地名篇(その四)

(平成11-9-1書込み。23-3-1最終修正)(テキスト約41頁)


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 [ここでは『和名抄』所載の旧国名、旧郡名のほか、その地域の主たる古い地名などを選び、原則としてマオリ語により(ハワイ語による場合はその旨注記します)解説し、その他はまたの機会に譲ることとします。]

 

  目 次 <近畿地方の地名(その二)>

 

27 大阪府の地名

 

 摂津国難波津能勢郡三島郡水無瀬高槻市芥川茨木市安威(あい)川豊島郡吹田市箕面山東成郡・西成郡十三南方茶臼山道修町放出(はなてん)坐摩(いかすり)神社・都下野(とがの)・渡辺(わたなべ)・生井(いくい)神・福井(さくい)神・綱長井(つながい)神・波比祇(はひき)神・阿須波(あすは)神河内国枚方市楠葉交野市私市(きさいち)寝屋川茨田(まんだ)郡太間町生駒山日下越え石切枚岡神社暗峠越え、瓜生堂八尾市弓削志紀郡・丹比(たじひ)郡藤井寺市国府ボケ山古墳岡ミサンザイ古墳羽曳野市古市誉田(こんだ)、高鷲丸山古墳科長(しなが)千早和泉国堺市百舌鳥耳原石津丘古墳ニサンザイ古墳イタスケ古墳日根郡深日(ふけ)

 

28 兵庫県の地名

 

 川辺郡猪名川多田銀山尼崎大物(だいもつ)浦伊丹市昆陽池六甲山地甲山摩耶山須磨鵯越え菟原郡八田部郡広田神社、生田神社、長田神社、住吉神社有馬温泉播磨国明石市舞子加古川・加古郡印南野美嚢郡三木市飾磨郡夢前川菅生川雪彦(せつびこ)山姫路市伊和里手苅丘瞋塩(いかしほ)砥掘網干浜高砂市石の宝殿揖保郡揖保川龍野市赤穂郡赤穂市相生市佐用郡宍粟(しそう)郡神埼郡多可郡賀茂郡多紀郡篠山盆地氷上郡但馬国朝来郡生野銀山養父郡氷ノ山・須賀ノ山明延鉱山出石郡城崎郡津居山円山川気多郡神鍋山美含郡香住町竹野町二方郡浜坂町但馬御火(みほ)浦七美郡淡路国津名郡松帆ノ浦岩屋港三原郡諭鶴羽山地由良港生石(おいし)崎

<修正経緯>


 

<近畿地方の地名(その二)>
 

27 大阪府の地名

 

(1) 摂津(せっつ)国

 

 摂津国は、五畿内の一つで、現在の大阪府の北西・南西部及び兵庫県の東部の地域にあたる旧国名です。『延喜式』には住吉、百済、東成、西成、島上、島下、豊島(てしま)、川辺、武庫(むこ)、菟原、八部(やたべ。8世紀には雄伴(おとも)郡)、有馬、能勢の13郡の名がみえます。

 古くは津国であったのが、ここには重要な港である難波津があったため、大宝令によって国守に代えて港と市を管理する摂津職(せっつしき)が置かれたので、摂津国となったといわれています。この摂津職は、長岡京への遷都(784年)、平安京への遷都(794年)に伴い、延暦12(793)年に廃止されています。

 この「せっつ」は、「津」を「摂(取り仕切る)」する官名「摂津職」からとされます。
 

古田武彦『古代通史』(1994年、原書房)から(原図は『大阪府史』第一巻所載のもの)
 

 この「せっつ」は、古代の大阪の淀川の河口には、大和川が流入する大きな入り江(河内潟)が広がっており、その入り江と海との間を仕切るように細長い上町台地(丘陵)が南から北へ向かって延びていましたが、この特異な地形を指したもので、マオリ語の

  「テ・ツ」、TE-TU(te=the,crack;tu=girdle for man or woman to which the MARO(a sort of kilt or apron) was attached)、「切れ目のある飾帯(を締めている地域。上町台地が入り江の前面に延びている地域)」

の転訛と解します。この「ツ」は、滋賀県の賎ヶ岳の「しず」の「ツ」と同じ語源です。

(2) 難波(なにわ)津

 

 『日本書紀』神武即位前紀戊午年2月の条に神武天皇の軍が「難波碕(なにはのみさき)に到るときに、奔き潮有りて太だ急(はや)きに會ひぬ。因りて、名づけて浪速(なみはや)国とす。亦浪花と曰ふ。今、難波(なには)と謂ふは訛れるなり」とあります。また、『古事記』には「浪速(なみはや)の渡りを経て、青雲の白肩(しらかた)津に泊てたまひき」とあります。

 この「なにわ」は、この記紀伝承のほか、「ナ(魚)・ニワ(庭)」で「魚の多いところ」と解する説があります。

 この「なみはや」は、マオリ語の

  「ナ・ミハ・イア」、NA-MIHA-IA(na=belonging to;miha=admire,wonder;ia=indeed,current)、「実に驚くべき潮流(の速い場所)」

の転訛と解します。

 また、「なにわ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ナニ・ワ」、NANI-WA(nani=noisy;wa=place)、「(港や市に人が大勢集まって)騒がしい音がする場所」

  または「ナニ・ワ」、NANI-WA(nani(Hawaii)=beautiful;wa(Hawaii)=place)、「美しい場所」

  または「ナ・ニワ」、NA-NIWHA(na=belonging to;niwha=resolute,fierce,rage)、「(潮流が荒くて)恐ろしい・というべき(場所)」

の転訛と解することができます。

 

(3) 能勢(のせ)郡

 

 大阪府の北西に位置する能勢郡(現能勢町、豊能町の区域)は、和銅6(713)年9月に河辺郡から分かれた郡です。『続日本紀』には「河辺郡の玖左佐(くささ)村が山川遠隔、道路険難であるため、大宝元(701)年から館舎を建て、郡に準じて公務を行ってきた」とあります。

 この郡には、長歴元(1037)年採銅所が設置され、室町後期まで存続しています。この鉱脈が、のちの多田銀山として多田源氏の勢力を支えることとなりました。(兵庫県の川辺郡の多田銀山の項を参照してください。)

 この「のせ」は、マオリ語の

  「(ン)ゴテ」、NGOTE(diminutive,anything small of its kind)、「小さい(地域。郡)」(原ポリネシア語の「(ン)ゴテ」NG音がN音に変化して「ノテ」から「ノセ」となった)

  または「ノホ・テ」、NOHO-TE(noho=sit,stay,settle;te=crack)、「(河辺郡から)分かれた場所に・位置する(地域。郡)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

(4) 三島(みしま)郡

 

a 三島郡(島上(しまのかみ)郡、島下(しまのしも)郡)

 高槻市、茨木市を中心とする淀川右岸一帯は、古くから開けた地帯で、交通の要衝を占め、三島地方と呼ばれていました。『日本書紀』神武即位前紀に出てくる神武天皇の正妃、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命の祖父三嶋溝咋耳(みしまみぞくひみみ)命の本拠地と考えられます。(なお、媛蹈鞴五十鈴媛については、古典篇(その一)を参照してください。)

 この「みしま」は、マオリ語の

  「ミ・チマ」、MI-TIMA(mi=urine,stream;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形(リアス式海岸のような地形)の場所を流れる川(安威川。およびその流域を中心とする地域)」

の転訛と解します。

 

b 水無瀬(みなせ)

 水無瀬は、三島郡(もとは島上郡)島本町を流れる水無瀬川がつくつた三角州の上の広瀬・東大寺付近の地区の古名で、広瀬で水無瀬川が淀川に合流する地点は水陸交通の拠点であり、また、歌枕の地でした。『摂津国風土記』逸文にみえ、『日本後記』などに「水生野(みなせの)」とあり、東大寺文書に「水成荘」とあります。

 この地は、天平勝宝8(756)年東大寺に勅施入されて水無瀬荘となりました。のち後鳥羽上皇はこの地に離宮水無瀬殿を営み、上皇の没後御影堂が建てられ、水無瀬宮となり、現在は水無瀬神宮となっています。

 この「みなせ」は、(1) 「水のつくった野、扇状地」の意、

(2) 「ミ(水)のセ(瀬)」(水が瀬になるところ)の意と解する説があります。

 この「みなせ」は、ハワイ(マオリ)語の

  「ミナ・テ」、MINA-TE(mina(Hawaii)=minamina=to regret,to prize greatly,worth;te=crack)、「素晴らしい(風光があって讃美される)川瀬」

の転訛と解します。

 

c 高槻(たかつき)市

 高槻市は、京都市と大阪市のほぼ中間に位置する住宅都市で、北部の老ノ坂山地と南部の芥川、淀川の沖積低地からなっています。古代からの西国街道沿いの先進地域で、弥生時代の安満(あま)遺跡、真の継体天皇陵とする説が有力な今城塚古墳、島上郡衙遺跡などがあります。

 この「たかつき」は、(1) 平安時代の「高月殿」の館名から、

(2) 「タカ(高)・ツキ(けやき)」からという説があります。

 この「たかつき」は、マオリ語の

  「タカ・ツキ」、TAKA-TUKI(taka=heap,lie in a heap;tuki=beat,attack)、「(芥川が流れ下って)襲う高台(水害に見舞われる地域)」

の転訛と解します。滋賀県伊香郡高月(たかつき)町も、余呉川、高時川が流れ下って襲う地域です。

 

d 芥(あくた)川

 茨木市の北端、京都府との境の明神ケ岳(524メートル)に源を発する芥(あくた)川が、市域の中央を南に流れて淀川に注いでいます。

 この「あくた」は、マオリ語の

  「アク・タ」、AKU-TA(aku=delay,scrape out,cleanse;ta=dash)、「噴流して(土地を)削り取る(川)」

の転訛と解します。

 

e 茨木(いばらき)市

 茨木市は、高槻市の南で、北部の老ノ坂山地と南部の安威(あい)川、茨木川が形成した古扇状地と淀川右岸の沖積低地からなっています。山麓部の西国街道沿いの一帯は古くから開け、伝継体天皇陵、紫金山古墳、将軍塚古墳などの三嶋古墳群があります。

 茨木市五十鈴町には溝咋(みぞくい)神社があって、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命、溝咋玉櫛媛(みぞくひたまくしひめ)、三嶋溝咋耳(みしまみぞくひみみ)命を祀ってています。『日本書紀』神武即位前紀庚申年9月の条に事代主神と三嶋溝咋耳命の女玉櫛媛との子「媛蹈鞴五十鈴媛命」を正妃に迎えたとあります。そうしますと、このあたりが三嶋地方に勢力を張り、神武天皇と連携した豪族の本拠地であったと思われます。

 この「みしま」は、前述のとおり、高槻市、茨木市にまたがる出入りの多い山麓部、丘陵地帯とそこを流れる安威川の地域を指したもので、マオリ語の

  「ミ・チマ」、MI-TIMA(mi=urine,stream;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形(リアス式海岸のような地形)の場所を流れる川(安威川。およびその流域を中心とする地域)」

の転訛と解します。

 この「いばらき」は、(1) 刺のある小木が多く繁っていたことによる、

(2) 「ウバ(崖地)」の転などの説があります。

 この「いばらき」は、マオリ語の

  「イ・パラ・キ」、I-PARA-KI(i=past time,beside;para=cut down bush,clear;ki=full)、「薮を切り開いたところ(開拓地)が多い土地一帯(の地域)」

の転訛と解します。茨城県の「いばらき」と同じ語源です。

 

f 安威(あい)川

 安威川は、京都府亀岡市の竜ケ尾山(413メートル)に源を発し、南流して、茨木川、勝尾寺川を合流し、茨木市の平野部に出てからは淀川と並行して南西に流れ、淀川から分流した神崎川と合流し、さらに猪名川等を合流して大阪湾に注ぎます。なお、神崎川は、延暦4(785)年に開削されたといいます。

 この「あい」は、マオリ語の

  「アイ」、AI(procreate,beget)、「子を産む(淀川本流に合流せずに並行して流れ、淀川より小さい川のまま(子供の川として)大阪湾に注ぐ川)」

の転訛と解します。

 

(5) 豊島(てしま)郡

 

a 豊島郡

 豊島郡は、おおむね千里丘陵およびその後背山地をふくむ地域で、吹田市、豊中市、箕面市を含む地域です。

 この「てしま」は、「テ」は「ト(鋭)」の転で「自然堤防」、「シマ(一定の区域)」の意とする説があります。

 この「てしま」は、マオリ語の

  「テ・チマ」、TE-TIMA(te=the;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形(リアス式海岸のような地形)の場所(千里丘陵。およびその後背山地をふくむ地域)」

の転訛と解します。

 

b 吹田(すいた)市

 吹田市は、茨木市の南、大阪市の北で、北部の千里丘陵と南部を流れる神崎川、安威川の沖積低地からなっています。千里丘陵には、平安時代に右馬寮の豊島牧が置かれました。

 この「すいた」は、(1) 湿地帯の「フケ」田に「吹田」の字をあてた、

(2) 水田に生えるクワイの産地の意、

(3) 「次(つぎ)田」の誤写とする説などがあります。

 この「すいた」は、千里丘陵の浅い谷が放射状に分布する地形を指した地名で、マオリ語の

  「ツイ・タ」、TUI-TA(tui=lace,sew,hurt;ta=lay,allay)、「糸で縫い合わせたような地形(浅い谷を持つ丘陵)が並んでいる(場所。千里丘陵)」

の転訛と解します。

 

c 箕面(みのお)山

 箕面山は、箕面市中西部に広がる山地の総称です。北側は北摂山地で、南縁は断層崖をなし、山麓には扇状地性の平坦地が展開しています。山中を南流する箕面川の峡谷には、落差33メートルの箕面滝があり、奇岩巨石が連なり、紅葉の名所となっています。昭和42(1967)年明治の森箕面国定公園に指定されました。

 この「みのお」は、(1) 滝の流水が箕の面に似ているから、

(2) 「水尾」の意とする説があります。

 この「みのお」は、マオリ語の

  「ミ(ン)ゴ・アウ」、MINGO-AU(mingo=wrinkled,curled;au=firm,intense)、「密に皺がよった(山)」

の転訛(「ミ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ミノ」となり、「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)と解します。

 

(6) 東成(ひがしなり)郡・西成(にしなり)郡

 

a 東成郡・西成郡

 東成郡・西成郡は、大阪市中央部に南から北に伸びている上町台地の北端部のそれぞれ東部、西部の地域です。古代には、この上町台地の東側には、大きな入り江(河内潟)があり、湊がありました。

 この「なり」は、上町台地の東・西側の緩傾斜地を指すとする説があります。

 この「なり」は、マオリ語の

  「(ン)ガリ」、NGARI(annoyance,disturbance,greatness,power)、「(出入りを)妨害する(岬。上町台地)」

の転訛(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)と解します。

 

b 十三(じゅうそう)

 大阪市淀川区の新淀川北岸に十三の地名があります。慶長10(1605)年の『摂津国絵図』に「十祖」とみえ、中津川十三渡しがありました。

 この「じゅうそう」は、本来は「ツツミ」で中津川の堤防を指すという説があります。

 この「じゅうそう」は、マオリ語の

  「チウ・トウ」、TIU-TOU(tiu=swing,north;tou=wet,lower end of anything)、「北(岸)にある湿地」

の転訛と解します。

 

c 南方(みなみかた)

 十三の東に、阪急京都線「南方」駅と地下鉄御堂筋線「西中島南方」駅があります。この地は、古代の淀川の河口の内側にあった河内潟の出口にあたる場所で、『古事記』神武東遷の条に五瀬命が楯津で負傷したため、「南方より廻り幸でましし時、血沼海に到り」とあり、この「南方」にあたるものと考えられます。(『古事記』原文には「自南方廻幸之時、到血沼海」とあり、岩波大系本は「南の方」と訓じていますが、当時の地理からみて、淀川・河内潟の河口の「南方」を経由したと解するのが至当です。)

 この「みなみかた」は、ハワイ(マオリ)語の

  「ミナ・ミ・カタ」、MINA-MI-KATA(mina(Hawaii)=minamina=to regret,to prize greatly,worth;mi=urine,stream;kata=opening of shellfish)、「素晴らしい(風光があって賛美される)川(淀川)と潟(河内潟)」

の転訛と解します。この「ミナ」は、上述の「水無瀬」の「ミナ」と同じ語源です。

 

d 茶臼(ちゃうす)山

 大阪市内の上町台地の中でもひときわ高い場所が四天王寺に近い天王寺公園付近です。古くから竹内街道、西高野街道、熊野街道などが通過する交通の要衝で、南北朝時代には元弘2(1332)年の天王寺合戦以来、たびたび争奪の的となり、石山合戦(1570〜80年)では織田信長が砦を築き、大阪の陣では徳川家康の本営が置かれました。この公園の北東隅に、茶臼山古墳があります。四天王寺を別名荒陵(あらはか)寺というのも、この古墳の存在によるものでしょう。

 この「ちゃうす」は、古墳の形状からとされています。

 この「ちゃうす」は、マオリ語の

  「チア・ウツ」、TIA-UTU(tia=peg,adorn by sticking feathers,slave,servant,abdomen;utu=satisfaction,dip into water etc.,spur of a hill)、「墳丘の上を(埴輪などを並べて)飾った(古墳)」

の転訛と解します。(次回書き込み予定の奈良県の桜井茶臼山古墳および五社神(ごさし)古墳の項で詳説しますので、参照してください。)

 

e 道修(どしょう)町

 大阪市中央区に道修町があります。江戸時代から続く船場の典型的な商人町で、薬種問屋が密集する町として有名でした。江戸初期は、道修(どうしゅ)谷と呼ばれていました。

 この地名は、(1) 上町台地に切れ込む谷地の名称が町名となった、

(2) かって道修寺という寺院があったから、

(3) 北山道修という医師が開業し、門前に薬屋が集まったからなどの説があります。

 この「どうしゅ」は、マオリ語の

  「トウ・チウ」、TOU-TIU(tou=wet,lower end of anything;tiu=swing,north)、「蛇行する谷の出口」

の転訛と解します。京都府の「途中峠」の項の途中町の「とちゅう」と、上記の「十三」(「チウ・トウ」と語順が逆になっています)とも同じ語源です。

 

f 放出(はなてん)

 大阪市城東区と鶴見区にまたがる工業地区の名で、古くは「はなちで」とも呼ばれたようです。

 ここは淀川旧流路の寝屋川と大和川旧流路の長瀬川が合流する低湿地にあたり、旧河内潟の名残りの新開池の流出口にもあたります。承応4(1655)年に徳庵川が開削され、野崎参りの屋形船はこの新川を遡り、この川の北側の堤道は竜間越えへ続き、大阪と奈良を結ぶ道として利用されました。

 この「はなてん」は、「水の放出口」の意の「ハナチ(放ち)・デ(出)」からとされています。

 この「はなてん」は、古代の地形が今となっては明確ではないのですが、マオリ語の

  「ハ(ン)ガ・テ(ン)ガ」、HANGA-TENGA(hanga=ha=breathe;tenga=Adam's apple)、「呼吸する(潮の干満がある)・喉ぼとけ(のように膨らんでいる遊水池の水面。そこが陸地となった土地)」(NG音がN音に変化して「ハナ・テナ」から「ハナテン」となった)

の転訛と解します。

g 坐摩(いかすり)神社・都下野(とがの)・渡辺(わたなべ)・生井(いくい)神・福井(さくい)神・綱長井(つながい)神・波比祇(はひき)神・阿須波(あすは)神

 坐摩(いかすり)神社は、大阪市中央区にあり、西成郡唯一の式内大社で、近世以降は住吉大社と並んで摂津国一宮を称しています。

 坐摩神社は、社伝によれば神功皇后が三韓征伐から帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったといいます。ここは、新羅江、渡辺(わたなべ)津、窪津ともいわれて栄えた港町(天満橋から天神橋にかけての間の東南、現在の大阪市中央区石町のあたり)で、平安時代後期に源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んで渡辺を名字として渡辺氏を起こし、坐摩神社を掌ったといいます。のち天正11(1583)年豊臣秀吉の大阪城築城にあたり現在地に移転しました。

 坐摩神社の御祭神は、生井(いくい)神(生命力のある井戸水の神)、福井(さくい)神(幸福と繁栄の井戸水の神)、綱長井(つながい)神(釣瓶を吊す綱が長い、深く清らかな井戸水の神)波比祇(はひき)神(竈神。屋敷神。庭の神)、阿須波(あすは)神(竈神。足下の神。足の神であり旅の神)の五柱の総称である坐摩神とされています。

 これらの神は、『古語拾遺』等によると、神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされ、神祇官西院で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていました。『延喜式』によれば坐摩巫は都下(つげ)国造の七歳以上の童女を充てるとされます。「都下」とは、この神社が最初にあった淀川河口の地で、摂津国の菟餓野(とがの。都下野とも。現在の上町台地一帯を指すか)を指すものとされます。

 この「いかすり」、「とがの」、「わたなべ」、「いくい」、「さくい」、「つながい」、「はひき」、「あすは」は、

  「ヒカ・ツリ」、HIKA(perform certain rites with incantations)-TURI(water)、「水(に関すること)を・祈る儀式(祭。その祭神。その祭を行う巫者)」(「ヒカ」のH音が脱落して「イカ」となった)

  「ト(ン)ガ・ノホ」、TONGA-NOHO(tonga=south,southern;noho=sit,settle)、「(摂津地域の)南に・居住する(氏族。国造。その地域)」(「ト(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「トガ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「イ・クイ」、I-KUI(i=ferment,be stirred;kui,kuinga=streamlet,source of a stream)、「(水が)湧き出る・水源(の神)」

  「タ・クイ」、TA-KUI(ta=dash,beat;kui,kuinga=streamlet,source of a stream)、「(水が)噴出する・水源(の神)」

  「ツ(ン)ガ(ン)ガ・ウイ」、TUNGANGA-UI(tunganga=be out of breath;ui=disentangle,disengage)、「(息を止めた)水が出なくなった(井戸を)・生き返らせる(神)」(「ツ(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ツナガ」と、「ウイ」が「ヰ」となった)

  「ハヒ・キ」、PAHI-KI(pahi=ooze,flow,leak;ki=full,very)、「存分に・(水を)出す(神)」

  「アツ・ウワ」、ATU-UWHA(atu=to indicate reciprocated action;uwha=calm,gentle)、「平穏を・維持する(神)」(「アツ」の語尾のU音と「ウワ」の語頭のU音が連結して「アツワ」から「アスワ」となった)

  「ワタ・ナペ」、WHATA-NAPE(whata=elevated stage for storing food and for other purposes;nape=stone of a fruit,core of a boil)、「高くなった(場所または倉庫が置かれる場所の)・中核の(場所。そこに住む氏族)」

の転訛と解します。

(7) 河内(かわち)国

 

 大阪府中東部にあった旧国名で、五畿内の一つです。北は淀川、東は生駒・金剛山地、南は和泉山脈に囲まれ、大部分は淀川と大和川の沖積地で、早くから開発が進められた地域です。また、西に瀬戸内海を控え、交通の要衝でした。

 河内(かわち。かはち)の呼称のほか、『古事記』では「凡川内(おほしかふち)」、『日本書紀』では「大河内(おほしかふち)」などとも書かれましたが、和銅5(712)年の地名二字好字令によって「凡」、「大」が省かれました。『和名抄』は「加不知」(かふち)と、『色葉字類抄』は「カウチ」と訓じています。

 この「かわち」は、(1) 「カハウチ」の約「カフチ」の転(『古事記伝』)、

(2) 大和へ向かう最捷路の大和川の「カハチ(川道)国」から(松岡静雄)、

(3) 淀河の内にある国(『国郡名字考』)、

(4)「川縁(かわふち)」の転とする説があります。

この「かわち(かはち)」は、マオリ語の

  「カハ・チ」、KAHA-TI(kaha=rope,boundary line of the land,edge,ridge of a hill;ti=throw,cast)、「(生駒・金剛山地から和泉山脈という国の)境界線をなす(山地の)地域に・沿って位置している(地域。国)」(「カハ」が「カワ」となった)

の転訛と解します。

 この「かふち」、「かうち」は、マオリ語の

  「カハ・ウチ」、KAHA-UTI(kaha=rope,boundary line of the land,edge,ridge of a hill;uti=utiuti=bite)、「(生駒・金剛山地から和泉山脈という国の)境界線をなす(山地の)地域を・浸食して(いたる所に平地を作って)いる(地域。国)」(「カハ」の語尾のA音が脱落し、「ウチ」と連結して「カフチ」と、また、「カハ」のH音が脱落して「カ」となり、「カウチ」となった)
  または「カフ・チ」、KAHU-TI(kahu=chief;ti=overcome)、「首長(神武天皇の長兄五瀬命)が・打ち倒された(場所(孔舎衛(くさえ)坂)がある地域。その国)」(また「フ」のH音が脱落して「カウ」となった)(もともとはこの事績地名であったのが、次第に忘れられて「かわち」という地形地名に変化したものかも知れません。)

の転訛と解します。

 なお、「凡川内」、「大河内」の「おほし」は、大化前代に国造であった凡川内氏の名称によるもので、同国造の支配範囲は河内国に止まらず、和泉、摂津国にも及んでいたようです。この「おほし」は、マオリ語の

  「オホ・チ」、OHO(wake up,arise)-TI(throw,cast,overcome)、「すっくと胸を張って(威張つて)・支配している(地域。その部族)」(「チ」が「シ」となつた)

の転訛と解します。

 

(8) 枚方(ひらかた)市

 

a 枚方市

 大阪府北東端の市で、淀川東岸の沖積地と枚方丘陵、交野(かたの)台地からなっています。日本へ『論語』、『千字文』を伝えた王仁の子孫の百済系渡来人の本拠地です。江戸時代には京都と大阪を結ぶ京街道と大和へ抜ける磐船街道が交差する宿場町で、淀川を往来する三十石船の河港としても栄えました。市域の中央を天野川が流れ、大きく口を開けています。

 この地名は、『続日本紀』の宝亀2(771)年2月13日の条に「比羅加駄」とみえています。また、『播磨国風土記』に揖保郡枚方里は河内国茨田(まむた)郡枚方里の漢人が開拓したとあります。

 この「ひらかた」は、平たい台地の意とする説があります。

 この「ひらかた」は、マオリ語の

  「ヒラ・カタ」、HIRA-KATA(hira=great,important,widespread;kata=opening of shellfish)、「大きな・貝が口を開けたような地形(潟)がある場所」

  きたは「ヒ・ラカ・タ」、HI-RAKA-TA(hi=rise,raise;raka=be entangled,ache from weariness;ta=dash,beat,lay)、「高い台地の・かつて面倒な事件(崇神天皇軍と武埴安彦軍の戦い)が・あった(場所)」

の転訛と解します。

 

b 楠葉(くずは)

 枚方市の北東、淀川左岸に楠葉の地があります。

 『日本書紀』崇神紀10年9月27日の条に武埴安彦の軍が敗れて、「其の卒怖ぢ走げて、屎(くそ)、褌(はかま)より漏ちたり。乃ち甲を脱きて逃ぐ。得免るまじきことを知りて、叩頭(の)みて曰く、「我君(あぎ)」といふ。故、時人、其の甲を脱きし処を號けて、伽和羅と曰ふ。褌より屎ちし処を屎褌(くそばかま)と曰ふ。今、樟葉と謂ふは訛れるなり。又、叩頭(の)みし処を號けて、我君(あぎ)といふ。」とあります。『古事記』も「久須婆(くすば)の渡り」と記しています。

 『和名抄』に河内国交野郡樟葉(久須波)郷がみえます。

 この「くすば」は、「クズ(崖地)・ハ(端)」の意と解する説があります。

 この「くすば」は、マオリ語の

  「ク・ツパ」、KU-TUPA(ku=silent;tupa=dried up,barren,flat,turn sharply aside,escape)、「静かな不毛の原野」または「(昔武埴安彦の軍が敗れて)無言で・逃げ出した(場所)」

の転訛と解します。

 ちなみに、叩頭の「のむ」または「のみ」、我君の「あぎ」、伽和羅の「かわら」(山城国綴喜郡河原村、現城陽市河原町に比定する説があります)は、マオリ語の

  「(ン)ゴ・ミヒ」、NGO-MIHI(ngo=cry,grunt;mihi=sigh for,greet)、「泣いて・ため息をついた(挨拶をした)」

  「ア(ン)ギ」、ANGI(free without hindrance,move freely,something connected with the descent to the subterranean spirit world)、「(地下の霊界の者どもに関わるもの)死した彼らの首長の霊(我君)」または「(よろいを脱いで)自由になった(場所)」

  「カ・ワラ」、KA-WHARA(ka=take fire,be lighted,burn;whara=burial cave,hollow trees where bones of the dead are placed)、「火を灯している・死者の骨を納めた墓所」または「カワ・ラ」、KAWA-RA(kawa=a class of ceremonies in connection with a battle etc.,heap,reef of rocks,channel;ra=wed)、「(死者の霊を鎮める)儀式を・繰り返した(場所)」

の転訛と解します。

 

(9) 交野(かたの)市

 

a 交野市

 大阪府北東部にあり、枚方丘陵と生駒山地にまたがり、淀川の支流天野川上流に位置しています。縄文・弥生時代の遺跡が多く存在します。平安時代以降は皇室の狩猟地となり、とくに桓武天皇がしばしば鷹狩をおこなった場所で、交野禁野が設定され、歌枕の地となっています。

 この「かたの」は、古代以来の郡名で、(1) 「カタ(潟)・ノ(野)」の意、

(2) 「カタ(片)・ノ(野)」で片方が山や岡、片方が原野の地の意とする説があります。

 この「カタノ」は、マオリ語の

  「カタ・(ン)ガウ」、KATA-NGAU(kata=opening of shellfish;ngau=bite,hurt,attack)、「浸食されている・貝が口を開けているような地形の場所」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

b 私市(きさいち)

 交野市南東部の私市の山間部には、本堂の後ろに獅子が吼える形の巨岩がある獅子窟(ししくつ)寺があり、その南には巨石をご神体とする磐船神社があります。

 この「きさいち」は、マオリ語の

  「キ・タイ・チ」、KI-TAI-TI(ki=to the place,at,upon;tai=wave,violence,rage;ti=throw,cast)、「(淀川の洪水時に)波が打ち寄せた(場所)」

の転訛と解します。

 

(10) 寝屋川(ねやがわ)

 

a 寝屋川

 寝屋川は、生駒山地北部の清滝丘陵に源を発し、寝屋川市南部、大東市住道を流れ、大阪城北の京橋付近で淀川に合流します。

 この「ねや」は、マオリ語の

  「ネヘ・イア」、NEHE-IA(nehe=rafter of a house;ia=indeed,each,very)、「実に家の垂木(たるき)のような地形の場所(清滝丘陵の波状の尾根が連なる地域から流れ出す川)」

の転訛と解します。この「ネヘ」は、地名篇(その二)の山形県鼠ヶ関の「ネヘ」と同じ語源です。

 

b 茨田(まんだ)郡

 茨田郡は、現在の枚方市の南部から寝屋川市あたりの地域で、古代にはしばしば淀川の氾濫によって大きな被害を蒙っていた地域です。

 次の項で述べるように、『日本書紀』仁徳紀11年10月の条には、淀川の氾濫による被害を防ぐため、現在の枚方市から寝屋川市あたりにかけての淀川左岸に茨田堤が築かれたとあります。また、『行基年譜』の天平13(741)年には「茨田堤樋 茨田郡茨田里」の記事があり、土木技術をもった秦人たちによってつくられたと考えられています。

 この堤の完成によって、淀川左岸の開発が可能となり、その後、大和盆地での溜池潅漑技術をもとに、茨田池がつくられ、その水利によって茨田屯倉(みやけ)が経営されたものと考えられます。

 この郡名は、『和名抄』は「万牟多」と訓じています。

 この「まむた」は、(1) 「ウマ(ウバ(崖、自然堤防)の転)」から、

(2) 「マ(美称)・ウタ(湿地)」の意とする説があります。

 この「まむた」は、マオリ語の

  「マ・アム・タ」、MA-AMU-TA(ma=name of a stream;amu=grumble,begrudge,complain;ta=dash,beat,lay)、「不満を持った・川が・襲う(洪水が襲う。場所)」(「マ」のA音と「アム」の語頭のA音が連結して「マム」となった)

  または「マヌ・タ」、MANU-TA(manu=float,overflow;ta=dash,overcome)、「洪水が・襲う(地域)」(「マヌ」が「マン」となった)

の転訛と解します。

 

c 太間(たいま)町

 寝屋川市北東の淀川沿岸に太間町の地名があります。『日本書紀』仁徳紀11年10月の条に難波高津宮の北に堀江を開削し、また淀川に茨田堤を築いたとき、工事が難航したため人柱を捧げようとしましたが、堀江については武蔵人強頚が人柱となって完成し、茨田堤については河内人茨田連衫子(ころものこ)が「瓢箪二個を沈めることができなければ真の川の神とは認めない」といい、遂に人柱なしに茨田堤が完成し、「故、時人、其の両処を強頚断間(こはくびのたえま)、衫子断間(ころものこのたえま)と曰ふ」とあります。この衫子断間は、太間町に比定されています。

 この「たえま(たいま)」、「こはくび(のたえま)」、「ころものこ(のたえま)」は、マオリ語の

  「タエ・マ」、TAE-MA(tae,taetae=ulcerated,suppurating;ma=a particle used after names of persons or pronouns or terms of address to indicate the inclusion of others whom it is not necessary to specify)、「膿んでいる(堤防が壊れて泥水が溜まっている)・場所(区間)」または「タイマハ」、TAIMAHA(heavy,oppressed in body or mind)、「(川が)大地を圧迫している(場所)」(語尾のH音が脱落して「タイマ」となった)

  「コハ・クピ」、KOHA-KUPI(koha=present,gift;kupt=shrivelled up)、「(恐怖で)縮み上がった・生け贄(河神への贈り物となった。男)」

  「コロ・モノ・コ」、KORO-MONO-KO(koro=desire,intend,adult man;mono=disable by means of incantations;ko=addressing to males and females)、「立派な大人として(または謀を巡らして)・河神の力を呪文を唱えて封じ込めた・少年(または男)」

の転訛と解します。

 

(11) 生駒(いこま)山

 

a 生駒山

 生駒山(642メートル)は、大阪府と奈良県の境をなして南北に伸びる生駒山地の主峰です。北端の男山から南端の大和川狭隘部まで南北約35キロメートル、幅5〜6キロメートル、高さは北部で約250メートル、南へ次第に高くなり450メートル前後となります。山地の西側は急傾斜の崖で大阪平野に接し、東側は緩傾斜で奈良盆地に移行しています。

 古来河内と大和の間の交通の障壁で、日下(くさか)越え、暗(くらがり)峠越え、十三(じゅうそ)越え、乙(おと)越えなどのルートがあったといいますが、詳細は不明です。

 この「いこま」は、「イ(接頭語)・コマ(クマ(隈)の転)」とする説があります。

 この「いこま」は、マオリ語の

  「イカ・ウマ」、IKA-UMA(ika=warrior;uma=bossom,chest)、「戦士の胸(のように直立している山)」

の転訛と解します。

 

b 日下(くさか)越え

 東大阪市の北東、生駒山の山麓に、日下町・草香山の地名が残っており(岩波大系本注による)、『日本書紀』神武即位前紀戊午年3月の条に出てくる河内国の草香邑と考えられます。

 この「くさか」は、(1) 枕詞の「日の下のクサカ(草が香る)」から、

(2) 「カ(日)・サガ(下る)」の転とする説があります。

 この「くさか」は、マオリ語の

  「ク・タカ」、KU-TAKA(ku=silent;taka=heap,be encircled)、「静かな高台(または音を立てずに包囲された場所)」

の転訛と解します。古典篇(その三)4の(1)を参照してください。

 

c 石切(いしきり)

 日下の南に石切の地名があり、式内社石切神社(正しくは石切剣箭(いはきりつるぎや)命神社)があります。

 この「いはきり」、「つるぎや」は、マオリ語の

  「イ・ワキ・リ」、I-WHAKI-RI(i=past tense,beside;whaki=disclose,confess,pluck off,tear off;ri=screen,protect,bind)、「衝立(のような生駒山の岩)を・切り割っ・た」

  「ツ・ルキ・イア」、TU-RUKI-IA(tu=fight with,energetic;ruki,rukiruki=dark,intensive;ia=indeed)、「実に・堅い岩を・渾身の力を込めて(切り割つた。その神。その神社)」

の転訛と解します。

 

d 枚岡(ひらおか)神社

 石切の南に河内国一宮の式内社枚岡神社が鎮座します。

 この「ひらおか」は、マオリ語の

  「ヒラ・アウカハ」、HI-AUKAHA(hira=numerous,great,important,widespread;aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe)、「巨大な・(周囲に塁壁を巡らせた)岡(その地域。その場所に鎮座する神社)」(「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

の転訛と解します。

 

e 暗(くらがり)峠

 枚岡神社の北を直登して生駒山を越える峠が暗峠で、かつての奈良街道です。『古事記』雄略天皇の項にみえる「日下(くさか)の直越(ただごえ)の道」は、このルートではないかとする説があります。

 この「くらがり」は、マオリ語の

  「ク・ラ(ン)ガ・リ」、KU-RANGA-RI(ku=silent;ranga=raise,ridge of a hill;ri=screen,protect)、「静かな・引き起こされた・衝立(のような山の峠)」(「ラ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ラガ」となった)

  または「クラ・(ン)ガリ」、KURA-NGARI(kura=red,ornamented with feathers,precious;ngari=annoyance,disturbance,greatness)、「(羽根飾りをしたような)美しい・(往来を阻む)障害(峠)」(「(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「ガリ」となった)

の転訛と解します。

 

f 瓜生堂(うりゅうどう)

 枚岡神社の南西、瓜生堂及び若江西新町一帯に弥生時代の方形周溝墓や、使用中と思われる完全な形の石器や木製の農工具が出土した集落遺跡の瓜生堂遺跡があります。遺跡は、旧大和川によって運ばれた土砂に覆われて、地表下3〜4メートルに埋れていました。

 この「うりゅうどう」は、マオリ語の

  「ウ・リウ・トウ」、U-RIU-TOU(u=breast of a female,be firm;riu=disappear;tou=dip into a liquid,wet)、「(洪水によって元の集落が)完全に消えてしまった湿地」

の転訛と解します。

 

(12) 八尾(やお)市

 

a 八尾市

 八尾市は、大阪市の東にあり、東部は生駒山地、西部は旧大和川の沖積平野となっています。町は、15世紀後半に創建された浄土真宗本願寺派(西本願寺派)顕証寺が核となった久宝寺と、17世紀後半創建の真宗大谷派(東本願寺派)の大信寺が核となった八尾の二つの寺内町に始まっています。平野部では宝永元(1704)年の大和川付け替え後に新田開発が行われました。

 この「やお」は、マオリ語の

  「イア・アウ」、IA-AU(ia=current,rushing stream;au=rapid,whirlpool,bark,certainly)、「渦を巻いて流れる急流(の旧大和川が流れる地域)」

の転訛と解します。

 

b 弓削(ゆげ)

 八尾市に弓削(ゆうげ)の地名が残っています。ここは弓削氏の本拠地で、弓を作ることを職とする弓削部を統括する弓削連(のちに宿禰)が住んでいました。弓削道鏡は、この河内国若江郡弓削郷の人です。孝謙上皇が重祚した称徳天皇は、道鏡を寵愛して神護景雲3(769)年に弓削郷に由義(ゆげ)宮と号する離宮 を建てています。

 この「ゆげ」は、(1) 弓削部の居住地による、

(2) 「ユ(水、川)・ケ(削る)」で「川に削られた地、河岸段丘など」の意とする説があります。

 この「ゆげ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「イフ・(ン)ゲ」、IHU-NGE(ihu=nose,bow of a canoe;nge=noise,thicket)、「(東端が)カヌーの舳先のように高くなっている・灌木が生い茂る(土地)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」と、「(ン)ゲ」のNG音がG音に変化して「ゲ」となつた)

の転訛と解します。岡山県久米郡久米南町弓削(ゆげ)や、愛媛県越智郡弓削(ゆげ)町の弓削島の「ゆげ」も同じ語源でしょう。

 

(13) 志紀(しき)郡・丹比(たじひ)郡

 『日本書紀』崇峻即位前紀に蘇我馬子の軍が物部守屋を討とうとして「志紀郡」より渋河の家に到るとあります。『和名抄』は「之伎」と訓じています。この河内国志紀郡は、おおむね現藤井寺市、八尾市南部の地域で、八尾市には志紀町の地名が残っています。

 この「しき」は、(1) 「シキ(頻り。重なる)」で「段丘」の意、

(2) 「シ(石。磯)・キ(接尾語)」で「岩のある場所、磯」の意、

(3) 「石の城」の意などとする説があります。

 この「しき」は、マオリ語の

  「チキ」、TIKI(a post to mark a place which was TAPU)、「(禁忌の土地であることを示す柱が立ててある)神聖な土地」

の転訛と解します。

 『日本書紀』仁徳紀14年是歳の条に「丹比(たじひ)邑」、反正紀元年10月の条に「河内の丹比に都つくる」とみえます。『和名抄』は河内国丹比郡を「太知比」と訓じています。丹比郡は、おおむね現羽曳野市西部、松原市、堺市東部、南河内郡美原町あたりの地域です。

 この「たじひ」は、(1) 「タチ(台地)・ヒ(辺)」の意、

(2) 「他遅比(たぢひ)瑞歯別(みつはわけ)天皇」(反正天皇の称号)から「虎杖(いたどり)の原」の意、

(3) 「太刀」に由来するなどの説があります。

 この「たじひ」は、マオリ語の

  「タ・チヒ」、TA-TIHI(ta=the;tihi=summit,lie in a heap)、「高台に在る(地域)」

の転訛と解します。

 

(14) 藤井寺(ふじいでら)市

 

a 藤井寺市

 藤井寺市は、大阪府の南東部にあり、大和川と石川の合流点の南西部に位置し、羽曳野丘陵北端部を占めています。丘陵末端部は早くから開け、羽曳野市にかけて巨大な前方後円墳が密集する古市古墳群をはじめ遺跡が多くあります。

 この市名は、百済系の渡来人葛井連の氏寺であった葛井(ふじい)寺に由来します。葛井連は、もと白猪(しらゐ)史(欽明紀30年4月条は、白猪屯倉の田部の人々を再編して正確な戸籍を編成した功績で王辰爾の甥膽津が賜った姓とします。)で、のち養老4年5月に葛井連、延暦10年正月に宿禰に改姓した氏族です。(「フジ」地名については、入門篇(その二)を参照してください。)

 この「ふじい」は、マオリ語の

 「フチ・ヰ」、HUTI-WHI(huti=pull up,fish(v.);whi=can,able)、「(朝廷に仕えて功績があって)高い地位に引き上げられた・能力がある(氏族。その住む土地)」または 「フチ・ヰ」、HUTI-WI(huti=pull up,fish(v.);wi=tussock grass)、「持ち上げられた(高みにある)・草むら(のある場所)」

の転訛と解します。

 平成17年に中国で遣唐使の一員であった井真成の墓誌が発見され、この「井」は井上氏の井か、葛井氏の井か、それとも北九州の井氏かで議論を巻き起こしています。私はこの三氏とも可能性があり、特定はできないと考えます。素直な名乗りは井上氏または井氏ですが、上記のように葛井氏の名の解釈からすると、葛井氏はもともと「ヰ」(白猪(しらゐ)の「ゐ」。「チラ・ヰ」、TIRA-WHI(tira=file of men,company of travellers;whi=can,able)、「能力がある(仕事ができる)・(渡来してきた)人々(の集団。氏族)」)氏であったという認識があり、そこで「井」と名乗った可能性があるからです。

 

b 国府(こう)

 ここは古くからの交通の要衝で、難波と飛鳥を結ぶ古代の幹線道路の大津道(長尾街道)と生駒山麓を南北に通ずる東高野街道が交差しています。

 この会合点は、南の羽曳野丘陵から北へ伸びた誉田(こんだ)台地の突端にあり、かつて河内国府が置かれ(志紀郡)、国府の地名が残っています。

 この「こう」は、マオリ語の

  「コウ」、KOU(knob,stump)、「瘤(または切り株のような地形の土地)」

の転訛と解します。(地名篇(その一)を参照してください。)

 

c ボケ山古墳

 古市古墳群の南縁、羽曳野丘陵の北の裾に仁賢天皇陵、別名ボケ山古墳があります。周濠と周堤を備え、東側にのみ造り出し(突起部)をもつ墳長122メートル、自然の地形を利用しているためやや非対称の前方後円墳です。紀では「埴生(はにゅう)坂本陵」と、『延喜式』は「埴生坂本陵(河内国丹比郡)」と記します。

 この「ぼけ」は、マオリ語の

  「ポケ」、POKE(beset in numbers,work at in crowd)、「大勢の人々が群集した(群集して築いた陵)」

の転訛と解します。(オリエンテーション篇を参照してください。)

 この「埴生」の「はにゅう」は、『日本書紀』履中即位前紀に「埴生坂」とあり、これが当時羽曳野丘陵を埴生山といっていたことによるとされており、マオリ語の

  「ハ(ン)ギ・ウ」、HANGI-U(hangi=earth oven,scarf;u=breast of a female)、「(穴を掘って)埴土を取る(女性の)乳房のような岡」

の転訛(「ハ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「ハニ」となつた)と解します。

 

d 岡ミサンザイ古墳

 ボケ山古墳の北北西、羽曳野丘陵の北端に仲哀天皇陵、別名岡ミサンザイ古墳があります。前方部を南南西に向け、東側に造り出しを持ち、幅広い周濠に囲まれた墳長242メートルの大きな古墳です。記は「河内恵賀の長江」と、紀は「長野陵」と、『延喜式』は「恵我長野西陵(河内国志紀郡)」と、『陵墓一隅抄』(嘉永7(1854)年。京都町奉行所平塚瓢斎著)は「岡村の字美佐武佐伊(みさぶざい)」と記します。

 この「ミサンザイ」は、マオリ語の

  「ミヒ・タヌ・タイ」、MIHI-TANU-TAI(mihi=lament;tanu=bury,lie buried;tai=perform certain ceremonies to remove TAPU)、「(何らかの理由(事故死など。紀によれば仲哀天皇は神の怒りに触れての突然死とされる)で穢れや、禁忌を除くための)特別な儀式を行つて嘆き悲しんで埋葬した(陵)」

の転訛と解します。

 「ミサンザイ」の名を持つ古墳は、このほか百舌鳥耳原古墳群の石津丘古墳(履中天皇陵)、奈良県橿原市の宣化天皇陵がありますが、いずれも同じ語源でしょう。ただし、石津丘古墳は出土物などからみて仁徳陵よりも古いという説が有力ですし、宣化陵も時代に疑問が出されています。それぞれ被葬者は別の天皇であるかも知れません。

 この恵賀(恵我)の「えが」は、マオリ語の

  「エ(ン)ガ」、ENGA(anxiety(engaenga=overflow))、「(洪水などが)心配な(地域)」

の転訛と解します。

(15) 羽曳野(はびきの)市

 

a 羽曳野

 羽曳野市は、大阪府南東部の市で、東部は二上(にじょう)山の北西斜面、西部は羽曳野丘陵、中央部は大和川の支流石川の河谷平野です。難波と飛鳥を結ぶ竹内街道が東高野街道(国道170号線)と交わるところに中心集落の古市があります。付近には応神陵、清寧陵、安閑陵、日本武尊陵と伝えられる巨大な前方後円墳が密集する古市古墳群があります。

 この「はびき」は、マオリ語の

  「ハピ・キ」、HAPI-KI(hapi=native oven;ki=full,very)、「(野外の蒸焼き穴のような)埴土を採取した穴(またはその土で古墳を飾る埴輪を焼いた穴)が・たくさんある(場所。地域)」

の転訛と解します。

 

b 古市(ふるいち)

 古市は、古代の河内国の郡・郷名で、『和名抄』は「不留知」と訓じています。

 この「ふるち」は、「古くから市の発達した地」と解されています。

 この「ふるち」は、マオリ語の

  「フル・チ」、HURU-TI(huru=brushwood;ti=throw,cast)、「潅木が生えている(放り出されている土地)」

の転訛と解します。

 

c 誉田(こんだ)

 羽曳野市誉田6丁目、石川の左岸に広がる段丘の国府(こう)台地(誉田台地ともいいます)の南端に、仁徳陵(大仙古墳)に次ぐ日本第二の古墳である応神陵(誉田山古墳)があります。全長415メートル、後円部径267メートル、前方部幅330メートル、後円部高36メートル、前方部高35メートル、墳丘体積150万立方メートル(日本最大)の大きさを誇っています。

 『古事記』は品陀和気(ほむだわけ)命(応神天皇)の御陵は「川内の恵賀の裳伏の岡に在り」としますが、『日本書紀』は誉田(ほむた)天皇の御陵について何も記していません。誉田山古墳の造成年代と応神天皇の時代には差があって応神天皇陵と比定することには疑問が持たれています。

 この地名の「こんだ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「コヌイ・タ」、KONUI-TA(konui=thumb,great toe;ta=dash,cut,lay)、「(羽曳野丘陵の)親指(のような巨大古墳)が・そこに在る(場所)」(「コヌイ」の語尾のI音が脱落して「コヌ」から「コン」となった)

  または「コヌヌ・タ」、KONUNU-TA((Hawaii)konunu=rounded and well shaped as a lehua flower;ta=dash,beat,lay)、「(花のように)丸く形が良いもの(古墳)が・そこに在る(場所)」(「コヌヌ」の反復語尾が脱落して「コヌ」から「コン」となった)

の転訛と解します。

 応神天皇の皇太子の時の名「ほむたわけ」は、生誕のとき腕が「鞆(ほむた。とも。弓を射るときに左腕に結びつける弦受けの保護具)」のようであったことに因るとされていますが、これはマオリ語の

  「ハウムム・タ・ワカイ(ン)ガ」、HAUMUMU-TA-WAKAINGA(haumumu=silent;ta=dash,lay,overcome;wakainga=distant home)、「静かに・急に(舞台へ)躍り出た・遠いところに住んでいた(皇太子、天皇)」(「ハウムム」のAU音がO音に変化し、反復語尾の「ム」が脱落して「ホム」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

の転訛と解します。「静かに急に躍り出た」とは、神功皇后が出産を抑制して三韓征伐をしたのち、九州で天皇を生んだとの伝承はあるものの、信じ難いことが多く、その出生、出自が謎に包まれていたことによるものでしょう。この「ほむた」と地名の「こんだ」には、たまたま同一の字があてられていますが、違う言葉です。

 なお、この誉田山古墳の西濠に接して、一辺45メートルの方墳、アリ山古墳があります。武器、農具、工具など豊富な鉄製品が大量に出土しています。

 この「あり」は、ハワイ語の

  「アリ」、ALI(to signal,to make an offering to the gods with signals and signs)、「(死者のあの世での安楽な生活を願っての)神への捧げ物(を埋蔵した。古墳)」

の転訛と解します。

e 高鷲丸山古墳

 岡ミサンザイ古墳の北北西、羽曳野市島泉8丁目、大和川の段丘上に、雄略天皇陵とされる高鷲丸山古墳(および平塚古墳)があります。
 『日本書紀』は、雄略天皇陵を丹比高鷲原(たじひのたかわしのはら)陵(『延喜式』は「在河内国丹比郡」と、『陵墓要覧』は大阪府南河内郡南大阪町(現羽曳野市)の大字島泉字高鷲原と大字南島原字丸山にまたがるとします)、『古事記』は「御陵は河内の丹比の高鷲(たかわし)に在り」とします。この陵は、近世以降『河内鑑名所記』、『河内志』、『河内名所図会』、『前王廟陵記』等において、地名が一致するところから、農業用水として利用されている丸山池と呼ばれる周濠の中に浮かぶ高鷲丸山古墳(円墳径75メートル、高9メートル)に比定され、蒲生君平『山陵志』において丸山古墳と平塚古墳(方墳。一辺50メートル)を濠を隔てて一体とみなしたことを受けて、明治になってから両者を整形整備したものです(藤田友治と天皇陵研究会『古代天皇陵をめぐる』三一書房、1997年)。
 この陵は、もともと前方後円墳でないこと、倭の五王の武に比定される偉大な天皇の陵としてはあまりにも規模が小さいことから、吉田東伍『大日本地名辞書』をはじめ、多くの考古学者は、羽曳野市恵我之荘の大塚山古墳(陵墓参考地。前方後円墳。全長335メートル)を雄略天皇陵としますが、前方部の中央が突出する剣菱型であるところから年代が合わないとされます。
 なお、丸山古墳の北には隼人(はやと)塚(地元では「ハイトさん」と呼び歯痛の神様として崇めている)と称する一辺20メートル、高さ2メートルの方形墳があり、清寧紀元年10月条の記事と合致しています。

 以上の事実および下記の御陵名の解釈を総合して、顕宗紀2年3月条は、故無くして父を殺された復讐として雄略天皇陵を破壊しようとした顕宗天皇を皇太子意祁(おけ。後の仁賢天皇)が諫めて止めさせたとし、また顕宗記は、雄略天皇陵の破壊を自ら買って出た皇太子意祁が御陵の傍らの土を少し掘っただけに止めたとしているのは、顕宗天皇の復讐が実際には行われ、いったん造成された大規模な前方後円墳が極めて小規模な円墳および方墳に造り直されたのですが、顕宗天皇の名誉を守り、かつ仁賢天皇の仁徳を顕彰しようとする記紀編集者の意図によつて記紀の記事に大幅な修飾・改変が行われたものと解することができます。

 この「高鷲原(たかわしのはら)」は、マオリ語の

  「タカ・ワチ・ノ・ハラ」、TAKA(heap,lie n a heap)-WHATI(be broken off short of anything rigid,be bent at an angle)-NO(of)-HARA(a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「墳丘が・破壊された・(ところ)の・首長の墳墓(陵)」(「ワチ」が「ワシ」となった)

の転訛と解します。

(16) 科長(しなが)

 

 大阪府南河内郡太子町の中心地区、旧磯長(しなが)村は、古代の河内国石川郡科長郷です。

 最古の官道である竹内街道が通るこの谷の付近には、敏達、用明、推古、孝徳の4天皇の御陵と伝えられる終末期古墳が密集する磯長谷古墳群をはじめ、聖徳太子の磯長墓、御廟寺の叡福寺などが設けられています。

 この「しなが」は、「シナ(階)・ガ(処)」で段丘と解する説があります。

 この「しなが」は、マオリ語の

  「チナ・(ン)ガ」、TINA-NGA(tina=fixed,satisfied;nga=satisfied,breathe)、「安らかに葬られた(場所)」

の転訛と解します。

 

(17) 千早(ちはや)

 

 南河内郡千早赤坂村の山奥の「金剛山千早と云所(『増鏡』)」に、元弘3(1333)年に楠木正成が立てこもり、奇襲戦法で幕府軍を苦しめた千早城があります。

 『太平記』は

  「この城東西は谷深く切って、人の上るべき様もなし。南北は金剛山につづきて、しかも峯峙(そばだち)たり。されども高さ二町計(ばかり)にて、廻り一里に足ぬ小城」

と述べています。

 この「ちはや」は、マオリ(ハワイ)語の

  「チ・ハイア」、TI-HAIA(ti=throw,cast;haia=retainer or follower of a chief)、「部族の首長(楠木正成)の追跡者(軍)を・打ち破った(場所。城)」

の転訛と解します。

 また、金剛山麓に式内社建水分(たけみくまり)神社があり、水の分配を司る神として古くから崇められてきました。

 この「たけみくまり」は、マオリ語の

  「タケ・ミ・ク・マリ」、TAKE-MI-KU-MARI(take=base of a hill,cause,means,origin,charm,chief;mi=urine,stream;ku=silent,showery unsettled weather;mari=fortunate or lucky of good omen) 、「水源の雨を降らす予兆(を司る神の社)」

の転訛と解します。

 

(18) 和泉(いずみ)国

 

 大阪府南西部にあった旧国名で、五畿内の一つです。河内国に属しましたが、神亀2(716)年に珍努(ちぬ)宮の造営・管理に充てるため大鳥郡、和泉郡、日根郡の3郡を特別行政区の和泉監(げん)として分離し、天平12(740)年河内国に合併、天平宝字1(757)年に和泉国として独立しました。もともと泉国でしたが、二字化して和泉国としました。

 『和名抄』は、「以都三」と訓じています。

 この「いずみ」は、(1) 和泉市府中の泉井上神社境内の泉から、

(2) 「イズ(出)・ミ(水)」からとする説があります。

 この「いずみ」は、マオリ語の

  「イツ・ミ」、ITU-MI(itu=side;mi=urine,stream)、「水の湧き流れるところの傍ら(の地域)」

の転訛と解します。

 

(19) 堺(さかい)市

 

a 堺市

 堺市は、大阪府中部、大和川を挟んで大阪市の南に隣接する市です。

 西は大阪湾に臨み、和泉海岸平野に市街が展開します。中世に栄えた旧市街地は、南から半島状に突き出た土地に立地しており、開口(あぐち)神社付近が最も高くなっています。市街の東部は、低中位の洪積台地にあたり、大仙古墳(仁徳陵)を初め、古墳が密集する百舌鳥古墳群があります。

 古来難波と紀州を結ぶ交通の要衝で、市名は摂津、和泉、河内の三国の境界が接するからとされています。

 この「さかい」は、マオリ語の

  「タ・カイ」、TA-KAI(ta=the,lay;kai=reach,arrive at)、「(その果てのところまで)到達した(場所。境界の地)」

の転訛と解します。

 開口(あぐち)神社の「あぐち」は、マオリ語の

  「ア・クチ」、A-KUTI(a=the,drive,collect;kuti=contract,pinch)、「(西の海と東の低湿地の間に)挟まれている(場所)」

の転訛と解します。

 

b 百舌鳥耳原(もずのみみはら)

 市の中北部に百舌鳥古墳群が広がっています。その中心は、日本最大の仁徳天皇陵と伝えられる大仙古墳で、墳長486メートル、後円部径249メートル、前方部幅305メートルで、『古事記』には「毛受の耳原にあり」と、『日本書紀』二は「百舌鳥野陵に葬る」と、『延喜式』は「百舌耳原中陵」と記しています。

 『日本書紀』仁徳紀67年10月の条に「百舌鳥耳原」の起源説話があります。仁徳天皇が同月5日に河内の石津原(いしつのはら)に出られて寿陵の地を定められ、同月18日から工事を始められましたが、このとき鹿が走り出て人々の間に入って死んだので、怪しんで傷を探しますと、

  「百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉に咋(く)ひ割き剥げり。」

とあり、これが地名の起源であるとしています。もちろん牽強付会の説です。

 この「もずのみみはら」は、マオリ語の

  「モツ・ノ・ミミ・ハラ」、MOTU-NO-MIMI-HARA(motu=separated,broken off;no=of;mimi=stream,river;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「千切れた・川・のある・(部族の首長を葬った)墓のある原野」

の転訛と解します。

 古代のこの地方は、西除川と石津川に挟まれた低湿地で、洪水のたびに川筋を変えて蛇行する川と、洪水に因って切り離されて沼となつた旧河川が散在する原野であったと考えられます。百舌鳥古墳群の古墳は、このような場所の「千切れた川」を利用して周濠として築造されたものでしょう。

 

c 石津丘(いしづがおか)古墳

 仁徳陵の南の石津丘町に、大仙公園を隔てて巨大な履中天皇陵があります。百舌鳥耳原南陵、またの名を石津丘古墳、ミサンザイ古墳ともいいます。墳長365メートル、後円部径205メートル、前方部幅237メートルで、前方後円墳としては日本三位、百舌鳥耳原古墳群の中では二番目に大きい古墳です。

 この「いしづ」は、マオリ語の

  「イチ・ツ」、ITI-TU(iti=small,diminutive;tu=stand,be erect,fishing net,girdle)、「少し高くなった(場所。または人が僅かしか住んでいない場所、原野)」

の転訛と解します。

 この「ミサンザイ」は、古市古墳群の岡ミサンザイ古墳の名と同じ語源で、マオリ語の

  「ミヒ・タヌ・タイ」、MIHI-TANU-TAI(mihi=lament;tanu=bury,lie buried;tai=perform certain ceremonies to remove TAPU)、「(何らかの理由(事故死など)で穢れや、禁忌を除くための)特別な儀式を行つて嘆き悲しんで埋葬した(陵)」

の転訛と解します。

 

d ニサンザイ古墳

 ニサンザイ古墳は、百舌鳥西之町にある古墳時代中期の前方後円墳で、土師(はじ)古墳ともいいます。墳長290メートル、後円部径156メートル、前方部幅226メートルで百舌鳥古墳群の中では三番目に大きい古墳です。陵墓参考地ですが、これを反正陵とする記録もあるようです。

 この「ニサンザイ」は、マオリ語の

  「ヌイ・タヌ・タイ」、NUI-TANU-TAI(nui=large,many;tanu=bury,lie buried;tai=perform certain ceremonies to remove TAPU)、「(何らかの理由(事故死など)で穢れや、禁忌を除くための)特別な儀式を何回も重ねて行つて埋葬した(陵)」

の転訛と解します。仮にこれが反正陵であるとすれば、允恭天皇が即位して前帝の葬儀を行うまでに5年の歳月を経ていることから、穢れを除くための特別な儀式が行われたものでしょうか。

 

e イタスケ古墳

 ニサンザイ古墳と大仙古墳のほぼ中間に墳長192メートルの御廟山古墳があり、そのすぐ隣にやや小ぶりの墳長146メートルのイタスケ古墳があります。昭和30年に不動産業者が破壊しようとして考古学会で大騒ぎになり、堺市が買収して保存されることになりました。

 この「イタスケ」は、マオリ語の

  「イタ・ツケ」、ITA-TUKE(ita=compact;tuke=elbow,funny bone,a measure of length)、「小さな・尺骨のような(御廟山古墳に寄り添っている。小ぶりの古墳)」

の転訛と解します。福岡市の板付(いたつけ)遺跡と同じ語源です。

 

(20) 日根(ひね)郡

 

a 日根郡

 和泉国の南端の地域が日根郡です。

 この「ひね」は、マオリ語の

  「ピネ」、PINE(close together)、「(海岸と背後の山脈が)接近している(地域)」

の転訛(原ポリネシア語のP音が日本語に入ってF音を経てH音に変化して「ヒネ」となった)と解します。

 

b 深日(ふけ)

 大阪府の南端、紀淡海峡から大阪湾に入ってすぐの泉南郡岬町深日(ふけ)に、深日(ふけ)港という古くから栄えた港があります。現在でも四国や淡路島とのフェリーの往来が盛んです。この港は、古代に武内宿禰を祖とする紀氏水軍の軍港であったといいます。

 この地は、古くは「深日(ふけひ)」と呼ばれていました。『続日本紀』天平神護元(765)年10月の条に称徳天皇が紀州行幸の際に深日行宮に宿泊されたとあります。

 この海岸は「吹飯(ふけひ)の濱」(『万葉集』巻12、3201)、「吹井(ふけゐ)の浦」(『新古今和歌集』雑の部下、藤原清正ほか)あるいは「吹飯(ふけひ)の浦」(『新勅撰和歌集』冬の部ほか)として歌枕となっています。ただし、この「ふけひの濱(浦)」を和歌山市吹上浜または兵庫県三原郡西淡町松帆の海岸とする説もあります。

 この「ふけ」は、(1) 「ふけだ(深田)」の略で、泥深い田、低い湿地をさす(小学館『日本国語大辞典』)

(2) 崩壊地をさす「ホキ」の転訛語「フカ」、「フキ」と並ぶ「フケ」によるとする説があります。しかし、以上の説は、あまり現地の地形に適合しているとはいえません。

 この「ふけ」、「ふけひ」または「ふけゐ」は、もともとは海浜の名称ではなく、その後背地の岡を指す地名であったもので、マオリ(ハワイ)語の

  「フケ」、HUKE((Hawaii)to blow the nose)、「殴られた(変形した)鼻(のような岡がある(岡の前に二つの入り江が並んでいる)。場所)」

  または「プケイ」、PUKEI(=pukai=heap,lie in a heap)、「丘(高まったところ、または高みに居る)」(原ポリネシア語のP音が日本語に入ってF音を経てH音に変化して「フケイ」となった)

の転訛と解します。『万葉集』では多くは吹「飯」(一部は吹「井」)の字をあて、「比」、「日」、「斐」の字を使っていませんので、「ふけひ」、「ふけゐ」ではなく、そもそも「ふけい」であったと考えられます。

 また、鹿児島県大口市の北端、山野川の上流、山を越すと熊本県人吉盆地に出る位置にある木地山の山腹に布計(ふけ)の地名があり、水俣市に抜けるJR山野線の薩摩布計(さつまふけ)駅があります。この「ふけ」は、マオリ語の類語の「プケ」、PUKE(hill)、「丘、山」または「フケ」、HUKE(dig up,excavate)、「掘り上げた(場所。谷底)」の転訛でしょう。

 
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28 兵庫県の地名

 

(1) 川辺(かわべ)郡

 

a 川辺郡

 摂津国川辺郡は、北は能勢郡、東は三島郡、南は大阪湾、西は武庫郡、有馬郡に接していました。おおむね猪名(いな)川の流域の地域です。『和名抄』は「加波乃倍」と訓じています。

 この「かわのべ」は、「川沿いの地」と解されています。

 この「かわのべ」は、マオリ語の

  「カワ・ノペ」、KAWA-NOPE(kawa=heap,reef of rocks,channel;nope=constricted)、「(山によって)圧縮された・川(が流れる地域)」

の転訛と解します。

 

b 猪名(いな)川

 猪名川は、川辺郡猪名川町北部に源を発し、大阪府北西部と兵庫県の境界付近を流れて、淀川下流の分流神崎川に合流して大阪湾に注ぎます。

 下流の平野は、かつて猪名野(いなの)とよばれ、伊丹、尼崎、豊中の各市の市街地が広がっています。現尼崎市のあたりには中世の東大寺領猪名庄がありました。

 この神崎川の河口付近には、平安時代から神崎、杭瀬、大物(だいもつ)などの諸港が開け、瀬戸内航路の起点として栄え、河尻と呼ばれましたが、次第に河口の砂浜が発達し、大物浦の南側に尼崎(あまがさき)が開けました。

 この「いな」は、(1) 「イネ(稲)」から、

(2) 『日本書紀』応神紀31年8月の条に新羅の使いの失火で武庫の港の5百艘の船が焼失したので、新羅王が船大工を貢ったのが「猪名部」の始祖であるとあり、当時新羅に属していた任那の古朝鮮語「イムナ」が「イナ」になつたことによるとする説があります。

 この「いな」は、マオリ語の

  「ウイ・ナ」、UI-NA(ui=disentangle,relax or loosen a noose;na=belonging to)、「ほどけた輪縄・のような(蛇行して流れる。川)」(「ウイ」が「ヰ」となった)

  または「ヒ(ン)ガ」、HINGA(fall from an errect position,be killed,lean,be overcome with astonishment or fear,be outdone in a contest)、「(昔船が)失なわれた(港。そこを流れる川)」(H音が脱落し、NG音がN音に変化して「イナ」となった)

の転訛と解します。

 

c 多田(ただ)銀山

 猪名川上流の猪名川町を中心に川西市、大阪府能勢町などにまたがる約10キロメートル四方の地区に、古代から採掘が続けられ、奈良東大寺の大仏の鋳造に銅を献じ、多田源氏を支え、豊臣秀吉の財力の基礎となったといわれる多田銀山がありました。(大阪府の地名、能勢郡の項を参照してください。)

 江戸時代の記録によると、鉱脈につながる「間歩(まぶ。坑道跡)」は、2,802ケ所(うち1,696ケ所は猪名川町)に及んだといいます(サンケイ新聞平成10年5月8日付け「歴史ランド」記事から)。

 この「ただ」は、マオリ語の

  「タタ」、TATA(dash down,break in pieces by dashing on the ground,strike repeatedly)、「(鉱脈が)細切れの(鉱山)」または「休みなく掘り続ける(鉱山)」

の転訛と解します。

 この坑道の「まぶ」は、「間夫(まぶ。遊郭に身を沈めた女性に穴をあける役をした)」から(?)とする説(石村禎久『石見銀山異記・上』石見銀山資料館、昭和56年)があるようです。

 この「まぶ」は、マオリ語の

  「マプ」、MAPU(flow freely)、「(鉱脈に従って)不規則に進む(坑道)」

の転訛と解します。

 

d 尼崎

 尼崎は、「海人(あま)崎」(海人が住んでいた崎)からと解されています。

 この「あまさき」は、マオリ語の

  「アマ・タ・キ」、AMA-TA-KI(ama=outrigger of a canoe;ta=dash,lay;ki=full,very)、「カヌーのアウトリガー(安定浮子)のように十分(海に)突き出している(細長い崎のある土地)」

の転訛と解します。

 上記の大物浦の「だいもつ」は、マオリ語の

  「タイ・モツ」、TAI-MOTU(tai=the sea,the coast,tide;motu=separated,escaped,cut)、「海流から切り離された(崎によって海流の影響を受けない静かな港)」

の転訛と解します。

 

(2) 伊丹(いたみ)市

 

 兵庫県南東部の武庫平野のほぼ中央に位置し、市域の東に猪名川が、西に武庫川が流れています。行基が開いたと伝える昆陽(こや)池などの溜池潅漑によって稲作が発達し、酒造業が栄えました。猪名川の東には、気象が安定していることで知られる伊丹空港があります。

 この「いたみ」は、(1) 「イタ(板)・カミ(上)」の転、

(2) 「イト(糸)・ウミ(績み)」の転、

(3) 「イタビ(木蓮子)」の転などとする説があります。

 この「いたみ」は、マオリ語の

  「イ・タミ」、I-TAMI(i=beside;tami=press down,supress)、「押し潰した(平らになった)土地の付近一帯」

の転訛と解します。

 この昆陽(こや)池の「こや」は、マオリ語の

  「コ・イア」、KO-IA(ko=a wooden implement for digging;ia=indeed)、「実に掘り棒で掘って造成した(池)」

の転訛と解します。

 

(3) 六甲(ろっこう)山地

 

 兵庫県南東部、神戸市街地の背後に東西に伸びる山地で、東端は宝塚から西端は明石海峡北岸の塩屋、須磨あたり、北側は大多田川、太田川の構造谷、南は屹立した断層をはさんで大阪湾に臨んでいます。最高峰は、神戸、芦屋、西宮3市の境にある六甲山(931メートル)です。嶮しい山地で、かつては修験の山でした。

 六甲山地の東縁には、釣鐘状の特異な山容の甲(かぶと)山(309メートル)があり、西側には摩耶(まや)山(699メートル)があって展望が良いことで知られています。

 この「六甲(ろっこう)山」は、(1) もともとその麓の地名をとった「武庫(むこ)の山」でしたが、これに「六甲(むこ)」の字があてられ(室町時代の『旱霖集』の僧祖応の詩にみえるのが初見で、「六甲」の文字は神功皇后が西征帰還後にここに六つの甲(かぶと)を埋めた伝説によるといいます。)、後に「ろっこう」と読まれるようになったというのが通説ですが、

(2) この「むこ」は、難波の地から見て「向(むこう)」の地だからとする説などがあります。

 この「むこ」は、マオリ語の

  「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな切り株(瘤のような山)」

の転訛と解します。この「ム・コウ」は、前述の京都府向日(むこう)市の「むこう」の語源と同じです。

 この甲山の「かぶと」は、「兜(かぶと)」からとされていますが、これはマオリ語の

  「カプ・タウ」、KAPU-TAU(kapu=hollow of the hand,close the hand;tau=ridge of a hill)、「両手を合わせたような峰」

の転訛と解します。

 この摩耶山の「まや」は、マオリ語の

  「マイア」、MAIA(brave,bravery)、「勇者(のようにそそり立つ山)」

の転訛と解します。

 

(4) 灘(なだ)

 

 神戸市に東灘区、灘区があります。灘(なだ)の地名は、古く尼崎市と西宮市の境の武庫川河口から、神戸市中央の旧生田川河口にいたる長さ20キロメートルに及ぶ広い地帯を指していました。酒造で知られる灘五郷を含んでいます。

 灘とは、通常「(1)川の流れの速いところ。早瀬。(2)風波が荒く航海の困難な海。」をいうとされ(『広辞苑』第三版)、何故ここの地名を「なだ」というかは疑問とされています。 

 この「なだ」は、マオリ語の

  「ナ・タ」、NA-TA(na=the...of,belonging to;ta=dash,beat,lay)、「」

  または「ナチ」、NATI(contract,pinch)、「(山と海に挟まれて)締め付けられている(狭い土地)」(「ナチ」は、しばしば「ナチア、NATIA」の形をとることがあり、ここから「ナタ」となり、濁音化した)

の転訛と解します。

 類例は全国各地に分布しています。大分県杵築市奈多(なた)は、見立山から延びた尾根と海岸に挟まれた狭い場所で、式内社奈多八幡宮が鎮座しています。福岡県福岡市東区奈多(なた)は、海の中道の付け根にあり、博多湾と玄海灘に挟まれた狭い場所です。徳島県海部郡海部(かいふ)町の奈佐(なさ)湾は、細長い岬に挟まれた狭い湾です(「ナタ」のT音がS音に変化して「ナサ」となったと解します)。また、和歌山県の那智(なち)の滝の「ナチ」も狭い峡谷に落ちる滝の意で同じ語源です。なお、「ナチ・ナタ」と全く同じ意味の「クチ」という地名もあります。

 

(5) 須磨(すま) 

 

a 須磨

 須磨は、神戸市須磨区の大阪湾に面する一帯で、背後に六甲山地の西端にあたる高取山、鉄拐山、鉢伏山をめぐらし、南西には明石海峡を隔てて淡路島に対している白砂青松の景勝地であり、また要害の地です。

 摂津国の西端、畿内の西の境界で、古代には山陽道が通り、律令制下では須磨駅・関が置かれた交通・軍事の要衝でした。源平一ノ谷合戦の舞台でもあります。

 この「すま」は、「すぼまる」の転で、「狭い場所」の意と解されています。

 この「すま」は、マオリ語の

  「ツマ」、TUMA(abscess,any hard swelling in the fresh)、「腫れ物のかさぶた(のような山がある場所)」

の転訛と解します。

 

b 鵯(ひよどり)越え

 播磨・摂津の境の一ノ谷(現神戸市須磨浦の西)の北の山の手を鵯越えといい、ヒヨドリが春秋にこの山を越すところから地名となったといいます。源平一ノ谷の合戦で、平家の陣を背後から奇襲した「鵯越え」の地として有名です。

 この山から一ノ谷に下る断崖は急坂で

  「馬も人もよもかよひ候わじ」

と言われていましたが、元暦元(1184)年2月、源義経はこの断崖を鹿が通ると聞いて

  「鹿の通程の道、馬の通わぬ事あるべからず」

と言い、ここを一気に駈け下って平家の背後を突き、源氏軍を勝利に導きました(『平家物語』)。

 この「ひよどり」は、(1) 鵯のような小鳥しか飛べない急峻な坂の意、

(2) 摂津・播磨の国境の標(ひょう)柱が建てられていたことによるとする説などがあります。

 この「ひよどり」は、マオリ語の

  「ヒ・イオ・トリ」、HI-IO-TORI(hi=raise,rise;io=muscle,ridge,tough;tori=cut)、「高い峰を切ったような(坂)」

の転訛と解します。

 

(6) 菟原(うはら)郡

 

 摂津国菟原郡は、六甲山地の南麓、芦屋川・天上川・住吉川・都賀川・生田川の流域で、おおむね現芦屋市から神戸市中央区の東半分にかけての地域です。

 この「うはら」は、マオリ語の

  「ウ・ハラ」、U-HARA(u=breast of a female;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「(首長の墓地)天皇家の祖神を祀った社がある・(乳房のような)丘陵(が連なる。地域)」(後出(8)の項を参照してください。)

  または「ウ・パラ」、U-PARA(u=breast of a female;para=sediment,cut down bush,clear)、「薮を切り開いた(乳房のような地形の)丘陵(のある場所)」(「パラ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

の転訛と解します。

 

(7) 八田部(やたべ)郡

 

 摂津国八田部郡は、六甲山地の西部および南西麓、妙法寺川・新湊川・宇治川の流域で、おおむね神戸市中央区の西半分から、須磨区までと、北区(北部を除く。)の地域です。

 この「やたべ」は、マオリ語の

  「イア・タパエ」、IA-TAPAE(ia=indeed;tapae=stack,present,surround)、「実に・(六甲山地の縁を)取り巻いている(地域)」(「タパエ」のAE音がE音に変化して「タペ」から「タベ」となった)

の転訛と解します。

 

(8) 広田(ひろた)神社、生田(いくた)神社、長田(ながた)神社、住吉(すみよし)神社

 

 『日本書紀』神功紀摂政元年2月の条に、忍熊王が反乱を起こした際、皇后の船が難波に向かおうとして進めなかったので、務古(むこ)水門で占いをし、天照大神を「広田(ひろた)国」に、稚日女尊を「活田長峡(いくたのながを)国」に、事代主尊を「長田(ながた)国」に、表筒男・中筒男・底筒男の三神を「大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)」に祀ったとあります。

 この「広田」は、武庫郡(現西宮市大社町)の式内社広田神社です。西宮(夷)神社は、広田神社の分社です。

 この「ひろた」は、マオリ語の

  「ヒロウ・タ」、HIROU-TA(hirou=rake,net for dredging;ta=dash,lay)、「網を引く場所に在る(鎮座する)」

の転訛と解します。

 この「活田」は、菟原郡(現神戸市中央区)の式内社生田神社で、その社地生田の森は、源平古戦場として知られています。

この「いくたのながを」は、マオリ語の

  「ヒク・タ・ノ・ナ・(ン)ガ・ワオ」、HIKU-TA-NO-NA-NGA-WAO(hiku=point,headwaters of a river,eaves of a house;ta=dash,lay;na=by,belonging to;nga=satisfied,breathe;wao=forest)、「(満足した)広々と・した・森・の・(川の)水源(の池)が・在る(場所に鎮座する)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」と、「ワオ」のAO音がO音に変化して「ヲ」となった)

の転訛と解します。

 この「長田」は、八田部郡(現神戸市長田区)の式内社長田神社です。

 この「ながた」は、マオリ語の

  「ナ・(ン)ガ・タ」、NA-NGA-TA(na=by,belonging to;nga=satisfied,breathe;ta=dash,lay)、「広々とした(満足している)・場所に・在る(鎮座する)」

の転訛と解します。

 この「大津の渟中倉の長峡」は、菟原郡住吉郷(現神戸市東灘区住吉)とする説と、住吉郡(現大阪市住吉区)とする説があります。

 この「おおつのぬなくらのながを」は、マオリ語の

  「オウ・ツ・ノ・ヌナ・クラ・ノ・ナ・(ン)ガ・ワオ」、OU-TU-NO-NUNA-KURA-NO-NA-NGA-WAO((Hawaii)ou=to perch as on a tree;tu=stand,settle;no=of;(Hawaii)nuna=luna=high,above,boss,leader;kura=red,precious,red feathers,chief;na=by,belonging to;nga=satisfied,breathe;wao=forest)、「鳥が止まり木に止まるように(臨時に)・居る・(場所)の・高い(地位にある)・首長・の・(満足した)広々と・した・森」

の転訛と解します。この解釈によれば、臨時の鎮座ですから、住吉郡ではなく、当然菟原郡住吉郷(現神戸市東灘区住吉)ということになります。

 

(9) 有馬(ありま)温泉

 

 神戸市東部、北区有馬町にある温泉で、三方を山に囲まれ、有馬川の清流が流れる山紫水明の地です。東の草津、西の道後と並ぶ古い歴史を誇る温泉で、『日本書紀』舒明紀3(631)年9月の条および孝徳紀大化3(647)年10月の条に天皇入湯の記事があります。8世紀には僧行基が温泉寺を建立、12世紀には僧仁西が湯治客のために12の宿坊を建てて再興の祖と崇められ、16世紀には豊臣秀吉がしばしば入湯しています。

 この「ありま」は、(1) 「アリ(山間)・マ(土地)」の意、

(2) 「アリ(荒れ)・マ(土地)」の意とする説があります。

 この「ありま」は、マオリ語の

  「アリ・マ」、ARI-MA(ari=clear,appearance,fence;ma=white,clear)、「垣根(山)に囲まれた清らかな(土地。そこに湧く温泉)」

  または「ア・リマ」、A-RIMA(a=the...of,belonging to;rima=five,hand)、「(手の指のように)五本(の谷または道が)・集まっている(場所。そこに湧く温泉)」

の転訛と解します。

 

(10) 播磨(はりま)国

 

 播磨国は、山陽道に属する国でその東端に位置し、現兵庫県の西南部にあたります。国名は、『古事記』などには「針間」と記されています。『旧事本紀』は、律令制下の播磨国の成立前には、明石(播磨東部)、播磨鴨(加古川流域)、播磨(市川、揖保川流域)の三国造がいたと伝えます。

 この「はりま」は、(1) 枕詞の「みかしお(三日潮速し)播磨」から、

(2) 「イカ(厳)・シオ(塩)・ハマ(浜)」から、

(3) 「ニガ(苦い)・シオ(塩)・ハリ(張り)」から、

(4) 「ハリ(墾)・マ(土地)」から、

(5) 「ハリ(榛)・マ(土地)」からとする説があります。

 この「はりま」、「みかしほ」は、マオリ語の

  「パリ・マ」、PARI-MA(pari=cliff,flowing of the tide;ma=white,clear)、「白い・崖(のある地域)」または「(その傍らを明石海峡の激しい)潮流が流れる・清らかな(場所)」(「パリ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」となった)

  「ミ・カチ・ハウ」、MI-KATI-HAU(mi=urine,river,stream;kati=block up,shut of a passage,barrier;hau=wind,eager,famous,vital essence of land)、「激しく・通行を阻む・潮流が(傍らを)流れる(地域)」

の転訛と解します。

 

(11) 明石(あかし)市

 

 兵庫県南部の明石海峡に臨む市で、大阪湾への入り口、淡路島を経て四国への連絡路として交通の要衝です。明石海峡をまたぐ世界最長の吊橋、明石海峡大橋が神戸市舞子(まいこ)と津名郡淡路町岩屋の間に架かっています。

 この「あかし」は、『日本書紀』神功紀摂政元年2月の条に「赤石」と記され、

(1) 市内松江と林の沖合の海底にある赤石による、

(2) アイヌ語で「潮流のある所」の意、

(3) 「アケ(明)し」で海峡が西に開けているからなどとする説があります。

 この「あかし」は、マオリ語の

  「ア・カチ」、A-KATI(a=the...of;kati=block up,shut of a passage,barrier)、「通路を塞ぐ位置にある(場所)」

の転訛と解します。

 この舞子の「まいこ」は、(1) 千姿万態の松の姿から、

(2) 在原行平や平清盛が舞子を踊らせたことによるという説があります。

 この「まいこ」は、マオリ語の

  「コ・マイ」、KO-MAI(the near side)、「(淡路島に)近い場所」

の転訛(語順が逆転した)と解します。

 この岩屋の「いわや」は、マオリ語の

  「イ・ワイア」、I-WHAIA(i=beside;whaia=whai=follow,look for;aim at)、「(淡路島に渡る)目標の場所一帯」

の転訛と解します。

 

(12) 加古(かこ)川・加古(かこ)郡

 

 兵庫県南部、播磨平野東部を南流して瀬戸内海に注ぐ県下第一の川です。京都府との境の遠坂峠付近に源を発する佐治川と、篠山盆地の水を集めて西流する篠山川が山南町で合流して加古川となり、杉原川、東条川、美嚢川などの支流をあわせて播磨灘に注ぎます。

 中流の西脇市付近までは小盆地群を貫いて流れ、丘陵や段丘の発達した播磨平野では、無数の溜池の水源となって降雨量の少ないこの地帯を潤し、下流に広大な三角州を形成します。勾配がゆるやかなため、江戸時代初期から水運が盛んでした。

 かつての加古郡は、加古川市の大部分と稲美、播磨の二町を含む地域でしたが、この「かこ」は、(1) 『播磨国風土記』に「此の丘を見るに鹿児の如し」とあることによる、

(2) 『日本書紀』応神紀13年9月の条に鹿皮を着けた水夫が泳いで「鹿子の水門」に入つたとあることから、「カコ(水夫)」の意、

(3) 「カケ・カキ(欠。崖、崩壊地)」の転とする説があります。

 この「かこ」は、マオリ語の

  「カカウ」、KAKAU(swim.wade)、「蛇行する(川)」(AU音がO音に変化して「カコ」となった)

の転訛(語尾の「ア」が脱落した)と解します。

 

(13) 印南野(いなみの)

 

 印南野は、兵庫県中南部、東を明石川、西を加古川、北を美嚢川で限られ、南に播磨灘を望む台地状の地域です。西国往還の要衝で、『播磨国風土記』や『万葉集』に「印南野」、「稲見野」、「稲日(いなび)野」として、広漠とした未開拓の原野のさまが記されています。

 台地のまわりを流れる河川とは急崖で隔てられているため、水利の便が悪く、近世初期まで開発されませんでした。江戸時代に入って加古川、明石川等の水を引き、秋冬に溜池に水を貯える開発がおこなわれ、日本でも有数の溜池密集地帯となりました。江戸時代には綿作、大正以降は稲作が進み、播磨の穀倉地帯となっています。

 この「いなみ」は、(1) 『播磨国風土記』は、仲哀天皇が筑紫に下られる際、「滄海(うなばら)甚く平(な)ぎ、波風和ぎ静けかりき」、故に「入浪の郡」と名付けたことによる、

(2) 「イ(接頭語)・ナミ(滑らかな台地)」の意とする説があります。

 この「いなみ」は、マオリ語の

  「イ・(ン)ガミ」、I-NGAMI(i=past tense,beside;ngami,whakangami=swallow up)、「膨れ・上がっている(高台の土地)」(「(ン)ガミ」のNG音がN音に変化して「ナミ」となった)

の転訛と解します。

 

(14) 美嚢(みなぎ)郡

 

a 美嚢(現在は、みのう)郡

 『播磨国風土記』に「美嚢(みなぎ)郡」の地名の由来を説いて、

  「昔、大兄の伊射報和気命(いざほわけのみこと、履中天皇)、國を堺ひたまひし時、志深(しじみ)の里の許曾の社(こそのもり)に到りて、勅りたまひしく、「此の土(くに)は、水流(みながれ)甚美(いとうるは)しきかも」とのりたまひき。故、美嚢(みなぎ)の郡と號く」

とあります。

 『和名抄』は「美奈木」と訓じています。

 この「みなぎ」は、(1) 「水清」の約、

(2) 「水辺」の転、

(3) 「ミ(水)・ナギ(薙ぎ。崖)」で「川岸」の意とする説があります。

 この「みなぎ」は、マオリ語の

  「ミ・ナキ」、MI-NAKI(mi=urine,stream;naki=move smoothly)、「ゆったりと流れる(川。その川が流れる地域)」

  または「ミナ・ア(ン)ギ」、MINA-ANGI(mina=desire,feel inclination for;angi=free,move freely,float)、「自由に流れ・たがっている(川。その川が流れる地域)」(「ミナ」の語尾のA音と「ア(ン)ギ」の語頭のA音が連結し、NG音がG音に変化して「ミナギ」となった)

の転訛と解します。

 また、高梁川のほとりの岡山県総社市美袋(みなぎ)や筑後川の支流の佐田川が流れる福岡県甘木市三奈木(みなぎ。『和名抄』にみえる筑前国下座(しもつあさくら)郡美嚢(みなぎ)郷に比定されます)も、同じ語源でしょう。

 

b 三木(みき)市

 兵庫県南部、神戸市に隣接して三木市があります。加古川の支流、美嚢(みのう)川が中央を流れ、刃物や金物の町としてで有名です。

 この「みき」は、(1) 上記の「美嚢(みなぎ)」が簡略化されて「三木(みなぎ)」の文字があてられ、後に三木(みき)となり、三木(みき)市となつた、

(2) 朝鮮遠征のときに立ち寄った神功皇后に酒を献じたことから御酒(みき)と呼ばれ、これが転じたとする説があります。

 なお、香川県木田郡三木(みき)町は、『和名抄』にみえる讃岐国三木郡の名によるもので、その郡名は郡内にあった「ビャクシン、ヒイラギ、サンショウ」の三本の巨樹にちなむという伝承があります(『全讃史』)。しかし、『日本書紀』持統紀3(745)年8月の条には「讃吉国御城郡」としてみえており、「みき」という音に対する単なる宛字であった可能性が高いと思われます。

 この香川県三木町や、三重県尾鷲市三木里(みきさと)町、同市三木浦(みきうら)町、同市三木崎(みきさき)、大阪府堺市美木多上(みきたかみ)などの「みき」は、マオリ語の

 「ミキ」、MIKI(range of hills)、「連なった丘(のある場所)」

の意と解します。

 

(15) 飾磨(しかま)郡

 

a 飾磨郡

 『播磨国風土記』は、大三間津日子(おおみまつひこ)命がここに屋形を造って居られたとき、大きな鹿が鳴いたので命が「壮鹿(しか)鳴くかも」と言われたことによると伝えています。

 この「しかま」は、「スカマ(砂丘地)」の転とする説があります。

 ここを流れる市川、夢前(ゆめさき)川は、ほぼ真っ直ぐに南流して播磨灘に注ぎます。これらの川の間の山脈も、真っ直ぐ南を向いています。

 この「しかま」は、マオリ語の

  「チカ・マ」、TIKA-MA(tika=straight,keeping a direct course;ma=white,clear)、「(川が)真っ直ぐに流れる清らかな(地域)」

の転訛と解します。『和名抄』にみえる陸奥国色麻(しかま)郡・郷の名が残っている宮城県加美郡色麻(しかま)町も保野川が真っ直ぐ流れる地域で、同じ語源でしょう。

 

b 夢前(ゆめさき)川

 夢前川は、飾磨郡夢前(ゆめさき)町北端の雪彦(せつびこ)山東斜面を源とし、ほぼ真っ直ぐ南流して姫路市下手野で菅生川と合流し、さらに南流して播磨灘に注ぎます。

 この「ゆめさき」は、マオリ(ハワイ)語の

  「イ・ウメ・タキ」、I-UME-TAKI(i=past time;ume(Hawaii)=draw,pull,attract;taki=track,lead,bring along)、「(菅生川を)引き寄せて(合流して海まで)連れてくる(川=夢前川)」

の転訛と解します。

 

c 菅生(すごう)川

 菅生川は、夢前川の南を並行して流れ、姫路市下手野で夢前川に合流します。

 『播磨国風土記』は、飾磨郡菅生(すがふ)里は「此処に菅原あり」によると記し、『和名抄』は「須加布」と訓じています。

 この「菅生里」は、菅生川中流の飾磨郡夢前町菅生澗(すごうだに)に比定され、菅生川はこの地名によるものです。

 この「すがふ」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ・フ」、TUNGA-HU(tunga=wound;hu=mud,swamp)、「荒れた湿地」

の転訛と解します。

 

d 雪彦(せつびこ)山

 雪彦山(915メートル)は、奇岩が多い修験道の山で、九州の英彦(ひこ)山、越後の弥彦(やひこ)山と並んで日本三彦山と呼ばれています。

 この「せつびこ」は、マオリ語の

  「タイツ・ピコ」、TAITU-PIKO(taitu=take up,lift,be hindered;piko=bend,stoop,curve)、「折れ曲がって・高い(山)」(「タイツ」のAI音がE音に変化して「テツ」から「セツ」となった)

の転訛と解します。

 

(16) 姫路(ひめじ)市

 

a 姫路市

 姫路市は、播磨平野中央に位置し、播磨灘に臨む海陸交通の要衝の地です。山陽道から出雲、因幡、但馬3街道が分岐しています。

 市の中央、姫山には白鷺城とよばれる優美な姫路城があります。

 『播磨国風土記』は、飾磨郡伊和(いわ)里に14の丘があり、そのうちの日女道(ひめぢ)丘は、火明命を棄てようとした父神大汝命の船が火明命に打ち破られ、「蚕子(ひめこ)落ちし処は、即ち日女道丘と號く」とその由来を記しています。

 この「ひめじ」は、マオリ語の

  「ヒ・マイチ」、HI-MAITI(hi=raise,rise;maiti=small)、「小さな・高台」(「マイチ」のAI音がE音に変化して「メチ」から「メジ」となった)

  または「ヒ・メチメチ」、HI-METIMETI(hi=raise,rise;metimeti=fat)、「ふっくらとした高台」(反復語尾の「メチ」が脱落して「ヒメチ」から「ヒメジ」となった)

の転訛と解します。

 

b 伊和(いわ)里

 『播磨国風土記』の伊和里の名は、姫路市手柄山から南西の地域を近世に「岩(いわ)郷」と呼んで残っていました。

 この「いわ」は、「イ(接頭語)・ワ(廻)」で「川の曲流、山の縁辺の廻ったところ」と解する説があります。

 この「いわ」は、マオリ語の

  「イ・ワ」、I-WHA(i=beside;wha=be disclosed,get abroad)、「開けた土地一帯」

の転訛と解します。

 

c 手苅丘

 『播磨国風土記』の14丘のうちの「手苅(てがり)丘」は、姫路市街地西南の手柄(てがら)山(50メートル。現手柄山公園)に比定されます。

 この「てがり」は、マオリ語の

  「テ(ン)ガリ」、TENGARI(=engari=on the contrary,on the other hand)、「(日女道丘およびその西方に分布する他の諸丘から)反対方向(に離れて在る丘)」

の転訛と解します。

 

d 瞋塩(いかしほ)

 『播磨国風土記』には、大汝神が「悪き子を遁れむと為て、返りて波風に遇ひ、太(いた)く辛苦(たしな)められつるかも」と言われたので、「瞋塩(いかしほ)といひ、苦(たしなみ)の斉(わたり)といふ」とあります。

 この瞋塩は、夢前川河口の地名と考えられますが、夢前川上流の別名「置塩(おしお)川」として名が残っているとする説があります。

 この「いかしほ」、「たしなみ」は、マオリ語の

  「イカ・チホ」、IKA-TIHO(ika=victim;tiho=flaccid)、「犠牲者がぐったりとした(場所。河口)」

  「タ・チナ・ミ」、TA-TINA-MI(ta=the;tina=fixed,exhausted,overcome;mi=stream,river)、「あの・徹底的に打撃を被った・川(の場所)」

の転訛と解します。

 

e 砥掘(とほり)

 『播磨国風土記』に、飾磨郡大野里砥掘の記事があり、応神天皇の御代に神埼郡と飾磨郡の境の大川(現市川)の岸の道を造ったときに砥石を掘り出したので「砥掘」というとあります。姫路市街地の北、広峰山塊が市川に迫る川岸に「砥掘(とほり)」の地名が残り、JR播但線砥掘駅があります。

 この「とほり」は、マオリ語の

  「ト・ホリ」、TO-HORI(to=the...of;hori=cut,slit)、「切り開いた場所」

の転訛と解します。

 

f 網干(あぼし)浜

 揖保川の河口に姫路市網干の浜があります。揖保川は、ここで大きく曲がって播磨灘に注ぎます。

 この「あぼし」は、マオリ語の

  「ア・ポチ」、A-POTI(a=the...of;poti=angle,corner)、「(川の)曲がり角(の場所)」

の転訛と解します。

 

(17) 高砂(たかさご)市

 

a 高砂市

 高砂市は、兵庫県南部、加古川河口の三角州に上に立地し、加古川市と姫路市に挟まれ、播磨灘に臨んでいます。播磨の穀倉地帯を背後に持ち、江戸時代には姫路藩の年貢米の集散地、内海航路の拠点として栄えました。

 歌枕の地で、謡曲「高砂」で有名です。

 市名は、加古川河口の砂浜「伊佐古」に由来し、「たかいさご」から転訛したとされています。

 この「たかいさご」は、マオリ語の

  「タカ・イ・タコ」、TAKA-I-TAKO(taka=heap,go round,encircled;i=beside;tako=peeled off,loose)、「(果物の)皮を剥いたような浜の高台(またはその浜で囲まれた場所)」

の転訛と解します。

 

b 石の宝殿(ほうでん)

 石の宝殿は、高砂市阿弥陀町にある古代の石造物(高さ5.7メートル、横幅6.4メートル、奥行き7.2メートル)で、古代から石材の切り出し場であった竜(たつ)山という丘陵の中腹の凝灰岩の岩盤を削って横倒しの家形の直方体としたもので、生石(おうしこ)神社のご神体となっています。『播磨国風土記』印南郡条は、「作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもかくの如し。名号を大石といふ。伝えていへらく、聖徳の王の御世、弓削(ゆげ)の大連(物部守屋大連)の造れる石なり。」と伝えています。

 この「ほうでん」、「おうしこ」、「たつ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ホウ・テ(ン)ガ」、HOU-TENGA(hou=dedicate or initiate a person etc.,establish by rited;tenga=goitre,Adam's apple)、「(神に)捧げられた・喉仏のような(突起物。石の宝殿)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「テン」、「デン」となった)

  「オウ・チコ」、OU-TIKO(ou(Hawaii)=hump up;tiko=stand out,protrude)、「突出した・瘤(のような石。それをご神体とする神社)」

  「タ・ツ」、TA-TU(ta=dash,beat,lay;tu=fight with,energetic)、「(石材を)盛んに・切り出した(山)」

の転訛と解します。

 

(18) 揖保(いぼ)郡

 

a 揖保郡

 揖保郡は、揖保川の下流域の地域です。

 『播磨国風土記』は、揖保郡揖保里の「粒(いひぼ)山」の名は、葦原志挙乎(あしはらのしこを)命が天日槍(あめのひぼこ)命と国の占有を争ってこの山に来て食事をした際、(飯)粒が落ちたことによると記しています。『和名抄』は揖保郡・郷を「伊比保」と訓じています。

 この「いひぼ」は、「イヒ(上)・ホ(秀)」で高い山の意とする説があります。しかし、これは次の川名からきた地名です。

 

b 揖保(いぼ)川

 揖保川は、兵庫県西部、鳥取県との県境付近の氷ノ山(ひょうのせん。1510メートル)に源を発する引原川が、宍粟郡一の宮町で三方川と合流して揖保川となり、龍野市付近から市川、夢前川と複合三角州を形成し、河口付近で林田川と合流すると共に中川を分流し、姫路市網干で播磨灘に注ぐ川です。

 この「いひぼ」は、マオリ語の

  「イヒ・ポウ」、IHI-POU(ihi=split,separate;pou=pour out)、「(河口で支流を)分けて(海に)注ぐ(川)」

の転訛と解します。

 

c 竜野(たつの)市

 

 龍野市は、兵庫県南西部、播磨平野北西隅にあって揖保川に臨む市です。古代には山陽道と美作道が分岐する交通の要地で、市域全体に条里制の遺構が分布し、無土器、縄文、弥生時代の遺跡や墳墓群が多く残ります。旧市街地は、西播山地の一角、的場山と城山の山ふところに抱かれ、東を揖保川に限られて立地し、街並みの美しい小京都として有名です。

 この「たつの」は、(1) 『播磨国風土記』は、揖保郡立野(たちの)は努見宿禰(野見宿禰。のみのすくね)が旅行中に死亡し、出雲の人が来て「人衆を連ね立てて運び伝え、川の礫を上げて、墓の山を作りき」とし、「立野(たちの)」の地名は「人を立て連ねたことによる」と解され、これにちなむとされています。

(2) 「背後に切り立った山のある前に開けた野がある場所」の意、

(3) 館山、館野などのように、「中世土豪の屋敷地」の意、

(4) 「タツ(台地、小丘陵)・ノ(野)」の意とする説があります。

 この「たつの」、「たちの」は、マオリ語の

  「タツ・ノホ」、TATU-NOHO(tatu=reach the bottom,be content;noho=sit,stay,settle)、「盆地の底(のような地形の場所)に定住している(人々の住む地域)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「タ・チノヒ」、TA-TINOHI(ta=the;tinohi=put heated stones upon food laid to cook in a earth-oven)、「あの・(地面に掘った蒸し焼き炉に入れた食物を調理するためにその上に焼いた石を載せるように)礫を積んだ(墓。その墓がある場所)」(「チノヒ」の語尾のH音が脱落して「チノ」となった)

の転訛と解します。

 

(19) 赤穂(あこう)郡

 

a 赤穂市

 兵庫県の南西端、播磨灘に面する市で、市街地は千種川の三角州の上に発達し、赤穂浪士と製塩で有名です。

 この「あこう」は、(1) 赤蓼の生えている場所、

(2) 「アコ、アコウ、アゴ」の海岸地名の一つとする説があります。

 この「あこう」は、マオリ語の

  「アカウ」、AKAU(shore,coast)、「海岸」

の転訛と解します。

 

b 相生(あいおい)市

 相生は、深く湾入した相生湾の奥の一段狭くなったところのもと漁村大(おお)浦で、相生(おお)町でしたが、昭和14(1939)年に商業港那波(なば)町を編入した際、「あいおい」と改称し、昭和17(1942)年市となりました。

 この「おお」は、ハワイ語の

  「オウ」、OU(to stretch out,to pinch off)、「(奥に)伸びている(湾。または狭くなった場所)」

の転訛と解します。

 この「なば」は、マオリ語の

  「ナ・パ」、NA-PA(na=satisfied,belonging to;pa=block up,stockade)、「(船を)安全に保護する(場所、港)」

の転訛と解します。沖縄(おきなわ)県の「なわ」、同県那覇(なは)市の「なは」も同じ語源(「ぱ」のP音がF音を経てH音に変化して「なは」、さらに「なわ」となつた)でしょう。

 

(20) 佐用(さよう)郡

 

 播磨国佐用郡は、赤穂郡の北、宍粟郡の南西にあります。おおむね佐用川とその支流千種川、志文川の流域の地域です。

 『播磨国風土記』は讃容郡の由来について、大神の妹玉津日女命が鹿の腹を割き、その血に稲の種を蒔き、一夜にして苗が生え、それを植えたので、大神が「汝妹は、五月夜(さよ)に殖(う)ゑつるかも」といって、他の地に去ったといいます。古代では、先に苗を植えた者がその地の占有権を取得するという占居説話の典型です。『和名抄』は「佐与」と訓じています。

 この「さよ」は、(1) 「サヤ(ざわめく)」の転で、「川沿いの地」の意、

(2) 「サヤ(障)」の転で「障壁のある地」の意とする説があります。

 この「さよ」は、マオリ語の

  「タイ・オ」、TAI-O(tai=prefix sometimes with a qualifying force;o=find room, be capable of being contained or enclosed,get in implying difficulty or reluctance)、「(早々と稲を植えることによって)天晴れにも・(土地を)取得した(その地域)」(「タイ」と「オ」が連結して「サヨ」となった)

の転訛と解します。

 この「たまつ(玉津。日女命)」は、

  「タ・マツ」、TA-MATU(ta=dash,beat;matu=cut,cut in pieces)、「(鹿を)屠つて・切り刻んだ(媛)」

の転訛と解します。

(21) 宍粟(しそう)郡

 

 兵庫県中部、揖保郡の北に宍粟(しそう)郡があり、引原川と三方川が合流した揖保川が中央を貫流しています。

 この由来は、『播磨国風土記』に、伊和大神が巡行されたとき、

  「大きなる鹿、己が舌を出して、矢田の村に遇へりき。爾に、勅りたまひしく、「矢は彼(そ)の舌にあり」とのりたまひき。故、宍禾(しさは)の郡と號く」

とあり、「しさは」は「鹿遇(ししあへ)」の約とされています(日本古典文学大系『風土記』岩波書店)。

 『和名抄』は「志佐波(しさは)」と訓じています。

 この「しさは」は、「シ(石)・サハ(沢、谷川)」の意とする説があります。

 この「しさは」は、マオリ語で

  「チタハ」、TITAHA(lean to one side)、「(南方へ)傾いている(地域)」

  または「チヒ・タワ」、TIHI-TAWHA(tihi=summit,top;tawha=crack,burst open)、「最高の・(割れ目)沢がある(地域)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」と、「タワ」のWH音がH音に変化して「タハ」から「サハ」となった)

の転訛と解します。

 この宍粟郡の中心の一宮町には、播磨国一宮の伊和大神を祀る伊和神社が鎮座しています。

 

(22) 神埼(かんざき)郡

 

 播磨国神埼郡は、北は但馬国朝来郡、東は多可郡、南は賀茂郡、西は飾磨郡、宍粟郡に接しています。神埼郡の中央を市川が南流し、この幹に東西から幾つもの支流が枝のように流れ込んでいます。

 『播磨国風土記』は、神前郡について「伊和の大神のみ子、建石敷(たけいはしき)命、神前(かむざき)山に在す」ことによるとします。『和名抄』は「加无佐支」と訓じています。

 この「かむさき」は、マオリ語の

  「カム・タキ」、KAMU-TAKI(kamu=eat,close of the hand;taki=take to one side,track,bring along)、「手を合わせるように(次々に)支流を導き合流する(川が流れる地域)」

の転訛と解します。

 

(23) 多可(たか)郡

 

 播磨国多可郡は、北から東にかけては但馬国氷上郡、南は賀茂郡、西は神埼郡に接しています。

 『播磨国風土記』は、託賀(たか)郡について大人伝説を記し、「此の土(くに)は高ければ、申(の)びて行く。高きかもといひき」によるとします。

 この「たか」は、マオリ語の

  「タカ」、TAKA(heap,lie in a heap)、「高いところに在る(地域)」

の転訛と解します。

 

(24) 賀茂(かも)郡

 

 播磨国賀茂郡は、北は多可郡、東は但馬国多紀郡、摂津国有馬郡、南は美嚢郡、印南郡、西は飾磨郡、神埼郡に接しています。賀茂郡南部の社町、滝野町、加西市と、北部の西脇市、八千代町との境の山脈は、南に半月状にカーブしてせり出しています。  

 『播磨国風土記』は、賀毛郡について応仁天皇の御代に「鴨の村に、雙(つがひ)の鴨栖(す)を作りて卵を生みき」によるとします。

 この「かも」は、(1) 鳥の「鴨」による、

(2) 「カミ(上または神)」の転、

(3) 「神森」の転とする説があります。

 この「かも」は、マオリ語の

  「カモ」、KAMO(eyelash,eyelid,eye)、「瞼(まぶた)(のような地形の場所)」

の転訛と解します。

 

(25) 多紀(たき)郡

 

a 多紀郡

 丹波国多紀郡は、現兵庫県多紀郡の地域で、丹波高地の山脈に囲まれた篠山盆地の篠山町、西紀町、丹南町の地域です。この盆地は、東の天引(あまびき)峠を経て園部へ通じ、西は播磨、南は摂津、北は福知山へ向かう街道がありますが、古代には

 この「たき」は、マオリ語の

  「タキ」、TAKI(take to one side,take out of the way)、「別の道を通って行く(地域。または脇道にそれて行く地域)」

の転訛と解します。

 

b 篠山(ささやま)盆地

 篠山盆地は、丹波高地に囲まれ、中央を加古川の支流の篠山川が西流しています。笹山は、江戸時代初期に西国の押さえとして篠山城を築いた小丘の名とされます。城内にはかつて泉であった井戸が今も残されています。

 この「ささやま」は、(1) 「ササ(笹)」を神事に用いることから、「神楽(かぐら)を行う場」の意、

(2) 「ササキ(自然銅)」、「ササカネ(砂鉄)」から鉱山のある土地の意と解する説があります。

 この「ささ」は、マオリ語の

  「タタ」、TATA(bail water out of a canoe,stalk of a plant,fence)、「(船のあか水をくみ出すように)水が湧き出す(山。その山がある盆地)」

の転訛と解します。

 

(26) 氷上(ひかみ)郡

 

 丹波国氷上郡は、現兵庫県中部、北は天田郡、東は多紀郡、南は播磨国多可郡、西は但馬国朝来郡に接します。『和名抄』は「比加三」と訓じています。

 この「ひかみ」は、「ヒ(樋、水路)・カミ(上手)」で深い谷を流れる川の縁辺の意と解する説があります。

 氷上郡氷上町の南東端、JR福知山線の石生(いそう)駅付近の水分(みわかれ)橋は、日本海へ注ぐ由良川と瀬戸内海へ注ぐ加古川の分水界にあたります。

 この「ひかみ」は、この平地に分水界のある地域の特徴を表現したもので、ハワイ語の

  「ヒカ・ミ」、HIKA-MI((Hawaii)hika=to stagger,spreading as vines;mi=urine,stream,to void urine)、「よろめく(流れる方向が定まらない)・川(の流れる地域)」

の転訛と解します。

 この石生の「いそう」は、マオリ語の

  「イ・ト」、I-TO(i=beside;to=drag,open or shut a door or window)、「(水が)あっちへ行ったり、こっちへ来たりする(分水界の場所)」

の転訛と解します。

 

(27) 但馬(たじま)国

 

 但馬国は、兵庫県北部の地域で、北は日本海、東は丹波・丹後国、南は播磨国、西は因幡国に隣接しています。

 山陰道に属し、『古事記』は「多遅麻」、「多遅摩」と、『日本書紀』はすべて「但馬」と記し、『和名抄』は「太知万」と訓じています。

 この「たちま」は、「タチ(台地)・マ(間)」と解する説があります。

 この但馬国の中心の豊岡平野は、古代には日本海から入り込んだ巨大な入り江(潟)で、その先端の一つは出石にまで達していました。

 この「たちま」は、マオリ語の

  「タ・チマ」、TA-TIMA(ta=the,dash,lay;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような(巨大な)地形のある(地域)」

の転訛と解します。

 

(28) 朝来(あさご)郡

 

a 朝来郡

 但馬国朝来郡は、現兵庫県中部、神崎郡の北にあり、その南部は市川が瀬戸内海に向かって南流し、北部は円山川が日本海へ向かって北流しています。

 『和名抄』は「安佐古」と訓じています。

 この「あさこ」は、(1) 「ア(接頭語)・サコ(迫、谷)」の意、

(2) 「アサ(崖、急斜面)・コ(処)」の意とする説があります。

 この「あさこ」は、マオリ語の

  「ア・タカウ」、A-TAKAU(a=the...of;takau=steep)、「(山地の)嶮しい・地域」(「タカウ」のAU音がO音に変化して「タコ」から「サコ」となった)

の転訛と解します。

 この「タカウ」は、京都市の高雄や東京都の高尾山の「たかお」と同じ語源です。

 

b 生野(いくの)銀山

 『播磨国風土記』の飾磨郡埴丘(はにおか)里の条に「生野」の地名説話があり、これを但馬国朝来郡生野に比定する説が有力です。

 この「いくの」は、「植物の良く生育する野」の意とする説があります。この地にある生野銀山は、大同2(807)年に開かれたと伝えられています。

 この「いくの」は、マオリ語の

  「ヒク・ナウ」、HIKU-NAU(hiku=point,headwaters of a river,eaves of a house;nau=come,go)、「(市川の)源流に・辿りついた(土地。または家の庇(ひさし)のような地形の高い場所)」

の転訛と解します。

 この「ヒク」は、『魏志倭人伝』の対馬国などの長官名「卑狗(ひく)」と同じ語源と考えられます。

 

(29) 養父(やぶ)郡

 

a 養父郡

 但馬国養父郡は、現兵庫県中部、北は七美郡、気多郡、東は出石郡、南は朝来郡、西は因幡国八上郡(現鳥取県八頭郡)に接しています。西の国境には、大山に次ぐ中国地方第二の高峰、氷ノ山(ひょうのせん)山塊があります。最高峰は須賀ノ山(すがのせん。1,510メートル)で、その東には、1,000〜500メートル級の高原が続いています。

 この「やぶ」は、(1) 『肥前国風土記』には、養父郡に景行天皇が巡幸されたとき、吠えた犬を産婦が見ると吠え止んだので「犬の声止むの国」といったのが転訛したとあります。『和名抄』は、但馬も肥前も同じく「夜不」と訓じています。

(2) 「ヤブ(薮、荒れ地)」の意とする説があります。

 この「やぶ」は、マオリ語の

  「イア・プ」、IA-PU(ia=indeed,current;pu=heap,lie in a heap)、「実に高いところに在る(地域)」

  または「イア・アプ」、IA-APU(ia=indeed,current;apu=move or be in a flock or crowd,gather into the hands,heap upon)、「川(の源流)が・集まっている(地域)」または「実に・(山が)高く積み重なっている(地域)」(「イア」のA音と「アプ」の語頭のA音が連結して「ヤプ」から「ヤブ」となった)

の転訛と解します。

 

b 氷ノ山・須賀ノ山

 上記の氷ノ山の「ひょう」は、マオリ語の

  「ヒ・イオ」、HI-IO(hi=raise,rise;io=muscle,spur,ridge)、「高い山の峰々」

の転訛と解します。

 上記の須賀ノ山の「すが」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ」、TUNGA(circumstance of standing,site,foundation)、「どっしりと座っている(山)」

の転訛と解します。

 

c 明延(あけのべ)鉱山

 養父郡大屋(おおや)町の南部、大屋川の支流明延川の上流に、錫、タングステン、金、銀を伴う銅・鉛・亜鉛を産出した明延鉱山があり、昭和62年に閉山になるまで、日本の重要鉱山の一つでした。大同年間(平安初期)に開かれたと伝えられ、白亜紀〜第三紀層に珪長岩の貫入によって生じた割れ目充填熱水鉱床で、百数十条を越す鉱脈を持つ鉱山でした。

 この「あけのべ」は、マオリ語の

  「アケ・ノペ」、AKE-NOPE(ake=forthwith,(intensify),upwards;nope=constricted)、「(岩石の割れ目の中に)上方へ向かって圧縮されている(鉱脈を持つ鉱山)」

の転訛と解します。

 

(30) 出石(いずし)郡

 

 但馬国出石郡は、北は城崎郡、北東から南東にかけては丹後国熊野郡、中郡、天田郡、南から西にかけては朝来郡、養父郡に接していました。おおむね現出石郡出石町、但東町の地域です。『和名抄』は「伊豆志」と訓じています。

 出石は、『古事記』、『日本書紀』に天日槍(あめのひぼこ)が来日して定住した場所として伝承され、明神大社出石神社は但馬国一宮として地方の崇敬を集めています。

 この「いずし」は、(1) 「イツ(厳)」から「崖など嶮しい地形」の意、

(2) 「イツ(稜威、美称)・シ(石、磯)」の意とする説があります。

 この「いずし」は、マオリ語の

  「イツ・チ」、ITU-TI(itu=side;ti=throw,cast)、「(後に豊岡平野となる潟の)脇に放り出されている(地域)」

の転訛と解します。

 『日本書紀』垂仁紀3年3月の条に天日槍の来日の記事があり、「刀」、「矛」、「鏡」などを将来したこと、近江国の鏡村に従者がいること(ここには鏡作神社があります)が記されています。この記事からしますと、天日槍は鉄、銅など金属精錬・鋳造の技術を将来したことが窺われます。

 この出石の近くには、とくに青銅器の製造に不可欠の銅、錫等を産出する日本有数の生野銀山、明延鉱山があり、これらの鉱山の存在が天日槍が日本各地を巡り歩いた末に最後に出石に定住するに至った最大の理由ではなかったでしょうか。

 

(31) 城崎(きのさき)郡

 

a 城崎郡

 但馬国城崎郡は、北は日本海、東は丹後国熊野郡、南は出石郡、西は気多郡、美含郡に接していました。おおむね現豊岡市の地域です。『和名抄』は「支乃佐木」と訓じています。

 伝承によれば、天日槍が垂仁天皇の御代に但馬に来たとき、豊岡盆地は円山(まるやま)川の河口が塞がつて満々たる泥の海(黄沼(きぬ))でしたが、瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、今の豊岡盆地を作ったといい、履中天皇の御代には天火明命の後裔海部直の子、西刀(せと)宿禰が瀬戸の水門を浚渫したといいます。

 この「きのさき」は、(1) 伝承の「黄沼崎(きぬさき)」の転、

(2) 「木の生えている崎」の意、

(3) 「円山川に丘陵が突出した場所」の意とする説がありますが、不詳です。

 この「きのさき」は、マオリ語の

  「キノ・タキ」、KINO-TAKI(kino=bad,ugly,hurriedly;taki=take to one side,take out of the way,track,bring along)、「(低湿地であった円山川のほとりの)悪い道を辿る(地域)」

の転訛と解します。

 

b 津居(つい)山

 円山川が日本海に注ぐ河口に、津居山がせり出しています。

 この「つい」は、マオリ語の

  「ツイ」、TUI(pierce,thread on a string,lace)、「(紐に糸を刺すように)川にせり出している(山)」

の転訛と解します。

 

c 円山川

 円山川は、但馬地方最大の川で、県中部の生野峠付近に発して北流し、豊岡市津居山港付近で日本海に注ぎます。流域には広い谷底平野が発達しています。傾斜が緩やかで、水量が豊富なため、舟運が盛んでしたが、下流は蛇行が多く、氾濫常習地帯でした。

 この「まるやま」は、マオリ語の

  「マル・イア・マ」、MARU-IA-MA(maru=gentle,calm,bruised,power;ia=indeed,very;ma=white,clear)、「実に穏やかで清らかな(川)」

の転訛と解します。

 

(32) 気多(けた)郡

 

a 気多郡

 但馬国気多郡は、北は美含郡、東は城崎郡、南は養父郡、西は七美郡に接した地域でした。現城崎郡日高町を中心とする地域にあたるようです。

 この「けた」は、マオリ語の

  「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」

の転訛と解します。

 

b 神鍋山(かんなべやま)

 この「変わった地形の場所」とは、日高町にある神鍋山(477メートル)を指すものと思われます。

 この山は、氷ノ山山地から延びた山脈がV字形に開いた間にある玄武岩からなる溶岩円頂丘で、山腹は高原状に広がっており、関西の代表的なスキー場となっています。

 この「かんなべ」は、マオリ語の

  「カネ・ナペ」、KANE-NAPE(kane=head;nape=ligament of a bivulve)、「(V字形に開いた山脈=口を開いた貝の間を連結している)貝柱の(中にある)頭(のような山)」

の転訛と解します。

 

(33) 美含(みぐみ)郡

 

a 美含郡

 但馬国美含郡は、北は日本海、東は城崎郡、南は気多郡、西は七美郡、二方郡で、おおむね現城崎郡竹野町、香住町の地域です。『和名抄』は、「美具美」と訓じています。

 この竹野(たけの)町を流れる竹野川、香住(かすみ)町の東部を流れる佐津(さつ)川の流路延長は、10数キロメートルから20キロメートルに足りず、極めて短いことが特徴です。

 この「みぐみ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ミ(ン)ゴイ・ミ」、MINGOI-MI(mingoi=wriggle;(Hawaii)mi=urine,stream)、「(短い距離を)のたうち回って流れる・川(その川が流れる地域)」(「ミ(ン)ゴイ」のNG音がG音に、OI音がU音に変化して「ミグ」となった)

の転訛と解します。

 

b 香住町

 美含郡の香住町の西部は、氷ノ山に源を発し、鉢伏山(1,221メートル)に源を発する湯舟川などを合流して北流する矢田(やだ)川の下流域にあります。

 矢田川河口の香住漁港は、イカ、マツバガニ漁が盛んです。

 また、香住町の西半、今子浦から伊笹浦までの約12キロメートルの海岸は、山陰海岸国立公園の名勝の一つで、海食によってできた断崖、奇岩怪石などで知られています。中でも柱状節理と板状節理が入り交じった「鎧ケ袖(よろいがそで)」や、奥行き148メートルの「衣笠(きぬがさ)洞窟」が有名です。

 この香住町の「かすみ」は、マオリ語の

  「カハ・ツ・フミ」、KAHA-TU-HUMI(kaha=strong,strebgth,persistency,rope,edge;tu=stand,settle,fight with,energetic;humi=abundant)、「強力に・打撃を加えた(波浪に浸食された海岸が)・たくさんある(場所)」(「カハ」・「フミ」のH音が脱落して「カ・ツ・ミ」から「カスミ」となった)

の転訛と解します。

 この矢田川の「やだ」は、マオリ語の

  「イア・タ」、IA-TA(ia=indeed,very;ta=dash,strike)、「非常に(流域に)打撃を与える(暴れる川)」

の転訛と解します。

 香住町の東部を流れる佐津川の「さつ」は、マオリ語の

  「タツ」、TATU(strike one foot against the other)、「(片方の足が前の足にぶつかる=)踵(きびす)を接する(ような短い川)」

の転訛と解します。

 この鎧ケ袖の「よろいがそで」は、マオリ語の

  「イオ・ロイ・カト・テ」、IO-ROI-KATO-TE(io=tough;roi=tied;kato=break off;te=crack)、「(岩が)堅く結び付けられていたり、剥がされて割れ目になっていたりする(場所)」

の転訛と解します。

 この衣笠洞窟の「きぬがさ」は、マオリ語の

  「キ・ヌイ・カタ」、KI-NUI-KATA(ki=full;nui=large;kata=opening of shellfish)、「十分に大きい貝が口を開いたような(洞窟)」

の転訛と解します。この「きぬがさ」は、地名篇(その三)の滋賀県安土山の項の「繖(きぬがさ)山」と同じ語源です。

 

c 竹野町

 この竹野町の「たけの」は、マオリ語の

  「タケ・ナウ」、TAKE-NAU(take=stump,base of a hill,origin,chief;nau=come,go)、「祖先がやってきた(土地)」

の転訛と解します。

 

(34) 二方(ふたかた)郡

 

a 二方郡

 但馬国二方郡は、北は日本海、東は美含郡、南は七美郡、西は因幡国に接しています。おおむね現美方郡浜坂(はまさか)町、温泉町の地域です。『和名抄』は「布太加太」と訓じています。

 この「ふたかた」は、浜坂町を流れる岸田川の河口の三角州の海岸側に観音山(245メートル)がある特異な地形を表現したもので、マオリ語の

  「プタ・カタ」、PUTA-KATA(puta=opening,pass through,escape;kata=laugh,open culum of univulve molluscs)、「一枚貝の口のような(地域。さざえの口が開いて蓋の隙間から川が流れ出しているような地形の場所)」

の転訛と解します。

 

b 浜坂(はまさか)町

 浜坂町は、近世からの村名で、山陰道の交通の要衝、江戸時代の北前船の寄港地でした。海岸には名勝、天然記念物の但馬御火浦(たじまみほのうら)があります。

 この「みほ」は、ハワイ語の

  「ミホ」、MIHO(pile up)、「(岩石が)重なり積み上がった(海岸)」

の転訛と解します。

 

(35) 七美(しつみ)郡

 

 但馬国七美郡は、北は二方郡、美含郡、東は気多郡、南は養父郡、西は因幡国に接していました。おおむね現美方郡三方町、村岡町の地域です。『和名抄』は、「志豆美」と訓じています。

 この「しつみ」は、マオリ語の

  「チチ・ミ」、TITI-MI(titi=peg,be fastened with pegs,steep;mi(Hawaii)=urine,stream,to void urine)、「杭に結び付けられている川(が流れる地域=氷ノ山に源を発する矢田川、湯舟川が流れる地域)」

の転訛と解します。

 

(36) 淡路(あわじ)国

 

 淡路国は、淡路島の地域で、南海道に属しています。『古事記』は「淡道」、『日本書紀』は「淡路」と記し、「阿波(粟)国へ行く道」の意と通常解されています。『和名抄』は「阿波知」と訓じています。

 瀬戸内海交通の要衝で、国生み神話では殆どの所伝が第一に淡路島が生まれたとし、「淡道之穂之狭別(あわじのほのさわけ)」の島名が記されています。記紀の中でも大和朝廷との関わりの深い、海人族の住む国でした。

 この「あわじ」、「あわじのほのさわけ」は、

  「アワ・チ」、AWA-TI(awa=channel,river;ti=throw,cast)、「海峡に・放り出されている(島)」

  「アワ・チノ・ホノ・タワケ」、AWA-TINO-HONO-TAWAKE(awa=channel,river;tino=exact,quite,very;hono=join,add,be on the point of;tawake=rapair a hole in a canoe)、「海峡(の中)に・正に・(本州と四国を)結んで・(海峡に蓋をするように)塞いでいる(島。そこに居る神)」

の転訛と解します。

 

(37) 津名(つな)郡

 

a 津名郡

 津名郡は、淡路島の北半部で、花崗岩からなる津名丘陵は明石海峡の陥没前は六甲山地と一続きの山地でした。

 この「つな」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ」、TUNGA(circumstance of standing,site,foundation)、「どっしりと腰を据えている(土地)」

の転訛(NG音がN音に変化して「ツナ」となった)と解します。

 

b 松帆(まつほ)ノ浦

 松帆ノ浦は、淡路島の北端、『万葉集』などにも詠まれている明石海峡に臨む岩石海岸の景勝地です。

 この「まつほ」は、マオリ語の

  「マ・ツホア」、MA-TUHOA(ma=white,clear;tuhoa=steep)、「清らかで嶮しい(海岸)」

の転訛(語尾の「ア」が脱落した)と解します。

 

c 岩屋(いわや)港

 明石海峡大橋が架けられている淡路島の北端に岩屋港があり、明石港、神戸港と結ぶフェリーが発着しています。

 この岩屋の「いわや」は、マオリ語の

  「イ・ワイア」、I-WHAIA(i=beside;whaia=whai=follow,look for;aim at)、「(淡路島に渡る)目標の場所一帯」

の転訛と解します。

 

(38) 三原(みはら)郡

 

a 三原郡

 三原郡は、淡路島の南半部で、北の津名丘陵と南の諭鶴羽(ゆづるは)山脈との間に三原平野、洲本平野が広がっています。

 この三原は、『和名抄』は「美波良」と訓じています。

 この「みはら」は、(1) 「ミ(美称)・ハラ(原)」の意、

(2) 「ミ(水)・ハラ(原)」で「湿地」の意とする説があります。

 この「みはら」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ミ・パラ」、MI-PARA(mi(Hawaii)=urine,stream,to void urine;para=a flake of stone;dust,cut down bush)、「薮を切り開いたところを流れる川(その川の流れる地域)」または「水の涸れた砂礫地(の地帯)」

の転訛と解します。

 広島県三原市、大阪府南河内郡美原町、高知県幡多郡三原村などは前者の意味かと思われますが、なおこの三原郡や大阪府南河内郡美原町には溜池が多く存在しており、伊豆大島の三原山、同八丈島の三原山(東山)を含め、後者の意味である可能性もあります。

 

b 諭鶴羽(ゆづるは)山脈

 淡路島の南縁には、和泉砂岩からなる諭鶴羽山脈(最高峰は、諭鶴羽山(608メートル))が中央構造線に接して直線状に急峻な断層崖となって海に落ち込んでいます。

 この「ゆづるは」は、マオリ語の

  「イ・ウツ・ルハ」、I-UTU-RUHA(i=beside,past tense;utu=spur of a hill,front part of a house;ruha=ragged,worn out,weary)、「海際の・家の前面のような・ぼろぼろの(山脈)」

の転訛と解します。

 

c 由良(ゆら)港

 諭鶴羽山脈の東端、紀淡海峡に面して、洲本市由良港があります。

 この「ゆら」は、マオリ(ハワイ)語の

  「イウ・ラ」、IU-RA(iu(Hawaii)=lofty,sacred;ra=sail,wed)、「高い帆(のような山脈(諭鶴羽山脈)の下にある土地、港)」

の転訛と解します。

 地名篇(その三)では、京都府加佐郡由良(ゆら)を「乳房のような山が連なっている(場所。そこの湊。そこを流れる川)」と解しましたが、由良湊の西の由良ケ岳(640メートル)を「高い帆」と見立てた可能性も否定できません。

 また、和歌山県日高郡由良町も、由良川河口の港町で、紀伊山地の白馬(しらま)山脈から伸びる山地が海に迫っていますが、特に目立つ高い山はないようです。

 さらに、鳥取県東伯郡大栄町の由良港は、大山の麓にあることから「高い帆」と解することもできますが、すぐ近くには北条砂丘が連なっており、「乳房のような砂丘の連なり」と解することも十分可能です。なお、他の「由良」地名も含め、現地の風景、地勢等に即した検討が必要かと思われます。現地を熟知の方のご意見をぜひお聞かせください。

 

d 生石(おいし)崎

 由良港の南、淡路島の最東南端に生石崎があります。生石崎と和歌山市田倉崎を結ぶ紀淡海峡の最狭部は幅約10キロメートル、大型船が航行できる生石崎と沖の島との間の由良瀬戸は幅約4キロメートルで、時速約4.5キロメートルの激しい潮流が流れています。

 この「おいし」は、マオリ語の

  「オイ・チ」、OI-TI(oi=shudder,move continuously as the sea;ti=throw,cast)、「(激しい潮流の中に)放り出されて震えている(岬)」

の転訛と解します。

 

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<修正経緯>

1 平成15年5月1日

  大阪府の(7)河内国の「凡河内(おほつかふち)」の解釈を修正し、兵庫県の(1)川辺郡のb猪名(いな)川の解釈を補完し、(17)のb石の宝殿の説明および解釈を補充しました。

2 平成16年7月1日

  大阪府の(12)のb弓削(ゆげ)の解釈を修正しました。

3 平成16年10月1日

 大阪府の(2)難波津の解釈の一部を修正、(3)能勢郡の別解釈を追加、(6)東成郡・西成郡の放出の解釈を修正、(8)枚方市の叩頭、我君、伽和羅の解釈を修正、(9)交野市の解釈を修正、(10)寝屋川市の茨田郡、太間の解釈を修正、強頸絶間、衫子絶間の解釈を追加、(11)生駒山の石切、枚岡、暗峠の解釈を修正、(15)羽曳野市の羽曳、誉田、アリ山の解釈を修正、(17)千早の解釈を修正、(19)堺市の百舌鳥耳原、イタスケ古墳の解釈を修正、(20)日根郡の深日の別解釈を追加し、

  兵庫県の(1)川辺郡の解釈を修正しました。

4 平成16年11月1日

 兵庫県の(1)川辺郡の多田銀山の別解釈を追加、(4)灘の別解釈を追加、(6)菟原郡と(7)八田部郡の範囲および両郡の解釈を修正、(8)の活田の長峡、大津の渟中倉の長峡の解釈を修正、(9)有馬温泉の別解釈を追加、(10)播磨国の項に枕詞「みかしほ」の解釈を追加、(12)加古川の解釈を修正、(13)印南野の解釈を修正、(14)美嚢郡の解釈を修正、(15)飾磨郡の雪彦山の解釈を修正、(16)姫路市の解釈を修正、(25)多紀郡の篠山盆地の解釈を修正、(29)養父郡の別解釈を追加、(33)美含郡および香住町の解釈を修正しました。 

5 平成17年6月1日

 大阪府の(8)のb楠葉の別解釈を追加、兵庫県の(36)淡路国に「淡道之穂之狭別」の別名の解釈を追加しました。

6 平成17年10月1日

 大阪府の(14)藤井寺市の「葛井(ふじい)」の別解釈を追加し、中国で発見された「井真成」墓誌銘の「井」氏との関連について考察を加えました。

7 平成18年7月1日

 兵庫県の(38)三原郡のb「諭鶴羽(ゆづるは)山脈」の解釈を修正しました。

8 平成19年1月1日

 兵庫県の(16)姫路市のd瞋塩の項に辛苦(たしなみ)の解釈を追加し、(20)佐用郡の「佐用」の解釈を修正し、「玉津日売命」の解釈を追加し、(21)宍粟郡の解釈を修正しました。

9 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

10 平成19年9月20日 

 兵庫県の(18)揖保郡のc竜野市の項に「立野」の解釈を追加しました。

11 平成20年5月1日 

 大阪府の(6)東成郡・西成郡の項にg 坐摩(いかすり)神社・都下野(とがの)・渡辺(わたなべ)・生井(いくい)神・福井(さくい)神・綱長井(つながい)神・波比祇(はひき)神・阿須波(あすは)神の解釈を追加しました。

12 平成22年9月1日

 大阪府の(7)河内国の項を一部修正しました。

13 平成23年3月1日

 大阪府の(15)羽曳野市の項にd 高鷲丸山古墳の解釈を追加しました。

地名篇(その四)終わり

 
U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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