡大内町の芋川中流域に旧及位(のぞき)村があり、仙北郡南外村の西又川の谷口に及位(のぞき)の集落があります。

 この地名は、(1) 「ノ(野)・ソギ(削・退)」で「境上の原野」(柳田国男『地名の研究』)のことであり、「遠く離れた地(野)」の意味とする説、
(2) 「ソギ(削)・キ(接尾語)」で、崩壊・浸食・露出などの地形を示すとする説、
(3) 東北では「ノゾキ(除木)」で、木を切った開墾地の意とする説、
(4) 年貢を免除した寺社領、田・屋敷の「除き地」などの説があります。

 これらの「ノゾキ」は、前者とは異なり、マオリ語の

  「ノ・トキ」、NO-TOKI(no=belonging to;toki=very calm)、「極めて静かな土地」

の転訛(T音がS音に変化して「ノソキ」となり、濁音化して「ノゾキ」となった)と解します。

(11) 寒河江(さがえ)市・左沢(あてらざわ)

 寒河江市は、山形県の中央部、山形盆地の西部にあり、置賜郡から北流、東流してきた最上川がここで大きく流路を北に転じます。市名は、中世の荘園名に由来します。

 大江町左沢は、寒河江の西、置賜郡から北流してきた最上川が東に流路を変える場所に位置し、かつては最上川の大船遡航の終点で、上杉藩の水路改修により、物資集散地として発展しました。地名は、川の「左方(あちら)」、または「あちらの沢」からおこったとする説があります。

 この「さがえ」、「あてらざわ」は、

  「タ・(ン)ガハエ」、TA-NGAHAE(ta=the...of,dash,carve,lay;ngahae=be torn,dawn,look askance)、「(最上川が岸を)刻んで・横目で見ながら(流路を真横に曲げて)流れる(場所)」(「(ン)ガハエ」のNG音がG音に変化し、H音が脱落し、AE音がE音に変化して「ガエ」となった)

  「ア・タエ・ラエ・タワ」、A-TAE-RAE-TAWHA(a=the...of;tae=arrive,reach,proceed to;rae=forehead,promontory;tawha=burst open,crack)、「あの・(大船が)遡上する・(頭の)一番上流の・(川の裂け目の)開けた(場所)」(「タエ」のAE音がE音に変化して「テ」と、「ラエ」の語尾のE音が脱落して「ラ」となった)

の転訛と解します。

 

(12) 米沢(よねざわ)市

 米沢市は、山形県南東端、米沢盆地の南部に位置する市で、中心部は松川扇状地の上に発達し長井氏、伊達氏から上杉氏と続いた城下町です。

 米沢盆地は南東から北西に松川が流れ、これに南側からは鬼面川(秋田県雄物川の項参照)、黒川などが、北側からは屋代川、和田川、吉野川などがいずれもほぼ並行して流れ込んでいます。

 この「よねざわ」は、天文7(1538)年の『伊達氏段銭古帳』に「よなさハ」とあるのが初見で、(1) 飯豊山麓の「ヨネ(米)産地の沢」の意とする説や、
(2) 「ヨナ(砂、砂礫)の沢」の意とする説があります。

 この「ヨネザワ」の地名は、この川の流れに着目したもので、マオリ語の

  「イオ・ネヘ・タワ」、IO-NEHE-TAWHA(io=rope,line;nehe=rafter of a house;tawha=burst open,crack)、「家の垂木のような川が流れている開けた場所(沢)」

の転訛(「ネヘ」の語尾の「ヘ」が脱落した)と解します。この「ネヘ」は前出の「鼠ヶ関」の語源と同じです。

 

(13) 置賜(おきたま)盆地

 山形県南部、米沢市、南陽市を中心に、西置賜郡飯豊町、東置賜郡川西町、高畠町にかけて広がる盆地を置賜盆地(米沢盆地)といい、これに長井市を中心にした長井盆地を含めて置賜地方と呼んでいます。この盆地は、中央部が陥没して形成された構造盆地で、かつては湖であり、現在米沢盆地の北東に大谷地といわれる泥炭地か広がり、その中心にある白竜湖は湖盆の残存湖とされています。

 『日本書紀』持統紀3年正月の条に「優耆曇(うきたま)郡」がみえ、『和名抄』には「陸奥国置賜郡」に「於伊太三(おいたみ)」と訓じられています。

 この「おきたま」は、(1)「オ(接頭語)・イタ(段丘、扇状地)・ミ(接尾語)」の意や、(2)「オキ(奥、湿)・タ(処)」の意などの説があります。

 この「オイタミ」、「オキタマ」は、マオリ語の

  「オイ・タハ・アミ」、OI-TAHA-AMI(oi=shudder,move continuously,agitate,creep;taha=side,edge,part,go by;ami=gather,collect)、「揺れながら・(両)脇の・(支流を)集めて流れる(川。その流域である盆地)」(「タハ」のH音が脱落し、その語尾のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「タミ」となった)

  「オキ・タハ・マ」、OKI-TAHA-MA((Hawaii)oki=to finish,cut,separate;taha=side,edge,part;ma=names of persons or streams)、「川の流れを・(両)脇に・分岐させている(川。その流域である盆地)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。

 

(14) 小国(おぐに)町

 山形県南西端、新潟県境に西置賜郡小国町があります。朝日山地と飯豊山地に囲まれ、最上川上流の荒川渓谷に沿った山間の盆地で、米沢と越後をむすぶ越後街道、JR米坂線、国道113号線が通じています。

 このような山間の小さな盆地などの地域で「小国(おぐに、おくに)」の名を持つ地域は、新潟県刈羽郡小国町、熊本県阿蘇郡小国町をはじめ、山形県内にも温海町、最上町、真室川町にもあります。

 この「オグニ」は、マオリ語の

  「オ・ク・ヌイ」、O-KU-NUI(o=the place of;ku=silent;nui=large,many)、「静まり返っている場所」

の転訛と解します。

 

(15) 飯豊(いいで)山

 飯豊山(2,105メートル)は、山形・新潟・福島県境にある山で、古来信仰の対象でした。山の大部分は山形・新潟両県に属しますが、山頂の飯豊青(いひとよのあお)皇女を祀るとも、大国主命の五人の王子を祀るともいう飯豊山神社の境内敷地と南の三国岳から稜線上を延びてくる登山路だけは、福島県耶麻郡山都町に属しています。これは江戸時代の会津藩領であった一ノ戸口からの信仰登山の歴史の反映で、明治から大正にかけて約40年にわたる訴訟の結果によるものです。

 山頂部は風化した花崗岩類が緩やかな斜面を形成し、高山植物が豊かですが、谷筋はけわしく、氷河の跡の浸食地形と長い雪渓が特徴的です。 

 この山名の由来は、(1) 「秀でた」山の意、
(2) 「飯を豊かに盛った」山の意、
(3) 「湯の出る」場所(新潟県北蒲原郡)の山の意、 
(4) 「飯豊(いひとよ)神」の名からとする説などがあります。

 この「イイデ」は、マオリ語の

  「イヒ・テ」、IHI-TE(ihi=split,power;te=emphasis,crack)、「裂け目(嶮しい谷)が入っている(山)」

の転訛と解します。

 なお、「飯豊神」、「飯豊青(いひとよのあお)皇女」の「イヒトヨ」、「イヒトヨノアオ」は、マオリ語の

  「イヒ・ト・イオ」、IHI-TO-IO(ihi=split,power;to=be pregnant;io=spur,ridge)、「裂け目をはらんでいる峰の神(または聖なる力を秘めた峰の神)」

  「イヒ・トイ・イオ・ノ・アオ」、IHI-TOI-IO-NO-AO(ihi=split,power;toi=move quickly,encourage;io=muscle,tough,obstinate;no=of;ao=daytime,world,bright,be right)、「(天皇不在の)隙間を・疲れを知らずに・駆け抜けた(短期間天皇を代行した)・(夜が明けたように)明るくなった(皇女)」

の転訛と解します。

 

(16) 蔵王(ざおう)山

 宮城県の蔵王連峰の項を参照してください。

(17) 有耶無耶(うやむや)関

 奥羽山脈を越えて山形市と宮城県川崎町を結ぶ笹谷街道(286号線)の分水界の笹谷峠の南東に古歌で知られる有耶無耶関があります。

 この「ウヤムヤ」は、マオリ語の

  「ウイ・ア・ムイ・ア」、UI-A-MUI-A(ui=disentangle,ask,enquire;a=and,so then;mui=swarm round,molest)、「(通行人に対して)質問を・連発して・悩みに・悩ませる(関所)」(「ウイ」、「ムイ」の語尾のI音と「ア」のA音が連結して「ウヤ・ムヤ」となった)

の転訛と解します。

トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

 

7 福島県の地名

 

(1) 磐梯(ばんだい)山

 猪苗代湖の北、安達太良山の西にそびえる磐梯山(1,819メートル)は、安達太良山とともに磐梯朝日国立公園に属する孤立峰で、長い裾野をひく会津随一の名峰です。

 古くは会津嶺(あいづね。『万葉集』)、会津富士、大磐梯山などとも呼びました。山名は、(1) 「天に達する磐(いわ)の梯(はしご)」の磐梯(いわはし)の音読みの「ばんだい」で、山霊磐梯(いわはし)神を祀る式内社磐梯神社が猪苗代町に鎮座するからとする説や、

(2) 噴火で溶岩が流れ出た岩出(いわで)の磐提(いわで)山(『日本鹿子』)との説があります。

 この山も古来活発に噴火を繰り返してきた山で、大同元(806)年の大爆発で猪苗代湖が誕生したという古文献もありますが、地質学は第四紀のはじめ(2百万年前)に古猪苗代湖が形成されたとしています。また、明治21年の大爆発で小磐梯の上部が吹き飛んで、大被害があったことは有名です。

 この「イワハシ」または「イワデ」は、マオリ語の

  「イ・ワタイ」、I-WHATAI(i=past time,beside;whatai=stretch out the neck,gaze intently)、「しっかりと・首を伸ばしてそびえたつている(山。またこの山がある地域)」(「ワタイ」のAI音がE音に変化して「ワテ」となった)

  「イ・ワワチ」、I-WHAWHATI(i=past time,beside;whawhati=break off anything rigid,bend at an angle,be broken)、「(山の一部が)吹き飛んで・いる(山)」(「ワワチ」の最初のWH音がW音に、次のWH音がH音に変化して「ワハシ」となった)

の転訛と解します。

 岩手県の岩手(いわて)山や、岩手郡の岩手(いわて)の地名も同じ語源でしょう。また、伊達政宗が仙台に移るまで居城した岩出山(いわでやま)城にちなむ宮城県玉造郡岩出山町の岩出山も、裂け目のある断崖絶壁にかこまれた山です。さらに、和歌山県那賀郡岩出(いわで)町の岩出は、かつて紀ノ川の両岸に奇岩が突き出ており、右岸に紀州藩主が代々清遊した石手(いわで)御殿山があったことにちなむといいます。残念なことに昭和8年の河川改修によってこの景勝地の岩石がすべて除去されました(『岩出町史』)が、これも同じ語源でしょう。

 

(2) 安達太良(あだたら)山 

 入門篇(その二)(平成10−12−1書き込み)の「アサ地名」の項を参照してください。

 

(3) 猪苗代(いなわしろ)湖

 福島県のほぼ中央部、磐梯山の南麓、耶麻郡猪苗代町、会津若松市、郡山の境界に猪苗代湖があります。この湖は、日本第四位の大きさをもつカルデラ湖で、湖岸部には緩やかな傾斜をもつ浅い湖棚があります。また、硫黄分をふくむ酸(す)川を支流にもつ長瀬川が流入しているため、湖水は酸性で魚類も少ないという特徴があります。

 この湖名は、応安4(1371)年の文献には「猪苗代田」としてみえ、寛文年間(1661〜73)には「磐梯池」、「万代池」とも呼ばれたようです(『寛文風土記』)。

 この地名は、(1) 磐梯明神のお使いの「猪」が駆け回って苗代田をつくったという「猪の苗代田」の伝承によるという説、
(2) 「イ」は神を斎(いつ)くで、「苗代水をいただく尊い湖」の意、
(3) 湖面に雑草が浮かぶ様が神のつくった「御苗代(みなわしろ)田」のよう(岩手山の火口湖「御苗代湖(みなわしろこ。別名おなわしろこ)」と同じ)の意、
(4) 農業用水として不適な酸性水を堰で止め、薄めて使用した「堰(い)苗代」、「稲苗代」の意などの説があります。

 この「イナワシロ」は、マオリ語の

  「ヒナワナワ・チロ」、HINAWANAWA-TIRO(hinawanawa=papillae of the human skin,gooseflesh,anger;tiro=look)、「怒っている・ように見える(湖水が酸性(古代はもっと酸性が強かったか)で人の肌がピリピリする、または魚が少ない。湖)」または「鳥肌が立っている・ように見える(湖)」(語頭のH音および同音反復の語尾「ナワ」が脱落した)

の転訛と解します。湖岸の水面に茅や葦の類の草が点々と浮かぶ様を「鳥肌が立っている」と形容したものでしょう。なお、命名当時の原ポリネシア語を話す民族は、稲作を知らなかったことを傍証していると考えることもできます。

 

(4) 会津(あいづ)

 会津(あいづ)の地名は、『続日本紀』和銅5(712)年の条に「相津」とみえ、『古事記』、『日本書紀』には、崇神天皇の御代に、四道将軍の大毘古命とその子建沼河別命がこの地で出会ったことに由来するとされています。通常は河川(谷筋)が合流したところと解しているようです。

 この「アイヅ」は、マオリ語の

  「アヒ・ツ」、AHI-TU(ahi=fire;tu=stand,fight with,energetic)、「盛んに・噴火する(山がある。地域)」(「アヒ」のH音が脱落して「アイ」となった)

  または「アヰ・ツ」、AWHI-TU(awhi=embrace;tu=stand)、「(周囲を山に)取り囲まれて居る(土地、盆地)」

の意と解します。

 

(4−2) 石背(いわせ)国・岩代(いわしろ)国

 石背国は、奈良時代にみえる国名で、『続日本紀』養老2年5月条に「(陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多の6郡を割いて石城国を置き、)白河・石背・会津・安積・信夫5郡を割いて石背国を置く」とあり、(福島県の浜通り地方および宮城県の南部を石城国とし、)中通りおよび会津地方を石背国としました。その後同4年11月の陸奥・石背・石城3国の租庸調減免の詔を最後に史料から見えなくなり、陸奥国に併合されたと考えられます。石背郡は、神護景雲3年3月条に「磐瀬郡人」とあり、和名抄に磐瀬を「伊波世(いはせ)」と訓じいいます。

 岩代国は、明治元年12月の太政官布告によって置かれた国で、成立当初は南会津・北会津・大沼・河沼・耶麻・岩瀬・安積・安達・信夫・刈田・伊具の11郡でしたが、翌2年12月刈田・伊具両郡を磐城国へ、伊達郡を岩代国へ移しました。元来地理・社会的に不自然な地域区分であったところから、有名無実の広域地名となっています。 

 この「いわせ」については、後出(10−4)岩瀬郡の項を参照してください。

 また、「いわしろ」については、「大和国」に対する「山代(山背)国」の意識で名付けられたものかと思われる現代の造語ですので、縄文語による解釈は不適当です。

(4−3) 会津(あいづ)郡

 会津郡は、古代から現代までの郡名で、陸奥国に属し、大化の国郡制定時に設置されたと考えられます。初見は『続日本紀』養老2年5月条で、相津(『古事記』)、安比豆(『万葉集』)と書き、和名抄は「阿比豆(あひづ)」と訓じます。会津は、広義では会津地方(会津・耶麻・大沼・河沼4郡)を、狭義では会津郡(現会津若松市を中心に北会津郡・南会津郡の地域)を指します。この会津郡は、奈良時代初期に数年間石背国に分置され、平安初期に耶麻郡を分割し、延長年間以降に大沼・河沼2郡を分割した(『和名抄』白河郡の分注に「国を分けて高野郡と為し今分けて大沼、河沼二郡と為す」とあります。)と考えられます。近世には、文禄3年の蒲生高目録は会津地方を猪苗代・南山・津川・伊南・伊北・稲川・河沼・門田・大沼・山の10郡に区分し、正保国絵図も大沼・河沼・稲川・伊南・伊北・南山としていました。寛文年間に会津藩は古記録を整理して会津・耶麻・大沼・河沼の4郡に整理し、明治12年北会津郡・南会津郡の分割されました。

 この「あいづ」は、

  「アヒ・ツ」、AHI-TU(ahi=fire;tu=stand,fight with,energetic)、「盛んに・噴火する(磐梯山がある。地域)」(「アヒ」のH音が脱落して「アイ」となった)

  または「アヰ・ツ」、AWHI-TU(awhi=embrace;tu=stand)、「(周囲を山に)取り囲まれて居る(土地、盆地)」

の転訛と解します。

(4−4) 耶麻(やま)郡

 耶麻郡は、古代から現在にいたる郡名で、初見は『続日本後紀』承和7年条で、和名抄は「山」の訓注を付し、平安時代初期に会津郡から分かれたと考えられます。会津地方の北部にあって西・北・東の三方を山に囲まれ、南に会津盆地が広がり、南端を日橋(にっぱし)川(後出(8)阿賀(あが)川の項を参照してください。)が西流します。

 この「やま」は、

  「イ・アマ」、I-AMA(i=past tense,beside;ama=thwart of a canoe)、「(カヌーの)舳先のようにそびえる(山脈の)・傍ら(の地域)」(「イ」のI音と「アマ」の語頭のA音が連結して「ヤマ」となった)

の転訛と解します。

(4−5) 大沼(おおぬま)郡

 大沼郡は、古代から現在にいたる郡名で、初見は『和名抄』で、白河郡の分注に「国を分けて高野(たかの)郡と為し今分けて大沼、河沼二郡と為す」とありますが、郡郷部には記載がありません。延喜式神名帳の会津郡に大沼郡所在の伊佐須美神社がみえるところから、延長年間以降に会津郡から分かれたものと考えられます(高野郡は白河郡から分かれたとする説があります。)。会津地方西端部に位置し、郡の中央を只見川が流れ、北は河沼郡・越後国、東は会津郡、南は会津郡、西は会津郡・越後国に接します。郡名は、郡内に大沼があったからとします。

 この「おおぬま」は、

  「オフ・(ン)グ・マ(ン)ガ」、OHU-NGU-MANGA(ohu=beset in great numbers,surround;ngu=silent,greedy;manga=branch of a river)、「(川の)支流を・(山地に)取り付いて・貪欲に呑み込んで流れる(川の流域)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」と、「(ン)グ」のNG音がN音に変化して「ヌ」と、「マ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

(4−6) 河沼(かわぬま)郡

 河沼郡は、古代から現在にいたる郡名で、初見は『和名抄』で、白河郡の分注に「国を分けて高野郡と為し今分けて大沼、河沼二郡と為す」とありますが、郡郷部には記載がありません。延長年間以降に会津郡から分かれたものと考えられます。会津地方西北部に位置し、郡内で阿賀川に只見川が合流します。北から東は耶麻郡、南は会津郡・大沼郡、西は越後国に接します。

 この「かわぬま」は、

  「カハ・(ン)グ・マ(ン)ガ」、KAHA-NGU-MANGA(kaha=strong,strength;ngu=silent,greedy;manga=branch of a river)、「(川の)支流を・貪欲に呑み込んで・力強く流れる(川の流域)」(「(ン)グ」のNG音がN音に変化して「ヌ」と、「マ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

(5) 飯盛(いいもり)山

 飯盛山(380メートル)は、会津若松市市街地の北東にある山で、明治元(1868)年戊辰戦争のとき、白虎隊士20名が自刃した悲劇の場所として著名です。この山は、独立峰ではなく、その南東部は次第に高くなって、会津盆地と猪苗代盆地の境の背炙高原(800メートル前後)に続いています。

 この山名は、(1) 飯椀に飯を高く盛り上げた形の山で、永徳年間(1381〜84)にこの山に宗像の神を祀ったとき、牛が運んだ大盛りの赤飯を役夫が食べても食べても減らなかったという伝承(『新編会津風土記』)による、
(2) 「イイ(上、天)・モリ(森)」の意とする説などがあります。

 この「イイモリ」は、マオリ語の

  「イヒ・モリ」、IHI-MORI(ihi=split,separate;mori=low,mean)、「(本体の山から)離れている低い(小さい山)」

の転訛と解します。大阪府大東市と四条畷市の境にある頂上の平らな飯盛山(いいもりやま。318メートル)は、『太平記』に語られる楠木正行らの四条畷の合戦の場所として知られ、また、長崎県西部の西彼杵半島には飯盛山(いいもりやま。531メートル)がありますが、共に同じ語源と思われます。

 

(6) 喜多方(きたかた)市

 会津盆地の北部、阿賀川水系の濁川、田付川、姥堂川などがつくる複合扇状地の上に喜多方市があります。「蔵造りの建物とラーメンの町」として有名です。

 この地名は、盆地の「北方」の地の意味で、嘉字の喜多方をあてたとされています。

 この「キタカタ」は、マオリ語の

  「キタ・カタ」、KITA-KATA(kita=tightly;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開けたような地形の場所(扇状地)が密着している場所」

の転訛と解します。宮崎県東臼杵郡北方町は、南部を東流する五ケ瀬川が峡谷を抜けたところでやや土地が開かれる地形の場所にあり、同じ語源と考えられます。

 

(7) 会津坂下(あいづばんげ)町

 南会津の山岳地帯を流下した阿賀川は、会津盆地南東隅から大型の緩い扇状地をつくって北流し、これに並行する湯川や鶴沼川、東の猪苗代湖から流出する日橋川、盆地北側からの大塩川、多付川、濁川などを併せて、盆地の唯一の排水口である北西隅(会津坂下町の北西部)の津尻から見事な穿入曲流地形を形成して流下します。

 この会津坂下町の「ばんげ」は、盆地西側の丘陵地帯に6世紀ごろ高(たか)寺を中心とする古寺院群が創建されたと伝えられ、その「高寺の下」の意であるという説や、「ハケ(急傾斜地)」からとする説、アイヌ語の「パンケ(下、川下)」からとする説があります。

 また、この町は、1月に豊作を祈願して重さ3トンの大俵を引き合う大俵引き行事で有名です。

 この「バンゲ」は、マオリ語の

  「パ・ネケ」、PA-NEKE(pa=block up,prevent;neke=move)、「(阿賀川が下流へ向かって)流れるのを阻む(ため曲流する場所)」

  または「パネ・(ン)ガエ」、PANE-NGAE(pane=head;ngae=wheeze)、「(引き合いに疲れて)息を切らす・頭(大俵引き。その行事が行われる地域)」(「パネ」が「パン」から「バン」と、「(ン)ガエ」のNG音がG音に、AE音がE音に変化して「ゲ」となった)(この大俵は、古くは「頭」で、東北地方など各地にみられる「しょうきさま」や「大わらじ」を集落の入り口に誇示する民俗の流れを汲むものか、または「巨人伝説」によるものであったかも知れません。)

の転訛(「パ・ネケ」が「パンケ」に変化し、濁音化して「バンゲ」となった)と解します。

 

(8) 阿賀(あが)川ー阿賀野(あがの)川、日橋(にっぱし)川、只見(ただみ)川、ヨッピ川

 阿賀野川は、福島・新潟両県を貫いて新潟市で日本海に注ぐ川です。福島県南西部に発する阿賀(あが)川は、猪苗代湖に発する日橋(にっぱし)川や尾瀬沼に発する只見(ただみ)川と合流し、新潟県に入って阿賀野(あがの)川と名称を変えます。阿賀川は、古くは会津川で、揚(あが)川、赤川ともいったといいます。日本有数の包蔵水力を持ち、首都圏への電源地帯となっています。

 川名は、(1) 「アガはアガリ(上)の略」で、高い地から流れてくる川の意、
(2) 「ハカ(剥)」で崩壊地のある川の意、
(3) 「赤川」で増水すると赤濁する意、
(4) アイヌ語で「ワッカ(水)の転でアッカ(岩手県に安家川、安家洞がある)」、その転で「アカ」とする説などがあります。

 この上流名の阿賀川の「アガ」は、マオリ語の

  「ア(ン)ガ」、ANGA(driving force,move in a certain direction)、「力で押し流す(川)」

の転訛(NG音のNは通常極めて弱く発音します)と解します。

 また、下流名の阿賀野川の「アガノ」は、マオリ語の

  「ア(ン)ガ・ヌイ」、ANGA-NUI(anga=driving force,move in a certain direction;nui=large)、「強い力で押し流す(川)」

の転訛と解します。

 日橋川は、猪苗代湖の排水河川で、湖の北西岸の銚子ノ口から西北西に流れ、会津盆地のほぼ中央で阿賀川に合流します。長さ約20kmに対し約300mの落差を利用して水力発電所が設けられています。

 この「にっぱし」は、

  「ニヒ・パチ」、NIHI-PATI(nihi=steep;pati=shallow water,shoal)、「急勾配を流れる・浅瀬(の川)」(「ニヒ」のH音が脱落して「ニイ」から「ニッ」となった)

の転訛と解します。

 支流の只見川は、尾瀬沼に源を発し、尾瀬ケ原湿原の水を集めて福島・新潟県境に深い峡谷を刻みながら北流し、伊南(いな)川などを併せて蛇行しながら東北流し、野尻川などを併せて山都町で会津盆地から西流する阿賀川に合流します。豪雪地帯を流れるため、日本有数の包蔵水力をもち、奥只見ダム、田子倉ダムなどとその大規模発電所は有名です。

 只見の地名は、只見川に伊南川が合流する左岸の河岸段丘の名からとったといい、その語源は、(1) 古語「タルミ(垂水)」の転で、滝の意とする説や、
(2) 大雨で川音が轟き流れる「ドドミ」の転とする説があります。

 この「タダミ」は、マオリ語の

  「タタ・ミ」、TATA-MI(tata=bail water;mi=urine,stream)、「(舟の)あか水の川(またはあか水を汲み出しているような川)」

の転訛(同音反復の語尾「ミ」が省略され、濁音化した)と解します。只見川の源流の尾瀬を舟に見立て、尾瀬沼からの沼尻川と尾瀬ケ原を流れるヨッピ川の水を、いつとはなしに舟底に溜まる舟のあか水に例えたものであったのが、その下流を含めた川名となったもので、季節による流量の変化が少ない特徴をよく表現しています。

 なお、この川を意味する「ミ」、「ミミ」の地名は全国に広く分布しています。宮崎県日向市美々津(みみつ)は、耳(みみ)川の河口に位置し、神武天皇東征出発の伝承地として有名で、江戸時代には千石船の往来でにぎわった古い港町であすが、この「ミミ」も同じ語源です。

 また、尾瀬ケ原湿原では、湿原の水生植物が腐敗せずに次々に堆積し、いたるところに小さな池をつくり、周りから流れこむ多数の小川がところどころで下に潜り、見え隠れしながら次第に流量を増し、その細流が集まって中央を流れるヨッピ川になるのですが、この「ヨッピ」は、マオリ語の

  「イオ・ピ」、IO-PI(io=muscle,strand of rope;pi=urine)、「筋肉(繊維)から出る尿(のような小川)」または「(見え隠れする)縄の撚りから出る尿(のような小川)」

と解します。尾瀬ケ原湿原とそこを流れる川の特徴を見事にとらえた形容です。

 

(9) 桧枝岐(ひのえまた)村

 福島県南西端、南会津郡の村で、栃木・群馬・新潟の3県に接し、すべて2千メートル級の高山に囲まれ、他から隔絶した全国有数の奥地山村です。平家落人伝説と桧枝岐歌舞伎で有名です。

 「尾瀬(おぜ)」といえば群馬県と思い込んでいる人が多いのですが、尾瀬ケ原の東半分(竜宮小屋から東)、東北地方第一の高峰である燧(ひうち)ヶ岳(2,356メートル)の全部、尾瀬沼の北半分は、桧枝岐村に属しています。

 この「ひのえまた」は、「桧木亦」(『蒲生生産高目録』)、「丙亦」(『会津風土記』)と記録され、寛文6(1666)年の古文書には「桧枝岐」とあり、「黒桧」が多く、桧枝岐川が二股に分かれていることによるという説があります。

 この「ヒノエマタ」は、マオリ語(一部ハワイ語)の

  「ヒ・ノエ・マタ」、HI-NOE-MATA(hi=raise,rise;noe(Hawaii)=mist,fog;mata=deep swamp)、「高いところにある霧がかかる深い湿地」

の意と解します。この地名は、「尾瀬ケ原」を指す地名だったのです。

 

(10) 板谷(いたや)峠ー栗子(くりこ)峠

 板谷峠(755メートル)は、福島市と山形県米沢市を結ぶ通称米沢(板谷)街道の奥羽山脈越えの峠で、嘉永3(1850)年に米沢藩によって開かれてから、明治14年に北方の栗子(くりこ)峠(557メートル)経由の万世大路(まんせいおおじ。現国道13号線)が開通するまで、米沢藩の参勤交代に利用された主要路でしたが、急勾配で多雪地帯のため、通行は難渋しました。明治32年には現JR奥羽本線が開通して街道の機能を失いました。

 この「イタヤ」は、マオリ語の

  「イタ・イア」、ITA-IA(ita=tight,fast,compact;ia=indeed)、「実にきつい(高い山を一気に急登する急勾配の峠)」

の転訛と解します。

 また、栗子峠の「クリコ」は、マオリ語の

  「クリ・カウ」、KURI-KAU(kuri=dog,any quadruped;kau=swim,wade)、「獣が・(泳ぐように笹を押し分けて)通る(場所。峠)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  または「ク・リコ」、KU-RIKO(ku=silent;riko=wane)、「静かな・欠けた月のような(地形の場所。そこを通る峠)」

の意と解します。峠付近の県境を流れる松川の峡谷が大きく半月状にカーブしているところから付けられた地名でしょう。その北の栗子(くりこ)山(1,217メートル)の西側も、大きな半月状に落ち込んだ地形となっています。

 

(10−2) 白河(しらかわ)郡

 白河郡は、古代から現在にいたる郡名で、『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の白河・石背・会津・安積・信夫5郡を割いて石背国を置く」とあるのが初見で、福島県の中通りおよび会津地方を石背国としましたが、同国は同4年11月の陸奥・石背・石城3国の租庸調減免の詔を最後に史料から見えなくなり、陸奥国に併合されたと考えられます。和名抄は「之良加波(しらかは)」と訓じ、同項分注は「国を分けて高野(たかの)郡と為す」とし、『大日本地名辞書』は高野郡を当郡の東部かとします。また、中世初期に石川郡が分かれたとされます。当郡には、白河関が置かれ、陸奥国の玄関口で、北は岩瀬郡・石川郡、東は磐前郡・菊多郡、南は下野国・常陸国、西は会津郡・下野国に接します。ほぼ全域が山間部で、中央を久慈川が南流、やや西を阿武隈川が東西に流れ、久慈川と阿武隈川の流域にわずかに平野部があります。 

 この「しらかわ」は、

  「チ・ラカ・ワ」、TI-RAKA-WA(ti=throw,cast;raka=go,spread about;wa=drfinite space,area)、「広闊な・原野が・散在する(地域)」

の転訛と解します。

(10−3) 石川(いしかわ)郡

 石川郡は、中世から現在にいたる郡名で、郡名の初見は延元4年8月の北畠親房卿御教書に「高野郡内伊香・手沢両郷為石川郡知行分替」とみえます。和名抄に郡名はみえず、白河郡に石川郷がみえ、当郷を含めた4郷を中世に分置したものと推定され、正保年間に高野郡とともに白河郡と合併して一時白川郡となりましたが、元禄年間に再び分立しました。明治8年岩瀬郡の一部を当郡に編入、当郡の阿武隈川以西を白河郡に編入しました。北は田村郡、東は田村郡・磐前郡、南は白川郡、西は阿武隈川を境に白川郡・岩瀬郡に接します。

 この「いしかわ」は、

  「イチ・カワ」、ITI-KAWA(iti=small;kawa=heap,reef of rocks,channel)、「小さな・(阿武隈川とその支流の一部の)水路(を含む一帯の。地域)」

の転訛と解します。

(10−4) 高野(たかの)郡

 高野郡は、中世から近世の郡名で、郡名の初見は和名抄の白河郡の項に「国を分けて高野郡と為す」とあり、白河郡に高野郷がみえ、郡の東部の当郷を含めた5郷が平安時代に高野郡として分置されたものと推定され(『大日本地名辞書』)、正保年間に石川郡とともに白河郡と合併して白川郡となりましたが、元禄年間に石川郡を再び分置して白河郡となり、明治12年西白河郡・東白川郡に分かれました。

 この「たかの」は、

  「タカ・ノホ」、TAKA-NOHO(taka=heap,lie in a heap;noho=sit,stand)、「高い場所に・位置する(地域)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。

(10−5) 岩瀬(いわせ)郡・乙字(おつじ)ケ滝

 岩瀬郡は、古代から現代にいたる郡名で、『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の白河・石背・会津・安積・信夫5郡を割いて石背国を置く」とあるのが初見で、福島県の中通りおよび会津地方を石背国としましたが、同国は同4年11月の陸奥・石背・石城3国の租庸調減免の詔を最後に史料から見えなくなり、陸奥国に併合されたと考えられます。石背郡は、神護景雲3年3月条に「磐瀬郡人」とあり、和名抄に磐瀬を「伊波世(いはせ)」と訓じ、中世以降は「石瀬」と表記します。当郡は、中通り南部、阿武隈川とその支流釈迦堂川の流域に位置し、北は安積郡、東は石川郡、南は白河郡、西は会津郡に接します。明治8年当郡と石川郡の境を阿武隈川に変更しています。

 岩瀬郡の東南端、須賀川市と石川郡玉川村との境の阿武隈川に川巾70m、落差5mの乙字(おつじ)ケ滝があります。日本の滝百選に撰ばれ、かつて芭蕉も訪れて句を残した景勝地で、阿武隈川唯一のこの滝は、古くは舟航の最大の難所でした。

 この「いわせ」、「おつじが」は、

  「イ・ワタイ」、I-WHATAI(i=past tense,beside;whatai=stretch out the neck,gaze intently)、「目を見張る場所(乙字ヶ滝)の・あたり(の地域)」(「ワタイ」のWH音がW音またはH音に、AI音がE音に変化して「ワテ」から「ワセ」または「ハテ」から「ハセ」となつた)

  「オ・ツチカ」、O-TUTIKA(o=of,belonging to;tutika=upright)、「ほぼ・垂直に流下する(滝)」または「オツ・チ(ン)ガ」、OTU-TINGA(otu=the part of the pitau which prevents water from coming into a canoe;tinga=likely)、「(カヌーの舳先の)波除け板に・似た(垂直の壁となって流下する。滝)」(「チ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「チガ」から「ジガ」となった)

の転訛と解します。

(10−6) 安積(あさか)郡

 安積郡は、古代から現代までの郡名で、『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の白河・石背・会津・安積・信夫5郡を割いて石背国を置く」とあるのが初見で、福島県の中通りおよび会津地方を石背国としましたが、同国は同4年11月の陸奥・石背・石城3国の租庸調減免の詔を最後に史料から見えなくなり、陸奥国に併合されたと考えられます。神護景雲3年3月条に「安積郡人」がみえ、和名抄は「阿佐加(あさか)」と訓じます。延喜6年正月に安達郡を分置しました(延喜式民部省式上頭注)。中通りの中央部に位置し、当初は現郡山市のほか、安達郡、田村郡を含む地域で、北は安達郡、東は田村郡、南は岩瀬郡、西は会津郡に接します。昭和40年5月市町村合併により郡は消滅しました。

 『万葉集』巻16-3807に「安積香(あさか)山」がみえ、『大和物語』、『今昔物語』等に「山の井」伝説がみえるところから、この地は歌枕の地として著名です。この安積山は、郡山市片平町の安積山(額取山。高1,009m)とする説、『奥の細道』にみえる郡山市日和田町の安積山公園の小丘とする説があります。

 この「あさか」は、

  「ア・タカ」、A-TAKA(a=the...of,belonging to;taka=heap,lie in a heap)、「殆どが・高い場所にある(原野の。地域)」または「まずまず・高い(といっても良い。山」)

の転訛と解します。

(10−7) 田村(たむら)郡・三春(みはる)・大多鬼丸(おおたきまる)

 田村郡は、近世から現在にいたる郡名で、安積郡の阿武隈川東岸の地を中世に田村荘といっていたのが江戸時代初期に郡として成立したと推定されています。北は安達郡、東は標葉郡・楢葉郡、南は磐前郡。石川郡、西は安積郡に接します。

 三春(みはる)町は、永正元年田村氏が三春城を築いて以来、伊達氏、蒲生氏、秋田氏の城下町として発展し、郷土玩具三春駒や天然記念物滝桜で有名ですが、三春駒の由来として坂上田村麻呂と戦った大多鬼丸の伝説が語り伝えられています。町名は、春になると梅、桃、桜が一斉に開花する「三つの春」によるなどの説があります。

 この「たむら」、「みはる」、「おおたきまる」は、

  「タ・アム・ウラ(ン)ガ」、TA-AMU-URANGA(ta=dash,beat,lay;amu=grumble,complain;uranga=act or circumstance etc. of becoming firm,reach the land,reach its limit)、「(朝廷に)反抗する(蝦夷を)・襲って・平定した(場所。地域)」(「タ」のA音と「アム」の語頭のA音が連結して「タム」となり、その語尾のU音と「ウラ(ン)ガ」の語頭のU音が連結し、語尾のNGA音が脱落して「タムラ」となった)

  「ミハ・アル」、MIHA-RU(miha=wonder;aru=follow,pursue,chase)、「(坂上田村麻呂による)驚嘆すべき(壮絶な)・追跡合戦(が行われた場所。地域)」(「ミハ」の語尾のA音と「アル」の語頭のA音が連結して「ミハル」となった)

  「オホ・タキ・マル」、OHO-TAKI-MARU(oho=start from fear or surprise etc.,spring up,wake up;taki=take to one side,take out of the way,track;maru=power,shelter,retinue)、「(田村麻呂の軍の強さに)びっくりした・砦を・出た(外で戦った。蝦夷の首長)」または「部下と・離ればなれになって・びっくりした(蝦夷の首長)」(「オホ」のH音が脱落して「オオ」となった)

の転訛と解します。

(10−8) 安達(あだち)郡

 安達郡は、古代から現代にいたる郡名で、延喜6年正月に安積郡から分れました(延喜式民部省式上頭注)。中通りの中央部に位置し、中央を阿武隈川が北流し、北は信夫郡・伊達郡、東は行方郡・標葉郡・田村郡、南は安積郡、西は耶麻郡に接します。

 郡名は、信夫郡・耶麻郡と境を接する安達太良(あだたら)山に由来するとの説があります。また、この地には、平安時代の歌仙平兼盛の歌や謡曲「奥州安達原」で知られる安達原鬼婆伝説が残ります。

 この「あだち」は、

  「アタ・チ」、ATA-TI(ata=how horrible!,gently,clearly;ti=throw,cast,overcome)、「何と恐ろしい(噴火する山が)・ある(地域)」または「何と恐ろしい(鬼を)・退治した(場所。その地域)」

の転訛と解します。

(10−9) 信夫(しのぶ)郡

 信夫郡は、古代から現代までの郡名で、『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の白河・石背・会津・安積・信夫5郡を割いて石背国を置く」とあるのが初見で、中通りおよび会津地方を石背国としましたが、同国は同4年11月の陸奥・石背・石城3国の租庸調減免の詔を最後に史料から見えなくなり、陸奥国に併合されたと考えられます。中通りの北部に位置し、中央を阿武隈川が北流し、現福島市を中心とする地域で、当初は伊達郡を含み、和名抄は「志乃不(しのぶ)」と訓じ、「国を分けて伊達郡と為す」と分注します。平安時代末期には分置されたと考えられます。北から東は伊達郡、南は安達郡、西は出羽国・耶麻郡に接します。昭和43年10月市町村合併により消滅しました。

 この「しのぶ」は、

  「チノ・プ」、TINO-PU(tino=essentiality,main,exact,very;pu=tribe,bunch,heap)、「(ひときわ目立つ)中心の・丘(がある。地域)」

の転訛と解します。

(10−10) 伊達(だて)郡

 伊達郡は、古代から現代にいたる郡名で、中通り北端に位置し、東部および西部は山岳地帯で、和名抄の信夫郡の項は「国を分けて伊達郡と為す」と分注します。平安時代末期には分置されたと考えられます。北は刈田郡・伊具郡、東は宇多郡・行方郡、南は信夫郡・安達郡、西は出羽国に接します。

 伊達郡の東部、宇多郡・行方郡と境を接する場所に紅葉の名所、霊山(りょうぜん。高805m)(もと不忘(ふぼう)山)があります。かつて南北朝期に南朝に与した陸奥国司北畠顕家が後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じてここに国司政庁を置いて戦って敗れた国指定の史跡です。この山は、玄武岩質集塊岩で、頂上には石柱を縦に並べたような絶壁があり、その岩には横に層状の縞が入っています(これを行方郡では「(岩の)梯子」と形容しています)。

 この「だて」、「ふぼう」は、

  「タタイ」、TATAI(arrange,adorn)、「(信夫郡の外側の)飾り(のような。地域)」または「華やかな飾り(のような山(霊山)がある。地域)」(AI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「フ・ポウ」、HU-POU(hu=hill,promontory;pou=post,pole)、「(石の)柱がある・山」

の転訛と解します。

(11) 福島(ふくしま)市

 福島市は、福島県中通り北部に位置する県庁所在地です。その中心市街地は、福島盆地内に孤立する信夫(しのぶ)山(216メートル)の南、阿武隈川と須川の合流点付近にあり、古来奥州道中の宿駅として、また阿武隈川舟運の河岸として発展してきました。福島の古名は、杉目(すぎのめ)、杉妻(すぎのめ)で、中世からの城下町でしたが、永禄7(1564)年に伊達氏が「福島」の嘉名に改称したとも、文禄元(1593)年に木村氏が改称したとも伝えられています。

 この「ふくしま」の地名は、(1)福島盆地湖沼伝説に基づく「吹き島」の転、
(2) 川の湾曲した場所の「フクラ」から、
(3) 「フク(福)・シマ(島、信夫山を指す)」の意とする説などがあります。

 この「スギノメ」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ギ・ナウマイ」、TUNGI-NAUMAI(tungi=set a light to,kindle;naumai=welcome)、「(訪問者を)歓迎する(明かりを灯す)集落」

の転訛と解します。

 また、信夫(しのぶ)郡、信夫山の「しのぶ」は、(1)「シノ(篠)・フ(生える)」の意
(2)「忍(しのぶ)」で隠れた所の意、
(3)「シノ(湿地)・フ(処)」の意とする説があります。

 この「シノブ」は、マオリ語の

  「チノ・プ」、TINO-PU(tino=main,exact,very;pu=tribe,heap)、「主要な(中心の)丘(またはその丘を中心とする地方)」

の転訛と解します。

 

(12) 飯坂(いいざか)温泉

 飯坂温泉は、福島市の中心市街地の北10キロメートルの阿武隈川の支流摺上(すりかみ)川が福島盆地に出る谷口の河岸段丘の上に位置する温泉で、秋保、鳴子とともに奥羽三名湯として知られ、芭蕉も訪れています。現在は、摺上川対岸の湯野と併せて飯坂温泉と呼ばれています。

 この地名は、(1) 「イイ(ヰ、井、川、湯)・サカ(坂、河岸段丘の傾斜地)」から、
(2) 「イイ(ヰ、井、川、湯)・サ(狭)・コ(処)」から、
(3) 「ヰ(井、川、湯)・ヒ(樋)・サカ(坂)」の意とする説があります。

 この「イイサカ」は、マオリ語の

  「イヒ・タカ」、IHI-TAKA(ihi=split,separate;taka=heap,lie in a heap)、「(川の両岸に)分かれて高いところに位置する(場所)」

の転訛と解します。

 

(13) 白河(しらかわ)市

 白河市は、福島県中通りの南西部、阿武隈川上流域にある市で、標高350メートル前後の河川沿岸低地とそれを取り巻く標高450〜600メートル前後の丘陵地から成っています。南部の旗宿には、奥羽三関の一つ白河関跡があり、陸奥国の入り口として、交通、軍事上の要衝でした。

 この「しらかわ」の地名は、古代の陸奥国白河郡によるもので、『和名抄』には「之良加波」と訓じられています。

 この「しらかわ」は、(1)「シラ(汁)」で湿地の意から「川沿いの氾濫原」を指す、
(2)「シラ(シロ(白)の転)・カワ(川)」で「水の清い、白石、白砂のある川」の意とする説があります。

 この「シラカワ」は、マオリ語の

  「チ・ラカ・ワ」、TI-RAKA-WA(ti=throw,cast;raka=go,spread about;wa=drfinite space,area)、「広闊な・原野が・散在する(地域)」

の転訛と解します。

(なお、岐阜県飛騨の白川(しらかわ)郷は、「チラ・カワ」、TIRA-KAWHA(tira=fish-fin;kawa=heap,channel)、「魚の鰭(のような合掌造りの屋根をもつ家)が・水路(の流れに沿うよう)に並んでいる(場所)」と解します。)

 

(13−2) 菊多(きくた)郡

 菊多郡は、古代から現代の郡名で、初見は、『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多の6郡を割いて石城国を置く」、「常陸国多珂郡の郷210戸を割いて菊多郡と名付け石城国に属させた」とあります。この福島県の浜通り地方および宮城県の南部よりなる石城国は、その後同4年11月の陸奥・石背・石城3国の租庸調減免の詔を最後に石背国とともに史料から見えなくなり、陸奥国に併合されたと考えられます。和名抄は「木久多(きくた)」と訓じます。石城国の最南端、鮫川流域に広がる平野部に位置し、北は石川郡・磐前郡、東は磐前郡・太平洋、南は常陸国、西は石川郡に接します。明治29年磐前郡とともに磐城郡と合併して石城郡となりました。

 この「きくた」は、

  「キ・クタ」、KI-KUTA(ki=many;kuta=encumbrance)、「(通行人にとって)たいへん・邪魔になる(関所。菊多関(勿来関)がある地域)」

の転訛と解します。

(13−3) 磐前(いわさき)郡

 磐前郡は、中世から現代の郡名で、磐崎、岩崎とも書き、初見は『吾妻鏡』文治5年7月条で、古代の石城郡が平安時代末期ごろに磐前、磐城、楢葉の3郡に分かれたものと思われます。浜通りの南端、夏井川・藤原川・好間川の流域で、北は田村郡・楢葉郡・磐城郡、東は太平洋、南は菊多郡、西は石川郡・白川郡に接します。明治29年菊多郡とともに磐城郡と合併して石城郡となりました。

 この「いわさき」は、

  「イ・パタキタキ」、I-PATAKITAKI(i=past tense,beside;patakitaki=boundary,division,the board placed on edge at the entrance to the porch of a house)、「(門を入つて)玄関前の敷石のような(場所の)・あたり(の地域)」(「パタキタキ」のP音がF音を経てH音に変化し、反復語尾が脱落して「ハタキ」から「ハサキ」、「ワサキ」となった)

の転訛と解します。

(13−4) 石城(いわき)国・磐城(いわき)国・石城(いわき)郡・磐城(いわき)郡

 石城(いわき)国は、『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多の6郡を割いて石城国を置く」とあり、福島県の浜通り地方および宮城県の南部を石城国としました。その後石城国の名は同4年11月の陸奥・石背・石城3国の租庸調減免の詔を最後に史料から見えなくなり、陸奥国に併合されたと考えられます。

 磐城(いわき)国は、明治元年12月の太政官布告により、白河・白川・石川・田村・菊多・磐前・磐城・楢葉・標葉・行方・宇多・伊達・亘理の13郡が属し、翌2年12月伊達郡が岩代国へ、刈田・伊具2郡が岩代国から磐城国へ移されました。元来地理・社会的に不自然な地域区分であったところから、有名無実の広域地名となっています。 

 石城(いわき)郡は、古代から現代までの郡名で、初見は『常陸国風土記』多珂郡の項に「多珂・石城二郡を分置した」とあり、当初は陸奥国に編入され、養老2年5月陸奥国から石城国へ移りました。和名抄は「伊波岐(いはき)」と訓じます。奈良時代初期は石城郡、同中期以後は磐城郡と書き、平安時代末期ごろに磐前、磐城、楢葉の3郡に分かれたものと思われます。浜通りの南部に位置し、北は楢葉郡、東は太平洋、南から西は磐前郡に接します。明治29年菊多郡・磐前郡と合併して石城郡となりました。

 この「いわき」は、(1)石(いわ)の脇から、(2)湯涌(ゆわき)から、(3)石木(木の化石)が出土したからなどの説があります。

 この「いわき」は、

  「イ・ハキ」、I-HAKI(i=past tense;haki=ripple)、「(阿武隈山地の皺が寄つたような)山波が続く・あたり(一帯の。地域)」

の転訛と解します。

(13−5) 楢葉(ならは)郡

 楢葉郡は、中世から現代までの郡名で、和名抄の磐城郡12郷の中に楢葉郷の名がみえ、郡名の初見は建武4年5月の相馬胤時軍忠状で、古代の石城郡が平安時代末期ごろに磐前、磐城、楢葉の3郡に分かれたものと思われます。浜通り中部、富岡川から木戸川にかけての流域を中心とする地域で、北は行方郡、東は太平洋、南は磐前郡・磐城郡、西は田村郡に接します。明治29年一部を除き(川前村が石城郡へ)、標葉郡と合併して双葉郡となりました。

 この「ならは」は、

  「(ン)ガラ・パ」、NGARA-PA(ngara=snarl;pa=block up,stockade)、「(朝廷に)反抗する・(蝦夷の)集落(がある。地域)」(「(ン)ガラ」のNG音かN音に変化して「ナラ」と、「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハ」となった)

の転訛と解します。

(13−6) 標葉(しねは。しめは)郡

 標葉郡は、古代から現代までの郡名で、志根輪・椎葉とも書き、『国造本紀』に「染羽(しめは)国造」がみえ、和名抄は「志波(しは)」と訓じ、「しねわ」、「しめは」、「しいは」とも読まれます(「しねは」または「しめは」との読みが一般です)。初見は『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多の6郡を割いて石城国を置く」とあり、浜通り中央からやや北側に位置し、北は行方郡、東は太平洋、南は楢葉郡・田村郡、西は安達郡に接します。明治29年楢葉郡(川前村を除く)と合併して双葉郡となりました。

 この「しねは」、「しめは」は、

  「チネイ・パ」、TINEI-PA(tinei=put out,quench,destroy;pa=block up,stockade)、「(火を消した)消滅した・集落(が多くある。地域)」(「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハ」となった)

  「チヒ・メハ」、TIHI-MEHA(tihi=summit,peak,lie in a neap;meha=apart,separate)、「(都から)遠く離れた・高原(が広がる。地域)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

の転訛と解します。

(13−7) 行方(なめかた)郡

 行方郡は、古代から現代の郡名で、初見は『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多の6郡を割いて石城国を置く」とあり、和名抄は「奈女加多(なめかた)」と訓じ、浜通り北部に位置し、北は宇多郡、東は太平洋、南は標葉郡、西は伊達郡に接します。明治29年宇多郡と合併して相馬郡(相馬の郡名については(15) 相馬(そうま)市の項を参照してください。)となりました。

 この「なめかた」は、

  「ナ・マエ・カハ・タ」、NA-MAE-KAHA-TA(na=by,belonging to:mae=languid,withered;kaha=strength,rope,boundary line of land etc.,edge;ta=dash,lay)、「荒涼とした・(国の)境界に・位置する(場所の)・ような(地域)」(「マエ」のAE音がE音に変化して「メ」と、「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

  または「ナ・メカ・タ」、NA-MEKA-TA(na=by,belonging to;meka,mekameka=chain,a form of ladder;ta=dash,lay,allay)、「梯子・のような(岩が)・ある(霊山がある。地域)」

の転訛と解します。

(13−8) 宇多(うだ)郡・松川浦(まつかわうら)

 宇多郡は、古代から現代の郡名で、宇田、宇太、雅楽とも書き、初見は『続日本紀』養老2年5月条に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多の6郡を割いて石城国を置く」とあり、和名抄は「宇太(うた)」とし、浜通り北端に位置し、北は宇多郡、東は太平洋、南は標葉郡、西は伊達郡に接します。明治29年行方郡と合併して相馬郡(相馬の郡名については(15) 相馬(そうま)市の項を参照してください。)となりました。

 当郡の東部、宇太川・小泉川・日下石川の河口に、単調な海岸線が続く浜通りにあって唯一の南北5km、東西3kmの大きなかぎ形のラグーン(潟湖)の松川浦があり、古くから港として利用されてきました。

 この「うだ」、「まつかわうら」は、

  「ウタ」、UTA(put persons or goods on board a canoe etc.)、「(人や物資を船に載せる)船着き場(がある。地域)」

  「マ・アツ・カワ・ウラ(ン)ガ」、MA-ATU-KAWA-URANGA(ma atu=go,come;kawa=heap,channel;uranga=place of arrival)、「往来する・(川の)水路の・船着き場(浦)」(「マ」のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「マツ」と、「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウラ」となった)

の転訛と解します。

(14) 棚倉(たなぐら)町

 東白川郡棚倉町は、阿武隈高地と八溝山地にはさまれた久慈川上流部に位置する町です。福島・栃木・茨城三県の県境にある八溝山(1,022メートル)の北側、棚倉町側斜面に源を発して北東流する久慈川が、阿武隈高地にぶつかって南に流れを変え、阿武隈高地と八溝山地の間に狭い峡谷を刻みます(ここを「棚倉地質構造線」が走っています)が、その曲流点が町の中心部です。この久慈川の方向転換は、「阿武隈川上流とは低丘陵で分水を画しており、下刻作用の盛んな久慈川が阿武隈川上流を争奪したものと考えられる」(『世界大百科事典』日立デジタル平凡社CD-ROM版、1998年)とされています。

 古代八溝山は産金の地で、久慈川渓谷沿いの常陸水戸と奥州道中を結ぶ大田街道(現国道118号)は古来常陸国と陸奥国を結ぶ重要なルートであり、この棚倉の地に坂上田村麻呂が祀ったと伝えられる陸奥国一宮の都都古別(つつこわけ)神社が鎮座するということは、大和朝廷の陸奥国の経営はこの棚倉から始まったものと考えられる要衝の土地でした。江戸初期には奥州最南端の押さえとして重視されましたが、次第に重要性が薄まり、中期以降の棚倉藩は大名の左遷による頻繁な交替と城下町の大火によって衰微したようです。

 この「たなくら」の地名は、(1)「タナ(段丘など棚状の土地)」から、(2)「タナ(小高い土地)」から、(3)「タナ(断崖、岩の多い所)」から、(4)「タニ(谷)」の転などの説があります。

 この「タナクラ」は、マオリ語の

  「タ・ナク・ラ」、TA-NAKU-RA(ta=the;naku=dig,scratch;ra=wed)、「(川の流れで土地が)掘られて(南流する川と)結合した(北から南に川の流れが変った土地)」

の転訛と解します。

 

(15) 相馬(そうま)市

 相馬市は、福島県北東部、太平洋岸に位置する浜通り北部の中心都市です。平将門の後裔といわれる千葉六党の一つの下総国相馬郡の相馬氏が元亨3(1323)年に陸奥国行方郡太田(現原町市太田)に移って奥州相馬氏となり、慶長16(1611)年に相馬利胤が伊達氏に対抗して宇多郡中村に城を築いて以来、相馬六万石の城下町として発展しました。

 この「そうま」の地名は、現在茨城県北相馬郡として残り、千葉県南相馬郡は東葛飾郡と合併して消滅し、また青森県中津軽郡にも相馬村、相馬川の地名があります。この「そうま」は、(1)「サ(接頭語)・ウマ(ウバ(崖、自然堤防)の転)」から、(2)利根川氾濫原の「ソウ(沿)・マ(間)」から、(3)「サ(狭)・ヌマ(沼)」の転などの説があります。

 この「ソウマ」は、マオリ語の

  「トウ・マ」、TOU-MA(tou=wet;ma=white,clear)、「清らかな湿地」

の転訛と解します。

 

(16) いわき市ー夏井(なつい)川、背戸峨廊(せとがろう)

 いわき市は、福島県浜通り南部の日本一面積の広い市で、昭和41年に平、勿来、常磐、内郷の5市と石城(いわき)郡の7町村、双葉郡の2町村が合併して成立しました。市域は、阿武隈高地とそこに峡谷を刻んで流れ出す夏井(なつい)川、藤原川、鮫川などの沖積地から成り、東は太平洋に面しています。

 この「いわき」の地名は、古くは陸奥国石城郡として『続日本紀』養老2(718)年の条にみえ、『和名抄』には「伊波岐」と訓じられ、明治元年陸奥国が磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の五国に分割された際の旧国名ともなりました。

 この「いわき」は、(1)「イワ(岩)・キ(城)」で「石の砦」の意、(2)「イワ(岩)・キ(接尾語。場所)」から、(3)「イ(湯)・ワキ(湧)」で温泉の湧く場所の意、(4)「イワ(岩)・キ(木)」で石炭の出る場所の意などの説があります。

 この「イワキ」は、マオリ語の

  「イ・ハキ」、I-HAKI(i=past tense;haki=ripple)、「(阿武隈山地の皺が寄つたような)山波が続く・あたり(一帯の。地域)」

の意と解します。

 いわき市の中央を流れる夏井川は、阿武隈高地を東流する最長の川で、阿武隈高地最高峰の大滝根山(1,192メートル)の南斜面に発して南また南東流し、上流部は隆起準平原上の谷底平野をゆるやかに流下しますが、中流部のいわき市川前付近から約10キロメートルは深い渓谷を刻み、岩床が露出して滝や淵が続きます。支流江田川には、深い谷の中に奇岩や滝が続く背戸峨廊(せとがろう)の景勝があり、夏井川渓谷県立自然公園の目玉となっています。

 この「ナツイ」は、マオリ語の

  「ナ・ツイ」、NA-TUI(na=made by,belonging to;tui=pierce,sew)、「(岩を)穿って(縫って)流れる(ような川)」

の意と解します。

 また、「セトガロウ」は、マオリ語の

  「テ・トウ・(ン)ガロ」、TE-TOU-NGARO(te=crack;tou=dip into liquid,wet;ngaro=hidden,absent)、「谷(の割れ目の中)の・水が(踊って)流れる・隠された(場所。渓谷)」(「(ン)ガロ」のNG音がG音に変化して「ガロ」となった)

の転訛と解します。

 

(17) 勿来(なこそ)関

 古代の常陸国と陸奥国海岸沿いの境にあった関所で、白河(福島県白河市)、念珠(山形県西田川郡温海町)とともに奥羽三関の一つといわれました。はじめは、菊多(きくた)関と称されましたが、やがて「夷(えびす)よ、来るな」という意味で勿来関と呼ぶようになったといいます。現在の福島県いわき市勿来町関田関山あたりとされますが、確かではありません。

 この「ナコソ」は、マオリ語の

  「ナ・コト」、NA-KOTO(na=belonging to;koto=sob,loathing)、「(通行人の)殆どに・嫌がられる(関所)」

の転訛と解します。

 京都市右京区にある大覚寺の東にある大沢池の北側にあった「名古曽(なこそ)滝」も、勿来関と同じく平安時代から歌の名所とされましたが、この「ナコソ」も同じ語源で「すすり泣くような(音が聞こえる滝)」の意と解します。

 なお、菊多関の「キクタ」は、マオリ語の

  「キ・クタ」、KI-KUTA(ki=many;kuta=encumbrance)、「(通行人にとって)たいへん・邪魔になる(関所。勿来関がある地域)」

の意と解します。

トップページ 地名篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引


<修正経緯>

1 平成14年10月7日  北海道の(8)襟裳岬の解釈を一部修正しました。

2 平成15年5月1日  宮城県の(4)古川市の項の小牛田町の解釈を追加修正しました。

3 平成16年9月1日  青森県の(15)奥入瀬川の解釈を修正し、
 岩手県の(8)宮古湾の解釈を修正し、(15)胆沢市の解釈を追加修正し、
 宮城県の(1)栗駒山に関連する駒ケ岳の解釈、(3)鳴子温泉に関連する尿前の関の解釈、(4)古川市の緒絶川の解釈、(8)牡鹿半島の解釈、(9)石巻湊の解釈、(13)広瀬川の作並温泉の解釈、(14)名取川の秋保温泉および閖上浜の解釈、(16)の蔵王連峰の不忘山の解釈を修正し、
 秋田県の(2)八郎潟の解釈、(6)阿仁川の解釈、(7)花輪(鹿角)盆地の解釈、(9)田沢湖の辰子潟の解釈の一部、(11)雄物川および関連の面河渓の解釈、(17)由利郡の解釈を修正し、
 山形県の(1)出羽国の解釈を追加し、(2)鳥海山の鳥ノ海の解釈、(3)遊佐町の解釈を修正し、(6)最上川の解釈を追加修正し、(7)湯殿山の解釈、(16)飯豊山の関連の飯豊青皇女の解釈、
 福島県の(4)会津および(7)会津坂下町の解釈を追加修正しました。

4 平成17年1月1日 北海道の国後島の別解釈を追加しました。

5 平成17年8月1日 北海道に(14-2)知床半島・羅臼岳の項を追加しました。

6 平成19年2月15日 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

7 平成19年6月1日 青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県について、古い郡名を中心に補完および全体の見直しを行いました。詳細は、次のとおりです。
 北海道ー(2)白神岬の解釈を修正、(3)枝幸の別解釈を追加、(14)野付半島の解釈を修正しました。
 青森県ー(2)津軽の解釈を一部修正、同項に平賀郡(庄)・鼻和郡(庄)・田舎郡(庄)の解釈を追加し、(2−2)夏泊半島の項および(2−3)黒石市・じょんから節・五所川原市の項を追加、(4)白神山地の解釈を修正、(8−2)糠部郡・階上郡(海上郡)・北郡・三戸郡の項を追加、(11)恐山にイタコ(巫女)のリンクを追加、(11−2)田名部・小川原湖・砂土路川・土場川・高瀬川・つぼのいしぶみ(壺の碑)の項を追加、(13)八甲田山の田茂萢岳の解釈および(17)種差海岸・蕪島の解釈を修正しました。
 岩手県ー(1)岩手山の解釈を修正、(2)盛岡市の不去方の解釈を一部修正、(3−2)斯波郡・志賀理和気神社・徳丹城の項を追加、(4)早池峰山の解釈および同項の大償の解釈を一部修正、(4−2)稗縫(稗貫)郡・毒ヶ森山塊・駒頭山・大空の滝・大ヘンジョウの滝・豊沢(とよさわ)川の項を追加、(5)姫神山の項の渋民村の解釈を修正、(12)釜石市の解釈を一部修正、(15)胆沢市の項に胆沢郡を追加、(15−2)江刺郡の項を追加、(17)和賀郡の項の解釈を一部修正、同項に江釣子村の解釈を追加、(17−2)磐井郡・平泉町・達谷窟・悪路王の項および(17−3)気仙郡・大船渡市・理訓許段神社・乱曝谷の項を追加しました。
 宮城県ー(1−2)栗原郡・迫川の項および(1−3)玉造郡の項を追加、(2)荒雄川の項に江合川の解釈を追加、(3−2)遠田郡・長岡郡・小田郡の項、(3−3)志田郡の項、(4−2)登米郡・新田郡・讃馬郡の項および(5−2)本吉郡の項を追加、(6)気仙沼湾および(7)桃生郡の解釈を修正、(7−2)牡鹿郡の項、(10−2)加美郡・色麻郡・富田郡・鳴瀬川の項、(10−3)黒川郡・吉田川・品井沼・鶴田川・高城川の項、(10−4)宮城郡の項、(13−2)名取郡の項および(14−2)亘理郡の項を追加、(15)阿武隈川の解釈を修正、(15−2)柴田郡の項を追加しました。
 秋田県ー(2−2)山本郡の項、(2−3)仙北郡の項、(2−4)秋田郡・檜山郡の項および(2−5)河辺郡・豊島郡の項を追加、(3)秋田市の項に久保田の解釈を追加、(6−2)鹿角郡・比内郡・贄の柵の項および(13−2)雄勝郡の項を追加、(16)由利郡の項に飽海郡を追加しました。
 山形県ー(3)飽海郡の解釈を修正、同項に遊佐郡を追加、(5−2)出羽郡・都岐沙羅柵・田川郡・櫛引郡の項を追加、(6)最上川および(8)鼠ヶ関の解釈を修正、(9−2)最上郡の項、(9−3)村山郡の項、(9−4)置賜郡の項、(11)寒河江市の解釈を修正、同項に左沢の解釈を追加、(17)有耶無耶関の解釈を修正しました。
 福島県ー(1)磐梯山の解釈を修正、(4)会津の解釈を一部修正、(4−2)石背国・岩代国の項、(4−3)会津郡の項、(4−4)耶麻郡の項、(4−5)大沼郡の項および(4−6)河沼郡の項を追加、(8)阿賀川の項に日橋川の解釈を追加、(10−2)白河郡の項、(10−3)石川郡の項、(10−4)高野郡の項、(10−5)岩瀬郡・乙字ケ滝の項、(10−6)安積郡の項、(10−7)田村郡・三春・大多鬼丸の項、(10−8)安達郡の項、(10−9)信夫郡の項および(10−10)伊達郡の項を追加、(13)白河市の解釈を修正、(13−2)菊多郡の項、(13−3)磐前郡の項、(13−4)石城国・磐城国・石城郡・磐城郡の項、(13−5)楢葉郡の項、(13−6)標葉郡の項、(13−7)行方郡の項および(13−8)宇多郡・松川浦の項を追加、(16)いわき市および背戸峨廊の解釈を修正、(17)勿来関の解釈を修正しました。

8 平成21年12月6日

 岩手県の(17)和賀郡の江釣子村の解釈の一部を修正しました。

9 平成22年6月15日

 北海道に(7−2)フゴッペ洞窟および(16−2)白滝幌加沢(ほろかざわ)遺跡の項を追加しました。

10 平成22年9月1日

 北海道に(5−2)奥尻島、青苗岬の項、(16−3)利尻島、礼文島、スコトン岬の項および(16−4)焼尻島、天売島の項を追加し、(13)納沙布岬の項に珸瑶瑁水道の解釈を追加しました。
 秋田県の(2)八郎潟の解釈を修正しました。

11 平成22年10月1日

 北海道に(7−3)旭岳の項を追加し、青森県の(14)十和田湖の項の解釈を一部修正し、岩手県に(1−2)八幡平の項を追加し、(15)胆沢市の項を胆沢郡の項に変更し、同項に(旧)水沢市の解釈を追加し、福島県の(3)猪苗代湖の項の解釈を一部修正しました。

12 平成23年2月1日

 秋田県の(9)田沢湖の項にクニマスの解釈を追加しました。

13 平成24年3月1日

 青森県の(12) 三内丸山(さんないまるやま)の項の解釈を一部修正し、岩手県に(6−2) 根井(ねい)・安家(あっか)川の項を追加し、秋田県に(6−3) 達子森(たつこもり)・サツ比内(さっぴない)・長内沢(おさない)の項を追加しました。

14 平成24年5月1日

 北海道の(6) 室蘭(むろらん)の解釈の一部を修正しました。

15 平成24年10月1日

 秋田県の(17) 象潟(きさかた)の解釈を修正しました。

16 平成26年12月1日

 青森県の部に(4−2) 鰺ヶ沢(あじがさわ)町・舞戸(まいと)・艫作(へなし)崎の項を追加しました。

地名篇(その二) 終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
 このHPの内容をそのまま、または編集してファイル、電子出版または出版物として
許可なく販売することを禁じます。
Copyright(c)1998-2014 Masayuki Inoue All right reserved