地名篇(その三)

(平成11-8-1書込。26-8-1最終修正)(テキスト約48頁)


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    目 次 <近畿地方の地名(その一)>

24 三重県の地名

 伊勢国鈴鹿山脈鈴鹿峠・阿須波(あすは)道御池岳藤原岳御在所山加太(かぶと)越え員弁(いなべ)郡桑名市三重郡能煩野(のぼの)朝明(あさけ)渓谷安濃(あのう)津櫛田川香肌(かはだ)峡飯高町丹生(にゅう)、射和(いざわ)、真赭(まそほ)、赭(そほ)五十鈴川二見ケ浦度会(わたらい)郡布引山地伊賀国青山町名張市香落渓(こおちだに)赤目四十八滝志摩国鳥羽市答志島和具的矢(まとや)湾安乗(あのり)崎菅崎伊雑(いぞう)ノ浦伊雑(いざわ)宮英虞(あご)湾阿児(あご)町奈古湾ほか大王崎波切天白(てんぱく)尾鷲(おわせ)市九鬼須賀利熊野市

25 滋賀県の地名

 近江国琵琶湖・鳰(にお)の海大津堅田・堅田(かたた)船・殿原(とのばら)衆・全人(まろうど)衆・丸子(まるこ)船・重木(おもぎ)・出島(でけしま)灯台逢坂山穴太(あのう)膳所(ぜぜ)粟津瀬田比叡山比良山地比良八荒武奈ケ嶽高島郡水尾神社安曇川(あどがわ)・饗庭野(あえばの)朽木(くつき)村竹生(ちくぶ)島余呉湖賎ヶ岳伊香郡葛篭尾(つづらお)崎塩津浅井郡伊吹山犬上郡多賀大社愛知川蒲生野安土山繖(きぬがさ)山箕作山野洲川甲賀(こうか)郡信楽町栗太郡田上(たなかみ)山

26 京都府の地名

 山城国愛宕(おたぎ)郡賀茂川糺の森深泥池貴船山鞍馬山高野川途中峠大原八瀬岩倉葛野郡清滝川栂尾槙尾高雄愛宕(あたご)山嵯峨野太秦御室双ケ岡化野(あだしの)乙訓郡桂川大堰(おおい)川保津峡嵐山小倉山松尾大社老ノ坂大枝ポンポン山と釈迦岳向日丘陵物集女(もずめ)神足善峰山天王山男山相楽郡綴喜郡木津川笠置山和束町・鷲峰山加茂町椿井祝園(ほうその)宇治川巨椋池一口(いもあらい)久世郡淀川山科醍醐伏見深草紀伊郡鳥羽丹波国桑田郡船井郡天田郡八木町屋賀加佐郡由良栗田(くんだ)半島舞鶴湾大江山大江町加悦町宮津湾・天橋立・久志備(くしび)の浜・九世戸(くせど)与謝郡伊根町竹野郡間人(たいざ)

<修正経緯>

 

<近畿地方の地名(その一)>

 

24 三重県の地名

(1) 伊勢(いせ)国  

 伊勢(いせ)国は、東海道15国の一つで、天武天皇9(680)年ごろ、伊勢・伊賀・志摩の三国に分かれたようです。

 国名の由来は、『伊勢国風土記』逸文に、伊勢津彦が国土を献じ、風を起こし波に乗って東方へ去ったので、神武天皇の命により国神の名をとって命名したという説話がありますが、さらに、
(1) 大和国の背の国、
(2) 山を背にしている国(以上『古事類苑』)、
(3) 五十鈴川にちなむ地名で、「五十瀬(いせ)」から(谷川士清『和訓栞』ほか)、
(4) 度会郡伊蘇(いそ)郷にちなむ「磯(いそ)」の転(松岡静雄ほか)とする説があります。

 この「いせ」は、マオリ語の   「イ・テ」、I-TE(i=beside;te=emit a sharp explosive sound)、「(荒波が打ち寄せる)大きな音がとどろく場所のそば」 の転訛と解します。これは『日本書紀』垂仁紀25年3月の条に「神風の伊勢国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり」とあることに符合します。

 

(2) 鈴鹿(すずか)山脈

a 鈴鹿山脈

 鈴鹿山脈は、岐阜・三重の両県と滋賀県との境を南北に走る山脈で、北は関ケ原の狭隘部を経て伊吹山地に接しており、南は加太(かぶと)越えを経て布引山地に続いています。最高峰は北部の御池岳(1,247メートル)で、ほかに藤原岳(1,130メートル)、竜ケ岳(1,100メートル)、釈迦ケ岳(1,092メートル)、御在所山(1,212メートル)などの1,000メートル級の山が連なっています。東西両側に断層があり、とくに東側は逆断層によってできた崖で急傾斜になっている地塁山地で、主要な交通路はすべて山脈を迂回せざるをえない交通の難所です。

 鈴鹿の名は、古代の郡郷名、駅名、関所名にみえています。
 この「すずか」は、(1)生い茂るスズダケによる、
(2)鈴の口が裂けているように、山や谷が裂けて川が流れ出す、
(3)アイヌ語の「スス(清浄)」からなどの説があります。

 この「すずか」は、マオリ語の

  「ツツ・カハ」、TUTU-KAHA(tutu=stand erect,be prominent;kaha=strong,strength,rope,ridge of a hill,boundary line of land)、「力強く立ちはだかる(山脈または境界線)」

の転訛(原ポリネシア語の「スス・カハ」が日本語に入って語尾の「ハ」が脱落して「ススカ」から「スズカ」となり、マオリ語ではS音がT音に変化して「ツツ・カハ」となった)と解します。

 

b 鈴鹿峠・阿須波(あすは)道

 鈴鹿峠(357メートル)は、滋賀県甲賀郡土山町と三重県鈴鹿郡関町の境にある峠で、古来畿内と東国を結ぶ交通の要衝として知られ、付近に鈴鹿関が設けられていました。峠付近の道筋はたびたび変わったようで、仁和2(886)年には倉歴(くらぶ)越え(滋賀県甲賀郡甲賀町油日(あぶらひ)に倉歴山があります)から、鈴鹿峠越えの「阿須波(あすは)道」に移ったといわれます。

 この「あすは」は、(1) 「地を守るという阿須波(あすは)神」による、
(2) 『和名抄』にみえる越前国足羽(あすは)郡・郷名と同様、「アス(崖)・ハ(端)」の意とする説があります。

 この「あすは」は、鈴鹿峠付近の地形を表現したもので、マオリ語の

  「ア・ツパ」、A-TUPA(a=collar-bone;tupa=rough,flat)、「ごつごつした(または平たい)鎖骨(のような地形の場所を通る路)」(「ツパ」のP音がF音を経てH音に変化して「ツハ」となった)福井県足羽(あすは)郡、足羽川も同様の地形で、同じ語源と考えられます。

  または「ア・ツハ」、A-TUHA(a=the...of,belonging to;tuwha,tuha=distribute)、「(従来の倉歴越えを通る人々を)分配する・(新しい)路」  

の転訛と解します。

 なお、「阿須波神」の「あすは」は、マオリ語の

  「アツア・ウハ」、ATUA-UHA(atua=god,supernatural being;uha,uwha=female)、「女の・神(大地の神)」(「アツア」の語尾のA音が脱落して「アツ」から「アス」となった)

の転訛と解します。

 この倉歴(くらぶ)越えの「くらぶ」、油日の「あぶらひ」は、マオリ語の

  「クラ・プ」、KURA-PU(kura=red,precious,treasure;pu=tribe,heap)、「価値の高い山」または「クフ・ラプ」、KUHU-RAPU(kuhu=thrust in,insert;rapu=seek,look for,squeeze)、「(山中に)分け入って・(山越えの路を)探しながら歩く(山。その山を通る路)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

  「アプ・ラヒ」、APU-RAHI(apu=move or be in a flock or crowd;rahi=great,plentiful)、「大勢の人が集まっている(場所)」

の転訛と解します。

 

c 御池岳

 鈴鹿山脈最高峰の御池岳(おいけがだけ)の「おいけ」は、マオリ語の

  「オ・イケ」、O-IKE(o=the place of;ike=high)、「高い場所(山)」

の意と解します。

 

d 藤原岳

 藤原岳(ふじわらだけ)は、全山石灰岩で、頂上付近は平らでカルスト地形がみられ、南麓の三重県員弁郡藤原町にはセメント工場が立地しています。この「ふじわら」は、マオリ語の

  「フチ・ワラ」、HUTI-WHARA(huti=pull up,fish(v);whara=be struck,be pressed)、「高くて、(山頂が)平たく押しつぶされている(尖っていない山)」

の転訛と解します。

 

e 御在所山

 御在所(ございしよ)山の「ございしょ」は、マオリ語の

  「(ン)ゴ・タイ・チオ」、NGO-TAI-TIO(ngo=cry;tai=the sea,wave,anger;tio=sharp,rock-oyster)、「(登るのが)難儀で泣く・険しい・岩牡蠣のような(山)」

の転訛と解します。

 

f 加太(かぶと)越え

 鈴鹿山脈と布引山地の境に、加太(かぶと)越えがあり、古来交通・軍事の要衝で、古代の三関の一つである鈴鹿関が置かれていました。現在も国道25号線、名阪国道、JR関西本線が通っています。

 この「かぶと」は、マオリ語の

  「カプ・ト」、KAPU-TO(kapu=hollow of the hand,close the hand;to=be pregnant,drag,calm)、「手のひらの窪みのような地形を・含む(土地。そこを流れる川)」または「手のひらの窪みのような地形・へ導く(峠。そこを通る路)」

  または「カ・プトイ」、KA-PUTOI(ka=take fire,be lighted,burn;putoi=tie in a bunch,adorn with a bunch of anything)、「荷物(のような山)の縁にはりついているような・(火を燃やす)集落(その場所)」または「(火を燃やすように)必死になって・荷物(のような山)の縁にはりつく(ように越える。峠。そこを通る路)」(「プトイ」の語尾のI音が脱落して「プト」から「ブト」となった)

の転訛と解します。

 

(3) 員弁(いなべ)郡

 

 三重県北部に鈴鹿山脈と養老山脈に挟まれた員弁(いなべ)郡があります。『和名抄』には「為奈倍」とみえます。

 この「いなべ」は、(1) 応神紀31年8月の条にでてくる木工、造船などの特技をもつ猪名部にちなむ、

(2) 「井の辺(ゐのへ)」の転とする説があります。

 この「いなべ」は、マオリ語の

  「イ・ナペ」、I-NAPE(i=beside;nape=ligament of a bivalve)、「(鈴鹿山脈と養老山脈を結合している)貝柱のような地形の場所一帯」

の転訛と解します。

 

(4) 桑名(くわな)市

 

 三重県北東部の揖斐川河口に、伊勢湾海運の中継港、桑名市があります。古くからの港町で、近世は城下町となり、また東海道の宮(熱田)と桑名間を海上七里渡しによったため、重要な宿場町でした。

 『和名抄』には「久波奈」とみえ、(1) 「桑名首の居住地」(吉田東伍『大日本地名辞書』)、

(2) 「クワ(桑)・ナ(土地、場所)」、

(3) 「クハ(崖)・ナ(土地、場所)」とする説があります。

 この「くわな」は、マオリ語の

  「ク・ワ(ン)ガ」、KU-WHANGA(ku=silent;whanga=bay,stretch of water)、「静かな湾(に面した場所)」(「ワ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ワナ」となった)

  または「クワハ(ン)ガ」、KUWAHANGA(kuwaha=mouth,entrance)、「(長良川の。または伊勢湾から内陸への)入り口(の土地)」(「クワハ」の名詞形「クワハ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がN音に変化して「クワナ」となった)

の転訛と解します。

 

(5) 三重(みえ)郡

 

a 三重郡

 員弁郡の南に桑名郡、そして県名のもととなった三重郡があります。

 この地名は、『古事記』中巻、景行天皇の項で語られる倭建(やまとたける)命の終焉の条に見えます。

 倭建命は、草那藝劒(くさなぎのつるぎ)を尾張国の美夜受比賣のところに置いて出かけたため、伊服岐能山(いぶきのやま)で山の神に打ち惑わされ、玉倉部の清泉、当藝野(たぎの)、杖衝坂、尾津の前(さき)を経て、三重村(みへのむら)に着いたときに、

  「吾が足は、三重(みへ)の勾(まがり)の如くして、甚疲れたり」

と命が言われたので、その地を三重というとあります。これは、「道が幾曲がりもしているように、足がヘナヘナになって」の意(日本古典文学大系『日本書紀』岩波書店)とも、「足が三重に折れるようになって歩けないこと、杖をついても足が立たない状態」をいう(日本古典文学全集『古事記』小学館)ともされます。

 この「みへ」、「みへのまがり」は、マオリ語の

  「ミイ・ハエ」、MII-HAE((Hawaii)mii=clasp,good-looking;hae=slit,tear,cherish envy or jealousy or ill feeling,cause pain)、「(倭建命が足の)痛みに・ひどく苛なまれた(場所。地域)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」と、「ハエ」のAE音がE音に変化して「ヘ」となった)

  「ミイ・ハエ・(ン)ガウ・マ(ン)ガリ」、MII-HAE-NGAU-MANGARI((Hawaii)mii=clasp,good-looking;hae=slit,tear,cherish envy or jealousy or ill feeling,cause pain;ngau=bite,hurt,attack;mangari=luck,fortune)、「(倭建命の足を)ひどく苛なんだ・痛みが・(倭建命のこれまでの)幸運を・奪った」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」と、「ハエ」のAE音がE音に変化して「ヘ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「マ(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「マガリ」となった)

の転訛と解します。

 

b 能煩野(のぼの)

 さらに、最後に倭建命は能煩野(のぼの)の地で亡くなられますが、この地は三重県鈴鹿市北方から、鈴鹿郡鈴峰村、亀山市東部にかけての野(日本古典文学大系『日本書紀』岩波書店)とも、三重県鈴鹿郡の鈴鹿山脈の野登(ののぼり)山の山麓あたりか(日本古典文学全集『古事記』小学館、新潮日本古典集成『古事記』新潮社)ともいわれますが、定説はありません。

 また、命を葬った能褒野陵は、亀山市田村町字女ケ坂(『陵墓要覧』)とも、鈴鹿市石薬師の白鳥塚ともいわれますが、数説あって定説はありません。

 この「のぼの」は、マオリ語の

  「(ン)ガウ・ポノ」、NGAU-PONO(ngau=bite,hurt,act upon,attack;pono=came upon)、「(命の病が)ひどく痛んだ・(たまたま)やって来た(場所)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「ポノ」が「ボノ」となった)

の転訛と解します。したがってこれは固有名詞ではなく、古くからの「のぼの」の地名が残っていない(現在ある亀山市能保野町の地名は後の命名です)ことに何も不思議はありません。

 

c 朝明(あさけ)渓谷

 三重郡菰野(こもの)町を流れる朝明(あさけ)川の上流に、花崗岩の風化でできた色さまざまな礫(れき)に混じって巨石が点在する川原の朝明渓谷があります。

 この「あさけ」は、マオリ語の

  「アタ・ケ」、ATA-KE(ata=form,shape,quite;ke=strange,different)、「全く変わっている(川原)」

の転訛と解します。

 

(6) 安濃(あのう)津

 

 三重県津市に、かつて安濃(あのう)津がありました。安濃は、古くからの郡名でもあります。古来良港として著名で、博多津、坊ノ津(鹿児島県)とともに日本三津の一つといわれ、鎌倉から室町時代にとくに栄えました。しかし、明応7(1498)年の大地震による地盤沈下によつて当時の港は壊滅しました。

 この「あのう」は、後述の「英虞(あご)湾、阿児(あご)町」の「あご」と同じ語源で、マオリ語の

  「ア(ン)ゴ」、ANGO(gape)、「大きく口を開いた(湾、港)」(NG音がN音に変化して「アノ」となり、長音化して「アノウ」となった)

  または「アナウ」、ANAU(ramble,lazy,curved)、「湾曲した(港)」(AU音がOU音に変化して「アノウ」となった)

の転訛と解します。

 

(7) 櫛田(くしだ)川

 

a 櫛田川

 櫛田川は、三重・奈良県境の紀伊山地の高見山(1,249メートル)に源を発して東流し、松坂市東部で伊勢湾に注ぎます。ほぼ川に沿って和歌山街道(現国道166号線)が通り、紀伊半島を横断する交通路として利用されました。上・中流の河道は中央構造線にほぼ沿っており、両岸には河岸段丘がよく発達しています。

 この「くしだ」は、マオリ語の

  「クチ・タ」、KUTI-TA(kuti=contract,pinch;ta=dash,dash water out of a canoe,lay)、「狭い谷を激しく流れる(川)」

の転訛と解します。

 

b 香肌(かはだ)峡

 櫛田川の上流は、川俣(かばた)谷と呼ばれ、香肌(かはだ)峡渓谷の景勝地があります。上述のとおり、両岸には河岸段丘がよく発達しています。

 この「かばた」、「かはだ」は、いずれもマオリ語の

  「カパ・タ」、KAPA-TA(kapa=row,rank,stand in a row or rank;ta=dash,dash water out of a canoe,lay)、「段になったところ(河岸段丘)を激しく流れる(川、または河岸段丘にある渓谷)」

の転訛と解します。

 

c 飯高町

 櫛田川の上流部は、林業の町、飯南郡飯高町の区域です。

 この「いいたか」は、マオリ語の

  「イヒ・タカ」、IHI-TAKA(ihi=split,separate;taka=heap,lie in a heap)、「(櫛田川によって二つに)引き裂かれている高地」

の転訛と解します。

d 丹生(にゅう)、射和(いざわ)、真赭(まそほ)、赭(そほ)

 櫛田川の中流部から下流部にかけて多気(たき)郡多気町丹生(にゅう)地区(旧丹生村。昭和30年五ヶ谷村と合併して勢和(せいわ)村、平成18年に多気町と合併して多気町となった。)があります。丹生地区から松坂市射和(いざわ)地区にかけては、日本有数の朱砂(辰砂)地帯で、古くから「伊勢水銀」の採取がおこなわれ、盛んなころは「丹生千軒」とうたわれ、射和地区は「伊勢白粉」の名産地として知られていました。女人高野の称がある丹生の丹生大師(神宮寺)には、水銀の蒸留に用いられた土製の釜が保存されているといわれます(松田寿男『古代の朱』ちくま学芸文庫)。

 万葉集(14-3560)の「まがね吹く 丹生のまそほの色に出て 言はなくのみぞ 我が恋ふらくは」の「まそほ」は水銀化合物を含む「真赭」の色をさすとされます。なお、「そほ」は鉄の酸化物を含む「赭」の色、この東歌の「丹生」は群馬県甘楽郡丹生村(現富岡市)とされます(前掲『古代の朱』)。

 この「にゅう」、「いざわ」、「まそほ」、「そほ」は、

  「ニウ」、NIU(move along,glide;(Hawaii)niu=spinning)、「(粒となつてころころと流れる)水銀(または水銀の原料である朱砂(辰砂)を産する。地域)」(「ニウ」が「ニュウ」となった)

  「イ・タワハ」、I-TAWAHA(i=past tense,beside;tawaha=opening,a place where fern root is dug,having an unpleasant taste)、「(水銀を)採取する・場所一帯」または「(水銀の製造および加工に伴う)悪臭がする・場所一帯」(「タワハ」のH音が脱落して「タワ」から「ザワ」となつた)

  「マ・タウポ」、MA-TAUPO(ma=white,clean;taupo=a ferruginous earth or stone)、「清らかな(本当の)・鉄さび(を含む赤色の土。その色)」(「タウポ」のAU音がO音に、P音がF音を経てH音に変化して「トホ」から「ソホ」となった)

  「タウポ」、TAUPO(a ferruginous earth or stone)、「鉄さび(を含む赤色の土。その色)」(「タウポ」のAU音がO音に、P音がF音を経てH音に変化して「トホ」から「ソホ」となった)

の転訛と解します。

(8) 五十鈴(いすず)川

 

a 五十鈴川

 五十鈴川は、伊勢市のほぼ中央を南から北に貫流する川で、志摩半島のほぼ中央やや南よりの剣峠(343メートル)に源を発し、神路山東麓を経て伊勢神宮(内宮)域を通り、河口近くで分流して伊勢湾に注ぎます。上流には、大滝、小滝の飛瀑や、鮑石、牛石、鏡石、竈淵(かまふち)などの奇岩があり、五十鈴渓谷の景勝地となっています。上流域は丸い盆地状で、その北の縁の、西から延びてきた神路山の尾根と東から延びてきた朝熊山の尾根によって狭くなった狭間から、朝熊山の西麓を流れてきた島路川を直前で合流した五十鈴川が流れ出すところに、内宮が鎮座しています。

 この川名は、川の流れのせせらぎが鈴の音に聞こえるところからとされ、「スズ」は「清浄」の意とされています。

 この「いすず」は、マオリ語の

  「イ・ツツ」、I-TUTU(i=beside;tutu=hoop for holding open a hand net,steep in water,move with vigour)、「タモ網の付け根(を流れる川)」

の転訛と解します。(古典篇(その三)の「天孫の降臨」の項を参照してください。)この「ツツ」は、後述の滋賀県の葛篭尾(つづらお)崎の「ツツ」と同じ語源です。

 

b 二見浦(ふたみがうら)

 二見浦(ふたみがうら)は、五十鈴川本流と河口近くで分れた支流に囲まれた、三重県東部の度会郡二見町の海岸で、伊勢神宮に奉仕する者、参拝者の禊場で、古来歌枕としても知られています。立石崎の沖には、注連縄を張った夫婦岩があり、二見浦の沖に沈む猿田彦命の霊跡という興玉神石の岩門とされ、これを通して日の出を拝む風習が盛んです。

 この「ふたみ」は、「クタ(砕く)・ミズ(水)」の転とする説があります。 この「ふたみ」は、マオリ語の

  「プタ・ミヒ」、PUTA-MIHI(puta=opening,pass turough in or out,appear;mihi=greet,admire)、「(太陽が夫婦岩の間から)現れる神聖な(または拝む場所)」

の転訛と解します。

 

(9) 度会(わたらい)郡

 

 『和名抄』の伊勢国度会(わたらひ)郡は、現在の伊勢市一帯を指していたようです。現在の度会郡は、度会川(宮川)の流域を中心とし、さらに南の海岸部を含めた地域となっています。度会川は、伊勢神宮の神領の境界をなしており、神域に入るための禊ぎをする神聖な川とされていました。

 『伊勢国風土記』逸文には、天御中主尊の十二世の孫、天日別(あめのひわけ)命が、地元の大国玉神が連れてきた彌豆佐佐良(みずささら)姫命に会い、「刀自に渡り会ひつ」といったことによるとあります。

 この「わたらひ」は、マオリ語の

  「ワタ・ラヒ」、WHATA-RAHI(whata=elevated stage for storing food and for other purpose;rahi=great,abundunt)、「大きな高床の(食糧)倉庫」

の転訛と解します。

 外宮の豊受大神は、『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の御代に皇大神宮の神饌を供進する神として、丹波国与謝郡比沼(治)真名井原(元京都府加佐郡大江町。宇川沿いに内宮(ないく)、外宮(げぐう)という集落があって、ここには伊勢に遷座する前の皇大神宮が置かれていたとの伝承があり、俗に元伊勢と呼ばれています。)から迎え、山田原の宮に祭ったといいます。この「わたらい」の名は、地形地名ではなく、この神饌を供進する豊受大神の居る「(食糧)倉庫」という意味だったのです。(古典篇(その三)の「天孫の降臨」の項を参照してください。)

 

(10) 布引(ぬのびき)山地

 

 布引山地は、三重県の北西部を南北に走り、伊勢平野と上野盆地を分ける山地です。北は加太の鞍部で鈴鹿山脈と接し、南は尼ケ岳(958メートル)、大洞山(985メートル)を経て、高見山地へ続きます。

  「ヌヌイ・ピキ」、NUNUI-PIKI(nunui=large,many;piki=climb,frizzled,pressed close together)、「非常に縮れた(圧縮された山地)」

の転訛と解します。

 

(11) 伊賀(いが)国

 

 伊賀国は、東海道15国の一つで、三重県の西部にあった旧国名です。

 この国名は、(1) 古代この国を領した伊賀津(いがつ)姫にちなむ(『日本総国風土記』)または猿田彦の女吾娥津(あがつ)媛にちなむ「あが」の転(『風土記残篇』)、

(2) 「イナ(接頭語)・カガ(神子)」の約(松岡静雄)、

(3) 「イカ(厳、地形が嶮しい)」の強調、

(4) 成務天皇の御代に意知別(おちのわけ)命の三世武伊賀津別命を伊賀国造に任じたことによる(『国造本紀』)、

(5) 『日本書紀』宣化紀2年の条の伊賀臣の居住地であったことによるなどの説があります。

 この「いが」は、マオリ語の

  「ヒ(ン)ガ」、HINGA(fall from an erect position,be killed,lean,be overcome with astonishment or be outdone in a contest)、「(周囲の山から)落ち込んだ(地域。盆地)」または「(一方へ向かって)傾いている(一カ所から川が流れ出している。地域)」(H音が脱落し、NG音がG音に変化して「イガ」となった)

の転訛と解します。

 

(12) 青山(あおやま)町

 

 三重県中西部、上野盆地の南東端に名賀郡青山町があります。町域の大部分は、布引山地に属する山地で、木津川、深瀬川が合流する町の北西端の近くの低地に、「阿保(あお)」の中心集落があります。この阿保の地は、古くからの交通の要衝で、古代には伊勢神宮に行幸する天皇の頓宮や、斉王の頓宮が設けられ、近世には阿保越参宮道(初瀬街道)の宿場町として栄えました。

 この「あお」は、『和名抄』では「あほ」で、「アブ(崖地)」の転とする説や、「湿地」の意とする説があります。

 この「あほ」は、マオリ語の

  「アホ」、AHO(open space)、「開けている土地」

の転訛(「アホ」のH音が脱落して「アオ」となった)と解します。『和名抄』にみえる播磨国餝磨郡英保郷(現姫路市阿保(あぼ))も同じ語源でしょう。

 

(13) 名張(なばり)市

 

a 名張市

 三重県の西端、伊賀盆地南部に名張市があります。市域の大半は山地で、木津川市上流の名張川と宇陀川の合流点に形成された狭少な低地に旧市街地が立地しています。

 『日本書紀』天武紀元(672)年6月24日の条に「隠(なばり)駅家」とあり、古代から南大和と伊勢を結ぶ街道の宿駅でした。

 この「なばり」は、(1) 古語で「隠れる」意(本居宣長)、

(2) 「ニヒ(新)・ハリ(開墾地)」の転などの説があります。

 この「なばり」は、マオリ語の

 「ナ・パリ」、NA-PARI(na=belonging to;pari=cliff)、「崖の多い土地」

の転訛と解します。

 

b 香落渓

 名張市の南部から奈良県曽爾村にかけての、名張川支流青蓮寺川の渓谷の景勝地を香落渓(こおちだに)と呼びます。室生火山群による岩石が浸食されてできた延長約12キロメートルの渓谷で、屏風岩、小太郎岩など両岸に迫る大きな岸壁に柱状節理が見られます。

 この「こおち」は、マオリ語の

  「コ・オチ」、KO-OTI(ko=dig or plant with a wooden implement;oti=finished)、「掘り棒で掘り終わった(掘りに掘った)ような(渓谷)」

の転訛と解します。

 

c 赤目四十八滝

 香落渓の西の宇陀川支流の滝川渓谷には、約2キロメートルにわたって、赤目(あかめ)四十八滝といわれる、大小50余の滝と瀬、早瀬が連続する景勝地があります。

 この「あかめ」は、マオリ語の

  「アカ・マイ」、AKA-MAI(aka=clean off,scrape away;mai=to indicate direction or motion towards)、「(大地を)掘り削つて・流れる(渓谷)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  または「ア・カメ」、A-KAME(a=the...of,belonging to;kame=eat)、「(大地を)食んで・流れる(渓谷)」  

の転訛と解します。

 

(14) 志摩(しま)国

 

 志摩国は、東海道15国の一つで、三重県南部の志摩半島の先端部の旧国名です。東は遠州灘、南は熊野灘に臨み、平地はほとんどなく、海岸は典型的なリアス式で、的矢湾、英虞湾など多くの湾入があり、大小の島が多く浮かんでいます。

 志摩は古くは「島」と書かれ、『古事記』には「島の速贄献る時に猿女君等に給ふなり」とあります。『古事記伝』は伊勢国のうち「島々多くある処を分て一国とはせられし」と説いています。

 この「しま」は、マオリ語の

  「チマ」、TIMA(work the soil with a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような(出入りの多いリアス式の海岸の)地形がある(地域、国)」

の転訛と解します。(「志摩」と関連地名については、オリエンテーション篇(平成10年10月10日書き込み)3の(1)の「阿蘇」山と関連地名の項を参照してください。)

 

(15) 鳥羽(とば)市

 

a 鳥羽市

 鳥羽市は、三重県東部の志摩半島北東部にあり、伊勢湾口に位置する市で、伊勢湾口の答志(とうし)島、菅島、神島などを含んでいます。

 鳥羽は、水深が深く波が静かな天然の良港で、古くは「泊浦(とまりのうら)」と呼ばれていました。伊勢国と志摩国の境にあり、伊勢国鳥羽と称した場合も見られます。

 この「とば」は、マオリ語の

  「タウ・パ」、TAU-PA(tau=come to rest,come to anchor,be suitable;pa=block up,stockade,screen)、「(船が)碇泊する集落」

の転訛と解します。

 

b  答志(とうし)島

 答志島は、鳥羽湾中最大の島で、古くは手節(たふし)、塔志とも書かれ、御贄を献る御廚(みくりや)として知られ、また古墳の多いことで知られています。

 この「とうし」は、島の東端の「答志」の集落名からきたものと思われ、この「とうし」は、マオリ語の

  「タフチ」、TAHUTI(run away,hasten,hurriedly)、「(息の続くかぎり)急いで(海に潜って仕事をする海女の住む場所)」

  または「タフ・チ」、TAHU-TI(tahu=ridge-pole of a house,husband,set on fire,sacred rites;ti=throw,cast,overcome)、「(御贄を献ずるにあたっての、または死者を埋葬するにあたっての)聖なる呪文が・唱えられた(場所。島)」

の転訛と解します。

 

c 和具(わぐ)

 また、この島の東南の小さな岬の脇にある和具集落の「わぐ」は、マオリ語の

  「ワ・(ン)グ」、WA-NGU(wa=place;ngu=tatoo marks on the sides of the nose)、「(鼻の脇に施す入れ墨のような)岬の脇にある(集落)」

の転訛と解します。志摩郡志摩町の和具も同じ語源でしょう。

 

(16) 的矢(まとや)湾

 

a 的矢湾 

 的矢湾は、志摩半島東部にある湾で、東の遠州灘に向かって湾口を開き、北岸の菅(すが)崎、南岸の安乗(あのり)崎によって挟まれています。東西に長く、奥行きの深い入り江になっています。最奥部の上之郷(かみのごう)は、「伊雑(いぞう)ノ浦」と呼ばれ、伊勢神宮の別宮「伊雑(いざわ)宮」が鎮座します。

 この「まとや」は、(1) 矢竹の産地にちなむ、

(2) 「町屋」から、

(3) 「マト(間戸、海峡)」から、

(4) 「マ(入り江)・トヤ(泊屋、泊場)」からなどの説があります。

 この「まとや」は、マオリ語の

  「マト・イア」、MATO-IA(mato=deep swamp,deep valley;ia=indeed)、「実に・奥深く湾入している(湾)」

の転訛と解します。

 

b 安乗崎

 的矢湾の湾口を塞ぐように、長く突き出ている岬が安乗(あのり)崎です。

 この「あのり」は、マオリ語の

  「ア(ン)ゴ・リ」、ANGO-RI(ango=gape;ri=protect,screen)、「大きく口を開いた湾を保護している衝立(防波堤のような岬)」

の転訛(「アゴ」のNG音がN音に変化して「アノ」となった)と解します。

 

c 菅崎

 的矢湾の湾口に短く突き出ている菅(すが)崎の「すが」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ」、TUNGA(be hit,be wound)、「傷ついた(短くなっている岬)」

の転訛と解します。

 

d 伊雑ノ浦

 「伊雑(いぞう)ノ浦」の「いぞう」は、マオリ語の

  「イ・トウ」、I-TOU(i=beside,past tense;tou=anus,posteriors,wet)、「(的矢湾の奥の)肛門の・(入った)中の(浦)」

の転訛と解します。伊雑ノ浦のある磯部(いそべ)町の「いそ」も、この「いぞう」と同じ語源でしょう。

 

e 伊雑(いざわ)宮

 伊勢神宮の別宮「伊雑(いざわ)宮」の「いざわ」は、マオリ語の

  「イ・タワハ」、I-TAWAHA(i=beside;tawaha=entrance,mouth of a river)、「(神路川の)河口のそば」

の転訛と解します。

 

(17) 英虞(あご)湾

 

a 英虞湾・阿児町

 三重県志摩郡に真珠の養殖が盛んなことで知られるリアス式海岸の英虞湾があり、また阿児(あご)町があります。

 この地名は、『日本書紀』持統紀6(692)年の条に「阿胡行宮(あごのかりみや)」としてみえ、『和名抄』には「志摩国国府は英虞(阿呉。あご)郡に在り」としてみえます。昭和30(1955)年に旧郡を範囲とする鵜方町ほか6村が合併して阿児町となりました。

 この「あご」は、(1) 人体の顎と同じく「上がる」で「高地、台地」の意、

(2) 漁夫のことを「アゴ」と呼ぶことによるという説があります。

 この「あご」は、マオリ語の

  「ア(ン)ゴ」、ANGO(gape)、「大きく口を開いた(湾、場所)」

の転訛(NG音のNは、通常極めて弱く発音する)と解します。

 

b 奈古湾ほか

 なお、山口県北部に奈古(なご)湾がありますが、この奈古湾は『万葉集』巻13にみえる「阿胡(あご)の海」であるといい、「アゴ」が後に「ナゴ」になったといわれています。

 この「なご」は、マオリ語の

  「ナ・ア(ン)ゴ」、NA-ANGO(na=satisfied;ango=gape)、「静かな、大きく口を開けた(湾、入り江)」

の転訛(AA音が短縮してA音になった)と解します。富山県北西部、新湊市北西部、伏木富山港湾岸の放生津(ほうじょうづ)の古称の「奈呉(なご)の浦(海)」、千葉県館山市の北部のJR内房線那古船形(なごふなかた)駅(旧安房郡那古町および船形町から)の「那古」、沖縄県名護(なご)市および名護湾などの「なご」も、同じ語源でしょう。

 

(18) 大王(だいおう)崎

 

a 大王崎・波切(なきり)

 英虞湾の東、阿児町の南、志摩半島南東端の隆起海食台地に大王(だいおう)町があり、大王町波切に壮大な海食崖の大王崎があります。古くは「波切(なきり)の大鼻」といい、古来海の難所として有名です。

 この「だいおう」は、護法の八大竜王にちなむとされています。

 この「だいおう」は、マオリ語の

 「タイ・アウ」、TAI-AU(tai=the sea,the coast,tide,wave,anger;au=bark)、「海が・吠える(場所にある。岬)」(「アウ」のAU音がOU音に変化して「オウ」となった)

の転訛と解します。

 この「なきり」は、マオリ語の

  「ナキ・リ」、NAKI-RI(naki=glide;ri=screen,protect,bind)、「(船が滑って行く)航行を・止める衝立(のような。岬)」

の転訛と解します。

 

b 天白(てんぱく)

 また、大王町の海岸はほとんどが海食崖ですが、大王崎の裏側の小湾の奥に、「天白」という字名を持つ漁船を引き上げることのできる小さな砂浜があり、古くからの漁港がありました。ここは、後背地の丘が崩れて土砂を海岸に押し出し、砂浜が形成された場所と思われます。

 この「てんぱく」は、マオリ語の

  「テンガ・パク」、TENGA-PAKU(tenga=Adam's apple;paku=extend,explosion,small)、「破裂した喉ぼとけ(のような砂浜)」

の転訛と解します。大王埼灯台や波切神社のある大王崎を頭に見立て、裏側の天白の地を喉ぼとけに見立てたものです。この「てんぱく」は、名古屋市天白(てんぱく)区を流れる天白川の「てんぱく」と同じで、同川の中流にある牧野池を喉ぼとけに見立てたもの(「氾濫する喉ぼとけを持つ川」)と考えられます。

 

(19) 尾鷲(おわせ)市

 

a 尾鷲市

 尾鷲市は、三重県南部の熊野灘にのぞみ、市域の大部分は紀伊山地で、市街地は嶮しい山で細長く三方を囲まれた尾鷲湾奥の小平地に位置しています。

 この「おわせ」は、マオリ語の

  「オワ・テ」、OWA-TE(owa=gunwall;te=crack)、「裂けた船腹(のような地形の場所、尾鷲湾の方向だけが開いている場所)」

の転訛と解します。

 

b 九鬼(くき)

 尾鷲市の南部には、細長い入り江をもつ九鬼水軍(熊野水軍の一派)の根拠地であった九鬼町があります。

 この「くき」は、マオリ語の

  「クイキ」、KUIKI(cramp)、「(締め付け金具などで)締め付けられた(ような細長い湾)」

の転訛と解します。

 

c 須賀利(すがり)

 尾鷲市の東部、尾鷲湾を塞ぐような位置にある半島の出入りの多いリアス式海岸に須賀利(すがり)町があります。

 この「すがり」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ・リ」、TUNGA-RI(tunga=wound;ri=screen,protect)、「傷のついた防波堤(のような場所)」

の転訛と解します。

 

(20) 熊野(くまの)市

 

 熊野市は、三重県南部にあり、市域の大部分は紀伊山地で、南東部は熊野灘にのぞみ、海岸線の北半分は楯ケ崎、鬼ケ城・獅子巖(ししいわ)などの柱状節理や奇岩のあるリアス式海岸、南半分は七里御浜と呼ばれる単調な砂浜海岸で、その接合部に市街地があります。

市名は、昭和29年に木本(きのもと)町と周辺の荒阪村ほか7村が合併して、紀伊半島南部地域の名称である「熊野」からつけたものです(地名篇(その五)の和歌山県の「熊野」の項を参照してください)。 

  この「きのもと」は、

 キノ・モト、KINO-MOTO(kino=ill-looking,ugly;moto=strike with the fist)、(拳骨で殴られたように)浸食されて異様な景観を持つ(場所)

の転訛と解します。奇勝鬼ケ城・獅子巖、または楯ケ崎のある場所を指した地名と考えられます。

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25 滋賀県の地名

 

(1) 近江(おうみ)国

 

 近江国は、東山道に属する大国で、現在の滋賀県にあたります。周囲を山で囲まれ、中央に日本最大の淡水湖の琵琶湖があります。近江盆地は、西側の比良山地・比叡山地と東側の鈴鹿山脈の間の断層盆地で、中央の低所が琵琶湖です。 

 この「おうみ」は、「アハ(淡)・ウミ(海)」の約とされ、古くから淡海、相海、近江などと表記されました。近江は、浜名湖の「遠つ淡海」に対して「近つ淡海」と称したからというのが定説です。

 『和名抄』は、「知加津阿不三(ちかつあふみ)」と訓じます。

 この「おうみ」、「ちかつあふみ」は、マオリ語の

  「アウ・ミ」、AU-MI(au=sea;mi(Hawaii)=urine)、「尿をする(瀬田川が流れ出す)海(琵琶湖)」

  「チカ・ツ・ア・フミ」、TIKA-TU-A-HUMI(tika=straight,keeping a direct course;tu=stand,settle;a=the...of,belonging to;humi=abundant)、「(東山道、北陸道への)近道に・ある(重用されている)・大きな海のような湖・がある(地域。琵琶湖がある国)」(地名篇(その十七)の静岡県の(1)遠江国の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 『日本書紀』神功紀摂政元年3月5日の条の武内宿禰の歌に

  「淡海(あふみ)の海(み) 瀬田の濟(わたり)に潜(かづ)く鳥 目にし見えねば 憤(いきどほろ)しも」、

  「淡海(あふみ)の海(み) 瀬田の濟(わたり)に潜(かづ)く鳥 田上(たなかみ)過ぎて 菟道(うじ)に捕らへつ」

の二首がみえます。「淡海(あふみ)の海(み)」(原文では「阿布彌能彌」となっています)の「彌(み)」には、岩波大系本の讀み下ろしでは「海」の字をあてていますが、「海」では意味が通じません。これを上記のように「ミ=尿・川=瀬田川」と解すると、歌の意味がよく理解できます。

 

(2) 琵琶(びわ)湖・鳰(にお)の海

 

 琵琶湖は、滋賀県中央部にある断層陥没湖で、日本最大の湖です。
 その名は、湖の形が琵琶に似ているからとするのが通説です。そういわれるようになったのは、江戸前期以前といわれますが、その時期は不明です。古くは都に近い淡水湖という意味で「近つ淡海(あはうみ)」と呼ばれ、近江(おうみ)国の語源となり、「遠つ淡海」(浜名湖)のある遠江(とおとうみ)国に対する呼称となりました。また、近江之海、鳰(にお)の海(『新古今和歌集』など)とも呼ばれました。

 しかし、吉田東伍『大日本地名辞書』によりますと、「びは(琵琶、枇杷)」(旧仮名遣い)という地名(潟、溜、島、橋を含む)が古くから全国に数多くありますが、そこは川や海などに接し、地形が湾曲しており、水辺の湿地であるところが多いとされています。そしてその殆どが琵琶楽器説では説明できないといい、「びは」は「水輪(みわ)」の転音であろうと解釈しています。

 この「びは」は、マオリ語の

  「ピハ」、PIHA(yawn)、「あくびをしている(大きく口を開けている)(湖)」(P音がB音に変化して「ビハ」から「ビワ」となった)

の転訛と解します。

 この解釈は、琵琶湖だけでなく、新川と湾曲した住吉川に挟まれた名古屋市西区枇杷島(びわじま)町、木津川が大きく蛇行して山とのあいだに開いた口のような地形をつくる京都府城陽市枇杷庄(びわのしょう)や、鵜川が大きく蛇行している河口付近の新潟県柏崎市枇杷島(びわじま)などについても、適合します。

 なお、「鳰(にお)の海」の「にお」は、

  「ニオ」、NIO((Hawaii)doorway,threshold of a house)、「(日本海側から京への)入り口(にある。湖)」

  または「ニホ」、NIHO(niho,traverse in a defensive trench)、「(塹壕の中を行き来するように)浮巣を作って遊弋する(習性がある鳥。にお。かいつぶり。その鳥が多い湖)」(H音がだつらくして「ニオ」となった)

の転訛と解します。

 

(3) 大津(おおつ)

 

a 大津

 大津市は、琵琶湖の南西岸にある県庁所在地で、畿内と東国を結ぶ交通の要衝です。都市としての起源は、天智天皇の大津京の造成(天智6(667)年)に遡ります。

 大津の語源は、「逢(あふ)津」で、市の北の「粟(あわ)津」は「あふつ」の転とする説があります。

 この「おおつ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オフ・ツ」、OHU-TU(ohu=beset in great numbers,surround;tu=stand,settle)、「(建物が)群集して・いる(都)」または「(船が)群集している・場所(港)に造営された(都)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」となった)

  または「オウ・ツ」、OU-TU(ou(Hawaii)=to perch as on a tree;tu=stand)、「鳥が(止まり木のような、高くて狭いところに)止まるように・置かれた(都)」

の転訛と解します。

 

b 堅田(かたた)・堅田(かたた)船・殿原(とのばら)衆・全人(まろうど)衆・丸子(まるこ)船・重木(おもぎ)・出島(でけしま)灯台

 市北部の堅田は、琵琶湖の水運と漁業の特権をもっていた堅田衆の本拠地として中世に極めて繁栄した地域で、湖中には浮御堂(うきみどう)と出島(でけしま)灯台があり、”堅田落雁”は近江八景の一つに数えられています。ここは、真野川と天神川の複合三角州が湖にせりだし、琵琶湖の中で最も狭くなったところで、琵琶湖大橋が架けられ(昭和39(1964)年)ています。

 堅田は、11世紀後半に堅田の漁師達が下賀茂社の支配下に入って堅田御厨となり、続いて堅田とその周辺地域に比叡山延暦寺の荘園、堅田荘が成立し、承久の乱の後地頭となった佐々木氏との抗争から延暦寺は堅田に湖上関を設け他所の船を排斥し、下賀茂社は堅田の漁民・船主に漁業権・航行権を保証しました。中世以降堅田荘に堅田三方(後に四方)の惣組織が形成され、殿原(とのばら)衆(地侍)と全人(まろうど)衆(商工業者・周辺農民)からなる堅田衆による自治が殿原衆の主導で行われました。殿原衆は、堅田船と呼ばれる船団を保有して水上運送に従事するとともに、山門が設けた堅田関の関銭の徴収を代行し、また湖上を通行する船が湖賊に襲われないよう堅田衆が船に上乗りして安全を保証する上乗銭を徴収し、拒否する船に対しては海賊行為を行いました。後に室町幕府と対立して山門から焼き討ちされ、織田政権ともいさかいがあり、豊臣政権に至って航行権を原則として代官支配下に置き、かつ大津百艘船の制が設けられるなど次第に堅田の繁栄は大きくかげりを見せ、殿原衆と全人衆の勢力関係も逆転することとなりました。

 琵琶湖の水運に活躍した琵琶湖特有の木造帆船を丸子(まるこ)船といい、その最大の特徴は重木(おもぎ)と呼ばれる杉の巨木を半裁した半丸材を舷側板として取り付けた点にあります。

 この「かたた(地名)」は「カタ(潟)・タ(田)」とする説、「かたた(船)」は「堅田通いの(船)」とする説(小学館『日本国語大辞典』)、「まるこ(丸子(船))」および「おもぎ(重木)」は「オモギは他船に側面から衝突されても耐えられる構造」で、船の先端部に大きな鉄の釘が多数打ち付けられているのは「かつて湖上輸送の利権をめぐって小競り合いが何度も繰り返され」、「その攻撃的な一面を残したなごり」(産経新聞滋賀県版平成20年12月14日「びわ湖の考湖学46」)とする説があります。
 なお、「堅田船」について「地名+名詞」の通常の用法に従えば、その地名に特有の社会的・歴史的事情から一般に直に連想される特質または特徴を与えられた名詞として解釈されるもので、ここでは一般的には「堅田衆が保有・運航する船」の意であり、特に中世においては「琵琶湖を航行する船を止めて関銭または上乗銭を取り立てたり、場合によっては海賊行為を働くこともある堅田衆の船」の意と解されます。(小学館『日本国語大辞典』は「堅田船」を「近江国堅田(滋賀県大津市)に通う、琵琶湖を航行する船。堅田通いの船」とし、万代和歌集・本朝文選・志濃夫廼舎歌集からそれぞれ用例を示しますが、「堅田通い」では堅田の地名を冠した特別の意味を表したものとは言えず、用例のいずれも解釈の誤りと考えます。)

 この「かたた(地名)」は、「カタ(潟)・タ(田)」とする説があります。

 また、「かたた(船)」は、「堅田通いの(船)」とする説があります。
しかし、「地名+名詞」の通常の用法に従えば、その地名に特有の社会的・歴史的事情から一般に直に連想される特質または特徴を与えられた名詞として解釈されるもので、ここでは一般的には「堅田衆が保有・運航する船」の意であり、特に中世においては「琵琶湖を航行する船を止めて関銭または上乗銭を取り立てたり、場合によっては海賊行為を働くこともある堅田衆の船」の意と解されます。(小学館『日本国語大辞典』は「堅田船」を「近江国堅田(滋賀県大津市)に通う、琵琶湖を航行する船。堅田通いの船」とし、万代和歌集・本朝文選・志濃夫廼舎歌集からそれぞれ用例を示しますが、「堅田通い」では堅田の地名を冠した特別の意味を表したものとは言えず、いずれも解釈の誤りと考えます。)

 この「かたた(地名)」、「かたた(船)」、「とのばら(殿原(衆))」、「まろうど(全人(衆))」、「まるこ(船)」、「おもぎ(重木)」、「でけしま(出島(灯台))」は、マオリ語の

  「カ・タタ」、KA-TATA(ka=take fire,be lighted;tata=near of place or time)、「(琵琶湖の中で最も)対岸に近い・居住地(集落)」

  「カ・タタ」、KA-TATA(ka=to denote the commencement of a new action or condition;tata=near of place or time,suddenly,stem,fence particularly the outer palisade of a fort)、「湖上で・(突然現れて垣根を作るように船を止める)関止めをする(堅田衆の船)」

  「トノ・パラ」、TONO-PARA(tono=bid,command,demand;para=bravery,blood relative)、「(船を止めて関銭または上乗銭を支払うことを)要求する・勇ましい者たち(殿原衆)」(「パラ」が「バラ」となった)

  「マラウ・ト」、MARAU-TO(marau=comet,raiding party;to=drag)、「襲撃者たち(殿原衆)が・引率する者たち(全人衆)」(「マラウ」のAU音がOU音に変化して「マロウ」と、「ト」が「ド」となつた)(なお、「客人(まろうど)」は、「マラウ・ト」、MARAU-TO(marau=subject of talk,appearance,remember;to=drag,open or shut a door or a window)、「戸を開けて・姿を現わす者(客人)」(「マラウ」のAU音がOU音に変化して「マロウ」と、「ト」が「ド」となつた)と解します。)

  「マル・コ」、MARU-KO(maru=power,shelter,shield,safeguard;ko=to give emphasis,a wooden implement for digging or planting)、「きちんと・(他船に衝突されても破壊されないように)防備を施した(船)」

  「オモ・(ン)ギア」、OMO-NGIA((Hawaii)omo=to suck,absorb;ngia=seem,appear to be)、「(衝突の衝撃を)吸収する・ように見える(木材)」(「(ン)ギア」ののNG音がG音に変化し、語尾のA音が脱落して「ギ」となった)

  「テケ・チマ」、TEKE-TIMA(teke=Pudenda muliebria;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「女性の外陰部にある・(農耕に使う)堀り棒のような(湖に突き出ている小さな岬(そこに設置された灯台))」(「テケ」が「デケ」と、「チマ」が「シマ」となった)

の転訛と解します。

 

c 逢坂(おうさか)山、逢坂関

 逢坂山(325メートル)は、相坂山とも書き、大津市西部と京都市山科区の境にある山で、古来畿内の北東を限る交通の要衝であったため、逢坂関がおかれました(現大津市逢坂1丁目付近に比定されますが、不詳です)。

 山の南北に峠道が通じ、南は旧東海道・東山道で逢坂関(大関)越え、北は北陸道で小関越えといいました。

 この「おうさか」は、「アフ(逢う)・サカ(坂)」とされますが、これはマオリ語の

  「アフ・タカ」、AHU-TAKA(ahu=heap,heap up;taka=turn on a pivot)、「(行先によって南北いずれかに)方向を転換して登る高所(の山)」

の転訛と解します。

 

d 穴太(あのう)

 日枝大社のある大津市坂本の南、西近江路の旧街道に沿って近江国志賀郡穴太の地があります。古くは穴穂、穴多とも記され、駅家が置かれました。ここは景行・成務・仲哀の三天皇の高穴穂宮の故地とされ、付近には渡来人の横穴式古墳が数多く存在します。大小の自然石を野積みする技術を持つ石工集団である穴太衆(あのうしゅう)の本拠地でもあります。

 この「あのう」は、(1) 『日本書紀』雄略紀19年3月13日に設置された「穴穂部」に由来するとする説、

(2) 「アナ(端(はな)の転、崖地・急傾斜地の先端)・ホ(先端。美称)」の意とする説があります。

 この「あのう」は、マオリ語の

  「アナ・フ」、ANA-HU(ana=cave;hu=promontory,hill)、「横穴がある・丘(がある。土地)」

の転訛と解します。

 

e 膳所(ぜぜ)

 旧市街地の南東の膳所は、関ヶ原の戦いの後、徳川氏が大津城を廃棄し、諸大名に命じて琵琶湖に突出した膳所ケ崎に膳所城を築城させた場所です。

 ここは、「天智天皇の大津の都ありし時の御厨(みくりや)の地にして、おものを献る所也。故に膳所(おものどころ)といふ。膳所神社あるを以ても明也。」(『近江輿地志略』)とあり、この浜はかつて天皇に贄を献る御物(おもの)浜といい、「おもの」の「膳膳(ぜんぜん)」から「ぜぜ」になったとする説があります。

 この「ぜぜ」は、マオリ語の

  「テテ」、TETE(figurehead of a canoe without arms or legs,curly of hair)、「カヌーの舳先の神像(のように背後の音羽山から延びる尾根の先端にあたる場所、岬)」

の転訛と解します。

 

f 粟津(あわづ)

 膳所の南東に粟津があります。かつては膳所を含む一帯の地名だったようです。中世の京で魚類販売の特権を得ていた粟津・橋本供御人の本拠地であり、芭蕉の終焉の地でもあります。『日本書紀』天武紀元(672)年7月17日の瀬田の戦いの条に「粟津岡」の名が見えます。”粟津晴嵐”は近江八景の一つです。

 この「あわづ」は、「アフ(逢う)・ツ(津)」の転とする説があります。

 この「あわづ」は、マオリ語の

  「アワ・ツ」、AWA-TU(awa=channel,river;tu=stand,settle)、「海峡(瀬田川に通ずる水道)に面する(土地)」

の転訛と解します。この「あわ」は、阿波、安房の「アワ」と同じ語源です。

 

g 瀬田(せた)

 粟津の南東に、琵琶湖から流出する唯一の河川である瀬田川があり、その左岸にかつて近江国府があった瀬田があります。瀬田川は、京都府に入って宇治川となり、淀川に合流して大阪湾に注ぎます。瀬田の地名は、『日本書紀』神功紀摂政元年3月5日の条に「瀬田の濟(わたり)」として見えます。”瀬田夕照”は、近江八景の一つです。

 この「せた」は、「イセ(伊勢)・タ(田)」の約という説があります。

 この「せた」は、マオリ語の

  「テ・タ」、TE-TA(te=crack;ta=dash,dash water out of a canoe,lay)、「裂け目をほとばしり流れる(川)」

の転訛と解します。

 

(4) 比叡(ひえい)山

 

 比叡山(東の大比叡岳848メートル、西の四明ケ岳839メートル)は、滋賀県大津市と京都市左京区の境界をなす山で、古くから神が宿る山として山岳信仰の対象でした。古くから「日枝ノ山(ひえのやま)」と呼ばれ、山上には延暦寺が、山麓には日吉(ひえ)大社があって世の尊崇を集めています。(入門篇(その三)3の(2)の「比叡山」の項を参照してください。)

 この「ひえ」、「ひえい」は、

  「ヒエ」、HIE((Hawaii)distinguished,dignified)、「高貴な(山。または威厳のある神が住む山、神社)」もしくは「ヒエ」、HIE(shout)、「(神の威厳を畏れて)嘆声を発する(威厳のある神が住む山、神社)」

  「ヒ・エイ(エヒ)」、HI-EI(EHI)(hi=rise,raise;ei=interjection in poetry and occasionally in prose;ehi=int.well!)、「何と・高貴な(山。または威厳のある神が住む山)」

の意と解します。

 

(5) 比良(ひら)山地

 

 比良山地は、比叡山の北、琵琶湖の西岸に沿って南北に連なる山地です。最高峰は、山容雄大な武奈(ぶな)ケ嶽(1,214メートル)で、修験の行場です。”比良の暮雪”は近江八景の一つです。春先に吹き下ろす強風を「比良八荒(ひらはっこう)」と呼んでいます。

 この「ひら」は、アイヌ語の「ピラ(崖)」と解する説がありますが、これはマオリ語の

  「ヒラ」、HIRA(numerous,great,widespread)、「長く延びている(山地)」

の意と解します。

 「比良八荒」の「はっこう」は、マオリ語の

  「ハク・カウ」、HAKU-KAU(haku=cold,complain of;kau=swim or wade across)、「寒さが(または(神の)不満が強風になつて)吹き渡ってくる」

の転訛と解します。

 武奈(ぶな)ケ嶽の「ぶなが」は、マオリ語の

  「プナ(ン)ガ」、PUNANGA(seclude,hidden,any place used as a refuge for noncombatants in troubled days)、「(世間から)隔絶した(山。または非戦闘員の隠れ家の山)」

の転訛と解します。

 

(6) 高島(たかしま)郡

 

a 高島郡

 『和名抄』に近江国高島郡・郷の名がみえます。現高島郡は、琵琶湖の北西、マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、朽木村、高島町がふくまれます。

 この「たかしま」は、「タカ(高い、美称)・シマ(集落)」と解する説があります。

 この「たかしま」は、安曇川北岸の新旭町饗庭野(あいばの)から南岸の安曇川町泰山寺野にかけての丘陵地帯が、典型的なリアス式海岸に似た出入りの多い地形であることに着目して付けられた地名で、マオリ語の

  「タカ・チマ」、TAKA-TIMA(taka=heap,heap up;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「高くなった、掘り棒で掘り散らかされたような地形(の地域)」

  または「タ・カチ・マ」、TA-KATI-MA(ta=the...of,dash,beat,lay;kati=block up,shut of passage,boundary;ma=white,clear)、「(北陸への)通路に・位置している・清らかな(地域)」

の転訛と解します。

 

b 水尾(みお)神社

 高島町の岳山(だけやま。565メートル)の北麓に式内社水尾神社があります。この神社は、かつて安曇川南岸から鴨川流域にかけての地域を本拠地としていた古代豪族三尾(みお)君の祖先である垂仁天皇の皇子石衝別(いわつくわけ)王(記による。紀では磐衝別命)ほかを祀る社(もともとの祭神は猿田彦命という説があります)で、「ミノヲ」とも訓んだようです(『延喜式』一条家本)。『日本書紀』継体即位前紀には、応神天皇五世の孫彦主人(ひこうし)王が近江国三尾の別業に三国の坂名井から振(ふり)姫を迎えて妃とし、男大迹王(継体天皇)が誕生したとあります。

 この「みお(みのを)」は、マオリ語の

  「ミ(ン)ゴ・アウ」、MINGO-AU(mingo=curled,wrinkled;au=firm,intense)、「密に・皺がよったような(地形の場所)」(「ミ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ミノ」と、「アウ」次のAU音がO音に変化して「オ」となり、「ミノオ」から「ミオ」となった)

の転訛と解します。大阪府箕面(みのお)なども同じ語源と解します。

 

c 安曇(あど)川・饗庭野(あえばの)

 安曇川は、京都市左京区の百井(ももい)峠から北東に流れる百井川を源流として、丹波高地と比良山地の間の花折(はなおれ)断層に沿う深い谷をほぼ真つ直ぐに北流し、朽木(くつき)村に入って市場付近で東に向きを変え、広い三角州を形成して琵琶湖西岸に注ぎます。この花折断層に沿った街道は、かつて若狭と京都を結ぶ最短路として古くから利用され、「鯖(さば)街道」の異名がありました。

 この「あど」は、「あづみ」の転訛で、愛知県渥美半島、長野県安曇(あづみ)村とともに、海洋民族阿曇(あづみ)氏に由来するとの説が有力です。

 しかし、この「あど」は、マオリ語の

  「アト」、ATO(enclose in a fence)、「垣根(比良山地と丹波高地)に挟まれた(川)」

の転訛と解します。(オリエンテーション篇3の(1)を参照してください。)

饗庭野(あえばの)は、琵琶湖の北西方、高島市新旭町北西部を中心とする東西約8キロメートル、南北約5キロメートル、標高200〜250メートルの古琵琶湖層群の砂礫層からなる台地、丘陵地です。「あいばの」とも呼ばれます。古くは水利が悪く周辺の入会採草地であつたが、明治19(1886)年以降陸軍の演習地となり、現在は自衛隊の演習場となっています。

 この「あえばの」、「あいばの」は、

  「アエ・パナウ」、AE-PANAU(ae=calm,assent;panau=slope,descend)、「静まり返っている・傾斜地(台地)」(「パナウ」のP音がB音に、AU音がO音に変化して「バノ」となった)と、

  「アイ・パナウ」、AI-PANAU(ai=expressing the reason for which anything is done;panau=slope,descend)、「放って置かれている・傾斜地(台地)」(「パナウ」のP音がB音に、AU音がO音に変化して「バノ」となった)

の転訛と解します。

 

d 朽木(くつき)村

 朽木村は、安曇川が貫流する滋賀県高島郡の村です。若狭街道の交通の要衝で、中世には朽木荘といわれ、承久の乱の後、宇多源氏の流れをくむ佐々木信綱が地頭職につき、その曾孫義綱以来代々朽木氏を名乗りました。

 この「くつき」は、マオリ語の

  「ク・ツキ」、KU-TUKI(ku=silent;tuki=central passage for water in an eel weir)、「静かな鰻の筌(のような地形の(川が琵琶湖へ向かって一直線に流れ下る)土地)」

の転訛と解します。(この「ツキ」については、古典篇(その二)1の(5)を参照してください。)

 

(7) 竹生(ちくぶ)島

 

 竹生島は、琵琶湖の北端、葛篭尾(つづらお)崎の南2キロメートルにある島で、東浅井郡びわ町に属しています。周囲2キロメートルの石英斑岩からなり、全島が杉、松などの常緑樹で覆われ、社寺以外の集落はなく、古来信仰の対象とされてきました。

 竹生島の成因についての伝承(『帝皇編年記』ほか)によれば、伊吹山と浅井の岡が高さを競ったところ、浅井の岡が一夜で高さを増したので、伊吹山の神が怒って浅井比賣の首を切り落とし、その首が琵琶湖に落ちて竹生島となったといいます。島には浅井姫命をまつる「都久夫須麻(つくぶすま)」神社があります。中世以降、神仏習合により弁財天を本地仏とし、竹生島弁財天は、江ノ島、厳島とともに日本三弁天に数えられました。

 この「つくぶ」は、「イ(斎)・ツク(付)・ブ(生)」の転とする説があります。

 この「都久夫須麻(つくぶすま)」は、マオリ語の

  「ツクプ・ツマ」、TUKUPU-TUMA(tukupu=overcast,covering completely;tuma=abscess)、「完全に(樹木で)覆われている腫れもの(のような島)」

の転訛と解します。

 

(8) 余呉(よご)湖

 

 余呉湖は、滋賀県北部、伊香郡余呉町にある湖です。南北に長い楕円形の断層陥没湖で、北岸を除いて三方を山で囲まれ、南岸の賎ヶ岳によって琵琶湖と隔てられています。周囲6キロメートル、水深13メートルで、透明度が高く、湖面が静かなため、古くは鏡湖と呼ばれました。ここには「羽衣伝説」が残されています(『帝皇編年記』)。湖水面の標高は132メートルで、琵琶湖より約50メートル高いため、余呉川および琵琶湖の水の貯水池として利用されています。

 この「よご」は、「ヨ(祈りの感動語)・ゴ(処)」と解する説があります。

 この「よご」は、マオリ語の

  「イオ・(ン)ガウ」、IO-NGAU(io=muscle,spur,ridge;ngau=bite,hurt)、「(北の部分を)喰いちぎられた山脈(の中の湖)」

の転訛と解します。

 

(9) 賎(しず)ヶ岳

 

 賎ヶ岳(422メートル)は、滋賀県北部、伊香郡木之本町にある山で、北は余呉湖、南は琵琶湖の塩津湾に臨み、山頂からの眺望がすばらしい山です。

 この山は、栃ノ木峠を越えて越前に抜ける北国街道と、敦賀へ抜ける塩津街道が分岐する交通の要衝にあり、天正11(1583)年4月に羽柴秀吉が柴田勝家の軍勢を破った「賎ヶ岳の戦い」の古戦場として有名です。

 この「しず」は、マオリ語の

  「チ・ツ」、TI-TU(ti=throw,cast;tu=girdle for man or woman to which the MARO(a sort of kilt or apron) was attached)、「投げ捨てられた飾帯(のような山)」

の転訛と解します。余呉湖の北の行市山から南にほぼ真っ直ぐに延びて、高月町と湖北町の境の山本山にいたる山脈の中央にある最高峰が賎ヶ岳で、この山脈からは余呉湖を取り囲むように二本の支脈がでています。この山脈を「飾帯」と見立てたのでしょう。

 なお、この「飾帯」は、マオリ族にあっては、身分の高い男女のみが正装の際に付けることが許される「マロ」(前掛け)に締めるもので、いろいろの飾りが付いているものです。

 この「飾帯(ツ)」は、後述の摂津(せっつ)国の「ツ」と同じ語源です。

 

(10) 伊香(いか)郡

 

a 伊香郡

 滋賀県北端に伊香郡(現在は余呉町、木之本町、高月町、西浅井町の地域)が位置します。『和名抄』は「伊加古(いかこ)」と訓じています。

 この「いかこ」は、(1) 河内国伊香(いかか)郷を本拠とした物部氏の庶流がこの地に移り、里名もそれより起こったとする説(吉田東伍『大日本地名辞書』)、

(2) 賎ヶ岳などの嶮しい山容から、「イカ(厳めしい)・コ(処)」の意とする説があります。

 この「いかこ」は、マオリ語の

  「イカ・カウ」、IKA-KAU(ika=fish;kau=merely intensive)、「正に魚(のような地形をした地域)」

の転訛と解します。

 賎ヶ岳の東南麓の伊香郡木之本町大音(おおと。旧伊香郡伊香具村大音)に伊香郡の総鎮守であった式内社の伊香具(いかご)神社があります。祭神は天児屋根命の裔、伊香津臣命とされ、伊香の小江(余呉湖)にまつわる天女伝説の伊香連の祖である伊香刀美と同一人ともされています。古代、この社の前には琵琶湖の入り江が入り込んでいたと伝えられ、安芸の厳島神社の鳥居に似た鳥居様式はその名残であるといいます。

         

 そうしますと、この伊香郡の地形は、琵琶湖に賎ヶ岳連山がくちばしをつきだし、入り江を開いた口とし、余呉湖を目として、「正に魚(のような地形をした地域)」と見ることができます。

 なお、この「おおと」は、マオリ語の

  「オ・ホト」、O-HOTO(o=the place of;hoto=wooden spade,spike on the tail of a sting-ray)、「掘り棒(またはアカエイの尾の針)のような(賤ヶ岳連山が)・(琵琶湖に突き出る根元の)場所」(「ホト」のH音が脱落して「オト」となった)

の転訛と解します。

 

b 葛篭尾(つづらお)崎

 葛篭尾崎は、滋賀県伊香郡西浅井町の琵琶湖の北端に突き出ている岬で、西側の海津大崎と東側の琵琶湖東岸(賎ヶ岳連山)との間に二つの小湾を形成しています。

 この「つづらお」は、マオリ語の

  「ツツ・ラオ」、TUTU-RAO(tutu=hoop for holding open a hand net;rao=they two)、「(左右に)二つのタモ網を広げている(ような岬)」の転訛と解します。この「ツツ」は、三重県の五十鈴川の「ツツ」と同じ語源です。

 

c 塩津(しおつ)浜

 葛篭尾崎と琵琶湖東岸の間の小湾の奥に塩津浜があります。

敦賀へ向かう塩津街道の起点で、琵琶湖南部との湖上交通の重要な港津でした。

 この「しおつ」は、「塩」を運ぶ「津」と解されています。

 この「しおつ」は、マオリ語の

  「チ・オツ」、TI-OTU(ti=throw,cast;otu=the part of the figurehead of a canoe or of the stern post of a canoe which prevent water from coming into a canoe)、「カヌーの舳先の神像と船体との間に詰め物を充填した(ような地形の場所)」

  または「チホイ・ツ」、TIHOI-TU(tihoi=diverge,noisy;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(人や貨物が)忙しく・(各方面へ)分かれてゆく(場所)」または「騒がしさが・溢れている(場所)」(「チホイ」のH音と語尾のI音が脱落して「チオ」から「シオ」となった)

の転訛と解します。

 

(11) 浅井(あさい)郡

 

 浅井郡は、かつては現在の東浅井郡と西浅井町をふくむ広い地域でした。『和名抄』は「阿佐井」と訓じています。「浅井荘」は、現在のびわ町付近です。

 この「あさい」は、(1) 「崖地、切り立った川岸」の意、

(2) 「アサ(湿地)」で、湖岸の砂州の後背湿地の意、

(3) 文化の流入の入口の地の意とする説があります。

 浅井郡には、さきに竹生島の項で説明しましたように、伊吹山と浅井の岡が高さを競ったところ、浅井の岡が一夜で高さを増したので、伊吹山の神が怒って浅井比賣の首を切り落とし、その首が琵琶湖に落ちて竹生島となった(『帝皇編年記』ほか)という伝承が残されています。

 この「あさい」は、マオリ語の

  「ア・タヰ」、A-TAWHI(a=the;tawhi=hold,hold back,suppress feelings etc.)、「(伊吹山の神の怒りに触れて)押さえつけ・られた(地域。またはその首を切られた山のある地域)」

の転訛と解します。

 

(12) 伊吹(いぶき)山

 

 伊吹山(1,379メートル)は、滋賀県と岐阜県の県境を南北に延びる伊吹山地の主峰(滋賀県の最高峰)で、古生代石灰岩からなる山です。西側と南側は、敦賀湾・伊勢湾構造線の一部の柳ケ瀬断層が通って地塁山地をなし、西側を姉川の谷が刻み、南側は関ヶ原地峡部に対して伊吹山断層崖が臨んでいます。山麓に針葉樹林がみられるほかは全山が草原で、山頂付近にはカルスト地形であるカレンフェルト(石塔原)がみられ、全体として丸みを帯びた山です。


 伊吹山は古くから知られた山で、『古事記』景行天皇の条には倭建命と伊服岐能山の神の記事がみえ、『日本書紀』景行紀40年是歳の条に「近江の五十葺山に荒ぶる神有ることを聞きたまひて・・・膽吹山に至る」とみえ、『延喜式』には近江国坂田郡に伊夫岐神社、美濃国不破郡に伊富岐神社の名が記されています。奈良時代には、役行者開創の山岳仏教の聖地となっています。

 この「いぶき」は、(1) 全山石灰岩であるところから岩城(いわき)山の転、

(2) 「イ(接頭語)・フキ(吹く)」で山の気象が常に荒ぶる風を起こす山の意、

(3) 「息吹」で鉱石を吹き分けて金属を精錬することを意味するとする説などがあります。

 この「いふき(いぶき)」は、マオリ語の

  「イ・フキ」、I-HUKI(i=past time;huki=spit,avenge death)、「(伊吹山の神がヤマトタケルに侮辱されたため)報復して殺し・た(山)」

  または「イプ・キ」、IPU-KI(ipu=calabash with narrow mouth,vessel for holding anything;ki=full,very)、「(山頂の草原に)ひょうたんのような石塔が・たくさんある(山)」

  または「イ・プフキ」、I-PUHUKI(i=past time;puhuki=blunt,dull)、「角がなく・なった(丸みを帯びている。山)」(「プフキ」のH音が脱落して「プキ」となった)

の転訛と解します。

 

(13) 犬上(いぬかみ)郡

 

a 犬上郡

 犬上郡は、滋賀県東部、犬上(いぬかみ)川と芹川の流域を中心とする地域です。犬上川は、鈴鹿山脈三国岳(815メートル)を源とする北谷と、愛知郡愛東町角井峠付近を源とする南谷を併せて流れ、彦根市で琵琶湖に注ぎます。

 この「いぬかみ」は、「イ(接頭語)・ノカミ(野上)」で、「野(特に湿地)の上の地(微高地)」または「野のほとりの地」の意と解する説があります。

 この「いぬかみ」は、マオリ語の

  「イ・ヌカ・ミ」、I-NUKA-MI(i=beside;nuka(Hawaii)=large,plump(nuka(Maori)=deceive);mi=urine)、「大きな(水ぶくれの)川のかたわら(の流域の地域)」

の転訛と解します。(この犬上川は、犬上ダムが完成する以前には、「降雨の有無による流量の差が大きい川」ではなかったかと考えられます。)

 

b 多賀(たが)大社

 多賀大社は、滋賀県犬上郡多賀町に鎮座し、イザナキ、イザナミの二神を祀っている式内社です。『古事記』にスサノオを追放した後「故、淡海の多賀に坐すなり」と、『日本書紀』には「幽宮を淡路の州に構りて、寂然に長く隠れましき」とあります。(私はこの「あふみ」は、「アウ・ミハ」で、「荒れる海(の中の対馬)」でなければ神話の意味が首尾一貫しないと考えています。古典篇(その二)を参照してください。)

 『延喜式』では、小社ですが、いつしか世の信仰を集め、室町時代には社僧の活躍とともに”お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる””お伊勢七度(たび)、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り”といわれるほどの信仰を集めました。

 この「タガ」は、マオリ語の

  「タ・(ン)ガ」、TA-NGA(ta=the;nga=satisfied)、「満足している(ゆったりと鎮座している場所)」

  または「タ(ン)ガ」、TANGA(circumstance or place of dashing,etc.,lay,be assembled)、「(人々が)集まっている場所」

の転訛と解します。なお、ことによると、多賀町の東部、鈴鹿山脈北部の石灰岩山地のカルスト地形の土地、「ドリーネ」地形の土地を指して「タ(ン)ガ、浸食された土地」と称しているのかも知れません。

 

(14) 愛知(えち)川

 

 愛知川は、滋賀県東部の川で、鈴鹿山脈の御池岳付近に源を発する御池川、愛知川と、御在所山付近に源を発する神崎川が合流して愛知川となり、永源寺町山上付近から北西流して大きな扇状地を形成し、大中の湖干拓地の北で琵琶湖に注ぎます。

 この「えち」は、「市場」の意(吉田東伍『大日本地名辞書』)とする説がありますが、不詳です。

 この「えち」は、愛知川がかつてしばしば洪水を起こしていたことから付けられたもので、マオリ語の

  「ヱチ」、WETI(weti,whakaweti=threaten)、「(洪水を起こすといつも)脅迫している(川)」

の転訛(W音が脱落して「エチ」となった)と解します。

 

(15) 蒲生(がもう)野

 

 蒲生野は、八日市市、安土町に広がる愛知川中流南西岸の段丘と布引丘陵一帯をさす古代地名です。水利の便が悪く荒野となっていたため、条里制地割遺構の空白地帯となっています。

 古代は、朝廷の狩猟場で、火傷に効く蒲(がま)が自生していたことから、この名が付いたとされ、のち紫草を栽培する薬園が置かれ、天智7(668)年5月に天智天皇はこの地で薬猟を行っています。『万葉集』の額田王と大海人皇子の著名な相聞歌の舞台で、延暦22(803)年10月に桓武天皇が天智天皇を偲んで行幸されたところでもあります。

 この「蒲生」は、『和名抄』は「加万不(かまふ)」と訓じています。この「かま」は、上述の植物名のほか、「傾斜地」の意とする説があります。

 この「かまふ」は、マオリ語の

  「カ・マフ」、KA-MAHU(ka=take fire,be lighted,burn;mahu=a ceremony for removing tapu from a crop of sweet-potatoes before lifting it,also for certain foods before cooking)、「(火を燃やすように)熱心に・(薬草などを採取する前に行う)呪文を唱える(土地)」

の転訛と解します。

 

(16) 安土(あづち)山

 

 安土山は、滋賀県蒲生郡の琵琶湖東岸の安土町の、かつて愛知川河口の南に大きく入り込んでいた内湾(大中の湖)に、南の繖(きぬがさ)山(観音寺山。433メートル。信長が滅ぼした佐々木六角氏の居城があった)から海上に延びた半島状の山です。

 織田信長は、この海に突き出た安土山(199メートル。湖面からの比高110メートル)に、天正4(1576)年から3年かけて全高37メートルの五層七重の天守閣をもつ豪壮な安土城を築城して、岐阜城から移り、天下経営の本拠としましたが、天正10年6月本能寺の変で死亡し、城も焼失しました。この城の石垣の築造には、志賀郡坂本村の穴太衆(あのうしゅう。(3)大津のd穴太(あのう)の項参照)を中心とする各地の石工が動員されました。

 この「あづち」は、「アクツ(湿地)」が「アクト」から「アド」に変化し、「安土」と書かれ、「あづち」となつたとする説があります。

 この「あづち」は、マオリ語の

  「アツ・チ」、ATU-TI(atu=to indicate a direction or motion towards;ti=throw,cast)、「(湖へ)向かって・突き出ている(山)」

の転訛と解します。

 繖(きぬがさ)山の「きぬがさ」は、マオリ語の

  「キ・ヌイ・カタ」、KI-NUI-KATA(ki=full;nui=large;kata=opening of shellfish)、「十分に大きい貝が口を開いたような潟(大中の湖。そのそばにある山)」

の転訛と解します。

 繖山の南にある箕作(みつくり)山の「みつくり」は、マオリ語の

  「ミ・ツク・リ」、MI-TUKU-RI(mi=urine;tuku=leave off,evade a blow;ri=screen,protect)、「(愛知川と蛇砂川の)川が襲うのを防ぐ防波堤(のような山)」

の転訛と解します。

 

(17) 野洲(やす)川

 

 野洲川は、滋賀県南東部の川で、鈴鹿山脈の御在所山に源を発して西流し、甲賀郡で田村川、杣(そま)川などの支流を合わせ、石部町付近の狭隘部を経て、下流部の守山市、野洲郡一帯に広大な沖積平野を形成して琵琶湖に注ぎます。

 上流部は、風化しやすい花崗岩や軟弱な古琵琶湖層群の地層からなるため、保水性が乏しく、古来豪雨のたびに洪水を繰り返してきた暴れ川で「近江太郎」とよばれました。

 この「やす」は、(1) 「ヤ(湿地)・ス(洲)」の意、

(2) 「イヤ(弥、数が多い)・ス(洲)」の意、

(3) 「ヤス(安し、休む、養う)」の意とする説があります。

 この「やす」は、マオリ語の

  「イア・ツ」、IA-TU(ia=current,rushing stream;tu=fight with,forceful,energetic)、「乱暴な性質の(しょっちゅう洪水を起こす)川」

の転訛と解します。

 

(18) 甲賀(こうか)郡

 

a 甲賀郡

 甲賀郡は、滋賀県の東南部、野洲川の上・中流域、野洲川の支流杣(そま)川の流域および信楽町の地域です。甲賀(こうが)は、昔は「鹿深(かふか)」、甲可(かふか)、甲加、甲香とも書かれました。

 この「かふか」は、(1) 「ムカフ(向)・カ(処)」の約、

(2) 「カガ」、「カヌカ」、「コーゲ」などと同じで、「採草地」の意とする説があります。

 この「かふか」、「こうが」は、マオリ語の

  「カプ・カ」、KAPU-KA(kapu=hollow of the hand;ka=take fire,be lighted,burn)、「手のひらの窪みのような(盆地の)・(灯を灯している)居住地(地域)」(「カプ」のP音がF音を経てH音に変化して「カフ」となった)

  「コウカ」、KOUKA(the part of a latrine behind the beam,privy)、「秘密の隠れ家(または秘密の便所。そのような地域)」

の転訛と解します。

 

b 信楽(しがらき)町

 信楽町は、滋賀県最南端、甲賀郡に属し、瀬田川の支流大戸(だいど)川の上流域で、標高500〜600メートルの花崗岩の山地に囲まれた内陸盆地です。古代には甲賀牧が置かれ、木津川の河谷を経由して大和との関係が深く、町の北東部には聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡があります。また、信楽焼の産地として有名です。

 この「しがらき」は、(1) 「シ(接頭語)・カラ(高地、涸れ地)・キ(場所)の意、

(2) 「シガ(其の所)・アラ(荒)・キ(場所)」の意、

(3) 「新羅人の渡来地」、

(4) 「繁木(しげりき)」または「柵(しがらみ)」からとする説があります。

 この「しがらき」は、マオリ語の

  「チ(ン)ガ・ラキ」、TINGA-RAKI(tinga=likely;raki=north,dry,green leaves etc. on which the food is laid in a native oven)、「(天然の蒸し焼き穴のような)盆地の中の(食物を載せる)緑の葉(草原)・のような(土地)」(「チ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「チガ」から「シガ」となった)

の転訛と解します。

 

(19) 栗太(くりた)郡

 

 滋賀県南部に栗太郡があります。古代には野洲川の左岸の守山市、栗東町および草津市から瀬田川の左岸(現大津市)、大戸川の流域及びその南を含む地域でした。『和名抄』は「久留毛止(くるもと)」と訓じています。瀬田の近くには、近江国府が置かれていました。

 この「くるもと」は、(1) 『今昔物語』に「大歴木(埋没林)」があったからという起源説話があり、

(2) 「クル(河の蛇行、山の端の屈曲)」にちなむとの説があります。

 この「くるもと」は、マオリ語の

  「クル・モト」、KURU-MOTO(kuru=weary;moto=strike with the fist)、「拳骨で殴られて疲れはてた((野洲川、大戸川などの)川の氾濫で疲弊した地域)」

の転訛と解します。

 

(20) 田上(たなかみ)山

 

 田上山は、滋賀県南部、信楽山地北西部の山地で、主峰の太神山(たなかみやま。600メートル)、笹間(ささま)ケ岳(433メートル)、八筈ケ岳(562メートル)、猪背山(553メートル)などの総称です。

 『万葉集』には「藤原京の役民の作歌(巻1−50)」に「田上山」がみえます。また、『日本書紀』神功紀摂政元年3月5日の条の武内宿禰の歌((1)近江の項参照)に「田上(たなかみ)」の地名がみえます。

 田上山は、藤原宮造営以降、平城京や東大寺建設のための用材乱伐で禿げ山となり、現在も砂防工事が続けられています。全山花崗岩で風化が進み、古くから大戸川の氾濫で瀬田川流域は大きな被害を蒙ってきました。

 この「たなかみ」は、(1) 「タニ(谷)・カミ(上)」の意、

(2) 「タノ(田の)・カミ(神)」のいます山の意とする説があります。

 この「たなかみ」は、マオリ語の

  「タ(ン)ガ・カミ」、TANGA-KAMI(tanga=be assembled;kami=eat)、「浸食が・集まった(全山が浸食されている。山)」(「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」となった)

の転訛と解します。

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26 京都(きょうと)府の地名

 

(1) 山城(やましろ)国

 

 山城国は、現在の京都府南部の地域にあたる旧国名で、五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の一つです。国府は、はじめ大和に近い元相楽郡山城町にあり、平安京遷都後は、葛野郡(現右京区)、長岡旧京の南(現長岡京市)、さらに河陽(かや。現乙訓郡大山崎町)へと三転しています。

 国名は、山代(『古事記』)から山背(『日本書紀』)、山城と時代を追って変化してきており、

(1) 「ヤマウシロ」の約、

(2) 「ヤマ(山)・シロ(知る。治め住んだ場所)」の意、

(3) 「山」に取り囲まれた「城」の国の意とする説があります。

 この「やましろ」は、マオリ語の

  「イア・マチ・ロ」、IA-MATI-RO(ia=current,rushing stream,indeed;mati=surfeited;ro=roto=inside)、「(京都盆地の)内部に・水の流れを・飽食している(南部に巨椋(おぐら)池がある)(地域。国)」

  または「イア・マチロ」、IA-MATIRO(ia=current,rushing stream,indeed;matiro=look longingly at,beg for food)、「(京都盆地の特に北部には荒れ地が広がっていて)水の流れを・渇望しているように見える(地域。国)」

の転訛と解します。

 

(2) 愛宕(おたぎ)郡

 

 愛宕郡は、京都市の東北部一帯の地名です。

 この「おたぎ」は、「オ(接頭語)・タギ(高地、急流、険阻)」の意とする説があります。

 この「おたぎ」は、マオリ語の

  「オ・タキ」、O-TAKI(o=the place of;taki=track,bring along)、「(淀川から賀茂川の川筋を)伝ってやってくる(地域)」

  または「オ・タ(ン)ギ」、O-TANGI(o=the place of;tangi=sound,cry,lamentation)、「(鞍馬山・貴船山など)祈祷が行われる・場所がある(地域)」(「タ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「タギ」となった)

の転訛と解します。

 

(3) 賀茂(かも)川

 

a 賀茂川

 賀茂川は、京都市北区雲ケ畑を源とし、鞍馬川を併せて京都盆地に入り、高野川を合流して市街地の中を南下し、さらに南西に向きを変えて桂川に合流します。

 「賀茂」の由来については、『山城国風土記』逸文は、神武天皇東遷の際道案内を務めた八咫烏の後裔、賀茂建角身命が、大和の葛城から山代国の岡田の賀茂に移り、さらに葛野河(桂川)と賀茂河の合流点に至り、賀茂河を「狭小くあれども、石川の清(すみ)川なり」と言われたので「石川の瀬見の小川」といい、その川を遡って久我の山基に定まったので「賀茂」というとあります。

 京都市北区上賀茂本山に賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)が鎮座し、その南の賀茂川と高野川の合流点の糺ノ森の左京区下鴨泉川町に賀茂御祖(みおや)神社(下賀茂神社)が鎮座します。

 この「かも」は、(1) 鳥の「鴨」にちなむとする説(吉田東伍)、

(2) 「カミ(上、神)」の転などの説があります。

 この「かも」は、賀茂族がかつて住んでいた岡田の賀茂の地の地形によるもので、マオリ語の

  「カモ」、KAMO(eyelash,eyelid)、「まぶた(のような地形の土地)」

  または「カ・マウ」、KA-MAU(ka=take fire,be lighted;mau=fixed)、「定住した居住地」

の転訛と解します。

 この賀茂川の異称である「石川の瀬見の小川」の「石」、「瀬見」は、マオリ語の

  「イチ」、ITI(small)、「小さい(川)」

  「テ・ミ」、TE-MI(te=the;mi=urine)、「(土地が)尿をしているような(川)」

の転訛と解します。

 この「久我」は、マオリ語の

  「ク・(ン)ガ」、KU-NGA(ku=silent;nga=satisfied)、「静かでゆったりした(場所)」

の転訛と解します。

 

b 糺(ただす)ノ森

 糺ノ森は、京都市左京区下鴨にある、高野川と賀茂川の合流点にある二川に挟まれた三角形の森で、下鴨神社がその北に鎮座しています。

 この地名は、(1) 付近一帯を「只洲」といったことによるとか、

(2) 「偽りを正す」神の森の意とする説があります。

 この「ただす」は、マオリ語の

  「タタ・ツ」、TATA-TU(tata=fence,bail water out of a canoe,tail of a groper;tu=stand,settle)、「(鱸(すずき)科の)魚の尾のような地形の土地にある(森)」

の転訛と解します。

 

c 深泥池(みどろがいけ)

 深泥池は、京都市北区上賀茂にあり、北・東・南の三方を松ケ崎丘陵に囲まれた池で、低地には珍しく浮島があります。池底には、泥土が数米に及んで堆積しているとされ、古くは「みぞろがいけ」ともいい、「美土呂池」、「御菩薩池」、「泥濘池」などと書かれました。平安時代には水禽を狩る遊猟池でした。

 この「みどろ」は、マオリ語の

  「ミ・トロ」、MI-TORO(mi=urine,river;toro=stretch forth,extend,creep)、「這い回るもの(浮島)がある・水(池)」

の転訛と解します。

 

d 貴船(きぶね)山

 貴船山(700メートル)は、京都市左京区北東部にあり、東側を賀茂川の上流、貴船川が流れています。渓谷には、水の神である高龍(たかおかみ)神を祀る貴船神社が鎮座し、奥の宮神殿下には龍穴という井戸があるとされ、大和国丹生川上神社とともに祈雨・止雨の祈祷を司っていました。

 この「きぶね」は、「木生根」、「木生嶺」、「木船」、「木布禰」、「貴布禰」などとも書かれ、「木の生い茂った山」の意とする説があります。

 この「きぶね」は、マオリ語の

  「キ・イプ・ネ」、KI-IPU-NE(ki=full,very;ipu=calabash with narrow mouth,vessel for holding anything;ne=giving emphasis to a question or request or proposal)、「何と・大きな・(水を容れた)ひょうたん(を持って雨の願いに応える神。その神社)」(「キ」のI音と「イプ」の語頭のI音が連結して「キプ」から「キブ」となった)

の転訛と解します。

 

e 鞍馬(くらま)山

 鞍馬山(570メートル)は、京都市左京区北東部にあり、東側を鞍馬川、西側を貴船川が流れます。鬱蒼と老杉が茂り、深山の趣がある山で、山腹には鞍馬寺があります。北方の王城鎮護の毘沙門天を祀る寺として信仰され、鞍馬天狗や牛若丸伝説で名高く、また「鞍馬の火祭」で有名です。この祭りは、鎮守の由岐(ゆき)神社の例祭で、寺の門前の人々が松明を持って「祭礼祭領(さいれいさいりょう)」と叫びながら練り歩き、鞍馬の山は火の海のように見える京都三奇祭の一つです。

 この「くらま」は、「クラ(暗い)・ヤマ(山)」の約とする説があります。

 この「くらま」は、マオリ語の

  「クラ・マ」、KURA-MA(kura=red,growing;ma=white,clean)、「(火祭の火で)赤く輝く清らかな(山)」

  または「ク・ラマ」、KU-RAMA(ku=silent,make a low inarticulate sound,a game(TI-RINGARINGA) played by opening and shutting the hands while reciting certain verses;rama=torch)、「(手を振るゲームのように)松明を振る(祭をする山)」

の転訛と解します。この「ラマ(松明)」は、古典篇(その二)2の(5)のスクナヒコナが乗ってきた「天の羅摩(らま)船」の「ラマ」と同じです。

 この由岐(ゆき)神社の「ゆき」は、マオリ語の

  「イフ・キ」、IHU-KI(ihu=nose;ki=full,very)、「大きな鼻(の天狗を祀る神社)」

の転訛(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」に変化した)と解します。

 この「天狗(てんぐ)」は、マオリ語の

  「テ・(ン)グ」、TE-NGU(te=the;ngu=ghost,silent)、「幽霊」

の転訛で、「天狗」という「怪物、山の神」の意に転じたものでしょう。

 牛若丸に武術を教えた天狗は、「大僧正(だいそうじょう)」と呼ばれていましたが、これはマオリ語の

  「タイ・タウ・チオ」、TAI-TAU-TIO(tai=violence;tau=attack;tio=cry)、「叫び声をあげて激しく攻撃する」

の転訛と解することができます。この「叫び声」は、牛若丸に対する教育のための叱責の声でしょうか。

 この祭りのかけ声の「祭礼祭領(さいれいさいりょう)」は、マオリ語の

  「タイ・レイ・タイ・リオ」、TAI-REI-TAI-RIO(tai=tide,wave;rei=rush,run;rio=be diminished)、「(松明を)波のように振れ、波を(振るのを)止めろ」

の転訛と解します。

 以上のことからしますと、鞍馬寺は宝亀元(770)年に鑑禎(がんじょう)上人が開いたと伝えられていますが、そのはるか昔から高い鼻の山の神である天狗を祀り、火祭りを行っていた由岐(ゆき)神社があったものと考えられます。

 

(4) 高野(たかの)川

 

a 高野川

 高野川は、京都市左京区大原小出石町の山中に源を発し、大原・八瀬地区を貫流して岩倉川を合し、山端(やまばな)で京都盆地に入り、南西に流れて出町柳(でまちやなぎ)で賀茂川に合流して鴨川になる川で、上流を大原川、中流を八瀬川と呼びます。この谷には、京都から大原を経て途中峠を越え、朽木村から若狭へ抜ける若狭街道(鯖街道)が通じ、古代から重要な交通路でした。

 この「たかの」は、マオリ語の

  「タカ・ナウ」、TAKA-NAU(taka=fall down;nau=come,go)、「(はるか山の上から)流れ下って来る(川)」

の転訛と解します。

 

b 途中(とちゅう)峠

 途中峠の「とちゅう」は、マオリ語の

  「タウ・チウ」、TAU-TIU(tau=ridge of a hill;tiu=soar,sway to and fro)、「つづら折りの峠(山の背)」

の転訛と解します。

 なお、途中峠と花折峠との中間の和迩川の谷奥に大津市伊香立途中(いかだちとちゅう)町があり、琵琶湖岸の堅田へ抜ける道路が分岐していますが、この「いかだち」、「とちゅう」は、マオリ語の

  「イ・カタ・チ」、I-KATA-TI(i=beside;kata=opening of shellfish;ti=throw,cast)、「貝が口を開けたような地形一帯に分布している(集落。またはその地域)」

  「トウ・チウ」、TOU-TIU(tou=wet,lower end of anything;tiu=sway to and fro,swing)、「蛇行する谷底(の土地)」

の転訛と解します。

 

c 大原(おおはら)

 大原は、高野川上流の小盆地全体の呼称です。本来は、「おはら」といい、「小原」と書きました。

 ここには延暦寺にかかわる勝林院、来迎院、三千院、などの名刹が多くあります。安徳天皇の生母建礼門院の隠棲した寂光院にまつわる『平家物語』潅頂の巻の「大原(おはら)御幸」も、もともとは「小原御幸」であったのがいつしか「大原御幸」となったといいます。

 また、この地の女性は、今も「大原女(おはらめ)」といい、頭上に花などの商品を載せて(これは東南アジアの山間地帯に一般的に見られる風習です)賣り歩きますが、かつてその賣り歩いていた柴や薪は「おはらぎ」と呼んでいました(「黒木」ともいいました)。

 この「おはら」は、「オ(美称)・ハラ(野、平坦地)」の意とする説があります。

 この「おはら」は、マオリ語の

  「オ・ハラ」、O-HARA(o=the place of;hara=violate tapu,sin,offence,miss,be diminished)、「(自らの罪を恥じて)隠棲した・場所」

の転訛と解します。

 

d 八瀬(やせ)

 八瀬は、高野川中流にあり、延暦寺への京都側登山口です。かつては青蓮院の荘園があり、ここの住民は延暦寺に奉仕するほか、朝廷の駕輿丁(かよちょう)として奉仕する習わしで、課税免除の特権を得ていました。

 この「やせ」は、(1) 「ヤ(八)・セ(瀬)」の意、

(2) 「ヤ(谷)・セ(瀬、狭隘な場所)」の意、

(3) 「ハツセ(山川に囲まれた長い谷、長谷(はせ))」の意とする説があります。

 この「やせ」は、マオリ語の

  「イア・テ」、IA-TE(ia=indeed,every,each;te=crack)、「実に裂けている(ような地形、谷がある場所)」

の転訛と解します。

 

e 岩倉(いわくら)

 高野川が京都盆地に出るところの右岸の山麓一帯が岩倉の地です。

 この「いわくら」は、マオリ語の

  「イワ・クラエ」、IWA-KURAE(iwa=nine;kurae=headland)、「沢山の尾根が出ている(土地)」

の転訛(語尾の「エ」が脱落した)と解します。

 

 

(5) 葛野(かどの)郡

 

 葛野郡は、現京都市右京区、西京区あたりの地名です。『和名抄』は「加止乃」と訓じています。

 この「かどの」は、(1) 「カズラ(葛)・ノ(野」)の意、

(2) 「カツ(崖)・ノ(野)」の意などとする説があります。

 この「かどの」は、マオリ語の

  「カト・ナウ」、KATO-NAU(kato=flowing,flood of the tide;nau=go,come(naunau=angry)、「洪水が・襲う(地域)」

の転訛と解します。

 

(6) 清滝(きよたき)川

 

a 清滝川

 清滝川は、京都市北区大森に源を発し、洛北三尾と称される高山寺のある栂尾(とがのお)、西明寺のある槙尾(まきのお)、神護寺のある高雄を経て、愛宕山の山麓を南西に流れ、ゲンジボタルの生息地として知られる嵯峨清滝を流下して、保津峡の終点のすぐ上で保津(ほづ)川に合流します。

 この「きよたき」は、(1) 空海が修行した唐西安の青龍寺の鎮守の青龍を勧請して「清滝権現」として祀ったことによる、

(2) 「キヨ(美称)・タキ(崖、急傾斜地)」の意とする説があります。

 この「きよたき」は、マオリ語の

  「キオキオ・タキ」、KIOKIO-TAKI(kiokio=lines in tatooing;taki=track,lead)、「(顔の)入れ墨の線を辿る(ような川)」

の転訛(同音反復の語尾「キオ」を省略した)と解します。

 

b 栂尾(とがのお)

 京都から京北町周山を経て福井県小浜市へ向かう周山街道(国道162号線)が御経坂峠から清滝川の谷に下りた付近に、上から栂尾(とがのお)、槙尾(まきのお)、高雄(尾)のいわゆる洛北三尾(さんび)があります。

 渓谷美、紅葉の美しさと栂尾の高山寺、槙尾の西明寺、高雄の神護寺の古刹で有名です。高山寺は、再興の祖明恵上人がはじめて茶を植えたことで知られています。

 この「とがのお」は、マオリ語の

  「ト(ン)ガ・ノホ」、TONGA-NOHO(tonga=restrained,secret;noho=sit,settle)、「秘密の居住地」

の転訛と解します。

 

c 槙尾(まきのお)

 槙尾の「まきのお」は、マオリ(ハワイ)語の

  「マキ・ノホ」、MAKI-NOHO(maki(Hawaii)=to roll,fold;noho=sit,settle)、「(山が)折り重なったところの居住地」

の転訛と解します。

 

d 高雄(たかお)

 高雄の「たかお」は、マオリ語の

  「タカウ」、TAKAU(steep)、「嶮しい(山)」

の転訛と解します。東京都八王子市の高尾(たかお)山も同じ語源です。

 

e 愛宕(あたご)山

 愛宕山(924メートル)は、山城国と丹波国の国境に位置し、周囲の標高500〜600メートルの山地の面の上に瘤状に突出しています。頭を持ち上げ、両翼を広げたように見える堂々たる山容です。

 山頂の愛宕神社は、火防の神の総本社として全国の信仰を集めています。また、天狗伝承があり、かつては柱松明の行事がありましたが、現在は山下の嵯峨清涼寺の行事となっています。愛宕山の天狗は「太郎坊」と呼ばれて日本第一の天狗とされています。

 この「あたご」は、(1) 愛宕神社の祭神ホノカグツチの誕生に因って母イザナミが死亡したことから、「仇子(あだこ)」の転、

(2) 「アダ、アタ(儚い)・コ(処)」の転、

(3) 「ウタキ、オタキ(沖縄の聖所)」の転、

(4) 「アテ・ゴ(こちら側からは見えない側、裏側、反対側)」から、

(5) 「オ、ア(逢う)・タギ、タゴ(狭くて屈曲している、険阻な)」からなどとする説があります。

 この「あたご」は、マオリ語の

  「アタ・(ン)ゴ」、ATA-NGO(ata=gently,clearly,openly,how horrible!;ngo=cry,grunt)、「なんと恐ろしい・唸り声を出す(神(または天狗)。その神(天狗)が住む山)」(「(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「ゴとなった)

  または「ア・タ(ン)ゴ」、A-TANGO(a=collar-bone;tango=take,take hold of)、「鎖骨を持っている(山)」

の転訛と解します。嵐山付近から愛宕山を望むと、山頂の頭の下に左右から緩いV字形に尾根がでているように見え、それが鎖骨に見えることから付けられたものです。この「ア」は、三重県鈴鹿峠の「阿須波(あすは)道」、福井県足羽(あすは)郡の「ア」と同じ語源です。

 また、天狗の「たろうぼう」は、マオリ語の

  「タ・ラウ・ポウ」、TA-RAU-POU(ta=the;rou=club-footed;pou=a form of address to an aged person)、「がに股の老人」

の転訛と解します。

 

(7) 嵯峨野(さがの)

 

a 嵯峨野

 京都市右京区の嵯峨野は、東は太秦、北は上嵯峨の山麓、西は小倉山、南は大堰川(桂川)を境とする一帯です。

 この「さが」は、マオリ語の

  「タ(ン)ガ」、TANGA(circumstance or place of dashing,striking,etc.)、「人々が走り回って狩をする場所」の転訛と解します。(入門篇(その二)を参照してください。)

 

b 太秦(うずまさ)

 京都市右京区太秦は、御室(おむろ)川の西、双ケ岡(ならびがおか)の南の地域です。北半部は低位洪積段丘上、南半部は沖積平野で、京都盆地北西部最大の横穴式石室を持つ蛇塚古墳や広隆寺はこの段丘端付近に立地しています。

 太秦一帯は、平安京の造成に貢献した秦(はた)氏の根拠地で、『日本書紀』雄略15年の条に「秦の民を聚(と)りて、秦酒公(はたのさけのきみ)に賜ふ。公、仍りて百八十種勝を率いて、庸調の絹兼(きぬかとり)を奉献りて、朝廷に充積む。因りて姓を賜ひて禹豆麻佐(うつまさ)と曰ふ。」とあります。

 この「うずまさ」は、(1) 「ウズ」は「埋む」で、河川の氾濫で湿地が埋められ、高くなった場所、

(2) 湿地や丘陵を埋め、削って整地した場所、

(3) 「ウズ(珍、厳、貴)・マサ(姓で上位にあるもの)」の意とする説などがあります。

 この「うずまさ」は、マオリ語の

  「ウツ・マタ」、UTU-MATA(utu=dip up water,spur of a hill;mata=heap,deep swamp)、「丘陵の突端(または湿地が乾陸化した場所)」

の転訛と解します。

 秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を安置するために創建した広隆寺の鎮護寺である秦氏の祖先の秦酒公(はたのさけのきみ)を祀る大酒(おおさけ)神社の「おおさけ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オウ・タケ」、OU-TAKE(ou(Hawaii)=to protrude,high peak;take=chief of a large tribe)、「傑出した氏族の長(を祀る神社)」

の転訛と解します。

 「太秦の牛祭」は、慈覚大師が唐から勧請し、比叡山から広隆寺に移された仏法守護の異形の神「摩陀羅(まだら)神」が牛に乗って動き回る大酒神社の祭礼で、この「まだら」はサンスクリット語源とされますが、これはマオリ語の

  「マタラ」、MATARA(distant)、「遠い(国の神)」

の転訛と解することができます。

 

c 御室(おむろ)

 京都市右京区御室は、上嵯峨の山麓と双ケ岡の間にある地域です。仁和2(886)年に光孝天皇が発願し、2年後に宇多天皇が遺志を継いで創建した仁和寺があります。御室の名は、宇多天皇が譲位後出家して仁和寺に入り、延喜4(904)年寺内に室を設けて法務をおこなったことによるとされます。

 この「おむろ」は、マオリ語の

  「オ・ム・ロ」、O-MU-RO(o=the place of;mu=silent;ro=roto=inside)、「(上嵯峨の山麓と双ケ岡の間の)内側にある静かな(土地)」

の転訛と解します。

 

d 双ケ岡(ならびがおか)

 仁和寺の南に、樹木の生い茂った三つの岡が南北に並んでいます。北の一の岡(116メートル)から二の岡、三の岡と順次低くなっています。兼好法師がこの西麓に一時庵を立てて住み、『徒然草』を著したことは有名です。

 この「ならび」は、「並び」と解されていまいが、これはマオリ語の

  「ナ・ラピ」、NA-RAPI(na=belonging to;rapi=clutch)、「(一つの岡が他の二つの岡を)しっかり掴んでいる(岡)」

の転訛と解します。

 

e 化野(あだしの)

 小倉山の麓、二尊院の北の地が、昔の京の墓場であった西大谷の北の鳥辺野(とりべの)、紫野の船岡山の西の蓮台野(れんだいの)と並ぶ化野です。弘法大師が創建し、のち法然がここで念仏を広めたという化野念仏寺があることで有名です。

 この「あだしの」は、マオリ語の

  「アタ・チノ」、ATA-TINO(ata=how horrible!;tino=main,reality,exact,very)、「(死体が散乱して)まことに恐ろしい(場所)」

の転訛と解します。

 ちなみに、鳥辺野の「とりべ」、蓮台野の「れんだい」は、マオリ語の

  「トリ・ぺ」、TORI-PE(tori=cut;pe=crushed)、「(死体が鳥によって)裂かれ粉々にされる(場所。山)」

  「レンガ・タイ」、RENGA-TAI(renga=scattered about;tai=the other side)、「(紫野の)別の方に(死体が)放り投げられる(場所)」

の転訛と解します。

 

(8) 乙訓(おとくに)郡

 

 乙訓郡は、京都府南部、桂川の西岸の地域です。

 「乙訓」の由来については、(1) 『古事記』には垂仁天皇が丹波国の美知能宇斯(みちのうし)王の四人の姫を宮廷に召しましたが、歌凝(うたごり)比賣と圓野(まとの)比賣の二人を醜いとして国元に返します。圓野比賣はこれを恥じて、帰途山代国の相楽で木に首を吊りましたが死にきれず、弟国に来た時淵に身をなげて死んだので、「故、其地を號けて墜国(おちくに)と謂ひしを、今は弟国(おとくに)と云ふなり」とあります。『日本書紀』垂仁紀15年8月の条にも同様の記事(「竹野媛が葛野で輿から落ちて」)があります。

(2) 乙訓郡は、最初葛野郡に属し、大宝令施行時に分離して葛野郡の兄国に対して「弟国」となり、和銅6(713)年の地名二字好字令で「乙訓」に改めたとされます。

(3) 『和名抄』高山寺本の乙訓郡の訓注に「オタギ」とあるところから、愛宕郡とともに「おたぎ」と呼ばれていたとする説、

(4) 「オタギ(高所)」に対する「オト(劣る、低い)・クニ(地域)」と解する説などがあります。

 この「おとくに」は、マオリ語の

  「アウト・クニ」、AUTO-KUNI(auto=trailing behind,protract;(Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle)、「(葛野郡の)後ろに広がる・居住地(地域)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 桂(かつら)川

 

a 桂川

 桂川は、京都市南西部を流れる川で、大堰(おおい)川の下流で保津峡の出口嵐山から南流して淀川に合流するまでの区間をいいます。

 古くは郡名から葛野川といわれましたが、大堰をつくって一帯を開発した秦氏の伝承から大堰川といい、また桂川の名も早くから見えています。平安時代には鴨川を東河、桂河を西河と呼び、防鴨川使、防葛野川使が置かれ、桂には浮橋が架けられ、嵯峨、桂、梅津、佐比などには津が設けられましたが、とくに桂津が発展したため、一般に桂川と呼ばれるようになったといいます。

 この「かつら」は、マオリ語の

  「カ・ツラ」、KA-TURA(ka=take fire,be lighted;tura=turaha=keep clear,be separated,open,wide)、「(葛野郡の地域から乙訓郡の)居住地を・分離する(川)」

の転訛と解します。

 

b 大堰(おおい)川

 大堰川は、京都市左京区広河原地区を源流とし、別所川、弓削川、細野川、園部川、犬飼川など数多くの支流をあわせ、京都府北桑田郡南部から船井郡園部町、八木町と亀岡市を経て、保津峡(この部分は保津川とも呼びます)に入るまでの河川をいいます。保津峡の出口嵐山から下流は桂川となって淀川に合流します。

 下流の亀岡盆地は、流域最大の沖積平野です。保津峡が狭いため、しばしば川の氾濫による水害をうけました。

 この川は、明治32(1899)年に山陰本線が開通するまで、木材の筏流しをはじめ、京都と丹波を結ぶ重要な物資輸送路でした。

 大堰川の名は、秦氏が葛野川に葛野大堰を築き、流域の開発に成功した(『秦氏本系帳』)ことによるとされます。大堰の位置は不明ですが、渡月橋のすぐ上流あたりではないかとされています。

 この「おおい」は、マオリ語の

  「オホ・ヰ」、OHO-WHI(oho=spring up,wake up,arise;whi=can,able)、「(水位を)上げる・ことができる(堰。その堰を建設した川)」

の転訛と解します。

 

c 保津(ほづ)峡

 保津峡は、大堰川が亀岡盆地南東部から古生層の岩石からなる老ノ坂山地を貫いて京都盆地に流出する区間につくる峡谷です。亀岡市保津町から京都市右京区嵐山まで約12キロメートルの区間を、落差約60メートルの急流が、深さ200メートルの谷を刻んで、早瀬と深淵、露岩を連ねて流れています。

 この「ほづ」は、マオリ語の

  「ホツ」、HOTU(sob,desire eagerly,chafe with animosity etc.)、「激流が岩を噛む(渓谷)」

  または「ハウツ」、HAUTU(spirit of bravery)、「猛(たけ)りはやる(峡谷)」(AU音がO音に変化して「ホツ」から「ホヅ」となった)

の転訛と解します。

 

d 嵐(あらし)山

 嵐山(375メートル)は、保津川が京都盆地へ出る地点の右岸に位置し、左岸の小倉山と相対しています。平安時代から紅葉の名所として知られ、三船祭りのような貴族の舟遊びの場所でもありました。後嵯峨上皇が小倉山の南東の亀山に吉野の桜を移植してからは桜の名所ともなっています。

 この「あらし」は、(1) 『日本書紀』顕宗紀3年2月の条に「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉って月讀命を祀ったとの記事があり、現在松尾大社の南の松尾山麓に松尾月讀神社が鎮座し、松尾山を一名「アラス」山といったところから、

(2) 山の紅葉や桜を吹き荒す「嵐」の山から、

(3) 松尾山は、荒子(あらこ)山と亀山に分かれ、この「あらこ」の転とする説などがあります。

 この「あらし」は、マオリ語の

  「パラチ」、PARATI(spurt,splash up)、「(保津川の水が)噴出する(場所。そこにある山)」(語頭のP音がF音を経てH音に変化して「アラチ」から「アラシ」となった)

  または「アラ・チ」、ARA-TI(ara=way,path;ti=throw,cast,overcome)、「(京都盆地と亀岡盆地を連絡する)道路を・塞いでいる(山)」(保津川の右岸には連絡道がありません)

の転訛と解します。

 この「歌荒樔田(うたあらすだ)」は、マオリ語の

  「ウタ・アラ・ツタ」、UTA-ARA-TUTA(uta=put persons or goods on board a canoe;ara=way,path;tuta=back of the neck)、「船に人や物を積み下ろしする場所(桂津)への通路の裏(の場所)」

の転訛と解します。

 

e 小倉(おぐら)山

 小倉山(295メートル)は、嵐山の対岸の山です。南東に長く延びた標高70〜80メートルの尾根を亀山といいます。もとは嵐山とあわせて小倉山と呼んでいました。

 この「おぐら」は、ハワイ(マオリ)語の

  「オク・ラ」、OKU-RA(oku(Hawaii)=to wield paddles with vigor;ra=wed)、「一生懸命に櫂を漕いでいるような山が結合している(山)」

の転訛と解します。

 

f 松尾(まつのお)大社

 嵐山の南に松尾大社が鎮座します。祭神は、大山咋(おおやまくひ)神とその妻市杵島(いちきしま)姫命で、大山咋神は比叡山とここ松尾山(223メートル)に鎮座して「鳴鏑(なりかぶら)の神」と称され、平安京遷都以降は賀茂社と並んで都の守護神として崇められました。

 この「まつのお」、「なりかぶら」は、マオリ語の

  「マツ・ノホ」、MATU-NOHO(matu=gist or kernel of a matter;noho=sit,settle)、「核心をなす(重要な)神が鎮座する(山、社)」

  「(ン)ガリ・カプ・ラ」、NGARI-KAPURA(ngari=great,power;kapura=fire)、「偉大な火(の神)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。

 

(10) 老(おい)ノ坂

 

a 老ノ坂

 老ノ坂は、京都盆地と亀岡盆地の間の分水界の山地および峠を指します。老ノ坂山地(西山)は、ポンポン山(679メートル)を最高峰とする古生層の山地で、山城・丹波両国の境界をなしています。古くは大枝(おおえ)山または大江山と呼ばれ、源頼光の酒呑童子退治の伝説が残っています。

 この「おいの」は、マオリ語の

  「オイ・ナウ」、OI-NAU(oi=creep,crawl;nau=come,go)、「這って進む(峠)」

の転訛と解します。

 

b 大枝(おおえ)

 老ノ坂峠の坂下、南西に進んできた国道9号線(昔の山陰道)が山麓に突き当たって大きく北西に向きを変えて老ノ坂へと登って行く屈曲点に京都市西京区大枝(おおえ)の地があります。

 ここは、『和名抄』にみえる乙訓郡大江(おおえ)郷に比定されており、中国地方を制した毛利氏、そして鎌倉幕府の創設に貢献した大江広元の祖先である大江(大枝)氏の本拠地で、大江氏から出た桓武天皇の生母高野朝臣新笠の大枝陵が営まれた地です。平安時代の学問の名家大江氏は、もと土師宿禰(はにしのすくね)でしたが、延暦9(790)年に桓武天皇から外祖母であつた土師真味の系統に大枝(おほえ)朝臣の姓を賜り、その後貞観8(866)年に音人(おとんど)が奏請して大江に改姓したといいます。西京区大枝の地は、この大江氏が本拠としたゆかりの地です。

 この「おおえ」は、マオリ語の

  「オハウヱ」、OHAWE(bend in a river or road)、「川または道の屈曲するところ」

の転訛(語中のW音がU音に変化してHAU音が「ホ」となり、「オホエ」から「オオエ」になった)と解します。

 なお、全国の「大江」の地名がある地で、字義のとおり「大きな海または広い川に面した」ところは、全く見当たらず、古来疑問とされてきました。『和名抄』にみえる他の大江郷のうち、遠江国蓁原(はいばら)郡大江郷(静岡県榛原郡相良町大江)はそこを流れる荻間川の屈曲点にあり、また、筑後国山門郡大江郷(福岡県山門郡瀬高町大江)は旧国道3号線から瀬高町で分かれて山鹿市に抜ける国道443号線の屈曲点にあります。

 

c ポンポン山と釈迦岳

 老ノ坂峠から南に高度を増しながら延びてきた老ノ坂山地の稜線が東西に分かれ、そのすこし西にはポンポン山(679メートル)があって稜線が再び南に向きを変え、東には釈迦岳(しゃかだけ。631メートル)があってそこから稜線が南と東の二方向に延びています。

 この「ポンポン」、「しゃか」は、マオリ語の

  「ポンガポンガ」、PONGAPONGA(nostil)、「鼻孔(のようなところにある山)」(NG音がN音に変化して「ポナポナ」となり、「ポンポン」となった。ポンポン山と釈迦岳の南にある二つの谷を鼻孔に見立てたもの)

  「チアカ」、TIAKA(mother)、「母親(のような山)(ポンポン山を父親と見立てて)」

の転訛と解します。

 

(11) 向日(むこう)丘陵

 

a 向日丘陵

 桂地区の南の京都市西京区南部、向日(むこう)市、長岡京市には、桂川左岸の沖積平野、河岸段丘、そして向日丘陵が西に向かって広がり、大阪府との境をなす老ノ坂山地に連なっています。この丘陵上に、かって長岡京が造成されました。

 この向日(むこう)市の名のもととなつた「むこう」は、マオリ語の

  「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな瘤(のような丘陵、高台)」

の転訛と解します。

 この「コウ(瘤、切り株)」地名は、全国各地に分布します。地名篇(その一)2の(3)の愛甲の項で解説しましたので、参照してください。

 

b 物集女(もずめ)

 向日市に物集女の地名があり、室町時代には西岡国人衆の雄、豪族物集女氏が現京都市洛西竹林公園の近くに物集女城を築いていました。

 この「もずめ」は、マオリ語の

  「モツ・メ」、MOTU-ME(motu=separated,wounded;me=thing,fact,one)、「離れたところにある一郭」

の転訛と解します。

 

c 神足(こうたり)

 長岡京市の中心部に神足の地名があります。

 この「こうたり」は、マオリ語の

  「コウ・タリ」、KOU-TARI(kou=knob,stump;tari=carry,a mode of plaiting with several strands)、「瘤のような丘陵が列をなして重なり合っている(場所)」

の転訛と解します。

 

d 善峰(よしみね)山

 向日丘陵の奥に、老ノ坂山地の南端に近い釈迦岳(前出)の支峰良峰に、西国三十三ケ所第二十番札所の善峰寺があります。重要文化財指定の多宝塔前の天然記念物の遊龍松が見事です。

 この「よし」は、マオリ語の

  「イオ・チ」、IO-TI(io=muscle,spur,lock of hair;ti=throw,cast)、「投げ出されている(釈迦岳から延びている)尾根(の山)」

の転訛と解します。

 

e 天王(てんのう)山

 京都府の最南端、乙訓郡大山崎町に老ノ坂山地の最先端の天王山(270メートル)があります。桂川、宇治川、木津川の3川が合流して淀川となる部分の北側に位置し、南側の男山と相対し、京都盆地の最狭部を形成しています。大阪府との境で、古くから淀川水運や山陽道の水陸交通の要衝でした。天正10(1582)年豊臣秀吉と明智光秀の山崎の戦いはこの山の占有が勝敗を決したとされ、「天王山の戦い」として有名です。

 この「てんのう」は、マオリ語の

  「テンガ・アウ」、TENGA-AU(tenga=goitre,Adam's apple;au=firm,intense)、「堅固な喉ぼとけ(のように淀川に向かって突出している山)」

の転訛(「テンガ」のNG音がN音に変化して「テナ」となり、「テナ・アウ」が「テンノウ」となった)と解します。この「テンガ」は、三重県大王崎波切の天白の「テンガ」と同じ語源です。

 

(12) 男(おとこ)山

 

 男山は、石清水八幡宮があるところから八幡山ともいい、桂川、宇治川、木津川の3川が合流して淀川となる部分の南側に位置し、北側の天王山と相対している八幡市北西部の小丘です。大阪府との境の生駒山地の北端で、最高所は鳩ケ峰の標高143メートル、男山南部には筒井順慶が日和見をした東高野街道の「洞(ほら)ケ峠」(現在国道1号線が通っています)があります。北西麓の橋本は、京街道の宿場町、淀川水運の河港として栄えました。

 この「おとこ」、「ほら」は、マオリ語の

  「アウト・コ」、AUTO-KO(auto=trailing behind,protract;ko=a wooden implement for digging or planting)、「後ろに(生駒山地を)引き連れている・鍬で削ったような(険しい。山)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

  「ホラ」、HORA(spread out,display)、「(伸び上がって自分を)見せつけている(ような峠)」

の転訛と解します。

 

(13) 相楽(さからか)郡・綴喜(つづき)郡

 

a 相楽郡

 『和名抄』には山城国相楽(佐加良加。さからか)郡、郷の名がみえ、現京都府相楽(そうらく)郡として残っています。『古事記』には垂仁天皇が丹波国の美知能宇斯(みちのうし)王の四人の姫を宮廷に召しましたが、歌凝(うたごり)比賣と圓野(まとの)比賣の二人を醜いとして国元に返します。圓野比賣はこれを恥じて、帰途山代国の相楽で木に首を吊ろうとしたので、「故、其地を號けて懸木(さがりき)と謂ひしを、今は相楽(さがらか)と云ふ」とあります。

 この「さからか」は、奈良山の北側の地で、「サカ(坂)・ラカ(接尾語)」との説があります。

 この「さからか」は、マオリ語の

  「タカ・ラカ」、TAKA-RAKA(taka=fall down;raka=spread abroad)、「(木津川を)下ってくると(平地が)広がる(場所)」

の転訛と解します。

 

b 綴喜郡

 綴喜郡は、相楽郡と宇治郡、久世郡、淀川に挟まれた地域で、現在の城陽市、京田辺市、宇治田原町、井手町の地域です。

 この「つづき」は、(1) 「ツツ(障(つつ)む、包む)・キ(場所)」で「崖」や「川の曲流する場所、山ひだに包まれた場所」の意、

(2) 「ツ(接頭語)・ツキ(尽き、崖、高地)」の意とする説があります。

 この「つづき」は、マオリ語の

  「ツツキ」、TUTUKI(strike against an object,stumble,reach the farthest limit,be finished)、「(川の流れで)散々に浸食された(地域)」

  または「ツツ・キ」、TUTU-KI(tutu=hoop for holding open a hand net;ki=full,very)、「手網の支柱のような(尾根がU字形の股に分かれている)地形の場所がたくさんある(地域)」

の転訛と解します。武蔵国都筑郡も同じ語源でしょう。

 

(14) 木津(きづ)川

 

a 木津川

 木津川は、三重県伊賀地方から京都府南山城地方を流れて淀川に合流する川です。伊勢と伊賀の境界をなす布引山地に源を発し、久米川などを合わせて上野(伊賀)盆地へ入り、柘植川、服部川を合わせて西流し、名張川、布目川、白砂川、和束川などを合わせて京都盆地南部に入ります。木津町から河床勾配は緩くなり、氾濫源をつくって北流し、淀川に合流します。

 木津川は、古代には泉(いずみ)河と呼ばれ、木津川と呼ばれるようになるのは、鎌倉時代に入ってからのことです。

 奈良時代には、奈良へ運ばれる木材は、宇治津から巨椋池を経て木津川を遡り、木津で陸揚げされました。泉木津には平城京諸大寺の木屋が設けられて木材や貨物輸送の基地となりました。

 流域の山地は、風化しやすい花崗岩からなるため、土砂流入が激しく、下流では河床の上昇、洪水が繰り返されてきました。

 この「泉河」の「いずみ」は、マオリ語の

  「イツ・ミ」、ITU-MI(itu=side;mi=urine,stream)、「(宇治川の)脇を流れる川」

の転訛と解します。

 この「泉木津」の地名の「きづ」は、マオリ語の

  「キ・ツ」、KI-TU(ki=full,very;tu=stand,remain,be established)、「(川の氾濫で土砂が)大量に堆積した(場所)」

の転訛と解します。

 

b 笠置(かさぎ)山

 京都府の南東部、木津川の峡谷のほとりに笠置山があります。花崗岩からなる山で、山中には浸蝕による奇岩や巨岩が多くあります。北は木津川断層谷、東は布目川、西は白砂川に囲まれており、急峻な孤立峰となっているため、古来から自然の要害とされてきました。また、古代には遊猟地や山頂の巨岩信仰の霊場で、山上には笠置寺が建立され、中世には修験の道場となっていました。

 元弘元(1331)年の元弘の変に際しては、後醍醐天皇の行在所となったことはとくに有名です。天皇の討幕計画の失敗による元享4(1324)年の正中の変に引き続き、この年8月の再度の討幕計画も事前に漏れ、幕府の手が伸びるのを恐れて、8月24日に御所を脱出し、奈良の東大寺、和束(わつか)の鷲峰山(じゅぶせん)を転々とした挙げ句に、

  「要害ニ御陣ヲ召ルベシトテ、同二七日潜幸ノ儀式ヲ引キツクロヒ、南都ノ衆徒少々召具セラレテ、笠置ノ石室(イハヤ)ニ臨幸ナル」

と『太平記』巻第二(岩波書店、日本古典文学大系本による)は語っています。

 この笠置山の頂上近くには、巨岩が数多くあり、その巨岩信仰の修行場となった「胎内くぐり」と称される巨岩の狭間や、トンネルがあります。笠置山の山名も、この巨岩にちなむものと思われます。

 この「かさぎ」は、マオリ語の

  「カタ・ギア」、KATA-NGIA(kata=laugh,opening of shellfish;ngia=seem,appear to be)、「口を開いた貝のように見える(巨岩のある山)」

の転訛と解します。(この項は入門篇(その一)の記事を再録しました。)

 

c 和束(わづか)町・鷲峰山(じゅぶせん)

 相楽郡和束町は、笠置山の対岸にあり、山脈で囲まれた縦長の楕円形の中央を斜めに木津川で切り取ったような地形の地域で、その中を和束川が流れ、周囲の山脈の北には、上述のように元弘の変の際に後醍醐天皇が臨幸された鷲峰山(じゅぶせん。685メートル)がそびえています。古く聖武天皇の恭仁京造営の時から、一帯の山は杣(そま)として利用されてきた地でしょう。

 元弘の変の際、後醍醐天皇は、いったんは鷲峰山に入りましたが、

  「余リニ山深ク里遠シテ、何事ノ計略モ叶マジキ処」

なので、笠置山に遷幸された(『太平記』巻第二)とあります。

 この「わづか」は、マオリ語の

  「ワツ・カ」、WHATU-KA(whatu=stone,pupil of the eye;ka=take fire,be lighted)、「眼の瞳のような(地形の)居住地」

と解します。

 この鷲峰山の「じゅぶ」は、

  「チウ・プ」、TIU-PU(tiu=soar,wander,north;pu=heap,stack)、「空高くそびえる山」

の転訛と解します。

 

d 加茂(かも)町

 相楽郡加茂町は、木津川を挟んで和束町の対岸にあり、木津川沿いに広がる低地を笠置山地に連なる山地が半楕円形に囲んだような地形をなしています。そこで、対岸の和束町を眼と見立て、加茂町をまぶたと見立てて、地名がつけられたものと考えられます。

 この「かも」は、マオリ語の

  「カモ」、KAMO(eyelash,eyelid,eye)、「まぶた(のような地形の土地)」

の転訛と解します。

 この地は、「賀茂川」の項で説明しましたように、賀茂建角身命を祖とする賀茂族が、大和の葛城から山代国の岡田の賀茂に移り、さらに京都盆地の賀茂河の流域に移って「賀茂川」というに至ったその「カモ」地名の発祥の地です。

 なお、「岡田の賀茂」の「おかだ」は、マオリ語の

  「オ・カタ」、O-KATA(o=the place of;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開けたような(半楕円形の)場所」

の転訛と解します。

 

e 椿井(つばい)

 相楽郡山城町椿井の木津川東岸の丘陵末端に西面して、4世紀前半に築造されたと推定される椿井大塚山古墳があります。後円部をJR奈良線が横断していますが、全長180メートル、後円部径80メートルの大古墳で、三角縁神獣鏡など計32枚の銅鏡が出土して学会の注目を集めました。

 この「つばい」は、マオリ語の

  「ツ・パヒ」、TU-PAHI(tu=stand,settle;pahi=large sea-going canoe)、「外洋航行用の大きなカヌー(大きな木棺)を据えた(埋葬した古墳)」

  または「ツ・パイ」、TU-PAI(tu=stand;pai=good,excellent,suitable)、「非常に手厚く埋葬した(古墳)」

の転訛と解します。

 

f 祝園(ほうその)

 木津川の西岸、相楽郡精華町に、祝園の地名があります。

 この地は、『日本書紀』崇神紀10年9月27日の条に、武埴安彦の叛乱を鎮圧するために、大彦と彦国葺が「忌瓮(いはいべ)」を鎮坐(す)えて祈った後、輪韓(わから)河をはさんで対峙し、武埴安彦の軍を散々に破り、半分の兵士の首を斬り、「屍骨多(さは)に溢れ」たのでその地を「羽振苑(はふりその)」といったとあります。『和名抄』には「はふその」の郷名がみえます。

 この「はふその」は、(1) 「ハフリ(葬る)」の約で「墓所」の意、

(2) 「祝(はふり)部」の居住地の意、

(3) 「ハフ(省、放)」で、「崖地、急傾斜地」の意などの説があります。

 この「はふその」は、マオリ語の

  「ハフ・トノ」、HAHU-TONO(hahu=disinter the bones of the dead before removing them to their final resting place,search for,scatter;tono=bid,command,demand,drive away by means of a charm)、「(敵を)撃退するまじないを・試みた(場所)」または「(仮埋葬した死者の骨を掘り出して)洗骨して本埋葬することが・求められた(場所)」

の転訛と解します。

 この「わから」は、マオリ語の

  「ワ・カラ」、WA-KARA(wa=place;kara=secret plan,a request for assistance in war)、「戦いに有利な(または秘策がある)場所(河)」

の転訛と解します。

 

(15) 宇治(うじ)川

 

a 宇治川

 宇治川は、琵琶湖から流れ出した瀬田川が、宇治市に入って宇治川と名を変え、京都盆地へ流れ出し、京都・大阪の府境付近で桂川、木津川と合流して淀川となるまでの川です。滋賀県全域の水がこの川に排水されるため流量が大きく、中流部の曲がりくねった深い峡谷は急流で有名でした。

 峡谷を出て淀川に合流するまでは、河床勾配がほとんどなく、かつて宇治川は直接遊水池であった巨椋(おぐら)池に流入し、その西方の淀付近で桂川、木津川と合流していました。

 ここには古代に淀津や宇治津が置かれ、河川交通の要衝でしたが、文禄3(1594)年の豊臣秀吉の伏見城建設時に宇治川は巨椋池から分離されて伏見城下を迂回するように河道が付け替えられました。さらにその後も何度かの河川改修が行なわれ、昭和8〜16(1933〜41)年に巨椋池の干拓が行なわれて現在の河道となりました。

 この宇治川が京都盆地に出る谷口の地は、大和国から北陸に向かう古北陸道(長岡京・平安京以前)が通る交通の要衝で「宇治」といいました。宇治郡は、この一帯から山科盆地を含む地域です。壬申の乱以来歴史の舞台にしばしば登場します。秀吉の宇治川の付け替え、新大和街道の建設によって、交通の要衝は伏見へ移ります。

 この地名の「うじ」は、(1) 『山城国風土記』逸文に、応神天皇の皇子、「宇治若郎子(うじのわきいらつこ)、桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき。御名に因りて宇治と號く。本の名は許乃(この)国と曰ひき。」とあります。

(2) 「ウチ(内)」で、北西は巨椋池に臨み、背後の三方は醍醐山地、宇治丘陵・段丘に囲まれた土地の意、

(3) 「菟道」は、「けもの道」の意などとする説があります。

 この「うじ」は、川名からきたもので、マオリ語の

  「ウチ」、UTI(bite)、「(氾濫しては)噛みつく(川)」

の転訛と解します。

 

b 巨椋(おぐら)池

 この「おぐら」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オ・クラ」、O-KURA(o=the place of;kula(Hawaii)=container,open country)、「貯水池」

の転訛と解します。

 

c 一口(いもあらい)

 久世郡久御山(くみやま)町に一口の地名があり、現在は字東一口、西一口に分かれています。かつて巨椋池は、宇治川が流れ込み、その出口と木津川、桂川が合流して淀川となっていましたが、巨椋池から淀川への出口は一口一カ所でした。一口は、淀とともに交通の要衝で、漁業が盛んでした。

 『山城名勝志』には「むかし三方は沼で、一方より入口ある故に一口と書く」とあり、『平家物語』、『源平盛衰記』には一口姓の武将が登場します。『吾妻鏡』には「芋洗い」とあります。

 この「いもあらい」は、(1) 池の入口が一つだから、

(2) 農民が土地を耕す際に土地神を祭る神事「地貰い」が「イモライ」になった、(3) 「イマ(今)・アラ(新)・ヰ(井)」から、

(4) 疱瘡(いも・いぼ)を村の入口から中に入れないように「忌祓い」をしたことによるなどの説があります。

 かつて江戸には三カ所も一口の地名があったといいます。神田駿河台の淡路坂は、もと一口坂といいましたが、これは太田道潅の娘が重い疱瘡にかかり、山城国一口の神を勧請して平癒した後、太田姫稲荷としてそこに祀ったことによるとされます。また、市ヶ谷の一口坂、六本木の一口坂も同様、一口稲荷を祀ったことによるといいます。

 この「いもあらい」は、マオリ語の

  「イ・マウ・アライ」、I-MAU-ARAI(i=beside;mau=fixed,continuing,seized,entangled;arai=screen,keep off,block up,hinder)、「(周囲を)障害物(沼)によつて・隔離された・(袋地の)付近一帯(の土地)」(「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)

の転訛と解します。

 

d 久世(くせ)郡

 久世郡は、京都盆地の南部、宇治川の下流左岸、巨椋池、木津川の下流を含む一帯の地域です。『和名抄』は、「くせ」と訓じています。

 この「くせ」は、「川の屈曲している場所」の意と解する説があります。

 この「くせ」は、マオリ語の

  「クテクテ」、KUTEKUTE(lazy,confused)、「(川、湿地、池が入り組んでいるため)混乱している(地域)」

の転訛(同音反復の語尾「クテ」が脱落した)と解します。乙訓郡久世郷(現京都市南区久世)、美作国大庭郡久世郷(現岡山県真庭郡久世町)の「くせ」も同じ語源でしょう。

 

(16) 淀(よど)川

 

 淀川は、琵琶湖に源を発し、瀬田川、宇治川と名を変えて大阪湾に注ぎます。一般には、京都・大阪府境の山崎峡の桂川、木津川との合流点より下流を淀川と呼んでいます。

 この京都盆地の全水系が流れ込む三川の合流点には、かつて巨椋池(おぐらのいけ)があり、洪水調節機能を果たしていました。ここでは、水がよどんだことから淀川と呼ばれたといいます。

 ここには古代に淀津や宇治津が置かれました。『日本後紀』延暦23(804)年7月の条に桓武天皇が「与等津」に御幸されたとあります。古代から近世まで水陸交通の要衝でした。のちに豊臣秀吉による宇治川付け替えによって、水域が分割され、巨椋池は諸河川と分離され、昭和8〜16年の全面干拓によつて農地となり、いまや大半が住宅地となっています。

 この「よど」は、マオリ語の

  「イホ・ト」、IHO-TO(iho=umbilical cord;to=conceive child)、「胎児の付いたへその緒(のような川)」(「イホ」のH音が脱落して「イオ」となり、「ヨ」となった)

  または「イオ・ト」、IO-TO(io=cord;to=conceive child)、「子供を妊んでいる紐(のような川)」

の転訛と解します。どちらでも結果は同じですが、縄文人の自然を擬人化する感覚からしますと、私は巨椋池を「胎児」と、淀川を「紐」というよりは「臍の緒」と見立てたと考えます。

 

(17) 山科(やましな)

 

a 山科

 山城国宇治郡の北方を占め、京から大津に向かう東海道の間に山科があります。北・西を東山連峰、東を逢坂山に囲まれた山科盆地を占め、ほぼ京都市山科区に当たります。

 『和名抄』には宇治郡山科郷の名がみえます。ここには興福寺の前身の山階寺があったといい、隋心院、勧修寺、醍醐寺や山科本願寺など多くの寺が創建されています。また、貴族の別荘も多く、後白河法王の山科新御所以来、皇室の御料の地となりました。

 この「やましな」は、(1) 三方を丘陵で囲まれた階段状の盆地なので、層をなして重なることを意味する「シナ(階、科、品)」といった、

(2) 「シナ(撓う)」からで、浅い皿状の盆地の意、

(3) 「シナ(坂道、階段)」からとする説などがあります。

 この「やましな」は、マオリ語の

  「イア・マ・チナ」、IA-MA-TINA(ia=indeed;ma=white,clear;tina=fixed,firm,satisfied)、「実に・清らかで・のんびりとした(土地)」または「イ・アマ・チナ」、I-AMA-TINA(i=past tense,beside;ama=outrigger of a canoe;tina=fixed,firm,satisfied)、「(京都盆地の)脇に・カヌーの舷側の浮子(アウトリガー)のように・置かれている(細長い盆地)」

の転訛と解します。

 

b 醍醐(だいご)

 山科盆地の南、京都市伏見区に醍醐があり、醍醐寺があります。

 醍醐寺は、貞観16(874)年に聖宝大師が後に上醍醐とよばれる笠取山の山頂に小寺を建てたことに始まるといいます。当時、笠取山の西麓一帯に住んでいた宮道氏は、その娘が藤原高藤の妻となり、その間に生まれた胤子が醍醐天皇の母となったために勢力を増し、延喜7(907)年笠取山山頂の小寺は醍醐天皇の勅願寺となりました。のちに醍醐寺は、下醍醐に大伽藍を建設し、東大寺と密接な関係をもちながら発展して行きました。

 この「醍醐」は、(1) 「開山尊師が始めて山に登ると、翁が現れて水をすくい、醍醐味かなといったから」という伝承があり、醍醐寺の閼伽井水をさす、

(2) 同寺で製造していた乳製品「醍醐」からとする説があります。

 この「だいご」は、マオリ語の

  「タイ・(ン)ガウ」、TAI-NGAU(tai=the coast,tide;bite,hurt)、「(伏見の山と笠取山とが)連なった山の端を噛み切った(ような地形の場所)」

の転訛(「(ン)ガウ」のNG音がG音に変化し、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)と解します。

 

(18) 伏見(ふしみ)

 

a 伏見

 伏見は、現京都市伏見区内で、旧紀伊郡内の深草の南、鳥羽の東の地です。東山連峰の南端、桃山丘陵の西斜面で、豊臣秀吉が築いた伏見城や秦氏にまつわる伏見稲荷があります。西・南部は、鴨川・宇治川の氾濫原で、とくに南部は旧巨椋池の一部でしばしば冠水した低湿地です。

 かつては俯見・伏水とも書きました。『日本書紀』雄略紀17年の条に、土師連が宮中の食器献上のために、「山背国内村・俯見村」等の私の民部を貢進したとあります。桓武天皇陵が大同2(807)年にこの地に移され、『江家次第』、『拾芥抄』には「伏見山に在り」とみえます。伏見山は「木幡(こはた)山」ともいい、のちに豊臣秀吉が伏見城を築き、さらに明治天皇陵となりました。

 この「ふしみ」は、(1) 巨椋池を「伏して見る」場所の意、

(2) 宇治川の水が「伏し湛える」場所の意、

(3) 「フシ(節)」で高所の意、

(4) 良質な伏流水が豊富な「伏し水」の意とする説などがあります。

 この「ふしみ」は、マオリ語の

  「フ・チ・ミ」、HU-TI-MI(hu=promontry,hill;ti=throw,cast;mi=urine,stream)、「水辺(山科川・宇治川・巨椋池とその周辺の湿地帯)に放り出された山」

  または「フチ・ミ」、HUTI-MI(huti=hoistpull out of the ground;mi=urine,river)、「(地下)水(の水位)が・高い(または水が湧き出す。場所)」

の転訛と解します。

 木幡(こはた)山の「こはた」は、マオリ語の

  「コパ・タ」、KOPA-TA(kopa=bent,folded,crippled)、「(一方に)傾いている(山)」

の転訛と解します。

 

b 深草

 深草は、京都市伏見区北部一帯の地で、東山連峰の西麓部にあたります。この地名は、『日本書紀』欽明即位前紀に秦大津父(はたのおほつち)の居住地としてみえます。ここは秦氏が勢力を占め、伏見稲荷も秦氏が創立したと伝えられています。また、ここは歌枕の地であり、葬送の地でした。『和名抄』は紀伊郡深草郷を「不加乎佐」と訓じており、「乎」は「宇」または「久」の誤りと解する説があります。

 この「ふかくさ」は、(1) 「草深い地」の意、

(2) 「フカ」は「フケ」の転で「湿地」の意とする説があります。

 この「ふかくさ」は、マオリ語の

  「フ・カク・タ」、HU-KAKU-TA(hu=promontry,hill;kaku=scrape up,bruise;ta=dash,strike,lay)、「傷がある(削ってならした)山」

の転訛と解します。

 

c 紀伊郡

 この紀伊郡の「きい」は、ハワイ語の

  「キイ」、KII((Hawaii)to tie,bind)、「(東山連峰と京都盆地・宇治川を)結びつけている(山麓の地域)」

の転訛と解します。紀伊国の「きい」も、同じ語源で「山々を結び付けている(山麓の地域が連なった国)」と解します。

 

(19) 鳥羽(とば)

 

 洛南の鳥羽の地は、東を鴨川、西を桂川に挟まれ、池沼の多い地域でした。京には近く、景勝の地であったので、白河、鳥羽両上皇の離宮が営まれました。平安京の朱雀大路南端から鳥羽まで直線で南下する鳥羽作道が建設されたのは、離宮建設以前であるといいます(『徒然草』)。

 この「とば」は、(1) 京の外港で、「泊まりの地」の意、

(2) 「トバ」は「ツバ(崩崖、湿地中の微高地、自然堤防)」の転とする説があります。

 この「とば」は、マオリ語の

  「タウパ」、TAUPA(prevent,obstruction,boundary)、「境界の土地(または河川、池沼があって自由な交通を妨害する土地)」

  または「タウ・パ」、TAU-PA(tau=come to rest,come to anchor,be suitable;pa=block up,stockade,screen)、「(船が)碇泊する集落」

の転訛と解します。

 

(20) 丹波(たんば)国

 

 丹波国は『古事記』では旦波、丹波と、『日本書紀』では丹波と記され、『和名抄』では 「太迩波(たには)」と訓じられています。もとは但馬、丹後の両国を含む国でしたが、天武天皇13(684)年に朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(おくみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国を分割し、さらに和銅6(713)年に加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を統括しました。畿内に接し、山陰道最初の国で、早く開化天皇の妃竹野媛の出身地として名が見えています。

 この「たには」は、(1) 主基(すき)田の「田庭」から、

(2) 「タニ(谷)・ハ(端)」から、

(3) 「丹(水銀)」から、

(4) 「タワ(峠)」の転などの説があります。

 この「たにわ」は、マオリ語の

  「タ・ニワ」、TA-NIWHA(ta=the;niwha=resolute,bravery)、「勇者(の国)」

  または「タ・(ン)ギハ」、TA-NGIHA(ta=the,dash,beat,lay;ngiha=burn,fire)、「盛んに・(銅、鉛、錫などの金属を精錬する)火を燃やしている(国)」(「(ン)ギハ」のNG音がN音に変化して「ニハ」となった)

の転訛と解します。

 

(21) 桑田(くわた)郡・船井(ふない)郡・天田(あまだ)郡

 

a 桑田郡

 桑田郡は、現亀岡市の地域で、かつては丹波国の中心で、国府・国分寺・国分尼寺・一宮などがすべて亀岡盆地にありました。亀岡盆地北西部の船井郡八木(やぎ)町屋賀(やが)には、国府、国府垣内などの地名が残っています。

 この「くわた」は、マオリ語の

  「クワハ・タ」、KUWAHA-TA(kuwaha=mouth,entrance,gateway;ta=dash,beat,lay)、「(丹波国の)入り口に・ある(土地)」(「クワハ」のH音が脱落して「クワ」となった)

の転訛と解します。

 

b 船井郡

 船井郡は、亀岡盆地北西部の八木町から福知山盆地に向かう丹波高原の上の西北方に伸びる旧山陰道の沿った綾部町などの地域です。

 この「ふない」は、マオリ語の

  「フ・ヌイ」、HU-NUI(hu=promontory,hill;nui=large,many,numerous)、「丘が多い(地域)」

  または「フ・(ン)ガイ」、HU-NGAI(hu=promontory,hill;ngai=tribe or clan)、「丘の・仲間(が連なっている(とりわけて高い山が無い)。地域)」(「(ン)ガイ」のNG音がN音に変化して「ナイ」となった)

の転訛と解します。

 

c 八木(やぎ)町屋賀(やが)

 この「やぎ」、「やが」は、マオリ語の

  「イ・ア(ン)ギ」、I-ANGI(i=past time,beside;angi=move freely,float)、「(大堰川の流れる場所が)しょっちゅう変わるところ一帯(の土地)」または「イ・アキ」、I-AKI(i=past time,beside;aki=dash,beat)、「(大堰川が)噴出して流れた一帯(の地域)」

  「イ・ア(ン)ガ」、I-ANGA(i=past time,beside;anga=face in a certain direction,hard outer covering,skeleton)、「堅い核のような(大堰川の流れに侵されない)ところ一帯(の土地)」または「イ・アカ」、I-AKA(i=past time,beside;aka=clean off,scrape away)、「(大堰川が)根こそぎに押し流した一帯(の地域)」

の転訛と解します。

 

c 天田郡

 天田郡は、福知山(ふくちやま)盆地の南側、福知山市とその東西の天田郡三和町、夜久野(やくの)町の地域です。

 福知山盆地は、その中央を由良川が東から西に貫流してつくった沖積平野で、その中央部へは東南から土師川が、南西から和久川が流入してやや広くなっています。由良川は、盆地の西端から北東に大きく向きを変え、丹後山地の狭い峡谷に入るため、しばしば氾濫していますが、河床の勾配が緩やかで内陸部まで遡上できるため、重要な交通路でした。

 由良川は、京都・滋賀・福井県境の三国岳(776メートル)付近に源を発し、丹波山地の中を東に流れ、福知山盆地から東北に流れて宮津市由良で若狭湾の栗田(くんだ)湾に注ぎます。上流では大野川、船井郡和知町付近では和知川、福知山市付近では音無瀬(おとなせ)川と呼ばれ、古くは天田川といいました。

 福知山の名は、由良川と土師川の合流点にあった平山城の横山(よこやま)城が明智光秀によって福智山城と改められ、のち福知山になったことによるものです。

 この「あまだ」は、由良川(天田川)の右(東)岸に烏ケ岳(537メートル)、左(西)岸に姫髪山(406メートル)がそびえていることによるもので、マオリ語の

  「ア・マタ」、A-MATA(a=the(plural)...of;mata=eye)、「二つの眼(のような山がある盆地の地域。そこを流れる川)」

の転訛と解します。

 この横山の「よこ」は、マオリ語の

  「イオ・カウ」、IO-KAU(io=spur,ridge;kau=alone)、「孤立した山」

の転訛と解します。

 この「おとなせ」は、丹後山地の狭い峡谷を指す名で、マオリ語の

  「オ・トナ・テ」、O-TONA-TE(o=the place of;tona=excrescence,wart;te=crack)、「(烏ケ岳の)瘤を切り割った(峡谷を流れる川)」

の転訛と解します。

 この「わち」は、マオリ語の

  「ワチ」、WHATI(be bent at an angle,be broken off)、「折り曲げられた(川)」

の転訛と解します。

 

(22) 加佐(かさ)郡

 

a 加佐郡

 加佐郡は、福知山盆地以北の由良川流域および舞鶴湾周辺の地域です。古く『和名抄』に丹後国加佐郡としてみえます。また、同郡加佐町が由良川下流にありましたが、昭和32(1957)年舞鶴市に合併して町名が消えました。

 この「かさ」は、マオリ語の

  「カタ」、KATA(opening of shellfish)、「貝が口を開いた(ような地形の地域)」

の転訛と解します。入門篇(その一)2の(3)のa「カサ」地名の項を参照してください。

 

b 由良(ゆら)

 丹波地方最大の川由良川は、宮津市由良で栗田(くんだ)湾に注ぎます。河口の由良湊は、西回り航路と内陸水運の結節点で、古くから回船に従事する者がいて繁栄しました。説教節などに取材した名作、森鴎外『山椒大夫』の舞台です。

 この「ゆら」は、マオリ語の

  「イ・ウラ(ン)ガ」、I-URANGA(i=beside;uranga=place etc. of arrival)、「船着き場の・付近一帯(の場所。そこの湊。そこを流れる川)」(「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落(名詞形の語尾のNGA音はしばしば脱落します)して「ウラ」となった)

の転訛と解します。

 

c 栗田(くんだ)半島

 宮津湾の入り口に栗田半島があります。北に細長い黒崎が伸び、東に栗田湾を抱え込むように無双ケ鼻が出ています。

 この「くんだ」は、マオリ語の

  「ク・(ン)ガタ」、KU-NGATA(ku=silent;ngata=snail,anything small)、「静かなカタツムリ(のような地形の半島)」(「(ン)ガタ」のNG音がN音に変化して「ナタ」から「ンタ」となった)

  または「クム・タ」、KUMU-TA(kumu=headland,anus,clench,carry in the closed hand;ta=dash,beat,lay)、「手で抱え込んだような・(岬または湾が)ある(半島)」(「クム」が「クン」となつた)

の転訛と解します。

 この黒崎の「くろ」、無双ケ鼻の「むそうがはな」は、マオリ(ハワイ)語の

  「クロ」、KULO((Hawaii)long waiting,endure)、「(波に打たれて)ひたすら我慢している(岬)」

  「ム・タウ・ンガ・パナ」、MU-TAU-NGA-PANA(mu=silent,murmur at;tau=come to rest,lie steeping in water,reef;nga=the,satisfied,breathe;pana=drive away,expel,throb)、「息を吐く(ように波しぶきを上げる)静かな岩礁(のある岬)」

の転訛と解します。

 

d 舞鶴(まいづる)湾

 若狭湾西部にリアス式海岸の天然の良港舞鶴湾があります。湾口の博奕(ばくち)岬、金ケ岬の内部は、「人」字形の東湾と西湾に分かれ、西湾奥の伊佐津川河口付近は田辺(たなべ)とよばれており、東湾奥には北前船の寄港地であった市場(いちば)湊がありました。

 『和名抄』に加佐郡田辺郷の名がみえ、天正年間(1573〜92年)織田信長の丹後攻略の際、細川藤孝(幽斎)が田辺に城を築いて田辺城としましたが、鶴が舞うような姿であるとして舞鶴城と呼ばれました。明治2(1969)年の版籍奉還の際、田辺藩は舞鶴藩と改め、これが地名になりました。

 この「たなべ」は、マオリ語の

  「タ・ナペ」、TA-NAPE(ta=the;nape=ligament of a bivalve)、「(二枚貝の貝と貝を結びつける)貝柱(のような地形の場所)」

の転訛と解します。金ケ岬の半島と、東湾・西湾を隔てる半島を貝と見立て、その間の田辺の地を貝柱と見立てたものでしょう。この「ナペ」は、三重県員弁(いなべ)郡の「ナペ」と同じ語源です。

 この市場湊の「いちば」は、マオリ語の

  「イチ・パ」、ITI-PA(iti=small;pa=stockade,fortified place)、「小さな(柵を巡らした)集落」

の転訛と解します。

 この湾口の岬名の「ばくち」、「かね」は、マオリ語の

  「パク・チ」、PAKU-TI(paku=scab on a sore,dried fish;ti=throw,cast)、「古傷の上のかさぶた(または魚の干物)が放り出されている(ような岬)」

  「カネ」、KANE(head)、「頭(のような岬)」または「カネカネ」、KANEKANE(nose)、「鼻(のような岬)」

の転訛と解します。

 

e 大江(おおえ)山

 加佐郡大江町と与謝郡加悦(かや)町の境に大江山(別名千丈ケ岳、833メートル)があります。舞鶴湾に流入する由良川水系と宮津湾奥の阿蘇海に注ぐ野田川との分水嶺で、丹後山地の最高峰をなす展望のよい美しい山です。この山は、丹波国、丹後国の境で、京都府の加佐郡、与謝郡、天田郡三郡の境界をなしています。

 有名な酒呑童子伝説は、この大江山ではなく、山城国と丹波国の境界にある大枝山(老ノ坂)に出没した山賊を源頼光が退治したことを誤って伝えたものという説が有力で、世に名高い小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければ・・・」の歌も大枝山(老ノ坂)を指すものといいます。

 この「おほえ」は、「大枝」で尾根が分かれているからという説があります。 この「おおえ」、千丈ケ岳の「せんじょう」は、大江山の東の千丈ケ原を囲む北の弓弧状の鳩ケ峰(746メートル)、鍋塚(763メートル)などの山々と南のW字状の山々を概観して、外輪山の輪の一部が南で中に折れ曲がっているようにみえるところから、「首(輪)」を締め付けられていると表現したもので、マオリ語の

  「アウ・ヘイ」、AU-HEI(au=firm,intence;hei=tie round the neck,be bound)、「堅く首を締め付けられた(山)」

  「テ・ヌイ・チオ」、TE-NUI-TIO(te=the;nui=large,numerous;tio=cry,call)、「(首を締め付けられて)悲鳴を上げ続けている(山)」

の転訛と解します。

 

f 大江(おおえ)町

 加佐郡大江町は、昭和26(1951)年に当時福知山市から由良川に沿って走る北丹鉄道の終着駅があった旧河守(こうもり)町を中心に河守上、河西、河東、有路上、有路下の5村が合併した町で、町の北にそびえる酒呑童子伝説で知られる大江山の名にちなんで命名されました。この町の北部、大江山の東を流れる宇川沿いに、「内宮(ないく)」、「外宮(げぐう)」という集落があり、伊勢に遷座する前の皇大神宮が置かれていたと伝えられ、俗に「元伊勢」と呼ばれています。

 この「こうもり」は、マオリ語の

  「コウ・モリ」、KOU-MORI(kou=knob,stump;mori=fondle,caress)、「山を可愛がる(世話をする人々が住む土地)」

の転訛と解します。

 

g 加悦(かや)町

 与謝郡加悦町は、大江山の北にあり、西は丹後山地の江笠(えかさ)山(728メートル)連峰を境に兵庫県に接します。丹後地方でもっとも早く開発が進んだ地域で、多数の古墳が分布します。享保年間(1716〜36年)からの丹後縮緬の産地です。最近は「酒呑童子の町」で熱心な観光開発に努めています。

 この「かや」は、マオリ語の

  「カ・イア」、KA-IA(ka=take fire,be lighted;ia=indeed,each,every)、「集落(群)」

の転訛と解します。

 この江笠山の「えかさ」は、マオリ語の

  「ヘイ・カタ」、HEI-KATA(hei=tie round the neck,be bound;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような地形の土地が(裾野に)結び付けられている(山)」

の転訛と解します。

 

(23) 宮津(みやづ)湾・天橋立・久志備(くしび)の浜・九世戸(くせど)

 

 宮津湾は、若狭湾西端の支湾で、栗田半島北端の黒崎と丹後半島側の波見(はみ)崎に挟まれています。湾内は、北岸の江尻から南に伸びて文殊に向かう細長い全長3.6キロメートル、幅40〜110メートルの砂州に6,600本の松が並んでいる「天橋立」によって外海と内海「阿蘇(あそ)海」に仕切られています。砂州の南端には内外海を結ぶ水路が通じています。

 『丹後国風土記』逸文には、イザナギノミコトが天に通うために使っていた梯子である「天椅立(あまのはしだて)」が、寝ている間に倒れたのを怪しんで「久志備(くしび)の浜」といい、「此より東の海を与謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ」とあります。(オリエンテーション篇3の(1)阿蘇山と関連地名の項を参照してください。)

 湾奥には沈降海岸の良港、宮津港があります。織豊期に細川氏、江戸初期に京極氏が築城して城下町として栄え、西廻海運の港町としてもにぎわい、”二度と行くまい丹後の宮津、縞の財布が空になる”とうたわれました。

 天橋立の北端には丹後国一宮、篭(この)神社と西国三十三ケ所第二十九番札所の成相(なりあい)寺が、南端には日本三文殊の一つ九世戸(くせど)(または切戸(きれど))の文殊として信仰される智恩寺があります。

 この阿蘇の海の「あそ」は、マオリ語の

  「アト」、ATO(enclose in a fence)、「(天橋立という)垣根で囲まれた(海)」

の転訛と解します。(与謝の海の「よさ」は、与謝郡の項で説明します。)

 この「あまのはしだて」、「くしび」、「くせど」は、マオリ語の

  「ア・マヌ・パ・チ・タタイ」、A-MANU-PA-TI-TATAI(a=the...of;manu=float,be launched;pa=block up,prevent,screen;ti=throw,cast;tatai=arrange,set in order,adorn)、「あの・水に浮かんでいる・形良く・置かれている・(中海の)防波堤(天橋立)」(「マヌ」が「マノ」と、「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハ」と、「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「ク・チピ」KU-TIPI(ku=silent;tipi=affect by incantations,glide,go quickly or smoothly)、「静かに・(梯子が)倒れた(海岸)」
  または「クチ・ピ」、KUTI-PI(kuti=contract,pinch;pi=flow of the tide,corner of the eye,eye)、「眼(阿蘇海)の端(天橋立の先端)が・狭くなっている(海岸)」

  「ク・テ・ト」、KU-TE-TO(ku=silent;te=crack;to=drag,open or shut a door or window)、「静かな(海の干満に応じて)海水が出入する水路(の付近の土地)」

の転訛と解します。

 

(24) 与謝(よさ)郡

 

a 与謝郡

 丹後半島の若狭湾に面した東半分が与謝郡です。『和名抄』は「与佐」と訓じています。『日本書紀』顕宗即位前紀は、顕宗・仁賢の両天皇が朝廷の混乱の難を「丹波国の余社郡」に避けたとあります。

 この「よさ」は、「イサ(砂)」の転で砂地の意、砂丘を指すとする説があります。

 この「よさ」は、マオリ語の

  「イオ・タ」、IO-TA(io=muscle,spur,ridge;ta=dash,lay,allay)、「山脈が並んでいる(地域)」

の転訛と解します。

 

b 伊根(いね)町

 与謝郡伊根町は、丹後半島東端の日本海に面した漁港が並ぶ町です。海岸線には伊根、新井、泊、浦島、本荘と漁港が並んでいます。

 とくに、伊根は江戸時代からブリの好漁場で、丹後ブリ(伊禰浦ブリ)として名産となっていました。また、伊根湾には階下が船場で、階上が住居となっている独特の船屋があります。

 本荘の宇良神社は浦島太郎を祀る社で、浦島伝説の残る町でもあります。

 この「いね」は、この伊根湾の船屋を指す言葉が地名になったもので、マオリ語の

  「ピネ」、PINE(close together)、「(船と家が)接近している(船屋が密集している場所)」

の転訛(P音が変化したH音が脱落して「イネ」となった)と解します。

 

(25) 竹野(たけの)郡

 

a 竹野郡

 丹後半島の北西部に竹野郡があり、竹野川が流れています。『和名抄』は「多加乃」と訓じています。『古事記』開化天皇の条には「此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比賣を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命」とあります。『日本書紀』開化紀6年の条に同じく「丹波竹野媛」、垂仁紀15年2月の条の丹波道主王の五人の女の第五に「竹野媛」の名があります。

 かつてこの竹野郡から丹波郡(現中郡)にかけては古くから海洋民族が住み着き、強大な勢力を洩っていた丹波国の中心であったと思われます。

 この「たかの」は、(1) 「タカ(高、大、美称)・ノ(野)」の意、

(2) 「鷹野」で狩猟地の意、

(3) 「鋳銅、鋳鉄の鍛地(かたしどころ)」の意とする説があります。

 この「たかの」は、マオリ語の

  「タカ・ナウ」、TAKA-NAU(taka=fall down;nau=come,go)、「(はるか山の上から)流れ下って来る(川。その川が流れる地域)」

の転訛と解します。京都府の(4)高野川の「たかの」と同じ語源です。

 

b 間人(たいざ)

 京都府北端の丹後半島、竹野郡丹後町北西部に間人(昭和30年に合併して丹後町になる前は、竹野郡間人町)地区があります。日本海に面する古くからの港で、漁業が発達し、近世には西廻り海運の重要港であり、丹後縮緬の産地でもありました。『和名抄』にも竹野郡間人郷の名がみえます。

 この地名は、(1) 当地には蘇我・物部の争乱を避けて寄留した聖徳太子の生母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が退座されたことにちなむとの伝承があり、

(2) 聖徳太子、穴穂部間人皇后をめぐる血縁関係、近親結婚関係をさして「間人(はしひと)」といったことによる(吉田東伍『大日本地名辞書』)という説、

(3) 凹凸の激しい海岸(磯)をさす「タギイソ」が転訛したとする説があります。

 この「たいざ」は、旧間人町の東端、竹野川の河口左岸の後(のち)ガ浜に立岩(たていわ)という柱状節理の巨大な小山のような岩塊がそそり立っており、この立岩を指す名が地名となったもので、マオリ語の

  「タイタ」、TAITA(drift timber lodged in the bed of a river,snag)、「(海岸の)流木(のような岩=立岩(たていわ)。立岩がある地域)」

の転訛と解します。(なお、「タイタ」の語は、「タイ・タ、TAI-TA(tai=sea,tide;ta=lay)、潮流が運んできて置いた(木、岩)」と解することもできます。)

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<修正経緯>

1 平成12年8月1日 三重県の(20)熊野市の記述を一部修正しました。

2 平成14年1月1日 京都府の(1)山城国の「やましろ」の意味を修正しました。

3 平成14年9月15日 滋賀県の(1)近江国の項に「ちかつあふみ」の解釈を追加し、同県の(12)伊吹山の解釈を修正しました。

4 平成14年10月7日 三重県の地名の(18)大王崎の解釈を修正しました。

5 平成14年11月1日 三重県の(11)伊賀(いが)国の解釈および滋賀県の(3)大津のb堅田(かたた)の読みを修正しました。

6 平成15年8月1日 滋賀県の(3)大津の解釈を別解釈を追加しました。

7 平成15年9月1日 滋賀県の(18)甲賀郡の甲賀(かふか)および信楽(しがらき)の解釈を修正しました。

8 平成16年7月1日 三重県の(5)三重郡の項に「三重(みへ)」(村、郡、国)の解釈を追加しました。

9 平成16年10月1日 三重県の(2)鈴鹿山脈の阿須波越え、倉歴越え、加太越えの別解釈を追加、阿須波神、御在所山の解釈を修正、(4)桑名市の別解釈を追加、(5)三重郡の三重の勾りの解釈を修正、(6)安濃津の別解釈を追加、(13)名張市の赤目四十八滝の解釈を修正、(15)鳥羽市の答志島の別解釈を追加、(16)的矢湾の解釈を修正し、

 滋賀県の(3)大津の穴太の解釈を修正、(4)比叡山の比叡の解釈を追加、(6)高島郡の別解釈を追加、水尾神社の解釈を修正、(10)伊香郡の大音および塩津浜の解釈を修正、(11)浅井郡の解釈を修正、(12)伊吹山の解釈の一部を修正、(14)愛知川の解釈を修正、(15)蒲生野の解釈を修正、(16)安土山の解釈を修正、(18)甲賀郡の別解釈を追加、(20)田上山の解釈を修正し、

 京都府の(2)愛宕郡の解釈を修正、(3)賀茂川の深泥池および貴船山の解釈を修正、(4)高野川の大原の解釈を修正、(5)葛野郡の解釈を修正、(6)清滝川の愛宕山の解釈を修正、(8)乙訓郡の解釈を修正、(9)桂川の大堰川および保津峡の解釈を修正、嵐山の別解釈を追加、(12)男山の解釈を修正、(13)綴喜郡の解釈を修正、(14)木津川の祝園の解釈を修正、(15)宇治川の一口の解釈を一部修正、(18)伏見の別解釈を追加、(20)丹波国の別解釈を追加、(21)桑田郡の解釈を修正、同船井郡の別解釈を追加、(22)加佐郡の由良の解釈を修正、栗田半島の別解釈を追加しました。

10 平成17年1月1日 京都府の(4)高野川の出町柳の項を削除しました。

11 平成17年8月1日 滋賀県の(2)琵琶湖の項の一部を修正し、京都府の(17)山科の別解釈を追加しました。

12 平成19年2月15日 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

13 平成19年10月15日 三重県の(7)櫛田(くしだ)川にd丹生(にゅう)・射和(いざわ)・真赭(まそほ)・赭(そほ)の項を追加しました。

14 平成19年11月15日 京都府の(23)宮津(みやづ)湾の項に天橋立・久志備(くしび)の浜の解釈を追加しました。

15 平成20年3月1日 滋賀県の(2)琵琶湖の項に鳰(にお)の海の解釈を追加しました。

16 平成22年6月15日 滋賀県の(3)大津のb堅田(かたた)の項に堅田(かたた)船・殿原(とのばら)衆・全人(まろうど)衆・丸子(まるこ)船・重木(おもぎ)・出島(でけしま)灯台の解釈を追加しました。

17 平成22年10月1日 三重県の(18)大王崎の項の大王、波切の解釈を一部変更し、滋賀県の(6)高島郡のc安曇川の項に饗庭野(あえばの)の解釈を追加しました。

18 平成23年1月1日 三重県の(5)三重郡のb能煩野の解釈を修正しました。

19 平成26年8月1日 三重県の(7)櫛田川のd 丹生の解釈の一部を修正しました。

地名篇(その三)終わり

 
U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
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(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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